概念少女DANDYISM

 名前の似ているモデルが実在します。

 二十二歳、武装様式(ファッションスタイル)は「地雷系」──いつや爆発いたします。
 そう二十二歳、少女といえるか微妙な齢、されどわたし、このもろい躰を硬質なダークポップ曳き散らす病みカワな少女衣装に武装させ、わたしの「少女」を、まだ守護しつづける所存である。されば「年齢、少女」という意味ではなく「概念、少女」というそれにおいて、彼女自身を縛りつづける戒めをわが背に負わせている者、彼女こそがわたし、鈴木なおということだ。
 胸元の薔薇いろのリボンはわが不安定な情緒さながら、暗みに曳かれるベリーの翳のごとき蠱惑を、儚げに、あるときは攻撃的に揺らしながら、最上・最強の拒絶色──「黒」に塗られた病める薔薇のガーリーな戦闘服を、まるでモットーとして司らせる。いわく、それはわたしの国旗。つまりはわたしの感性をまるで司るのがわたしのファッションスタイル。少女らしい華奢と色白を守るという法に従い、お菓子を控えめにし動画サイトをみながら忿怒の表情でトレーニング──すべてはわたしの躰を、わが国土として美しく刈るために。わたしは「憧れの少女像」を投影するわたしの理想の夢、「月硝子城」に射されることによって、「少女性」という、あるかもわからない月に照らされる少女の月影としてうごき踊る、この孤独国家唯一の民。
 ──跪け。国歌斉唱。
 だれよりも儚げに尖鋭であれ、なによりも病的に透明であれ!
 つまりわたし、わたしじしんを、一つの少女王国へ装飾してみたいのだ。
 職業、クリーニング店の受付兼事務。一応、正社員。まがうことなき、ふつうの社会人であります。家庭の事情で、大学にはいけなかった。やや不登校ぎみだった高校時代は、少女的ロマンチックな服装をしてキャンパスライフを経験してみたいとごくふつうに想っていたし、恋人は夢みていなかったが似たような友人が一人でもできれば絶対たのしいだろうなと想像はしていた。が、かなしい病気をもっている母はわたしの幼少期から無職、離婚した父親からの支援はいただけなかったため、経済的な理由で進学は断念。生活保護だけでは家計がくるしいからと母にいわれてそのまま百均ショップのアルバイトをし、一向に働ける気配のない母との生活をすこしでも楽にするため、ついこのまえ正社員で受かったのがこのクリーニング店である。一言でいうと、わたしの地雷系衣装のつぎのつぎのつぎくらいには、労働環境が、黒(ブラック)。従業員はいいんだけどね! 激務と長時間労働と、あとアレがね!
 卒業してしばらくは、不整列きわまりなかった学校生活で疲弊した心身をやすめたかったのに、十八で社会に押しだされてしまうも「少女」でありつづけようとするわたしよ、どうか染まることなかれ、含まれることなかれ。鈴木なお、きょうも平板で無個性な白っぽい制服を着て、日々激務に耐え、たびたびの勘違い男客のセクハラに耐え(これさえなければそこまでなのになぁ)、病みカワで夢カワなわが感受性を大切にするために、世界に染まることを断固拒み、「はや、傷負うこと致しかたあるまい」と、少女がしてはいけない(と、されていますけれどわたしはそうはおもいませんけども?)眉間に皺よせる格闘の顔に険しくさせ、想いだしたように休憩時間は自撮りをして容貌(ヴィジュアル)のかわいさを確認して安心、十数分後すぐに受付にひきもどされ(あれー? 休憩って一時間じゃないんですかー? といえたのは初日だけ)猫かぶりな接客用の笑みをはりつけて、せいいっぱい社会生活を送っております。
 されど休日のわたしは、まるで削がれるように概念少女の本性をさらし、まるで夢みる星空を浴びるように、少女の衣装を纏うのです。ひそやかに。しずしずと。しかもどぎつく。沈鬱に、炎ゆるがように。怒りと憂いのこもるガーリーな闇を立ちあらわせた、街並みからきみょうに浮びあがる黒と真紅とショッキングピンクに装飾られた「不整列」を示す違和の印象を、逆転して透き徹った水晶へと反転し、現実という冷然で硬質な硝子盤へ、「わたしはわたしとして生きる」という意欲を、鋭い刃物として突き刺すように。
あえて街並みで浮く暗みの服装をし颯爽と歩くわたしたちは、けっして病める感受性を誇っているのではなく、じつは、たいしてそんな自分を愛してもいない。わたしがこの武装をするのは、まさに生存の為であるほかはない。というわけで、「病みカワファッション」なる俗悪の美は、まさしく戦闘服というほかがないのだ。
 というのも、わたしがこの概念少女DANDYな装飾をわたしにほどこすのは、つぎに書き記すある貞節をわたしじしんに突きつけ、「憧れ」と「嫌悪」という少女が少女として生きるための最上最低の意欲に捧げるため、いわゆる、「青春の淋しい暗み」へぞっと火を燈すためなのである。
 すなわち──わたしは不整列で、孤独で、いびつで、しかし、それ等の負の焔をわたしらしく生きるための発火材としてうごいていて、その生きるうごきを、或いは祈りそのものを、ただ「自恃」とし生きている。
 生きてやるんだわ。
 そのヤケな呻きは、わたしの喉からこぼれる、素朴素直な命の歌である。
わたしという少女王国の軍事力は、その悉くが、わたしに睡る透明な水晶の守護と貞節のために消費される。そのために必要な戦いこそが労働というそれであり、わたしは、現実と争うことでわが少女を護り抜く。かわいく、ありつづける。
 即ち、錯覚することなかれ。けっして、男性の為に美しくありつづけているのではない。貴方の為に、美しいわけじゃない。

  *

 朝起きると、わたしはゲロゲロ鳴いて出勤の義務を要請するカエルさんのめざまし時計を押し、深い事情によって意欲を失った母がぐったり寝ているのをみて、苛立ちのような、しかし生きててくれるだけで安心なような、「どうしてだよ」と壁に押さえつけたくなるくらいの、どうしようもない愛おしく狂暴な気持になる。されどそんな感傷に浸っている暇はない、何故ってわたしはクリーニング店の正社員、概念少女との両立という厳しい二重生活を強いられている、淋しき少女戦士なのだ。
 しばしばマネージャーから注意をされるが店長と先輩には目をつぶってもらっているややラベンダーがかった黒髪を梳かし、仕事向きにナチュラルにみえるけれどもじつはすこぶる研究された、わたしを可愛くみせるメイクをする。
 メイクをするとき、わたしは変身している気分になる。大キライなわたしが、すこしでも好きになれるわたしへ変わっているような気持になる。
 わたしは「そのままで素敵だよ」となによりもいわれてみたいタイプなのだけれども、また「わたしはそのままで素敵なんだ」と思うことをなによりも怖れている。しかし実際にそれを男性にいわれてみたとき、かれの眼に映る「鈴木なお」にすぎないわたしを、「そのままでいい」とみなされたことに、はげしい嫌悪をおぼえる。かれのなかでわたしが都合よく形を捏ね変えられ見えるはずもない領域を幻想の肉感に柔らかく補強された「そのままの鈴木なお」が、かれのなかで「使用可能だ」と判断をされたことに対して、激しい怒りを感じる。
 社会的な性格なんかかなぐり棄て、親譲りの狂暴な衝動のままに女児向け玩具の魔法少女のステッキを振りまわし、喚き散らし、美しく刈られなくなれば当然崩れる躰をさらして内から体臭の噴くざらついた肌をなげだし、生物のまっさらな姿として体毛だけでなく泥の洩れるようなわたしという悪意の本音、「あなたのこと、受け容れているどころか、手前で受けとめてすらいませんけども」という不協な轟音でがなりたて、後頭部を掴んで「ほら、食えよ。そのままの俺。オイ?」とでもいって、ちょっぴり意地悪をしたくもなるのだ。
 わたしにも恋人から丁寧に気持を愛してもらった経験がある、と、想っている(わからない)。けれどもわたしには、赦されうる愛され方が解らないのだ。
 神さま。愛って、なんですか。
 ソレヲ愛トイウナ。
 そんなものを、愛なぞと美しい名で呼ぶな。
 折に触れてそう叫んでしまうわたしの魂を、お願いだから、全身全霊で守らせて。わたしを、少女のままでいさせて。
 わたしはメイクをしながら仕事のことを忘れ、手はこつぜんととまり、幼少期の変身願望を、切なくも想い起こした。
 小学生時代。
 わたしはわたしであることが苦しかった、わたしがわたしとしてわたしの気持を行為としてあらわせば皆が否定することが苦しかった。わたしはわたしでいてはいけないのだと確信した、わたしは鏡に映るわたしを憎み、自意識という審美の鏡にうつるわたしを怖れ、わたしという存在なんか投げ放たれて、無いものとして吹きとばしてしまいたいと悲願した。
 その頃わたしは魔法少女もののアニメを好んでいて、休日の朝に放送しているそれを視聴することを、日々のなによりのたのしみとしていた。そのままに優しい感情をもっていて、そのままに素直に言葉を発しても優しくて、損得よりも優しさを自然な気持でえらびつづけて、どこまでも可憐で、ひとびとのためにわが身を犠牲にし瑕だらけになっても戦う魔法少女は、さながら、瑕に清まれてゆく水晶のような美があった。
 聴いて。
 清楚は、無疵をいうんじゃない。
 瑕を負いつづけることで、磨いてゆくものだ。
 わたしが焦がれていたのはまさしく魔法少女の優しさであり、優しさによって戦わせられる弱さの宿命であり、それを背に負って争う「弱さの気品」のつよさであり、その脆弱な可憐さが瑕負うごとに純粋へ磨きぬかれていき、咲き誇る「そのひと固有の特別さ」を剥ぎ落とされて、果ては余りにあまりに透明にすぎるがゆえに無個性な存在となるという、さながらに磨かれぬいた硝子のそれにも似た、ある種の美の孕む一つの宿命であった。
 自己無化。
 嗚、そういうものに対する感覚であったのかもしれない。
 わたしはなにより、魔法少女のようにつよく優しいひとになりたかった。わたしはこの小説を、古代ギリシャからのさばっている呪われた種族のそれ、世間に馴染めず野原を彷徨う外れ者の抒情詩人のささやかなためいき、人間の、嗚人間という憐れな生き物の、もっとも素朴で、淋しいほどにあたりまえの憧れを歌う、淋しき歌にしようともくろんでいる。
 歌は次のもの。
 わたしはつよく、やさしくなりたい。
 唯、それだけだ。
 魔法少女とはけだしその可憐であったのだった、青春の孤独がもとめる幻像を、咽び泣きながらなりたいと想わせる憧れの姿を、まるであらわしていたのだった。
 毎日毎日の校内暴力によって痣をつくった誰からもかわいいといわれない顔に、マジックでアイラインを引き、絶縁された前のお友達にもらった古い魔法少女の帽子を被って、誕生日に百均で買ってもらった魔法のステッキをもち、母が寝た真夜中に洗面所へいって鏡を眺め、にっこりと笑ってポーズをとった。かわいいといってほしかった。変身して、かわいいといってもらって、愛されてみたかった。愛されるにあたいすると実感してみたかった。わたしは背をわなわなとふるわせ、わたしはわたしでいてはいけないんだといういたみが神経を駆け巡るのを感じ、うずくまり、ヒステリックな母を起こすのを怖れて、声を殺して泣いた。変わりたい。変わりたい。わたしなんて粉々に砕かれてしまえばいい、無に飛んでしまえばいい、ズタズタに轢き裂かれてしまえばいい。さすればあたらしいわたしを、わたしじしんが造りなおしてあげてみたい。
 DANDYISMとは、たしかにありのままの自己への否定であり、暴行であり、破壊からの創造である。その根にはたしかに自己憎悪があり、ありのままの人間への不信があり、表面の美しさへの盲信があり、優越への信仰であり、はやそれをしか信じられぬ、悲しい心があった。
 変身したい。変身したい。わたしなんて、わたしなんてどこかへ消えてなくなればいい。何処か遠くにいる、おなじ淋しさを噛み締める誰かにために、わたしなんか明け渡して。要らない。要らない。わたしは、わたしを放棄したい。

  *

 なにが、悪い?
 DANDYISMとは人間不信。見栄。虚栄。優越感。それでよし、それでよし、それでよし。
 されば、わたしは人間のサガを信じ抜くという、新しいDANDYISMを創作するだけだ。賤しい民としての。淋しい少女としての。人間を信じ抜こうとする、当たり前の人間としての。わたしという唯一人だけの存在としての。「わたし」という無個性な人間としての。
 肉をすら脱ぎ剥いで、わたしの「わたし」、睡る水晶に出逢い、そして、よりよき自分を造る。
 はや荒みやさぐれた二十二歳となってしまったわたしは、守護しつづけている純潔透明な声で、ガラガラと呻くがように吐き捨てる。矛盾? ハッ、していませんけれども。清楚の証拠は、瑕にほかなりません。疵の違和と掠れ轢かれる悲痛なそれが、清楚の歌う音楽であります。生きている証拠とは、不可視の熱い涙なのであります。即ち、孤独。絶対的な孤独がそれ。孤独の裡でしか、涙を炎えあがらせることはできません。孤独を神経で生きなければ、概念少女のDANDYISMを生きること、断固断固としてできやせぬ。やはりDANDYISMは、それが変形のものであれ、孤独を貞節とする宿命にある。
 わたしの可愛さを、わたしが愛されるに値するかを、他人が裁くな。峻別するな。価値の吟味をするな。舐めるように躰をみるな。
 いいか、鈴木。聴け。お前は、この頃からすっげえ可愛いから。俺が可愛いかどうかは、もはや俺が決めるから。
 わたしは咽び泣く幼い少女の華奢で硬い肩を、そっと抱き締める。戦えばいいんだよ、戦えば。憧れに向かってうごき、瑕を負っても守りたいものを守護しようとし、戦ってたら、みんな、可愛いんだよ。善を求めて争う人間は、愛されるにあたいされるに決まってる。お前もそうだ。お前もそうなんだよ。みんなそうだろ。オイ鈴木、魔法少女アニメで学んだだろ。
 人生の問題とは、唯、貞節というものである。
 わたしは、祈るように生きる。それが、わが貞節である。わたしの「わたし」が、信じ愛されるにあたいするということ。わたしは性悪説を根拠とした自己否定的な悲しいボオドレールおじさんのDandyではない。少女が少女としてあたりまえにもっている善への信頼を守護しつづけるために武装し戦う、概念少女Dandyだ。

  *

 という追懐のせいで遅刻をしたわたしは店長に叱責され、減給すると念を押される。
「なんで遅刻するの?」
 なんでそんなこと訊くんですかー? という言葉を吞み込んで、唯「すいません」とだけ答える。社会人。嗚。悲しき哉。しかし迷惑をかけたのはわたしであるため、誠心誠意を込めて謝罪していた。少女的倫理に照合し結論された「大人になるべき部分」は大人になる、これ、概念少女のルールである。現実に、食いこめ。いつや刺し違うために。
 仕事をはじめて数十分経ち、服すら持ってこずわたしと話をしに来る六十くらいの男がふたたび薄汚い服を着て飛来し、わたし、さながらに背骨を少女的自恃に硬化させるように、目元を引き締める。侵されてはいけない、染まってはいけない。あらゆる意味で。
「なおちゃん今日もかわいいねえ」
 何故わたしの下の名前を知っているのだろう、誰から聞いたのだろう。怖ろしくて声がふるえたが、習慣となっている猫かぶりの笑みを浮べ、「ありがとうございます」と跳ねるようにご機嫌な声を鳴らす。
「ご用件は?」
「そうだねえ。なおちゃんとお話したくてさあ。今日も胸がおおきいねえ。サイズ合ってないんじゃない?」
 ピ。店長を呼ぶボタンを押す。女性だが大柄な店長は、迫力ある口調で丁寧に男を負い出した。
「若い女の子雇うとこれだもん」
 わたしは黙り込む。
 どうして?
 どうしてあの男は、わたしのいたみを省みず、幾度も、いくども女としてのわたしを侮辱するのだろう。わたしはこれを、仕方がないものとして流す気はない。染まる気はない。疵つく。それをしつづける所存である。

  *

 美が高貴である、と、かるがるしく断言するものに、わたしは唾を吐くであろう。
 美しくあるというのはいたみをともない、また、いつでも搾取されうる存在として在るというあやうさをもつ。けだしDandyという男性的な優越者としての驕りみられる身形と、わが美意識による構築された少女王国の孤独な王女というそれには相違がみられうる。もとより美というものは食欲にも似た情欲をひきおこす、それは性欲をそそる肉体の美にかぎらず、風景、動物、空、さまざまな美はわたしたちに「とりいれたい」「連続したい」「それでありたい」というような粘着質で湿りの濃ゆい、体液質の欲心をもたらす。
 わたしにとり「わたしよ、美しくあれ」という戒律は、綾織らずも裂かれ千々になりかねぬ矛盾のあやうさをつねに孕んでいる。わたしは美を孤独少女王国の玉座に置いているつもりだが、しかしその美に従ってわたしを美しく少女として装飾することは、男たちに「性的に使用可能である」とみなされることに繋がり、またわたしには不思議でならないのだが、女性が可愛くするのは男性に愛されたいためであるという言説が平然と男性たちのあいだでまかりとおっているらしい。
 わたしはそんな目はさらされたくない。わたしは躰をとざした大理石の王女像として美しくありたいし、それが美しい美術品として搾取されることすら拒む。
 「可愛い」とは憐憫であるとしばしばいわれるが、美しいものに尽くし見返りを求めてそれをわがものにしようとする感情を尊大ではないと、いったいだれがいえるのか。
 わたしはわたしの美を愛している。わたしは、みずからを、美しいと思う。わたしはわたしのファッションスタイルが、メイクが、ヘアスタイルが、ほかの誰のそれ等よりも好きだといいきることができる。しかしそれはわたしによるわたしへの搾取であり、わたしは孤独でありたい孤独でありたいと悲願するがゆえにそれに罪悪のいたみを曳くように感じ続けている。わたしはもしいまの身形に飽きてしまったら、浮浪者のように薄汚くあらゆる美の剥ぎ堕ちた惨めなそれでありたいと欲するだろう。なぜといいそれこそが、いのちの美しさであると想うから。
 Primitiveとfictional、双方への憧れの矛盾から、わたしは生涯離れることができないのか。
 魔法少女の美は、搾取だ。

  *

 金をせびる母にないといい捨てると、
「産まなきゃよかった」
 と、いわれた。これまでも何度かいわれてきた言葉であったが、慣れることができない。慣れることをしてはいけない。傷つく。きちんと、傷つく。
 毀していい、毀して、いいよ。毀れた躰から洩れた水晶の歌は、きっと綺麗なんだから。
 わたしはきちんと傷ついて、きちんと生きていたいの。それが世の中でいうまっとうではないものであれ、それがひとびとから評価されないものであれ、丁寧で清潔なそれでなくとも、わたしは、きちんと生きていたい。わたしじしんとして。然るべき疵を負い、瑕に促されるように生きてうごいて、わたしの人生を創とし創造する。わたしの睡る水晶の瑕をゆびを伝って。ほら、わたしの物語がある。わたしの信頼への信頼が、愛への愛が、不信を不信するいたみが、ある。あるでしょう。あなたに睡る、葉脈のような水晶の瑕をみて。俗悪で、いびつで、淋しくて、憐れで、美しいでしょう。可憐。どうかしら。これが、人間なの。かなしく、愛らしいことに、こんなものが人間なの。
 だからあなたも、あなたの疵すらも抱いて。あなたの生を、なによりもいとおしいものとして愛して。
 病んでいることなんて、人生の面白みともいえるんです。苦しいということは、生きごたえがあるということ。くるしみたい苦しみをくるしみえるということは、歓びだということ。すれば美をみすえ、善くうごきえる。自分は、造るものだ。人生は、造るものだ。だが人-性の根は、信頼にあたいすると、それだけを信じるのが、概念少女DANDYISMの戒めである。
 わたしの生、他者に対する几帳面を、果して、誰が知っているのかしら? 気づかなくて、いいよ。なぜといいわたしはDandy、自己韜晦の淋しき少女、月光に発火される、病める花。けれども、気付いて。誰か。この、淋しい花を。ほんとうに孤独を孤独として生きる人間の、いったいだれが文章を書くのかしら。いったい誰が文学なんかを求めるだろう。だからわたしは、この蕾のままに剥がされた淋しき紙片を、星空へ抛る。もっとも無個性で匿名の、歌として。わたしは無名のひと。名もなきひと。匿名のひと。なにものでもないひと。──あなたは誰?
 この期に及んでも、わたしは歌う。誰かわたしの名前を呼んで、と。わたしは鈴木なお。わたしは鈴木なお。きょうも青空が美しいね。うん、だからわたし、生きようと想う。生きようって、生きようって想うの。わたしは名もなきクリーニング店受付兼事務員。それで終わり。そしてわたしとして、わたしを生きようとしているひと。
 聴いて。
 清楚は、無疵をいうんじゃない。瑕負うにともない、磨くものだ。
 それが為に、わたしは、死ぬまで争う。

概念少女DANDYISM

概念少女DANDYISM

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-02-18

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