羊の瞞し 第4章 EGOISTICな羊
(1)ベートーヴェンのシンフォニー
入社一年目の九月——。
響の業務は、急遽外回りの調律がメインへと変えられた。会社としても想定外の事態だが、木村との嘱託契約を解除したことにより、彼が担当していた顧客調律を誰が引き継ぐのか慎重に話し合いが行われた。社員、嘱託含めた他の調律師達で分配する案も出たが、最終的には、一人が全てを引き継ぐ方が手っ取り早いとの判断が下され、響に白羽の矢が立ったのだ。なので、当の響は、それまでの単なる店番から業務のルーティンを大幅に変える必要があった。
一番戸惑ったことは、それまで経験のなかった「アポ取り」を行わなければいけないことだ。その月が定期調律予定の顧客カードを用意し、片っ端から電話を掛け、調律実施のお伺いを立て、予定を組むのだ。
因みに、会社で管理しているカードは、ピアノの内部に保管しているカードとは別物だ。こちらには、メーカーや機種等のピアノ情報、メンテナンス履歴の情報だけでなく、顧客情報も記されているのだ。住所、名前、電話番号、職業といった事務的な項目だけでなく、メンテを実施した日付けや領収金額、支払い方法、設置環境、小物販売の記録、次回の予定月、除湿剤の販売、レッスンの先生、家族構成、ペット情報など、知り得た情報は出来るだけ詳細に記すように義務付けられていた。
新人の響は、当面の間は毎月三十件を「目標数値」と設定された。まだ、完全に外回り専業ではない立場が幸いし、「ノルマ」という縛りから逃れられたことはラッキーと言えよう。しかし、この「アポ取り」という作業を行っていると、これは調律師の業務の中で、最も難しいデスクワークかもしれないと思ったものだ。
まず、当たり前のことだが、電話は掛ければ必ず繋がるものではない。何度も掛け直したり、留守電にメッセージを残したり、時にはFAXを利用することもあった。慣れ親しんだ顧客なら、メールでも対応出来るだろうが、響にとっては全ての客が初めて伺う人だ。ピアノのコンディションや駐車場の有無など、確認すべきことは多いので、メールは不都合と言えよう。
また、電話が繋がった所で、そう簡単に調律をやってくれる方ばかりではない。懸命に必要性を説き、時には頭を下げて頼み込むこともあれば、少しの嘘や脅しをチラつかせながら、必死に説得することも珍しくない。調律を頼むつもりがない人を翻意させるのは、至難の業である。一件の予定を組むことが、如何に難しいことなのか、痛いほど身に沁みたものだ。
それに、響の場合は、去年まで木村が担当していた顧客がメインだ。長年に渡る木村個人との信頼関係で継続出来ていた客も多く、担当が代わるならもう調律はしない、と撥ね付けられることもあった。
また、偶に快く依頼して貰えても、希望日時がこちらの予定と噛み合わないことも多い。遠方の同じ地域に顧客が二件あれば、同じ日に纏めて伺いたいのだが、なかなかそう上手くいくとも限らない。
他にも、実施する意思はあっても、当分忙しいので延期したいという方もいる。ほとんど使ってないので、今年はパスしたいという方もいる……そんな中で、毎月三十件を目標に予定を組まなければいけないのだ。不慣れな響には、気の遠くなる作業だった。
木村から引き継いだ定期カードは、学校調律の際に梶山が言っていた通り、毎月約三十件程度だった。それだけで月三十件の予定を組むことは、まず不可能だ。しかし、幸いなことにカードはそれだけでなく、「不定期カード」という数年置きにやってくださる顧客や、「繰越カード」という先月以前分の延期カードも十数枚あった。また、ほぼ見込みはないとは言え、「スリープカード」の掘り起こしも許可を得ていたので、最後は運任せになるかもしれないが、頑張り次第では何とか三十件に届きそうな感じだ。
それに、来月になると、また教室の調律が入ってくる。また三十台全部やらせて貰えるとは限らないが、何台かは回ってくるだろう。月間の実施台数に備品調律も含まれると聞いたので、あれだけ辛かった教室の調律も、台数を稼ぐという意味では恵みの雨のように思えてくる。
とは言え、月三十台ぐらいの実施が、今の響の限界点だろう。保有カードの数が圧倒的に違うとは言え、毎月軽く五十件以上こなしている梶山を、この時ばかりは心底尊敬したものだ。
その頃の響は、就業後は毎晩のように榊の手伝いをしていた。自販機の入れ替えやスーパーのレジの引取り、飲食店の大型冷蔵庫の納品など、彼が請ける仕事は体力勝負の厄介なものばかりだ。
榊は、細心の身体つきからは想像出来ないぐらい、力持ちだった。その上、長年のピアノ運送で培った経験だろうか、大きな物を運ぶ際の「コツ」を掴む能力にも長けていた。
また、体の使い方など、基本的な技術の差だろうか、どうしても腕力と脚力だけに頼りがちな響を尻目に、榊は全身の筋肉を上手く使って運んでいるようだ。その結果、大柄で筋肉質な上、年齢差も二十歳以上離れているのに、いつも響の方が先に息が上がるのだ。
ある日のこと、いつも通りに事務所に行くと、榊が申し訳なさそうに話し掛けてきた。
「折角来てもらったのにスマンがな、さっき準備してたらトラックがバーストしちまって、今日の仕事は知り合いに横流ししたんだ。なので、今日は休みだ。連絡も間に合わなくて、ホント、すまない。全部、俺のミスだ。申し訳ない」
珍しく、榊が真剣な表情で謝罪するのを、響は居た堪れない面持ちで受け止めていた。
「そんな、アキさん、そんなことで謝らないでくださいよ。困ります。ドタキャンぐらい何とも思ってませんから」
そう本音をぶつけると、榊はようやく苦い表情を緩めてくれた。
「そう言ってくれると助かるよ。ホントに申し訳ない……あ、そうだ、折角なんで晩メシでも食いに行くか? 奢ってやるよ」
「マジっすか? もちろん、ご馳走になります!」
「しかし、響は無茶苦茶食いそうだな。破産させないでくれよ!」
「大丈夫です。頑張っても、せいぜい三人分ですから!」
「はははっ、まぁ、ちょっとぐらいは遠慮せぇよ」
「はい、そこは常識の範囲内に収めます」
※
榊に連れられやって来た店は、静かな鰻屋だった。個室に案内され、響は思ったより高額なメニューに驚き、注文を躊躇してしまった。実は、鰻を食べたことがなかったのだ。
「好きなもの頼んでいいんだぞ」
「はい……あのぉ、実は僕、鰻食べたことないんです。なので、お任せしてもよろしですか?」
「マジか? 今更だけど、魚は大丈夫か?」
「好き嫌いはないです。魚も好きです」
「OK、じゃあ、初めてなら、やっぱり、ひつまぶし、う巻き、肝吸いの定番にしよう」
食べたことはないとは言え、店内に充満する匂いだけで、響は既に期待で胸がいっぱいだった。本能的に、美味しいに違いないと確信していた。
実際に、初めて口にした鰻は、この世のものとは思えないぐらい響の口に感動を刻印した。特に、ひつまぶしの美味しさときたら……。
それは、ショパンよりも甘く、ブラームスよりも複雑なのに、モーツァルトのような親しみがあり、シューベルトのように庶民的でもあった。それでいて、リストのように高貴でもあり、ラフマニノフのように華やかで、ラヴェルやドビュッシーのような洒落た気品にも溢れ……それら全てを網羅するベートーベンのシンフォニーそのものだった。
何度も「美味しい」を連発する響に、榊はつい笑い出してしまった。「お前って、本当に奢り甲斐のあるヤツだな」と微笑んだ。
榊が、これほどまでに穏やかな表情を見せるのは、この日が最後になるのかも……と思わせる程に、優しく、柔らかく微笑んだ。
(2)羊たちの欺瞞
「仕事は順調か?」
近くの居酒屋に場所を変え、二人で飲み直していた時、響は不意にそう聞かれた。
「順調……だと思います。でも、たまたま外回りをやらせて貰えるようにはなったんですけど、こんなことしたくて調律師になったんだっけ? ……って、まぁ、贅沢なんでしょうけど、スッキリしない感じはあります」
榊は、真面目な顔で響の話を聞いていた。そして、どんな仕事も、理想通りにはならないんだな……と、ポツリとそう呟いた。
響は、今がチャンスと思い、過去の話を切り出してみた。
「先月、岩成中学校の体育館で調律したんです。で、調律カード見たら、アキさんの名前を見つけちゃったんです」
榊は、その話を聞いても特に表情を変えることはなかった。
「それがどうした? 名前があったってことは、一回ぐらいは行ったのかな? 覚えてないな」
榊は、何事もなかったかのように受け流した。
「あぁ、そういうことか。俺が昔、調律師だったって知らなかったんだな。二年ぐらいは梶山の部下をやってたんだぜ」
「どうして辞めたのですか? 差し支えなければ、教えて下さい」
慣れないお酒が入った所為か、少し踏み込み過ぎたかな、と危懼したが、幸いなことに榊は何とも思ってないようだ。
「こう見えて、俺、ガキの頃からピアノ習ってたんだぜ。しかも、そこそこ弾けたんだ。と言っても、演奏家を目指すほどじゃないからさ……本当は、俺みたいなレベルのヤツは、単なる趣味に留めるべきなんだろうな。なのに、弾くだけじゃなく、ピアノそのものに興味持っちゃって、自分で直したり調整出来たらなぁって思ったんだよ。そんな時に、調律師って仕事を知ってしまってさ。ピアノを直して人に喜ばれて金も貰えて、何て良い仕事なんだって思ってね、これだ! と思ったんだよ。で、親を説得して専門学校に通わせて貰って、アッサリと調律師にはなれたんだ。でもさ、調律師って職業は……まぁ、成ってみて分かったことだけど、技術職というより営業マンに近いんだよな。もちろん、特殊な技術は必要だけど、自営でもしない限り、その技術のありったけをピアノに注いで、ユーザーの希望に沿った調整をして、良い音楽表現の為のアシストを……なんて理想は叶わないんだ。だからって、自営でやっていけるような甘い世界でもないだろ? 結局、辞めたと言うのか、俺の場合は見切ったのかな。最初に思い描いた調律師って仕事は、そもそもこの世に存在しないって気付いたからね」
響は、榊の話を自身に置き換えてしまい、複雑な感情が駆け巡った。この数ヶ月の体験で、まさに響の中に涌き上がりつつあった疑問……榊の話そのものだ。
やっぱり、理想として思い描いた調律師の仕事は、榊の言う通り存在しないのだろうか。
同時に、父と梶山が脳裏を過った。調律師としての理想を追求した父は、収入面ではどん底まで落ちぶれた。一方の梶山は、調律師の理想からは程遠い仕事をこなすことにより、大手楽器店のトップにまで登り詰め、安定した地位と収入を確保した。
将来的にも、この仕事を続けていくとするならば、必然的にどちらかのスタイルを選ばないと生き残れないのかもしれない。でも、響にはどちらの選択肢も受け入れられない気がする。そうなると、榊の決断は賢明なことのように思えるのだ。
「まだ調律師として歩き始めたばかりの響に、こんな話していいのか分からないけどな、酒の席の戯言ってことで許してくれな」
「虚言なんかじゃないです。僕も、薄々気付いていたことだし、この業界で生きていく為には、どうすればいいのかって模索していたところです」
そう言うと、榊は残ったビールを一気に飲み干し煙草に火を付けた。
「悪いな、タバコ一本吸わせてくれ」
「もちろん、全然気にしないでください」
「すまんな、なかなかやめられなくてさ。調律師を辞めるより難しいんだ」
榊はゆっくりと煙を吐き出すと、話の続きを再開した。
「ピアノ業界なんて、ろくな世界じゃない。梶山を見てみろよ。それなりに高度な技術があるクセに、活かす機会なんてほぼないだろ? 代わりに彼が毎日使う巧みなスキルが、話術とか礼儀作法だ。要は、言葉と見た目。大したことしなくてもピアノが良くなったと思わせ、自分がどれだけすごい調律師かと信じ込ませ、梶山がメンテしないとダメなんだと洗脳する。そうやって、調律の技術以外で信頼と評判を掴み取るんだ。しかも、彼の欺瞞は、顧客だけじゃなく、社内や業界でも有効なんだ」
「ギマン……ですか? すみません、どういう意味なんでしょう?」
「『欺き』と『瞞し』と書いて欺瞞だ。要は、騙すことだな。これは、梶山だけじゃない。会社勤めのベテラン調律師なんて、皆、欺瞞だらけの存在さ」
心当たりのある響は、榊の話に無条件に頷いた。
「分かります。でもって、それが嫌で独立して技術で勝負しようとしても、生き抜くには結局社員と同じやり方しかないし、出来なければ破綻する……」
「おぉ、分かってるじゃん。本質的にはさ、ピアノって楽器に原因があるんだろうな。そもそもの誤りは、この国ではピアノは楽器じゃなくて、工業製品だってことだな。品質よりも、生産性の向上を最優先に発展したから当然なんだろうけど、そこに気付くのが我ながら遅すぎた。極論を言うと、調律師は営業マンだし、教室はプレゼンの場……残念ながら、ユーザーも無知なんだな。楽しむ為の音楽じゃなく、ピアノの演奏を我が子に訓練させてるんだ。ただ、唯一希望が感じられるのが納品の時だね。まだ子どもたちはピアノに憧れ、演奏を夢見てるんだ。表情がキラキラしてるよ。だからさ、調律師なんか辞めて、運送屋になったんだ。その方がピアノを楽器として見る人、ピアノを大切に思う人と出会えるんだ」
榊は、何処か達観したような表情を浮かべた。そこに見える小さな翳りの奥深くで、実は榊が怒りに燃えていることに響は気付いた。
これは、諦めや悟りなんかではない。きっと、ピアノ産業や調律師に対する怒りや憎しみで、煮えくり返っているのだろう。そう、榊は業界を憎んでいる……響はそう思った。ただ、それを表面に出さないように抑える術を、榊は知っているだけ……だとしたら、これも一種の欺瞞ではないだろうか。
「でも……そうすると、調律師って何の為に存在してるんでしょうか?」
「難しいな……販売店やメーカーの売上げに貢献する為……かな。少なくとも、ユーザーの為だけではない。確かに一部では、響が考えるような理想的な存在もあるよ。高い次元で、音やタッチをシビアに要望する人もいる。彼らは言葉なんかに惑わされないから、技術だけで応えるしかない」
「そういう技術だけで勝負出来る調律師を目指すのは、間違いなんでしょうか?」
「間違ってないさ。むしろ、調律師はそうあるべきだ。でもな、残念ながら、それは単なる理想論でもある。だってさ、技術力だけで勝負する調律師になったところで、現実にはそういうオーダーの絶対数が少な過ぎて、それだけだと職業として成立しないんだよ。楽器店としても、技術力のある調律師なんて、一人いれば十分なんだ。普段は普通の調律師でいい。年に数回、必要な時だけ理想的な調律師を兼任すればいいんだ。まさに、梶山のような調律師だな」
「楽器店はな、ピアノを売って儲け、レッスンで儲ける。それだけだと不十分なので、調律でも稼ごうとしてる。そして、調律に通い続けて、また将来の販売に繋げる。買い換えとか紹介だな。そういう循環システムが出来上がってるんだよ。ま、幸いなのか、実際に専門家による調律が必要な楽器ではあるけどな。でも、音合わせだけで、メンテナンスというほどのことはしない筈だ。何故か分かるか? いつまでも調子良く使われたら困るからさ。多少の不具合は無視して、早ければ十数年ぐらいで買換えを勧め出すからね。循環ってのは、そういうことだ。でも、その時には、客に全面的に信用されてなければならない。ピアノの状態は悪くなるのに、人としての信頼関係は深めていくんだ……そう考えると、やっぱり調律師ってのはな、長期間に渡る営業活動なんだ。いつか買換えに繋げることが目的の大切なアフターケア……販売店やメーカーにとっての調律師の役割ってさ、どれだけ理想論を並べても本音はそんなところじゃないかな」
一気にそこまで語ると、榊はまだ吸いかけのタバコを揉み消し、追加の酒をオーダーした。そして、急に黙り込んだ。
少し目が座っている。しかし、響には酔っているからか怒っているからか判別出来ない。何に酔い、何に怒るのかも分からない。ただ、どちらであろうとも、榊の話には整合性もリアリティも感じられ、全てが正しく思えたことは確かだ。
そう、この世界は全てが「欺瞞」なのだ。
(3)皆んなエゴイスト
「アキさんは、ピアノ業界には戻らないのですか?」
しばらく黙り込んだまま、ロックのウイスキーを飲み続けている榊は、今度は間違いなく酔っている。なので、響はタイミングを見計らい、これが最後のつもりで願望を込めた質問をしてみた。すると、意外な話へと展開されていくことになった。
「戻るも何も、今も繋がってるさ。裏ルートだけどな。木村ともずっと連絡取り合ってたし……アイツ、ヘマしたみたいだな。運が悪いと言うか……夜逃げしたそうだぜ」
「ご存知だったんですか?」
「何のことだ? 夜逃げのことか? それとも、木村がクビになったことか、その理由のことか……まぁ、全部知ってるけどな」
「木村さんが何をしていたかってこともですか?」
「カードの裏工作だろ? そんなもん、手口は色々だけど、嘱託は皆やってるさ。それにな、木村の手口は俺が教えたんだよ。こうすれば客取れるんじゃない? ってアイデアをな。実際にやるかやらないかは、俺の知ったこっちゃない」
いくらなんでも、それでは余りにも無責任過ぎる気がした。咎めるつもりはなかったものの、つい響は口を挟んだ。
「でも、木村さんはその所為でクビに……」
「俺のせいだと思うか? まぁ、ある意味ではそうかもな。でも、木村は嘱託になった時点で詰んだんだよ。確かに、最初の数年は良い思いしただろうけど、続くわけないことは最初から分かり切ってた。これは、結果論じゃない。現に、俺は反対したんだぜ。嘱託に新規は回ってこないし、諸経費も自己負担。カードは減る一方。個人の顧客を増やそうにも、アイツの性格じゃ難しい。案の定、僅か数年で苦しみ始めて、挙げ句がこのざまだ」
榊の考えは、梶山と驚くほど似ていた。
木村には申し訳ないが、目先の利益に惑わされ、長期的な視野のない短絡的な人と、様々な環境条件を冷静に分析し、将来的な展望を読める人との差なのだろう。全くタイプの違う榊と梶山だが、二人共、間違いなく後者なのだ。そして、残念ながら、宗佑は前者だろう。
「ちなみにな、間接的には響の所為で苦しんでたところもあるんだぞ」
「え? ……僕の所為?」
「そうだよ。七月に教室の三十台、お前が全部やったんだろ? アレもな、単価は下げられるけど木村にとっては美味しい仕事だったんだ」
そう言えば、教室のピアノの殆んどに、木村のサインが書いてあったことを思い出した。
「ここ数年、少なくとも三ヶ月に一度、木村にはまとまった仕事が入ってたんだ。それを、お前に取られたんだから堪ったもんじゃないよな。年間120台も仕事がなくなったんだ。フリーの調律師には痛いだろうな」
「そんな……僕が木村さんから仕事を取ってたなんて、思ってもなかったです」
間接的とは言え、自分が木村の仕事を奪ったことになる事実に、響は戸惑い、申し訳ないような気持ちになった。
「響が悪いんじゃない。会社からすると、嘱託に頼むと金が掛かるんだよ。そりゃ、教室の備品だから単価は一般調律の半分ぐらいだろうけど、全部グランドだろ? 一台につき五千円ぐらいは払うんじゃないか? 三十台だと十五万円、年間で六十万円か。それなら、計算するまでもなく、基本給の安い響に勤務時間内にやらせた方が得に決まってる。ベテランの社員はダメだ。基本給が高いから、一般家庭の調律で稼いで貰わないといけないからな。要するに、新人社員、嘱託、ベテラン社員って序列があるんだよ。たまたまこの数年は、新人調律師の採用がなかったから木村に依頼が回ってただけだ。なのに、そんな当たり前のことに気付かずに、何の想定も対策もしてこなかった木村が悪いんだよ」
確かに、榊の言う通りだろう。客観的に見て、会社の選択も当然だし、嘱託ならそれぐらい覚悟しておくべきなのだろう。
分かってはいても、自分がその当事者となり木村を苦境に追い込んだという事実は、少なからず響を苦しめた。
「……話が逸れたけど、ピアノ業界に戻らないのか? って質問だったよな? さっきも言ったけど、今も繋がってるさ。木村は、移動の依頼があれば、それが興和の客でも俺に頼んでたぜ」
「どういうことですか?」
「興和楽器の運送屋……って、俺もついこの間まで働いてた橘ピアノ配送センターのことな、あそこにUPの県内移動を頼むとな、興和楽器を通すと二万円なんだ。でも、木村には一銭も入らない。なので、俺は個人的に木村に頼まれた時は、八千円で請けてあげてたんだ」
「アキさんが一人で運ぶのですか?」
「ははっ、んなわけねぇよ。あんなもん、一人じゃ運べないから、木村本人に手伝わせてたさ。アイツが客から幾ら取ってたのか知らないけど、小遣い稼ぎにはなってた筈だ。勿論、興和の利益を奪ってる罪悪感も、橘ピアノ配送の仕事を横取りした罪悪感もない。結局、一番得するのは客だし、興和も橘も損するわけじゃないからさ、ま、俺たちのエゴかもしらんけどな」
「それって、興和楽器にバレたら、ヤバイことなんですか?」
「そりゃあ、ヤバいだろうな。運送でもな、興和の客は興和に依頼するのが筋ってもんだ。多分、そういうことは嘱託契約書にも明記されてるさ」
「でも、なんで興和楽器に依頼するんですか? 直接橘ピアノ配送に頼んだ方が手っ取り早いような……」
「そうか、まだその辺のカラクリ、教えてもらってないんだな。興和楽器と橘ピアノ配送センターは業務提携しててさ、橘は興和の運送を全て独占する条件との引き換えに、一般客からの直接の依頼は請けないことになっているんだ。全て興和が元請けになって橘に依頼して、35%のバックマージンが支払われる契約だ。県内移動だと、一件当たり客からは二万円取るけど、興和に七千円マージンが入ることになる。興和にとっては、運送も立派な仕事なんだよ。むしろ、電話だけで一件当たり数千円入ってくるから、美味しい業務なんだ。なのに、嘱託が運送を依頼しても、全く手当が貰えず、興和の利益にしかならない。だからって、嘱託が他所の業者に手配したらそれこそ背徳行為と取られるんだ。でもって、内密に俺に相談してたってこと」
「そんな裏事情があったのですね……」
「そもそもが、身勝手で傲慢な取決めなんだよな。興和が嘱託にも幾らかマージン渡していれば、わざわざこんなリスキーなこと、誰もしないだろうに。もっとも、そのおかげで俺も木村もお客さんも、皆んなが得するんだけどな」
響は、運送が調律師の売上げに貢献しているなんて、全く想像すらしていなかった。なので、榊が説明してくれた具体的な金銭の動きは、正に寝耳に水の話だ。新たな学びでもあるし、驚きでもあった。
「でも……それって、アキさんもヤバくないですか?」
「確かにリスクはあったかな。特に、以前は会社のトラックをなんだかんだ理由を付けて、拝借しないといけなくてさ、多分、怪しまれてたんじゃないかな。もっとも、その頃は年に一〜二回しかなかったけどな。でも、今使ってるユニック付きのトラックあるだろ? 今日パンクしたヤツ。あれさ、実は五年前に自分で買ったんだ。そういう仕事が増えてきてたし、ピアノに限らず、俺も個人的にコッソリ他所から仕事請けてたからな」
「それはそれで、会社にバレたら不味いんじゃないですか?」
「俺の場合は、またちょっと違うんだ。バレるも何も、俺は橘ピアノ配送センターの正社員じゃなくて、書類上はアルバイトだったんだ。社員より偉そうにしてたけどな。だから、自分のトラックを買ってからは、木村の仕事も何もコソコソする必要なんてないけどさ、だからって、おおっ広げにすることもないだろ? それにな、木村だけじゃなく篠原さんも俺に依頼してるんだぜ。俺は良くても、二人はバレたらヤバイからな、コソコソやるしかないんだ」
篠原は、梶山が学生時代の先輩だと言っていた、興和楽器のベテラン嘱託調律師だ。とても生真面目そうに見える女性調律師で、主婦でもあり、確か響より年上の息子もいたはず。
しかし、彼女も木村と同じように興和楽器の規約に反し、運送の仕事は横取りしていたということだ。
「篠原さんなんて、五十前後のおばさんだろ? 自分じゃ手伝えないから、木村に手伝わせてんだぜ。もっとも、アイツ、幾らで請けてたのか知らないけど、喜んで請けてたな。多分、篠原さん本人には数千円しか入らないはず。それでも、興和に頼んだら0だからな、それよりはマシだろう」
「そんな……篠原さんなんて、ご主人も会社の経営者ですよね。何もわざわざリスクを犯すこともないような気が……」
すると、榊は微かに笑みを浮かべ、更に想定外の話を教えてくれた。
「そうだよな、運送だけならたかだか数千円だもんな。でも篠原さんの凄いところはな、運送のついでに必ず他の仕事も取ってくることだ」
「え? ……あのぉ、意味が分かりません」
「移動と言ってもな、そのまま送り届けるんじゃなくて、一旦篠原さんのご自宅の倉庫に入れるんだ。で、クリーニングとかさ、何らかの作業をしてから届ける。客には作業代も請求するんだよ。その辺が彼女の凄いところでな、どうせピアノを動かすなら、ついでにその時にしか出来ない作業もやっておきませんか? って上手く話をまとめるんだ。それこそ、営業センス抜群の人だよ。運送に紛れて、インシュや椅子もよく売るしな。篠原さんにとっては、運送は美味しい仕事なんだぜ。それを真面目に興和を通してやってたら、運送のマージンが入らないどころか、作業も出来ないし、小物販売も吹き飛ぶわけだろ? そりゃ、多少のリスクぐらいは目を瞑るって」
榊は、他の嘱託調律師の噂についても、色々と教えてくれた。木村のように興和の客を取るのは当たり前で、中にはこっそり他店の嘱託を兼ねている人もいた。バレてないだけで、不正を働いていたのは木村だけではないのだ。
逆に言えば、真面目に興和に尽くしているようでは、嘱託調律師はやっていけないのだろう。会社の為ではなく、自分の為を優先する。よく考えたら、当たり前の話だ。そうしたところで、梶山のような安定は担保されないのだから、皆必死に仕事を取るのは至極当然な話だ。
しかし、宗佑はどうだったのだろう? 嘱託よりも、もっと不安定な自営調律師だ。なのに、ガツガツと仕事を取ってくる気概のようなものは、一切感じられない。リスクを犯すこともなく、自分から動くこともない。
おそらく、宗佑には調律師の理想像しか見えていなかったのだろう。榊のような観察眼が少しでもあれば、違った調律師人生を歩んだのかもしれない。社員調律師を継続し、梶山のようなポジションに収まっていたかもしれないし、榊のように早々と見切りをつけ、別の道を歩んだかもしれない。
沢山の可能性があった中で、響には、宗佑が、まるで苦行に挑む僧侶のように、一番困難な選択をしたようにしか思えなかった。でも、残念ながら僧侶のような信念もなく、根性も忍耐もない。自分を律することも不得手だ。その上、エゴも強欲さも行動力も欠けていた。ただ生真面目なだけで、調律師としての技量だけは誰よりも優れているのに、調律師には一番不向きな人間なのだ。
「響もさ、金が要るんだろ? 外回りをしてると、時々運送の手配を頼まれることもあるはずだ。もし、小銭稼ぎたければ俺に相談しな。もちろん、会社の規則を優先したければそうすればいい。リスキーなことは無理強いはしないよ。自分で判断しな。俺は、県内移動は八千円で請けてるからさ、自分で手伝うなら客には好きな金額を提示すればいい。差額がお前の取り分になる。もし自分で手伝えないなら、こっちでバイトを一人雇うから五千円追加だ。仮に一万八千円で取っても、何もしなくても五千円はお前のものだぜ」
そう言われても、なかなか実感のない話だ。会社にバレたら……と心配になる以前に、まだ空を掴むような話でどうすべきかなんて響には全く分からない。
「もしそんな機会が本当にあれば、その時に真剣に考えます」
これが、今の響に出来る、精一杯の返答だった。
(4)運送のバイト
きっかけは意外と直ぐに、思わぬ形で訪れた。
いつものように、終業後、榊の事務所を訪れた響は、そこで意外な人物とばったり会ったのだ。
「あら、響君、お疲れさま」
親しげにそう声を掛けてきたのは、興和楽器の嘱託調律師である篠原久子だ。一瞬、会社に内緒のアルバイトがバレたのか、と焦ったが、篠原も榊に運送を頼んでいることを思い出した。
「おぅ、響、お疲れさん」
榊が奥の倉庫から顔を出し、響も挨拶を返した。
「なぁ響、興和楽器って月曜定休だろ? 来週の月曜日、予定入ってるか?」
榊に聞かれ、響は慌てて手帳を確認した。確かに月曜日が定休日だが、それはショップの話だ。外回りを行う調律師にとって、休日はあってないようなもの。
興和楽器では、一応「週休二日制」を採用しているが、調律師は自己申告のシフト制で、二日分までは休んでもいい、というアバウトな勤務体制だった。尚、「完全週休二日制」と「週休二日制」は全くの別物であることを、響は最近知ったばかりだ。残念ながら、興和楽器は「週休二日制」だった。
興和楽器の調律師の就業シフトは、一日を9:00〜12:00、13:00〜16:00、16:00〜19:00の三つのシフトに区切り、週に最大6シフト分休みを取ってもいいことになっていた。中でも、月曜日は終日休みにする調律師が多い。ショップだけでなく事務も閉まってるので、何かと不便だからだ。
だが、月曜日指定のお客様も意外と多く、終日休みには出来ないこともある。要は、ランダムに6シフト分休めるのだが、消化出来ないことの方が圧倒的に多いのだ。
「来週は、午前のシフトだけ調律入っちゃってますが、午後はずっと空いています」
そう伝えると、榊は篠原に「午後でも大丈夫ですかね?」と何やら確認していた。篠原が軽く頷くと、「響、午後から一台ピアノを運ぶから手伝ってくれるか?」と榊は言った。
間髪入れず、篠原が後を継いだ。
「木村君がいなくなったでしょ? だからね、これからは響君に手伝って欲しいの。四千円でどうかしら? それとね、二週間後にもう一度運ぶから、予定を空けといて貰えると助かるわ。もちろん、その時にもまた四千円お支払いするわよ。どう? やってくれる?」
「篠原さん直々のご指名だぞ。もちろん手伝うよな?」
二人から畳み掛けられ、響は冷静な判断も出来ないままに引き受けてしまった。
「でも、僕、ピアノを運んだことないですよ」
「そんなもん、木村でもやってたんだぜ。俺の言う通りにやれば、どうってことないさ」
「響君なら、木村君よりずっとパワーありそうだもんね。しかも、若いから大丈夫よ」
「……やらせて頂きますけど、自信ないっすよ」
※
篠原の依頼で行ったピアノ運送の経験は、後々の響に多大な影響を与えることになった。
響にとって初めてのピアノの運送は、幸いなことに、搬出はスムーズに済んだ。ピアノは小型のアップライトで、ゆとりのある搬出経路も確保出来、段差も少なかった為、大した労力も特殊な技術も必要なく、榊の指示に従うだけの簡単な作業だった。
ピアノは、そのまま篠原の自宅に運び込んだ。自宅の庭に立てたプレハブの簡易倉庫を、篠原は自分の工房として使っているようだ。宗佑の工房と比べると、とても小さく設備も整っていない。塗装や張弦などの大掛かりな修理には対応出来ないだろう。しかし、内職的な修理で使う分には、十分だ。このピアノも、外装クリーニング、ファイリング、整調だけを行うそうだ。
「素敵な工房をお持ちだったんですね」と話し掛けてみると、篠原は「簡単な作業しか対応出来ないけどね」と言った。
「オーバーホールとかの仕事って、どうすればいいのですか?」と響は純粋な疑問として質問した。
「基本的に、興和楽器はオーバーホールはやらないわ。しないといけないような状態なら、買換えを勧めることになってるし、もしお客様からどうしてもって言われても、出来る人もいないし、設備も何もないじゃない。メーカーに丸投げするそうよ」
「梶山さんは、やらないのですか?」
「梶山君? 出来るわけないじゃん! 彼はね、整調と整音は上手いけど、修理なんか全く出来ないわよ」
「えっ! そうなんですか? 何でも出来る方だと思ってた……」
篠原の話では、現在の特約店には、大掛かりな修理が出来る調律師なんてまずいないとのことだ。
昔は、手作りメーカーや修理工房なので研鑽を積んだ調律師も多く、何処の特約店にも修理の出来る調律師が在籍していたそうだ。しかし、ピアノの爆発的な普及を背景に、メーカーも販売店も外回りを行う調律師が大量に必要となり、調律師を養成する学校も増えた。短期間で最低限のことを詰め込まれた調律師には、修理を学ぶ時間もノウハウもなかったのだ。
また、ピアノを売ることを第一義とする業界において、今となってはメーカーや販売店にはオーバーホールを行うメリットはほとんどないのだ。
つまり、薄利なのに時間が掛かり、設備も必要でリスクも大きいオーバーホールより、買換えを勧める方が圧倒的に得策という判断だろう。
「篠原さんも、オーバーホールはしないのですか?」
「私はね、出来るものならやりたいわ。でも、ここじゃ、とても無理だし、そもそもそんな技術もないし。なもんで、浜松の工場に外注出してる」
響は、急に思い付いたことがあり、一か八か篠原に聞いてみた。
「もしオーバーホールの仕事が入ったら、僕に任せて頂けませんか? って言うか、僕には出来ませんが、知り合いにオーバーホールのスペシャリストがいるんです。彼にやらせて、僕も学ばせてもらおうかなって思ったんですけど……無理ですか?」
そう告げると、篠原は一笑に付した。
「無理無理! 響君、オーバーホールってそんな簡単なことじゃないわよ。オーバーホールって言いながら、クリーニングしかしない人もいるのよ。そういう類じゃないの?」
「違います。フレーム外して響板とかフレームを塗り直して、アクションもドイツ製に付け替えて、塗装まで出来る方です」
「本当に? そのスペシャリストってこの地方の方? 私の知る限り、今も現役でやってる修理の技術者って思い当たらないけど……昔はチラホラといたんだけどね……でも、そうねぇ、それだったら、一度その方の仕上げたピアノを見てみたいわ。仕上がりによっては、お願いするかもしれないし」
「そうですか……う〜ん、何とかお見せ出来る方法を考えてみます……」
何か良い案はないかと考え込む響に、榊が声を掛けた。
「おい、響、いつまでグダグダ喋ってんだ! そろそろ帰るぞ! じゃあ、篠原さん、うちらはこれで失礼します。こいつの納品は、再来週の月曜日で良かったですよね?」
「えぇ、それまでには仕上げておきますので、よろしくお願いしますね」
「こちらこそ、いつも助かります」
「松本君もありがとう。あと、さっきの話、本気だったら考えといてね」
※
篠原との約束を果たす方策を考えるも、何も思い付かないまま十月に突入した。入社して、あっという間に半年が経過したことになる。これほど濃密度に凝縮された月日は、過去に経験がなかった。社会人一年目って、誰もがこんな感じなのだろうか……そんなどうでもいいことに思案を巡らせるのも、随分と久し振りに感じた。
しかし、今月からは更に忙しくなる予感があった。響は、予想通り教室の調律を行うように命じられたのだ。
ただ、七月の時とは違い、今は外回りもしている為、せいぜい十台ぐらいだろうと予想していた。なのに、幸か不幸か、またしても三十台全部やるように命じられたのだ。
響は、前回の悪夢を思い出しつつも、今回はもっと上手くやれる自信もあった。残念ながら、「上手く」は「巧みに」ではなく、「要領よく」の意味だ。多少の手抜きも覚えたし、仕上がりの水準もあの程度で良いという目安を知り、それらを活かせられると考えていたのだ。それこそが大手特約店の社員の仕事なのだと、諦めに近い感覚で納得するようになっていた。
想定外だったのは、今月は教室の三十台を実施すれば外回り調律はやらなくていいのかも、と少し期待したのに、どうやらそんなに甘くなかったことだ。
備品調律も実施台数にカウント出来ると聞いていたが、厳密にはそれは半分間違っていた。備品の場合、一台を0.5台とカウントするそうだ。つまり、全部やっても実績は十五台となる。となると、やはり残り十五台は外回り調律を組まないといけない。合計四十五台……アポ取りの手間が減るメリットと引換に、実施台数は増えるのだから、楽なのか大変なのか見当も付かなかった。
木村もここ数年、この時期はレッスン室を担当していた為だろうか、十月分の定期カードは少なかった。まだアポ取りが未熟な響は、定期カードからは五件しか組めなかったのだ。なので、不定期や繰越のカードを片っ端から電話掛けしたものの、とても十五台には届きそうになかった。
最後の望みは、スリープの掘り起こしだ。ただ、九月には二十件ぐらいスリープを掘り起こしたが、実施に繋がったのは0件だった。既にピアノを所有されてない方も四〜五件あったし、一方的に電話を切られた家もあった。なので、あまり手応えはないのだが、他に有効な手立ても見つからない。いっそのこと、思い切って、スリープの中でも特に古いカードを掘り起こしてみることにした。
すると、もう二十年以上も眠っているカードが、チラホラと出てきた。中には、最終実施から三十年以上経過しているカードも何枚か見つかった。流石にそこまで古いと、なかなか電話が繋がることさえ稀だ。既に転居されたのだろうか、違う名前の方が出られることもあった。ようやく繋がった一件も、もう何年も前にピアノは処分したとのことだ。
やはり、古過ぎるカードだと無理なのかな、と諦めかけた時、ようやく一件のアポが取れた。しかも、明日にでも来て欲しいと言われたのだ。何という幸運だろうか。翌日の午前中のシフトは休みを申請していたが、そんなことお構いなしに、響は午前中に訪問する旨を伝え、了承を得た。
改めてカードを確認すると、買収される前の愛楽堂の顧客で、何と二十六年振りの調律になるようだ。そして、当時メンテナンスを行っていた調律師のサインを見ると、菊池と書いてあった。
菊池……どこかで聞いた名前だな……と響は思ったが、直ぐに思い出した。確か梶山が篠原のことをそう呼んでいたことを。
どうやら、彼女が独身の頃に担当していたピアノらしい。何かが動き始めそうな予感がした。
(5)チャンス到来
調律師一年目の響にとっては、外回りの客は全て初対面の人ばかりだ。毎日が新鮮で、色んな人、様々なピアノに出会えることが楽しみだった。反面、自分が調律師として受け入れられるのかという、審判を受けるような心境でもあり、緊張の連続だった。技術が通じるのか不安にもなったし、無作法を叱られないかという恐怖もあった。
その日は、初めて掘り起こしで組めた客ということもあり、いつも以上に緊張していた。と言うのも、普段の外回りとは違い、初めての「下見」だったのだ。
梶山には、今回の掘り起こしで組んだ予定のことは、まだ報告していなかった。理由は特にないが、単に終業間際に予定が組め、しかも、それが予め休日申請していた翌日だった為、事務的な手続きが面倒だったこともあるが、本能的にその方が良いという第六感が働いたのも事実だ。それに、全て事後承諾で済む話でもあった。
以前、梶山からアポ取りの作法や簡単な社内マニュアルを教わった時のノートを見直した。掘り起こしで下見に行く場合は、ファイリング、バッコード交換、虫喰いパーツの交換など、ちょっとした修理が取れる可能性が高いので、そのつもりで取り組むようにと説明を受けていたのだ。
ノートを何度も読み直し、鍵盤やアクションのフェルト製のパーツの中で、虫喰いの被害を受け易い部分や、劣化や消耗で交換が必要になる可能性の違いパーツなど、チェックポイントを再確認した。同時に、修理の金額も頭に叩き込んだ。
スリープのピアノは、トラブルを多々抱えた状態で放置されているケースも珍しくなく、音を出すことさえ困難で、調律が出来ないことも多々ある。もし、運良く調律が可能な状態なら、そのままやればいい。しかし、演奏に支障が生じる故障があれば、その旨を説明して同意を取り、その日は調律を行わずにアクションや鍵盤を持ち帰ることになっている。
大掛かりな修理には手を出さない特約店でも、数時間〜数日で直せる簡単な修理は、貴重な収入源でもあり、積極的に取っていた。中でも、ファイリングやバッコードの交換、鍵盤ブッシングクロスの貼り替えなどは、興和楽器でも頻繁に行なわれていた。
響にとっては、初めて修理の仕事が取れるチャンスだ。なので、緊張はしつつも、不安より期待が先行してしまう心境だったのだ。
※
お客様宅に到着し、実際にピアノを目の当たりにした響は、予想以上のコンディションの酷さに、露骨に嫌悪の混じった表情を浮かべそうになった。
ピアノは、『OTTOMEYER』というマイナーなメーカーだが、外装はとても丁寧に美しく作られている。楽器や家具というより、工芸品と呼ぶべきだろう。チーク材の明るい艶消し仕様で、猫脚の曲線美と柔らかい色合いが、上品な高級感を醸し出している。
また、象牙と黒檀による細かい象嵌細工と美しい装飾で彩られたパネルは、コンパクトなボディサイズと相まってピアノの威圧感を完全に打ち消し、スマートでさり気ない美術作品へと昇華させたかのようだ。お客様の説明によると、これはドイツ製のピアノらしい。
一方で、二十四年間も閉ざされた箱の中は無惨な有様だ。埃と黴と錆が蔓延し、至る所に虫喰いの跡が見受けられた。その被害は鍵盤だけでなく、アクションにまで及んでいた。
センターピンは、ほぼ全滅状態だ。弦の錆も酷く、ピッチを正すと断線の恐れがあるだろう。ハンマーも消耗と劣化と虫喰いで、ピアノとは思えない酷い音しか出せなくなっている。しかも、測定しなくても分かるぐらい……おそらく、半音近くはピッチが低下している。
こういうピアノこそ、本当はオーバーホールを行うべきだろう。興和楽器では勧めてはいけないことになっているが、それは調律師の本能を否定する制限に思えてくる。それに、素直に会社の方針に従い、買換えに繋げる自信もない。第一、こういうピアノが目の前にあると、何とか蘇らせてあげたいという思いが湧き起こるのが、調律師としての普通の反応の筈だ。
響は、取り敢えず、お客様に詳しく話を伺うことにした。
柳井啓子という六十代の上品な女性だが、最近長男夫婦が家を建て、幼稚園に通う子どもにピアノを習わせたいと考えているそうだ。たまたまそのタイミングで響が電話を掛けたようで、見るだけでも見てもらおうと考えたとのこと。
調律依頼というより、先ずはピアノを点検し、使用可能なら長男の家に届けようと考えている、そして、その場合は運送も依頼したい……柳井は、そう話した。これをそのまま興和楽器に報告すると、おそらく営業マンが飛んで来て、言葉巧みに買換えへと誘導するのだろう。
しかし、響にはそういった話術は備わっていないし、どうしても直して使うという選択肢を黙殺出来なかった。何より、苦労して掘り起こした客を、簡単に営業に引き渡すなんて真っ平だ。
「このピアノ、かなり酷い状態です」
客のピアノは褒めるように、と梶山から口煩く言われていたが、響はその指示を無視して本音を伝えることにした。すると、どうやら柳井も覚悟していた様だ。
「オーバーホールをして新品のように蘇らせるか、或いは、違うピアノに買換えるか……ピアノが必要でしたら、どちらかでしょうね。これをこのまま使うのは、厳しいです」
そう正直に伝えると、柳井はオーバーホールと運送の見積もりが欲しいと言ってきた。どうやら、買換えるつもりはないようだ。思い出の詰まったピアノを、可能な限り受け継がせたい……初老の婦人は、強い意志を込めてそう語った。響は、今まさに、絶好のタイミングで絶好のチャンスが訪れた瞬間なのだと悟った。
もちろん、大きなリスクが目の前に立ち塞がっていることも分かっていた。しかし、それは後からでも対応出来るはず……響は、自分の勘を信じてみることにした。「今日中に作成して、郵送します」と殆んど無意識のまま、返事をしていた。もう、これで引き戻せなくなったのだ。
もし、上手くオーバーホールの仕事が取れれば、もちろん宗佑に頼むつもりだ。休眠状態の工房とは言え、工具も設備も揃っている。足りないパーツさえ買い揃えれば、直ぐにでも作業に取り掛かれるはずだ。もちろん、響も可能な限り手伝うつもりだし、修理技術の習得にも繋げたい。
そして、仕上がったピアノは、篠原に見せるのだ。しかも、このピアノは、二十数年前までは篠原がメンテをしていたのだ。そのことを彼女が覚えているかどうかは分からないが、別にそこは問題ではない。大切なのは、宗佑の仕上げたピアノを篠原が気に入るか否か……もし仕事が認められれば、篠原からもオーバーホールの仕事が回ってくるかもしれないし、おそらく気にいるだろうという自信もあったのだ。
上手くいくと、他の嘱託にも話が及び、宗佑の仕事が増えるかもしれない。そうなると、榊の仕事にも繋がる……見事なWIN-WINの関係が築ける筈だ。
問題は、興和の顧客のピアノを、どうやって会社や梶山にバレないように処理するか? ……綿密な計画を立てる必要がある。
見積書を郵送するとは言ったものの、その為には社印を偽装するか、コッソリ事務から持ち出す必要がある。どちらも、法的にアウトだろう。書式は、市販の用紙に手書きで記入するしかない。契約書も同様の手口で乗り切れる。ただ、見積書を確認後、会社に断りの電話が入ると都合が悪い。響個人の携帯電話に連絡するように、念を押しておく必要がある。
もう一つの難点は、響の家庭事情を、少なくとも榊にはオープンにしないといけないことだ。父親が個人事業主のピアノ調律師で、自宅に修理工房まであることを響は隠し通してきた。良くも悪くも好奇の目に晒される気がしたし、開店休業状態の父の存在を恥じていたのだ。しかし、オーバーホールを行うとなれば、自宅工房以外の作業場は思い付かない。
いずれにせよ、相談出来る人はしか榊いない。運送も頼まないといけないし、他にも色々な知恵が必要だ。そして、きっと榊なら、何とかしてくれるに違いない、という信用もあった。
幸いなことに、この日の響は、午前中を休みとして申請していた。柳井宅を訪問したことは、昨夜急遽決まったことなので、元々事後報告で処理しようと考えていた。つまり、まだ誰にも話していない。動くなら今しかない……響は夜のアルバイトまで待てなかった。
兎に角、早い方が良い気がした。なので、柳井宅を出るや否や、榊に電話を掛けた。寝起なのか眠たいのか、受話器越しに聞こえる声はとても不機嫌だったが、響の気迫に押されたのだろうか、今から事務所で会う約束を強引に取り付けることが出来た。
(6)ピアノ専科
事務所に到着すると、榊は先に来て待ってくれていた。どうせ、機嫌が悪いのだろうと予想したものの、そんなこと気にしてる場合ではないし、時間も限られている。
とりあえずは、「お疲れ様です。急にお呼びたてしてすみません」と形式的に挨拶をしたが、予想に反して機嫌の良さそうな榊は、返事もせずに「おぉ、丁度良かった。悪いけど、今晩の仕事中止になったぞ」と一方的に話を始めた。
「え? どうしてですか?」
逸る気持ちを抑え、とりあえずは、榊の用件を先に済ますことにした。
「今日は、新規オープンのスーパーにレジを運ぶ予定だったんだ。でも、今晩の降水確率が100%なんだとさ。しかも、強く降るらしい。ちゃんと養生するから濡れないって言ったんだけどな、やっぱ精密機械なんで、店長がキャンセルしてくれって言ってきてな……すまんがそういうことなんだ」
「そうなんですか……でも、今晩って言うか、今すぐにでも降りそうな雰囲気ですもんね」
「あぁ、機械モノは雨だと厳しいよ。ピアノのアクションもそうだよな。雨の日は、引取りも納品も禁止だろ?」
「そうらしいですね、僕はまだ経験ないですけど」
つい、榊のペースに乗せられ、肝心の相談話をなかなか切り出せないでいた響だが、幸いなことに榊から話を振ってくれた。
「で、お前の話って何だ?」
響は、昨夜の掘り起こしでアポが取れ、ピアノを見てきたことを榊に説明した。お客様の情報を始め、オーバーホールが取れるかもしれないこと、その場合、会社に内緒で行いたいこと、運送は榊にお願いしたいこと、仕上がったら篠原に見せたいこと、まだ梶山にも会社にも報告してないこと……など、順を追って詳しく説明した。
「ちょっと待て、一つ突っ込ませてもらっていいか? 一番重要なことが抜け落ちてるぞ。根本的なことだけど、そのピアノは何処に運び込むんだ? と言うか、肝心のオーバーホールは誰がやるんだ? まさか、自分でやってみるつもりじゃないだろうな?」
響は、既に覚悟を決めていた。それに、榊に本当のことを伝えなければ、プロジェクトは何も進展しない。
「ピアノは……僕の自宅に運びます。実は、一階がピアノ修理工房になってまして、オーバーホールの設備も揃っています。もちろん、僕には作業は出来ないのですが、まだ直接話はしてませんが、父にやって貰うつもりです」
「父って……お前の親父さん、調律師なのか? ……えっ! お前、ひょっとして……そう言えば、お前の家って何処だ?」
榊の運送屋でのバイトは、元々親しかったこともあり、面接も履歴書もなく始まった。なので、榊は響の携帯電話の番号以外の個人情報を知らなかったのだ。
「すみません、隠すつもりはなかったのですが……自宅は笠木市です」
地名を聞くと、榊は驚きと納得を同時に表現したような顔付きになった。
「お前、そんな遠くから通ってたのか。なるほどな……松本だもんな、気付かなかった、と言うかさ、考えもしなかったぜ。宗佑さんに子どもがいたなんて聞いてなかったぜ。それに……失礼だが、宗佑さん、まだ現役だったんだな。全然話聞かないし、とっくにこの世界から足を洗ったと思ってたが……そう言えば、お前、いつか無職みたいな父親の面倒みてるって言ってよな。宗佑さん、仕事してないのか?」
「仕事はしてると言えばしてますが、殆んど仕事がないので、何もしてないようなもんですが……アキさん、父をご存知なんですか?」
「はははっ、知ってるも何も……親父さんに聞きな。いや、しかし宗佑さんか。懐かしいなぁ。昔、外回りやってた時、宗佑さんが担当してたピアノに何回か当たったことがあるんだ。調律カードを見るまでもなく、宗佑さんの手掛けたピアノはすぐに分かるんだ。どれも見事な調整がされててな、すげぇとは思ったけど、よくそんな呑気な仕事してられるなと不思議に思ったもんだ。そうか、響は宗佑さんの倅だったんだな……よし、この話、進めてみよう。宗佑さんがオーバーホールするなら、問題ないだろう」
全くのダメ人間だと思っていた父が、意外な人から高く評価されていたことに、響は驚くというよりも呆気に取られた感じだ。以前、母が言っていた通り、どうやら宗佑は、技術者としてはそれなりの名声を得ていたようだ。
「ありがとうございます。それで……まずは早急に見積書を送付しないといけないのですが、社印とかどうしたらいいのかなと思いまして……」
「そうだな……興和の社印を使うと法的にヤバイから、いっそのこと屋号を作るか? ここを営業所にして代表を俺にすりゃ、もし興和にバレてもお前のクビは守れるさ。社印なんか、今のご時世、二日ぐらいで作れるんだ」
「でも、興和楽器の松本ですって、名乗ってしまいましたけど……」
「大丈夫だ。その客に今日中に電話して説明するんだ。オーバーホールは提携してる工房で行います、見積書もそちらが作成します、とな。それでも、興和に電話を掛けてくる可能性はあり、それが一番危険だ。その点だけは、改めて念を押すなり、お前の携帯を教えるなり何とか手を打ってくれ」
「分かりました。あと、他に急ぎでやることはありますか?」
「まずは、なるべく早く親父さんを説得して、本物の見積書を書いてもらえ。多少内容を変えて、二〜三通りのプランを用意するように。それをベースに、俺が運送費も含めた見積書を作り直す。それと、その客の調律カードは、手元にあるか?」
響が軽く頷くと、「そのカード、絶対に興和には戻すなよ。スリープが一枚減ったって、誰も気が付かない。それよりも、誰かに気紛れで電話掛けられたら大変なことになる」と榊は言った。
響は、そんなことにまで気が回る榊を、少し恐ろしく思った。この人には、隙がない。それどころか、常に先の先まで読んでいる。誤魔化しは通用しないだろう……そう悟ったのだ。
「あとはさ、屋号をどうするか考えろよ。全部、直ぐにでも取り掛かれ。早ければ早い方が良い。篠原さんに見せたいなら、納調とメンテを彼女に頼めばいいじゃないか。新規顧客の紹介にもなるからな、篠原さんも悪い気はしないはずだ。まぁ、オーバーホールが終わるまでは、篠原さんには何も話さない方が良いだろう」
榊は、的確な指示を明確に命じた。この辺りの機転の敏捷さは、榊の持って生まれた才能だろう。響はただ、従っていれば上手くいくような気になった。
「承知しました。直ぐに取り掛かります……でも、屋号は……すみません、僕はそういうのに全くセンスないので、アキさんにお願い出来れば……」
「OK……なら、今閃いた名前でいこうか、そうだな、『ピアノ専科』ってのはどうだ?」
「流石、アキさん! カッコいい名前ですね!」
「じゃあ、これからピアノ関連の仕事は、全て『ピアノ専科』の屋号を使うことにしようか。篠原さんの運送とか、オーバーホールとか……実は、ピアノの仕事を増やそうとは思ってたところなんだ。大急ぎで社印を作らないとな。それで、最後に聞くが、そもそもそのオーバーホールは決まりそうなのか?」
「正直、分からないです。僕の中の感覚では、半々ぐらいかな? と思ってますが……」
「50%か。まぁ、今晩の降水確率よりはマシってことだな」
「流れないように、何とか説得してみます」
「おぉ、頼んだぞ」
後に、悪名高い詐欺カンパニーとして大成長を遂げる『ピアノ専科』は、こうして響が持ち込んだ話から誕生したのだ。興和楽器の客の横取りいう、不道徳で不法な手段から得た仕事とは言え、目的はピアノとユーザーのことを最優先に考えた、真っ当なオーバーホールだった。皮肉な話である。
羊の瞞し 第4章 EGOISTICな羊