『マティス 自由なフォルム』展
一
昨年の春ごろに東京都美術館で開催された『マティス展』は、色彩の魔術師と評されたアンリ・マティスの絵画表現における空間構成の変遷に焦点を当てる展示構成だった。
その内容から知れるのはゆるっとしたフォルムの題材をリズミカルに配置し、大胆な色彩表現で装飾性に長けた絵として完成を迎える彼の作品群が、しかし分かりやすいその見た目に反して空間的な必然性に満ちていて、そのどれもが見えない内側に複雑な計算を隠した完璧な器物芸術のように見える。実際の暮らしの中にあって不自然ではなく、けれど社会生活の営みから少し離れて見た時には夢のような存在として人々の目と心を癒す。あの有名な言葉どおり、人々の安楽椅子となれる絵画表現を実現するまでにあった彼の悪戦苦闘の日々。その重要性に気付ける展示会として前記した『マティス展』は筆者にとって非常に興味深いものだった。
二
かかる企画展と対比して振り返れば現在、国立新美術館で開催中の『マティス 自由なフォルム』展は晩年の切り紙絵による作品表現にフォーカスを当てるものである。
この切り紙絵を初めて見た時に筆者が率直に抱いた感想はそれらの作品が子供でも作れそうな色と形が配置されただけの簡単なもの、大病を患ったという理由から選ばざるを得なかった手段でしかないのでないか。かかる切り紙絵によってその表現ぶりが総合芸術に至ったという評価も、マティスが絵画を捨ててデザインに特化した制作を心掛けるしかなかったから。ただそれだけでは?という不遜極まるものであった。
マティス自身は切り紙を用いた作品制作ポテンシャルを発見することによってずっと頭を悩ましてきた問題、すなわち「デッサンと色彩の永遠の葛藤」を解消できたという言葉を残している。この悩みについては『マティス 自由なフォルム』展の序盤から中盤にかけて鑑賞できる絵画や彫刻作品からも窺える所があって、例えばある作品では最小限のデッサンの上から無関係な色彩表現が施され、その不思議な関係性が全体的な完成具合のユニークさに繋がっていたり、ある作品では色彩が雰囲気として漂う程度に抑えられることでただのデッサンを「ただのデッサン」で終わらせない仕上がりになっていたりした。同じ会場に展示されていた彫刻作品についても、東京都美術館の『マティス展』の時とは違って、マティスの絵画とすぐには結び付かない隔たりのようなものを感じられた。展示の仕方が拙いとかそういう話ではなく、展示されたこれらの作品に見られる特徴こそが画家の悩みの表れなのだ。そう思えた時から切り紙絵に対する肯定的な想像を筆者は行おうと思った。そうして見えてくる面白さがあれば、それを言葉にしてみたい。このモチベーションが筆者を突き動かしていった。
三
素人の発想として切り紙絵に至る表現の基礎として野獣派と称されたマティスの、絵の具の原色ととことん付き合える色彩感覚があったのだとすれば、パレットの上で色を混ぜ合わせることができないという切り紙絵の技術的な難点は問題にならない。
また切り紙絵の表現を支える滋味深いフォルムに関しても、例えば「大きな顔、仮面」といった筆と墨だけで描いた一枚に認められる線の個性を思うとパーツ分けされた個々の切り紙はそれ自体が画家の中での一枚の絵、しかも色とフォルムが完全に一致した作品であり、その集積として現れる全体をもって切り紙絵の作品は成り立っているのでないかと妄想できる。実際、切り紙絵の作品である『ジャズ』を目にするとあちこちに認められる部分と全体の激しい入れ替わりがとても面白かったりする。どの切り紙のパーツを主とするかで切り紙絵全体の色や形に覚える印象が変わっていくのだ。
絵の具で描く一枚より、切り紙絵の方が実に「もの」らしさを残しているのに鑑賞者の内面では動的なイメージとしてその命を得ていく。岡崎乾二郎さんの著作である『絵画の素 TOPICA PICTUS』の本文の始めに載せられた「この木が君にはどう見える?」の章で、岡崎さんはナビ派に所属するモーリス・ドニが残した「絵は絵の具が作る秩序である」という趣旨の言葉を緩やかに引用しながらゴーギャン先生に向けてユーモアに溢れる回答をしているが、そこで言わんとしたことの一端を筆者は『マティス 自由なフォルム』展の会場で体験できた気がした。初来日した『花と果実』をソファーに座りながら見ていたときのあの瑞々しい印象にも躊躇いなく、沢山の愛着を覚えることができた。
切り紙絵は決して妥協の産物ではない。恥も外聞もない手のひら返しを披露して、心からの高い評価をマティスの切り紙絵に対して筆者がここで行う。それを一人でも多くの人に信じてもらえたら僥倖である。
四
展示会場内に再現されたヴァンスのロザリオ礼拝堂については一日の光の移り変わりによってステンドグラスが見せる変化を目で追えたりして、和気藹々とした有意義な時間を過ごせるのは間違いない。けれど東京都美術館の『マティス展』で流れていた現地撮影の映像を観た一人としては礼拝堂内に差し込む日光の、地球の自転と公転が交差する奇跡のような力強さが足りなくて少し残念に思ったのが正直な感想である。
ただし、それ以外の再現度は本当に素晴らしく、番号が振られた十字架の道行や聖ドミニクス、あるいは聖母子像を目にして思わず「おお!」と心の声を大いに上げられた。ここで興味がある方は前述した岡崎乾二郎さんの『ルネサンス 経験の条件』を一読してから会場に足を向けて欲しい。ロザリオ礼拝堂の仕事を通してマティスが成そうとしたものを具に知れて、会場内に再現されたものの意義を存分に味わえる。つまり目にすることの楽しみが倍増する。そのことをここで筆者が保証したい。
繰り返すが『マティス 自由なフォルム』展は現在、国立新美術館で開催中である。会期後半は混雑する可能性が高いので早めの来場をお勧めする。
『マティス 自由なフォルム』展