羊の瞞し 第1章 MELANCHOLICな羊

羊の瞞し 第1章 MELANCHOLICな羊

(1)ファミレスにて〜プロローグに代えて〜


「あのぉ、ブラインドを下ろして頂けますか?」

 ファミレスの窓際の席で隣席から女性に声を掛けられた時、松本響はコーヒーをチビチビと飲んでいた。
 嗜んでいた(ヽヽヽヽヽ)、とスマートな表現を用いたいのが本当のところだが、実際の行為は「味わう」という舌の快楽に比重は置かれておらず、また身体や脳の要求に応えた行動ですらなく、無為で機械的な「摂取作業」と化していたのだ。
 実際に、この後に訪問する仕事のことで頭が一杯だったのだ。これ以上、何かを詰め込むと脳が破裂するのでは、と思うほどに。いや、本当にオーバーヒートぐらいなら起こしそうな感じではあった。
 厳密には、苛立ちを必死に抑えるべく、仕事に思案を向けるように集中していたとも言えるだろう。ある意味では「営業職」に就いている松本だが、この数ヶ月は芳しい成果を上げておらず、今朝の定例会議の席でも社長から厳しく叱責されたばかりだった。

「すみません、直射日光が眩しいので、ブラインドを下げて頂けますか?」

 見知らぬ女性に二度目の声を掛けられた時、松本はようやくそれが自分に向けられた言葉なのだと認識した。無愛想に、そして、半ば睨みつけるように声の主に目をやると、相手は二十歳そこそこと(おぼ)しき女性だ。人に要求はするくせに、目を合わそうとはしない。

 性別問わず、彼は若者を敵視していた。業務の邪魔にこそなれ、金蔓にはならない存在なのだ。
 昨今は、スマートフォンなんて余計なアイテムが普及した所為で、些細なことでも簡単に調べられる世の中になった。全くもって、仕事がやりにくい時代だ。松本自身、その利便性を享受している一人だが、スマートフォンの普及は脅威でもあった。と言うのも、松本が下した査定の内容すら、それが妥当なのかその場で簡単に調べられてしまうのだ。
 いや、元々ネット上には業界の様々な情報が(さら)されていたので、PCを開けば「誰でも」閲覧可能ではあった。しかし、スマートフォンの存在は、「誰でも」だけでなく、「何時でも」と「何処でも」を追加したのだ。つまり、検索という行為が、ずっと手軽で安易になったと言えるだろう。
 それは、Webでの検索に限らない。LINEやSNSなどでデータを拡散し、評価を収集することも手軽に出来てしまう。松本が、ここ数週間、業績を上げられずにいる理由の一端も、そこにある。
 実際に、何度かは契約寸前まで運べたが、金額を(いぶか)しく感じた身内が——しかも、必ずと言っていいぐらいに若い世代(ヽヽヽヽ)の身内が——その場でスマートフォンを開いたのだ。

 松本の勤める会社「ピアノ専科」を検索すると、お世辞にも良いとは言えない口コミにたくさんヒットする。しかも、大型掲示板サイトには「ピアノ専科」限定の被害者が集うスレッドまであった。そこでは詐欺の実態が詳細に報告されており、訴訟を起こすべきとの意見や、相場から逸脱した法外な査定の批判など、その手口が事細かに明かされているのだ。
 ネット情報なんてアテにならないと確信している松本だが、「ピアノ専科」による違法な詐欺行為の暴露ネタのほとんどが、ほぼ事実であることは知っていた。何せ、実際に詐欺行為を働いている当事者なのだから。
 目の前でその手口を分析されると、もう契約までは漕ぎ着けない。それどころか、平穏にその場を引き取ることさえ困難な空気になり、逃げるように退散するしかないのだ。
 この数週間、松本の仕事はそんな状況が続いていた。運が悪いのだ。松本が訪問した家庭に限り、たまたま若い人が在宅しており、本能的な嗅覚から芽生えた猜疑心により、松本の言動の真偽をスマートフォンで検索する……つまり、若い人さえいなければ、幾つかは契約が取れたかもしれないのだ。
 そんなことを考えながら、松本は目の前の女を値踏みしていた。派手な色彩の露出度の高い服で大きな胸を強調し、短いタイトなスカートでヒップラインをひけらかし、惜しげもなく素足を晒す。濃い化粧も含め、男へ必死にセクシャルなアピールをしながら生きる憐れな女……そう「査定(ヽヽ)」した。

「ちょっと、おっさん、ブラインド下ろしてくれってお願いしてるんですけど?」
 松本が座るテーブルの窓から斜めに差し込む日光が、なるほど隣席に強く射し込んでいる。女の彼氏だろうか、今度は男が話し掛けてきた。
 見るからに軽薄で、低脳丸出しのチャラ男だ。どうせ、肉体の快楽だけが目的で女と付き合っているのだろう。そもそも、平日の朝の九時半頃にファミレスに来る若者に、「まとも」を求めてはいけない。

「おい、ガン無視かよ!」
 短気な男が、女の前だからかイキがって立ち上がる。威嚇のつもりだろうか、典型的なDQNの風貌と言動で、松本を睨みつける。どうせ、殴り合う勇気も根性もない。茶髪と口髭とサングラスは、コンプレックスの裏返しだ。
 それに、もし殴り合ったところで、こんなヒョロヒョロの身体で何が出来るつもりだろうか。松本も喧嘩は不得手だが、187cm92kgの筋肉質な体躯を誇っており、四十三歳という俊敏性と柔軟性を失いつつある年齢を考慮に入れても、多少のことではやられない自信もあった。
 いずれにせよ、目の前のガキは口先だけの馬鹿だ……松本は、目の前でいきり立つ男をそう「査定(ヽヽ)」した。

「あのさ、これブラインドじゃなくて、ロールカーテン」
 男を無表情で見つめながら、ようやく松本は口を開いた。窓際に座る彼の横に、ループチェーンがぶら下がっている。これがプルワイヤー方式なら下ろしてやってもいいのだが、チェーンの操作は嫌いだった。
「おい、コラ、馬鹿にしとんか! 何でもええから下ろせって言っとんじゃ!」
 些細なことで男はキレる。そして、肩を揺さぶりながら、松本のテーブルに詰め寄ってくる。要因は松本にあるのだろうが、キレるほどではない瑣末なことだ。こんな奴、まともな社会ではやっていけないだろう。
 やはり、しょうもない男だ……今度は、そう断定した。

「下ろすならご自分でどうぞ。丁度席を立とうと思ってたんでね……あ、コーヒー残ったけど、飲む?」
 故意に、挑発的な言い方を選択した。喧嘩する気なんて全くないのだが、喧嘩になっても構わないと思っていた。松本もまた、抑え切れない苛立ちから不機嫌でもあったのだ。
「はぁ? おっさん、今何て言った、コラ!」
「あらぁ、ボク、ご機嫌ななめでちゅか? ……そのねぇちゃんにおっぱいでももらって大人しくしときな」
「何だと? ワレ、ホンマにしばくぞ!」

 松本は、伝票を手に立ち上がった。そして、20cm程は小さく、優に30kg以上は軽そうな男を見下ろすように睨みつけた。
 松本の、プロレスラーのように大きな筋肉質の体躯を見誤っていたのだろう。さっきまで虚勢を張っていた男が、ターミネーターのような厚い胸板の大男を前に、明らかに緊張しビクついている。サングラスの向こうにある怯えて泳ぐ目を捉えた松本は、コイツには手を出してくる勇気はないと確信した。
「授乳室はアッチだぜ」
 意図的に出した低い声で男にそう告げて、松本はレジへ向かった。ある程度の距離が出来てから、背後から悪態を吐く男の声と必死に宥める女の声が入り混じって聞こえた。相手が去ってから強がる弱犬の遠吠えに過ぎないのだが。

 ファミレスを出た松本は、予め調べておいた目的地近くのコンビニに車を停め、缶コーヒーとブレスケアを購入した。時間調整の車内で、今度は不味いコーヒーを嗜み(丶丶)ながら、今朝の定例会議での出来事を思い起こしていた。
 先程のDQNのことなんて、既に頭から消去している。脳のオーバーヒートなんて望んでいない。

(2)ショールームにて

 松本響が勤める会社、「ピアノ専科」のショールームは、土足厳禁になっている。その為、来店した客に驚かれることも多い。確かに、ピアノのショールームとしては珍しい様式だろう。
 しかし、日本の住宅環境では、ピアノを設置する場所の殆んどが土足厳禁のはずだ。この事実を逆手に取り、「より家庭に近い環境で音を確認していただく為、敢えて土足厳禁にしている」……そう説明するように義務付けられていた。すると、大抵の客は納得するし、感心されることも珍しくない。
 実際は、入店した客が心理的に店から出にくくなるように靴を脱がせているのだが、入店時にそのトラップに気付く人はほぼいなかった。

 月曜定休のピアノ専科では、週頭にあたる火曜日の朝、開店前に営業会議が行われる習慣があった。松本は、いつものように従業員出入口から入店した。すると、既に全員揃っていることに焦り、思わず時間を確認した。AM8:25——会議までは、まだ五分ある筈だ。
 しかし、いつもは時間にピッタリに来るくせに、この日に限り、たまたま早く着いた社長は気に食わないようだ。落ち度のない松本を睨みつけている。もっとも、こういった理不尽な仕打ちは、ピアノ専科に限った話でもないだろうが。

「松本も来たし、始めるか」
 社長の(さかき)昭人が口を開いた。
 ピアノ専科の営業会議は、ショールームの空いたスペースで立ったまま行われる慣例だ。会議というより朝礼……いや、傍目には、殆んど立ち話に見えるだろう。しかし、その内容や雰囲気は、立ち話とは程遠い。
「えぇっと、今日は……三週目だな。週間報告は抜きにして、今月のここまでの売上げ成果を発表してもらおうか。見込みも含めてな。じゃあ、杉山からいこうか」

 杉山龍樹は、松本よりも歳下、三十代半ばの営業マンだ。三年前までは、大手メーカーの特約店で、調律師として外回り調律などの業務を担っていた。スマートな人当たりと巧みな話術で、常にトップクラスの売上げを記録していたらしい。見た目もクールなイケメンで清潔感があり、女性に人気の調律師であった。
 しかし、彼にはクリティカルな欠点があった。手癖が悪いのだ。然るべき施設で受診すると、クレプトマニアと診断されるかもしれないレベルだ。
 実際に、彼はお客様宅で目に付いた物があると、持ち帰ってしまうことが頻繁にあったのだ。大抵はボールペンやメモ帳など、なかなか発覚しないような小物を盗んでいたのだが、それでも、他人の自宅に上がって作業を行う調律師としては、致命的な悪癖と言えよう。
 そして、ある日のこと。彼は、訪問調律先で、棚に飾ってあったフィギュアを盗んでしまった。一般的な思考だと腑に落ちない話ではあるが、彼には特段フィギュア収集の趣味なんてないそうだ。つまり、それが目に留まり、欲しくなって(ヽヽヽヽヽヽ)盗んだわけではない。ただ単に、盗みたくなった(ヽヽヽヽヽヽヽ)だけなのだ。いや、もっと言うならば、行為を実行する緊張感と、成し遂げた後の解放感を楽しんでいるだけなのだ。
 だが、その日はいつもと違った。彼が持ち帰ったフィギュアは、プレミアの付くレア物だったのだ。その家庭の高校生の息子が、数ヶ月もバイト代を貯めてようやく購入出来たものらしい。毎晩手にして眺めては、悦に浸った宝物だったのだ。
 息子が帰宅すると、当然の如く大騒ぎになった。すごい剣幕で、会社にも電話が掛かってきた。その日、他に家に出入りした者はなく、無くなった物もフィギュアだけ。そして、そのフィギュアはピアノの横の本棚に飾ってあった。午前中にあった物が、夕方になくなっている。奥様は、その日ずっと家に居た……理詰めするまでもなく、調律師が盗んだと帰結する。それ以外の可能性は、ほぼゼロだろう。
 問い詰められた杉山は、悪びれた様子もなくあっさりと罪を認め、形だけの謝罪をし、フィギュアを返還した。そうすれば、簡単に許してもらえると勘違いしていた。
 もっとも、謝罪と返還は当然すべきことに過ぎない。それぐらいでは客人の怒りは治まらず、杉山の社内での処罰を求め、窃盗事件として警察沙汰にもすると言い出した。どうやら、身内に弁護士もいるらしいのだ。
 それだけは避けたい会社は、数万円の迷惑料の支払いと、杉山の即日解雇を申し出た。それにより、ようやく溜飲を下げてもらえたのだ。

 数ヶ月後、杉山はピアノ専科に拾われた。ここでの業務は、前職とは職種そのものが違ったのだが、むしろ杉山にとっては、隠し持っていた天性の才能が引き出される現場だったのだ。
 調律師として養った技術や知識、そして持ち前の人当たりの良さもプラスに作用し、瞬く間に松本の成績を追い越すようになった。詐欺師としての才覚が、見事に開花したのだ。
 松本も技術者上がりではあり、その経験や知識は業務に活用されたが、残念ながら杉山ほど弁が立たない。歳下の後輩に追越された悔しさもあるが、それ以上に杉山の成績には一目置いていた。彼には、「騙す」ことや「言いくるめる」ことに天賦の才能が備わっており、とても敵わない相手だと認めざるを得なかった。

「はい! では、発表させて頂きます」
 威勢良く返事をし、胸を張って発表に移る杉山の表情を見て、松本は絶望的な気分になった。
 おそらく、今月も負けただろう。いや、杉山の成績と比較するまでもなく、松本は今月も全く成果を上げていない。だからこそ、杉山もそうであって欲しいと願っていた。それなら、そういう流れの時期だということで済むかもしれない……秘かにそう期待していたのだ。
 しかし、飄々としつつも自信漲る杉山の表情は、そんな一縷の希望を一瞬で打ち砕いた。

「まず、A難度が十七件、全て実施済みです。他に二件見込みがありますが、残念ながら降水確率は70%と高めを想定しています」
 朗々と杉山が報告をする。彼は、良くも悪くも感情的になることはない。彼の「感情らしきもの」が見られる時は、演技している時だけだ。常に冷めており、「我関せず」を貫く傍観者だった。自分のことでさえも。

 A難度とは、ピアノ専科の隠語で「運送だけ」の仕事を意味している。
 ピアノ専科は、新聞や折込広告、フリーペーパーなど、紙媒体の広告をメインに仕事を取っていた。中でも、格安運送を見出しにしていたのだ。つまり、ピアノを移動したい人がターゲットだ。
 相場では、二万円前後掛かるアップライトピアノの県内移動を、ピアノ専科は八千円で広告を出していた。この格安料金に、しかも紙媒体の広告を見て飛び付く客は、殆んどが高齢者だ。息子、娘夫婦が家を建てた、孫がピアノを習いたがっている……こういった転機に使っていないピアノをプレゼントしたい……そう考える老夫婦こそ、ピアノ専科の絶好のカモなのだ。
 依頼を受けると、杉山や松本などの営業が「下見」と称し訪問する。そして、ピアノの様々な問題点を指摘し、高額な修理を実施するように、言葉巧みに仕向けるのだ。
 ピアノは、わざわざ工房や倉庫に運んで直すとなると、とんでもない高額になってしまうもの。でも、移動するのなら、どうせいずれはやらないといけない修理であれば、この機会についでに直しておく方が得策である。その方が運送費も浮くし、貰い手にも喜ばれる……そう説明すると、修理の実施を検討する人は多い。簡単に言えば、ピアノ専科の業務は、ピアノの運送をベースにした技術サービスだ。
 問題は、修理の契約と実施にある。杉山や松本の手にかかれば、老夫婦を騙すことは赤子の手を捻るように簡単なことだ。過剰に不安を煽り、このままプレゼントしても貰い手は迷惑でしかないと言えば、殆んどの場合は修理してから贈りたいと考えるようになる。
 そうなると、後は楽だ。ちょっとした不具合も大掛かりな修理が必要なように説明し、一万円で直る作業にも五万円の見積りを出したりする。また、椅子やカバーなども上手く売り付け、運送だけの依頼から、いつしか数十万円の仕事にまで膨らませるのだ。
 しかし、それだけならまだマシと言えるだろう。法的にもセーフだ。修理代なんて、相場でやらないといけないわけではない。どこの業界でも、同じ商品やコンテンツなのに、業者によって何倍も価格差が生じることは珍しくない話だ。要は、消費者が相場を調べれば済む話でもある。サービス内容と価格を調べ、選択する権利も義務もあるのだ。
 もっとも、だからこそピアノ専科は、それが不得手な人が集う紙媒体を活用しているのだが。

 問題は、時に客の目を盗んで弱音装置やアクションなどのネジを緩め、故意に不具合を作ることだ。そして、数万円の修理が必要と説明し、ピアノ内部のアクション(打弦機構)を持ち帰る。実際に行う作業と言えば、自分で緩めたネジを締めるだけなのだ。
 無から有を作り出し、虚偽の説明をし、法外な見積りを出し、その通りの施工をしないとなると、これは立派な詐欺に該当するだろう。
 このように、格安に設定した運送を餌に、食い付いてきた高齢者からあの手この手で取れるだけ毟り取ることが、ピアノ専科のメイン事業だった。
 しかし、必ずしも修理の仕事に繋がるとは限らない。むしろ、半分程度は「A難度」の運送だけだ。杉山が取った十七件も、ピアノ専科にとっては損益分岐点ギリギリ、若しくは赤字になることさえある仕事であり、ポジティブな成績には受け止められない。
 また、「降水確率」というのもピアノ専科の隠語で、キャンセルの可能性のことだ。杉山の二件の見込み業務に付いた70%という高い降水確率も、A難度の仕事では咎められることもなかった。

「B難度は九件実施、回収済みです。現在進行中が一件あり、明後日納品予定です。C難度は五件実施、現在進行中も二件あります。この二件は、降水確率も20%以下です」
 杉山の報告を受けた榊は、自然と顔が綻んだ。
 ピアノ専科は、運送を足掛かりにした業務がメインとは言え、アクションや鍵盤を持ち帰っての修理を単独で行う営業も行っており、むしろその方が利益率も高いのだ。この「修理だけ」の仕事をB難度と呼び、これは一件につき、約十数万円〜三十万円ほどの売上げになる。
 また、C難度はAプラスB、つまり、「修理プラス運送」というピアノ専科のメイン事業となるコンテンツで、一件当たり約三十〜四十万円の売上げが見込まれる。なので、ここまでの杉山の売上げはザッと見積もっても四百万円ぐらいになるだろう。彼の月のノルマは二百五十万円なので、今月はまだ二週間近く残した時点で、既にノルマを大幅に越えている。
 しかし、杉山の報告には、更に続きがあった。

「今月は、D難度も一件見込みがあります。これは、運送も長距離なので六万上乗せし、総額七十万で提示しました。降水確率は、65%です」
 D難度とは、運送のついでにオーバーホールを行う仕事のことだ。売上げ額が大きい上、利益率も高い。年に数件しか取れない仕事なので、一件取ると、担当者には僅かながらも臨時ボーナスが出るぐらいだ。
 しかし、降水確率がやや高いのが気になった。榊もすかさずその点を突いてきた。
「65%とは、どういうことだ?」
 杉山は、不機嫌な顔を隠そうともしない榊に、平然と答えた。
「D難度の実施は、八割方自信があります。しかし、クリーニングは断られる可能性が高いと踏んでいます。本体のオーバーホールは行うでしょうが、総額は六十万円程度に下がります」
「つまり、D難度そのものの降水確率は、20%ってことだな?」
「はい、そのつもりです」
「バカヤロ、最初からそう言え!」
「紛らわしくて申し訳ありませんでした。降水確率は20%に訂正します」
 そう怒鳴りつける榊だが、厳しい言葉とは裏腹に表情は満足そうだ。おそらく、彼の今月の売上げは六百万円に迫るだろう。いや、あと二週間の成果次第では、超える可能性もある。利益率の高いピアノ専科では、これは前例のない素晴らしい快挙だ。

(3)地獄の審問

「次は……草薙(くさなぎ)君だ、やってみろ」
「はい」

 草薙清暙(くさなぎきよはる)は、ピアノ専科に入社してまだ二ヶ月にも満たない新人だ。だが、新卒という意味ではない。年齢は二十代半ばで、少し前までは他社で営業をしていた男だ。
 ピアノ専科には、調律学校からの新卒者が入社することはまずない。業界での評判が悪過ぎる為、批判を恐れた全国の調律学校は、ピアノ専科への就職斡旋を自重しているのだ。なので、現在の社員は、全員が中途採用者だった。しかも、杉山のように何らかの不祥事で解雇処分になった者ばかりだ。
 草薙は、調律学校こそ卒業しているものの、技術職には就くことが出来ず、前歴は小さな楽器店での営業マンだった。そこそこ優秀な成績をあげていたが、病的なまでの虚言癖と素行の悪さでトラブルを頻発し、挙句には、お客様から預かったピアノの内金をギャンブルに流用したことがバレて、解雇となった。
 ピアノ専科でさえ採用を躊躇したぐらいの問題児だが、高齢者を相手にさせるだけなら、草薙の虚言が有効に作用することもある、榊はそう考えたようだ。もっとも、駄目ならクビにすればいいだけという逃げ道も用意してあった。
 新人の草薙にとっては、会議での報告はこれが初めてになる筈だが、流石は営業上がりだけのことはあり、実に堂々とした態度で淀みなく報告を行った。設定されたノルマの百五十万円には届かないが、最終的には達成率90%近くまでには伸びるだろう。新人としては、十分に及第点だ。

 しかし、松本は、草薙はすぐにいなくなるだろうと予想していた。自らやめる可能性もあるが、もっと高い確率でクビになるだろうと思っていた。と言うのも、彼のデータに目を通した時に、虚言癖よりもずっと重大な欠陥に気付いたのだ。それは、あまりにも楽天的過ぎることだ。
 草薙が取る仕事は、降水確率が軒並み低くなっていることに松本は気付いていたのだ。しかし、実際のキャンセル率は、他の営業と大差はない。これはつまり、見込みが甘いのだ。いや、楽観し過ぎなのか……詰めが甘いとも言える。

 ピアノ専科では、必ず降水確率を提示するように義務付けられている。その数値によりポイントが付加され、手当てが増減するのだ。
 勿論、降水確率の低い方がポイントも沢山付くのだが、キャンセルになった場合は失効するポイントも多くなる。これは、リスク予測によるトラブル回避の為に構築したシステムであり、客観的に見ても上手く機能していたと言えるだろう。
 実際に降水確率を低く見積もっていた客にキャンセルされると、心理的な負担はもちろんのこと、運送や倉庫の手配、工房の確保、部品の仕入れなど、様々な弊害が発生することもある。なので、キャンセルの恐れを感じたら、手当てが減ろうが高めの数値を付けておくに越したことはない。そうすると、部品の発注を遅らせたり、運送の手配にゆとりを持たせたり、全スタッフがそのつもりで対応出来るので、本当にキャンセルになっても大きな痛手にはならないのだ。80%以上なら、実施されてもポイントは付かないが、キャンセルになった時の失効ポイントも0となっている。
 逆に、契約履行の手応えを感じたら、低く設定すれば良い。降水確率が低いほど、施工されると沢山のポイントが付与され、手当として換金されるのだ。勿論、その分キャンセルの場合の失効ポイントも大きくなるのだが、詐欺業者にとっては、なかなか理にかなったシステムだろう。

 また、このシステムの最大の利点は——それが目的でもあるのだが——降水確率を下げる為の営業努力に繋がることなのだ。その結果、担当者にとってはポイント増加や成績アップにも繋がるし、会社にとっても売上の増加に反映される。
 松本は、草薙がどんな仕事も20%以下に設定していることが気になっていた。どう考えても、楽天的過ぎるとしか思えない。ネガティヴな思考は少ない方が良いのかもしれないが、草薙のように全くないのも考えものだ。
 そう、リスク回避の努力以前に、草薙にはリスクの想定が出来ないのだろう。いや、もしかするとギャンブル好きの彼のことだから、大量のポイントを得ることしか頭にないのかもしれない。
 法的にも道義的にもファールゾーンで営業をしているピアノ専科にとって、慎重さの欠如した人間は、必ず大きなトラブルを引き起こすだろう。一か八かの賭けなんて必要ない。詐欺師は、綿密さと慎重さが重要だ。
 榊が、そこに気付かない筈はない。なので、松本は、時間の問題で草薙は解雇されるだろうと予測していた。

 その後、もう一人から報告があった。木村直紀という六十代半ばのベテランで、黎明期のピアノ専科を榊の片腕として支え、詐欺的な手法の殆どを考案した人物だ。
 木村は、工房での作業も行っており、榊からの信頼も厚い為、ノルマも特に課せられていない。それでも、柔らかい人当たりと目尻の下がった優しい顔付きは、相手に信頼と安心感を与えるようで、営業(ヽヽ)としても有能だった。毎月コンスタントに二百万円前後の売上げをキープしており、降水確率も大きく外すことはない。今月も、可もなく不可もない形式的な報告に終始した。

「じゃあ、次は松本だ」

 いよいよ地獄の審問の時間が始まるようだ。松本は、せめてもの抵抗で、情けない数字を恥じる素振りを押し殺し、正々堂々と読み上げた。

「A難度十二件、全て実施済み。B難度は三件実施。現在見込みが一件ありますが、降水確率は80%、明日返事を貰うことになっています。C難度は、現在一件進行中、木曜日に納品です。見込みは一件、降水確率は40%です。現在、返事待ちですが、今週中にはこちらからも確認の電話を入れてみます。D難度は無し。現時点での見込みもなし。以上です」

 それだけを一気に報告した。簡潔にまとめたのではなく、実績そのものが簡潔なのだ。
 このままだと、月間総売上げは、ノルマの三百万円どころか新人ノルマの百五十万円に届くかどうかだろう。一番の高級取りなのに、今月の売上げは最下位に堕ちる可能性もある。達成率も、このままだと50%を割込む絶望的な数値だ。
 松本の報告に、榊は意外と冷静に耳を傾けていた。その分、より一層の恐怖心が湧き上がる。滅多に怒らない人間が怒る時と同じぐらい、直ぐに怒る人が怒らない時も不気味だ。報告が終わっても、榊は微動だにせず、無表情のまま黙り込んだ。

「お前さ、ノルマ割れ何ヶ月続いてんだ?」
 ようやく榊は口を開いた。その表情からは相変わらず感情が読み取れないが、決して穏やかではないだろう。
「申し訳ございません。先月で四ヶ月連続でした」
「そうか……松本のノルマは、かなり厳しい数値なのは分かってる。それと、何年にも渡る功績も理解している。ただな、杉山がここのところ、コンスタントに三百前後取ってるのに、お前はこの数ヶ月、二百にも届いてないだろ?」
 榊の淡々とした口調は、優しくすら思える程だ。松本は、恐縮するしかない。
「本当に面目無く思っております」

「面目ないじゃねぇだろっ!」
 突然、榊は怒鳴り出した。抑え込まれていたマグマが内圧に耐え切れず噴出するかのように、榊は溜め込んだ怒りの感情を一気に爆発させた。いきなりの豹変とその迫力に、新人はもちろん、ベテランの木村ですら畏縮したかのように黙り込む。
「お前、ざけんじゃねぇぞ! いつまでノルマ割れ続けるつもりだ? 謝って済むわけねぇんだよ! 今月中に、C難度二件、若しくはD難度一件取って来い。それが出来たところで、お前、今月もノルマ割れだろ? もし出来ないなら、来月からノルマを新人並に下げてやるわ。給料も新人クラスから出直しだ。それと、結果に関係なく、松本は向こう三ヶ月、ポイント手当て無しだ。分かったか?」
 最後には、榊は冷静さを取り戻していた。これは、最終通告だろう。松本にもそれぐらいは理解出来た。
 松本には、どうしてもピアノ専科を辞めるわけにはいかない事情があった。とりあえず、生き延びたようだが、退路を塞がれたプレッシャーも大きい。安堵と重圧が混じり合い、返事をするだけで精一杯だった。

「寛大な処置に感謝します。今日から気合いを入れ直し、一件でも多く取るように努力し、少しでも恩返し出来るよう頑張ります」
「そんな言葉は要らん! 営業マンは、客には言葉を使え。俺には結果で語ればいい」
 そう告げる榊の眼光は、獲物を狙う肉食動物のような鋭い光を放ち、情の通じない性格を反映していた。鮫の目にも似た、この容赦のない冷酷さこそ、榊の本性を一番表している。
 萎縮するの松本の横で、恐怖心に苛まれ身動き出来なくなった新人がいた。おそらく、榊の本当の怖さを初めて目の当たりにしたのだろう。その隣では、何事にも動じない杉山が、ほんの少し口元に笑みを浮かべていた。

(4)釣堀

 前日にGoogle Mapで下見した漆原宅を実際に訪れてみると、航空写真からの想像以上に、立派な大邸宅だった。門戸にある古びた厚い木製の表札には、「漆原良一」とだけ刻印されていた。事務員に貰ったデータを見ると、依頼者は六十代以上の欄にレ点が打たれている女性、漆原絹代様……おそらく、良一の妻と考えて間違いないだろう。
 アポの時間から二分過ぎるのを待ち、松本はインターフォンを鳴らした。一般家庭を訪問する際は、ほんの数分だけ遅刻することにしているのだ。逆に、会社や組織の訪問は、数分早く着くように調整する。これは、榊の指示でもあるのだが、今の所問題になったことがないので、松本の中では定着したマニュアルになっている。
 インターフォンからの返事を待つ間に、松本は手入れの行き届いた庭をチェックした。全ての庭木は綺麗に剪定され、雑草も生えていない。プロの庭師の手で維持、管理されている可能性が高いだろう。
 また、車庫スペースの奥には電動自転車がチェーンで繋がれており、その奥には大型のコンテナが設置されている。鉢植えの植物も幾つか置いてあることから、明らかに車庫としては使われていないと断定していいだろう。ご主人の良一は、車に乗らない方なのか、或いは既に亡くなっているのかもしれない。

「はーい、お待ちしてました。どうぞお入りください」
 漆原絹代は、こちらが名乗る前に明るい声で応えてくれた。直感的に、これは久し振りのヒットかもしれない……と思った。
 松本は、下見に訪れる家のことを、いつも「釣堀みたいだな……」と思っていた。全く釣れそうな気配のない釣堀もあるが、今日の釣堀は、大物がお腹を空かせて餌を待っているように感じた。そこに、理由や根拠はない。ただ、長年に渡って培った勘だけが頼りだ。
 そんな期待を胸の奥に押し込め、慎重にいつもの演技モードへ切り替えた。釣りは、何よりも準備と仕掛け、駆け引き、そして、タイミングが大切なのだ。

「どうも始めまして、ピアノ専科の松本と申します。いやぁ、今日はどんなピアノに会えるのかなぁって、朝からずっとワクワクしていたんですよ」
 松本は、先ずは高齢者にいつも使う常套句を投げ掛けた。もちろん、気さくでピアノが好きなことをアピールすることが目的で、全くもって本心ではない。
 玄関で迎え入れてくれた絹代は、七十代半ばの上品な女性だった。名前の通りの絹のような綺麗な銀髪を清潔に束ね、ラフな部屋着姿なのに身嗜みも整っている印象を与える。
 年齢の割には姿勢も良く、歩き方もどことなくエレガントだ。こういった上品な着こなしや立居振る舞いは、長い人生で自然と身に付いたものだろう。良くも悪くも所謂「育ち」というものは、演技ではなかなか表現出来ないし、隠そうとしても隠し切れないのかもしれない。

「今回は、ご依頼頂きありがとうございます。因みに、当社のことは何を見てお知りになられました?」
 今度は、会社のマニュアルに従った質問を投げかけた。
 ピアノ専科は、ホームページも開設しており、稀にサイトを見て配送を申し込む客もいるのだが、その場合は、決して詐欺的な査定をしてはいけないという社内ルールがあった。ネットを見る人は、必ず他社と比べ、相場を調べるからだ。

「そうだね、一昨日の新聞におたくの広告が載ってたでしょ? ホラホラ、これ、切り抜いといたのよ」
「あぁ、ありがとうございます。こうやって、必要な方のお目に留めて頂けたなら、ホント広告出した甲斐がありますよ」
「なんかねぇ、急に娘がピアノが欲しいって言い出してね、子どもに習わせたいんだとか……それなら、折角ここにあるんだから持っていけばって話をしてたところなのよ。でも、運ぶだけで何万も掛かるって言うじゃないの。どうしようねぇ、なんて話していた時にこの広告を見てね、おたくは八千円って書いてるじゃない。こりゃあ安いわと思ってね」

 紙媒体からの運送依頼、高齢者、金持ち、娘に譲渡、孫が使用……ロイヤルストレートフラッシュ。理想的なカードが見事に揃った。

「ありがとうございます。そうですよね、他所の運送屋って何であんなに高いのでしょうね。もう、うちは出来るだけ安くやらせて頂きたいと思っていまして、ギリギリの金額にしているんですよ」
 そんな会話の最中も、見える範囲で家財道具などを見定め、財政状況のチェックは抜かりがない。その結果、間違いなく金はある、と判断した。
 そして、左手の和室には、線香の上げられた仏壇らしきものがみえる。おそらくだが、ご主人は既に亡くなっているのだろう。直感を信じると、この大きな屋敷で、絹代は一人暮らしをしていることになる。他に家族が住んでいる気配は、全く感じ取れない。

「でね、このピアノなんだけど、娘の嫁ぎ先に持ってって欲しくてね」
「では、ちょっと確認させて下さいね」
 そう言いながら、松本はピアノの搬出経路を確認した。一応、運送サービスとして訪問している。これだけは(ヽヽヽヽヽ)、真面目に見ておく必要があった。
「娘はね、隣の東川区に住んでいるんだけど、八千円で持ってってくれるんでしょ?」
 絹代は、確認を入れてきた。このセリフを機に、松本は少しずつ攻撃モードに切り替えるのだ。
「そうですよ、県内の一階から一階の移動は、税込みで ¥8,800 になりますね。お嬢様のお家でも、一階の設置でよろしいですか?」
「えぇ、確か一階のリビングにって言ってましたわ」
「お嬢様のご自宅には、道路から玄関までに段差はありますか?」
「そうだねぇ、玄関の段差ぐらいじゃないかしら。それか、リビングの掃き出し窓から直接入ると思いますけどね」
「分かりました。それでしたら、移動料は仰せの通り ¥8,800 です。他に、搬出料が ¥5,500、搬入料も ¥5,500、設置料はサービスさせて頂きます。なので、総額は税込みで ¥19,800 ですね」
 そう伝えると、絹代の態度は豹変した。その表情からして、意外と育ちは悪いのかもしれないと思い直した。前言撤回、改過自新だ。育ちは、ある程度は誤魔化せるのかもしれない。

「えっ? ちょっとあなた、何を仰ってるの? ここに、県内移動は八千円って書いてるじゃないの! これは嘘なの? 年寄りだと思って騙そうとしてるんなら、許さないわよ!」
 A難度は、状況に応じ、額面通りの ¥8,000 で請けても良いことになっている。もちろん、あれやこれやと理由を付けて、金額を吊りあげても良い。その辺の駆け引きは、営業に一任されているのだ。
 松本は、修理も取れそうな時は、必ずここで金額を吊り上げることにしている。そうすると、大抵の場合相手は怒り出す。実は、松本の経験上、怒る人の方が騙しやすいというデータがあった。逆に、怒らない人は腹の中が読み切れず、受け答えもファジーなまま終始し、結局A難度すら取れないケースが多いのだ。
 絹代は、予想通り怒った。つまり、ここまでは松本の期待通りに展開していることになる。

「ねぇ、漆原さん、よく広告見て下さいね。県内移動は八千円ですけど、これは基本料ってちゃんと明記しているでしょ? さっきも言った通り、もちろん八千円で運ばせて頂きますよ。でも、御自分で外に出せます? それに、届いたピアノを玄関で受け取って、御自分で設置出来ます? 搬出、搬入、設置をタダでやれって言われても、こちらとしても困るんですよねぇ……」
「そんな……そういうのって、普通は全部込みじゃないんですか!」
「普通ですって? うーん、普通って言われても、何を基準に仰ってるのでしょう? 失礼ですが、そんなに頻繁にピアノを移動されてるのでしょうか? 憶測を普通と言われても……」
「でも、八千円って書いてるじゃないですか。それで全部済むもんだと思ってしまいますわ」
「えぇ、書いてある通り、基本料は八千円ですよ」
 絹代は、全く納得する様子はない。しかし、それもまた松本の想定範囲内だ。

「あのね、漆原さん、例えば手紙を出す時って、郵便局やポストまで出しに行きますよね? 切手を貼れば、取りに来てくれますか? 宅急便に集荷を依頼した時、部屋の中まで取りに来てくれますか?」
「いえ、それはまた別の……」
 モゴモゴと何か言いかける絹代を無視し、被せるように松本は発言を続ける。
「逆に、届いた郵便や宅急便の荷物も、玄関やポストで受け取りますよね? 家の中まで持って来て中身を取り出して、片付けまでしてくれますかね? 運送費とか送料ってのは、あくまで運ぶ運賃のことです。ピアノの運送も同じですね、普通(ヽヽ)は。うちはね、県内の移動は八千円で行っています。嘘だなんて悲しいこと言わないでくださいよ。騙そうだなんて……いやだなぁ。広告に書いてある通り、家の外に出してくれれば、お嬢様の家の前まで八千円で運びますよ。それはもう、責任を持って精一杯の仕事を丁寧にさせて頂きます。お客様の大切なピアノですからね、細心の注意を払って広告通りの金額で運ばせて頂きますよ」
 それでも、絹代は不服そうな顔だ。何か不満や不平、文句を言いたげだが、上手く言葉が纏まらないのだろう。目を吊り上げて、黙り込んでいる。

「では……そうですね、勘違いされたってことは、こちらの表現にも落ち度があったのかもしれませんので……そうだな、折角下見に来させて頂いたんですから、私の独断でね、搬出料は全額サービスさせて頂きますよ。なので、¥5,500 引かせて頂いて、¥14,300……半端も切り捨てましょうか。総額 ¥14,000 で如何でしょう? 搬出、搬入、設置料、税金、全て込みですよ。まぁ、¥8,800 からしたら高いかもしれませんが、他に頼むと二万円以上しますからね、こちらとしてもこれが精一杯です。もし、これでも高いと思うんでしたら、残念ですけどご縁がなかったってことで、他を当たっていただくしかないですね。もちろん、今日のお見積もりはチラシに書いてある通り無料ですので、これでおしまいってことになります」
 そう一気に畳み掛けると、絹代は渋々ながらも、アッサリと折れた。そんなものなのか、と納得したのかは定かではないが、思考能力を鈍らせることは出来たかもしれない。
 そう、松本は意図的に怒らせることにより、絹代から冷静な判断力を奪いたかったのだ。結局のところ、あの場面で怒りを抑える人は、理性的で判断力を失わない人なのだ。絹代は、一時的に感情が先走った結果、冷静な判断力が鈍っている。つまり、想定通りに進んでいる。
 さて、準備は整った。松本にとってはここからが「釣り」の本番だ。

(5)ドイツのピアノ

 まだ、内心では完全に怒りが収まっていないであろう絹代だが、表向きは、平常モードまで鎮まっているように見受けられる。基本的に、怒りを爆発させる人の方が切り替えも早いことは、経験上、確信していた。
 逆に、怒りを抑えつつ、ネチネチと陰湿に文句や不満を口にする人の方が、(たち)が悪いのだ。幸い、絹代は典型的な前者だ。まだ不平不満は解消し切っていないだろうが、松本は、彼女のことを容易に操れそうな人と判断した。なので、次のステージに話を進めることにした。
 先ずは、ピアノを褒めるのだ。

「しかし、これはまた凄いピアノですねぇ。ほぉ、Brueghel(ブリューゲル)というピアノですか。これは滅多にお目に掛かれない名器かもしれませんよ!」
 ピアノを褒められた絹代は、予想通り、見るからに機嫌が上向きになり、饒舌にピアノを買った時の思い出を話し始めた。良い兆候だ。
「このピアノはね、娘が四歳の時だから……三十五年前、あら、もうそんなに経つのね。隣町のデパートの催事場で買ったのよ。亡くなった主人が一目惚れしちゃってね、あまり聞かないメーカーだなとは思ったんだけど、聞いたらドイツ製って言うじゃない」
 ドイツ製……松本は「やっぱりか」と思った。この手のピアノは、大抵の場合、ドイツ製ということになっているのは業界の常識だ。これで、また一つ、好条件が加わった。

「なるほど、ドイツ製のピアノですか。あっ、そう言えば……そうそう、昔ドイツに住んでいた頃に、フランクフルトの楽器フェアでこのロゴを見た気がするなぁ……いやね、ハンドメイドメーカーの小さなブースなのに、すごく賑わってる所がありまして、ちょっとした話題になってたんですよ。すごく音が良いピアノがあるって噂でね。それで何となく覚えてるんです。確かこんなロゴでした! って、今思い出したんですねどね、ハハハ」
 もちろん、これは全てハッタリだ。しかし、このピアノを褒め称えると同時に、自分の経歴を良い風に詐称する目的もある。
「あら、松本さんって、あちらにお住まいだったの? すごいわねぇ。これはね、正直ちょっと高いなって思ったけど、そうそう、手造りの一点物って言ってたわ」

 ピアノは、オートメーション化に成功した日本製の大手メーカーでさえ、今でも手作業の工程が沢山残っている。逆に、手造りピアノと謳われているメーカーも、機械作業が沢山取り入れられている。「手造り」の定義にもよるが、100%手造りのピアノなんて、今の時代にはないだろう。そもそも、製材の段階で機械を使っているのだから。
 その中で、敢えて「手造り」を謳い文句にするのは、製造過程の何処かで強い拘りを持って手作業を貫いている老舗のメーカーか、印象操作をしたいだけか、どちらかでしかない。
 このピアノが「手造り」と説明されたのは、間違いなく後者だろう。良いピアノであると思わせる為、必死にポジティブなイメージを植え付けたかっただけだ。

「現品限りってことでね、四十万円も値引いてくれてねぇ。機械で造るピアノはせいぜい10%も引けないんでしょ? これは、手造り一点物だから、特別にここまで引けるんだって言われたわ。他にも沢山ピアノがあったのに、娘もこのピアノの前から離れなくてね、思い切って決めちゃったのよ……」
 松本は、そんな絹代の話を「ご主人は本物を見抜く目がおありでしたのでしょう」とか「お嬢様は、音が分かる方なんでしょうねぇ」などと、適当に相槌を打ちながら、肯定的に、にこやかに聞いていた。そして、それを許容する絹代の内助の功を、良妻賢母の鏡のようだと遠回しに褒め称えた。
 高齢者の機嫌を直す術は、熟知しているのだ。

 それに、実のところ、この手の話は聞き飽きていたのだ。
 そもそも、「Brueghel」なんていう無名のピアノは、三流以下のメーカーで全く価値なんてない。もちろん、ドイツ製ですらない。見たところ、国産っぽいのだが、それがせめてもの救いだろう。
 当時は、ピアノの市場は、シェアの80%以上が国産の大手二大メーカーで独占されていた。しかし、この二大メーカーのオートメーション化による大量流通に紛れ、残りの二割弱の中に、こういった得体の知れない国産メーカーや、中国製、北朝鮮製、東ヨーロッパ製などの劣悪なピアノも、数パーセントのシェアを占めていた。
 これらのピアノの大半は、「ドイツ仕様(ヽヽ)」と説明され高級ピアノのように装い、主にデパートやイベント会場などの「催事場」で販売されていたのだ。ある意味、現在のピアノ専科よりも卑劣な詐欺商法が蔓延っていたと言えよう。

 販売店にとって、こういったピアノの一番のメリットは、定価がないことだ。なので、「ドイツ仕様」というドイツ製を連想させる表現で高額な定価を付け、「現品限り」「今だけの特別奉仕」などと謳い、30〜50万円引きという有り得ない値引きにより劣悪ピアノを販売したのだ。
 そう、それだけ値引いても、まだ適正な価格よりずっと高いので、販売店は痛くも痒くもなかったのだ。極端な話、40万円で売っても利益の出るピアノに90万円の定価(ヽヽ)を付け、40万円値引きしている感じだ。あわよくば、ほとんど値引きしないこともあったと言われている。今では考えられない程の、かなり悪どい商売が蔓延していたのだ。
 不思議なことに、こういった詐欺は、比較的ゆとりのある家庭ほど引っ掛かった。当時、高度経済成長を終えた日本では、ピアノ普及率が30%を超えていたとも言われている。
 かつては上流階級だけが持つ高級家財の象徴だったピアノも、むしろ、ピアノを所有してこそ中流階級の証のようなイメージに格下げされていた。だからこそ、上流階級の世帯ほど、国産の大量生産とは一味違う「特殊性」を求めたのだろう。他とは違う、一ランク上のプレミア感を求めたのかもしれない。或いは、ゴージャスな見た目に騙されたのだろうか。
 ピアノ文化がまだ根付いていない当時、ピアノの本質を見極める目も耳も持たない金持ちは、格好のターゲットにされたのだ。

「あぁ、これは良い音だ。本当に素晴らしいピアノですね。コンディションさえ良ければ、言うことないのですが」
 更に次の展開へ持ち込む為、松本はさり気なく布石を打った。案の定、絹代は少し表情を曇らせ、期待通りの反応を示した。
「あのぉ、すみません、このピアノ、状態は良くないのかしら?」
 絹代は、何の疑いもなく自らまな板に上がってきた。期待以上の反応に、思わず笑みが溢れそうになる。(はや)る気持ちを抑え、松本はジックリと料理するべく、先ずは慎重に下処理から始めることにした。
「ちょっと弾いただけで、こんなもんじゃないだろうなってのは分かりますよ。本来ならもっと鳴る筈です。宜しければ、ちょっと中を見ましょうか? そのぉ、申し遅れましたが、実は私、調律師でもあるんですよ」
 そう言いながら、絹代の返事も待たずに、松本は外装を手際良くバラした。
「あぁ、やっぱり。このピアノ、二十年以上放置されてますね? 埃も黴も錆もすごいことになってます。すみません、折角なので軽く中を掃除させてもらいますので、掃除機と雑巾をお借り出来ますか?」
「え? そんなことまでして頂いて、よろしいの?」
「何を仰いますか。私が中身を見たいだけですから、それぐらいやらせてくださいよ。こんな名器、滅多に会えないのですから!」
 このセリフも、松本の常套句だ。中を掃除して貰えると聞いて、嫌がる人はまずいない。その為に、掃除機と雑巾を貸してくれと頼まれれば、断る人もほぼいない。
 しかし、松本の目的は掃除ではなく、絹代の目を離すことだ。

 絹代が席を外した隙に、松本は隠し持っていたドライバーで、幾つかのバットフレンジスクリューを緩めた。すると、ハンマーが見た目で分かるぐらいグラグラになるのだ。
 こうして、こっそりと人為的な不具合を作り、虚偽の説明で修理に持ち込む……いつもの手法、つまり「C難度」の仕事を取るつもりなのだ。
「漆原さん、ちょっとこれご覧頂けますか? ほら、この部品。ピアノはね、この部品が弦を叩いて音を出すんですよ。でも、これ、グラグラになってるでしょ? 壊れてますね。ほら、こっちも。あと、こことここも。あぁ、この音もダメですねぇ。これだと、マトモに演奏出来ませんよ」
「あらヤダ、どうしてこんなことになったんでしょう?」
「ピアノも生き物ですからね、定期的にお世話をしてあげないと、色んなところにガタが出ますよ。そうじゃなくても、年数が経てば色んな部品の劣化や消耗も起きますからね。この部品だけじゃなくて、例えば、この部品とか……ほら、これはね、全部虫喰いの跡です。服に付く虫って見たことないですかね? あの虫がね、ピアノの中に入るとフェルトの部品を食べちゃうんです」
 実際は、使用による経年変化の消耗に過ぎないパーツを見せ、インパクトの強い「虫喰い」の所為にした。

「あぁ、これもダメだ。勿体無い。このピンが緩くなると、調律しても音がすぐ狂っちゃうんですよ。これは変えないとダメだろうな……」
 見るからに、絹代は不安な表情になっている。その様子を見て、松本はそろそろ仕上げに取り掛かることにした。

「でもまぁ、多少の問題はあるにしても、こんな名器が受け継がれるご家庭って羨ましいですよ。もっとも、直ぐに修理は必要ですけどね。えぇと……漆原さん、余計なお世話かもしれませんが、お嬢様はこのピアノ、修理が必要ってことは分かってます?」
「あ、いえ、そのぉ、そのまま使えるもんだと思ってたので……」
「あぁ、そうですかぁ……よくあるケースですが、例えば何年も放置してた車で出掛けようって人、いないですよね? 無事にエンジンが掛かったとしても、何処か壊れてるかもしれないし、走れたとしても、いつどこで何が起きるか分かりませんからね。ピアノも同じなんですけど、何故かピアノは壊れないって思い込んでる人が多いんですよ」
「……」
「確かに、ピアノは車のような法的に義務付けられた整備はありませんよ。普段のメンテも壊れた時の修理も、するもしないも自由です。ただね、お孫さんが弾くんですよね? 折角こんな凄いピアノなのに、ろくに音も出ない状態だと、練習にもならないし意味ないですよ」

 予想外の話に戸惑い、黙り込む絹代を尻目に、松本は更に畳み掛けた。
「無礼を承知で、ハッキリ言わせてもらいますね。このピアノを貰ったお嬢様、喜びますかね? この状態なら、下手すりゃ迷惑かもしれませんよ。旦那さんも、修理が必要なら買った方が良かったのに……って考えるかもしれませんし」
「そんな、迷惑だなんて……」
「もちろん、漆原さんに全く悪気がないことは、皆んな分かっています。悪気どころか、ご家族の為を思った善意ってことは、キチンと伝わっています。だからこそ問題なのですよ。折角の善意でもね、例えば、エンジンも掛からないような壊れた高級車を貰って、嬉しいですか?」
「……確かに、壊れてたら困りますね」
「困ると言うか、私は迷惑ですね。修理代がバカになりませんから。だったら、最初から状態の良い中古を買った方が良かったなと。でも、あげた方はそんなこと知らなくて、しかも全く悪気がない、いや、もっと言えば、本当に相手のことを考えて、善意だけで良かれと思ってやってるってことも分かってたら、本人にはとても文句なんて言えないですよね?」
「まぁ、そうですね……」
「実際にね、寄贈のトラブルは凄く多いんです。今日は、たまたま私が下見に来たから良かったものの、普通の運送屋は調律師ではないですからね、ピアノの状態なんて分かりません。このピアノの価値に気付くこともないし、搬出経路を見るだけで終わったでしょうね。で、移動してから、どうしようって問題になるんです。壊れたまま受け取っちゃうと、もうどうしようもないじゃないですか。そういうトラブル、年に何回も見ていますよ」
「このピアノは捨てて、買い直してあげた方が良いのかしら?」
 このセリフを待っていた松本は、ようやく針に食い付いた大物を確実に釣り上げるべく、一気にリールを巻くことにした。

「何を仰ってるんですか! こんな名器を捨てるなんて、ピアノに対する冒涜ですよ!」

(6)釣果

 突然、声を荒立てた松本に、絹代は少し動揺すると同時に、松本がこのピアノのことを真剣に考えていると信じ込む様子が見て取れた。もちろん、松本はその効果を狙っていたのだが。
「でも、このピアノを貰っても、迷惑じゃないかって……」
「勘違いしないでください。酷いのはピアノじゃなくて、状態(ヽヽ)です。このピアノは、ものすごく価値のある素晴らしい楽器なんです。捨てるだなんて、そんな悲しいこと……今はただ、何と言うのか……そうだな、カール・ルイスが怪我をしてるようなものですよ」

 敢えて、古い偉人の名前を使って喩える……これも、松本が得意な話術だ。そうすると、世代のギャップが埋まり、無意識に相手は親近感を抱くそうだ。美空ひばり、プレスリー、千代の富士、山口百恵、長嶋茂雄……など、松本は、常に何パターンかの喩え話を準備していたのだ。
 案の定、絹代は真剣な眼差しで松本の話に耳を傾けている。

「直せば良いんですよ。カール・ルイスだって、怪我をしてたら速く走れないけど、怪我が治ればまた速く走れますよね? こういう名器は、修復すれば生き返りますし、優に百年は使えるのです。それに、新品の高級品よりも、このピアノを修復した方が良いに決まってる。素材が違いますからね。今はね、どれだけお金を出しても、こんなに良い木材は手に入りませんから! 仮にあったとしても、シーズニングと言いましてね、良い木材は長年寝かせるほど、より良い状態になるのです。だから、今の時代では、作りたくても絶対に作れない貴重なピアノですよ、これは」
「そうなんですね。私もね、本音は使えるなら使いたいんだけど、でも……直すと言っても、幾らぐらい掛かるのかしら?」
 もう、絹代は完全に修理して使う方向に考えが向いているだろう。ここで大切なことは、決して急がないことだ。そして、結局は利益が目的なんだな、と思われないように、お客様の考えを尊重しているように装わないといけない。

「それは、何処まで直すかにも依りますね……」
「どういうこと?」
「一般論になりますけど、こういうことは、結局はお客様の価値観とか使用目的次第なんですよ。私なら完璧にした方がいいと思っても、お客様はそうとは限らないですからね。例えば、最低限使えれば良いのか、お孫さんが大きくなるまで問題なく使いたいのか、外装はこのままで良いのか、ある程度綺麗にしたいのか、塗装をやり直すのか、他にも色んな条件がありましてね、幾ら掛かるかは内容によって大幅に違ってきます」
 そう説明しながらも、絹代の表情を注視する。もう、C難度はほぼ確定したと考えていいだろう。そのことに松本は安堵した。出来ればD難度まで持ち込みたいが、強引にならないように慎重な交渉を心掛けた。

「そうねぇ、確かに後からあれやこれやと修理が出てきたら、旦那さんが良い気しないわね。娘の旦那ね、ちょっと面倒臭い方なの。それに、このピアノはね、亡くなった主人がとても気に入ってて、形見のような物だから。出来ればずっと使って欲しいもんでね、折角なんで、徹底的に直そうかしら? それだと幾らぐらい掛かるの?」
 松本は、D難度の場合なら四十万円と予め決めていた。その金額を口にしかけたが、今朝の会議での屈辱が頭を過り、一か八かの勝負に出ることにした。
「ザッと見積もった限りなので、後から多少の前後は出てくるかもしれないけど、外装抜きで五十五万円ってところですかね。施工期間は……そうだな、二ヶ月は掛かるかな。念入りにやりたいピアノですしね。アクション、鍵盤、弦、響板、フレームと、全てオーバーホールします」
「あら、そんなものなの? 私、てっきり百万円ぐらいするものだと思ってましたわ。それぐらいなら、是非お願いしようかしら」
 松本は、拍子抜けするぐらいの反応に安堵すると共に、内心で少し舌打ちした。もっと吊り上げて良かったのだ。しかし、これでD難度はほぼ確定だ。少なくとも、来月はノルマを下げられず、減給もない。

「外装はどうしましょう? このままでも良いとは思いますが、別途十万円程度でクリーニングも出来ます。専用の機械で研磨するんですが、びっくりするぐらいピカピカになりますよ。それか、いっそのこと全塗装するって手もありますね。ピカピカどころか、見た目は新品同様になります。あとですね、クリーニングも全塗装も運送費込みの金額ですので、もしどちらかやってくださるなら、移動の運送費が無料になりますよ」
 ピアノ専科の工房では、ベテランの木村と数名のアルバイトが働いている。調律師上がりの松本と杉山も、空き時間には作業を手伝っているが、アクションの調整や出荷前の調律など、専門技術を要するものだけに限られている。簡単な修理やクリーニングは、全て時給千円程度のアルバイト達にやらせているのだ。
 なので、アップライトのクリーニングは、せいぜい二万円程度の実費で済む作業だ。また、全塗装も説明とは裏腹に、実際には塗装なんて面倒なことはしない。より丁寧にクリーニングするだけのことだ。黒の鏡面艶出し塗装のピアノは、素人には全塗装とクリーニングの見分けは付かないだろう。
「その全塗装だとお幾ら?」
「全塗装の場合、提携している塗装屋の見積もりになりますが、おそらく三十万円ぐらいですね」
「そう。じゃ、それでお願いしますわ。本当に運送費は掛からないの?」
「ありがとうございます! もちろん、全塗装やクリーニングの運送費は搬出料とか搬入料も全て込みの金額ですので、修理代と塗装代だけのご負担になります」
「総額85万円ぐらいってことで間違いないのね?」
「本日中にでも、改めてお見積書を作成しますので、正式な金額はそちらをご確認ください。まぁ、85万円からは大きく外れないように約束しますが、申し訳ないのですけど、総額じゃないです。どうしても、消費税は別途掛かってしまいますので、総額だと90万円を少し超えるかな、って感じになります」
「あぁ、そりゃそうですよね。嫌ですね、税金って。分かりましたわ。では、95までと考えてもよろしいかしら?」
「はい、それはもう、私の責任で何があっても95は超えないって約束します! お孫さんもピカピカのピアノが届いたら、そりゃあもう大喜びでしょうね! それと、納めてからの調律とキーカバー、お手入れセットはサービスで付いておりますが、私の独断でトップカバーも新調させて頂きますね」
「勝手にそんなことしてよろしいの?」
「こんなに素晴らしい名器に出会えたのですからね、それぐらいはほんの気持ちです」
「ありがとうね、もう後は松本さんにお任せしますわ」

 松本の直感は当たり、この釣堀では久しぶりに大物が釣れた。まず、雨も降らないだろう。

(7)騙すこと、騙されること

 ピアノ専科の事務室に戻った松本は、真っ先に社長室へ向かい、報告に上がることにした。
 榊との面会は、特にこの数ヶ月は、気分が沈み足取りも重く苦痛でしかなかった。しかし、この時ばかりは、数ヶ月ぶりに胸を張って入室出来た。もちろん、これぐらいのことで、ここ数ヶ月の目も当てられないような惨めな結果を帳消しにしてくれるほど、甘い会社ではない。それでも、今朝の叱責を糧にして、その日のうちに結果へと繋げたことは、ささやかながらもポジティブに受け止めてもらえるだろう。

「報告いたします。先程、移動依頼の漆原絹代様宅へ下見に行きました。D難度で総額九十三万円の見込み、降水確率は10%、以上です」
「よし、良くやった。来月からも頼んだぞ」
「ありがとうございます。この数ヶ月のご迷惑を取り戻すべく、明日からも気合いを入れて精進します」
「そんな言葉は要らん。結果で語れ」
「はい、分かりました」
 退室する松本を、榊にしては珍しく、柔らかな笑顔で見送った。

 榊は瞬時に計算していた。まだ二週間弱あるとは言え、松本の今月の売上げは何とか250万円ってところだろう。ノルマ割れは確実だ……と。
 それでも、土壇場で見せた彼の意地に、そして、今朝の会議での叱責を即日結果に結び付けた強運と根性に、榊は満足したのだ。
 そして、思った。そろそろ、松本を解放してやらないといけないな、と——。

 その夜、帰宅した松本は、一人で祝杯を挙げ、デリヘルを呼んだ。松本の住居は、古い店舗付き住宅だが、一階の店舗部はシャッターを下ろしたまま、長年足を踏み入れることなく放置されている。
 そこは、かつてピアノ修理工房として使っていた。その名残から、今でもコンプレッサーやチェーンブロック、ボール盤、バフ機、ベルトサンダーなどの機械が所狭しと設置されたままだ。
 しかし、それらは最後に使ったままの状態で、時間が止まってしまった。窓に掛かったブラインドも中途半端に上がったままで、まるで廃墟のような出で立ちだ。片隅には、古い型のグランドピアノが、壊れたレコードプレイヤーのように静かに佇んでいる。
 二階にある2LDKの居住スペースで、松本は一人暮らしをしていた。両親と過ごした日々のことを、意識的に思い出さないようにしている。温もりと愛情に溢れていた記憶を封印し、いつしか殺風景で無機質な部屋になったことも、特に寂しく感じることすらなくなっていた。

 しかし、時折、父の形見のチューニングハンマーと音叉を取り出しては、物思いに耽ることもあった。こんな筈じゃなかったのに……と自分の人生をつい振り返ってしまうのだ。
 古い音叉をポーンと鳴らしてみた。微かに聞こえる440hzの正弦波。しかし、音叉のテール部分をテーブルに付けると、何倍にも増幅された音が静まり返った部屋に鳴り響く。妙な温かみを帯びた音に包まれると、催眠術にかかったかのような瞑想状態になり、そのまま自己を見つめ直していた。
 人を騙すことに抵抗がなくなったのか? と問われると、答はノーだ。高齢者を騙すことに、そして、その為にピアノを利用していることに対する罪悪感から、松本は一度たりとも解放されたことはなかった。杉山や草薙のように、ゲーム感覚で楽しみながら仕事に取り組む同僚もいたが、松本にとっては、後ろめたさや罪悪感との闘いだった。
 もう、こんなことはやめよう。人を騙す為に調律師になったのではない——。
 チューニングハンマーを握りしめ、そう決意しようとするも、なかなか一歩が踏み出せないでいる。自分を取り巻く諸々の現状を鑑みて、どうしても尻込みしてしまう。それに、残り百を切ったとは言え、まだ榊へのケジメは果たしていないことを思い出し、詐欺を続ける言い訳に転嫁する。
 本当なら、このチューニングハンマーを使って、普通の調律師として生きるつもりだった。いや、それは今からでもやろうと思えば出来る。榊に真剣に頭を下げれば、きっと分かってくれるだろう。
 松本は、おそらく世界でもレアな、榊のことを理解している人間だ。こんな詐欺商法の片棒を担ぎ、パワハラ紛いの扱いに抗わず、法もモラルも無視してこき使われても、榊の元を離れるつもりはなかった。そう出来ない事情もあったが、それ以上に昔の榊に恩義もあったし、感謝もしていたのだ。
 沢山のことを犠牲にしてきた人生だが、それは榊の責任ではない。自分の責任だ。むしろ、松本が今、普通の生活を送れているのは、何度か訪れた人生の節目で、いつも力を貸してくれた榊のおかげと言えるだろう。
 そう、今の松本には、榊に付いていくしかない。人を騙したくなくても、人を欺くことでしか生きる術が無い。結果、自分を偽ることで、辛うじて心の均衡を保つ毎日だ。

 予約時間より十五分も遅れて、デリヘル嬢が来た。若い巨乳の子とリクエストしたのだが、やって来たのは何処かで見覚えのある女だった。さて、どこで会ったのだろうか……と記憶を辿ると、直ぐに答が分かった。日中にファミレスで話し掛けてきた女だと思い出したのだ。
 幸い、人と目を合わせられない女は、松本のことを覚えていないようだ。いや、気付いていようがどうでもいい。松本は、乱暴に女の衣服を脱がし、大きな乳房にむしゃぶりつき、立ったままセックスした。会話も前戯もなく、荒々しく、いきなり挿入を試みる行為に、最初は戸惑い抵抗も見せた彼女だが、結局は松本を受け入れた。おそらくだが、早く済むならそれもアリと判断したのだろう。
 愛のない性欲の処理は、ほとんど「作業」とも言える行為だが、所詮女も「労働」に過ぎない。作業と労働……そこに、大した違いはない。しかし、女の下手な演技と白々しい嗚咽は、性的な快楽などないことを物語る。「労働者」として二流だな……急激に近付く射精を促す快楽の波を前に、松本はそう「査定」した。
 そして、やっぱりコイツは化粧が濃いな、と再確認した。しかも、間近で見ると、思ったより歳を食っていたし、期待していた乳房も少し大きいだけで、張りがない上に垂れ気味だ。おまけに、乳首や乳輪の色も好みじゃなかった。
 松本は、期待外れの「商品」に三万円も請求された。価値の乖離だ。

 こういった相場や価値から逸脱した見積りと請求は、いつも自分自身がやっていることだ。因果応報なのか……ただ、不思議なことに、数ヶ月振りにD難度を取れた日だからか、満足なセックスでもないのに損した気分にはならなかった。
 そう、どれだけボラれようが、損したと思わない限り、人は怒らないのだ。むしろ、それが妥当だと思えば納得するし、得したと思わすことが出来れば喜びさえする。最低でも、ターゲットに騙されていると思わせないこと、或いは、騙されていることに気付かせないことが、詐欺を働く上で最も重要なのだ。

 漆原絹代も、騙されていることに全く気付いていない。むしろ、旦那の大切さな遺品が再生され、娘の自宅に運ばれ、孫が愛用する……そう信じて止まないのだ。
 それに、表向きは本当にその通りになるのだ。もちろん、修理は契約の内容通りには実施しない。「超」が付くほど手抜きで行うし、金額もぼったくりだ。でも、それに気付く人はいるのだろうか?
 気付かなければいい、という話でもないが、少なくとも、出費者の絹代は、騙されていることに気付かない限りは満足している筈だ。
 今日は、たまたま松本の気分が良かった。女はコンテンツもサービスも失格だが、客を怒らせずには済んだ。どうであれ、それはそれで成功なのだ。たとえ、それが彼女の功績でなくても、判断材料は結果だけなのだ。
 同じように、絹代が騙されたと感じない限り、いや、極論では、騙されたと分かっても、支払い額に対する結果に納得さえしていれば、商売は成功なのだ。

 女を下まで送ると、迎えの車が待機していた。運転手は、例のヒョロヒョロの馬鹿だ。幸い、男は松本に関心がなく、見ようともしない。でも、もし目が合うと、夜とは言え松本に気付く可能性もある。揉め事を起こした相手に、自宅を知られるのは好ましくない。これからはホテルを使おうと決意した。そして、次からは、違うデリヘル業者を利用しようと思った。
 そう、客は些細なことで、依頼先を変えるもの。それに、ネットユーザーは、相場を調べ、他店と比べるものなのだ。松本は、その辺りのユーザー心理を、身をもって実感した。

羊の瞞し 第1章 MELANCHOLICな羊

羊の瞞し 第1章 MELANCHOLICな羊

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登録日
2024-02-06

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  1. (1)ファミレスにて〜プロローグに代えて〜
  2. (2)ショールームにて
  3. (3)地獄の審問
  4. (4)釣堀
  5. (5)ドイツのピアノ
  6. (6)釣果
  7. (7)騙すこと、騙されること