恋は盲目症候群
1
「お疲れ様でした」
「ありがとうございました」
「お疲れ様。暗いから気をつけて」
学生たちを送り出して外の時計を見るともう20時を回っている。卒論の人たちが一区切りついて、ようやく早く帰れる日々が来ると思っていたのに、気づいたらこんな時間まで学校にいる。准教授を勤める日野|菖子も、卒業を前にして学生たちとの時間が惜しくなって遅くまで話し込んでしまう1人だった。この大学の看護学科で勤め始めて6年。この時期はどうしても帰るのが遅くなってしまう。
「日野先生。遅くまでお疲れ様です」
研究室の鍵を閉めたのと同時に後ろから声をかけてきたのはとなりの研究室の教授、真嶋だ。人当たりがよく、喋るのが好きな真嶋は学生から人気だ。ゼミ室からはいつも楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
「気づいたらもうこんな時間ですね」
「ほんとですね。東京の冬は北海道に比べたら寒いでしょう」
この町に引っ越してきて、生まれ育った北海道より寒いと思わなかった冬はない。家でもどこでも暖房設備が整っている北海道は冬でも暖かい。狭い研究室には自分で持ち込んだ電気ストーブしかない。
「まあこれでもどうぞ」
「ありがとうございます」
真嶋は会うといつもあめをくれる。学生にも教授陣にも配っているようでだ。甘いものが好きではない菖子はいつも研究室に置いては、学生が持ち帰っている。今日はもう鍵を閉めてしまったのでそのままポケットにしまった。そのとき、どこからか着信音が鳴り始めた。2人が同時に鞄のなかを探るが、真嶋のものだった。
「あ、もしもしお母さん?うん、今から行くとよ」
迎えを待っている奥さんから電話で呼び出しがあった真嶋は、ではお先に、と足早に階段を降りていった。以前まで単身赴任だったが、娘さんの結婚を期に奥さんが地方からこちらに引っ越してきたそうだ。いつも迎えに行って一緒に帰る仲睦まじい夫婦だ。
階段を降りて角を曲がったところで、下から何か音が聞こえた。どさっと何かが落ちるような音。玄関の方からだ。急いで階段を下りると、玄関先の明かりの下で、転んでいる人がいた。地面には鞄から飛び出したであろう教科書が散らばっている。段差に躓いたのだろうか。
「大丈夫ですか」
慌てて声をかけると、ゆっくりと起き上がった。学生だ。飛び出した教科書から見るに、社会福祉学科の学生だろう。全て丁寧に名前が書いてあった。
〈篠森雪衣〉
ゆきえ、と読むのだろうか。真冬に降り積もって地面を覆い隠す雪を連想させる名前。菖子は地元の風景を思い出した。
「痛いところはない?」
小さな子どもに聞くように問いかけると雪衣は両手の手のひらを見せた。擦り傷ができて、血が滲んでいた。玄関の明かりに照らしてよく見るとコートの裾からのぞく膝も傷だらけだ。最近暖かくなってきたとはいえ、この寒い時期に足を出せるなんて、若い子は分からないものだ。
「手洗い場で洗いましょうか。立てる?」
看護師をしていた頃の名残か、今でも怪我をした人を見ると放ってはおけない。傷口は流水できれいに洗い流さずにはいられないのだ。もう医務室はとっくにしまっている時間。ゼミ室まで戻り、手持ちの救急セットを持ってきて手当てを済ませた。処置の途中も彼女は一言も喋らない。ただずっと子どものように静かに涙をこぼしている。
「もう大丈夫よ」
何とか立ち直ろうと袖口で涙を拭う。その姿に看護師時代に少しだけ勤務した小児科を思い出した。
「そうだ。これいる……?」
ポケットから取り出したのは真嶋からもらったあめ。彼女はあめを受けとると、少しだけ笑顔を見せた。これでもう大丈夫そうだ。
あっという間に季節は過ぎた。寒い冬は終わって、桜の花が咲いた。新しい学生を向かえた大学は少しだけ賑やかになって、またいつもの空気を取り戻していった。菖子は次のゼミ生を迎え、再び忙しない日々を送っていた。毎日いろいろなことが起こるなかで、あの寒い冬の日の出来事は記憶の奥に仕舞われていった。仕舞われた記憶が呼び起こされる出来事が起こったのはアウターを手放せる季節になった頃だった。
「新しい学生はどうですか」
いつものように授業を終えて研究室に戻る途中で真嶋に話しかけられた。研究室が近い真嶋とはよく会うのだ。
「新学期はみんなやる気があっていいですね」
「あはは。いつまでもつかねぇ」
笑いながら歩いていたその時だった。
「雪衣!」
背後から焦ったような声が聞こえ、先ほど上がってきた階段を引き返す。踊り場から下を見たところで階段の下に倒れている学生と、それに駆け寄るもう1人の学生が見えた。
「雪衣、大丈夫?」
菖子と真嶋が駆け寄ると雪衣はうっすらと目を開けた。意識はあるようだ。
「聞こえる?名前は?」
「ゆきえ……」
そこでようやく気がついた。あの日は暗がりだったし、泣いていたこともあり、あまりよく顔を見ていなかったけれど、玄関先で転んでいたあの日の学生だ。菖子はゆっくりと体勢を起こさせた。
「痛いところはない?」
「ここが痛い」
落ちたときに床でぶつけたのだろう。雪衣は苦い表情で右半身を擦っている。
「わたしの顔がはっきり見える?」
「見えます」
「ふらふらしたり、見えにくかったりしない?」
「大丈夫です」
声が震えていて今にも泣きだしそうな顔をしているが、視覚や体調に問題はなさそうだ。
「びっくりしたなあ。踏み外したん?」
真嶋の問いかけに雪衣は小さくうなずいた。めまいやふらつきがあったわけではなく、単に階段を踏み外してしまったらしい。階段はゆっくり上がりよ、と真嶋に諭されて雪衣はまたうなずく。しばらくすると落ち着いた様子で立ち上がり、授業に向かった。一緒にいた学生が保護者のように大丈夫大丈夫、と言い聞かせていた。
それから何事もなく日々は過ぎていった。特に事件があるわけでもなく、ときどき見かける雪衣は元気そうな姿だった。しかし菖子はあれからずっと頭のなかに何か引っ掛かるものを抱えていた。階段から落ちることは確かに珍しいけれど、雪衣はいつ見かけてもにこにこしていて、元気そうで、気にするところなど1つもない。それなのになぜか気になってしまう。あの子は何か病魔におかされているのではなかろうか。長年病院で勤めていた勘が、どこかでそうささやいている気がしてならないのだ。
「先生最近はあの子のことよう見とるね」
ふいに隣から声をかけてきたのは真嶋だ。階段から落ちたときのことを知っている真嶋もまた、雪衣のことを少し気にしているようだった。
「そうですね。あれから元気そうだし、気にすることはないのかも知れませんが……」
「実はね、最近あの子成績が振るわんみたいで。今年に入ってからガクッと落ちとるんよ。真面目な子やったのにテストがさっぱりで。日野先生、あの子はどっか悪いんじゃなかろうかね」
「……悪い、といいますと」
「僕は今まで重い病気の子何人も見てきたけど、あの子も何かよくないものを抱えとるみたいな。あってほしくないけど、そんな気がしてならんのよ」
「そうですね…」
涼しい時期になって以前より素足がよく見えるようになった。あの子の足は青あざが多い。きっと転んでぶつけた痕だろう。スカートの裾から除く膝は少し腫れている。
「先生は病院でも働きよったとやろ。どう思う? 」
「わたしもそんな気がしたんです。あの子は……脳の病気の患者さんに似ているきがします」
判断を下すには情報が足りない。すぐに大きな病院で検査を受けてほしい気持ちはあるが、自覚症状がないかもしれない彼女に受診を進めるきっかけが見当たらない。今の状況で看護師の勘だけで何か言っても混乱させてしまうだけだろう。でもこの先何かおきてしまってからでは遅いのだ。急激に病状が悪化することだってある。どうにかして助けられる術はないだろうか。
「誰か!!」
そのときだった。階段のほうから人を呼ぶ声がした。焦っている声だ。しかも聞き覚えのある声。急いで駆けつけると声の主はあの子だ。雪衣といつも一緒にいる斎藤かのん。ということは、もしかして……そう考えると怖くなる。予想はあたってしまった。階段下で倒れていたのはやはり、雪衣だった。
「大丈夫?」
駆けつけた真嶋が雪衣に声をかける。前回と同様、意識はあるようだ。泣きそうな顔をしているけれど、会話もできる。今回も踏み外しただけ。しかし以前よりも高いところから落ちたようで本人も周りもかなり驚いたようだ。
「結構高かったけど大丈夫?いっぺん病院で見てもらわんけん。今から授業あると?」
「ありません。帰るところです」
口を閉ざしている雪衣の代わりに隣からかのんが答えた。
「一緒に行きましょう。知り合いの医師がいるから連絡してみます」
2
「あっれぇ?菖子ちゃんじゃない」
病院につくなり入り口で二人を出迎えたのは脳外科医の富岡だった。菖子が病院に勤務していた頃の知り合いで、堅物な菖子のことを馴れ馴れしく「菖子ちゃん」と呼ぶ数少ない人物だ。
「菖子ちゃん香水してる?」
「つけたことないけど」
「嘘?いい匂いしない?」
同意を求めるように雪衣のほうを見るが、雪衣は首をかしげるだけだった。
「階段から落ちて少し頭を打ったみたいなの。意識ははっきりしてるし変わったところはないんだけど、一応見てもらえる?」
「菖子ちゃんのお子さん?……は男の子だったよね」
「うちの大学の学生」
「へえ、篠森雪衣さん……いい名前だね。どのくらいの高さから落ちたの?」
富岡からの質問にはっきりと答えていく。受け答えもしっかりしているし、変わった様子もない。こうしているところを見るとまるでさっき階段から落ちたなんて嘘のようだ。
「痛いとこない?」
「治った」
「そっか。大丈夫そうだね。念のためしばらくは運動とかは控えてよく休んでね。お酒は飲まないか。変わったことがあったらすぐ受診して。階段は気をつけて上がるんだよ」
「はい」
問診の結果、特に異常は見られず、怪我ひとつしていなかった。異常なしと診断された雪衣はバスに乗って1人で帰宅した。
「富岡くん」
菖子は知り合いの情けで雪衣を担当した富岡に時間をとってもらった。医師の診断を疑う訳ではないが、どうしても心配だった。怪我をしていないから大丈夫とは言いきれない気がした。
「お願いがある」
「どうした?菖子ちゃんのお願い聞く日が来るなんてね」
「篠原さんのことだけど、ちゃんと調べてほしいの。何か大きい病気が隠れていないか」
「……菖子ちゃんがそういうくらいなら何か気になることがあるんだろうね」
「階段から落ちたの今年に入って2回目なの。若い子が何度も階段を踏み外すのは不自然でしょ。それによく転んでるみたい。運動機能障害の可能性がある。それに学校の成績が今年に入ってから落ちてるらしいの。脳に何かあると考えられない?」
「でも意識障害とか他の症状ないんでしょ?てことは脳浮腫の可能性は低い。受け答えもはっきりしてるし……」
「念のため調べてもらえない?何かあってからじゃ遅いから」
「ふーん……分かった。本人と話してからになるけど、一応検査は勧めるよ」
「ありがとう。お願いね」
数日後、雪衣は念のためもう一度検査と伝えられて再びっ病院を訪れた。
「こんにちは、雪衣ちゃん。担当の富岡です。体調はどう?」
「元気です」
「雪衣ちゃん前にも階段踏み外して落ちたんだよね。ちょっと心配だから検査したいんだけど」
「検査?」
「うん。頭の中を見る検査。寝てるだけで終わるやつだから。おうちの人には来てもらえる?」
「わたし下宿で、お父さん船乗りだから、いつ帰ってくるか分からない」
「お母さんは?」
「おばあちゃんところ行ってる」
「うーん。とりあえず何かあったときのために連絡だけしておいて。検査するよって。雪衣ちゃん19歳だから、親の同意がなくても検査は受けられるからね」
「分かった」
CTとMRIだけ撮影して終了。雪衣にはすぐにまた日常が戻ってきた。階段から落ちたことさえ忘れてしまえば普通の女の子に見える。やっぱり何か病気かもしれないなんて気のせいだったんだろうか。考えすぎだった。きっとそうなんだ。しかし、数日後、検査結果を聞いて、全く考えすぎではなかったことを思い知らされることになる。
「ごめんね、菖子ちゃん。時間とらせちゃって。結果が出たんだ。雪衣ちゃんのCTとMRI」
「どうしてわたしに?守秘義務違反じゃないの」
「雪衣ちゃん実家九州なんだってね。ご両親すぐには来られないらしくて、だったらとりあえず菖子ちゃんに話を聞いておいてもらいたいって雪衣ちゃんが。病院付き添ったりしてくれてるでしょ。専門的な話だし、多分雪衣ちゃんはあんまり話を理解できてない。だから頼むね」
「それで、結果は?」
「これ見て。雪衣ちゃんのCT。こっちがMRI」
「これって、まさか……」
MRI画像を見ると脳の一部分に白くぼんやりとした部分が見える。医療現場で働いていた菖子には、MRIで白く写る部分は異常がある部分であることは容易く想像できた。CTでは異常は白く写ることが多いが、雪衣の画像はうっすら黒っぽく写っている。CTで異常が黒く写る病はそう多くない。
「もしかして脳梗塞?でもあの子まだ19よ?」
「まあ落ち着いて。僕も思ったんだ。既往歴も家族歴もないとしたらこの若さでは早すぎる。それに雪衣ちゃんはめまいもふらつきも出てない。脳梗塞はちょっと怪しいね」
「じゃあいったい何なの……」
「もしかしたらかなり珍しい病気かもしれない。今度脳波も調べてみるよ」
それから病気の正体を調べるために雪衣は検査入院することになった。
「いらっしゃい」
「こんにちは」
「こんにちは、雪衣ちゃん。もう少し詳しく調べたいから、これから他の検査するね。まずは話を聞かせて。よく転けるって聞いたけど、本当?」
「うん、よく転ける。つまずくこともあるけど、何もないとこでも。階段から落ちたときも足が変になって……」
「足がおかしいの?じゃあ頭がふらふらしたりはしない?」
「しない。いつも膝ががくんってなる」
「結構ちゃんと覚えてるんだねえ。ほかには?」
「ほかに?」
「なんか最近変わったことない?」
「うーん……味がしない」
「味?」
「ゼリーの味がしないの。いつもじゃないんだけど」
「……一人暮らしだっけ。自炊してる?栄養はちゃんととれてるかな」
「お料理は好き。自炊してる。賄いもときどき」
「鼻炎とか、アレルギーとかはある?」
「ない」
「そっか……」
それから色々な検査をした。知っている検査も知らない検査もして、色々な部屋を健康診断のように回された。難しい病気なのかもしれないという不安に襲われながらも、雪衣は淡々と言われたとおりに検査を受け続けた。
「脳波?」
「そう。いっぱい頭に機械つけて寝てるだけ」
少し緊張した面持ちでベッドに横になる。しばらくすると富岡が画面を見ながら雪衣に話しかけた。
「……雪衣ちゃん、今好きな人いる?」
「好きな人?」
「うん。学校に気になる人いないの?」
「なんで?」
「雪衣ちゃんのこともっと知りたいんだ。病気に関係あることも分かるかもしれないし。教えてほしいな」
「いる……かな」
「よく会う人?」
「うーん」
「毎日顔を会わせる?」
「毎日じゃない」
「へえ。どんな人なの?」
「いい匂いがするの」
「そうなんだ。香水かな?」
別に雪衣の緊張を和らげるためだけにこんな話をしたわけじゃない。富岡の予想が正しければ、この会話も検査結果に影響する。
数日後、菖子のもとに1本の電話があった。富岡からだ。彼から電話をもらうのは病院に勤めていた頃以来で、かなり久々だ。
「もしもし?」
「雪衣ちゃんの脳波の検査結果がでた。しばらく学校は休んでもらうことになりそうだ」
「えっ……何か見つかったの?」
「菖子ちゃん、恋は盲目症候群って知ってる?」
「恋は盲目?」
「そう。正しくは感情性脳欠損って言うんだけど。昔好きな人のことを見すぎて目が見えなくなった人がいてね。人を好きになることで何らかの影響が出て脳の一部分が溶けてしまうと言われている」
「溶ける……?脳が?」
「そう溶けてしまった脳はどろどろとした液状になるらしいからしわがなくなってMRIでは白っぽく写る。CTでは黒っぽい灰色に写ることが多い。脳波にもちょっと左右差があった。病気の原因になる人物、つまり患者の好きな人のことを対象って言うんだけど、対象について話したときに特有の脳波がでるんだ。雪衣ちゃんにもそれが見られた。ほぼ間違いない」
「待って、彼女は視力に問題があったの?」
「症状は人によって違うんだよ。容姿に惚れれば視力、声に惚れれば聴力っていう風に。雪衣ちゃんの場合、運動機能障害と嗅覚障害が出てる。味が分からないって言ってたけど味覚は正常だった。匂いがよく分からないから味がしないって感じたんだろうね。よく転んだり階段から落ちたりしたのも運動機能障害の影響だと思う」
長年病院で働いていた菖子でも聞いたことのない病気だった。それほど珍しく、まだあまり知られていない症例なのだろう。
「進行すると脳が萎縮したときに見られるような記憶障害が出るケースもあるらしい。成績が落ちたって言ってたよね」
「うん。真面目な学生だけど、後期に入ってからテストの成績が悪いって」
「勉強したことが思い出せなくなってたのかもね」
「治るの?」
「治療法はまだ確立されてないんだよ。極めて珍しい症例でね。メカニズムもよく分かってない。でも1度溶けた脳をもとに戻すことはできない。脳梗塞みたいなもんだ。対象となる人と会わないようにして進行を止めるしかない。アメリカのケースでは脳の残った部分が働きを補い始めたって」
「……間違いないの?」
理解が追い付かない。始めに脳の病気を疑ったのは自分だけれど、初めて聞く症例で、脳が溶けるなんて全く信じられなかった。
「それから普段よく一緒にいる人に話を聞きたいんだけど、誰かいる?菖子ちゃんとこの学生なんだよね」
「そうだけど、わたしの学科じゃないの。授業は受け持ってなくて」
「そうなの?それなのにこんな親身になって寄り添ってるの?菖子ちゃんも丸くなったねぇ」
富岡の言い方には少々カチンと来るものがあるが、菖子自信もそう思う節はあった。昔ならきっとこんなことしなかった。病気かどうか確信があるわけでもない、しかもほとんど知らない他人のために念のため検査をしてほしいと頼み込むなんて。けれどどこか放っておいてはいけない気がしたのだ。なかったふりをすれば、きっといつか後悔する。そんな気がしてしまったのだ。
「症状を食い止めるには対象との関わりを断つ必要がある。それが誰かわかるまでお見舞いも控えて。可能性がある人はだめ。菖子ちゃんもね」
「わたしは関係ないでしょ」
雪衣にとって菖子は大学の他学科の先生。普段顔を会わせることだってないに等しい。初めて会ったときには症状が出始めていたのだから、対象になりうることは普通考えにくい。
「雪衣ちゃんの好きな人が女の人じゃないとは限らないでしょ。大学の先生は影響力あるんだから発言には気をつけないと」
「バカにしてる?」
「いやあ、まさか。この病気についてはわかっていないことも多い。原因が恋愛対象だけとは限らないかもしれないから、一応ね」
「わかった」
3
後日、日野はいつも雪衣と一緒にいる同じ学部のかのんに声をかけた。雪衣が階段から落ちた時も一緒にいた学生だ。そしてかのんの紹介で雪衣の幼馴染の葉月にも声がかかった。2人は富岡に呼ばれて病院を訪れた。
「斉藤かのんさんと、朝倉葉月さんだね」
「はい」
「よろしくお願いします」
「雪衣ちゃんのことで気になることとか最近様子がおかしいとこってなかった?」
「最近よく転ぶかなとは。本当に何もないとことか低い段差とかで転ぶんです。ふらっと目の前からいなくなって、いつの間にか見えないとこで転んでて」
学校で毎日一緒にいるかのんが言うのだから本当によく転んでいるんだろう。本人は膝ががくんとして転ぶと言っていた。運動機能障害が起きて足が上がらなくなったり、力が入らなくなったりしていた可能性が高い。それが感情性脳欠損の症状だとするなら一体雪衣は対象のどこを好きになったのだろう。
「雪衣ちゃんには好きな人がいた?そういう話は聞いたことない?」
これに関しては2人ともぴんと来ていない様子だった。どうやら雪衣はあまり交友関係が広くなかったようで、友達はかのんと葉月以外には同じ学部の女子が数人。男子と仲良くしているイメージはなかったようだ。サークルには入っていないし、放課後は葉月と同じ定食屋でバイトをしていたが、特に気になることはなかったと言う。
「じゃあ匂いは?雪衣ちゃんが好きな匂いとかって知らない?」
匂い?と首をかしげるかのんの横で、葉月はあっと短く声を上げた。
「日野先生」
「え、菖子ちゃん?」
葉月と雪衣は学科が違うため普段一緒にいる時間は少ない。しかし雪衣は幼馴染みの葉月に1番心を開き、いろいろなことを語っていたらしい。
「日野先生いい香りがするみたいで。わたしはよく分からないんですけど。日野先生の匂いがするときっと近くにいるから探しちゃうって聞いたことがあります」
「雪衣ちゃんの好きな人いい匂いがするって言ってた。それも菖子ちゃんってこと?」
「わかりません。でも確かに雪衣は日野先生のことを気に入っていました。匂いもそうだけど、先生を見かけたら追いかけていくって。それで何かするわけじゃないらしいんですけど。ふらっといなくなるっていうのもそのときじゃないかな」
「……それ本当?」
「はい」
雪衣の好きな人はいい匂いがすると言っていた。そしてその匂いは菖子の匂い。そして運動機能障害の原因はふらっと駆け出して追いかけていたこと。そう考えると対象は菖子と考えるのが自然だ。
2人を返した後、富岡は菖子に電話をした。
「対象は菖子ちゃんかもしれないね」
「そんな、え?どうして?」
「考えられる可能性は2つ。1つ目は雪衣ちゃんが感情性脳欠損を恋愛感情以外で発祥している可能性。そもそも病気に関するデータが少ないから全くないとは言いきれない。2つ目は本当に彼女が菖子ちゃんのことを好きってことだ」
「わたしに?年も離れた、しかも女のわたしを好きだって言ってるの?」
「もちろん可能性だけどね。これに関しては雪衣ちゃんに聞くしかないけど、彼女菖子ちゃんの学部の子じゃないんでしょ。授業も受けてない。話したこともほとんどない。そんな雪衣ちゃんが菖子ちゃんに抱く脳を溶かすほど強い感情ってなんだと思う?」
「……」
「だってね、雪衣ちゃんは好きな人がいると言った。その人について話したことと症状が一致する。そしてその原因が菖子ちゃんである確証もある。それはもうそう言うことでしかないんじゃない?A=B,B=CならばA=Cってことだよ」
「わたしである確証?」
「雪衣ちゃんは菖子ちゃんの匂いが好きだったらしい。大学内で君の匂いを追っていた。だから嗅覚障害が出た。運動機能障害が出たのも君を探して追いかけてたからだ」
「信じられない……」
「君が信じられなくても僕は医師としてこの診断で確定させる。菖子ちゃんが対象であるとした以上、僕は君を雪衣ちゃんには会わせられない。ごめんね、菖子ちゃん」
対象に真実を伝えることが正しいのかどうかはわからない。けれどここまで来て菖子に真実を伝えないわけにはいかなかった。伝えなければ、きっと菖子は雪衣に会いに来る。ほとんど話したこともないのに病院に付き添うほど心配しているのだから。でもそれは避けなければならない。菖子が雪衣の対象ならば、会えば病気が進行してしまう。
「雪衣ちゃん、落ち着いて聞いてくれる?雪衣ちゃんの病気は脳が溶ける病気なんだ。とても珍しい病気でまだ分からないことも多いんだけど、原因は好きな人ができることらしい。雪衣ちゃんの場合はその原因が日野先生かもしれない。1度溶けた脳はもとには戻らない。好きな人に会うのをやめて、病気の進行を止めるしかない」
「病気治せないの?」
「病気の治療法はまだ見つかってないんだ。でも会ったら病気がどんどん悪くなって、いつか死んでしまうかもしれない。それは嫌だろ?」
「うん……」
「雪衣ちゃんはまだあまり進行していない今ならまだ普通の生活に戻れるんだよ。だから、日野先生にはもう会わないようにしてほしい」
もし雪衣が本当に菖子のことが好きなら、とても残酷なことを言っている。でも医師としては患者の命が最優先。雪衣を守るためにはこうするしかないのだ。患者は好きな人との関わりを絶たれる。対象は少なからず責任を感じるだろう。医師は治療として恋路を止めるしかない。治療してもしなくても誰も特をしない病だ。
富岡は雪衣に確定診断を下した後、再び葉月を呼び出していた。対象が菖子であることが分かったところで、今後の生活の方針のためにも雪衣の菖子に対する気持ちを確かめておく必要があった。雪衣がその事を話していたのは幼馴染みの葉月だけ。
「雪衣ちゃんが日野先生をどう思ってたのか知りたい。葉月ちゃんにはどんなことを話してた?」
「前にもお話ししたことにはなってしまうんですが、日野先生のことを見かけたらつい追いかけてしまうって。毎日帰りながら今日はいたんだよって教えてくれてました。でも恋愛感情かって言われるとよくわかりません。そんな風には見えなかったかも」
「へえ」
「そういえば、1度手当てをしてもらったことがあるみたいです」
「手当て?」
「学校で転んだときに怪我をして、絆創膏を貼ってもらったって。去年の冬くらいだったと思います」
去年の冬には運動機能障害が始まっていた。そして対象との関わりも。症状が出始めて少なくとも半年がたっていることになる。
「それから、匂いのことも思い出したんです。シャボンの泡の匂いでしょ、ってよく言ってました」
「シャボンの泡?」
「おかあさんって童謡わかりますか?」
「ああ、うん。お母さんが洗濯してるっていう」
「あれに出てくる、シャボンの泡の匂いって。洗剤か柔軟剤みたいな、そんな香りがするそうです」
「なるほどね」
雪衣が嗅覚障害を起こしていることからすると、菖子の匂いにかなり強い関心を示していたことになる。その原因が洗剤か柔軟剤っていうのは少し意外だった。もともと雪衣はかなり鼻がよかったのかもしれない。それとも匂いに気づくことができるくらいには菖子のことが好きだったんだろうか。
「そういえば雪衣ちゃんのお母さんって忙しいのかな?来てもらうように連絡はしてるはずなんだけど」
そう尋ねると葉月はとたんに不思議そうな顔をした。何か違った?と富岡が尋ねると葉月は声のトーンを落として話した。
「雪衣のご両親離婚してて、お母さんは家を出ていったって聞いてます。実家に帰ったそうですけど、その後は連絡もとれないって」
「え、そうなの?」
初めて検査をした日、両親に連絡するように伝えたときに雪衣はお母さんはおばあちゃんのところに行っていると言った。あれは介護で一時的にとかではなく、家を出て実家に帰ったという意味だったのか。
「じゃあお母さんは……」
「来ないと思います。多分連絡も出来てないと」
「まじか」
4
「雪衣ちゃん」
「先生、いつから学校に行ける?」
いくつもの検査と度重なる問診。説明を聞いてもよく分からない病気。不安をたくさん抱えながらも、身体は元気なままの雪衣は早く家から出たがっていた。
「大丈夫。もうすぐ行けるよ」
経過観察やリハビリのために病院に通わなくてはならないが、ひとまず普通の生活は送れる。しかし病気の進行を送らせるための条件がある。今日はその約束をいくつかするために呼び出していたのだ
「その前に雪衣ちゃん、お父さんとは連絡ついた?」
「うん。今海にいて、福岡に帰るのが来月の中頃になるから、そしたら来てくれるって」
「お母さんには連絡したの?」
「してない」
「お母さんとはいつから連絡してないの?」
「お母さんかいなくなってからずっと」
「連絡しても、返事がないの? 」
「そう」
今までどんな検査をしても、どんな話をしてもポカンとしていた雪衣が切ない表情を見せていた。
「お母さんのことを聞かせてくれる?」
「うん」
数日後、迎えに来た葉月と一緒に雪衣は退院していった。そして富岡は菖子に連絡を入れた。
「もしもし」
「あ、菖子ちゃん、お疲れ様。本当は会って話したいとこだけど、忙しくてそうもいかなくてね」
「もう退院したのよね、篠原さん」
「うん。さっき葉月ちゃんが迎えに来て一緒に。元気そうだよ」
「そう。よかった」
「退院して学校に戻るに当たって雪衣ちゃんといくつか約束をしてる。まず菖子ちゃんに近づかないこと。菖子ちゃんからも雪衣ちゃんには近づかないで。必要なら診断書も出すから、大学でも関わりは避けるように」
分かっていた。菖子が対象であると診断された以上、もう雪衣には近づくことが許されない。病気が進行してしまうからだ。だから菖子にも釘を刺されているのだろう。
「それから何か異常があったらすぐに病院に来ること。現時点で大学生活まで僕は口出せないけど、病気が進めば最悪もあり得るって思っといて」
最悪。病気が進行する。入院を余儀なくされる。学校をやめないといけない。どうなっても雪衣の自由は奪われる。そうならないために、今は菖子にもできることをするしかない。
「自分を責めないでね。菖子ちゃんが悪いことなんて1つもないんだから。悪いのは病気とそれをまだ治せない俺たちだ」
「分かってる。早く治療法見つけてね」
「あのね、菖子ちゃん……」
雪衣と話して、詳しく分かったことがある。どうして対象が菖子だったのか。
「雪衣ちゃんは確かに君のことが好きだった。君の匂いが好きで、追いかけて、脳を溶かすくらいは、君に強い感情を抱いてた。でも」
「守秘義務違反じゃないの」
そう言われて富岡は話すのをやめた。そうだね、とだけ言って電話を切った。これ以上は雪衣の個人情報だ。それに話しても菖子は救われない。
雪衣が好きだと言っていたシャボンの泡の匂い。あれは雪衣の母が使っていた柔軟剤の匂いだった。同じ匂いがしたから、雪衣は菖子に近づいたのだ。家を出て行って、連絡すら取れなくなった大好きなお母さんを、菖子に重ねていた。たらればを言っても仕方ない。でも、もし雪衣の母が少しでも連絡を取ってくれていたら、今でも母の愛を感じられていたら、雪衣が病気を発症することはなかったのかもしれないと思う。母を責めることはできないけれど。菖子と雪衣を引き離しながらそう思わずにはいられなかった。
脳を溶かすほど雪衣が菖子に抱いていた思い。それは恋愛ではなく、会えなくなった母への愛の投影。
菖子と雪衣は関わりあうことのないまま以前のように日常を取り戻していた。何度季節が変わっても、同じ大学の中で交わることなく、何事もなかったように過ごしていた。
「あれ、菖子ちゃんじゃない」
ある日病院を訪れた菖子に富岡が声をかけた。あれ以来病院に来るのは久しぶりだ。
「何しに来たの?どっか悪い?」
「健康診断の再検査。この歳になるとどうしてもね」
「俺たちもそんな歳かあ。まあ仕方ないよねぇ」
いくら現役医師と元看護師と言っても、年齢にはあらがえない。健康診断にいくつか引っかかって病院にかかることは珍しいことではなかった。
「この前雪衣ちゃんがお父さんと来てね。お父さんが、娘が病気になったのは自分が離婚したせいですかって言うんだよ。誰も悪いわけないのにね」
幾度となく、たくさんの人にこの言葉を伝えてきた。病気になった人が悪いわけでもないし、もちろん周りが悪いわけでもない。それでも何かを責めずにはいられない人たちに、伝え続けるしかないのだ。
「心配しないでね、菖子ちゃん。雪衣ちゃんは元気にしてるから」
もちろん溶けた脳が戻っているわけではない。MRIで何度確認しても、溶けたままだ。でも雪衣はもうずっと階段でも転んでいない。嗅覚も少しではあるが戻ってきている。雪衣は、日常を取り戻しつつあった。
じゃあ気をつけてと手を振って別れた。離れていく背中が小さく見えるのは歳のせいかもしれない。
「富岡先生」
「あ、雪衣ちゃんいらっしゃい。準備できてるから中入って」
雪衣を中に促すと、不思議そうな顔でその場に足を止めた。
「どうしたの」
振り向いて声をかけると雪衣は嬉しそうに少しだけ笑って見せた。
「シャボンの泡の匂いがする」
恋は盲目症候群