小さな神様と私
小さな神様と私
私が小さな神様と出会ったのは、中学一年生の時であった。
学校に行きたくなかった。クラスの皆が暴力を振るったり、酷い言葉を使ってくるからだ。
先生だって見て見ぬふり。そうだよね。先生って、教師になるための勉強しかしてこなかった大人の事を意味する言葉でしょう。
いじめを止める方法なんて知らないし、面倒な事には関わりたくない。
大人って、大きな子供なんだなぁ、と私には諦めがついていた。
「おい、頼島、金出せよ、金」
「えっ、もう、持ってないよ、全部君達に、あげたよ」
殴られた。頬の痛みと血の味が、私に与えられた僅かばかりの生きている証。
「ちょっと、頼島さん、こっち来ないで。疫病神なんだから」
「ごめんね、ごめん、でも、先生が、グループを作れって……言うから」
「だから何。私達のグループに入りたいって言うの、生意気」
投げつけられた、言葉のカッターナイフが、心に消えない痕を残していく。
「頼島のパンツ、今日は水色だったぜ」
「うわ、まじか、俺も見てこよう」
「やめてよ、やめてよ、やめてよ、やめてよ」
叫びは無視され、スカートに伸ばされる手が、気持ち悪い。
これが、私にとっての、学校での毎日だった。
地獄なんて呼び方ではぬるい。
だって、地獄では鬼達が一緒に暮らすのでしょう。
私は人間であり、その鬼の世界に放り込まれた、おもちゃなのです。
「お父さん、もう学校には、行きたくない」
新聞紙越しの返事は、無関心だった。
「そうは言ってもなあ、勉強しないと、将来苦労するぞ。今で苦労しておけば、後々に助かるんだから、頑張りなさい」
お父さん、お父さん、本気でそう言っていますか。
私は、その将来を迎える前に死にそうです。
「お母さん、私、学校に行きたくないよ」
台所で皿洗いの事だけを考えている母は、いつだって心が汚れている。
「殴り返せば良いのよ、言い返せば良いのよ、やられっぱなしのあなたも悪いのよ」
お母さん、やられたからやり返す。その考え方で、本当に大人に成れたんですね。
それに、やり返せる状況だったら、胆力があったら、私はとっくに全員を……。
自室の勉強机に向き合って、鞄からノートを取り出す。
心身ともに満身創痍でも、宿題をやらないと、今度は「無責任な大人」から叱られるから。
ノートを開くと、赤ペンでびっしりと文字が書かれていた。
『頼島は学校来るな』
『死んじゃえ、ブス』
『明日は赤いパンツ履いてこい』
『うざい臭い暗い、良いとこ無し』
私は、このノートを、一握りの勇気を以てして、ゴミ箱に捨てた。
もう、何もかもが嫌になったから。これ以上耐えたら、耐えられずに壊れると思ったから。
「それで良いんだよ、頑張ったね、よく勇気を出したね」
声の主を探すために、そう苦労はしなかった。
まるで西洋絵画の様な構図で、この部屋の天井から、ゆっくりと小さな光が降りてきたからだ。
「は、ハハハ、アハハ、ふふふ、遂に私も、おかしくなっちゃったかな。幻が見えるよ、幻の光が見える。でも、なんだかとても綺麗で、優しい気持ちになれるなあ」
光の存在は、私の手元まで降りてくると、パッパッパッ、と光を散らして、会話してくれた。
「私が誰なのか、気になるかい」
「なんとなく分かる。神様でしょ。それも、小さな神様だ」
光は嬉しそうにパチパチと粒子を撒いて、私の右手に触れた。
「大正解。君がノートを棄てたから、その勇気に応じて、やっと姿を現す事ができたのさ」
その日の夜は、私と小さな神様はずっと語り合った。
生きるとは、どういう事か。
私が生きるために、どうしたら良いか。
朝が来ても、もう怯えないために。
「お母さん、今日は天気が良いみたいだね。今は曇っているけれど、正午過ぎから晴れるんだって。なんだか嬉しいね」
母は、私の変化に追いつけていなかった。今まで、実の娘に対しては無関心だったくせに。まあ、今となってはどうでも良いけれど。
「お父さん、お母さんが作ってくれるご飯を、当たり前だと思ったらいけないよ。私だって、この卵焼きひとつを、それはもう最後の晩餐の様に嚙みしめて生きているんだから」
父は、私が何を話しているのか、まるで理解できていなかった。
恥ずかしい。大人になっても、心が成長していないんだ。
「じゃあ、学校に行ってきます」
清々しい笑顔で玄関から飛び出していく私を、父母はどの様な顔で見送ったのだろうか。
いつもの登下校に使う街路が、私の眼で見ると、勇ましい出陣の行進曲が流れる大通り。
今の私には、怖いものはない。
……いや、本当は、怖いんだ。怖いよ。けれどね、このままだと、本当に私の人生は台無しにされてしまうし、私はきっと、悔しい涙を流しながら、早くこの世を去ってしまうだろう。
だから、これから学校に行く私は、ただいじめっ子達に虐げられるために行くのではない。
無責任な大人達、職務を放棄している大人達を相手に、歯を食いしばるために行くのではない。
私は、生きるために、今日を最後にと決めて、学校に行くのだ。
お前達、覚悟しろ。
私は覚悟を決めた。
「おーい、今日も頼島が来たぞ、皆、あいつを見るな、眼が腐るぞ」
「うわ、うざっ。なんであいつ学校に来るの、意味わかんないんだけど」
教室に入れば、クラスメイト達からの罵詈雑言の集中砲火。
知らぬふりをする、目を逸らしている他の同級生達も、何故かクスクス嗤っている。
良いさ、お前達、驚くなよ。
私は、昨日までの頼島とは、違うぞ。
担任も教室に入ってきた。いつも通り、私には目を合わせない。
それで良いさ、今日という今日は、刮目させてやるのだから。
私は椅子から勢いよく立ち上がり、黒板の前に仁王立ちした。
「先生、クラスの皆。私は今日を最後に学校に来ません。もう二度と登校しません」
一瞬だけ、世界の時間が止まった。
いつも惨めに縮こまっていた私が、態度を大きく行動しただけで。
「頼島、何を言っているんだ、ほら、出席を取るから早く席に戻れ」
すると、他の生徒達も、やっと呼吸することを思い出したかのように、次々に罵声を、野次を飛ばしてきた。
「頼島ぁ、先生を困らすなよ。皆の迷惑でもあるんだぞぉ」
「そうだよ、いくら自分が馬鹿だからって、授業を止めて皆を馬鹿にしないで」
私の心のすぐ傍で、小さな神様が囁いてくれた。
「よく頑張った。怯えないで、私がしっかりと君を支えている。
君は復讐をせず、暴力や侮辱を受け入れず、確固たる意志を伝えた。
君の勝ちだ。彼らの負けだ。勝敗は決した。さあ、家に帰ろう。
何を言われても、振り返ってはいけないよ。
生徒たちは、愚かだ。この先生だって、愚鈍だ。
君は勇敢な一人の人間だ。堂々と、胸を張って、さあ、家に帰ろう」
神様の助言は正しい、と私は自分でしっかり考えた上で納得した。
私は鞄だけを手に取り、早歩きで、教室を後にした。
廊下を通り過ぎて、学校の門を通過して、そのまま、いつもの街路を歩いた。
世界が、輝いている。凱歌が聴こえる。
私、今になって涙が止まらない。
初めて美しいと思えた世界を、眦を決して見つめながら、感涙に頬を濡らす。
私は、頑張れた。やっと頑張れた。
暴力も、罵声も、無慈悲も、全てに対して挫けてきた私が、やっとの思いで。
心底から勇気を奮い立たせて、皆の前で宣言して見せた。
「神様、小さな神様、私、勝ったよ」
明日からどう生きようかなんて、考えなくて良い。
明日には明日の選択肢があって、考える時間があって、生きるための命と心があるんだ。
学生生活が破綻していたことは、既に自力では変えられない事実だったのだ。
この地獄を自力で止める事ができた。その事実を喜ぼうじゃないか。
それに、今日は正午過ぎから、空は晴れるらしい。
いつも俯いて歩いていた私には、天気なんて、これっぽっちも分からなかった。
小さな神様と私