愛で満たして

愛で満たして

Happy is the man who finds a true friend,
 and far happier is he who finds that true friend in his wife.

親友を見つける男は幸せである。
妻に親友を見出す男はより幸せである。

Franz Peter Schubert
(31 January 1797 – 19 November 1828)

激しく絡み、そして縺れ合った情事の後の気怠げな空気が、広さにして凡そ八畳のベッドルーム全体を包みこむ午前零時ちょっと前。
此の世に生を受けた時と同じ格好をした黒曜は、同じく此の世に生を受けた時と同じ格好をしたモクレンの身体を軽々と持ち上げるなり、其のまゝつい先程、バスに暖かなお湯が溜まり終えたばかりの浴室へとやって来た。
そしてひと言、冷蔵庫に冷やしてあるミネラルウォーター持って来るから、一先ず良い子にしといてくれ、と浴室に常備してある背凭れのついた黄褐色のバスチェアにモクレンをそっと腰掛けさせた。

他に欲しいモノは?。

鏡に浮かび上がった世界で一番美しくそして愛らしいと信じてやまない人物の「尊顔」を拝み乍ら、黒曜が言った。

今は別に。

モクレンはそう言って軽く首を回すと、右手で自身の首筋に付けられた幾つかの接吻マークにそっと触れ乍ら、改めて自身を溺愛している人間がいざとなると、如何に獣〈ケダモノ〉染みているかを再認識した。

了解。

世界で一番美しい宝石類を手に入れる事が出来た冒険者の様な優越感を胸に抱き乍ら返事をした黒曜は、軽い足取りで冷蔵庫の前へとやって来るなり、ガチャン、と言う鈍い音を軽く響かせ乍ら、瓶詰めのミネラルウォーターを二本取り出し、冷蔵庫から漏れる透明色の燈を頼りに瓶の蓋を開け、再びガチャンと言う音を響かせ乍ら冷蔵庫の扉を半分だけ閉めた。
でもって此の場所へとやって来る迄の道中に二人して立ち寄ったお菓子屋に於いて、小腹が空いた時にでも、と購入をした金色の包み紙に包まれたチョコの入った箱の中へ、勢いよく手を突っ込むと、其処から十個程チョコを取り出し、白百合色の小皿の中へと包み紙を外したチョコを投げ込む様にして盛り付け終えたのち、落としてしまわぬ様にと言わんばかりに小皿と自身の分のミネラルウォーターの入った瓶とをぎゅっと握り締め乍ら其の場を移動した。

ただいま。

行きと同様、軽い足取りで浴室へと戻ってみると、モクレンは脚を組んだ状態で、おかえり、と返事をし、黒曜の左手に握り締められたミネラルウォーターをそっと受け取った。
そしてすっかり渇き切った唇に瓶の口を軽く押し当てると、長時間冷蔵庫に保管をしておいたお陰で、しっかりと冷えたミネラルウォーターを一気に半分程飲み干し、ん、と言って軽く喉を潤していた黒曜に瓶を手渡した。
左の掌をひんやりとした水滴が垂れる感触を味わい乍ら瓶を受け取った黒曜は、白銅色のバステーブルの上にモクレンの分の瓶と自分の分の瓶とをそっと置いて、右手を使いテーブル脇に置かれたチョコを盛り付けたばかりの小皿を持ち上げ、如何にも鍛えている人間独特のゴツゴツとした左手の親指と人差し指で掴んだチョコを、つい数十分前迄貪るだけ貪った大層形の整ったモクレンの唇の前迄差し出し、どうぞ、ひと口、と口の中へと運んだ。

御味の方は?。

優しい聲色で黒曜がそう問うと、モクレンは口をもぐもぐと動かし乍ら、旨い、とだけ答え、もっと寄越せと言わんばかりに自身の前へと黒曜が差し出した小皿の中の残りのチョコを鷲掴みをし、巨大な鯨が餌となる魚を平らげるが如く大きく口を開けるや否や、其れを一気に口の中へと放り込んだ。
放り込んだチョコを口の中に於いて咀嚼をし乍ら、実に満足げ且つ幸せそうな笑みを浮かべるモクレンの姿と顔とを見惚れる様にして鏡越しに観察していた黒曜は、空っぽになった小皿を自身の分の瓶の脇へと慣れた手付きでサッと置くと、黙ってモクレンの分の瓶を手渡し、小皿同様、瓶の中身が空っぽになったのを確認したのち、其のまゝ瓶をテーブルの上へと戻した。

そんじゃそろそろ始めるかね。

其の言葉を合図にシャワーヘッドを握った黒曜は、しっかりと温度調節をしたお湯でモクレンの髪をじゃばじゃばと濡らし始めた。

湯加減の方は?。

此のまゝで良い。

熱過ぎず、かと言って冷た過ぎずな温度のシャワーヘッドからのお湯が自身の長髪を伝って大理石の床へ勢いよく流れていく中、海辺の貝殻の様に両の眼〈まなこ〉をしっかりと閉じた状態でモクレンがそう答えると、黒曜はひと言、畏まりました、と返事をし、丁寧にモクレンの髪を濡らした。
其の後時間にして凡そ五十分程度、物言わぬ像の如く黙りこくった状態で黒曜はモクレンの身体を文字通り隅々迄綺麗にする作業に集中をした。

夢が叶うキスを 僕にしてくれないかい?
そしてそのキスを心の生きがいにするから
愛しい人よ これ以上は求めないから
どうか夢を描くキスを

浴室の天井に設置された漆黒色のスピーカーから、黒曜がモクレンからの「お任せで構わないから何か曲を流せ」と言うリクエストに応えるカタチで流し始めたルイ・アームストロングの『夢を描くキッス』の浮遊感溢れるサウンドが二人きりの浴室に鳴り響く中、黒曜が右手にコカコーラの入った瓶を、左手にはモクレンの右手を握った状態で、湯船に薔薇を浮かべると言う何ともまぁ気障な仕様を施したバスにゆったりと浸かっていると、左手にまだ僅かしか口を付けていないコカコーラの瓶を左手に握ったモクレンがひと言、良い湯加減だな、と誰に言うともなさげな口調と聲色で言った。
其の言葉を耳にした黒曜は、すかさず、そうだな、と返事をすると、飲み始めてから此れにて三口となるコカコーラを淡々と喉へ流し込み、冷蔵庫の中のウヰスキー、まだ半分残っているが、ウヰスキーコークにして呑んでも良いか、と「お伺い」を立てた。
モクレンは此れ又淡々とした口調で、好きにしろ、と「お伺い」に対して「許可」を下すと、しっとりとした色合いになった唇を押し当てつゝ瓶の中のコカコーラがほんの僅か残る程迄一気に腹の中へと流し込んだのち、瓶を壁際のバスの縁に置き乍ら、つくづく良く呑むオトコだな、お前ってヤツは、前世は蟒蛇〈うわばみ〉だったんじゃないか、と微笑を浮かべてみせた。

良く言うぜ。
お前さんだって大飯喰らいの白蛇だって言うのによ。

黒曜がそう「やり返す」と、其れは舞台の上での話だろうが、とモクレンは言い返した。

ま、お前さんが大飯喰らいの白蛇だろうがそうじゃなかろうが、気にはしねぇし、誰にも触れさせはしねぇけどな。

大層間抜けな言い草だな、ドヤ顔で「仰る」其の割には。

あっはっは。
調子が戻って来たな、お嬢さん。

五月蝿い、オッさん。

こんな「軽い」やり取りを交わしたのち、ざぶん、と言う音と共に二人して湯船から上がると、紺色のフェイスタオルで素早く自身の身体を身綺麗にし、嵯峨鼠〈さがねず〉色のバスローブを纏ってみせるや否や、洗面台の戸棚から涅色のバスタオルを一枚取り出すなり、宛ら美術館の職員が骨董品に触れるが如くソフトな仕草で、華奢な様に見えて実にタフでしなやかなモクレンの肉体からポタポタと零れ落ちる水滴を綺麗に且つ慎重に拭き取り始めた。

擽ったくはねぇか。

洗面台の脇に設置された防水加工の施された紺碧色のデザインが特徴的な時計の黒色の針が、ハイヒールを履いた人物が道行く時よろしく、カツカツカツ、と時を刻む音と重なる様に黒曜がモクレンに対してそっと聲を掛けると、モクレンは浴室で身体を「洗わせてやった」時同様、眼を瞑ったまゝ、いや、とだけ答えたので、あいよ、と黒曜は返事をして使い終わったバスタオルを濡羽〈ぬれば〉色のボックスの中へと放り込み、事前にコンセントを差し込んでおいた卯の花色をしたドライヤーの電源を入れた。
モクレンが寝間着に着替え終え、且つカチッと言うドライヤーの電源が入った際の音と共に、大中小、で言う所の「中」位の風がドライヤーから放たれたのを洗面台の鏡越しに確認をした黒曜は、水滴を拭き終えたばかりのモクレンの長髪を今一度真剣な表情を浮かべつゝ、黙々と乾かし始めた。

溺れる程に、愛される、か。

先程とは打って変わって薄目をそっと開けたモクレンは、自身にだけ垣間見せてくれる黒曜の真剣な表情に対し、其の様な感想と優越感を深い深い胸の奥底で抱くと、又じっと眼を閉じた。

終わったぞ。

そうこうしているうちに髪を乾かす作業はひと段落した。
閉じていた眼をしっかりとモクレンは、黒曜の顔をじっと見据えつゝ、有難う、と御礼の言葉を述べるや否や、今度は私がお前の髪を乾かしてやろう、と言った。

機嫌が良いんだな。

ドライヤーを手渡し、モクレンが髪を乾かし易い様、夏の日の木の葉を彷彿とさせる若葉色の折り畳み式のビーチチェアへどっしりと腰掛けた黒曜が言った。

感謝しろよ。

感謝するよ。

時間にして凡そ十五分程度。
きめ細やか、と迄はいかないものの、モクレンなりに丁寧に時間をかけて黒曜の髪を乾かす間、モクレンとは対照的に眼をがっつりと見開いた状態で黒曜はモクレンの動きを観察し、且つモクレンが自身へ施さんとする「優しさ」をしっかりと堪能をした。

有難うな、気持ち良かったぜ。

薄茶色のフェイスタオルで今一度自身の顔を拭き取った黒曜が、コードを纏めている最中のモクレンにそう聲を掛けると、モクレンはほんの少しだけ照れ臭そうに、そうか、と呟く様に言った。
其れから黒曜は一人で空っぽになった瓶だの小皿だのと言った物を片付けたのち、モクレンが待つリビングへと移動をし、心地良い空調の風が互いの頬と髪を撫でる中、シックなデザインの有線のスピーカーへと接続をした自身のスマートフォンからジーン・アモンズの『トラベリング・ライト』を流し乍ら、呑み直し、と称してウヰスキー・コークを拵えだした。

其れにしても明日から丸々一週間、『スターレス』とも第二レッスン場とも二人して御別れか。
其れで店が回るってんだから、否が応でも感じるぜ、時の流れ、と言うより時代の流れってのをよ。

瑞西〈スイス〉製のウヰスキー・グラスに注いだばかりのウヰスキー・コークを、黒曜がモクレンの退屈凌ぎにと自室から持って来た
タブレット端末で、黒曜が現在舞台で演じようと取り組んでいる林不忘原作の長篇小説作品『丹下左膳 こけ猿の壺』を読み進めていた丸眼鏡を掛けたモクレンへと手渡すと、モクレンはグラスを受け取り乍ら、他の人間が如何動き回ろうと知った事か、休む時は休む、踊る時は踊る、メリハリがついて丁度良い位だろう、と言った。
尚、モクレンが掛けている丸眼鏡は、新衣装で臨んだ夢野久作の長篇小説『ドグラ・マグラ』を楽曲原典に据えた『白晝夢』の再演の際に使用をした眼鏡をベースに、黒曜が『スターレス』の熱心な常連客でかつ著名な眼鏡屋に勤めている中年の女性店員のツテを利用して制作させたモノで、単なる丸眼鏡とは訳が違うのだった。
自身の分のウヰスキー・コークを注いだばかりのウヰスキー・グラス片手に、モクレンからの言葉を耳にした黒曜は、ふぅ、其れもそうだな、と呟く様な聲量で納得する様な素振りを見せると、そんじゃ、乾杯、とモクレンの方へグラスを差し出した。

乾杯。

勢いよく喉にウヰスキー・コークを流し込んだが為に、互いの口の中一杯にコークの良い意味でのほろ苦い香りが漂う中、黒曜は近所の売店で購入をした山葵〈わさび〉味の『柿の種』を、和蘭製の大皿へと袋から取り出した際の、ジャラジャラと言う音を奏で乍ら盛り付け、ん、と言ってモクレンへ其れを差し出した。
モクレンは自身の鼻腔を山葵の香りが擽るのを感じつゝ、ん、と返事をし、クレーンゲームよろしく、盛り付けられた『柿の種』を左手でギュッと鷲掴みにすると、口の中に其れを放り込み、バリボリと咀嚼音を響かせたのち、ウヰスキー・コークで胃袋へと流し込んだ。

で、如何するよ。
明日以降。

漆黒色の伊太利亜製のソファーに腰掛けたモクレンの隣へと移動して来た黒曜が、横眼でモクレンの顔を見つめ乍らそう言うと、モクレンは今一度皿の上の『柿の種』を鷲掴みしつゝ、そうだな、取り敢えず職場復帰の事を見据える意味でも朝のロードワークはしっかりこなすとして、後は部屋でのんびりと言うのも悪くは無いんじゃないか、私の方は兎も角として、お前は此処の所、新人教育だ舞台演出だで随分と働き詰めだった様だし、と返事をし、『柿の種』を口の中に放り込んだ。
モクレンの言う通り、此処数週間の黒曜は何かと忙しい時間の使い方をしており、まともな休日を過ごせた試しは無かった。
黒曜は自身の頭の中に於いて、此処数週間の自身の仕事振りを軽く振り返りつゝ、お気遣いどうも、と御礼の言葉を添え、残りのウヰスキー・コークを一気に呑み干した。

とは言え、ダンスの技量が鈍っても仕方はあるめぇ。
だからお前のダンス・レッスン、久し振りに付き合ってやるよ。

腰掛けていたソファーからキッチンへと移動をし、二杯目となるウヰスキー・コークを拵えつゝ、今は亡き名優であるバート・ランカスターよろしく、ニカっと笑みを浮かべてみせた黒曜が言った。

ならクタクタになる迄「踊らせて」やる。

あゝ、望む所だ。

では契約成立に。

乾杯。

先程の乾杯同様、グラスを高く翳した二人はお互いにウヰスキー・コークを喉にゆっくりと流し込むや否や、身体をギュッと抱き寄せると、スピーカーから流れ始めたアート・ペッパーの『ワッツ・ニュー』の音源に合わせて、静かに踊り始めた。

腕を上げたな。

敢えて古めかしさを抱かせるデザインのチャイニーズ・ランプの明かりがモクレンの掛けた眼鏡のレンズを光輝かせる中、モクレンが言った。

其れ程でも。

黒曜は所謂「ワルメン」の時の面構えで返事をすると、海の潮が満ちて行くのと同じ様に自身の胸の内が愛で満たされていくのをひっそりと感じ取った。
時に二月九日。
此の日はモクレン三十六回目の誕生日であり、五年目の結婚記念日でもあった。〈終〉

愛で満たして

愛で満たして

満たし、満たされ、そうして「愛」は形取られていく…。まろやかな味わいを纏ったジャズの調べと共に繰り広げられる大人風味な黒モク小説。 ※本作品は『ブラックスター -Theater Starless-』の二次創作物になります。 ※独自設定,肌色要素あり。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 成人向け
  • 強い性的表現
更新日
登録日
2024-02-08

Derivative work
二次創作物であり、原作に関わる一切の権利は原作権利者が所有します。

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