悪魔が光に成る日

悪魔が光に成る日

「もう、死んでしまおう。こんな苦しいだけの人生ならば、生きるだけ無駄だ」
 暗い部屋の中で、縄を結びながら、青年が独り言をブツブツと呟いていました。
「そうかなあ、俺は、そうは思わないぜ。せっかく生まれたなら最期まで生きてみりゃあ良いじゃねえか。楽しい事や、嬉しい事も、結構あるのかもよ」
 青年は、悪魔のその立場に似つかわしくない助言を、鬱陶しく思いました。

 青年は、最期の前に、今までの人生を振り返ってみようと、椅子に腰かけました。
「幼少期は、両親から虐待を受けていた。……フフフ、希望なんて、生まれた瞬間から、無かったんだな」
 すると、悪魔は「笑ってごらんよ」と肩を叩きました。
「親だってさ、人間なんだから、完璧じゃないんだよ。それに、普通に見える家庭だって、色々な苦しみがあるんだぜ、なっ、お前だけが損をしたと、思っちゃいけないぜ」
 悪魔は「それに」と付け加えました。
「お前のお母さんや、お父さんだって、お前を愛したくて、愛し方が分からなくて、苦労したんじゃねえかな。立派な親になろう、優しい親になろう、愛情深い親になろう。そういった志や目標が、未熟で弱い自分を押しつぶして、心がいっぱいいっぱいになっちまって、悲しいことに、お前に怒鳴りつけたり、殴ったりしたんじゃないか。俺はその様に考えているぞ」

 青年は、悪魔の言葉を、嗤った。
「悪魔のお前が、そんな真人間みたいな事を語ると、皮肉だな。悪魔らしく、人間を堕落させる言葉のひとつや二つぐらい、言ってみたらどうだ」
 悪魔は咳払いをして、続けて言いました。
「お前はさ、学生時代にいじめを受けた記憶も、直視したくはないんだろ。嗚呼、その気持ちは解るさ。多勢に無勢で、殴られて、蹴られて、罵られて、侮辱されて、悔しかったんだろ。どうしようもない、無力な自分が嫌になって、復讐する気力や体力だって湧かなくて、ただ、自分が消えてしまえば良いんだって、思い込んでいたんだろ。俺には解るよ。でもな、お前は負けなかったよな」
 青年は噛みつくような話し方で、悪魔に反論した。
「なにが『負けなかった』だ。ふざけるな。俺はずっとずっと、負けっぱなしだったんだぞ」
 青年の背中を撫でながら、悪魔は続けて言いました。
「いいや、負けてなんかない。これっぽっちも負けてなんかない。お前は復讐しなかった。お前は自殺を迷う事はあっても、死ぬ事は無かった。その証拠に、今まで生きてきた。お前は勇敢なんだよ。群れて一人の男を攻撃する事しかできない、見せかけの強さの者達とは、大違いだ。本当に負けているのは、いじめを楽しむ馬鹿達なんだよ、そこに気づけって」

 項垂れた青年は、ぐずっ、と鼻をすすり、目元を拭いました。
「……だが、学生時代を生き延びたって、俺は結局、トラウマを乗り越えきれず、精神病を患った。両親からは、少しずつ理解してもらえたが……。いつも口を開けば『早く仕事を見つけなさい、寝てばかりいるんじゃない』と急かされて、その度に、孤独が深まった」
 彼の苦しみの羅列に、悪魔はそれでも鼓舞しました。
「ああ、確かに心の病との闘いは、地獄の苦しみだったろう。俺もいつも隣で見守っていたから、それはよく覚えている。少ない友人達とも段々と疎遠になり、寂しい気持ちを募らせていただろう。もう、仕事どころではなく、だからと言って治療も進まず、お前自身が最もその苦しみの中で、孤軍奮闘していた」
 青年の黒髪を撫でて、悪魔は賛美しました。
「お前の、負ける事を知らず、耐え続ける魂は、美しい。その自覚を持ってほしい。お前がこのまま、本当に首を吊る準備を続けて、この部屋の真ん中でぶら下がったら、俺はゆるさねえぞ」
 悪魔の励ましに、青年は歯を食いしばって、両膝を拳で叩きました。
「俺だって、死にたくなんか無い。死にたくないさ。だが、十一年耐え続けても、このフラッシュバックは治らない。一瞬だけ、楽しいとか、嬉しいとか、生きてて良かったと思える時間がやってきても、フラッシュバックが背後から迫るんだ、俺の首を掴むんだ。その時に応じて、最悪だと思える記憶を選んで、出てきやがるんだ。俺の青春時代も、仕事も、趣味も、友人関係も、家族との暮らしも、全て、台無しにされているんだよ。解るだろ、この悪魔め。お前も悪魔なら、悪魔らしく俺を嗤えッ」

 悪魔は、慈しみの眼差しで、諭しました。
「良いか、生きる事は苦しみだ。それでも、生きる事は喜びだ」

 青年は、一言だけ「そうかい」と呟くと、結び終えた縄の輪に頭を突っ込んだ。
 ぼんやりと、暗い天井を眺めて、ほんの短い時間の間で、今までの人生を振り返り、胸の内側で納得しようと、必死に言い訳をしていた。
「これで良い。これで、良いんだ。俺は死んだら楽になる。それだけで良い」

 悪魔は、悲痛な面持ちで言いました。
「死んでも楽になんかなれねえ。生きて幸せになろうじゃないか」

 あとは、足元の椅子を蹴とばすだけの青年は、フッと笑ってお礼を言いました。
「ありがとう。悪魔のお前でも、最期の話し相手がいて、嬉しかったよ」

 椅子が倒れた。青年の体が、まさに宙にぶら下がる、その時であった。
 悪魔は、青年のために縄を断ち切りました。
 自分の首を指で撫でながら、青年は唖然としていました。
「どうして」
 何分間、黙っていたか、分かりません。
 ですが、やっとの思いで搾り出せた言葉が、その一言だったのです。
「どうして、悪魔のお前が邪魔をする」
 怒りとも、悲しみとも判別のつかない、その様な声音で青年が問いかけます。
 悪魔は、自身の腹に手を当てて、わざとらしく、大声で笑いました。
「どうしてかなあ。まあ、邪魔をしたいだけさ、ははは」

 笑っていると、悪魔は突然、ガクンと両膝をついて苦しそうに咳をします。
 彼の体が光輝く欠片となり、ゆっくり、ゆっくりと崩れ始めました。
「おい、どうした、どうしたんだよ」
「はぁ、はぁ、なに、どうってことは無い、俺が消えるだけさ」
「消えるって、どういう事だ」
 ゼェゼェと肩を喘がせながら、悪魔は痛みを堪えた笑顔で語ります。
「俺は、生きている人間を、一人、助けた。魔物は、誰も助けちゃ、いけないんだぜ。本当は、蹴落として、騙して、欺いて、堕落させて……。へへッ。それが、本来の悪魔の姿さ」
 悪魔は増してくる苦しみに、思わず両腕で頭を抱えて、倒れました。
「だから、俺は、死ぬんだ。俺という悪魔は、死んじまうんだ」
 青年は、光を放ちながら崩れ去りつつある悪魔の体に、そっと触れました。
「自分が死ぬと解っていながら、俺を助けてくれたのか」

 もう、一言も声を出す力は無く、それでも、心穏やかな微笑で、悪魔は頷きました。
 それが、彼の最期でした。
 粉々に砕け散った、光り輝く破片が、部屋中に散らばりました。
 生きながらえた青年の姿と、悲しみに満ちていた暗い部屋を、かつて悪魔であった無数の欠片が、照らしてくれました。

悪魔が光に成る日

悪魔が光に成る日

  • 小説
  • 掌編
  • 青年向け
更新日
登録日
2024-02-06

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