スイカの騎士夏咲
夏咲十歳。籠の中の白い鳥、チルチル姫の騎士に叙任!
山のふもとの村と籠の鳥
至福のアニメーションタイムは深夜零時に始まる。
ここは都会と言えば都会で、田舎と言えば田舎とも言える、Y県澄川市の八畳一間の安アパート。画面が一番よく見える折り畳み卓の前に陣取って、来月で十一歳になる夏咲(なつさ)はオープニングに釘付けだった。
ギターと壮大なストリングスに合わせ、鋼のような歌声のボーカリストが激しく喉を震わせる。それにつれて夏咲の首が縦に弾む。
ぺったり座った膝の上にコンビニのハンバーグを乗せ、右手には割り箸を握っている。文字通り「握る」である。小学五年生にもなって、夏咲は中指を箸の間に挟めることが出来ない。
夏咲はその箸でハンバーグを突っつきながら、画面を食い入るように見つめている。リスのような薄茶色の目は瞬きを忘れたかのよう。時折柔らかな栗色の髪を邪魔そうに払いのけ、灰色のスウェットで口の周りのソースを拭う。二年前に買ったこの服は肘や袖にほつれが目立つし、娘らしくなり始めの体の線を晒すかのようににパツパツだ。
北向きの窓の上では古いエアコンがブウンブウンとうめいていた。お母さんは昨夜、千円札を一枚置いて、アルバイトに出たきり帰って来ない。
部屋の中央、熱の無いLEDライトの照らすちゃぶ台の上には、今夏咲が食べているハンバーグのプラスチック皿が積み重なって、すえた臭いを放っていた。
部屋の一隅には洗濯物の山がある。色褪せしたTシャツや、お母さんの紐のようなパンツの上に放り投げられたランドセルからは、教科書やノート、担任の先生が特別に命じた、三年生のドリルが雪崩を起こしていた。
「はああ、熱感ロック最高」
夏咲が溜息まじりに呟いた時、玄関のドアがガタリとなった。
「ただいま、夏咲あ」
お母さんが、くねくねと腰を振りながら、妙に艶っぽいハスキーボイスで叫んだ。夏咲は食い入るように画面を見つめたままだ。
「ねえ夏咲、夏咲ったら夏咲あ!」
夏咲は眼球だけ動かして、右脇にしゃがみこんだ母親を見た。
ぱさぱさのトウモロコシの髭みたいだった髪が黒くなっていた。洋服も若作りのギャルファッションから、清楚な白いブラウスと水玉のロングスカートに変わっている。売れないキャバ嬢にとって小さくない出費だろうに。
(ああ、またきっと騙されているぞ)
「ねえ、今度こそお母さん運命の人に出会ったわ。弁護士の卵なの!とーっても頭がよくてイケメンなの。あたしと一緒に住みたいって」
てらてらに脂ぎった鼻をぷわっと広げながら、お母さんが言った。夏咲と似ていない、眼球の小さい亀のような離れ目をだらしなく歪めてうっとりと微笑む。
夏咲は聞く人を思わず振り返らせるような、蜂蜜レモンみたいに甘酸っぱい声に、無関心の皮を被せた憎しみをにじませた。
「そうなんだ」
「何よう、クールぶっちゃって」
「めんどくさい。それはそうと、お母さん、あたしがいるってことをその人に話した?」
「……」
「話してないんだ」
「だってえ、十六歳で誰か分かんない人の子供を産んだことがわかったら、印象悪くなっちゃう。まだ出会ったばかりだし.」
「……あたしは今度何処へ預けられるの?おばあちゃんは去年死んじゃったよ。伯父さんは、もう絶対面倒見ないって言ってるし」
「I県の橋爪村ってところよ。夏咲の名付け親のお家なの。丁度先方の方から夏休みを村で過ごさないかって、申し出があったのよ。だから案外居家にいるより心地いいかもよ。それで……もしも、彼があんたと一緒に暮らしたくないって言ったら、その時はまたお母さんを自由にしてね」
「どうでもいいや」
夏咲は、ほとんど自堕落といってもい程の無気力さで答えた。そのリスの様な淡い茶色の目に映るのは、画面の中で生き様を競うキャラクターたちだけだった。
夏休みが始まった。夏咲はお母さんと大きなバッグを持って電車に乗った。最初は大勢の人が乗り降りしていた客車は、線を乗り継ぐごとに人影はまばらとなり、蝉の声だけが大きくなってゆく。
二回目に降りた駅まではしっかりとした建物だったが、それから後に降りた駅舎はどれも、駅員も居ないコンクリートの箱のような建物ばかりだった。信じられないことにエアコンもない。夏咲は首と額の汗をぬぐいながら、本数もまばらな電車を待った。
四つ支線を乗りついたところでお母さんはタクシーを呼んだ。駅舎の薄闇の中から夏の日差しの中へと踏み出たとき、夏咲の頭上に大きな山塊が現れた。
それは切り立って頂上のぎざぎざした山だった。その山頂から幾筋も尾根と渓が流れ、まるで折り目の付いたびょうぶのように見える。山肌は濃い緑だが光の角度によって紫がかって見えた。タクシーはその山がそびえる方向へと走り出した。
(山奥だ!本当に山奥だ!お店が無い、コンビニもない!)
タクシーは険しくなってきた上り坂をひた走った。林の隙間から、あの山が見えたり隠れたりしながら近づいて来る。山というものは近づけば近づくほど全容が見えなくなり、代わりに細部がはっきりと迫って来る。滑らかだった山肌は黒々と繁る木々となり、見上げる角度となった山は、からからと笑うように夏咲を見下ろしていた。
やがて車はなだらかな丘がいくつも連なる土地に出た。一面には乾いた畑が耕作され、黒みがかった葉がわしゃわしゃと生い茂っている。その陰に、丸い大きなものがいくつも転がっていた。
「お母さん、あれは何?」
「さあ、知らない」
お母さんはいじっているスマホから目も上げなかった。
タクシーは、畑の真ん中に浮かんでいる島のような、林に囲まれた家の前に停まった。
「わあ、トトロのお家みたい」
それは木造平屋で、夏咲の街の家々と比べると随分大きな家だった。棟はコの字型に連なり、白いペンキを塗った外壁と赤く輝くトタン屋根がどこか北欧を思わせた。
「夏咲、降りるわよ」
ドアを開けると熱気が汗の引きかけた頸筋を包み、夏草の匂いが鼻腔に満ちた。改めて辺りを見回せば、母屋の南側の庭には屋根付きの水場があり、そこを中心とするように真夏の花々が涼やかに揺れていた。
グラジオラス、ヒマワリ、ラベンダー、夏咲が知っている花の名はこの三つのみ。だがその他に何と沢山の花たちがこの庭に咲き誇っていることだろう?この家の人は、この花たちすべての名前を知っているのだろうか?
とりどりの花々の向こう側に、白いペンキ塗りの離れが佇んでいた。窓には青いカーテンがぴったりと閉じられ、なんとなく息をひそめているようにも見える。
ギュキイイイと、滑りの悪い音を立てて玄関の引き戸が開き、背の低く肩幅のがっしりとしたおじさんが出て来た。おじさんは尺八のようにひゅうひゅうと空気の漏れる声に、不機嫌を隠しもせずに呼びかけた。
「いらっしゃい、明子さん」
「どうもどうも、佐原さん。ご無沙汰していました」
「夏咲ちゃん?」
おじさんの後ろから抜けるように色の白いおばさんが、鶴のように細く長い首をひょいっと伸ばして尋ねた。熟した果実酒のようにまろやかな声が僅かに震えている。
「ご挨拶は?」
夏咲は蜂蜜レモンのような声を張った。
「渋川夏咲です。五年生です」
「十年ぶりだわ。大きくなったわね」
ぺこりとお辞儀してそっと頭を上げると、おばさんの目はなぜか潤んでいた。
「明子さん、ここじゃなんだから上がって下さい」
「いいえ、ご迷惑でしょう?忙しい所お邪魔いたしました。これ、お納めしておきます。夏咲、いい子にしているのよ」
お母さんは一枚の茶封筒をおばさんに押し付けると、逃げるようにタクシーに乗り込んだ。逃げ水の中走り去っていくタクシーの後ろ姿を見つめながら、夏咲は浅くため息をついた。車が丘と丘の間に姿を消した時、おじさんが空気の抜けたような声で一こと言った。
「明子さんは相変わらず現金だな」
おじさんは突っ掛けを引きずって玄関の方へと向き直る。夏咲は自分が叱られたみたいに思って、うなだれた。
「夏咲ちゃん、暑いでしょ、中へ入りましょう」
おばさんが夏咲の肩に触れ、どこか悲しんでいるような声で言った。
二人に付いて玄関に入ったとたん、夏咲はギャッと悲鳴を上げた。大きな熊が両手を上げ、今にもガオーと襲い掛かって来る……。
「て、あれ、これ人形?」
「これは俺が撃った獣のハクセイだ」
「ハクセイって何?死んでるの」
よく見ればクマの隣には、タヌキ、キツネ、テン、色々な生き物が今にも動き出しそうな姿勢で固まっている。夏咲は青くなった。
(どうしよう、どうやらおトイレは玄関の脇だよ)
通された居間は、八畳の畳敷きの和室だった。反り返った脚の四角いちゃぶ台が置かれ、イグサの座布団が四辺に置いていあった。茶箪笥の上に、神社にあるようなひらひらした紙と、奇麗な矢とで飾られた棚があった。あのびょうぶのような形の山の絵の描かれた札もある。
(あれが本物の神棚か。アニメ以外で始めて見た)
ちゃぶ台の前に着いた夏咲だが、部屋は外と比べればやや涼しいぐらいだった。夏咲はよしずの揺れる窓の上を見上げた。エアコンの設置されている気配はなかった。夏咲の視線を察しておじさんがひゅうっと言った。
「夜になれば自然と涼しい風が入る」
夏咲が口をぱくぱくさせていると、おばさんが大きなお皿を持って入って来た。
「夏咲ちゃん、喉が渇いたでしょう、お上がんなさい」
「わあああ!スイカだ、こんなに沢山」
夏咲は頂きますも言わずに、宝石のように輝く果肉に手を伸ばした。シャリシャリと口の中で砕ける果肉から、甘い果汁が口いっぱいにほとばしり出る。一気に三切れも平らげてしまった後で夏咲は不意にはっとなった。
「もしかして、あの畑にごろごろ転がっていたのは……」
「ああ、スイカだよ、家は代々スイカ農家だ」
「クソー、夜はまだまだこれからなのに」
夏咲はおばさんが引いてくれた夏布団の上で転がりながら歯噛みした。これからここで暮らすにあたって、夜九時に寝て朝六時に起きることを命じられてしまったのだ。
「熱感ロックは十二時からだよ、はあ……」
夏咲にあてがわれた部屋は八畳の和室だった。古いが小綺麗な学習机と本棚とラック、そうしてへたくそな山水画が描かれた押入れが二つ備え付けられていた。
「不思議だ、初めてじゃないみたいに落ち着く。サイズぴったりの靴みたい。あああ、これでテレビさえあったら文句ないのに……」
夏咲はまだ開けられたままの障子から縁側の方を見やった。闇の中に灯っていた黄色い灯りがふっと消えた。夏咲ははっとした。
「あれはきっと、おじさんとおばさんの寝室だ。二人も夜九時に寝ているんだ」
夏咲の頭に閃きが落ちた。確か離れにもテレビがあったはずだ。
夏咲は、学習机の上に置いてあった懐中電灯を手に廊下に出た。音を立てないように裏口を開ける。そのまま裸足で庭を横切って離れの戸口をそっと引いてみた。
グググ、くぐもった音を立てて戸口は開いた。夏咲はその隙間に薄い体を滑り込ませ、心臓の上を抑えた。照明のスイッチを探って小玉に着ける。薄ぼんやりと、49インチのテレビとグレーのソファー、天井から吊り下がった、大きな銀色の鳥籠が浮かび上がった。
「蒸しあっつい」
そろりそろりと網戸に開けると、頸筋にかいた汗に夜風がひんやりとしみた。
夏咲はテレビの主電源を押した。けばけばしい光ととも、「ギャハハハハハ」というバラエティーの音声が機械の中から響いて来た。慌ててリモコンを探り寄せ、音量を弱くする。
「やったあ!これで熱感ロックが見れる。後はコーラでもあったら最高なのに」
「飲み物ならそこの冷蔵庫にあってよ」
ツンと取り澄ました女の子の声が言った。その声音は蜜のように甘い。
「誰?」
夏咲は蒼ざめて周りを見回す。
「安心なさい、あの二人には黙っていてあげてよ」
声は鳥籠の中から聞こえてきた。植物の弦を思わせる曲線模様の隙間からのぞく宿り木には、カラスほどの大きさの白い鳥が留まっていた。薄暗い照明の中でも、その羽毛は雪のように輝き、目はサファイアに月光を透かしたように青い。
どう考えてもその声は、じっとこちらを眺めている、その鳥の発したものに違いない。
「鳥!鳥がしゃべった!」
「うふふ、子供らしく素直な反応だこと」
「鳥さん、あなたは何なの?」
「全ての鳥の王女様、チルチル姫よ!」
リスのような瞳を落っことしそうなほど見張った夏咲に向かって、白い鳥は誇らしげに翼を羽ばたかせて見せた。
頭の上の羽が花咲くように広がった。それは五色の冠羽だった。燃える赤と深海の青、シトロンの黄色と若葉の緑、そして夕闇に一瞬だけ現れる紫の光線の色……。
「わあああ、綺麗……」
「そうでしょう?そうでしょう?」
白い鳥は自慢げに鳩胸を逸らした。夏咲は薄闇のなか宝石のように輝く冠羽に見惚れていた。唇をもぞもぞとさせたまま次の言葉が出てこない夏咲に、白い鳥は問いかけた。
「夏咲、あなたは本当にナツサ?」
「うん、そうだよ、あたしは渋川夏咲」
「予想外にふにゃふにゃした騎士だこと」
「騎士?あたしには聖剣も必殺業も使命も何も無いよ」
「予言に読まれているの。『夏咲』という騎士が現れてあたくしを開放すると」
「予言?まさかのファンタジー展開!」
「知ってる?あのおばさんは魔女なの。あたくしをここに十三年も閉じ込めているの。ああ、高貴なる鳥の王女が、こんな貧乏ったらしい、人も顧みない離れに一人きり……、食事はと言えば粟粒ばかり、たまにはアマランサスやキヌアが食べたくてよ」
「悪い人たちに見えなかったけど。美味しいスイカをくれたよ」
「あのハクセイたちを見た?あのおじさんはあたしもずどんと撃ったのよ」
白い鳥は翼を広げて今も残る傷跡を見せつけた。夏咲の頭は熱を持って、思考がうまい具合に回らなかった。
「さあ、今からあなたを騎士に任じます。左手を出して」
夏咲は魅入られたように左手を鳥籠の隙間から差し込んだ。チルチル姫は真っ白い右の翼で手の甲を二回たたいた。
「汝騎士たれ。これでよし」
夏咲は息を呑んだ。それから思いついて、鳥籠の出入り口を引っ張ってみた。
「開かない」
「そんな開け方で開くもんですか。ここから出るための謎を解くのが、この高貴なチルチル姫の騎士たるあなたのクエストよ。」
「くえすとって何?アニメやゲームで良く聞く言葉だけど、本当はどういう意味なの?」
「どこまでも飽くことなく探し求める事よ。高貴な姫を救うことは、一番ベーシックなクエストね。あたくしを解放するための『冒険』と取ってもらっていいかしら。」
「ううんと、良く分からないけれど、アニメの『ディスティニー・ナイツ』の、ラーハイドがシエル姫を救う旅に出る、っていうのと似ているのかな?」
「それが当世風の騎士物語?そうね、そうよ。その探求が、あなたの魂を清めて、より高い次元に導くでしょう。」
チルチル姫は自分の言葉にうっとりとしているようだった。夏咲はただ白い鳥に見惚れるばかりだった。画面の向こう側に憧れていた冒険が、目の前にすっと差し出されてきたというのに。
「どうすれば謎が解けるの?」
「そんなのインスタントに分かるはずないでしょ。そこからまず探求しないと。でも、予言の詩はこう結んでいる。『宝物を見つけたとき、囚われの鳥も空に飛び立つ』と」
橋爪村の生活
夜が明けた。
午前六時に夏咲はたたき起こされた。夫婦はもう一稼ぎしてきた後らしい。おばさんは汚れた野良着を脱いで、規則正しいリズムで野菜を刻み始めた。おじさんはホースで花に水をまいている。
「夏咲ちゃん、お顔洗って歯も磨いてらっしゃい」
ハクセイにされたくない夏咲は渋々と顔を洗い、歯も磨いた。その後夏咲の口の中を検分したおばさんは、眉をしかめて「歯医者さんへ行きましょうね」と言った。
ぴぴーと炊飯器が鳴って、ご飯が炊けた。おじさんもおばさんも山盛りのご飯を食べる。夏咲にも、見間違いじゃないかというほどてんこ盛りによそってくれる。深夜二時までアニメを見ていた夏咲は眠くて食欲が出ず、それでも無理に詰め込んだ。
「さあ、朝のお茶よ」
おばさんが透明のマグカップに、紅色をしたお茶をたぷっと注いだ。新聞を読みながら、目もやらずにおじさんはそれを飲む。夏咲は「もしかして毒薬」と体を硬くした。おばさんは色素の薄い目で試すように夏咲を見た。
夏咲は目をつぶり、息をつめてそれを飲み下した。かすかな苦みの中、薔薇のように甘い芳香が鼻いっぱいに広がった。飲むと不思議と眠気が消えるようだった。
食事の後、おじさんが夏咲にひゅううと告げた。
「村の子供たちを紹介しよう」
おじさんは夏咲を従えて緩やかな丘を下り始めた。夏咲は、熊の隣で物言わぬハクセイとなった自分を想像し身を震わせたが、おじさんは丸腰で、夏咲をずどんと撃つことはなかった。
村道はスイカ畑の只中を突っ切って伸びていた。道々の草は朝露に濡れ、サンダル履きの足指を冷たく濡らした。やがて道は丘の麓に広がる林の中へと下る。杉の木は背が高く、低い枝が打ち払われて整った姿をしていた。朝霧をまとった森蔭は薄暗く、あたかもまだ夜明け前であるかのようだ。
木々の上に背の高いスピーカーが頭を出している。その下は林を切り開いて、ブランコや滑り台などささやかな遊具を配置した公園となっていた。おじさんはそこに二つの塊を作っている夏服の子供たちに声をかけた。
「昨日から家で預かっている夏咲だ。みんな仲良くしてやってくれ」
「渋川夏咲です。よろしくお願いします」
ぺこりと下げたつむじの天辺に、無遠慮に突き刺さる視線が痛かった。おじさんは仕事が沢山残っていると言って、夏咲を置いて帰ってしまった。夏咲は子供たちの様子を眺めた。
ひらひらした洋服の女の子が三人ブランコに腰かけてゲーム機をのぞき込んでいる。鉄棒の脇では原色のジャージやTシャツを着た男の子が四人、カードゲームに興じていた。
皆にやにやしながら夏咲の方をチラ見している。話しかけてくれる素振りもない。
沈黙に耐えられなくなった夏咲にくるりと振り向いて帰ろうとすると、その背中をコーンスナックのようにカサカサした声が無遠慮に追って来た。
「あいつん家、ネグレクトだってよ」
「やめなよハラナカ、可哀想だよ」
夏咲は一目散に走った。林の中をもと来た道を駆け上がっていく。整列した軍人のような木々が、後ろへ、後ろへと切れてゆく。冷たい霧の粒が濡れた頬にぶつかって余計に冷たかった。
「ああ、情けない、敗走だ!」
朝露で濡れた足がサンダルで擦れて痛くなったが、胸の痛みの方が大きかった。
赤い屋根のお家に逃げ戻って来たものの、誰もいない母屋に帰る気にはなれなかった。夏咲の足は白い離れへと向かった。
夏咲は扉をぴったりと閉じるや否や、床に突っ伏して嗚咽した。チルチル姫が朝の光に漂白されたみたいに輝きながら言った。
「夏咲、何でそんなに泣くの?何か恥ずべきことをしたの?」
「あたし可哀想なんだって……、これでも頑張って生きているのに……幸せな子供にあたしの気持ちなんて分かんないよ!」
「やはりあなたには高貴な騎士の素質があるのね。自分が不当な扱いを受けていると知っているし、憐れみを恥じる誇り高さがある。でも夏咲、辱められて泣いているだけでは自分を高められないわ。こんな時こそあたくしの糞を掃除して下さらない」
「どうしてあたしがそんなこと!」
「姫に尽くすのは騎士の務めでしょう。辛い時こそ奉仕なさい」
夏咲は嗚咽を腹に飲み込んで、鳥籠の下板を抜いて庭の中央にある水場へ向かった。くたびれた容器に入った洗剤をブラシに付けてごしごしと磨いた。
シャボンの泡が虹色の光を放ち、勢いの良い水に押し流されて消えていった。泡がすべて消えたとき、夏咲の心のぐじゃぐじゃは少しだけ晴れていた。
下板を鳥籠の下に戻すと、チルチル姫がまた要求した。
「ついでに水を換えて。それから粟粒が少なくなってるわ」
「わがまま姫だね」
「何を言うの?生き物には皆それなりに居心地よく暮らすことが出来るっていう権利があるのよ。囚われの身の上だって、厄介者の身の上だって。そうね、これからあなたは毎日あたくしの身の回りの世話をなさい。ちょっとは宝物に近づけてよ」
夏咲は言われた通りに水と餌を変えた。チルチル姫はおいしそうに水を飲み、上品ぶった仕草で粟粒をつっついた。
夏咲は腫れてすっかりと丸さを失った目でそれを眺めていた。
チルチル姫を開放するためには一体何をすればいいのだろう?夏咲の宝物とは?
「よく解らないことは後回しでいよね、とりあえずの宝物は、アニメを見る時間だ」
夏咲は離れに忍び込んでは深夜アニメを見続けた。おじさんとおばさんは知ってか知らずか、朝六時に夏咲を叩き起こした。
夏咲は、名残惜しそうに布団から右足を出す。左足を出すときにも瞼と瞼が、別れを惜しむ恋人同士のようにくっついて離れない。おじさんは朝ご飯までに勉強をするように言い聞かせたが、夏咲はドリルを広げた上に突っ伏して二度寝した。
朝ご飯は朝摘みの夏野菜のお味噌汁と漬物、卵焼きや焼き魚だった。どれもコンビニの味になじんだ夏咲には物足りない。
夏咲は美味しそうにご飯を食べないと、すぐにでもハクセイにされてしまいそうな気がして、無理して口に詰め込んだ。
おばさんはそんな夏咲を見つめ、鶴のように長い首を傾けて哀しそうに笑った。おじさんはもとより夏咲もおばさんも見ないで、新聞の文字だけを追っている。
朝ご飯の後には決まって紅いお茶が出された。それは庭の薬草を使った、おばさん特製のハーブティーだった。
「これはあたしのおばあさん直伝のお茶よ。朝には朝のお茶、昼には昼のお茶、夜には夜のお茶」
夏咲はつい口を滑らせた。
「おばさんのおばあちゃんって魔女だったの?」
おばさんは鶴のような首を傾げ、色素の薄い目にいたずらな光を浮かべた。
「そうよ、おばあさんはロシアの魔女だったの」
夏咲はごくりとのどを鳴らした。
おじさんが無造作にお茶のカップに手を伸ばしてぐいぐいと飲んだ。夏咲はリスのような目をぽろっと落ちそうなほど見開いて、それを見つめる。
「何だ、どうかしたか?」
おじさんは何がおかしいんだと言うような目で夏咲を見ている。
「お父さん、夏咲ちゃんは魔女の毒薬で蛙にでも変えられるんじゃないかと恐れているのよ」
おばさんがくつくつと笑いながら言った。おじさんは全く腑に落ちた様子もなく、くそ真面目に言った。
「俺は四十年このお茶を飲んでいるが、血圧の数値以外至って健康だ」
そのまままた新聞の方へかかりっきりとなってしまう。夏咲は口をパクパクさせている。おばさんは熟した果実酒のような声でコロコロと笑い転げた。
朝ご飯の後、おばさんは夏咲の伸ばしっぱなしの髪を結わいだ。
「今日は風が騒ぐから水色のシュシュにしましょうね」
おばさんの膝の上は骨ばっていたが、真冬のカイロのように暖かだった。
村の子供と馴染む気が無いことを悟ったおじさんとおばさんは、夏咲を連れて畑へ出かける。丁度スイカの出荷の時期なので、猫の手も借りたいらしい。夏咲はスイカを沢山乗せた猫車を、おじさんの赤い軽トラックまで何度も往復させた。
都会と比べ空が本当に近く大きく感じた。強烈な青色なのに水彩のように淡く、すうっと解けていくようだ。西側にはあのびょうぶのような山がそそり立っている。畑から見上げる山頂には、草木の生えない、今にも崩れそうな石の窪みが、ぽっかりと口を開けている。
畔の脇でこびるの御焼きを食べながら夏咲は尋ねた。
「あの山は何て言うの?」
「蘭嶺山だよ」
おじさんが空気の抜けた尺八みたいな声で一言だけ答えた。
「神様が住んでいる山よ。この山の火山灰のおかげで、いいスイカが育つの」
おばさんがそう補足した。
夏咲には、こんなにも間近に火山が迫っていること自体が新鮮だった。
(火山灰、あの窪んだところから火を吹くんだ。なんだかちょっと怖い)
JA橋爪にスイカを出荷すると、三人は家に帰った。そうめんやざるそばのお昼ご飯の後緑のお茶を飲んで、おじさんとおばさんは長い昼寝を取った。夏咲もこれ幸いと眠りをむさぼる。
午後も遅く、山の上から涼しい風が吹き渡り始めるころに、夏咲は目覚めた。うううん、と伸びをすると、台所の方から煮物や焼き魚の、焦げ臭いような匂いが漂ってくる。
「あああまた、ホッケの干物か。ハンバーグが食べたい……」
夕ご飯が始まるのは何時も六時少し前だった。畑からとって来たばかりの野菜の煮物や炒め物、魚や肉やお味噌汁。そしてご飯だけは、ふっくら甘くて夏咲の舌にも美味しい。
味が薄くてかさばかり腹で膨れる食べ物を、夏咲は無理に詰め込んだ。ハクセイにされるなんてまっぴらだ。
だがその晩、おばさんは少しだけ寂しそうに、長い首をかしげるとこう言った。
「お父さん、家のおかずは小さい子には人気のないメニューかもね」
おじさんは声も出さずに頷いた。
「ねえ、夏咲ちゃん、何か食べたいお料理ってある?」
「ええと、ハンバーグ……」
いろいろ迷ったが、夏咲の口からはそんな素直な言葉が紡がれた。おばさんは色素の薄い目に嬉しそうな微笑みを浮かべた。目じりに浮いた大きなしみがぐっと歪んだ。
「ハンバーグ、そうなの、それじゃ、お父さん、明日はハンバーグにしましょう」
夏咲は涙腺が沸騰したように熱くなった。
(え……、あたしのお願いって、そんな風に快く聞いてもらえるものなの!おばあちゃんの家でも厄介者の扱いだったのに)
涙が湧いて来るのを抑え込んでいると、おばさんが透明のマグカップに青いお茶を注ぐ。
「さあ、夜のお茶よ」
おじさんはNHKの地域ニュースから視線も移さずにそれを飲んだ。夏咲も続いてそれを飲む。軽い苦みと、ムスクを思わせる香りがある。
「体の熱気が鎮まって、よく眠れるのよ」
おばさんのとび色の目は、合図するように夏咲のリスのような瞳に注がれた。夏咲は、離れで夜更かししていることなどお見通し、と暗にほのめかされているような気がして、まだ熱いお茶をごくんと飲み下した。
(チルチル姫と仲良くなったことを知られたらまずいのかな?)
しかし、だからといって素直に早寝する夏咲ではない。おじさんとおばさんの寝室から明かりが消えたことを確認するや否や、夏咲は懐中電灯を手に、足音を忍ばせつつ大急ぎで庭を横切る。もう心臓がバクバクいうこともなく手慣れたものだ。
夏咲は意外なアニメ仲間を得た。チルチル姫が俄然興味を持ってきたのだ。
「ラーハイドはいい仲間を得たわ。テリオと息がぴったり」
「でも何で手袋を投げるの?」
「あれは騎士の作法よ。決闘を申し込む時に左手の手袋を投げるの。夏咲も覚えておきなさい」
緊迫の画面に、チルチル姫はピンと尾羽を立てて腰を振った。
「あの妖艶な婦人は誰?」
「魔女のレイミアだよ」
「ラーハイドに懸想しているの?」
「『ケソウ』?ラーハイドが好きで陰ながら彼をバックアップしてくれるんだよ」
「シエル姫との関係は?」
「もうチルチル姫、あんまり質問されると集中できないよ」
そしてアニメのプログラムがすべて終わって、テレビが夏咲の興味のない通販番組に切り替わるころ、夏咲は遠い目をして、甘酸っぱい声に哀愁を漂わせながら、言うのだった。
「ねえチルチル姫、永遠に夏休みが続けばいいのに。永遠にお母さんが彼氏に捨てられることがないといいのに」
白い冬の影
夏咲が橋爪村に来てから二週間ほどたったある日のことだった。
午後、いつも通り夏咲が昼寝をしていると、玄関の方から、おばあちゃんの挨拶をするがらがらした声が響いた。
「ごめんください、ゴウさん、ユキさん」
「あらあらいらっしゃい、コヨばあちゃん、ミチちゃんも」
「ユキおばさん、こんにちは」
夏咲はタオルケットを蹴飛ばして跳ね起きた。どうやら同じ年ごろの女の子のものらしい、湿り気を帯びたメゾソプラノの声だ。
夏咲が万年床と化した夏布団の上でおろおろしていると、その声が言った。
「ユキおばさん、夏咲ちゃんて居る?」
「ええ、今お昼寝中よ、夏咲ちゃん、起きて、お友達がお見えよ」
夏咲はワタワタして、薄い布団を足元の方にぐるっと丸めた。押し入れにしまう時間の余裕はなかった。部屋には夏咲の私物が散乱しているが、それはまったく見慣れたものだったので、恥ずかしいとさえ思わなかった。
「夏咲ちゃん、入っていい?」
「え、ああ、は……」
玄関脇の引き戸がぎゅぎゅいと鳴って、夏咲より大人びた体形の、ボブヘアの女の子が入って来た。優しげな眉毛と切れ長の一重まぶたをしている。
「初めまして夏咲ちゃん。あたし、畑山美知佳」
「あああ、はい……、渋川夏咲です……」
「敬語はいいよ、同じ小学五年生だもん」
「うん……」
「いつか遊びに行こうと思っていたの」
「あああ、ええと……、どうして?」
「ユキさんから聞いたよ、夏咲ちゃんも『熱感ロック』のファンなんだってね」
「夏咲ちゃんも……、って、ええ、もしかしてあなたも!」
「うん、そう、あたしも大好きで原作本は全巻揃えているんだ。ほら、『熱感ロック』って、あたし達より少しお姉さんが好きな作品じゃない?村に話が合う子がなかなかいなくって、そんな時夏咲ちゃんが、いつも第一巻を大事に見ているって聞いて、それでおばあちゃんにかこつけて遊びに来たの。もしかして迷惑だった?」
「そんな、迷惑だなんて……。でも、あたしなんかと話していて楽しい?」
「だって趣味が一緒なのに?ねえ、キャラクターでは誰が好き?推し声優とかいる?」
夏咲には友達と言える友達がいなかった。ちょっと仲良くなっても、夏咲の境遇が先方の親に知られてしまうと、面倒を避けるように遠ざかっていくのだ。
夏咲は清らかな炎が心臓に灯り、それが血液に溶け体中を巡って、細胞の一つ一つに、エナジーを届けてくれるよう心地だった。
夏咲はその午後、ミチちゃんと尽きることなく好きなアニメや漫画の話をした。
「それじゃあ夏咲ちゃん、明日絶対に家に来てよね」
「うん、もちろん」
そう約束をして、夏咲の初めてのお友達は帰った。
一人になった部屋の真ん中に座り、夏咲は溜息をついた。作品について語り合ったときの、キュンキュンを胸に何度も再生してみる。
「お友達、お友達、初めてのお友達……」
あくる日の午後、夏咲は一番くたびれていないTシャツを着てミチちゃんの家に出かけた。
畑の周りの林では、ミンミンゼミが自棄を起こしたような音量でわめいている。太陽がアニメのエフェクトのように、プリズムを連ねた輝きを放っていた。
とにかく暑いのに、その熱さの底に僅かに、消えゆく夏の手触りのようなものが生まれていた。あと一か月も経たずに、自分は街へ帰って行く。夏咲はなるべくそのことを考えないようにした。
「いらっしゃい、夏咲ちゃん」
玄関先でにこやかにミチちゃんが出迎えてくれた。
早速通されたミチちゃんの部屋は、夏咲の部屋とさして違わない造りだった。広さも、間取りも、古めかしさも。
しかし、障子の裏にはシャーベットオレンジのカーテンが引かれ、畳の上にも同色のカーペットが敷かれていた。白っぽい木地の机の上には教科書やノートが整然としまわれ、大きな本棚の中には大量の漫画本が、巻番号の通り几帳面に並べられている。
「わあすごい……、『ユーカリプリンセス』、『竜衣』、『お嬢様は何時もブルー』もある!」
「それも好きなの?本当に好みが合うね」
二人は夕刻までおしゃべりをした。
ミチちゃんは、アニメを見るために夏咲が夜更かししていると聞いて、湿り気を帯びた声を潜めた。
「あたし達の歳だとそんなに夜更かししちゃいけないはずだよ。あたしはお父さんのタブレットで配信を見てるの。気に入った回は何度も見れるからいいよ」
夏咲は目からうろこが落ちる思いだった。
「そっかああ、その手があったか。でも、おじさんもおばさんもデジタルには疎そうだよ」
「テレビにブルーレイはついていないの?」
「はああああああ、そっかあ……。ついてたよ普通に……」
夏咲は少しだけ落ち込んだ。素直に見たい番組があると頼めばよかったのだ。
ミチちゃんから夜更かしを止められ、五冊の漫画を貸してもらって、夏咲は家に帰った。
浮き浮きしながら玄関を開け、自分の部屋の引き戸を開いたとたん、夏咲の頭に雷様が怒鳴りつけたような衝撃が走った。
「あたしの部屋、汚い……」
夏咲の部屋はお母さんと暮らす古アパート同様に、混乱、猥雑、錯綜の極みにあった。
万年床と化した夏布団は今朝まで夏咲が寝ていた通りの形を保存し、おばさんが洗ってくれた洗濯物は布団の脇に放り投げられている。
夏休みに入ってから一度も開かれたことの無い教科書やドリルの類は、平気でその上を歩く乱行を夏咲に許し、やっとの思いで買ってもらい、宝物のように何度も読み返しているマンガも、定位置など持たずに気ままに転がっている。
ミチちゃんの綺麗に整った部屋が頭に思い描かれた。
「どうしよう、このままここで大事なお友達から貸してもらった本を開いたら、汚れてしまうような気がする」
夏咲は必死に部屋を片付けてみようと試みた。三十分ほど一人右往左往してから、夏咲はおばさんに、半べそをかきながら懇願した。
「おばさん、あたし、お掃除の仕方が分からないの……。ミチちゃんのお部屋はとても綺麗だったのに、あたし、あたしどうしたらいいの?」
「夏咲ちゃん、偉いわ、よく自分で気が付いたわね。そうね、今から教えてあげます。一緒に片づけてみましょうね」
夏咲はおばさんから衣類の畳み方を教わった。分類してしまうことも、同じ種類のもの同士近くに並べることも教わった。
机の上には綺麗に教科書が並べられた。大事な漫画もラックの上に住処を持った。棚や机の埃を取り、布団も上げて掃除機をかけた。夏咲の荷物が少ないこともあり、部屋は三十分ほどで綺麗になった。
「どうもありがとう、おばさん……、本当にありがとう」
「これからは自分で綺麗を保つ努力をしましょうね」
晩ご飯はハンバーグだった。満を持しての二回目の登場だ。
おばさんのハンバーグはふっくらと柔らかく、畑で採れたトマトと夏野菜とで、甘酸っぱく煮込まれていた。味付けはコンビニのと比べると薄味だが、もう物足りなく感じることもなくなっていた。
大好きなハンバーグをちょっとずつ突っつきながら、夏咲はてんこ盛りのご飯をお代わりした。そして、努力して箸を正しく持とうとしていた。
「ねえおじさん、離れのテレビで録画して欲しい番組があるんだけども……、いい?」
「ああいいよ」
尺八のような声で伯父さんが言った。夏咲はチルチル姫の言葉を思い出した。
(おじさんがチルチル姫をずどんと撃ったんだ。あたしにはとっても優しくしてくれるのに。何だか結びつかないなあ……)
夏咲は思い切って質問をぶつけた。
「ねえおじさん、おじさんはいろんな動物をずどんと撃つの?チル……、うううん、クマとかタヌキとかテンを」
「ああ、そうだよ、おじさんは猟友会に入っているんだ」
「リョウユウカイ?」
「動物が人里に降りて悪さをしないように、数を保っているんだ」
「どういうこと?」
「夏咲、家のスイカは美味しいかい?」
「うん、とっても」
「夏咲の美味しいスイカはタヌキやハクビシンが食べても美味しい。山に食べ物が無い時、獣たちは里に下りて畑を荒らす。動物が増えすぎると、勢い食べ物の競争が激しくなって、里に下りる個体が増えて来る。獣の数を正常に保つために、そして人間は怖い、人里は危険なところだと教えるために、おじさんたちは猟をしているんだ」
「おじさんはそれ以外では一回も動物を撃ったことがないの?」
おじさんは手元のお茶の漣を見つめた。
「一回だけあったよ。あの子の最後のお願いだったから……」
「あの子?」
それきりおじさんは黙りこくった。
おじさんの奥まった目は涙をためていた。眩い夏の光に包まれていた夏咲の心に、白い吹雪の幻がさあっと吹き付けた。
その晩夏咲は、大分早い時間に離れのブルーレイをセットしに行った。
「ねえチルチル姫、今日からアニメは真夜中に見ないで、録画したのを明日のお昼に見ることになったから」
「あらそうなの。あたくしも鳥ですもの、夜よりは昼間の方が物がよく見えてよ」
「それから……、あのう、ええと……、チルチル姫に聞いていいことかどうかわかんないけど、おじさんとおばさんに子供っていたの?」
「冬華のことね」
「フユカ、それがおじさんとおばさんの子供なんだ。冬華ちゃんはどこにいるの?」
「冬華はもういない、あなたが生まれてくる前に死んだわ」
チルチル姫は蜜のように甘い声で重い言葉を告げた。夏咲は息をのみ、なかなか次の言葉が出てこなかった。だが気を取り直すと、探るように声を上下させながら尋ねた。
「おじさんは冬華ちゃんのお願いで、チルチル姫をずどんと撃ったって聞いた。冬華ちゃんはどうしてそんなことをお願いしたの?」
「あたくしがここに囚われていれば、十二年後、自分の生まれ変わりの騎士があたくしを開放しに現れると予言したの。冬華は重い病気だった。医者は半年で匙を投げたそうよ」
網戸から舞い込む風が、やけに冷たく湿っぽく感じた。
「冬華ちゃんの生まれ変わり……、って、あたしが?」
「冬華は闘病の傍ら、今あなたがしてくれているように、あたくしの糞を掃除して水と餌を換えてくれた。そのころこの籠は離れではなくて冬華の部屋にあった。今あなたが使っている部屋よ」
夏咲の脳裏に今自分が使っている部屋の様子が浮かんだ。古びても綺麗な机、流行おくれのラック、墨汁のものらしい染みのあるふすま……。今の夏咲とそっくり入れ替わっている誰かの存在……。
真夏の宵の温度の中で、ざわざわと肌があわ立った。頭と涙腺が焼けるように熱かった。畳敷きの床がぐにゃぐにゃになって、体が地中に呑まれて行ってしまいそうだった。
「冬華ちゃんて、どうしてそんな予言みたいなことが出来るの?」
「冬華はユキ以上の魔女だったのよ。蘭嶺山の神様からの寵愛が厚かった。でも、だからこそ、あんなにも早く呼ばれたのかもね」
「チルチル姫の馬鹿!どうしてもっと早く教えてくれなかったの!」
「それも冬華の掛けた呪いよ。あなたからの質問が無い限り、あたくしには進んで教えることが出来ないという。
それにしてもまあ、よくここまでのん気に何の疑問もなく過ごせたものね。あたくしは感心していたわ。でも、知ってしまった以上は今まで通りという訳にもいかないでしょう。
夏咲、あなたはどうするの?あたくしを開放するというクエストは、あなた自身の謎を解くというクエストと同義になった。謎を解くか、逃げるか、自分で判断なさい」
「逃げない!逃げないよ!絶対……」
夏咲は蜂蜜レモンのような声を割って、歯を食いしばった。リスのような目はぐじゃぐじゃに歪んで、大粒の涙が滴った。夏咲は肩を震わせながら部屋に戻った。その背中にチルチル姫が言葉を投げた。
「夏咲、あたくしは信じていなくてよ。あなたが冬華の生まれ変わりだなんて」
夏咲に応える余裕はなかった。
その晩夏咲は初めて夜九時に電灯を消して布団に入った。
夏掛け布団を腹に巻いて、何度も何度も寝返りを打つ。頭の中は不安と悲しみと憤りがブリザードのように渦を巻いていた。
「おじさんもおばさんも、あたしが冬華ちゃんの生まれ変わりだって思っているから、あたしに優しくしてくれるんだ。二人が本当に愛しているのは冬華ちゃんなんだ。
知っている、お母さんはあたしなんかちっとも大事じゃないの、自分の都合がいい時だけべたべたと可愛がってくる、ペットのハムスターと同じ。おばあちゃんも伯父さんも、あたしのこと全然よくは思っていなかった。あたしは居ない方がいい子供だった……。
でも、この家に来て、おじさんとおばさんの為に初めていい子になりたいと思った……、お部屋を片付けて、お箸も上手に持って……、勉強だって頑張るつもりだった。だって、ここに居ていいと言ってくれる人はおじさんとおばさんしかいない……それが誰かの身代わりだったなんて!あたしはもう自分自身を可哀想に思いたくないよ……」
夏咲はそれから長いこと悶々と寝返りを繰り返していたが、秋じみてきた虫の声になだめられるように、まどろみの中に落ちた。
気づけば夏咲は、夜の闇に包まれた冬山の中を歩いていた。
こんもりと積もった雪は、夏咲が経験したどの雪よりも細かくて水気が少なかった。一歩踏むごとに足の裏で雪塊が崩れ落ちる。夏咲は荒い息を吐き、必死に上体を保った。びっしょりと汗をかいた背中だけが自棄に熱いのに、指先はかじかみ、鼻の穴は凍りそうだ。
「蘭嶺山の神様に会いに行かなきゃ」
どういう訳か、夏咲の頭の中には、そんな文句が呪文のように繰り返されていた。
奇妙な形に雪をまとった木々の間から、何対もの光る目がこちらをうかがっている。
「あれはずどんと撃たれたクマやタヌキたちだ。シカやキツネやテンだ」
光る眼は山道の両脇にずらり並び、青い街灯のように道筋を示している。
山頂に近づくにつれていよいよ雪は深くなる。夏咲は、雪灯りにほの白く光る息を吐き、腰まで埋もれながらも、雪をかいて進んだ。
山頂には石で出来た祠があった。しめ縄が渡され、シデがはたはたとはためいている。
「スイカの騎士、夏咲様の御詣でです」
甲高い声が言った。夏咲は雪の中に跪いて身を低くした。すると、間近で聞く雷鳴のような声が、荒々しい音の波となって夏咲の耳を、全身を打った。
「夏咲、夏咲、いかなるわけでわしを詣でた」
「知りたいんです。あたしが本当は何者なのか。あたしは本当に冬華ちゃんの生まれ代わりなの?」
「それについて答えるのは、わしよりも室の方がふさわしかろう」
闇に包まれて輪郭しか見えないが、祠の前に巫女の服を着た細身の人影が進み出た。
(……長い首がおばさんに似ている)
その影は果汁を滴らせたように瑞々しい声で呼びかけた。
「夏咲ちゃん、ヒントをあげる。農機具置き場の二階の納戸よ、そこに一つ仕掛けがある。秘密の一端だけではないわ、色々と面白いものが眠っているはず。さあ、もう夜が明ける、昼の理屈が支配するときになる、お行きなさい、勇敢なるスイカの騎士夏咲!」
夏咲はパチリと目を開いた。
壁の時計は六時二分を指していた。
「夏咲、起きなさい」
おじさんの空気の抜けたような声が響いた。
夏咲はがばりと起き上がった。額や鼻の下には玉の汗、それなのに手足の指先だけがかじかんで青くなっている。
「ただの夢じゃないよ、絶対に!」
夏咲のクエスト
その朝、夏咲はやりたいことがあるので畑へは行かないといった。
「夏咲ちゃん、やりたいことって何?」
「ううん……、解決出来たら話す……」
夏咲はうつむいて唇を真一文字に閉じた。 赤い軽トラックの前に立ったおばさんは、鶴のように長い首をかしげて、白い離れの方へ視線を送った。そして全てわかっているというようなまなざしで夏咲を見た。
「行こう、俺たちに黙っていたことだってあるだろう。子供には冒険が必要だ」
おじさんがひゅううと言った。
おじさんとおばさんの乗った軽トラックを見送ると、夏咲はすぐに農機具置き場の二階の納戸に向かった。
締め切った窓を開け、光と風を入れる。まだ霧の匂いがする空気が流れ込んで来る。
夏咲は無言で調査を始めた。
おばさんのパッチワークの大作が数点あった。おじさんの獣罠が二三個戸棚に入っていた。古い食器、新聞の切り抜きスクラップ、今は使わなくなった家具、それらとはっきり区別されているように、子供がいたことを思わせる品々が、窓と反対側の壁際に集められていた。
ピンクのステッチの白いランドセルがあった。人形、ぬいぐるみ、絵本、子供服……。大事に保存された画帳の数々を見て、夏咲は深くため息をつき、背中を丸めて座り込んだ。村のコンクールで入賞したと記されれている絵の裏には、子供の字で「佐原冬華」と書かれていた。
涙にかすみ始めた目で棚の中を探ると、古いアルバムが沢山出て来た。
そこに写っていたのは今より大分若いおじさんとおばさんと、抜けるように白い頬に沢山そばかすを浮かべた、鳶色の瞳の女の子だった。
紺色のブレザーを着たその子が、色素の薄い目をお茶目に見張り、微笑んだ口元から舌をぺろりと出して、入学式の看板の横で写真に納まっている。
遠足、運動会、キャンプ、文化祭、冬華の成長を記録する沢山の写真が残されていた。夏咲は鼻をすすった。夏咲には、小学校の記念撮影の他に、プリントしてもらった写真がほとんどなかった。
肌に心地よかった冷気は、日が高さを稼ぐごとにじりじりと焦げ付いて来た。古い紙や木製品の放つ黴くさい臭いが、暑熱のせいで鼻に張り付いてくる。
すっかりかすんだ目で見上げれば、窓から差し込む強烈な光線に、埃たちがきらきらと舞っていた。
(あたしの存在も、この埃と同じくらいに軽いんだ……)
束の間の輝きを放つ埃の向こう側に、水色のアルバムの背表紙があるのが見えた。
「夏咲ちゃん」、その背表紙にははっきりと書かれていた。
気付くと夏咲は立ち上がり、震える手でそれを手に取り開いていた。栗色の髪の毛の、リスのような目をした赤ちゃんの写真が沢山収められていた。
「夏咲ちゃん、生後二週間、お家へいらっしゃい」ピンクのおくるみを着た赤ちゃんの写真の下には、おばさんの字でそう書かれていた。
今よりもちょっとだけ若いおじさんとおばさんが、赤ちゃんを大事そうに抱いて微笑んでいる。
「はいはいが出来るようになりました」「喃語期が始まりました」「離乳食が始まりました」「つかまり立ちが出来るようになりました」一つ一つに写真の下には、慈しみの言葉が記されていた。夏咲は震えが止まらなかった。
「これはあたし?あたしなの?」
結局夏咲はそれ以上調査を続けることが出来なかった。
「今日はもう無理だ……。胸がざぶざぶと揺れて、震えを抑えるので精いっぱい。『仕掛け』を掴むことは出来なかったけれど、明日までに心を静めて頑張ろう。
それにして、はっきりと分かったことがある。
あたしは赤ちゃんのとき、このお家にいたんだ。写真の背景はどれもこのお家だ。どうしておじさんもおばさんもそのことを教えてくれないのだろう?どうしてあたしを手放したのだろう?」
お昼ご飯の冷や麦をすする間に、夏咲は何度も口を開きかけてはやめた。ミョウガとネギの辛みが、鼻につうんとしみて涙が出そうだった。
夏咲は大きな目をなおさら見張って、震えながら麵をすすった。
「その顔だとまだ解決しなのね」
おばさんがまろやかな声をためらいがちに揺らした。夏咲はどう返したらいいのか分からずに、口の中の冷や麦をもぐもぐしながらうなずいた。
「そう簡単に解決したらつまらないだろう。なあ、夏咲」
「夏咲ちゃんの好きなアニメのお話みたいにかな。そういえば、離れで撮った録画は見たの?」
夏咲は首を横に振った。しかしその時急に、夏咲ははたと思い至った。
(おじさんもおばさんも、チルチル姫とあたしの秘密のことを知らないわけがないんだ。二人は何かを隠している。それも、あたしが自分からそれを明らかにするように待っているんだ。でも何で?どうしてそんなまどろっこしいこと……)
昼寝をする二人を残して、夏咲はミチちゃんの家へと向かった。
「多分、あたしの秘密は冬華ちゃんの呪いと深くかかわっていて、おじさんもおばさんも自分からは言えないんだ。事情を知らないミチちゃんに尋ねてみよう。こういう時は案外外堀から埋めるのが筋だと、『熱感ロック』のシゲさんも言ってた」
ミチちゃんは今日も夏咲を大歓迎してくれた。お部屋に通されてアニメの話をしながら、夏咲は聞きたいことの周りを何周も回った。
(なるべく自然なタイミングで、深い意味なんてないって感じで……ああ、上手に遠回しに聞く技術ってあたしにはない……あたしってコミュ障だ!)
夏咲の顔に内心の焦れが現れる一歩前のときに、ミチちゃんのお祖母ちゃんがジュースとお菓子を持って入って来た。
「夏咲ちゃん、いらっしゃい、家の美知佳と仲良くしてくれてありがとうね」
「……はい……」
そう答えながらも、夏咲はおばあちゃんの目をまともに見ることが出来ない。
(こういう場合、スマートな子供ってどういう反応するんだろう?)
「それにして、冬華ちゃんもいい名前を考えた。夏に咲く、夏咲、今時の感覚だね」
「冬華ちゃん?」
夏咲は大きな目をぽろっと落っことしそうに見張った。
「あたしの名前は冬華ちゃんが考えたの?」
「ゴウさんとユキさんはそう言ってたよ。自分が死ぬ翌年に来る赤ちゃんの名前を考えたって、村ではよく話題になってたねえ」
夏咲は喉が震えそうになるのを必死に抑えながら、なるべく何でもない調子で尋ねた。
「冬華ちゃんってどういう子だったの?魔女だったっていう人がいるよ」
すると今まで黙って聞いていたミチちゃんが口を開いた。
「冬華さんっていうのは確か、あたしのお母さんの同級生だったよ」
「え?お母さんの同級生?」
「確かにとっても変わった力があったって。お隣の赤ちゃんがミルクを詰まらせて亡くなることも、地球の裏側で大地震が起きることも、来何凶作で再来年は大豊作なことも、まるで見てきたことのように話したんだって」
「千里眼、て言うのかねえ……。ユキさんもそっちのけがあるけど、冬華ちゃんはもっとだったねえ」
「それでね、大学を卒業してから魔女になる修行をするって言って、外国、イギリスだかどっかに行ってたらしい。でも二年後、自分がもうすぐ死ぬことが分かったって言って、村に帰って来たんだって」
三秒ほどの空白の後、夏咲は持ち前の甘酸っぱい声で、声優が演技しているようにわざとらしく言った。
「ふ、ふうううん、すごいねえ……。属性もはっきりしなくて潜在能力もないあたしには想像もつかないや……」
ミチちゃんの祖母ちゃんは、狐面のような笑顔を浮かべ、お盆をさげて戻った。
ミチちゃんの家からの帰途では、雲の上を歩いているみたいに体がふわふわとした。
「冬華ちゃんじゃない、冬華さんだったんだ……。それにあたしが赤ちゃんのとき、おじさんとおばさんの所にいたことも確かなんだ。どうしよう?どうやってたずねよう?勇気が全然わかない……」
進まぬ足で、スイカ畑に浮かんだ島のような木々の生う丘の道を歩いていると、向こうの方からがいがいという子供たちの賑やかな話し声が近づいて来た。
逃げることも隠れることも出来ずに立ちすくむ夏咲の前に、あの意地悪な女の子たちや、派手なジャージ姿のハラナカという大柄な男子が、楽しそうにはしゃぎながら歩いて来た。
「お、被害児童がいる」
「ねえ、さっぱり公園に来ないけれども、元気だった?あたしたちよく夏咲ちゃんの話をしていたんだよ」
誰も彼も底意のありそうなにやにやとした笑みを浮かべている。夏咲は目を逸らして黙って通り過ぎようとした。
「おいお前、生まれ変わりなんだってな」
ハラナカが夏咲のうつむいた横顔にコーンスナックのような声を投げつけた。夏咲の頬にぴくりと震えが走る。
「俺のばあちゃんと美知佳のばあちゃんがそう言ってたぜ」
「村の大人はみんな噂してるよ」
夏咲はかえって胸を張ってゆっくりと歩いた。顔には氷のホヤを透かして燃えるランプのように怒りが燃えていた。歯を食いしばり、鼻から深い息をゆっくりとゆっくりと吐き出す。
(あたし悪いことなんかしてない!後ろめたく逃げるなんて、スイカの騎士夏咲にはあるまじきことだ)
夏咲が黙って堂々と素通りすると、意地悪な子供たちはつまらなさそうに鼻を鳴らしながら行ってしまった。
家に着くと夏咲は真っ直ぐ離れへと向かった。
「あら、夏咲、遅かったじゃない。アニメ見るんでしょ」
チルチル姫が午後の陽の中で気だるげに羽づくろいしている。
夏咲は誇り高く怒りに満ちた表情のままで、ぼろぼろと涙を落とした。
「チルチル姫、あたしが赤ちゃんのころここに居たっていうのは本当なんだね、チルチル姫ともあの晩初めて会ったわけじゃないんだね」
「そうよ。生後二週間から一歳半まで、あなたはここでおじさんとおばさんに育てられたの。あなたは可愛らしい赤ちゃんだったわ。おじさんもおばさんも、あなたがいなかったらもう一年や半年で失意のまま死んでいたかもしれない」
「どうしておじさんもおばさんも黙っているの?冬華さんの呪いなの?」
「冬華は一言も禁じてはないわ」
「じゃあ何で!」
「それはあたくしにではなくあの二人に問うべきでしょう。あなたは何を恐れているの?」
良く親しんだチルチル姫の高飛車な物言いが、夏咲の体の緊張を解いた。夏咲は床にがっくりと座り込んだ。両手指であふれる涙を乱暴に拭う。
「あたしは冬華さんの代わりなの?生まれ変わりだっていうから優しくしてくれるの?誰からも必要とされないよりはずっとましなはずなのに、それはすごく嫌なの……、あたしは、ただ夏咲としてここのお家で過ごしたいの……、せめて夏休みが終わるまで幸せな子供でいたいの……」
「夏咲……」
チルチル姫は広げた羽をしっとりとした仕草で閉じると、サファイヤのような深い青の目で夏咲を見つめた。
「もしも、あたくしが呪いから解放されてこの鳥籠が空となり、その後釜にどこぞのインコやらオウムなりが納まったとする。でもそれは果たして『あたくしの代わり』、ということになるのかしら?」
「チルチル姫、難しいよ」
「夏咲、誰かの代わりが嫌なのだったら、てこでも動かぬ覚悟で居座り続けなさい。堂々と自分の場所だと主張するのよ、ここが天から与えられた自分だけの場所だと。
誰が何と言っても惑わされたりしちゃ駄目。このような田舎ではね、口さがない噂が最高の娯楽なのよ、それだけあなたの境遇が面白いんだって思うの。前世持ち、それも魔女の生まれ変わりなんて、アニメの世界だと主人公やヒロイン格でしかないじゃない」
夏咲はその言葉に泣きながらにやりとした。
「あたし、主人公なんだね。ずっとモブキャラだと思って生きて来たけど……」
「生まれ落ちたときから数奇な運命をたどって来たのよ。プロデューサーはあなたの人生をアニメ化するべきよ」
夏咲は思わず笑い出してしまった。
「ありがとうチルチル姫、あたし、何とか闘ってみる、おじさんとおばさんに直接たずねてみる」
夕ご飯の時、夏咲は納戸から持ち出した水色のアルバムをおじさんとおばさんの前に置いた。二人は一瞬浅く息をのんだ後、痛みをこらえるかのような面持ちで、黙って顔を見合わせた。夏咲は震えながら息を吸い込んで腹からの声にした。
「ねえ、これってあたし?あたし、赤ちゃんの頃ここにいたの?どうして教えてくれなかったの?」
おばさんは深くため息をついた。その後で、まるで半分自分自身に言い聞かせるかのように、言葉の一粒一粒をかみしめながら言った。
「明子さんがこのことは絶対に明かすなと。明子さんはあたしたちにあなたを奪われることを恐れているのよ」
「奪われる?お母さんはあたしのことちっとも大事じゃない!気が向いた時だけべたべたして、彼氏ができればあたしをどっかに放っておいて悪いとも思ってない」
「あなたのお母さんは愛し方を知らないのよ。愛が思いやりという真っ当な方法に行きつく道筋を知らないの。全てがその時の気分によって流されてしまうの。恋にのぼせればそれがすべてになってしまうし、恋に破れれば一人娘に甘えることで補おうとする」
夏咲は嚙み合わなくなってきた歯をカチカチいわせながら言った。
「どうしてあたし赤ちゃんの頃ここにいたの?」
「あなたを産んだものの、明子さんは到底自分で育てられないって、あなたのおばあちゃんもあんな娘知らないと言い出して、いろんな親戚に声をかけて回ったの。その時に遠縁のうちにも声がかかって……」
「この成り行きはな、すべて冬華が生前にこうなると言っていたことだった……」
冬華、その名に、夏咲は燃えるような息とともに言った。
「やっぱりそうなんだ、あたしが冬華さんの生まれ変わりだと思っているから、受け入れてくれたんだ……、あたしは冬華さんの代わりなんだ……」
「違う!」
おじさんが尺八が唸るように一声叫んだ。おばさんもまろやかな声をびんと張る。
「違うわ!あなたを引き取った当初は、冬華の影を求めていた。でもあたしたちだってそんなに馬鹿ではないわ。冬華が何を思ってあんな嘘をついたかだって想像がつく。あなたと冬華は何もかもが違っている、一月の山と八月の山を比べるみたいに。だからね、夏咲ちゃん、あたしたちはあなたをあなたとして一年半慈しんで育てたの。冬華の身代わりではないけれど、あなたが心の穴を埋めてくれた……。それをあなたは身代わりととるのかしら、でも違うのよ」
おじさんが空気の抜けた声でため息のように言った。
「夏咲が連れ戻された後、俺たちは十年間待っていた。冬華は十年後に夏咲が戻ってくると予言した。夏咲が大冒険する特別な夏を仕掛けたと言って。だから今年の夏休みに遊びに来ないかと申し出たんだ……」
夏咲は涙をこぼしながらくりっとした目を見張った。涙は鼻水と一緒くたになって顎を伝ってちゃぶ台の上に落ちた。蜂蜜レモンの甘酸っぱい声を震わせる。
「おじさんとおばさんはあたしを待っていたの?あたしと夏を過ごすことを待っていたの?冬華さんの代わりじゃなくてあたしと」
「そうよ……」
「どうしてもっと早く迎えに来てくれなかったの?」
「大人には色々と事情があるのよ。『親権 』って、聞いたことある?あたしたちには明子さんがあなたと暮らしたいと言っている以上、それを拒むことができないの」
「それじゃあ、それじゃ、もしもお母さんさえいいっていうのなら、夏休みが終わってもあたしと一緒に暮らしたいって思ってる?」
おじさんとおばさんは一瞬顔を見合わせた。その面には当惑とともに、新鮮な希望の光が灯った。その後でおばさんは、希望が哀しみへと滑り落ちてゆく笑顔で、まっすぐと夏咲を見つめうなずいた。
「出来ればそうしたい……。でも無理よ。夏休みが終わればお母さんが迎えに来る。せめてひと夏、ひと夏あたしたちと一緒に暮らして。そして、もし夏咲ちゃんさえよかったら、来年も再来年も、夏休みを一緒に過ごして欲しい、それだけ……」
夏咲は瞳を閉じて震えながら長い溜息をついた。
「わかった……。おじさんとおばさんの気持ちは分かった。あたし解かなきゃいけない謎が一つあるの。おじさんもおばさんも知っているんでしょう?」
「それは……」
「うううん、言わないで!それを聞いたらあたしにかかってる魔法が解けてしまう、あたしが自分で解かなきゃいけない謎なの。冬華さんがあたしにくれた課題なの!」
夏咲はリスのような目を大きく見開いて、おじさんの奥まった眼と、おばさんの鳶色の目を見つめた。二人は黙って目を交わし、慈しむかのような淡い微笑みを夏咲に向けた。
「いただきます」
夏咲はおばさんの真似をして手を合わせ、胡瓜のお味噌汁に箸を付けた。
その晩の食卓は無言だった。夏咲は鼻水と一緒に鯖キャベツをかき込んだ。
スイカの騎士夏咲の決闘
翌朝、畑に出るおじさんとおばさんを見送った後、決意の炎を赤々と燃やした表情で、夏咲は納戸に立っていた。
「今日こそ絶対に『仕掛け』を見つけるぞ」
昨日探った子供用品コーナー奥のラックにに、ずいぶん前に流行ったインド綿のワンピースが掛けられていた。周りを探してみると、カラフルな籐で編まれたかご型のバッグ、フェルト地のダボっとしたコート、麻の生成りのスカートが、きれいに皺をとられ、埃除けの布の下に隠されていた。
「昨日は冬華ちゃんだと思っていたから、子供時代の遺品しか見なかったんだな。
十何年も、おじさんとおばさんはこのままにしていたんだ。まるで一冬越したらこの夏のワンピースを冬華さんが取りに来るみたいに……」
その他に、外国語で書かれた革表紙の本や、魔方陣が描かれた表、小さな引き出しの沢山ついた棚、天秤、乳鉢、銀製のヤカン、様様なサイズの匙などが、舶来物の胡桃材のテーブルの上にまとめ置かれていた。ずいぶん前からあるはずなのに、ヤカンなどは定期的に埃でも取っているみたいにつやつやとしている。
夏咲は小さな引き出しを開けてみた。古い植物の葉や穂の残骸がパラパラと砕けて舞った。
「冬華さんは本気で魔女になるつもりだったんだ。きっとこの引き出しに薬草を入れて、この乳鉢で擂って、このヤカンで煎じていたんだ。まるで『ディステニーナイツ』のレイミアみたいに。あたしには全然わかんない。冬華さんの生まれ変わりだったら、もっと特殊能力とかあっていいはずなのに……。未来のことも過去のことも見えない、今現在の隠されたことだって……」
夏咲はしばらく悄然と魔術用品の前に立ち尽くしていたが、じりじりと照りだした陽に気づいて、自分の頬をピタピタと叩いた。
「ああっ、駄目!今日こそ絶対に手がかりを見つけるんだから」
夏咲は薬棚の引き出しを全部開けてみた。ヤカンの蓋を取って逆さにもしてみた。
「『仕掛け』仕掛けって言った?何?伝言?メモ?」
分厚い外国語の魔術所を全部棚から出してめくって果ては振ってみる。紙切れ一つ落ちてこない。
夏咲はあきらめずに探した。本棚の最後の一冊、厚さ十センチ以上ある革表紙の本をめくりもせずに逆さにした。
カタン、本だと思っていたのは本の形をした小箱だった。ページの代わりに四角い空間がくりぬかれている。そしてそこから落ちてきたのは紙ではなくて、プラスチックの四角い塊だった。夏咲は本を放り出して大急ぎで拾い上げた。
それは現代ではついぞ見かけなくなったビデオテープだった。夏咲自身アニメや漫画の中でしか見たことがないものだ。その背表紙には、活字のように端正な字体で「十三年後の夏咲ちゃんへ」と書いてあった。
「やった、手がかり見つけた!これが『仕掛け』なんだ」
両手でそれをもってくるくると小躍りした後で、夏咲はとても重大な問題に気が付いた。
「でもこれ、どうやって見るんだろう?このおうちにもこんな古いテープ見ることができる機械って残ってないよ……」
夏咲が困り果てた顔で離れの戸を開けたとき、チルチル姫は羽の下にくちばしを突っ込んで羽づくろいをしていた。
「あら、成果はあったの?全く進展なしって顔にも見えないけれど、すっぱり解決って訳でもなさそうね」
「成果はね、あったの、確かに。でも、その先が……。ねえチルチル姫、このビデオテープを見ることができる機械ってどこにあるの?」
そう言って夏咲は手に持っているテープをチルチル姫に見せた。
「ごめんなさいね、あたくしには助言を与えられないような事柄だわ。何しろ十三年間この鳥籠から出たことがないのだから。
そうね、この村に再生できる機械があると仮定して、それを知っているのは、やはりこの村の人たちしかないのではなくて?」
「村の人たち?」
「ええ。あの者たちは始終噂話に興じて、どこの家庭はテレビが買い替え時、とか、よそのお家の炊飯器の数まで把握していてよ。もう珍しくなった古い機械を持っている者があったら、きっと話題になっていることよ」
夏咲は背中に冷たい汗をかいた。ハラナカと呼ばれた大柄な男の子や、意地悪な女の子たち、狐面みたいな表情で夏咲を見たミチちゃんのおばあちゃんの顔が浮かんだ。
「ゴウやユキに聞けばいいじゃない?」
「駄目!おじさんとおばさんの力を借りたら、あたしの魔法が解けてしまう」
「ミチカというあなたのお友達に、事情をすべて説明して助けてもらえばいい。あたくしのこともお話したってよくってよ」
さらさらと水が流れるように紡がれた言葉に、夏咲はチルチル姫の青い目をはっと見た。
「巻き込んでお仕舞なさいよ。あのラーハイドとシエル姫の物語や、不思議な力を持った若人たちが、ロック文書の秘密を追う物語を愛する乙女ならば、きっとあなたと冬華の物語に関わることを喜ばしく思ってよ」
「いいの?」
「いいのも何も、それは元々禁じられてはいないわ。それにあの乙女の力を借りるのだったら、魔法も解けてしまわないでしょう」
夏咲は腕を組んでぶうっと唇を尖がらせた。
「なんか、後出しじゃんけんっぽい」
「で、どうするの?あなたの物語が公然となることを選ぶ」
「もちろん!チルチル姫、あたし人生で初めて命懸けだよ」
「それでよし。あなたが勝利したら、その時はあたくしがキッスを上げるわ」
チルチル姫は、五色の冠羽を花開くように広げた。
夏咲はお昼ご飯を待たずにミチちゃんの家に出かけた。
西へと向かう夏咲の行く手に、蘭嶺山がどっしりとそびえていた。まだ東寄りの陽光に、山肌の木々が粘っこいような緑に照り映えている。ここからだとかろうじて森であることが分かるくらいだが、あの密生した木々にも一つ一つ名前があるのだろう。
アスファルトの村道の脇には、名前も知らない穂を垂れた草や、風に綿毛を引き渡して枯れていく花々が、青いソーダ水のような夏の空気の中で揺れていた。
「あたしも雑草だよ。誰にも気に留められないって思っていた。でも、お日様も土も雨も、手入れされたお庭の花と、伸びたそばから刈り取られる草を区別したりしない。あたしは、お日様を信じる、足で踏む大地を信じる!」
ミチちゃんの家に着くと夏咲は、秘密の話があると言ってミチちゃんの部屋にこもった。
声を震わせて、一息に事情を話した夏咲の両手を、ミチちゃんは強く握った。好きな放送回の話をしている時以上に、切れ長の目が潤んできらきらとしている。
「夏咲ちゃんすごい!何かのヒロインみたい。あたしに出来ることなら何でも協力するからね」
「ええとねえ、とりあえずこのビデオテープを再生出来る機械があるかどうかを知りたいの」
ミチちゃんの切れ長の一重瞼が大きく見開かれた。その黒目が眼の中でゆっくりと探るように動く。
「それだったら一つ心当たりがあるよ。ハラナカの一番上のお兄さんがそういう古い機会にはまってて、色々集めているはず。多分、何十年前のビデオデッキも持っているって話だよ」
夏咲の脳天に雷様が直撃したような衝撃が走った。
「えええええ!ハラナカ、ねえ、ほんとによりにもよってハラナカなの……」
夏咲はお昼ご飯の後一時間ほど瞑想をした。アニメの真似事ではあったが、きれいに片付けた部屋の真ん中にあぐらをかいて目を閉じる。鼻から深く息を吸い、口からゆっくりゆっくりと吐きだす。
「ヒロもタケルもオリヅルも、決戦の前には精神統一ってやつをするんだ。やると決めたことをやらないのは、意気地がない子供だよ。あたしやるよ、絶対に勝つ!」
風が、日に焼けた腕に生えた、栗色の産毛を撫でる。縁側からは草の匂いが漂い、蝉しぐれが全身を洗うかのように降り注いでいる。コチコチコチと時計が秒針を刻む。おもむろに目を開けて、夏咲は立ち上がった。
一番くたびれていないスウェットに着替えると、自分で髪の毛をぎゅうっと結び直す。そして、玄関先で蚊取り線香を準備しているおじさんの背中にたずねた。
「おじさん、このグローブ一組借りてもいい?」
「?ああ、いいけどよ……」
夏咲は台の上に無造作に置かれていたがばがばのグローブを取ると、小さく細い手にしっかりとはめた。
夏咲はまずミチちゃんを迎えに行った。それから意地悪な子供たちが遊び場にしている公園へと向かう。夏咲はがばがばのグローブの手を大きく振って、一歩一歩に体重を乗せのっしのっしと歩いて行った。
「立ち向かえ!立ち向かえ!運命の神の口づけを!」
顔を赤く火照らせたミチちゃんが、上ずり気味の声を張り上げて歌う。夏咲には合わせる余裕はなかったが、やはり頭の中では、「熱感ロック」のシーズン1の主題歌がフルボリュームで、エンドレスに流れていた。
公園の目印の背の高いスピーカーが近づいてくる。キャッキャという、無邪気というより生意気な子供たちのはしゃぐ声が届きだしてくるが、夏咲は歩幅を狭めなかった。行く手に蘭嶺山が導くかのようにそびえ、秋の先触れのような風を送り出してくる。夏咲はそれを頬で受けて、茂みの中から大股に姿を現した。
「お、被害児童」
原色の紫のジャージを着たハラナカが、地べたに置いたカードから目を上げて言った。
「ミチちゃん、最近夏咲ちゃんと仲良くしてるって本当だったんだ。ずいぶん噂になっているよ」
ミチちゃんは答えなかった。その切れ長の眼に浮かんでいるのは、トオル隊長の言っていた『ギフン』というやつだ。夏咲も黙って子供たちを見た。怒り狂った火山のように荒々しいものが、その二つの目から覗いている。
動じた様子もない二人に苛立ち、次はどう責めようかと言葉を選んでいるハラナカに、唇を真一文字に結んだ夏咲が右手で左のグローブをとると、そのまま勢いよく投げつけた。
グローブはハラナカの右頬にあたってポトリと落ちた。
「決闘を申し込む!もしお前が勝てば、一生子分になってへこへこしてやる。でもあたしが勝ったら、何にも詮索することなく、お兄さんの持っている古いビデオデッキであたしの持ってるビデオを見せなさい!」
ハラナカは鳩が豆鉄砲を食らったような顔を作って夏咲を見た。女の子たちも中途半端に口を開けて、夏咲とハラナカを交互に見ている。
「被害児童が何の真似だよ……」
「被害児童じゃない!誇り高きスイカの騎士夏咲だ!」
ハラナカの右頬がひきつった。夏咲は鬼曹長のような表情でまっすぐとハラナカをにらみつけていた。ハラナカは目をそらした。
「まあ、いいけどよ、どうせ俺が勝つんだし……」
「立会人を選べ。こちらからはミチちゃんを出す」
「じゃあタモツやれよ……」
「え、僕が?」
ハラナカが選んだのはカードゲーム仲間の中で、一番真面目そうな男子だった。彼は戸惑いながらも前に進み出て、ミチちゃんと打ち合わせをした。
「ではルール、お互い武器は使わない、この公園の中だけで決着をつける、先に降参するか泣いたほうか、公園から逃げたほうが負け。勝負の条件は、立会人がきっちり守らせる」
タモツが持っていた百円玉を宙に投げた。夏咲が西に、ハラナカが東に陣取った。
夏咲は深い呼吸を続けていた。後ろにそびえている蘭嶺山から、ソーラーパネルに日光が降り注いでいるみたいに、高火力なパワーが伝わってくる。蝉の声も、草の匂いのする風も、靴底の砂利の粒つぶした感触も、すべてが自分を応援してくれている。
ハラナカは唇を尖らせて夏咲を見た。身長差は十センチメートルほどある。負けるはずはない。だが、どうだ?夏咲の表情は雷神風神図のようではないか?
ふと目を上げると、夏咲の頭上には蘭嶺山がでんとそびえている。その峰の上からびょうぶの折り目のような渓を伝って、からからと笑う男の声が聞こえてくるような気がした。
「では、両者位置に付いて、始め!」
夏咲は弾丸のように突進した。捨て身ではない。目はしっかりと開けてハラナカの態勢をとらえ、冷静に体を低くし、頭と両腕を前に突き出したまま、ハラナカの腹に潜り込んで全力で頭突きをくらわした。
ハラナカはみぞおちにガツンと衝撃を食らったが、持ち前のパワーで受け止めて夏咲の肩をつかんで引き倒した。夏咲はまだ冷静だった。押し被さってくるハラナカの腹に、リーチの短さを生かした爪先蹴りをかまして、くるっと体を交わし起き上がった。夏咲のポニーテールから細かい砂がこぼれ落ちる。ハラナカも慌てて立ち上がり、手を胸の前で構えた。
ハラナカは夏咲を押さえつけようとしていた。地力に差がある以上、体の動きを封じてしまえばこちらのものだ。だが夏咲もハラナカの最初の攻撃でそれを察知している。機敏に間合いを取って、一撃に全てをかける作戦だ。
ハラナカが動いた。夏咲の右腕をつかんでひねり上げる。強い痛みが夏咲の肩に走った。夏咲はまじかに迫ったハラナカの顔面に、自分の額を打ち付けた。ハラナカは思わず鼻を押さえてうずくまった。鼻から赤い筋がたらりと垂れていた。夏咲も肩をだらりとさせて一瞬動きを止める。立会人もギャラリーも思わず息をのむ。
ハラナカが動いた。今度は夏咲の脚に狙いを定めて、抱きつくようにタックルをかける。夏咲は引き倒させた。だがうまい具合に右膝がハラナカの顎に入り、膝でアッパーをくらわせる格好となった。両手両膝をついてうずくまるハラナカの前に、またしても夏咲は立ち上がった。引き倒されたときに肘をすりむいて血がにじんでいた。だが、そんなこと一向にかまわないぐらい、夏咲は集中していた。
一方のハラナカは、焦りと二度までも食らった痛みに、涙腺が熱くなり始めていた。
何とか立ち上がろうとしたハラナカの腹に、夏咲は再び突進していった。まだ態勢が定まっていなかったハラナカは、簡単にどすんと吹っ飛ばされた。そうして尻もちをついたその尾てい骨を、転がっていた小石が直撃した。ハラナカは悲鳴を上げた。
「痛ってー!痛ってー!うわーんお母さーん!」
顔を真っ赤にしたハラナカの目から大粒の涙がこぼれる。公園はハラナカの悲鳴のほかは静まり返っていた。ミチちゃんもタモツもギャラリーの子供たちも、しばらくの間ぽかんと口を開けていた。突き飛ばした時の勢いのまま、ハラナカの体の上にのしかかった夏咲も、まだ体をこわばらせたまま黙っていた。
最初に声を上げたのはミチちゃんだった。
「ハラナカが泣いた!」
「うん、ハラナカが泣いた、勝者夏咲!」
ミチちゃんの後を引き取ったタモツが上ずり気味に言い、夏咲の腕を取って高く空へ上げた。ギャラリーの子供たちは、喜んでいい理由も悔しがる理由も見当たらず、戸惑って顔を見合わせている。
「くっそう、女に泣かされた!こんな恥ってあるかよ!」
ハラナカが涙をこぼしながら、蘭嶺山まで届くかと思われるほど、甲高い叫び後を上げた。
奇跡の夏が終わる
「ねえ、どんなメッセージかな」
「魔女って本当に」
「何も映ってなかったりして」
プレハブ小屋に集まった十八人の村の小学生全員が、口々につぶやく。彼らの熱気とカンカン照りの太陽のせいで、小屋の中の気温はうなぎのぼりだ。エアコンが一台唸っているが、その吐き出す冷気はといえばまさに青息吐息、皆額に玉のような汗をかいている。
ハラナカのお兄さんの秘密基地には、一体どこで手に入れたのか、画面が小さく本体が箱のように分厚いテレビが数台、やたらと大きいデスクトップのパソコン、ドット絵の映るポータブルゲーム機、CDの他、MDというやつも再生できるオーディオ、その他、夏咲には時代も用途も定かではないような機械たちが、雑然と積み上げられている。
夏咲の右側にはミチちゃんが、左側にはニホンザルのような顔色になったハラナカが陣取っている。ハラナカの左側にはお兄さんが、機械操作のために控えていた。そしてその後ろのギャラリーたち。
「さ、映るぞ」
ハラナカのお兄さんが言った。夏咲は速く浅く息を吸い込んだ。
画面がざざーっと砂嵐に覆われた。夏咲の肩が小刻みに震える。と、画面に見慣れた部屋の様子が映った。右端に古びた学習机、その後ろの障子は開け放たれ、勢いに任せて生い茂る夏草が映っている。
「あたしの部屋だ……」
画面中央には枯れ枝のように痩せた女の人が映っていた。降り注ぐ夏の日差しの中、黒っぽい厚手の長袖パジャマを着て、黒のニット帽を被っている。その顔色は雪のようにというよりも、雪に凍えているかのように青白い。淡い色のそばかすが頬を中心にぱらぱらと浮かんでいた。それが、彼女がかつて健康であった頃の唯一の証に思われた。
「こんにちは、十三年後の渋川夏咲ちゃん。あたしが佐原冬華です」
枯れ枝のような女の人は、それでも果実のようにみずみずしい声でそう言うと、土気色の唇を引き上げて優しげに笑った。
冬華さんだ!夏咲は心の中で叫んだが、声はまったく出てこなかった。冬華はなおも続ける。
「右にいるのはりっちゃんの娘ね。ハラナカお兄さんのとこのやんちゃ坊主もいる。それにたくさんの村の小学生たち、みんな知らせを聞いて集まってきたのね」
ギャラリーから誰ともなく感嘆の声が漏れる。
「魔女だ」「すげー」「本物だ」
夏咲は急に逃げたくなった。これからもたらされる知らせが、自分を取り返しのつかないほど損なうような気がしてならなかった。だが、右側には顔を火照らせたミチちゃん、左にはすっかり大人しくなったハラナカ、後ろには事の成り行きを些事さえも見逃すまいと目を見張る子供たちに固められ、後ずさることすらも出来ない。
「夏咲ちゃん、不安?逃げたい?」
画面の中から冬華が言った。夏咲の肩がびくりと震える。
「ごめんなさいね、怖いわよね。あたしがあんな風に噓をついたから。だから最初に言っておきます、夏咲ちゃん、あなたはあたしの生まれ変わりではありません。全く関係ない。あたしがいなくなった後もお父さんとお母さんが希望を持って生きられるように、そしてあなたがこの村へ導かれるように、あたしは噓をつきました、ごめんなさい」
冬華はそう言うとぺこりと頭を下げた。そのまま五秒間ほど、つむじを見せた姿勢を保っていた。夏咲の喉からは、ヒュオーという長いため息が漏れた。その後で、やっと深く空気を吸い込む。一度目を閉じた後、ゆっくりと開いて、夏咲は改めて画面の冬華を見た。冬華は頭を上げたところだった。その口元は微笑んでいた。まつ毛の生えていない目は、真冬の北極星のような輝きを放っている。
「夏咲ちゃん、あなたはあたしの生まれ変わりではない、未来を知る能力はない。でも未来を知ることが出来ないということは、未来を選ぶことが出来るということなの。あなたがこの先どう言う判断を下すかはあたしにも分からない」
夏咲はごくりとつばを飲み込んだ。膝の上に握った手の中に汗をかいている。
「でも、臆することはないわ、あなたなら必ずより良い道を選べる。だって、勇敢なるスイカの騎士夏咲なのだから。その二つ名はチルチル姫が考えたのよ。あたしはもっと強そうな名前にしてって言ったんだけど」
「冬華さんは本当にチルチル姫を閉じ込めていたの?今になってみると、逃げようとさえ思えば逃げられた気がするの。おじさんもおばさんも、チルチル姫が嫌がれば、無理に閉じ込めてはいなかったと思う」
「そうね、知りたいのね。あのお姫様はあたしがお父さんに頼んで、立山で虜にしてもらったの。あの鳥籠に居続けることについて、ずいぶんしつこく説得したのよ。赤ちゃんのあなたがやってくれば、きっとその先もあなたを導くためにとどまってくれると確信していたけれど。いいお姉さんだったでしょう?」
夏咲のリスのようにくりっとしたた目からは大粒の涙がこぼれた。それは肉付きの良い頬を伝って顎から滴った。
「夏咲ちゃん、ありがとうね。お父さんとお母さんに喜びをくれて、あたしがいなくなった後も長く続く人生をくれて。我儘ついでに言わせて、あたしもあなたのお姉さんのつもりでいます。一度も会ったことはないけれども、あなたはあたしの大切な妹です。そんな訳だから、村の子供のみんな、夏咲ちゃんをいじめると蘭嶺山の神様が怒って噴火させるわよ。あたしはこれから蘭嶺山の神様の奥方になるのだから。肝に銘じておいて」
「冬華さん、ありがとう……、ありがとう……」
夏咲は滂沱とこぼす涙を拭きもせずに泣き笑いしながらつぶやいた。画面の冬華は白い芙蓉の花のように微笑んだ。
「夏咲ちゃん、ありがとう、お父さんと母さんをよろしく」
冬華はそう言うと、両手を小さく振って見せた。そこで画面はぶつりと消え、元の砂嵐に戻った。
夏咲はもう一言も言えずにしゃくりあげていた。ミチちゃんも涙を流しながら夏咲の肩を叩いている、ハラナカさえ一度引っ込んだ涙がぶり返しているようだ。
ギャラリーの子供たちが口々に叫んだ。
「すっげー、本物の魔女だ」
「かっこいい、アニメか漫画みたい!」
「夏咲ちゃん、奇跡じゃん!」
彼らは口々に言って夏咲の肩をたたき手を取った。あんなに底意地の悪い目で夏咲を見ていた女の子たちでさえ、手のひらを返したように尊敬のまなざしを送ってくる。夏咲はぽかんとしていた。
「ねえ、チルチル姫って誰?」
「家の離れの鳥籠にいる鳥のお姫様……」
「ねえ、会いに行ってもい?」
「あたしも会いたい」
「うん、いいけど」
散々話し込んだ後、お兄さんのプレハブを出ると、西の蘭嶺山は傾いてきた陽を背負って、図工の教科書で見た外国の油絵のように、黒くどっしりとそびえたっていた。頂よりも低いところに、ワッフル地のようにぽこぽこした雲が、横に平たく伸び、屋台の綿あめのようなオレンジに染まっている。
「夏休みはあと残り何日だっけ」
「十日しかないかも」
「なあ夏咲、お前夏休みが終わったら家に帰っちゃうの?」
カサカサした声でハラナカが聞いた。
「うん、たぶん……」
「いっそゴウおじさんのお家に住んで、村の子供になれよ」
「えええええ!」
「そうだよ、冬華さんのお導きだよ。こんな奇跡の出来事なんだから」
「学区の子供も数が少なくなって、学校もなくなるかもしれないんだ」
「うううん、考えとく」
夏咲はとりあえず口にしてみたものの、にわかに二つの自分がせめぎあうのを感じて、夕暮れ時の涼しい風が急に肌寒く感じられた。お母さんと過ごす街の秋と、おじさんとおばさんのそばで過ごす村の秋とが、等価のおもりで釣り合った天秤みたいにふらふらと揺れた。
がやがやとした子供たちを連れて離れの引き戸を開けると、チルチル姫が尾羽を広げて輝くような声を出した。
「夏咲、その様子だと守備は上々ね。わかったの?」
「うん、はっきりした。あたしは冬華さんの生まれ変わりじゃなかった」
「ほら、あたくしの言ったとおりだったでしょ」
二人の会話に子供たちが興奮して叫んだ。
「しゃべる鳥だ!」
「すげー、どうなってんの夏咲ちゃんち」
「ほんとに鳥のお姫様なの?」
チルチル姫は鳩胸をふふんとそらして自慢の冠羽を広げた。子供たちの歓声が一際大きくなる。
「さあ夏咲、勝利をおさめた騎士に姫のキスをあげましょう。右頬を出しなさい」
夏咲は素直に顔の右半分を鳥籠の隙間にくっつけた。チルチル姫は冠羽を広げたまま、硬く短いくちばしをそこにかちりと着けた。
その瞬間、カターンという乾いた音とともに鳥籠の扉が本体から滑り落ちた。
「あああ、これが冬華の設定した『解放』ね。夏咲、宝物が見つかったのね」
チルチル姫は大急ぎといった様子で大きく羽ばたいた。真っ白い羽毛が一枚、ひらひらと舞った。夏咲は不意に、チルチル姫との別れの瞬間が来たことを悟ったが、そう早々とは覚悟が決められず、直立したまま声を震わせた。
「チルチル姫、すぐに、ほんとにすぐに帰っちゃうの?まだ昨日の録画のアニメ見てないよ」
「家臣団が首を長くして待っているわ。こんなに長く留守にするだなんて、あちらでは思ってもなかったでしょうから」
「あたしの決闘の首尾と、冬華さんのビデオの報告もまだ出来ていないのに」
「聞かなくったって察せますとも。あなたの擦り傷が勝利の勲章なんでしょう。髪も服も砂まみれじゃない。冬華のビデオについては、そうね、多分愛と思いやりに満ちていたことでしょう」
夏咲は唇をかんだ。そして目を潤ませ、やっとの思いで騎士の作法でひざまずいて手を伸べた。その腕にチルチル姫が可愛らしいかぎ爪の付いた足でちょんと止まり、バレリーナのような仕草で羽ばたきを繰り返した。
「チルチル姫、今までありがとう。チルチル姫がいたから、あたし頑張れた。チルチル姫は冬華さんの計画をどこまで知っていたの?」
「あたくしが知っていたのは、断片的なことのみよ。あなたの頑張りの全部は、冬華だって予知していないでしょうね。それにしてあなたはどうするの?とても大切な決断が迫っているでしょ?」
「うん……」
夏咲は唇を結んで肩を震わせた。チルチル姫は羽ばたきを大きくした。
「夏咲、あたくしは行きますからね。あなたが何を考えているのかは大体わかっています。大丈夫よ、絶対うまくいく。心を強く持ちなさい!」
そう言うが早いか、チルチル姫は鳥籠から飛び出し、開けっ放しになっていた引き戸から赤くにじむような夕焼け空の中へと、まるで真っ白い矢のように飛び出して行った。振り返ることもしないままに。
夏咲は駆けだした。引き戸から飛び出し遠ざかる白い影を目で追って、声の限りに叫んだ。
「チルチル姫、ありがとう、本当にありがとう!」
夏咲の頬は再び濡れていた。後ろで見守っている子供たちは、ただ黙ってこの別れを眺めていた。
夏咲の輝く夏は過ぎていった。お盆には精霊馬を作り、冬華を念じて手を合わせた。
八月二十五日は夏咲の十一回目の誕生日だった。
夏咲は生れて初めてお誕生日会を開いてもらった。村の小学校はもう夏休みが終わっていたが、ミチちゃんやハラナカをはじめ、子供ら全員が夏咲を祝いにやってきた。
おばさんが夏咲のために、苺の沢山乗ったケーキを作ってくれた。大好きなビーフシチューのハンバーグもある。そしてこの時期村の食卓に欠かせないスイカを丸ごと使った、フルーツポンチだってある。
おじさんが竹を縦に割って、流しそうめんの仕掛けを作ってくれた。わいわいきゃいきゃい言いながら、夏咲は村の子供たちと奪い合うようにしてそうめんを食べていた。
その時だった。雑木林からのぞく村道を一台のタクシーが近づいてくた。暑苦しい排気ガスを吐き出し、黄色に緑のペイントの車体が陽炎でゆらゆらと歪んで見える。夏咲は何が起こったのかを直感し黙った。
大はしゃぎから一転、夏咲は体を固くして荒い呼吸を繰り返す。子供達が静かになった夏咲を不思議そうに見ていた。
「どうしちゃったんだ?」
ハラナカが問う。夏咲は蜂蜜レモンの声をひそめた。
「いいから、今からあたしがすることを黙って見ていて」
タクシーがおじさんの赤い軽トラックの手前に止まった。ふわりと開いたドアから出てきたのは、トウモロコシのひげのような金髪に戻ったお母さんだった。カナリアイエローのキャミソールと、ダメージ風のデニムのショートパンツからは、脂肪も筋肉もついていない棒っ切れのような体がのぞいている。
お母さんはどこかずるそうな、ごまをするような笑顔を亀に似た目に浮かべた。
おじさんとおばさんが黙って夏咲の後ろに歩み寄って来てお辞儀した。おじさんは深いため息をついた。おばさんが肩を落としている様子も、気配だけではっきりと分かる。夏咲は自分の心に繰り返し確認してきた言葉を、かみしめるようにして黙っていた。
「夏咲、もう夏休みが終わるわ。お母さんと一緒に帰ろう。こんな田舎じゃコンビニもなくって不自由だったでしょう?Pロールも買ってあげるわ」
「弁護士の卵はどうしたの?」
夏咲の声はわなわなと震えていた。お母さんは怒った犬のように鼻に皺を寄せた。
「ああ、あれ?駄目よ、嘘だったの、弁護士の卵だなんて。お母さん騙されてたの。やっぱりお母さんには夏咲しかいないわ」
お母さんは再び嘘くさい笑顔を作る。まるで我が子にへりくだっているようだ。夏咲は吐き捨てるように言った。
「そう言って何度も、そう、何度もあたしを捨てて取り戻すの?彼氏が出来るたびにあたしを捨てて、捨てられるたびに思い出すの?あたしの気持ちはどうなるの?あたしが幸せな子供でいたいっていう、あたしの気持ちはお母さんにとって紙屑ほどの重さでしかないの?」
夏咲の直立した体はぶるぶると震えていた。顔に血が上り、特に目のあたりは真っ赤だった。じわじわと涙をこぼしながら、夏咲は一息にまくしたてた。
「あたしはお母さんと帰らない、ここに残っておじさんとおばさんと暮らすの。あたしはお母さんみたいな女の人にはならない。恋だの運命だのに浮かれて、平気で周りの人を振り回すような人には。あたしはきちんとした女の人になる。お箸も正しく持ってお部屋も片付けて、キソ学力も身に着けて、おかしな時間に食事したり眠ったりしない、そして周りの人たちに温かい感情をきちんと分けてあげられるような、強い女の人になるの。そのためには、あたしはお母さんみたいな人と一緒には暮らしたくない」
お母さんはぽかんと口を開けた。チョコレートだと思って口に入れた丸いものが、まるで正露丸だったとでもいうようだ。彼女はしばらくの間、口を利くことが出来なかった。
「お母さんと帰らないって……」
やっと言葉に出したお母さんの顔は、紙切れのように真っ白になっていた。
「本気で言っているの?だって、子供にとって一番なのは、母親に決まっているじゃない!ああ、解った、佐原さん、あなた方が夏咲をたぶらかしたんでしょう?夏咲が赤ちゃんの頃ここにいた事実もばらしたんでしょう、あたしがろくでもない母親だって吹き込んだんでしょう?そうよ、そうに決まっている!そうじゃなかったらこんなことは……」
「おじさんとおばさんはあたしを大切にしてくれただけだよ!あたしが幸せでいられるように、いつもいつも思い遣ってくれた。お母さんには自分がどうしたいかしかないじゃない!いっつも自分だけが一番。だから、あたしはおじさんとおばさんといるほうが幸せになったの。あたしを少しでも思い遣ってくれるならば、お母さん、今まであたしがしてきたように、あたしも自由にしてくれない?したいようにさせてくれない?望む場所にいさせてくれない?」
夏咲は血走った目から涙をこぼし、震えながらもしっかりとした声で語りかけた。
「あたしが母親失格だって言いたいの?」
「言葉通りの意味だよ」
お母さんはしゃがれ声を揺らして虚ろにつぶやいた。
「ああああ、あたしは何て不幸なの。実の母親にも愛してもらえなかったばかりか、実の娘にも捨てられるんだ。誰もあたしを必要としてくれない……」
夏咲はそれでもお母さんに近寄ろうとはしなかった。両足をしっかりと大地に着け、下げた腕の先で拳を握り、蜂蜜レモンのような声を少しだけ柔らかくして、目の前の哀れな女に語りかける。
「お母さん、あたしが二十歳になったらまた会おうね。自分で自分のことを決められる年齢になったら。その時まではもっときちんとした人になっていてね。あたしが今宣言した通りの女の人になっていなかったら、叱り飛ばせるぐらいになっていてね。競争だよ」
お母さんの顔は紙のような青白さから一転、急激に気色ばんでいった。こめかみに血管を浮かべ、唇を真一文字に結びわなわなと震わせている。
「フン!」
そんな息だけを残しお母さんは、ぶるぶると震える背中を見せた。そして別れの一瞥もくれずにタクシーに乗りこんだ。逃げ水の中をゆらゆらと揺れながらタクシーが遠ざかって行く。夏咲はそれを直立して見つめたまま、ほおっと深い息を吐いた。そうしてくるりと後ろを向いて、おじさんとおばさんを見上げた。蜂蜜レモンのような声が、嗚咽をこらえて揺れた。
「おじさん、おばさん、これでいいんだよね?あたしもう帰るとこ無いよ。このまま夏が終わっても、ずうっとこのお家で、おじさんとおばさんで暮らすのでいいんだよね?」
おばさんは、骨ばった温かい胸に夏咲をしっかりと抱きしめた。目じりの皺に涙が伝っていた。おじさんも、夏咲の頭に軍手の様のごわごわした手を置き、栗色の髪をかき回した。
「いいよ、いいよ、ずっとここで暮らせ。夏が終わっても、ずっと」
「夏咲ちゃん、よかったね、本当に良かった……」
ミチちゃんも目頭を押さえていた。
「良かったな夏咲、これで村の子供が一人増える。でも、お前勉強遅れてんだろ?しっかりやれよな。タモツ、お前が見てやれよ」
「え、僕が」
「ハラナカだって人のことが言えないくせに……」
おばさんの腕に抱きしめられたまま、夏咲は泣きながら大笑いした。
蝉たちがありったけの生の賛歌を歌い上げている。この日、夏咲は晴れてこの家の子となった。ヒマワリは太陽を見つめ、ノウゼンカズラの南国を思わせる花が一輪落ちた。晩夏を惜しむかのような空がどこまでも青く立ち、蘭嶺山が見守るようにどっしりとそびえ立っている。屏風のような尾根と渓に沿って吹き降ろす風は、もう秋の匂いがするようだった。
居合わせた子供たち全員が夏咲の決断に拍手を送った。夏咲は心の底から晴れやかに笑った。
九月、晴れて橋爪小学校の一員となった夏咲は、初めての学校行事である蘭嶺山登山の途中にあった。
気候が急激に秋めいて来ている上、山の上は一段階季節が早い。空気は乾いていて軽く、夏草の匂いの代わりに、かすかに甘い草穂の薫りが立ち込めていた。もはや蝉時雨は聞こえず、涼しい風が木の葉を鳴らすさらさらという音が、裾野に広がる森林地帯に響いている。
夏咲にとっては初めての登山だった。おじさんとおばさんに準備してもらった登山靴と水色のヤッケを着て、大きな真新しいザックまで背負い込み、もうあのぼろぼろのスウェットを着ていた「被害児童」の面影はない。
もうだいぶん息が上がってきたミチちゃんと励ましあい、こんなところでもふざけてからかってくるハラナカと小突きあい、子犬が群れてじゃれあっているみたいに、仲良く山頂を目指す。
途中、時代劇に出てくるような修験者姿の大人と何度か行き違った。山頂付近には蘭嶺山の神様のお社があるという。夏咲は人知れず胸を高鳴らせていた。
森林地帯とそれに続く草原地帯までは、なだらかで楽な道のりだった。だがザレ場に差し掛かると、脚の下で崩れ落ちる砂に子供たちの体力は奪われていった。夏咲も軽口を忘れ、顔を汗だくにして、荒い息を吐きながら足を進める。
砂は徐々に大きくなり、稜線近くで大きな岩の転がるガレ場となった。真昼の陽がくっきりと陰影を際立たせる山頂にかけて、一際大きな岩棚が切り立っている。渡された鎖につかまって壁をよじ登る。登りきるまであともう少しというところで、頭の上にお社の鳥居が見えてきた。
それは黒っぽく変色した石でできた小さな鳥居だった。石を敷き詰めた短い参道の脇には、石灯籠が三対置かれていた。その隙間に、夏咲は獣たちの光る眼を見たような気がした。その奥に、掘っ立て小屋ほどの大きさのお社が、別世界を思わせる静けさをたたえて佇んでいる。
そこは静止した世界だった。動いているものはお社を行き過ぎる秋の風と、それが揺らす紙の飾りとその影だけだった。
「夏咲ちゃん、早く頂上に行ってお弁当食べようよ。とってもお腹すいた」
まだ肩で息をしているミチちゃんがそう促した。夏咲は生れて初めて、誰に恥じる必要もないお弁当を持っていることを思い出して思わずにんまりとしたが、首を横に振った。
「先に行ってていいよ。あたし、蘭嶺山の神様にお願いしなきゃいけないことがあるの。すぐに行くから待っててね」
夏咲は一人、石で出来た参道を進み、お社を見つめた。風雪にさらされた木造の建物は黒っぽく傷んでいた。夏咲は静かに足を進めた。そして、欠けた湯吞と黒く変色したお賽銭箱の置かれた正面に向かって、パンパンと柏手を打って手を合わせた。目を閉じて心の中で呼びかける。
「冬華さん、いるんでしょ?」
夏咲の後ろから両肩に、温かい気配が下りてきた。肉の薄い骨ばった掌が、柔らかく包み込んでいるようだった。
夏咲は目を閉じ、手を合わせたままつぶやいた。
「おじさんとおばさんは元気だよ。二人とも、あたしの子供を腕に抱くまでは生きないとって言ってる。二人については全然心配しないで。あたしがついているから。だから心配なのはね、お母さんのこと……。あたしが捨てた格好となったお母さんの……」
しばらく夏咲は言い淀んでいた。温かな掌の気配は、急かすことなく夏咲の肩を包んでいる。
「ねえ、冬華さん、蘭嶺山の神様にお母さんのことお願いしてもいいかな?別れ際にお母さんは言っていたんだ、『誰も愛してくれない』って。
確かにおばあちゃんは伯父さんばっかり可愛がって、お母さんを愛してはいなかったんだって思う。だからあんまり寂しくて、お母さんはあんなふうになっちゃったんだ。彼氏に愛してもらってるって思う間でないと、寂しくって生きていけない女の人になってしまったのはそのせいなんだ。
だからね、本当に愛してくれる人に巡り合わせて欲しいの。おじさんとおばさんが愛してくれたからあたしは変われた。お母さんも本当の愛を知れば強くなれるかもしれない。わがままかなあ?蘭嶺山の神様にとって、お母さんの住んでる町は管轄外かなあ?」
夏咲は蜂蜜レモンの声を揺らした。
カラン、と、お社に吊るされた鈴が鳴った。背後に感じている温かい気配が、頷くように揺れる。夏咲は冬華が笑ったのだと思った。
「いいの?」
再び鈴が鳴ると、ぽんと一回だけ衝撃が走って、暖かい気配がすうっと夏咲の肩を離れた。夏咲は思わず目を開いて叫んだ。
「行かないで冬華さん!まだ言えていないことがあるの」
振り向くと、どこまでも高い秋空を背負って、清楚な巫女の装束を着た、ふわふわのショートカットの女性が、夏咲に静かな視線を向けていた。あのビデオの中とは違い、そのそばかすの沢山浮かんだ頬は薔薇色で、ふっくらとしている。おばさんそっくりの鳶色の目を細めて、冬華は夏咲の頭に手を置いた。
「冬華さん、ありがとうね、あたしに生きていく場所をくれて、大切な家族をくれて。あたし、冬華さんのことは一生忘れない。冬華さんの代わりではないけれど、おじさんとおばさんのことも絶対に大事にする。絶対に幸せにする。だから、だから安心してね。ずっと見守っててね」
冬華の桜色の唇に慈しむかのような微笑みが浮かんだ。夏咲の茶色い栗鼠のような目に、高く青い空の色と、凛とした冬華の立ち姿が映っている。涙は溢れ出る寸前のところで揺れながら目を覆っていた。
冷たい風が吹き、暖かな手のぬくもりを残したまま冬華の姿はかき消えた。
「夏咲ちゃーん!」
岩棚の上の山頂を見上げると、ミチちゃんが手を振って叫んでいる。見回しても、冬華の姿はもうどこにもない。夏咲は振り返ってお社の方を見た。色褪せた紙の飾りがはたはたと風に揺れている。夏咲はもう一度目を閉じ柏手を打った。そして頷いて微笑みながら一礼した。
夏咲はミチちゃんに手を振って大声で叫んだ。
「今行くー!」
夏咲は最後の岩棚を元気よくよじ登った。
そうして、山頂のそこかしこで、幸せそうにはしゃぎ戯れている子供たちの輪の中へと、振り向くことなく駆けだして行った。
(了)
スイカの騎士夏咲
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