羊の瞞し 第5章 CHAOTICな羊

羊の瞞し 第5章 CHAOTICな羊

(1)カオスへと

 どのような職業にも、存在する意義や目的がある。そこに共感や憧憬を抱き、加担しようとする働きこそ職業選択の動機となるはずだ。
 しかし、理想と現実のギャップは何処の世界にも存在する。簡潔に言えば、「期待外れ」という差異の実感だ。時間や空間、社会的地位、年齢など、そこに到達しないと見えないものは確かにある。いや、そこに至る道中でさえ、極端なギャップが発生することもある。
 仕事も同じだろう。それを「理想と現実」と割り切ることは、必ずしも容易ではない。戸惑い、悩み、意義を問い直し、ややもするとアイデンティティの崩壊にすら繋がり兼ねない……そんな人もいる筈だ。

 響は、ようやくピアノ調律師として仕事が回ってくるようになり、少しずつ活動の範囲を広げていた。ピアノに触れることさえなかった時期を経て、備品調律を任されるようになり、上司に同行した学校調律を経験し、嘱託調律師の不祥事も追い風になり、今では一人で個人ユーザーの外回り調律を行なっている。
 しかし、一つずつステップアップするに伴い、思い描いた姿からかけ離れていく現実に苛まれる様になった。
 響が、調律師の仕事に求めたもの……特殊な技術と感性を投入し、ピアノのポテンシャルを最大限に発揮させ、ユーザーに演奏の楽しさを知ってもらうこと。そして、演奏表現の幅を広げ、音楽を芸術としても娯楽としても享受してもらう為の存在……しかし、それらは単なる理想に過ぎないようだ。
 では、現実はどうだったのだろう?
 上司の梶山を見れば、一目瞭然だ。技術より話術を巧みに使い、最低限の音合わせを手早く処理し、質よりも量を求め、隙のない接客スキルに長けた営業活動だ。
 本格的な技術を活かす場はごく一部に限定され、また、技術が評価されるケースも殆んどない。身に付けた専門知識や高度な技術は、主に人を彩る「箔」として活用されるだけで、実務での使用は最小限に制限される。一方で、「箔」をチラつかせた言葉と振舞いで、いかにピアノが良くなったかと思い込ませることこそ、重要な技術なのだ。

 何よりも、そこには音楽文化を育む意識が致命的に欠如していると言えよう。技術より接客マナー——それはそのまま、父宗佑より梶山と換言出来る——が評価される世界、それがピアノ業界だ。
 果たして、ここに自分の居場所があるのだろうか?
 居るべき場所、居たい環境は見つかるのだろうか?
 知れば知るほど、夢から遠去かる世界。湧き上がる疑問と混沌とした我が身の境遇を直視出来ず、一般的な(ヽヽヽヽ)調律師に向かって流されていく日々に、響は殆んど抗うこともなく飲み込まれつつあった。

 そんな折、千載一遇のチャンスが転がり込んで来た。オーバーホールだ。掘り起こしで拾った顧客、柳井啓子のピアノをオーバーホールするプロジェクトは、榊の的確な指揮の元、全てが順調に進むことになった。
 響は、父に虚偽の依頼をした。
 生真面目な宗佑は、興和楽器の顧客のピアノをコッソリ直すなんて話をしたら、間違いなく請けてくれない。なので、榊の了承の元、新たに創設された「ピアノ専科」の顧客と説明したのだ。榊から、オーバーホールに対応出来る会社を紹介してもらえないか? と打診されたことにした。事務手続き上は嘘ではないし、宗佑は工賃の請求書をピアノ専科に出すことになるので、むしろ辻褄も合わせ易い。
 結果、宗佑は修理依頼を快諾した。オーバーホールと言っても、外装の塗装は必要ないと伝えた。しかし、内部は全て新調する前提で見積りをお願いすると、三十〜五十万円と幅を持って提示された。この金額差は、主に部品代の違いだそうだ。特にハンマーは、ドイツ製の最高級部品と国産の廉価物では、三倍前後も金額が違ってくるとのこと。他の部品も、どういったランクのものを採用するかにより、金額も仕上りも大きく違うそうだ。なので、逆に予算に応じて任せてもらう方が、やり易いと言っていた。

 この話を電話で榊に報告書すると、数時間後に立ち寄った時には見積書が作成されていた。しかし、その工賃は機械的に四割増しにされており、運送費二回分がプラスされていた。差額は、榊が抜くのだろう。当然ながら、そうする権利はある。そうだとしても、ちょっと抜き過ぎな気もする……勿論、口には出さなかったが。
 榊によると、社印も明日には出来るようだ。なので、響は柳井啓子へ電話し、見積書は直接ポスティングする旨を伝えた。直ぐに発送すると言ってしまった手前、消印が明日以降の日付けになると信用を無くす可能性もあると思ったのだ。そこまでチェックするとも思えないが、慎重を期すに越したことはない。
 幸い、このことは好印象に繋がったようだ。電話口で、「申し訳ないですねぇ、わざわざ御足労頂かなくてもよろしいのに」と、とても丁重な口調で労われることになった。
「いえ、たまたま近くを通りますし、郵送より確実で早いので。それに、わざわざご対面頂かなくても、ポストに入れておくだけですからお気遣いなく」と嘘の説明をした。こういうことがスラスラと口に出来るようになったのは、梶山のおかげかもしれない。
「ご親切な方ね。じゃあ、お手数ですがよろしくお願いしますね」と、柳井は響に好感触を与える穏やかな口調で言った。

 見積書をポスティングした翌日には、響の携帯へ柳井から着信が入った。一番良い方法で直してください——と。冷静を保つのが困難なぐらい、舞い上がりそうな興奮を必死に抑え、直ぐに契約書を持って行くことや、今後の手順を大まかに説明した。電話を切ると、真っ先に榊へ報告した。幾つかの指示を貰い、時間が空いたら契約書を取りに来いと言われた。
 そこからは、トントン拍子に事は進んだ。榊が用意した契約書にサインを貰うと、翌日には搬出の日時が決まり、数日後には響の自宅工房へピアノが届いた。

 宗佑は、ピアノを見るなり「ゲッ、これは酷いな」と悪態をつき、黙り込んでしまった。しかし、言動とは裏腹に、明らかに機嫌が良さそうだ。久し振りのオーバーホールの作業を、誰よりも宗佑自身が楽しみにしていたことは間違いない。
 響は、仕事の合間を縫っては、僅かな時間でも手伝うようにした。幸い、教室回りの時期ということもあり、時間の融通は付けられた。
 教室のピアノなら、適当に一時間程度で終わらす術も身に付け、ある会場では三台を一日で済ませたが、一台しか出来なかったと虚偽の報告をし、二日をオーバーホールの手伝いに費やした。会社にバレるとクビになり兼ねない、かなり悪どい「サボり」だが、それまで真面目に業務をこなしてきた信用からか、或いは、新人がそのようなサボり方をするわけはないという先入観からか、誰からも疑われることはなかった。
 流石に一般家庭の訪問調律は誤魔化せないが、それでも予定をギリギリまで詰め込む努力をし、時間の捻出に努めたのだ。
 榊の運送屋でのバイトも、教室の調律を口実に何度か休んだ。オーバーホールを手伝いたかったのだ。七月は、終業後に教室の調律を行なっていたことを知っている榊は、幸いなことに「まぁ、無理はすんなよ」と言って出勤を無理強いはしなかった。
 後にも先にも、榊に対して意図的に嘘を吐いたのはこの時だけだ。

 しかし、十一月に入ると、教室の調律は口実に出来なくなり、宗佑から学ぶ時間は激減した。十月上旬から始まったオーバーホールだが、十一月下旬には納品することになっている。なので、宗佑も響の予定に合わせているゆとりはなく、着々と進めるしかないのだ。
 そして、十一月中頃になると、いよいよOTTOMEYERは元の姿を取り戻し、最終調整に取り掛かることになった。ここまで、本体の木工修理から弦の張替え、アクションの総取っ替え、鍵盤パーツの貼り替えなどが行われた。一度、見事にバラバラにされた状態のピアノは、少しずつパーツを新調しながら作り直されたのだ。
 ここからは、音とタッチの繊細な調整になる。基礎整調と呼ばれるタッチの初期設定とも言うべき調整を始め、一次整音やキーウェイト調整など、ピアノ製造時またはオーバーホール後にしか行われない作業も多く、響は学びたいことだらけだった。しかし、仕事もバイトも穴を空けられず、毎日後ろ髪を引かれる思いで家を出るしかなかった。

 響の勤務体制は、十一月に入るとショップスタッフの仕事はほぼ無くなり、外回り調律と営業活動に終始した。木村のカードだけでなく、六人在籍している嘱託調律師の不定期カードや繰越カードが響に回され、月のノルマも四十台に上げられた。
 そう、今月からは目標数値ではなく、「ノルマ」なのだ。責任と義務を負うことになる。でも、逆に言えば、正々堂々と「調律師」という肩書きを名乗ってもいいだろう。梶山によると、三ヶ月続けてノルマ割れすると減給のペナルティがあるそうだが、実際のところ、ノルマを達成する重みや困難さは全くピンとこなかった。
 それでも、明確に分かっていることはある。ノルマの為には、何よりも顧客カードが必要だということ。不定期や繰越という計算出来ない顧客とは言え、響に顧客カードを提供しないといけなくなった嘱託調律師の心情を思うと、申し訳ない気持ちで一杯だった。
 しかし、楽器店にとっては、正社員と嘱託調律師の違いは残酷な程大きい。会社として、正社員の売上げを増やそうとする動きは当然のことだ。嘱託調律師も、それぐらい理解しているだろう。苦々しくも、不平など言える立場でもない……嘱託調律師なんてそんなものだ。
 それでも、社員としては働きたくない……と判断した上で選択した道のはずだ。響にカードを取られたと不快に思われても、無視するしかない。

 自己申告制の週休二日制度も、厳しいノルマを課せられた社員調律師は、ほぼ休みを消化出来ないのが実態だが、響はノルマ割れ覚悟でフルに活用した。そうでもしないと、オーバーホールの手伝いが出来ない。いや、手伝うのではなく、修理の技術を学びたいのだ。
 父が行う修理は、調律学校は勿論、興和楽器で普通に仕事をしていても目にすることのない、特殊で専門的なものだ。構造論、材料力学、設計など、外回りだけでは触れることのないピアノの根幹を理解し、その領域に手を加え、組み立て直す作業は、修理と言うよりも製造に近いカテゴリーに思えた。作業のどの部分を切り取っても、響にはとても新鮮で知らないことばかりだ。

 そして、ついにOTTOMEYERは蘇った。試弾した響は、その仕上がりに驚愕するしかなかった。
 俊敏なタッチから立ち上がる鋭角的で近代的な音色は、この楽器の外観と妙にマッチした。指に吸い付くような鍵盤のレスポンスは、奏者の意のままに音楽を表現してくれ、柔らかなペダリングは表現に繊細な変化を彩ってくれた。とても弾きやすい。そして、とても味のある音だ。普段聞き慣れているKAYAMA社のピアノとは、その方向性や質感からして、全くの別物と言えるだろう。
 響は、早速榊に報告を入れた。納品や支払いの手続きに関しては、全て取り仕切ってくれることになった。ただ、納品後の調律——業界用語で「納調」と呼ばれる無料の点検調律——は、自分で好きなように手配しろ、と命じられた。無料といっても、お客様にとっての無料だ。調律師には、ピアノ専科から幾らか支払われることになる。その手配を一任されたのだ。
 つまり、篠原に見せたいなら勝手に依頼しな、ということだ。

(2)嘱託調律師


 翌日、響は外回りの合間に、篠原の自宅を訪問した。ちょっとお会いして相談したいことがあるのですが……と電話すると、それならうちにおいでよ、と快く応じてくれたのだ。

「二十年以上も前のことですが、当時担当されていた柳井啓子様って覚えていらっしゃいますか?」
 篠原の工房に着いた響は、挨拶もそこそこに、そう訊ねてみた。篠原は懸命に思い出そうとしたものの、「う〜ん、ごめんね、思い出せないわ」と申し訳なさそうに答えた。
「これが、当時のカードです。スリープになってたのを先月掘り起こしたんです」
 響からカードを受け取った篠原は、急に通電した電灯のように、記憶が蘇ったようだ。これは、調律師にはよくある現象だ。
 年間数百件もの訪問調律を行なっていると、個々の客を全て把握出来ないのも当然であり、特に、スリープや休眠の客となれば数年後には完全に失念しても不思議ではない。しかし、カードやピアノを見ると、唐突に様々な記憶を取り戻すこともあるのだ。この時の篠原も、まさにそうだったのだろう。

「OTTOMEYER! 分かったわ! チークの猫脚の可愛いピアノでしょ?」
「そうです、それです!」
「確か、小学年の男の子が弾いてたんだよね。それで、そのピアノがどうかしたの?」
 古い記憶の蘇生が嬉しかったのか、篠原は嬉々とした笑みを浮かべながらそう聞いた。
「実は、その男の子がご結婚され、最近家を建てられまして、ピアノを持っていくことになりました。幼稚園に通うお嬢様がいらっしゃるようで、ピアノを習うそうです」
「へぇ、あの子、もう立派な大人なのか……嫌でも歳取るわけね」
「そんなわけで、移動の前に……そのぉ、興和楽器に内緒でオーバーホールしました。いや、えぇと、僕がやったんじゃなくて、先日お話しした知人にやって貰いました。なので、篠原さんに一度、ピアノの仕上がりを見て欲しいのですが、ただ見て頂くのではなく、個人のお客様として納調もお願い出来ますか?」
 嘱託調律師は、普段から一件の顧客を獲得する難しさを嫌という程思い知らされている為、この依頼は篠原に喜ばれるに違いないと踏んでいた。しかし、思いの外、篠原の反応は冷ややかで、少しの戸惑いも混ざっているようだ。

「えぇと……幾つか言わせて貰うわね。先ずね、あなたは興和の社員でしょ? 給料が少ないことは知ってるから、バイトぐらいなら私も咎めないけど、お客さんを取るのは悪質なルール違反よ。社員がそれやったら、業界で生きていけなくなるわ。会社には黙っててあげるけど、悪いけど私は巻き込まれたくないかな」
 予想外の台詞に、響は言葉を失った。それに、篠原こそルール違反を犯してるくせに、よくそんなこと言えるな……と少し怒りも覚えた。
「そういう私もね、ご存知の通り、運送は榊さんに任せて利鞘を抜いて、確かに興和の規約を守ってないわよ。でも、決定的に違うのは、私は嘱託なの」
「嘱託だからって、ダメなものはダメじゃないですか」
「道義的にはその通りね。でも嘱託はね、あなた達みたいに保護されてないの。むしろ、いい様に振り回されてね。今月だって、あなたが外回り始めるからって突然カードも没収されたし……知ってるよね? 嘱託全員ね、今月から一年間、毎月三件あなたに渡さないといけないのよ」

 梶山から、その話は聞いていた。しかし、嘱託が担当しているとはいえ、興和楽器のお客様であることには違いない。なので、恩着せがましく言われる筋合いはないと響は思った。
「……でも、繰越とか不定期ですよね?」
「はい? 何言ってるの? 繰越も不定期もね、ご家庭の事情などで、たまたまそういう分類になってるだけよ。定期と同じく大切なお客様なの。長年のお付き合いで、個人的な人間関係を築いて近況報告で長話に興じる方もいるわ。収入にも影響するし、嘱託には要らないカードなんて一枚もないのよ。でも、法的な所有権は会社にあるから、皆渋々従うしかない……悔しいけど、誰も恨んではいないわ。嘱託なんてそんなものって割り切るしかないの」
 確かにその通りかもしれない……と響は思った。
 事務的な分類上、たまたま定期月が多忙で翌月以降に延期となった方は、繰越カードとして扱われる。ご家族のご病気やお子様の受験などで、いつ調律出来るか分からない、でも、落ち着いたら連絡します……という方は、無条件で不定期カードに分類される。繰越や不定期だからと言って、定期客より希薄な関係ということにはならないのだ。

「でも……僕は、人から客を取るつもりなんてないし、ご迷惑ならお返ししますけど……」
「分かってないわね。新人が外回り始めるってことは、そういうものなのよ。じゃあさ、どうやって数百件もお客さん作るの? 響君の場合は、木村君のカードを引き継げるだけマシな方よ。それでも社員一人分には足りないから、嘱託全員が身を削らないといけないってこと。三件ずつ六人で十八件ね、毎月それだけの新規を自分で開拓出来るの? 無理でしょ? だから、会社もね、嘱託のカードを回さないと、あなたの仕事が作れないのよ」
 はっきりとそう言われて、響は目の覚める思いをした。確かに、ずっと外回りを希望していたが、その為には何よりもまず客が必要なのだ。そんな当たり前のことを考えもせず、会社を恨めしく思っていた自分が急に恥ずかしくなった。

「……そんなこと、考えてもいませんでした」
「そうは言っても、あなたが気にすることじゃないわ。キツイ言い方したけどね、皆んな元は社員だったのよ。分かってて嘱託を選んだのだから、自己責任よね。文句があっても、あなたにではなく、会社と嘱託の問題なの」
 篠原は、そう話すと遠くを見るような目で、少しの間黙り込んだ。
「もっと言うとね、嘱託の十八件のうち、きっと半分ぐらいはあなただと調律させてもらえないわ。断言してもいい。あなたが劣っているからじゃなくて、調律師とお客様の関係ってね、個人と個人としての付き合いでもあるの。担当が変わるなら調律やめる人もいるでしょうし、頑なに元の担当者に戻せ! って抗議してくる人も出てくるわ」
 何も言い返せない響は、ただ頷くしかない。篠原の話は、全て正論だ。実際、木村から引き継いだお客様に電話していても、ここまでで何人もの方に断られていた。理由は、篠原の話の通りだ。

「話逸れちゃったけど、言いたいことはね、元々は、カードの没収は絶対にしないって約束だったし、毎月の台数保証とか販売時の掛け率とか、会社都合で予告なしに勝手にコロコロ変えられてね、興和楽器も嘱託への規約違反は沢山犯してるっこと。お互い様だから何やってもいいって意味じゃなくて、こんな感じだと、いつ契約を切られてもおかしくないってヒヤヒヤしながら仕事してるの。それにね、興和が嘱託を減らすなら、真っ先に私でしょ。主婦だし年長者だもんね。そういう覚悟も常に持ってるのよ」
「そんな、篠原さんが、まさか……」
「そんなに甘くないよ。明日クビになっても不思議じゃないわ。嘱託なんてそんなもの。ただね、だからこそ自分のポリシーは守りたいの。私はね、木村君みたいに数千円の為じゃなくて、自分で修理したいから榊さんに頼んでるのよ。実際にね、修理の取れない移動だけの依頼は、全て梶山君に任せてるわ。それでクビになるなら仕方ないけど、そうじゃないことで、わざわざクビになるようなことはゴメンだわ。悪いけど、その仕事はお受け出来ません」
 そこまで言われると、響には何も言い返せなかった。篠原を危険な目に合わす訳にもいかないし、自分の立場もヤバくなる。でも、ピアノはどうしても篠原に見て欲しい。

「分かりました。失礼なお願いをして申し訳ございませんでした。でも、仕事は抜きで……例えば、納品前に少しお時間を頂いて、篠原さんに試弾して頂くのは無理でしょうか?」
 すると、篠原は大袈裟に溜息を吐き、ゆっくりと噛み砕いて言い聞かせるように話した。
「いいわ、そこまで言うなら見るぐらい見てもいいけどね、そもそもOTTOMEYERなんて直す価値ないでしょ? 知ってるの? どんなメーカーなのか」
 これは、響には意外な話に聞こえた。確かに、経験の浅い響には馴染みのない名前だが、柳井の話では、ドイツ製の名器とのこと。
「ドイツ製の高級ピアノですよね?」
 そう答えると、篠原は(せき)を切ったように笑い出した。何故笑われたのか理解出来ない響は、反射的にムッとして、露骨に不機嫌な表情をしてしまった。
「もう、冗談じゃないわよ! そうね、まだ新人だもんね。笑ってゴメン、でもさ……OTTOMEYERなんてメーカーは存在しないの」
 まだ怒りの収まりきらない響は、憮然とした態度を隠さずに「もう潰れたってことですか?」と訊ねた。
「そうじゃなくて……あのね、こういうピアノはたくさんあるのよ。催事場とかでね、得体の知れないメーカーにドイツっぽい名前を付けて、ドイツ製と騙して販売する業者が全国にあるの。値段も滅茶苦茶に付けて、一点限りとか言って何十万も値引きして、大抵はチェコ製か中国製か韓国製、北朝鮮製なんてのもあったわ。たまに日本製もあったけど、それこそとっくに潰れた三流以下のメーカーね。OTTOMEYERもそんな類のピアノで全く価値のない駄作ピアノよ。確か、韓国製だったかしら? 昔の韓国製はね、外装は綺麗に作られてるけど、本体の木工には難があって、オーバーホールしてまで使う楽器じゃないわよ」
 響は、篠原の話に少なからず動揺した。ドイツ製の名器と思い込んでいたピアノが、実は韓国製の三流ピアノだったなんて、まさに寝耳に水だ。それに、そういう詐欺紛いの商売が蔓延していることも初耳だ。新人とは言え、調律師として恥ずべきことかもしれない。
 何より、OTTOMEYERの品質を全く見抜けなかったことに未熟さを痛感し、オーバーホールを勧めたことが悪事のように思えたのだ。
 一方で、前日に試弾した時に得た感触は、響の中では確信に近い信頼があった。元はどういうピアノであれ、宗佑による修復の結果、とても良い楽器に仕上がっている。その点は、疑いようのない自信があった。

「そんなピアノだったとは、全く知りませんでした。お客様の話を鵜呑みにして、僕まで騙されていたんですね。何とも情け無いです。でも、それならそれで、やっぱり見て欲しいです。そんなダメなピアノだったとは思えないぐらい、素晴らしいピアノに生まれ変わっています。お願いします! 見に来て下さい!」
 ついに根負けしたのか、篠原は苦笑いを浮かべ、じゃあ、今日の夜でも良いかしら? と聞いてきた。
「榊さんにお願いして、バイト休ませてもらえれば、今晩御案内します!」と響は答えた。
「ちなみに、そのピアノは、今はどこにあるのかしら?」
 響は、もう隠し通せないと思い、正直に話した。
「実は、僕の自宅にあります。今晩バイトが休めたら、車で迎えに来ます。よろしくお願いします」
「分かったわ、響君には敵わないな。こちらも運送でお世話になってるしね。じゃ、連絡待ってるわ」

 幸い、篠原は響の自宅にピアノがあることを、一時的に保管しているぐらいに考えたのだろう。まさか、そこで響の父が修復したとは思うまい。だが、このまま黙っておくことも出来ない。いっそのこと、今ここで父のことを説明しようか迷ったが、何となく話を切り上げるべき雰囲気になっていたため、やめておくことにした。
 どのみち、数時間後には何もかも話さないといけない。成り行きに任せることにした。

(3)再会


「響君って、笠木に住んでたんだ?」
 助手席に乗った退屈そうな篠原が、沈黙に耐えかねたのか、或いは無理矢理話題を引っ張り出す為か、どうでもいい質問をしてきた。
「そうなんです。もう五分ぐらいで着きますよ」
 榊にすんなりと休みの許可を貰え、終業後に再度篠原を拾いに家へ寄り、二人で響の自宅に向かっているところだ。

「すみません、こんな時間に連れ出しちゃって。ご主人とお子さん、大丈夫でした?」
 今日の夜を指定したのは篠原だが、一応礼儀として、今更ながら響は詫びておいた。
「主人にはメールしたし、どうせ帰宅は夜中よ。それと息子はね、大丈夫も何もあなたより年上よ。構いたくてもね、もうとっくに構わせてくれなくなったわ。うちはね、親の子離れより子の親離れの方が早かったみたい」
 最後の方は、少し淋しそうに篠原は言った。響としては、儀礼的に「大丈夫ですか?」と問い掛けただけで、篠原の家族に関心があったわけではない。
 だが、その何気ない一言がきっかけで、何時ものベテラン調律師ではなく、普通の主婦、普通の母親としての所帯染みた篠原を垣間見た思いがした。すると、突然苛立ちと懐かしさが撹拌された感情に包み込まれ、コントロールの効かない不安感に動揺した。
 篠原は、梶山の一学年先輩だと聞いていた。と言うことは、おそらく宗佑よりは五〜六歳若いことになる。美和は宗佑より四つ歳下だったので、篠原と美和はほぼ同世代なのだ。普段は仕事を通じての付き合いだけなので気にすることもなかったが、篠原がふと母親の顔を見せた時、響は深層の何処かで美和を連想したのかもしれない。

「でもさ……この辺は興和のエリアじゃないし、もっと近くに住めばいいのに。しかし、笠木市かぁ、長らく来てなかったかも……」
 ありがたいことに、響のちょっとした異変に気付かない篠原は、話題を仕事の話に戻してくれた。
「笠木にもお客さんがいるのですか?」
「数人いたけど、みんなスリープになっちゃった。それよりね、笠木市と言えば、昔、先輩が……あっ! えっ? 響君……ねぇっ! まさかさ、響君って……」
 どうやら、篠原も父を知っているらしい。これ以上は、隠し通せないだろう。響は、正直に話をすることにした。
「もう到着しますよ。篠原さんも父をご存知なのですね?」
「えぇー! ウソだ、そういうことなの? ……あなたもお父さんも名字で呼んだことなかったので、全然気付かなかったじゃん! もう、びっくり。いやだ、じゃあ、今から宗佑さんにお会い出来るの?」
 どうやら、昔の宗佑は、皆から下の名前で呼ばれていたようだ。道理で、榊を始め、宗佑を知る人物が周りにいたにも関わらず、誰も響との関係に気付かなかったのだ。しかも、独立して十五年も経っている。それ以前の父は、榊や篠原の話振りからすると、おそらくこの近辺の楽器店に勤めていたようだ。そして、少なくとも二人からは尊敬されていたような印象を受けた。
「多分、家にいますよ」
「ウソっ! やだ、緊張しちゃうじゃないの。なんでもっと早く言わないのよ。ってか、皆んな知ってたの?」
「榊さんしか知らないです。社長にも梶山さんにも言ってません」
 いや、勘の鋭い梶山は、ひょっとしたら気付いているのかもしれない。
「そうなんだ……でも……こんなこと聞いたら失礼かな? 宗佑さんって、もう引退されてるよね? 美和さんにも会えるの?」

 この業界は狭いので、同業者同士の何らかの接点は否応なしに発生し、県内の調律師なら面識はなくとも互いに名前ぐらいは伝え聞くものだ。しかし、そういった話題の俎上(そじょう)に宗佑の名前が上がることはないのだろう。それぐらい、宗佑の仕事量は少ないということだが。
「いえ、もう殆んど仕事はしてませんが、バリバリの現役です。母は離婚して出て行きました」
「え? 宗佑さん、美和さんと離婚したんだ……。でも、現役でお仕事は続けられてるのね。営業エリアが違うからかなぁ、全然話に出ないから……ってことは、ひょっとしてさ、そのOTTOMEYERって宗佑さんが直したの?」
 質問に答える前に、丁度到着した。少し離れた所に駐車場を借りているが、この時間なら、少しぐらいは家の前に路駐していても大丈夫だろう。
 響は、古い店舗付き住宅の目の前に車を停めた。この一階部分を改造して工房として使っており、仕上がったばかりのOTTOMEYERが、奏者が来るのを待ち侘びている。

「すみません、話の途中ですが到着しました。えぇ、オーバーホールは父が行いました。今シャッターを開けますので、少しお待ち下さいね」
 響は車を降り、古めかしいシャッターをガラガラと開けた。シャッターの中には更にガラス戸がある。響はガラス戸も解錠すると、真っ暗な工房に足を踏み入れ、慣れた足取りで壁に近付き照明のスイッチを入れた。
 かつては響の秘密基地だった小さな工房は、味気ないぐらいに一瞬で明るくなった。すると、否が応でもチークのピアノが目に付いた。
「すごわね! チェーンブロックもあるし、バフもサンダーもあるし、良い工房じゃないの!」
 簡素な工房で内職的な作業を行う篠原にとって、ここはとても立派で充実した工房に映るのだろう。目的のピアノには目もくれず、勝手に工房内を隅々まで歩き回り、機材や設備を楽しげにチェックしていた。
「ねぇ、篠原さん、とりあえずピアノを見てくださいよ」
 少女に戻ったかのように嬉々とした表情を浮かべ、工房を探索している篠原を、響はピアノへと促した。想像以上に、篠原はこの仕事が好きなのだろう。その純粋さに、響は好感を持ったが、同時に少しの羨望も抱いた。こんなに迷いがなく、仕事を楽しめていることに。
「そうだったわね、ごめんごめん、えぇと、じゃあちょっと弾かせてもらうね」

 (おもむろ)に鍵盤蓋を開けた篠原は、両手半音階の上下動で指慣らしをしたと思いきや、間髪入れず、シベリウスの「(もみ)の木」を弾き始めた。
 内省的で抑制されたレントの導入部は、雄大な大地の歌に合わせ丁寧に和音を鳴らし、いかにも調律師らしい響きと唸りの干渉を確認しているような演奏だ。ゆったりと物哀しく進行し、陰鬱なのに澄んでいる風景がそこに広がる。
 しかし、中間部の激しいアルペジオに突入すると、音楽の表情は一変した。北欧の樅の木々の合間を冷たい風雪が吹き抜けるかのような、ストイックで厳しい冬の情景を想起させる演奏だ。氷のように、鋭利に尖った音で刻まれる表層の凍えるような冷たさとは裏腹に、内面には熱い感情が沸々と渦巻いている。
 熱は動力であり、エネルギーでもある。表面の冷たさは、止まると直ぐに全てを凍結させる。内面が燃焼し続けるからこそ、この音楽は突き進むのだ。

「外装、外してもいい?」
 途中で弾き止めた篠原は、響の返事も待たずに上前板を取り外した。弦やアクションの仕上がりを確認するのかと思いきや、軽く一瞥しただけだ。そして、鍵盤蓋も外した。更に、「ドライバー貸してよ」と手を伸ばす。鍵盤押さえも外すつもりなのだろう。ドライバーを手渡すと、無言で鍵盤押さえを外し、何かを確認したのか、納得したように小さく頷いた。
 篠原は、何を見たのだろう? そもそも、何故外装を外したのだろう? 響は、その疑問について直接訊ねようと思ったが、一足先に篠原が喋り始めたので質問を飲み込むことにした。

「素晴らしいわ。タッチの反応も音も鋭敏ね。確かに、とてもOTTOMEYERとは思えないわ。鳴りは抑えられてるけど、駒とか響棒をしっかり接着し直したのかしら?」
「すみません、どういうことですか?」
「この時代の韓国製のピアノはね、弦の張力に負けて中音やベースの駒が引き剥がされることが多いのよ。響棒も接着だけでネジ入れしてなくて……まぁ、もっとも響棒はネジ止めされてないのが一般的だけどね、接着が弱いと響板から浮いちゃうのよ。音はスカスカになるし、パワー出ないし、それに凄い雑音が混じることもあるのよね。このピアノもそうなってた筈。でも、今は弦の振動が響板に上手く伝わってる感じがする。その辺の木工を完璧に直したのでしょうね。ただ、その影響で弦圧が殆んど0になったのかな? それか、ストレスを取るために敢えてそうしたのかな。鳴りがやや弱いのはその所為でしょうけど、このピアノなら最善策ね」
 篠原の説明は、響には難し過ぎて半分も理解出来なかったが、何より少し弾いただけでそこまで見抜いたことに感嘆した。

「流石だね、篠原君。その通りだよ」
 その時、いつの間にか工房に降りてきていた宗佑が、突然話し掛けてきた。
「あっ! 宗佑さん!」
 名前を呼ばれた篠原は、嬉しそうに宗佑の元へ駆け寄った。
「ちょっと! もぉ、全然連絡もないから、調律師辞めたと思ってましたよ! それに、息子さんがいたこと、どうして黙ってたんですか! しかも、それが響君だなんて……ビックリと言うか、唖然と言うか……」
 口調とは裏腹に、篠原はとても嬉しそうな表情を浮かべている。
「すまんすまん、響がお世話になってるみたいだね」
「ホント、びっくりしました。改めて……ご無沙汰してます。こんな所で開業されてたんですね。もう、十五年ぐらいになります? 全然知りませんでした」
 響は、二人の会話を不思議そうに聞いていた。面識があるのだろうとは思っていたが、予想以上に親しかったのかもしれない。
「ねぇ、二人はどういう関係なの?」
 すると、篠原は呆れた顔で宗佑に詰め寄った。
「まさか、自分の息子にも何も話してないの? もぉ……ひょっとして、隠してるんですか?」
「いやいや、別に何も隠してはないけど、そうだな、わざわざ言ってこなかっただけだよ」
 篠原は、これ見よがしに大きな溜息を肩から吐いた。そして、響の方を向き、とんでもない話を語り始めた。
「あのね、響君、あなたのお父さんの宗佑さんは、昔の私の上司で師匠なの」
 全く予期せぬ篠原の話に、響は「えっ⁈」と言ったきり、絶句してしまった。
 篠原と父が同僚だった?
 と言うことは……父は、興和で働いていたったこと?
 響の中で様々な思いが駆け巡り、混乱した。
「何ポカンとしてるのよ。宗佑さんはね、愛楽堂で働いていて、興和に買収されてからは興和の社員として外回りしていたのよ。私も梶山君も、その時の部下。木村君も榊さんもそう。もっとも、私は愛楽からのお付き合いですけどね」

 あぁ、そういうことか……と簡単に納得出来る話ではない。父と篠原や梶山の関係を知り、目眩を起こしそうになった。それに、木村や榊も父の部下だったなんて……そう言えば、榊に父のことを知っているのか? と訊ねた時、「知ってるも何も、親父さんに聞いてみな」と言われたのだった。
 自分の息子が調律師になり、古巣の興和楽器に採用されたというのに、宗佑はそのことを誰にも話さなかったし、そもそも当時から子どもがいることすら明かしてなかったようだ。
 そもそも、響は美和の扶養に入っていたので、会社にも伝えていたなかった可能性がある。仕事とプライベートを、完全に切り離していたのだろう。それはそれで宗佑らしいと思うのだが、それにしても度が過ぎているし、社会常識に欠けている。
 果たして、会社勤めをしていた頃の宗佑は、どのような人物だったのだろう? 親子なのに、詳しく聞いたことはなかった。響が小学生に上がって間もない頃、この家に父は工房を築き、開業した。それからの父の仕事は、ずっと近くで見て育ったが、それ以前の話はほとんど聞いたことがなかったのだ。
 息子として、ではなく、新人調律師として、「松本宗佑」という調律師のキャリアを知りたくなった。なので、二人に沢山の質問を投げ掛け、昔の話を聞き出した。
 二人の想い出話を基調とした長い会話の中から、少しずつ——しかも、想像を補いながらとは言え——ぼんやりと浮かんでは消える昔の宗佑の姿を、朧げに掴むことが出来た気がした。

(4)父の過去


 松本宗佑の調律師としてのキャリアは、高校卒業後に国内最古の手造りメーカーである「SCHWECHTEN」へ研修生として入社したことから始まった。そう、宗佑は手造りピアノの製造現場で研鑽を積んだ経歴を持つという、当時でも数少ない(現在ではほぼいないであろう)タイプの調律師なのだ。あらゆる修理に長けているのも、ピアノ製造の全工程を知り尽くしているからに他ならない。
 当時、国内では戦後最大の好景気を背景に、ピアノ需要が爆発的に増えた時代に差し掛かろうとしていた。時代の要望に応え、大手メーカーがオートメーション化によるピアノの大量生産に世界で初めて成功し、安価で良質なピアノが続々と発売され始めたのだ。地道な手作業で高価なピアノを製造していたSCHWECHTENは、完全に時代に取り残されたと言えよう。
 やがて、販売台数を激増させている大手メーカーとは裏腹に、SCHWECHTENの経営は不景気に傾き、規模を縮小せざるを得なくなった。それでも、SCHWECHTENの確かな品質は一部の愛好家や専門家に高い評価を得ており、積極的に販売していた楽器店もあった。その一つが愛楽堂だ。

 一方で、大手メーカーの攻勢はますます激化した。
 全国網での特約店制度や教室の運営など、展開力も卓越しており、小規模のメーカーは太刀打ち出来ず、次々と閉鎖に追い込まれた。SCHWECHTENもその一つだ。抱え込んだ負債は回収不可能な額にまで到達し、ついには惜しまれつつも倒産した。
 最後まで工場に残り、SCHWECHTENピアノを作り続けた数名の職人達は、新たな人生を模索した。倒産を機に、引退した者もいた。また、辛うじて生き残ってる他の小規模メーカーに、再就職した者もいた。独立開業した者も、楽器店に入社した者もいた。業界から身を引き、完全に転職した者もいた。しかし、大手メーカーや特約店への寝返りは、工場仲間から裏切り行為のように忌まれ、嫌われた。
 そんな中、宗佑はSCHWECHTENピアノに理解のあった愛楽堂に引き抜かれ、就職することになった。外回りの調律をしながら、技術部長として後進の指導にも当たり、修理も行うことになったのだ。

 だが、愛楽堂の経営も決して万端ではなかった。取扱うピアノは、ヨーロッパ製の輸入物をメインに、高価でも良品質のピアノに拘り、徹底した調整での行き届いた保守を心掛けていた会社だ。不具合が発生すると徹底的に修理し、ユーザーの要望に応えた音とタッチを作り上げることを第一義的に考えていた。
 こういったスタンスは、サービス業として至ってマトモなようでいて、経営的にはバカ正直なやり方だ。何より、時代にそぐわなくなっていたのだ。
 高度経済成長期の日本では、いつしかピアノは「高嶺の花」ではなくなっていたのだ。むしろ、所有してこそ中流階級の証のような象徴に成り下がっていた。なので、ピアノの所有に求められるものは、かつてのように音楽的な表現力や芸術的な品位、高級家財のイメージではない。この時代、ユーザーのピアノへの要望は、工業製品としての信頼性と耐久性、そして、優れたコスパへと変貌していた。
 大手メーカーの特約店は、こういった世の中の流れを上手く掴み、急成長を遂げた。興和楽器もその一つだ。コスパに優れたピアノを大量に販売し、飛ぶように売れたのだ。
 実際に、興和楽器のような大きな特約店では、納調だけで月に40〜50台以上も予定が組めたそうだ。そして、購入者は、まるでそれが義務であるかのように音楽教室へ通い、「グレード」という名のランク付けにより競争心を煽られた。調律の必要性を説かれ、また上達の早い子は、折を見て、グランドピアノへの買換えを勧められた。
 普及率の激増は、アフターサービスも追いつかない状態になり、メンテナンスは音合わせだけで精一杯だった。調律師の絶対数が著しく不足しており、メーカーは短期間で最低限の技術を詰め込んだ調律師を大量に養成した。彼らは、現場では念入りな調整はもちろん、修理なんて出来る筈もなく、そもそも修理を学ぶ技術者さえ減少していったのだ。意欲や向上心の問題ではなく、時間が確保出来なかったのだ。
 愛楽堂も、この過渡期をどう乗り切るかという困難な岐路に直面していた。今までの真っ当なスタイルでは、もうやっていけないのだ。そんな折、KAYAMA社から話を持ち掛けられた。特約店契約を結ばないかと——。
 迷った挙句、経営陣は特約店になる決断を下した。そして、KAYAMAの看板を掲げ、マニュアルに沿った音楽教室も開講すると、それまでに培った伝統と誇りをあっけなく打ち砕くぐらい、労せずにピアノは売れ、教室は僅か数日で定員となり、調律も回り切れないほどに受注が溢れた。
 もっとも、愛楽堂に限った話ではなく、全国の大手メーカー特約店が、そんな感じの超絶なバブル状態だったのだ。

 愛楽堂の決定とは裏腹に、宗佑は特約店を毛嫌いしていた。大手メーカーによるピアノの量産化と特約店の販売能力の所為で、SCHWECHTENは倒産したのだ。
 一方で、宗佑は結婚したばかりでもあった。仲間を裏切るような罪悪感に苛まれつつも、生活の安定を選択する必要を感じ、特約店勤務を続けるしかなかったのだ。せめてもの抵抗として、KAYAMA社の意向には従わず、メンテナンスの時間をタップリと取り、徹底した調整を行うスタンスを貫いた。必要な修理は行ったし、買換えを勧めることはしなかったのだ。
 そんな宗佑の頑な姿勢に、経営陣も手を焼いていたが、引き抜いてきた手前、放任するしかなかった。それだけではない。実際のところ、宗佑の仕事は勤勉で着実だった為、レスナーからの絶対的な支持も確立していたのだ。

 やがて、更に大きな転機が訪れた。なんと、同じエリアの特約店である興和楽器が、業務提携を打診してきたのだ。
 これには、メーカーが裏で手引きしていたという噂もあった。メーカーとしても、同じエリアで同じピアノを競合されてもメリットは少ないのだ。
 また、会社の規模は数倍違うとは言え、抱えている客層は対象的だった故に、互いに魅力的にも映ったのだろう。興和楽器は、これからピアノを始める若いファミリー層がメイン顧客だったが、愛楽堂は、ピアニストやレスナー、音楽家、愛好家などの専門家や上顧客が多かったのだ。つまり、補完し合う関係だった。
 両者の思惑に大きな齟齬はなく、話はトントン拍子にまとまった。表向きは合併と発表されたが、実質は興和楽器が愛楽堂を買収したのだ。愛楽堂の名前は完全に消え、旧店舗は興和楽器三原池店としてリスタートすることになったのだ。
 これにより、宗佑の立場も変わった。興和楽器には、宗佑よりキャリアも長く、KAYAMA本社の研修センターで研鑽を積んだ調律師が厚遇されていた。愛楽堂のトップ技術者だった宗佑も、年功序列の興和楽器に入ると三番手になったのだ。
 同じ特約店とは言え、方針も勤務体制も全く違う会社に吸収されたのだから、退社も検討した。しかし、プライベートでは、妻の美和が響を身籠った時期だったのだ。何事もリスクを嫌う宗佑は、結局残留を選択した。

 興和楽器での技術サービスは、愛楽堂とは全く異なり、薄利多売の典型のような形態だった。特に、外回り調律師の業務は厳しかった。
 外回り調律は、可能な限り一日四件、最低でも三件は組まなければならず、月に七十台の調律がノルマだった。一件当たりの滞在時間も六十分を目安に、最長でも九十分までと定められ、月に二台以上の販売も調律師のノルマになっていたのだ。
 宗佑のスタイルは、この特約店の方針に合うはずがない。全ての項目を全くクリア出来ず(と言うかしようともせず)、経営陣には事ある毎に叱責された。しかし、宗佑の技術力には、皆一目置いていた。技術部長でさえ、宗佑に勝てないことを認めていたのだ。それに、技術的な困難に直面すると、部下であれ上司であれ、皆宗佑に助けを求めたのだ。
 また、いつしかコンサートや発表会の調律も、演奏者から宗佑が指名されるようになり、会社としてもクビにしにくい存在で完全に持て余していたのだ。

 しかし、宗佑を苦境に追い込む調律師も存在した。宗佑より六つ歳下の彼は、愛楽堂を買収する前から、興和楽器の若手エース格の調律師ではあった。宗佑程の技量はないが、トーク力に優れ、清潔で嫌味のない身嗜みと天才的な人心掌握術により、瞬く間に人気調律師に成り上がったのだ。
 彼は、社長や取引先からの受けも良く、顧客からの信頼も厚く、先輩達を差し置いてメーカーの技術研修も優先的に受けさせて貰えたのだ。
 だからこそ、愛楽堂からやってきた宗佑の存在は、彼にとっては目の上のたんこぶだったのだ。ろくに営業成績を残さないクセに、皆から慕われ、尊敬を集め、何よりも有無を言わせぬ技量があったのだ。
 それだけでない。やがて、レスナーからの技術的な信頼も勝ち取り、彼の担当していたピアニスト達も宗佑の調律を望むようになった。彼がどう足掻こうと、技術では宗佑相手に勝ち目がなかったのだ。

 一方で、これからの調律師は、技術よりももっと人間力が求められスマートな接客対応が必要になるはず……彼はそう信じて疑わなかった。そのうち、宗佑は不要な人材になるはず……そう確信はしていたが、しかし、それまで待つつもりもなかった。元来からプライドが高く、野心的で功名心の旺盛な彼は、どうしても宗佑から仕事を奪い返したかったのだ。
 それからというものの、彼は社長やメーカーの担当者に取り入り、宗佑の成績の悪さを巧みに吹聴した。そして、さり気無く、自分の功績を擦り込み、宗佑がいなくなると、もっと会社は良くなるはずだと信じ込ませた。
 こういった処世術に関しては、天才的な才能があったのだ。それに、数字に残る実績だけを見ると、宗佑は悲惨な状況だったことも事実だ。ピアノ販売数は極端に少なく、調律実施台数もノルマに大きく及ばない。
 次第に、宗佑は社長に干されるようになった。顧客を失い、コンサートや発表会の仕事も回されなくなり、代わりにそれら全てが彼の元に戻されたのだ。

 そして、数年後、宗佑は妻の名義で住宅ローンが下りたのを機に興和楽器を退社し、独立開業を果たしたのだ。その裏には、会社に内緒でずっと交流を重ねてきた、SCHWECHTEN時代の仲間達の後ろ盾もあった。彼らの中には、丁度引退を考えていて顧客を引継いでくれる調律師を探していた人もいた。他の仲間達からも、何件か紹介をもらえた。なので、ギリギリだが、独立開業してもやっていけそうな目処が付いたのだ。
 しかし、宗佑は開業することを興和楽器の関係者には誰にも話さなかった。これ以上、特約店との関わりを持ちたくなかったのだ。
 部下の大多数は、突然の宗佑の退社を悲しんだ。技術的なアドバイザーとして、また精神的な支柱として、宗佑の存在は大きかったのだ。特に、宗佑を師と仰ぎ、崇拝していた篠原は、ショックのあまり休職する羽目になった。後に、嘱託として復帰するまでに半年以上を要したぐらい、篠原の精神的ショックは大きかった。

 しかし、部下の中でただ一人だけ、勝ち誇ったようにほくそ笑んだ人物がいた。宗佑を陥れた張本人だ。
 彼こそが、梶山茂だった。

(5)歯車は回り出す


 いつの間にか、夜十時を回っていた。既に、二時間以上も話し込んでいたことになる。そろそろ篠原を自宅まで送らないといけない。
 響にとって、二人の話は有意義だった。父の技術力の偉大さが確認出来、ピアノ業界の矛盾や不条理を知り、業界の歴史も少し知ることが出来た。
 また、入社当初は憧れ、尊敬した梶山の本性も明らかになった。元々、仕事で接点を重ねるに連れ、技術者としても社会人としても、その「思い」は鉛筆の線を消しゴムで消すように、日毎薄れてはいた。それが、今晩で完全に消滅したと言えよう。薄らと残った筆圧の跡さえも、きれいさっぱり消滅し、上から全く違う「思い」で書き塗られた。最初の「思い」なんて、もう何処にも見ることは出来ない。

 OTTOMEYERの外装を取り付けようとした時、響はふと思い出したことがあった。篠原は、何故外装を外し、何を見たのだろうか? 忘れないうちに、篠原に尋ねてみた。
「あぁ、響君は知らないのね。宗佑さんはね、昔から自分で修理したピアノには、サインを残すの。最低音の鍵盤の中座板とアクリルの間……ほら、コレ。このサインがあれば、宗佑さんが直したんだなって分かるんだ。久し振りに見たかったのよ」
 そう言って篠原は、最低音の鍵盤の真ん中辺りを指差した。外装を付けた状態なら、丁度鍵盤押さえに隠れるであろう場所に、確かに何かが書かれていた。それが、宗佑のサインらしい。
 上手く読み取れない崩した筆記体のサインだが、響はそれに見覚えがあった。間違いなく、あの体育館のピアノだ。納調から数年間、どうやらあのピアノは宗佑が手掛けていたようだ。
 数ヶ月前の夏の記憶が蘇る。初めての外回りで見た調律カード。榊の名前を見つけ、愛楽堂という会社を知り、学校のピアノでは考えられないような丁寧な調整が繰り返されていた記録を見た。当時の担当調律師こそ、宗佑だったのだ。それに引き換え、梶山の指示とは言え、自分の行ったメンテナンスは何て無責任な手抜きだったのだろうか。
 響は、一調律師として自分自身を情けなく思った。調律を適当に終わらせ、不具合を認識しながらろくな修理も調整も行わず、掃除と外装には入念な手入れを施すメンテナンス。ピアノの保守、保全の名の下にコンディションを整え、保持させることがメンテナンスのコンセプトだとすれば、響の行ったことは、梶山の指示とは言え、そう見せ掛けようと装っただけだ。
 欺瞞に満ち溢れた作業……いつかの榊の話の通り、楽器店が求める調律師の仕事は、行き着く所は、結局は欺瞞なのだ。なので、高く評価されるのは宗佑ではなく梶山、成功するのも数字を残すのも梶山だ。力と影響力を育み、説得力を持つのも梶山だ。そして、彼の言動こそが「正義」となり、彼の仕事のスタンスこそが「理想」と看做されるのだ。その真逆に位置するのが、きっと宗佑なのだろう。
 では、響が調律師としてこの世界で生きていく為に、どのようなスタンスで立ち向かうべきなのだろうか?
 響は、宗佑にも梶山にも成りたくなかった。

 突発的に舞い込んだオーバーホール……この一件の仕事を機に、様々な歯車が回り始め、響の周りの環境は混沌とした激動期を迎えた。
 急遽立ち上げた「ピアノ専科」を発展させたい榊、再び動き始めた宗佑のピアノ工房、業務への利用を企てる篠原、そして、技術の研鑽に利用したい響。四者の思惑は違っても、ピアノの修理やオーバーホールを行いたい思いは共通していた。そのおかげだろうか、OTTOMEYERを納品してからも、宗佑の元には毎月のようにオーバーホールの仕事が舞い込んでくるようになった。その殆んどが、篠原の功績だ。

 宗佑の愛弟子だからだろうか、篠原もまた、予てから特約店の技術サービスの在り方に疑問を抱いていた。もっとも、宗佑のように不器用でも頑固でもない。むしろ、したたかさと要領の良さ、柔軟さを具え、世渡り上手な面も持つ篠原は、特約店でも上手く立ち回ることが出来ていた。
 その一方で、嘱託になってからは、積極的に修理を個人の仕事として取り入れていた。ピアノは買い替えるよりも直して使うべき……その理念に沿った営業活動だが、特殊な設備や技術を要するオーバーホールまでは、なかなか受注出来ずにいたのだ。
 しかし、軽く打診をしていた客はたくさんいた。篠原自身は、この行為を「種蒔き」と呼んでいる。今直ぐにどうこうするのではなく、将来を見越してそれとなく深層の何処かに様々な意識を植え付けておくのだ。
 実際に、修理も買換えも紹介も、唐突に飛び込んでくることは稀なケースと言えよう。なので、篠原は数年掛けてジワジワと成熟させるやり方を採用していたのだ。蒔いた種は、いつか芽を出すかもしれないし、タイミングが合えば収穫に繋がるかもしれない。その可能性に賭けるのだ。
 もちろん、一向に芽が出ないケースは当たり前のようにあり、そこに過度の期待も寄せていない。ただ、根付かせることが最優先なのだ。
 その反面、ごく稀に、直ぐにオーバーホールを希望されることもあった。そんな時は、止むを得ず、浜松にあるピアノ工場へ外注を出していたそうだが、篠原自身、それがベストな対応とは思っていなかったようだ。確かに、思い出の詰まったピアノを蘇らせ、再び使って貰うという根本的なコンセプトからは外れていないが、事業として見直すと、浜松に外注を出していてはどうしても利益も少なくなるだろう。
 更に言えば、自分では出来ない技術とは言え、出来る人なら誰でも良いから依頼したい、というわけでもないのだ。オーバーホールは、作業する人のセンスにより、仕上がりは激変するのだ。なので、可能なら技術者を選びたいが、そもそもオーバーホールが出来る人なんてそう多くはいないのだ。
 しかし、宗佑が工房を営んでいることを知ると、全てが一気に解決した。榊に頼めば運送コストも抑えられ、作業代金も宗佑の場合は融通が利く。何より、技術面に絶大な信用を置いている。なので、篠原は数年に渡り打診していた顧客に、オーバーホールを強く勧めるようになったのだ。
 すると、種がいつしか芽を出し、良い感じに育っていた客もいた。刈り入れ時を迎えていたのだろう。続々と、オーバーホールの受注を取ることが出来たのだ。

 宗佑は、大昔の開業時程ではないにしろ、週に数件の外回り以外は工房に篭りきりで作業を熟し、毎日が多忙になった。しかし、修理作業に追われる日々は、宗佑が望んでいた生活でもあり、数年振りの充実感を戸惑いながらも味わっていた。
 一方で、それは篠原が率先して取ってくる仕事の恩恵に過ぎず、決して自分の功績ではないという当たり前の事実を次第に見失うようになった。引き替えに、「全て俺のおかげだ」と本能の奥深くに潜んでいた増長魔が顔を出すようになり、慢心に溺れることもあったのだ。
 そもそも、宗佑には人間的に大きく欠落している部分がある。境遇が下火になり、困難や貧窮に面しても受け止めることが出来ず、現実逃避して目を逸らすのだ。根拠のない妙な自信と楽天的な考えに支配され、悲愴感に襲われることもない。どん底に叩きつけられても根本的な問題と向き合おうとせず、常に「何とかなるだろう」と思い込んでいる。
 そのくせ、たまたま運良く好転すると、全てが自分の手柄のように思い込むのだ。それを維持し、発展させる努力は放棄し、地に足つかずに浮かれてしまい、盲目になる。
 その一方で、ピアノに取組む姿勢に関しては、いつも全力投球だ。ビジネスライクに捉えることは出来ず、一切の手抜きも妥協も許さずにとことんまで追求する。根っからの職人なのだ。調律師としての技術や判断には揺るぎない自信を持っており、それは宗佑の評価にも繋がってきたのだが、しばしば足枷にもなった。
 宗佑の自賛や慢心はともあれ、篠原がオーバーホールの仕事で潤ったのは事実だ。自営や嘱託の調律師は、やった分だけ儲かるように思われがちだが、裏を返せば、やった分しか入ってこないのだ。
 彼らは、毎月調律を組めそうなカードがほぼ予測出来る為、そこから売上や収入も大凡の計算が出来てしまう。だからこそ、臨時的な販売や修理による想定外の収入は、フリーの調律師にとってはボーナスのようなものだろう。篠原にとって、こういった臨時収入の増加は、宗佑という稀代の調律師が身近に存在しているからこそ可能になったのだ。

 もう一人、宗佑の工房を上手く利用して発展を遂げた人物がいた。榊だ。興和の顧客のピアノを、秘密裏にオーバーホールする為に開業したピアノ専科は、目的を達した後も宗佑を上手く利用して急成長を遂げていた。
 元々、木村や篠原の運送の仕事を受けてはいた。篠原がオーバーホールの仕事を取るようになり、宗佑の工房に運び込む仕事も増えていた。だが、それだけでは十分ではない。ピアノ専科の屋号を取得したのを機に、本格的にピアノ運送の仕事にも参入したのだ。
 しかし、興和楽器などの楽器店には専属契約を結ぶ運送屋が必ず存在する為、そこへの割込みは厳しいと予測していた。と言うのも、そこに介在する条件は、価格や技術だけではないからだ。日本の社会に独特の、「長い付き合い」に優ることは至難の業と言えよう。
 だからこそ、榊は、最初から別のルートを開拓するつもりだった。楽器店から仕事を貰うのではなく、一般客から受注するのだ。折しも、ピアノの売れ行きは頭打ちの時代を通過し、右肩下がりに転じていた。メーカーや楽器店から依頼された納品だけで潤っていたピアノの運送屋も、仕事が激減していたのだ。
 その一方で、ユーザー間でのピアノの移動は増加傾向にあった。元々、木村や篠原がこっそりと榊に依頼していた運送も、この類の仕事だ。つまり、ピアノを楽器店で購入するのではなく、使わなくなった知人や親戚から譲り受けるケースが増えていたのだろう。
 しかし、いざピアノの移動を、と思い立っても、当時は楽器店に相談するしか選択肢がなかった。一般客に向けて、広く集客を募るピアノ運送会社は、殆んど存在しなかったのだ。ここに、榊はビジネスの活路を見出したのだ。
 その時代、急速に広まりつつあったインターネット上にホームページを開設し、更にはタウンページや新聞広告、フリーペーパーなどにも広告を載せたピアノ専科は、一般家庭からの運送依頼が殺到した。それ程、需要が眠っていたのだろう。県内移動は八千円という低価格のインパクトも奏功し、供給が追い付かないぐらい多忙になった。
 幸いなことに、後追いをする運送屋も出てこなかった。それぐらいの価格で受注出来る運送屋は、幾らでもあるだろう。だが、当時の殆んどの運送屋は楽器店と提携していた為、どうしても価格を下げられないジレンマがあったのだ。と言うのも、楽器店が一般客に提示する金額を無視出来ないからだ。
 仮に、一般客から直接運送屋に依頼があったとしても、運送屋は提携する楽器店が定めた運送費を提示せざるを得ないのだ。実際に配送するのは運送屋だが、客から受け取る代金は自分では決められないという歪な縛りがあった。下手すれば、楽器店の評判を陥れることになるからだ。

(6)ピアノの修理

 楽器店と運送屋の歪な関係について、具体的な例を挙げてみよう。
 楽器店Aが、運送屋Bと業務提携を結んでいるとする。Aの業務でピアノの運送が必要な時は、全てBに依頼するという取り決めだ。見返りに、Aからの依頼に関しては、Bは通常より安く請けることが約束されている。
 仮に、県内移動は一万円で請けることと決めたとしよう。しかし、Aは客からは二万円で請けるのだ。つまり、差額の一万円はAのマージンになる。便宜上、分かりやすい数値で説明しているが、さすがにここまで差額を抜くことはなく、実際は30〜40%がマージンになるケースが多いのだが。
 もっとも、ピアノの運送屋の仕事は、ほぼ楽器店に依存して成立していた為、逆の考え方も出来るだろう。つまり、楽器店が二万円取ることにしたから、運送屋には一万で運べと命じる……簡単に言えばそういう構図なのだ。
 問題は、Aを介さずに、Bに一般客から直接依頼があった場合だ。
 常識的に考えると、Bは好きな金額で請ければいいのだが、二万円より安く請けるわけにはいかない。言うまでもなく、Aが一般客から二万円で請けているからだ。その客が、Aに打診していない保証なんてない。むしろ、同じ地域の楽器店なら、真っ先に聞いた上で相見積もりを取る可能性の方が高いだろう。なので、Bに直接依頼があったとは言え、もし安く請けようものなら、Aの悪評に繋がりかねないのだ。
 言うまでもなく、Bにとって一番大切な取引先であり、仕事の大半を依存しているAの業務を妨げるような行為は御法度だ。その為には、Bは二万円以上を提示すべきだろう。そうしないと、Aのメンツが保てないのだ。

 ピアノが爆発的に売れていた時代は、どの運送屋も、仕事のほぼ全てを圧倒的にメーカーや楽器店に依存していた。なので、運送屋は自社の料金なのに、自由に定めにくい状態にあったのだ。
 だが、このパワーバランスは、90年代から綻びが出始め、二十一世紀に入る頃には崩れてしまった。ピアノが売れなくなった為、楽器店経由の仕事は激減し、運送屋も楽器店の言いなりに甘んじる必要もなくなったのだ。
 元々、楽器店を介さず仕事を取った方が得することは明白な上、運送屋の数も激現した。むしろ、楽器店の方が運送屋に気を遣わないといけないケースもあるぐらいだ。
 もう一つには、その頃、新たに台頭した中古ピアノ市場の急成長も一因だ。次第に運送屋のメインの仕事は、買取業者からの依頼へとシフトしていった。不要になったピアノを買取り、海外に輸出する業者が増えたことにより、一般家庭からピアノを引き取ってくる仕事がシェアを席巻したのだ。楽器を売らないと仕事にならない楽器店の運送とは違い、大手買取業者は、月に500〜1,000台もの運送需要があった。比重がそちらに傾くのも、必然だ。

 ピアノ専科は、この過渡期を上手く縫うように事業を展開出来たと言えよう。買取でも納品でもない、一般家庭から一般家庭への移動依頼は思いの外多く、ピアノ専科は格安配送サービスとして瞬く間に名を馳せるようになった。
 榊の経営手腕も、卓越していた。非凡で鋭敏な商売人の感覚が備わっていたのだろう。榊は、自身の古巣に当たる興和楽器や橘ピアノ配送センターとも、程よい距離を保ち上手く付き合っていた。
 移動依頼から買換え希望に繋がることがあると、榊は率先して興和楽器を紹介し、時には興和楽器へ客を連れてくることさえあった。また、移動の際にインシュレーターやカバー、椅子などの付属品を新調するケースもよくあるのだが、榊はその時も興和楽器から仕入れるようにしていた。
 その見返りのつもりなのか、興和楽器から榊へ納品の仕事の打診があったが、こちらは丁重に断ったのだ。技術的に新品を取扱う自信がない、という謙虚な理由を言い訳に、暗に橘ピアノ配送センターの技術を称え、仕事を奪わないように配慮したのだ。
 いつの時代も出る杭は打たれるものだが、急成長したピアノ専科が、同じ地域の業界大手、興和楽器と橘ピアノ配送センターとの間に友好的な関係を築けたことは、榊の手腕に他ならない。
 その一方で、榊は興和楽器を信用し、忠誠的、従属的な立場に甘んじるつもりは毛頭なかった。表面的には取り繕うものの、それは、会社の発展に必要な演技だと割り切っており、また、響や篠原の立場を守る為でもあった。勿論、二人を守るのも、単にピアノ専科にとって利用価値があるからに他ならず、両者への愛情さえ少しずつ揮発し始めていた。
 経営というマネーゲームの才覚に目覚めた榊は、いつしか人情を失い、無機質で残酷な打算に基き、無慈悲で冷淡な言動さえ厭わなくなっていたのだ。

 一台目のオーバーホールを終えた響は、自身の人生が揺れ動いているのを明確に感じ取っていた。調律師とは何か? どのような調律師を目指すべきか? 自分はどう在りたいのか?
 ……答えを模索し、迷路に迷い込み見失っていた目標が、ぼんやりと浮かび上がってきたのだ。
 修理がやりたい……今なら、はっきりとそう言える。だから、修理を学びたい。自分の手でオーバーホールを行いたい……そこにこそ、調律師になった理由も目標もあることに気付いたのだ。
 オーバーホールは、調律師の仕事の集大成と言えよう。解体から最終の音作りまで、全ての工程を理解し、それに沿った技術を身に付けないといけない。構造を理解し、材質を見抜き、知識を身に付け、感性を養わないといけないし、奏者の要望を汲み取る能力やピアノのポテンシャルを見極める眼力も必要だ。その為には、響には絶対的に経験が不足していた。

 興和楽器に入社して一年が経つ頃には、会社勤めのモチベーションは希薄になっていた。殆んど、生活の為だけに続けているようなものだ。いや、それなら他にもっと収入の見込めそうな仕事もある。それでも興和楽器を辞めない理由は、オーバーホールの仕事が取れる可能性があるからに他ならない。
 響は、時間の許す限り、二匹目のドジョウを狙って、スリープカードの掘り起こしを行うようになった。特に、教室の調律が入る月は比較的自由に動けるので、何とかオーバーホールの仕事を取ろうと電話を掛けまくった。
 しかし、どれだけ掘り起こしても、時折調律の実施に繋がるのが精一杯、その際にちょっとした修理は取れることもあり、場合によっては自宅工房へ運び込み、宗佑の指導を仰ぐことも出来たが、オーバーホールには誰も興味を持ってくれなかった。そもそも、オーバーホールをしないといけないようなピアノに出会うことさえ、稀だということを知った。
 いくら響が力説しても、予算に見合うだけの思い入れをピアノに抱いていない人が大半だし、必要性の理解さえ疎ましく思われた。OTTOMEYERのオーバーホールがすんなりと決まったのは、今思うと奇跡的な僥倖(ぎょうこう)だったのだ。

 一方で、篠原がコンスタントにオーバーホールの仕事を持ち込んでくれることは、何故それが可能なのか? という疑問と共に、とても有難く思っていた。全てが響の教材となるのだ。ピアノのコンディションは一台一台違っており、修理のレシピはその都度練り上げるので、毎回が新鮮に感じた。
 オーバーホールは、一台仕上げるのに一〜二ヶ月掛かる為、複数台を同時進行で作業することもあった。宗佑の工房は、寸断なく稼働するようになり、収入面でも大きく改善された。
 必然的に、響のバイトも必要なくなっていた。実際のところ、榊の会社は「ピアノ専科」になってから何もかもが刷新され、ピアノ運送の仕事がメイン事業となり、夜の仕事は激減していたのだ。社員やバイトも増え、事務所と倉庫も大きくなり、株式経営に切り替えていた。
 それでも、響はアルバイトを続けていた。だが、夜は仕事量も少なくバイトを必要としなくなったので、休日や日中のシフトの合間に手伝わせてもらうスタイルに変わっていた。当然ながら、毎晩働いていた頃に比べると、バイトの収入は激減した。その代わり、夜に時間が空くようになった。これは、響にとっては非常に有り難かった。宗佑の作業を手伝う時間が確保出来、修理技術を沢山学ぶことが出来たのだ。

 ピアノの修理は、学ぶべきことが沢山あり過ぎた。マニュアルのない、全てが工夫と応用の世界なのだ。その中で、宗佑が響に口煩く徹底したことは、作業云々ではなく「記録」だった。元の状態から解体、そして組立てと続く流れの中で、「どんな些細なことでも記録を取れ」と、くどい程に言い聞かされたのだ。
 しかし、この記録を取るという行為は、想像以上に難しい。いや、測定で得られる物理的な寸法を数値化して残すことは、比較的容易かもしれない。問題は、数値を伴わない感覚や、記憶に委ねるべき記録だ。
 部品の接着箇所や接着剤の種類、接着剤の固さや量、ネジの種類、木材の材質、木目の向き、フェルトの厚みと固さ、毛並みの向き、レザーの目の方向、ペダルの踏み心地、発音や止音の特徴……こういった記録は、感覚に委ねるが故に、その感覚を呼び戻す表現で書き記す必要があった。
 後々、何が重要になってくるのか、その見極めが出来ない未熟な技術者は、手当たり次第に記録を取るしかない。熟練者は、その大半が不要な記録だと解るのだが、残念ながら響は前者だ。
 幸いなことに、コツコツと記録を取る地味な作業を、響は楽しんでいた。そして、記録を取っていると、何故? という疑問が湧くことがある。疑問は必ず探究に繋がる。結果、本質を知ることが出来るのだ。そう、そこにこそ、宗佑の真意があったのだろう。
「解体」と呼ぶピアノをバラす工程そのものは、手順さえ覚えれば、一台一台臨機応変に対応する柔軟さは必要なものの、技術的にはどうってことのない作業だ。しかし、細かく記録を取ることにより、ピアノの構造や製造における本質的な「何か」を掴む足掛かりに成り得る。
 いや、それを活かせるか否かこそ、技術者の資質かもしれない。そういった意味では、響は資質があったと言える。それに、それを上手く引き出してくれる環境にも恵まれていた。

(7)音を見ず、声を聞く

 ピアノ専科には、毎日のように運送の依頼が入ってくるようになっていた。住宅から住宅への移動は、基本的には搬出元と搬入先の住所を聞き、連絡先とピアノの簡単な情報さえ分かれば仕事は成立した。
 しかし、中にはピアノが出せるのかどうか分からない、という客もいた。入った物は出るに決まっている、という考えは短絡的なのだ。と言うのも、ピアノを収めてからの数年の間に、周囲の環境が変わってしまったケースも珍しくないのだ。
 例えば、搬入時にはなかった大型家具が通路を塞いでいる、改築で出入り口が納入時と違う、窓の近くに電柱が立った、テラスを後付けした、隣に家が建った……など、実例は幾らでも挙げられるぐらい、よくある話なのだ。従って、移動の前に「下見」を依頼されるケースも増えていた。また、客からは依頼されなくても、ヒヤリングから下見が必要だと判断するケースも、増加傾向にあった。

 その日も、「搬出経路を見てきてくれ」と榊から依頼を受けた為、家庭調律の移動の隙間時間に響は下見(ヽヽ)に出向いた。幸いなことに、メールで送られた住所をナビで検索すると、目的地まで五分も掛からないようだ。これなら、本職に差し支えない……と響は安堵した。
 目的地に到着し、インターホンを鳴らした。その間に、目に入る限りの情報を拾い集める。住宅密集地にしては、比較的大きな一軒家だ。小さな庭もあり、手入れが行き届いている。小さな車庫に大きな輸入車が、所狭しと駐車されている。隣家との距離は近い。トラックを横付けする際は、一言声を掛けておく必要があるだろう。
 出迎えてくれたのは、気の良い老夫婦だ。ベテランの夫婦漫才師のように、高めのテンションで冗談ばかり言い合いながら部屋に案内された。歩きながら話を伺うと、息子夫婦の自宅にピアノを贈りたいそうだ。
 しかし、数年前に一階を大幅に改築した為、玄関からは出せないだろうとのこと。実際に響が見た感じでも、スピネットタイプの超小型ピアノでもない限り、部屋から廊下に出すのは厳しいと判断した。そうなると、搬出経路は窓しかないそうだ。しかし、こんなに大きくて重たい物が、窓から出せるのか心配で……老婦人は不安そうに説明してくれた。
 部屋に入ると、響は予想外の光景に驚かされた。壁際に高らかな存在感を主張しながら、そのピアノは独特のオーラを発していた。何と、2mを超えるサイズのグランドピアノ……しかも、驚くことに、アメリカ製の超一流メーカー、KURTZMANN&SONSだ。世界中の演奏家に、圧倒的な支持を得ている高級メーカーで、響はコンサートホール以外で見たのは初めてだった。

「すごいクルツマンじゃないですか! 初めて見ましたよ!」老夫婦は、和かに、そして少し自慢げに微笑んでいる。
 詳しく話を伺うと、このピアノは、四十年程前に東京の代理店で購入したそうだ。KURTZMANN&SONSのModel.6という、211cmの大型ピアノで、当時でも800万円近くはしたであろう。
 そして、この七十歳は超えてるであろう老婦人は、現役のピアニストだった。現在も、客演教授として音楽大学で後進の指導に力を注いでおり、室内楽奏者として全国各地で演奏活動も行っているようだ。
 隣室は防音室になっており、国産のピアノが設置してあるとのこと。近隣住民からの苦情があり、普段はそちらのピアノを使っているそうだ。
 何ともやり切れない話だが、プロのピアニストが世界最高峰のピアノで演奏しても、その音は、音楽に興味のない人にとっては「騒音」でしかないのが現実だ。住宅密集地でのピアノ演奏は、困難な時代になった。この婦人も、いつしかクルツマンは滅多に弾かなくなった為、息子夫婦に譲ろうと決めたそうだ。息子夫婦には五歳と六歳の娘がいて、既に二人はピアノを習っているのだが、残念なことに、今は電子ピアノを使っているそうだ。
 そんな話を聞きながらも、響は職務のことを忘れ、目の前のクルツマンをどうしても弾きたい欲望が湧き上がってきた。しかし、搬出経路を見に来ただけだし、音を出すと苦情が出ると聞いたばかり……逡巡と欲望を秤に掛けつつも、響は弾きたい衝動を抑えられないことを知っていた。

「すみません、少しだけ弾かせて頂いてもよろしいでしょうか?」
 思い切ってお願いしてみると、老婦人は笑顔で許してくれた。
「まぁ、こんな時間ならちょっとぐらい音出ししても……ね?」
「あぁ、大丈夫だろう」
「ありがとうございます! 私、クルツマンを弾くのは小学生の時のコンクール以来です!」

 そう言いながら、響は椅子に腰掛け、鍵盤と対峙した。椅子の調整が長身の響に合っておらず、鍵盤がかなり低く感じるが、それぐらいは我慢すべきだろう。近隣住民の迷惑にならないように、静かな短い曲を弾くべきと思い、グリーグのアリエッタを選曲した。
 この曲は、グリーグが生涯に渡って書き続けたと言われているピアノの小品集、「抒情小曲集」の第一集の一曲目に置かれた曲だ。シンプルなアルペジオに乗せて、愛らしく透明感のある歌をソプラノパートが奏でる名曲だ。
 しかし、一音目の右手小指で奏でたGの音が、大きく唸った。ユニゾンが、尋常でない狂い方をしている。その上、タッチにも妙な抵抗があり、硬いスポンジを押し込むような感触だ。このGの音を左手の分散和音に乗せてリズミカルに五回続けて叩くのだが、響はあまりにも酷い状態に、僅か数音で詰まってしまった。
 ダメだ、これだと弾けない……そう思った時に、奥様が声を掛けてくれた。

「あら、アリエッタね。良い曲よね」
「すみません、暗譜出来てると思ったけど、出だしで忘れてました」
 まさか、こんな酷い状態で弾けるわけない、とは言えない。適当に、その場凌ぎの嘘を吐いた。
「あなた、調律師さんでしょ? 弾き方を見て分かったわ。こういうピアノはね、確認しながら弾くとダメなのよ」
 響は、婦人が何を言ってるのか分からなかった。しかし、何故か響が調律師であることを見抜いたのだ。弾き方を見て、と言っていたが、調律師の弾き方なんてあるのだろうか? 無意識に、弾き方が変わってしまったのだろうか?
「アリエッタ、弾きたくなったわ。ちょっと代わってごらんなさい」
 言われるままに、響は椅子を譲った。小柄な婦人が座ると、腕と鍵盤の高さは見事にマッチした。ペダルの位置を確認し、椅子を僅かに前に出した婦人は、静かにアリエッタを弾き始めた。
 その演奏に響は陶然と魅了され、感嘆と共に困惑もした。

 婦人は、そっと丁寧に、しかしながら強い意志を込めた小指で。Gの音を鳴らした。左手と右手の残りの指が滑らかに連動し、上昇アルペジオを繰り返す。小指の連打は、重ねるに連れ、僅かになだらかな弧を膨らませながら歌い上げ、次のフレーズの前に静かに収束する。不思議なことに、音の狂いが全く気にならない。調律理論上、濁り切っているはずのアルペジオも、ピュアなハープのように愛らしく弾んだ。
 そして、兎に角美しい。樹木の合間を揺れ動く木洩れ日のように、クルツマンは暖かい音色を奏でた。
 以前、篠原が弾いた「樅の木」のシベリウスと同じく、この曲の作曲家、グリーグも北欧ノルウェーの作曲家だ。しかし、シベリウスで感じた冷たさや鋭さはなく、束の間の春を享受するかのような、温柔で優しい音楽だ。厳しい冬だからこそ、春の有り難みはより大きいのだろう。

「ピアノの()を聞かないとダメよ。あなたは()を見ようとしたわ。だから、調律師さんかな? と思ったの。いい? 音じゃなくて、声よ。よく声を聞かないと、このピアノは歌わないわ」
 正直なところ、響にはよく分からなかった。ただ、音を見ようとしたという表現に、ドキッとした。
 言うまでもなく、現実的に音を見ることは出来ないのだが、調律師の音の捉え方は、正に波動を「見る」行為に近いものはある。無意識に、音を見ようとしていたことは否めない。その癖が染み付いて、演奏の時にも顕在化していたのかもしれない。
 そして、何よりも、婦人はとても素晴らしい演奏を聴かせてくれたのだ。音やタッチの不具合を超越した演奏だ。ピアニストだからこそ為せる業なのか、或いは、これこそがクルツマンの魔力なのだろうか。何れにせよ、響にはとても弾けない酷いコンディションなのに、婦人は見事に弾きこなしたことは紛れもない事実だ。理屈を超えた音色を伴って。
 これは、屈辱でも敗北でもない。ここまでの圧倒的な差異は、ステージに立つ者と客席に座る者の違いに他ならず、無条件に受け入れるしかない。

「このピアノ、移動前にオーバーホールしませんか?」
 響は、突発的に切り出してしまった。なので、表現もストレート過ぎた感はある。しかし、下手な戦略より、素直な感情の方が効果的なこともある。営業の駆け引きは、恋愛と少し似ているのだ。
「どういうことかしら?」
 間髪入れず、聞き返された。当たり前だろう。しかし、響は慌てなかった。この老夫婦に対しては、正直に接すると決めたのだ。
「先程の演奏は、お世辞抜きに感動しました。でも、調律師として見ると、ピアノは良い状態とは言えません。しかも、購入されて四十年経っていますので、耐用年数を超えてる部品もあるはずです。このピアノを奥様のように弾きこなせる人は、プロのピアニストだけです。それに、幼いお孫さんが弾かれるのですよね? いずれ、否応なく、あちこち修理が必要になりますから、移動の機会に、一度リセットするのはいかがかな? と思いまして」
 すると、今まで黙っていたご主人が訊ねてきた。
「リセットってどういうことだ? これが、新品になるのか?」
「いえ、新品にはなりませんが、消耗品は全て新品に交換します。本体やフレームは再利用しますが、素材は今のピアノよりずっと良いですし、木材やフレームは年数が経った方が良くなりますので、むしろ新品より良くなると思います」
「幾ら掛かる?」
 ご主人は、響と同じく、ストレートに聞いてきた。
「部品代を調べて計算しないと正確な数字は言えませんが、中古で同等機種を購入するよりかは安く済みます」
「そんなこと言われてもねぇ、これ、同じのを中古で買ったら幾らするんだ?」
「おそらく、500〜600万円ぐらいですが、こういうピアノは値段があってないようなモノです。新品だと現在は1,000万円を少し超えるぐらいですが、中古の場合、気に入れば1,000万円以上出す人もいますし、300万円でも買わない人もいます」
 商品の知識に関しては、響は少し自信があった。興和楽器入社直後に行った座学研修の成果が、こんなところで、しかもピアノ専科のスタッフとして訪問した時に表れるとは皮肉なものだ。
「そのお話はすごく分かりますわ。これは新品で買ったのですが、これだ、というピアノに会うまで七年掛かりましたの。幸い、新品だったので定価がありましたけど、多少高く提示されてもこれを買ったでしょうからね」
「ピアノは消耗品でできています。もし、ずっとこのクルツマンをずっとお使いになられたいのでしたら、いつか必ず修理が必要です。もちろん、その時に買い換えるのも有益な選択です。どちらにしても、このままずっと使うのは不可能です。それと、その時期は近いということもご理解頂ければと思います」

「あと、今更になりましたが、ピアノの搬出は問題ありません。脚とペダルを外しますので、この窓からクレーンで引っ張り出せます。ただ、クレーンの使用は特殊作業料金が別途一万円掛かります。このサイズのグランドピアノの県内移動は、アップライトピアノの基本料金×2.4という規程ですので、¥19,200、そこにクレーン作業料を足しますので、総額は税抜きで¥29,200になります」
「あら、安いわね。興和楽器さんに電話で問い合わせたら、上手く出せたとして六万円ぐらいって言われたのよ」
 まさか、自分も興和楽器の社員だなんて言えない。響は、適当に相槌を打ち説明を続けた。
「興和さんは運送屋ではないですからね、下請けの業者さんがそういう金額を出したのでしょう。楽器店の運送屋は、納品しかやりたがらないのですよ。楽ですからね。うちは、ユーザー間の移動がメインですので、お客様の立場に立ってギリギリの料金でやらせて頂いております」
「じゃあ、運送はお願い致しますわ。それと、修理も……そうですわね、この際やっちゃいましょうかね。期間はどれぐらい掛かりますの?」
 心臓が激しく波打つのを必死で堪え、平静を装いながら響は答えた。いや、対峙しているのは、人生経験の差が大き過ぎるピアニストだ。響が動揺していることぐらい、とっくに見抜かれているだろう。
「最大で三ヶ月ぐらい、順調にいっても二ヶ月は掛かります。それと、一旦専用の工場に入れますので、申し訳ありませんが、運送費がもう一回分必要になります。予めご了承ください。納期、運送費も含めて、改めて、お見積書を送付させて頂きます」
「分かりました。お待ちしてますね」
 直感を信じると、オーバーホールを依頼してくれそうだ。言葉では上手く表現出来ないが、感覚的な手応えは十分に感じ取れた。所謂「脈あり」という感触……これも、恋愛と似ているのだ。

(8)ピアノとピアニストの狭間

「じゃあさ、何でもいいから弾いてみな」
 ある休日の夕方のこと。その日は一日中、親子の調律師は、オーバーホールの仕上げ作業に精を出していた。修理と呼ぶべき工程は既に終え、ピアノは外観も中身も新品のような状態を取り戻していた。直ぐにでも納品出来る状態だが、この日はタッチの微調整と調律、そして整音の最終仕上げを行っていた。
 とは言え、実は前日に試弾した段階で、このクルツマンは完璧だと響は思ったものだ。特にタッチのレスポンスは素晴らしく、ppからffまで変幻自在に操ることが出来、思い描いた音色をピアノが作ってくれた。
 打楽器のように小気味良く弾むスタッカートも、弦楽器を彷彿させる滑らかなレガートも、奏者の意図をピアノが見抜いているかのように、イメージ通りに反応してくれたのだ。もちろん、音質も申し分なく、よく伸び、よく広がり、全てを温かく包み込んだ。
 心地良い余韻と転がるような高次倍音、大地を一直線に突き進むベース、放射状に矢のように飛び出す中音。流石、世界一の名声を博しているクルツマンだ。しかも、宗佑によりリビルドされたクルツマン……響は、これこそ理想的なピアノだと確信した。奏者や曲を問わず、常に個々に応じた表現の限界を引き出してくれるのだ。

 ところが、響には完璧に見えたこのピアノも、宗佑から見るとまだまだやり残しがあるようだ。この先は、響には変化を追えない繊細な世界だが、作業を見学するだけでも貴重な経験と言えよう。
 ジャックと呼ばれる部品の位置、鍵盤の深さ、ハンマーから弦までの距離、キャッチャーという部品の角度などを、一般の人が見ても違いが分からないであろう精度で、おそらく紙一枚分の厚み程度の精度で調整の変更を行った。いや、一般の人に限らない。新米とは言え、専門的な訓練を受け、プロの調律師として働いている響にも、その差異は掴み切れなかったのだ。
 小学生の頃の響は、学校から帰ると毎日のように工房に降りて行き、こういった父の作業を見学したものだ。その頃は、常にオーバーホールを行っていた印象だ。実際は、当時の宗佑は外回りの仕事も多く、工房に居ない日の方が多かった筈だろうが。
 もっとも、小学生の響には、父が何をしているのか全く理解出来なかった。それでも、ピアノが良くなっていく様を時系列に追うことは、響にとって何よりも楽しかった。そして、調律師の仕事に興味を持ち、父を心から尊敬した。
 数年経ち、実際に自分でもプロの調律師として整調を行なうようになった今でも、父の作業にはついていけなかった。ただ、昔とは違い、手掛けている作業の意味を今は知っている。それでも、父の技術は精度があまりにも高く、難解過ぎたのだ。
 残念ながら、「理解出来ない」という大枠では、当時と変わっていないことになる。ピアノの調整の奥深さを目の当たりにすると共に、父の技術の偉大さと自身の未熟さを思い知らされ、とても悔しく、また歯痒かった。

 父に促されるままにピアノを弾いてみた響は、もっと大きな屈辱を味わうことになった。いや、もう恐怖(ヽヽ)と表現してもいいのかもしれない。完璧と思った昨日の状態より、更に高みへと登り詰めていたのだ。
 技術者として、専門的な調整の変化は極小過ぎて認識出来なかったのに、演奏をしてみるとピアノは疑いようもないぐらいに激変していた。響には見えず、掴めず、感じ取れない微細な変化で、見事に様変わりさせたのだ。その結果だけしか享受出来ない響は、むしろ結果が分かるだけに一層悔しいのだ。
 結果が全ての世界で、これだけ明確に違いを生み出せる技術は賞賛するしかない。レスポンスがより鋭敏になり、弾き切る前に遠くで音が鳴っている感じがした。鍵盤が底に着地する感覚が明確に伝わり、タッチに安定と決意を与えてくれるのだ。
 この一切の迷いのないタッチは、ピアノへの安心感を生み、技術者への揺るぎない信頼にも繋がるだろう。宗佑は、このようなやり方で、ピアニストからの評価を得てきたことが容易に想像出来た。そこには、梶山のような話術やマナーなど介在しない。奏者と調律師の間には、ピアノしかないのだ。
 逆に言えば、ピアノとピアニストの狭間で、両者を霊的に繋ぎ合わせる為に調律師が存在する——それこそが、理想的な調律師のスタイルだ。響は、ようやく結論に達した気がした。
 技術(ヽヽ)という側面から見ると、父こそ理想的な調律師だ。ただ、それだけではやっていけない仕事であることは、僅か一年のキャリアでも痛感していた。父の技術を盗んだところで、それを活かす為には、榊や篠原、そして、梶山のような社会性も養わないといけない。でないと、結局は父の二の舞になってしまうだろう。

 クルツマンのオーバーホールの成功は、ピアノ専科にとっても大きな転機となった。榊は、ピアノの運送だけでなく、修理に宝の山を見出したのだ。
 ピアノ専科からの外注として、宗佑は、クルツマンのオーバーホールを250万円で請けたのだが、ピアノ専科がユーザーへ請求した額は、運送費が加算されたとは言え、480万円に膨れ上がっていたのだ。つまり、何もせずに200万円以上も抜き取ったことになる。榊は、そこに目を付けたのだ。

 楽器店での購入とは違い、ユーザー間の移動のピアノは、高い確率で修理が必要な状態だ。しかも、殆んどの依頼者は修理の知識もなければ、価格の相場も知らないし、可能な限りそのピアノを使いたいと考えている。また、どの程度直ったかの判別も出来ない。
 つまり、ぼったくってもバレないピアノが沢山眠っているのだ。これは、榊にとっては、埋まってる財宝を掘り起こすような感覚だった。
 手始めに、移動依頼には必ず下見を行うことを義務付けた。すると、アクションや鍵盤の修理やクリーニングが、高い確率で受注出来たのだ。また、そこでの会話を上手く進めることにより、カバーやインシュレーター、椅子などの販売にも繋げることが出来た。そうして受注した修理の殆んどを宗佑に依頼し、それはそのまま響の教材にもなっていた。
 しかし、この関係は長く続かなかった。僅か数ヶ月後には、より効率的に利益を得る為に、ピアノ専科でも専用の工房を開設したのだ。当然ながら、宗佑への発注は激減したが、企業として、これは自然な成り行きだ。
 そうなると、ピアノ専科でも技術者が必要になる。これもまた、自然な成り行きだ。そこで声を掛けられたのが木村だった。
 木村は、不正行為により興和楽器の嘱託契約を解除された調律師だ。榊の同期でもある。興和楽器は「横領事件」として一時期は訴訟も検討していたのだが、そのまま有耶無耶になっていた。実は、こういった「嘱託が元請けの客を取る」というケースでは、必ずしも元請けが勝つとは限らないのだ。おそらくは、横領された金額と訴訟に掛かる費用のバランスを検討して、見送る決断を下したのだろう。それに、当の本人は夜逃げ同然に実家へ逃げ帰っており、社会的な制裁を受けている。
 そんな木村を、榊はコッソリと呼び寄せた。職を失い、生活に窮していた妻子持ちの木村は、榊の誘いに二つ返事で飛び付いてきた。興和楽器にバレることを恐れつつも、もう二度と就けないと覚悟していたピアノに携わる仕事のオファーなのだ。断る理由はなかった。

 木村に命じられた仕事は、見積もりと修理だ。移動依頼があると下見に伺い、言葉巧みに修理の仕事を受注し、工房に持ち帰り修理を行う。そこだけを抽出すると、調律師としてやり甲斐のある仕事に映るだろう。しかし、ピアノ専科では、そこに「詐欺紛い」の要素を混ぜ込まなければいけない。必要のない架空の修理も項目に入れ、修理代を水増しするのだ。
 道徳にも法律にも反するこの行為を、木村は躊躇わずに取り組んだ。生活が掛かっていることもあるが、元々がその程度のモラルしか持ち合わせていなかった人間なのだろう。むしろ、わずか数日のうちに、騙すことをゲーム感覚のように楽しむようになっていた。だからこそ、手口は少しずつ巧妙になり、全く修理の必要のないピアノでも数万円の仕事を持ってくるようになった。
 木村も宗佑と同じく、ピアノとピアニストの狭間に立つ調律師だ。しかし、調律師の理想(ヽヽ)とは程遠いビジネスを展開することになった。
 いや、そもそもここで言う「理想」とは何なのか——その定義付けは、困難かもしれない。どちら側に立つのかにもよるだろう。
 業者側から見ると、結局は、利益を生むビジネスこそ理想なのかもしれない。そこでは、道義(ヽヽ)は重視されない。そうすると、宗佑の理想的(ヽヽヽ)な仕事こそ、理想から程遠くなるアイロニーが生まれる。

 ピアノ専科も工房を開設したとは言え、オーバーホールやクリーニングなどの大掛かりな修理だけは、数こそ少ないものの宗佑に外注を出していた。しかし、木村は、それらの仕事も余程大変な状態でない限りピアノ専科で賄えるのでは? と考えていた。つまり、それ程酷い状態でなければ、何もやらずにやったと思わせれば良いのだ。
 やや難易度は上がるが、そう「見せ掛ける」仕事が出来れば、オーバーホールも自前で取れる上、利益率も極端に向上する。この案は、榊に全面的な理解を得た。
 ピアノ専科では、「やる」か「やらない」かではなく、「バレる」か「バレない」かが大切なのだ。また、ピアノ専科にとっての修理とは、ピアノを良くすることではなく、ピアノが良くなったと思わせることなのだ。
 幸いなことに、ピアノは喋らない。

(9)礎


 響が興和楽器に入社して五年が経過した頃、ピアノ業界は深刻な不景気に陥っていた。新品のピアノの販売台数は、ピーク時の三割以下まで減少し、調律の実施件数も激減していた。代わって発展したのが、中古市場だ。不要になったピアノの買取業は瞬く間に全国に広がり、新聞の一面広告やテレビのCMで見ない日はないぐらい、巨大な産業へと急成長した。
 毎月、全国で何千台ものピアノが買い取られた。その一部は国内で再流通し、残りの大半は輸出された。新品が売れなくなった要因の一つに、安価で良品質の中古ピアノの台頭も挙げられる。これはピアノに限った話ではないが、時代の流れにより市民意識も変化し、中古品の購入に抵抗がなくなったのだ。
 興和楽器にも、不景気の大波は押し寄せていた。それでも懸命な企業努力により、LM楽器や管楽器は横這いで維持出来ていた。大きな打撃を受けているピアノ部門だけを縮小し、辛うじて安定水準の経営は保てていた。
 いや、不思議と教室は盛況な為、実質的にはピアノの技術部と販売部の縮小だ。しかし、この二部門の不調は深刻なレベルだ。販売の減少は、当然ながら調律台数の減少にも直結する。六名在籍していた嘱託調律師も、この一年間で一気に半分が解雇された。その中には、篠原も含まれていた。解雇された嘱託が担当していた顧客カードは、全て正社員の調律師に充てがわれた。
 興和楽器では、響の入社以降、新たに採用された調律師は皆無だ。響のノルマも、四十台のまま変わっていない。増やしようがないのだ。その分、一年目から待遇も仕事量も大きな変動はない。
 ピアノ業界において、大型特約店という一つの経営形態は、既に限界に近付いていたのだろう。しかし、大手楽器店ほど旧態依然から脱却出来ず、新品の販売以外の打開策を思い付かないのだ。
 勿論、どう転んでも、元のように売れる時代には戻らないことも理解している。それに、今までも時代の後押しで勝手に売れていただけで、工夫して売り込んでいたのではない。つまり、売り方を知らないのだ。なのに、それまでの傲りからか、本音では気付いている時代遅れの実感を、受け入れる勇気さえ欠如していた。八方塞がりだ。
 興和楽器でも、中古ピアノの買取りは行っていた。しかし、顧客からの依頼に応える為だけの業務に過ぎず、整備して販売するとか、輸出するといった具体的な目的はなかった。従って、買取ったピアノは、そのまま他業者へ横流ししていたのだ。つまり、単なる窓口——。
 当時は、同じような特約店が全国に沢山存在していた。中でも先見の明がある会社は、自社で再生し、中古として販売するスタイルを築いていた。そういった会社は、新品ピアノが売れなくなった時代に突入しても、中古の売買で大きな利益を生んだのだ。
 残念ながら、興和楽器は違った。気付いた時には、既に機を逸していたのだ。今となっては、設備投資や人材育成に費やす資金を捻出出来ない。何も変われぬまま、衰退に身を委ねるしか策がない状態だ。

 対象的に、ピアノ専科の勢いは増すばかりだ。事業のベースは、設立時と同じく一般家庭の運送だ。だが、今は単に運ぶだけでなく、移動後の調律やアフターサービスも積極的に請けていた。そこから派生する修理や保管、小物販売も業績を伸ばしていた。
 また、新たに開拓した中古ピアノの配送も順調で、そして、遂には中古ピアノのショールームをオープンし、小売業まで展開していた。必然的に従業員や技術者も増え、外から見る分には立派なピアノ会社に見えただろう。ただ、基本的には、詐欺紛いの商法がメインであることには違いがない。業者を騙すことは控えているものの、一般客からのボッタクリ商法の手口はますます磨きが掛かり、巧妙に進化していた。
 そんな中、響は今尚ピアノ専科と深い関係を維持していた。アルバイトという名目ではあるが、営業と技術の嘱託スタッフのような立場になっており、給与も時間給ではなく完全歩合制になっていた。
 響の業務は、見積もりと調律だ。移動依頼があると現場へ駆けつけ、搬出経路の確認を行いがてら、修理の仕事を取るのだ。下見一件につき千円というベースに、修理の契約が取れると売上げの3%が手当てとなる。十万円程度の修理なら頻繁に取れたので、響にとっては本職の合間に出来る上、実入りの良いバイトだった。
 一方で、榊との関係はギクシャクし始めていた。ピアノ専科自体が巨大化し、従業員も増え、響が特別扱いされなくなったのも一因だが、マネーゲームに目覚めた榊の強引で悪どい商売は、真面目な響には受け入れ難い面もあったのだ。
 例えば、十万円程度の修理を十万円で契約してくると、榊は露骨に不満な顔をした。ピアノ専科では、相場の倍以上取ることが義務付けられていたのだ。適当な項目を(でっ)ち上げてでも、直す意思のある客からは取れるだけ(むし)り取ることを信条としていた。実際、木村を始めとする正社員の営業スタッフは、売上ノルマを設定され、修理の必要がないピアノからも架空のトラブルを捻出し、売上に結び付けていた。
 それでも、ピアノ専科での仕事を辞めない理由は、端的に言えば榊への感謝と忠誠だ。今の響があるのは、誰よりも榊のおかげなのだ。アルバイトをクビになり、生活費の捻出に頭を悩ませていた響を救ったのは、他ならぬ榊だ。いつも相談に乗ってくれ、適切なアドバイスもしてくれたし、OTTOMEYERのオーバーホールも榊の協力がないと出来なかっただろう。
 その後の宗佑の工房の活性化も、沢山の仕事をくれた篠原との付き合いも、何より響が技術を学ぶ環境も、全て榊のおかげで手に出来たものだ。その感謝は忘れたことはないし、榊の為になら、出来ることはなんでもする覚悟もあった。

 ピアノ専科でのもう一つの響の業務は、調律だ。これは一件につき八千円と決められていた。実は、この数字は一般的な嘱託社員の手取りと同程度だ。ピアノ専科は、客からは騙し取るが、社員や業者、調律師からは絶対に搾取しないのだ。興和楽器から嘱託契約を打ち切られた篠原も、今ではピアノ専科の嘱託として家庭調律を行っていた。
 響は、どうしても興和楽器の仕事中心のシフトになる為、ピアノ専科の調律は月に数件しか請けられない。それでも、普通のアルバイトとは比較にならないぐらい、効率的に稼ぐことが出来た。何件やっても給料が変わらない正社員の調律師をバカバカしく感じ、嘱託や独立を目論む人の気持ちが理解出来た気がした。
 ピアノ専科の調律業務は、ピアノを移動した後に行う調律が殆んどだが、中にはピアノ専科で修理を行ってから移動したピアノに出会うこともあった。その大半のケースで、酷い施工の跡が見て取れた。見積もりとは裏腹に、殆んど何も手を付けてないものから、ファイリングを行っただけなのにハンマー交換をしたことになってるもの、バフ機による研磨仕上げなのに全塗装したことになっているものまで、手口も仕上がりも、技術者としてとても許容出来るものではない。
 だが、残念なことに、殆んどの客は騙されていることに気付いておらず、むしろ「とっても良くして頂いて……」と感謝する人もいるぐらいだ。やはり、調律師は必ずしも技術で評価されるわけではないようだ。
 結局は、お客様が満足していればいい……いつしか、響の中でもそういう考えが支配的になりつつあった。「良くする」よりも「良くなったと思わせる」方が大切なのだ。金額も相場や実費に関係なく、妥当、若しくは安いと感じさせることが出来れば良い。そう思うと、アプローチが違うだけで、本質的な考え方は梶山も同じと言えるだろう。
 逆に、たとえ真っ当な仕事をしても、高いと感じられ、良くなってないと思われると、詐欺扱いされ兼ねない。ほとんどの一般客には、ピアノなんて分からないことだらけのブラックボックスなのだ。音もタッチも視認出来ないからこそ言葉に惑わされ、騙されるのだろう。
 ピアノ専科は、その辺りのユーザー心理を巧みに操ることに長けていた。巨大詐欺カンパニーの(いしずえ)は、こうして築かれたのだ。

羊の瞞し 第5章 CHAOTICな羊

羊の瞞し 第5章 CHAOTICな羊

  • 小説
  • 中編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-02-07

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. (1)カオスへと
  2. (2)嘱託調律師
  3. (3)再会
  4. (4)父の過去
  5. (5)歯車は回り出す
  6. (6)ピアノの修理
  7. (7)音を見ず、声を聞く
  8. (8)ピアノとピアニストの狭間
  9. (9)礎