嗚呼 花の学生寮 1
入寮1
昭和47年春3月、一平は東京の大森にある鉄筋コンクリート3階建ての建物の前に立っていた。
一平は、国鉄大森駅から地図をたよりにここまで歩いてきた。
道路を隔てて向かい側にはアサヒビール大森工場があり、それがよい目印となったので
、迷うこともなくここにたどり着くことができた。
その建物はいかにも古めかしく、門柱には、「東京学生寮」と墨で書かれた
これまた古びた大きな表札がかかっていた。
玄関は、大きなガラス張りの観音開きのドアになっっており、
ガラス越しにずらりと下駄箱が並んでいるのが見えた。
一浪して、東京の大学に受かった一平は、三重県の花岡市から、今日東京に出てきたのであった。
これから4年間、この寮が自分の住処となると思うと、なんとなく気が引き締まる思いがした。
一平は大きく息を吸い込むと、ドアを押して中に入った。
玄関の左側に、受付のような窓口のある事務室のような部屋があった。
中に人がいたので、一平は少し遠慮がちに、
「ごめんくださいー」
っと声をかけた。
すると、65歳くらいのメガネをかけた白髪交じりの男の人が、窓口からのそっと顔を出し、
「新寮生かね?名前は?」
と訊ねた。
「あ、はいっ、阿垣一平といいます。宜しくお願いします。」一平はできるだけハキハキと挨拶をした。
「えーっと・・阿垣君ね」
と言いながら、彼は手元の名簿に書き込みをした後、
「はい、お疲れさん。私は寮の管理人をやってる横田です。まあ中へ入んなさい。」
と言って事務所のドアを開けて一平を中に招き入れた。
「今日、田舎から出てきたの?」
「はい、お昼の新幹線に間に合うように、午前中に家を出てきました。」
「そうか。これからは、ここがきみの家みたいなものだから・・
寮生は、みんなきみと同じように田舎から出てきて、ここで生活しているわけだから、
仲間がたくさんいると思ってね、まあ、しっかりやんなさい。」
「はい、ありがとうございます」
一平は、管理人さんがよさそうな人だったのでちょっと安心した。
「きみの部屋は・・・えーっと、306号室だな。」
管理人さんは、名簿めくりながら言った。
「森崎君というのが同室の先輩だから、彼にいろいろ詳しいことは聞くといいよ。今呼ぶからね。」
そう言うと、管理人さんは、机の横にあったマイクを取り上げて、
「306号室の森崎君、306号室の森崎君、管理人室まで来てください。」
とアナウンスをした。
必要書類は、すでに郵送してあったので、入寮に際しての心得、施設の説明などを書いた書類を受け取って、
今月分の寮費を支払って手続きは簡単に終わった。
一平が手続きを終えたちょうどそのとき、ペタンペタンとスリッパの音をさせながら、
髪の長い学生がゆっくりゆっくり階段を下りて来るのが見えた。
彼は、背中を少し丸めてポケットに両手を突っ込んだまま、管理人室に入ってきて、
チラリと一平に一瞥をくれると、管理人さんにちょっと頭を下げて挨拶をした。
「ああ、森崎君。きみの部屋に入ることになった阿垣君だ。いろいろ教えてやってくれ。」
と管理人さんが言った。
「あ、そうですか。わかりました。」
森崎はそういうと、一平に向かって
「俺、早須田の森崎。よろしくな。」
と言った。
「ぼく、阿垣一平といいます。宜しくお願いします。」
「ああ、そう。それで、お前どこの大学?」
「法争大学です。」
「学部は?一浪か?」
と森崎は矢継ぎ早に質問した。
「はい、法学部の政治学科です。一浪ですけどなんでわかるんですか?。」
「おれも一浪したからよ、なんとなくな。」
ふんっ、と森崎は鼻で笑いながら答えた。
「じゃ、行こうか。」
森崎は、またペタンペタンとスリッパの音をたてながら、階段を上り始めた。
一平は森崎の後をついて、階段を上っていった。
これから始まる、寮生活の何たるかも知らず・・・。
入寮2
3階の306号室。
「ここが、俺たちの部屋だ。おまえは上な。」といって、森崎は2段ベッドの上をあごでしゃくって見せた。
部屋は、6畳ほどの大きで左側の壁に2段ベッドが建て付けられ、右側の壁には机が2つ、
入り口の左右に物入れがあり、中に戸棚が備え付けられたシンプルな造りになっていた。
「お前の机は、それ。ロッカーはこっち。」と、森崎は、入り口に近くの机と入って右側の物入れを指差した。
ずいぶん使い込まれた木製の机には、たくさんの傷がついていて、
今までに数多くの学生たちがこの寮で過ごしたことを物語っていた。
一平は、この部屋のレトロな雰囲気が気に入った。
かつて憧れていた古き良き時代の「学生寮」の面影が残っている気がした。
「寮での心得みたいなことは、おいおい2年生が教えてくれるから・・・
ま、この部屋じゃ,あまり硬いこと言わず仲良くやろうや。」
森崎は、そのほか洗濯機の使い方や物干し場の場所など、必要なことを説明し終わると、
ごろりとベッドにお横になり週刊誌を読み出した。
一平が、持ってきたバッグを開けて荷物を自分の戸棚にしまっていると、
「おーい、森崎、一年坊が入ったんだってーっ。」と言いながら、
メガネをかけて頭を七三にピシッと分けた学生が、いきなり部屋に入ってきた。
そして、一平に向かって、
「あ、きみお酒飲める?」と聞いた。
突然の質問に戸惑いながらも、一平は、
「はい、飲めますけど・・・」と答えていた。
「おーい、森崎のところの、1年坊は酒飲めるってよー!」とその学生は、廊下に向かって大声でどなった。
すると、誰かが、
「そうかあ、今夜のみに行くぞおーっ!」と怒鳴り返してきた。
「杉巻が今夜飲みに連れて行ってくれるってさ・・あっ、俺、立敬3年の田畑、よろしくな。」
「阿垣一平です。宜しくお願いします。」
一平が、なんだか事態が飲み込めないまま挨拶をすると、
「杉巻は、隣の部屋の3年だ。あいつのところにも1年坊が入ったから、
今夜、きみとその1年を飲みに連れて行くっていってるんだ。よかったね~。」
っと田畑は、なにやら意味ありげにニヤニヤと笑った。
夕方6時半頃、一平がやっと荷物の片づけを終わって、一息ついたところへ、
ひょろりとした前髪の長い学生が、ノックもせずに突然ドアを開けて入ってきた。
「おい、森崎、一年坊ちょっと借りるぞ。」
「飲みに行くのか?」
ベッドに寝ころがったまま週刊誌を読んでいた森崎が、週刊誌から目も離さずに言った。
「ああ、軽くな。」と、酒を飲むジェスチャーをすると、その学生は、一平のほうに向き直って
「きみ名前は?」と、薄ら笑いをうかべながら、妙に優しい声で言った。
「阿垣一平です。宜しくお願いします。」一平は、背筋を伸ばすと頭を下げてきちんと挨拶をした。
「俺、中英の杉巻、よろしくな。そんで、こいつがうちの1年坊の梅田だ。」
すると、廊下に立っていた学生が、半開きのドアから、ニキビだらけの顔を出して、
一平に向かって「ちわっ。」と言った。
「ちわっ、じゃねえだろう。ちゃんと挨拶せんか、こらあ!」
と杉巻が、すごんだので、彼は、あわてて
「中英大学1年の梅田敏雄です。よろしくお願いします。」と神妙に言い直した。
一平が、梅田に挨拶を返すと、杉巻は、
「さあ行くぞ。」と言って顎をしゃくってドアの外に出た。
一平が少し躊躇して、「あのお、先輩は?」と、森崎に訊ねると、
「俺はいい、行ってこいよ。」と、
森崎は、あいかわらず週刊誌を読みながら答えた。
「じゃあ、ちょっと、行って来ます。」と言って、一平は、廊下を歩いていく杉巻たちの後を追いかけた。
入寮3
寮は、鉄筋のアパートや木造の家屋が並ぶ住宅街の一角に立っていたが、
少し歩くと大通りがあり、飲食店から雑貨屋までいろいろな店が並んでいた。
杉巻は、小さな赤提灯の下がった店の暖簾をくぐると
「こんばんわー。」と言って店に入った。
そこは、カウンターが10席ほどしかない小さな飲み屋で、
カウンターの中から無精ひげを生やした中年の親父さんが、
「いらっしゃい。」と無愛想につぶやいた。
杉巻は、入り口のそばの席に腰掛けると、
「座れよ。」と一平たちに自分の両隣の席を勧めた。
「とりあえず、お酒2本と奴3つください。」
杉巻が、慣れた様子で注文をするのを、一平はちょっと珍しそうに眺めていた。
一平は、飲み屋というところに入ったのは、これが初めてだった。
テレビでは見たことがあるけれど、店の中に漂う焼き鳥やお酒の匂いまではわからないので、
その匂いをかいだ途端、自分が大人の世界に一歩足を踏み入れたような感覚にとらわれた。
「まあ飲めよ。」杉巻が、徳利の首を人差し指と親指でつまんで一平に差し出した。
一平は目の前に置かれていた杯を取り上げ、
「いただきます。」と言いながら、杉巻のお酌を受けようとすると、
「あのなあ、先輩にお酌をしてもらうときは、徳利を両手で持って受けるんだよ。」
と杉巻が言った。
「すみません。」
一平は、すぐに左手を杯に添えてっ杉巻のお酌を受けた。
一平は、高校生の頃から時々、友人の所で酒を飲んだりして、
自分が結構酒が強いということがわかっていたので、べつに物怖じすることなく杯をあおった。
「オー、いい飲みっぷりじゃねえか、もう一杯いこう。」
と杉巻は、上機嫌で、また一平の杯に酒をつぐと、
「梅田、お前も飲め。」といって、隣に座っている梅田の杯にも酒を注いだ。
梅田も、酒を飲むのは初めてではないようで、
「いやー、熱燗いいっすねー。」とかなんとか調子のいいことを言いながら、酒をうまそうに飲んだ。
杉巻の杯が空いたので、一平が酒を注ごうとすると、
「酒を注ぐときも、両手でやるんだぞ。」と言った。
一平は、両手で徳利を持って杉巻の杯に酒を注ぎながら、
こういう礼儀もちゃんと憶えておかないといけないんだなと思った。
杉巻の酒を飲むペースはかなり早く、それに合わせて飲んでいたら、
一平も梅田もかなり酔っ払ってきた。
「先輩、もうぼく飲めませーん。」
梅田が、真っ赤な顔をして言うと、
「ばかやろう!そういうことを言うのは、10年早いんだよ、もっと飲め!」
杉巻が梅田の杯に酒を注ぎながら、
「寮生活の心得ってものがあるからな、おいおい教えてやるから、おまえらしっかり憶えるんだぞ。」
杉巻は少し酔った目つきで一平たちを見てニヤリと笑った。
杉巻は、どんどん酒を追加し、うまそうに飲みながら、一平たちにも有無を言わせずに酒を注いだ。
何時間その店にいたのかよく憶えていない。
杉巻が勘定を払い店を出ると、一平と梅田は大きな声で、
「ご馳走様でしたあーっ!」と杉巻に言った。
飲みに行ったら勘定は先輩が払うもので、奢ってもらった後輩は、大きな声できちんと礼を言う。
これも、寮生活の心得だと、先ほど教わったばかりだ。
寮に帰る途中の公園の草むらで、3人並んで立ちションをした。
ゆらゆら揺れている杉巻に向かって、
「先輩、酔ってるんですか?」と梅田が言った。
そういう梅田も、揺れていた。
寮に帰ると、すでに11時の門限が過ぎていて、玄関に鍵が掛かっていた。
「こういうときはな、ここから入るんだ。」
杉巻は、寮の横手に回ると、一階のトイレの窓を、そうっと開けた。
3人は順番にそこをよじ登って中に入った。
「この窓だけは夜中も鍵を掛けないことになってるから、おまえらもちゃんと憶えとけ。
まちがってもこの窓の鍵を掛けたりするなよ。」
杉巻が、笑いながら言った。
なるほど、門限に遅れてもこんな抜け道があるのかと一平は思った。
部屋の帰ると、森崎はまだ起きていた。
「只今帰りました。」
「おう、いっぱい呑まされたろう、大丈夫か?」
「はい、だいぶ酔っ払いましたけど・・・」
「フーン、酒強いんだなあ。さあ、もう寝ろ。」
森崎はそういうと、ベッドにごろりと横になった。
一平は、パジャマに着替えると、2段ベッドの上に登って
「おやすみなさい。」というと、電気を消して、
寮生活最初の夜の眠りについたのであった。
自己紹介1
酔っ払ってぐっすり眠っていた一平は、突然誰かに肩を小突かれて、驚いて飛び起きた。
「娯楽室に集合!」
杉巻が、一平の顔を覗き込んで言った。
一平は、何がなんだかよくわからないまま、ベッドから降りると時計を見た。
午前2時。こんな時間にいったいなんなんだよ、と思いながら服を着替えた。
『そうか、昨日、この寮に入寮して、昨夜は杉巻先輩に飲みに連れて行ってもらったんだ』
とまだ酔っている頭で考えながら、一平は部屋を出た。
娯楽室は、一平の部屋の斜め前にある。
部屋に入るとすでに1年生らしい学生が数人、
部屋の真ん中で正座をしていた。一平も彼らの横に並んで正座をした。
部屋の正面の壁際に、木刀を携えた杉巻と4,5人の上級生らしき学生たちが立っていた。
「お前らに、これから寮生活のルールを教えるから、よーく頭に叩き込んどけ!いいな!」
酔って赤い顔をした杉巻が、ろれつの少し回らない口調で言った。
1年生が、黙っていると、
「返事わぁーっ!」っと杉巻が大声を張り上げ、
持っていた木刀で畳をビターンッと叩いた。
とたんに、1年生全員が、ビビッて「はいっ!」と答えた。
「おまえら、声が小さい!挨拶と返事は大きな声で、はっきりと!わかったかー!」
「ハイッ!!」一平は、なかばやけくそで大きな声を張り上げた。
「それじゃあ、今からそれぞれ自己紹介をしろ。おまえからだ。」
杉巻は、一番向こうの端に座っていたメガネをかけた1年生を指差した。
指名された1年生は、立ち上がると、
「えーっと、中英大学の砂元です。よろしく。」
と小さな声で言った。
「なんだーぁ?それが自己紹介か?おまえ、なめてんのか?おい、猪木、見本を見せてやれ。」
杉巻に、言われて、そばにいた体格のいい濃い顔立ちの学生が、1歩前に出た。
彼は一年生全員を見回すと、直立不動の姿勢をとった。
「自分はーっ!山口県立長州高等学校出身!現在!熊澤大学経営学部2年、
さんまるじゅう号室の猪木孝明です。どうぞよろしくお願いします!」
彼は、部屋のガラス窓がびりびり音をたてるくらいの大声で、まるで軍隊のような自己紹介をした。
一平たち1年生は、その迫力に気おされて全員に緊張が走った。
「わかったかー。これが自己紹介だ。じゃあ、お前、もう一回やってみろ。」
杉巻に言われて、砂元が
「自分はー。」っと言った途端、
「声が小さい!」と、猪木がどなった。
砂元は、すっかりびびった様子で
「あ、はい、スミマセン。」といった。
「スミマセンじゃ、ねーんだ。そういう時は、『元へ!』といってやり直せ!」
「はい、『元へ!』。」
「ばかやろう、『はい』はいらねえ!」
先輩に、矢継ぎ早に怒鳴られて、砂元はすっかり怯え上がってしまったのか、
自分の出身高校さえもまともに言うことができず、とちってばかりで、延々と自己紹介を繰り返させられた。
つぎつぎに自己紹介をさせられた1年生は、いままで誰もこのようなことを経験したことがないため、
みんなまともに出来るはずも無く、ただ時間ばかりが過ぎていった。
その間ずっと正座を強いられているため、剣道をやっていて正座に慣れている一平でさえ相当な苦痛で、
やっと自分の番が来ても、立ち上がるのに何度も屈伸をしなければならなかった。
「自分はーっ!三重県立花岡高等学校出身、現在ー・・」
一平は、最初から剣道の気合と同じくらいの大声を張り上げて自己紹介を始めた。
「元へ!」猪木から、すぐに鋭い声がかかった。
ほんの少し詰まったり、間が伸びただけでもすぐにやり直しである。
一平にも、何度も「元へ」がかかった。
一平は、そのたびに渾身の力をこめて大声を張り上げた。
何度も何度も、「元へ」がかかるうちに、だんだん声が涸れてくるのがわかった。
それでも止めるわけにはいかない。一平は、涸れた声に気合を入れて、大声を出し続けた。
「よーし!」
ようやく、猪木から止めの声がかかった。
「おまえら、自己紹介のやり方をちゃんと憶えて、しっかり練習しておけ!
近いうちに、各部屋への挨拶回りをやるから。」
なるほど、そのための自己紹介か・・と一平は納得した。
自己紹介2
全員の自己紹介の練習が終わると、猪木が言った。
「もうすぐ新入生歓迎コンパがある。そのとき一年生には、
一曲づつ軍歌を歌ってもらうから、ちゃんと憶えておくように。」
「軍歌??」
たぶん、そのとき一年全員の頭の中に?マークが浮かんだに違いない。
「この寮には、歌謡曲とかは合わねーんだよな。軍歌を知らないやつは、先輩に教わること!わかったなー!」
「はいッ!」 わけのわからないまま、一平たちは大声で返事をした。
そのあと、猪木から、寮の規則に加え、先輩に会ったら、
街中でもどこでも、必ず大きな声で挨拶をすること。
くわえタバコで歩かないこと、
トイレの下駄をいつも揃えておくこと等々、
細かい注意事項の説明があった。
「もし、おまえらのなかの誰かがこのルールを破ったりすると、
おまえら全員の連帯責任だからな、よーく肝に銘じておくように!」
「はいッ!」
「本日は、これで解散!」猪木が言った。
一平は心の中でふーっとため息をついた。
大学に合格したとき、父親の仕事関係の子弟のための寮に
入れるように、地元出身の国会議員に口を利いてもらって、
一平はこの寮に入ってきたのであった。
だから、とんでもない所に来てしまったと思ったが、
どんなことがあっても、ここを退寮するわけにはいかなかった。
先輩たちが、ぞろぞろ出て行った後も、
1年生はみんなしばらく立つこともできず、
浮かない顔で、それぞれ足を伸ばしたりさすったりしていた。
「さっき、自己紹介やっちゃったけどさ、
俺、栗田、よろしくな。まあ、仲良くやろうや。」
リーゼントで、ピカピカに頭を固めた1年生が皆に向かって言った。
「オレ、阿垣一平、よろしく。」
勝野、天馬、安川、砂元、梅田、成島、代々木、及川、
それぞれが、もう一度、名前だけの簡単な自己紹介をした。
「なんか、ここひでぇーとこみたいだなー。
これじゃあ、体育会か応援団の寮みたいじゃん。
おれ、退寮しようかなー。」
天馬が、冗談とも本気ともつかない様子で言った。
「軍歌だってよ。 そんなもん歌ったことネエよ、まいったなー」
と成島がつぶやいた。
「天馬も成島そんなこと言わないでサ、なんとかなるって!」
栗田が、へらへら笑いながら言った。
「とにかくさ、1年生だけでも団結して、みんなでがんばろうよ。」
一番しぼられていた砂元が明るく言ったので、
「そうだなー。」
「やるっきゃねえよなー。」
「がんばるべー。」
と、しごかれてへこんでいた一年生に少し元気が戻った。
こうなったら、開き直って、この寮生活に慣れるしかないな
と一平は覚悟を決めた。
「サァ、もうそろそろ寝ようぜ。」栗田が言った。
時計を見ると、朝の5時になっていた。
こうして、一平の寮生活第1日目はやっと終わったのであった。
娯楽室
「娯楽室、集合ーッ!」
また今夜も、この声で起こされた。
一平がここに来てから1週間ほどの間に、あと何人か新寮生が入寮してきた。
誰かが入寮してくる度に、1年生は全員娯楽室に集められ、自己紹介の練習と
寮生活の心得を叩き込まれていた。
ところが、新寮生が全員入寮してからも、毎晩のように午前2時頃になると
「娯楽室集合」の声がかかっていた。
一平は着替えるのがめんどうなので、この頃にはもう、服を着たまま寝るようにしていた。
集合がちょっと遅れただけでも、先輩の説教と正座の時間が長引くので、
集合がかかると1年生はみんな娯楽室にすっとんできた。
3階の娯楽室まで階段を駆け上ってこなければならない1階の1年生は、
毎回ぜーぜー息を切らして娯楽室に駆け込んできた。
この部屋は、娯楽室とは名ばかりで、1年生のしごき部屋になっていた。
集合した1年生は、全員正座をさせられて、いつものように自己紹介の練習をさせられた。
一通り練習が終わると、猪木が言った。
「きょう、大森駅で先輩に会って挨拶しなかった一年生がいる。
おまえら、緊張感が足りねえんだよ。」
「いつも言ってるように、こういうことは連帯責任だから、
これから全員2時間正座。みんなでよーく反省しろ。」
一平の隣に正座していた栗田が、一平の方をチラッと見て顔をしかめた。
たぶん、一年生全員が、
『えー、また今夜もかよー』と思っているに違いなかった。
「お前らが、ちゃんとしないと、俺たちの指導が足りネエって言われるんだよ。」
猪木が、少しふてくされた調子で言った。
たぶん、3年か4年の先輩に小言を言われたに違いない。
しかし、入寮して間もない1年生が、60人ほどいる寮生全員の顔と名前を
まだ覚えきっていないのはしょうがない話でなのだが、そんな理屈が通用するはずもなかった。
昨日は、便所の下駄がきちんと揃っていなかったといって2時間の正座をさせられた。
下駄を脱ぎっぱなしにするのは先輩の仕業に違いないのだが、
それをそのままにしておくと、1年生の連帯責任になるので、
このところ一平は誰かがトイレから出てくるたびに、トイレの
下駄をチェックするようにしていた。
トイレの向かいの部屋なんだから、自分がやるしかないなと一平は思っていた。
しかし、昨日は一平が大学に行っている間に、脱ぎっぱなしになっていた下駄を、
先輩の誰かが見つけたらしく、真夜中に娯楽室集合がかかった。
トイレにタバコの吸殻が落ちていたとか、とにかく1年生がやっとこととは思えないことでも
連帯責任で、全員が正座をさせられた。
一平は、中学の頃から剣道をやっていたので、正座には慣れていたが、
それでも2時間、3時間正座を続けるのは苦痛だった。
ましてや、今まで家でさえ正座などしたことのない連中は、
最初の30分で音を上げて、畳に手を突いたり、体をよじったりして
何とか苦痛から逃れようとしていた。
それを、木刀やバットを持った先輩が見咎めては、こずいて回っていた。
これではまるで、昔の軍隊の新兵いびりと同じだと一平は思った。
理由なんて何だっていいわけで、ただ2年生は、去年自分たちがやられたことを、
一平たち新寮生にやり返しているだけなのだろう。
1年間浪人をした末、やっと東京の大学に入ることができた一平が、
心に思い描いていたバラ色の大学生活の夢は、最初から見事に打ち砕かれていた。
一平は、両足の痛みに歯を食いしばり、
結局自分は、この悪夢のような寮生活に耐えていくしかないんだろうな
と思いながら正座を続けていた。
寮祭-新寮生歓迎コンパ
一平が入寮して1ヶ月ほど経った頃、この寮で
「寮祭」
と呼ばれている「新寮生歓迎コンパ」が開かれた。
歓迎コンパというからには、それなりにもてなしてもらえるのかな?
と思っていた1年生にとっては、それはとんでもない誤算だった。
「寮祭」当日、食堂にある6つの大きなテーブルの上には、
ビール瓶と一升瓶がずらりと並び、たくさんのおつまみと料理が用意されていた。
そして、各席には、割り箸とコカコーラの大きな紙コップが置かれていた。
全員が割り当てられたテーブルに着席すると、
「それでは、今から恒例の新入生歓迎コンパを開きます。」
という幹事の挨拶で、「寮祭」は始まった。
「ウォーッ!」という歓声と、大きな拍手が上級生の間から沸き起こった。
一平もつられて手をたたいた。
「それぞれ、ビールを注いで下さい。それでは乾杯の音頭を管理人さんにお願いします。」
指名を受けた管理人さんが、バリトンのよく通る声で言った。
「新寮生の諸君!東京学生寮へようこそ!
わが寮の伝統を汚すことなく、しっかり勉学に励み、
充実した寮生活を送ってください。」
「それでは、乾杯!」
「かんぱーい!」
皆がいっせいに、紙コップをささげて、ビールを飲んだ。
と、その途端、各テーブルの上級生たちがいっせいに立ち上った。
同じテーブルに座っていた、2年生の畑梨が、
「オイ、空けろよ。」と一平に向かってビール瓶を突き出してきた。
「娯楽室」で叩き込まれた注意事項の中に、
『寮祭で先輩から酒を勧められたら、必ず自分のコップの酒を飲み干してから受けること。』
というのがあった。
一平は、教わったとおりあわてて残りのビールを飲み干すと、
コップを両手で持って差し出した。
畑梨は、「がんばれよ。」と笑いながら一平にビールを注いだ。
すると、その直ぐ後ろで待っていた3年の沖田が
「サァ、飲めよ。」
と、すぐに注ぎにきた。
一平は、
「いただきます。」
というと、またビールを一気に飲み干した。
見ると、どのテーブルでも、1年生のところに上級生たちが群がって、ビールを飲ませていた。
ビールは、あっという間に無くなり、上級生たちは、今度は一升ビンを持って、
各テーブルを回りだした。
酒を飲むのは初めてという1年生も何人かいて、
その中でも、一平の目の前に座っていた勝野は、
ビールだけで、すでに真っ赤になっていた。
先輩に日本酒を注がれた彼は、一口飲んでは息を継ぎ、
また一口飲んでは息を継ぎながら、一升瓶を持って立っている
次の先輩を待たせたまま、一杯目の日本酒を飲み干せずにいた。
隣同士に座った栗田と一平は、すでに4杯目の酒を飲み干していた。
勝野の飲み方に気がついた栗田が、
「勝野ぉ~、オメェ、飲んでんのかよ~!」と、勝野にむかって言った。
自分たちは気合を入れて必死で飲んでいるのに、
なんとなく逃げ腰で、なるべく飲まないようにしているようにしか見えない
勝野の態度を、なんか男らしくないなーと思っていた一平も、
「男だろぉーグーッといけよぉ~!」と勝野に言った。
その時だった。
勝野の隣に座っていた3年の神津が、すくっと立ち上がると
「こらあ~っ!そこの1年坊!なめてんじゃねえぞ!」と、
すごい剣幕で、一平たちのところに飛んでくると、
栗田と一平の襟首をつかんで、洗面所に引きずっていった。
先日、1年生による各部屋への挨拶回りがあったのだが、一平はそのとき、
神津のすごみのきいた目つきやら、ムスッとした態度から、なんとなく
怖くて近寄りがたい印象を受けていた。。
その神津の逆鱗に触れてしまったらしい。
「てめえら、何様のつもりだあ!、1年の分際で、でけえ口たたきやがって!」
神津は、左手で、一平の襟首をねじ上げると、右手の拳を握り締めた。
殴られる!
一平が、身体を固くした、そのとき、森崎が洗面所のドアを開けて、
「オイ、神津、もういいじゃねえか!せっかくのコンパがしらけるだろう。
こいつらも、酔っ払ってるんだから、勘弁してやれよ。」
と、助け舟を出してくれた。
森崎に言われて、神津は握り締めていた拳をおろした。
「ちぇっ!しょうがねえなあ!ちょっと焼きいれてやろうと思ったのによ。」
「おまえら、行け!」っと、森崎がドアのほうにあごをしゃくった。
「失礼します!」
一平と栗田は、礼をするとそそくさとその場を逃げ出した。
「ひえーっ!やばかったな~!」栗田が、ちらりと一平を見て小さな声でいった。
『口は災いの元』だとは、よくいったものだ。
ここでは、これから自分の言動には、よほど注意をしなければいけないと、
一平はこの時肝に銘じたのだった。
食堂に戻ると、1年の山野が大声で軍歌を歌っていた。
顔を真っ赤にして、身体を反り返らせ、ほとんどやけくそというくらいの勢いで、
「見よ落下傘、空を降り、見よ落下傘、空を行く~・・・」と、がなり倒していた。
一平が席に着くか着かないうちに、2年の猪木が一升瓶を抱えて、
「おい、どんどん飲めよ!」と、言いながら、酒を注ぎに来た。
「オスッ!ありがとうございます!」
一平は、目の前の紙コップにあふれるほどの酒を一気に飲み干した。
そうしているうちにも、一年生が次々に軍歌を歌い続けていた。
一平が小学生の頃、初めて買ったソノシートが、どういうわけか軍歌集で、
それをしょっちゅう聴いていたので、一平はたくさんの軍歌を覚えていた。
一平の番が回ってきたので、「加藤隼戦闘隊」の歌を大声で歌った。
「よーっし、いい声してるなあ、まあ、飲めよ。」
柔道部に入っているという2年の唐喜田がニコニコしながら一升瓶を差し出した。
「いい飲みっぷりじゃネエかあ。」
今度は、4年の三谷が、ニヤニヤしながら寄ってきた。
一平は、こうなったらどうにでもなれと、くらくらする頭で考えながら、
必死で飲み続けた。
しかし、次から次にコップ酒をあおるにも限界がある。
2年の有吉が酒瓶を差し出したとたん、突然胃のなかの酒が逆流しそうになり、
一平は、「失礼しますッ!」と叫ぶと、トイレに向かって猛ダッシュした。
トイレのドアを開けると、すでに1年生が3人洗面台に首を突っ込んで、げーげー
吐いていた、一平もその隣に滑り込んだ途端、胃の中のものが一気に飛び出した。
それはもう濁流といっていいほどの勢いで、一気に一平の口からほとばしり出た。、
洗面台の中は、すでに皆が吐いたゲロで半分ほどうまっており、その悪臭をかいだ途端
一平は、また力いっぱい吐いたのだった。
30数名いる上級生すべてが一巡するだけでも、
コップ30杯以上の酒を一気飲みしなければいけないわけで、
そんなことは出来るはずもなく、とにかく酒を胃の中に流し込んだら、
即、トイレに走って吐くという作業の繰り返しで、トイレまでたどりつけずに、
廊下で吐く1年生までいる有様だった。
何度目か吐いた後、一平が食堂に戻りかけると、成島が勢いよくドアを開けて走り出てきた
かと思うと、廊下に吐いてあった反吐に滑ってズデンとひっくり返った。そのとたんに吐いて
そこら中、反吐だらけにしてうめいていた。
「こりゃもうダメだな。こいつの部屋に放り込むぞ。そっち持て。」
成島の後に食堂からから出てきた猪木が言った。
一平と猪木は、成島を担ぎ起こすと、二人で両側から支えて
2階の部屋まで引きずるように運んでいった。
運ばれながら
「大丈夫っすよ。まだ、飲めます・・・。」
成島は、ろれつの回らない口で、ブツブツつぶやいていた。
「わかった、わかった。もういいから、寝ろ!」
猪木が、そう言いながら、成島の部屋のドアを開けた。
寮祭が始まる前に、1年生は全員自分のベッドの上に
新聞紙を引きつめておくように言われていたので、
成島の部屋にもベッドと床に、たくさん新聞紙がひきつめてあった。
成島を、新聞紙をひきつめてあるベッドの上に寝かせると、
「さあ、これから2次会だ、お前も来いよ」と、猪木が一平に言った。
『こうなったら、どうにでもなれ』一平は半ばやけくそで猪木の後についていった。
娯楽室に、残った酒やつまみを運んで、2次会が始まった。
4年の三谷などは、寮祭の始まる前に2次会用の一升瓶を1本確保していたようで、
栓を開けると、
「おい、一年坊、2次会に残るなんて、いい度胸してるじゃネエか。」
といって、一平に酒を勧めてきた。
周りを見ると、一年生は一平1人だけだった。
やばいと思ったが、いまさら逃げ出すわけにもいかなかった。
一平は、ぐっと酒をあおった。
親父のためとは言いながら、
人の嫌がる学生寮に、
つれてこられた悲しさよ
可愛いあの子と泣き別れ
朝は早よから起こされて、
ラジオ体操腕立てと、
いやな先輩にゃ、怒鳴られて、
泣く泣く暮らす日の長さ
猪木が、「可愛いスーちゃん」の替え歌を、いい声で朗々と歌うのを聞いて、
誰が作った替え歌か知らないけれど、まさにここの寮生活をピタリと言い当てている歌だなあと
酔っ払った頭で一平は思った。
先輩の話によれば、昔からこの寮は、悪名高き寮で、誰も入りたがらないけど
東京で下宿生活するには高いお金がかかるから、みんな仕方なくこの寮に入る
のだそうだ。
一平が、議員に頼んで入れてもらったのだと言ったら、
「ばっかだな~、おまえ! そんなことまでして、ここに入ってくる奴いねーよ。」
と、大笑いされてしまった。
猪木の歌に、一平がそんなことを思い出していたら、突然、
「花岸、歌います!」
と大声を張り上げて、この寮でただひとり
西京大学理Ⅰに通う2年の花岸が立ち上がった。
「イヤン、バカ~ン、そこは耳の穴、イヤン、バカ~ン、もっと下なのよ~。
イヤン、バカ~ン!そこは鼻の穴。イヤン、バカ~ン、もっと下なのよ~・・・」
っと、からだをくねらせながら、色っぽい声を出して歌いだした。
その途端に、2次会は大爆笑の渦に包まれた。
「イヤンバカ~ン、そこよそ子なのよ~、イヤンバカ~ン、もっと、奥なのよ~」っと、
歌の終わりになるにつれ、やんやの大喝采で、大いに盛り上がりだした。
花岸の歌が終わると、すぐ畑梨が立ち上がって、
「昨日、父ちゃんと寝たときに~、変なところに芋がある~、
とうちゃんこの芋なんの芋~、
坊やよく聞け~この芋は~、坊やを作った種芋さ~」と歌いだした。
それからは、春歌のオンパレードで、一平はこんなにたくさん春歌というものがあることを、
初めて知ったのだった。
ただ、一平の記憶も2次会の途中で途絶えており、気がついたときは、
新聞紙をひきつめたベッドの上で、朝を迎えていた。
割れるように痛む頭を持ち上げて、水を飲みにベッドから降りようとしたところに、
猪木がいきおいよくドアを開けて、
「1年生!起床ー!」とどなった。
「おッ!起きてんのか? 今から掃除だ、他の1年坊も皆起こせ!」
「オスッ!失礼します!」
一平は、部屋を飛び出すと、
「1年生、起床!」と呼ばわりながら、順番に部屋を回っていった。
成島の部屋のドアを開けて呼びかけても、返事がないので、2段ベッドの上を覗き込むと、
成島が、顔から髪の毛、枕まで反吐だらけにして眠っていた。
どうやら、眠っている間に、噴水のように吐いたようだ。
肩をゆすって、
「オイ、成島!起床!おきろ!」というと、
「うーん、」といいながら目を開けた成島は、
反吐の中に埋もれているのに気がついて
「げーッ、なんじゃ、これ?きったねー!」」
と反吐だらけの顔に寝ぼけ眼で叫んだ。
「憶えてねえよなー、お前すげえ酔っ払ってたもんなあー」
一平が笑いをこらえられずに噴出すと、
成島もつられて情けない笑い声をあげた。
猪木の指揮の下、1年生全員で食堂からトイレの掃除が始まった。
昨夜の惨劇の名残は相当なもので、廊下には反吐が乾いてこびりついており、
洗面所は吐しゃ物がつまって流れずに溜まったままになっていた。
トイレの中も反吐だらけで、それを掃除しながら、
そのにおいをかいでまた吐く連中も続出し、
まる一日がかりでやっとすべての掃除を終える始末であった。
二日酔いでフラフラしながら、掃除を終えた一平たちは、
「寮祭」とは、上級生が新寮生を肴に楽しむお祭りなのだということに、
ようやく気がついたのであった。
こうして、一平たち1年生は、「寮祭」というこの寮独特の洗礼を受け、
新寮生としての一歩を踏み出したのである。
嗚呼 花の学生寮 1