二人の伴天連

ローマ教皇を頂点としたカトリック教会、中でもイエズス会の創始者の一人であったフランシスコ・ザビエルが、日本にキリスト教を伝えた十四年後の事である。
 ヨーロッパの西に位置するイベリア半島の更にその先端の国ポルトガルから、未だ若い一人のイエズス会宣教師がアフリカ大陸南端の喜望峰を経て、香辛料を求めて拓いたインド航路を経由し、永禄六年(1563年)に長崎の大村湾入り口にある横瀬浦に上陸した。三十一歳になったばかりのルイス・フロイスは、はやる布教への思いを押えなが平戸に留まると、翌年にはこの国の習慣や言葉を覚え念願の京に上ったのである。
 都では将軍職にあった足利義輝に貢物を献上し、其の為に畿内での布教の許可を得る事が出来た。だがその翌年、頼みの綱でもあった将軍足利義輝は暗殺され、都の治安は保たれる事も叶わない状況となったのである。そこには盗賊がはびこり、人殺しさえ日常であった。道端にその死骸は放置され、誰一人として信用の出来ない、まさに戦乱の渦巻く時代の中に翻弄されてゆくのである。
 ところがその四年前、尾張の桶狭間で今川義元の軍勢を破り、畿内でもその名を知らしめていた武将が居た。尾張の織田信長である。フロイスは信長に会うべく手を尽くし、都に来てから五年後の1569年の蝉の声がにぎやかな、長良川の良く見渡せる岐阜城(稲葉山城)で対面を果たしたのである。しかし言葉を交わす事は許されず、用意した贈り物の中からビロードの帽子だけを受け取って貰える事が出来た。
 その後二度目の対面は京の二条勘解由小路に建てられる、工事の最中の二条城であった。職人達が行き交う中での信長とは立ち話ではあったが、布教の許しを得て更に信仰に対して好意的な理解を得る事が出来たのである。

 そのフロイスが日本に上陸して三十年後、今度はポルトガルの隣国でもあるエスパーニャ(スペイン)から、イエズス会とは会派の異なるフランシスコ会の司祭ペドロ・バプチスタが、大西洋を横切り更に太平洋を越えてルソン(フィリピン)で布教を行っていた。そのバプチスタがルソン総督の代理として、更に通商特使の名目で長崎の平戸に上陸したのである。しかしこの時は既に、信長から秀吉へと時代が移り変った時であった。

 それから四年後の事である。東と西との異なる海を越えて日本に着いた二人の司祭は、同じ信仰の中でそれぞれの生涯を終えたのである。しかもそれは同じ年に、同じ長崎の地でであった。
 フロイスは慶長の役で奴隷として長崎に連れてこられ、異国に売られて行く朝鮮人へ洗礼を授けながら。そしてバプチスタは秀吉に捕えられた二十五名の、秀吉よりも神を選んだキリシタン達と共に、長崎の西坂の丘の刑場で磔となったのである。
 大きく揺れ動く歴史の中で信仰だけを支えに生き抜いた二人の宣教師は、自らの支えでもあり目的でもあった信仰によって、どれだけの歓びを得る事が出来たのだろうか?

 【秀吉の思惑】
 関白職に任官して三ケ月が過ぎた天正十三年(1585年)十月二日、秀吉は九州全土を落ち着かせる為、薩摩の領主である島津義久に対し停戦命令書を書き上げていた。数か月前には四国の長宗我部元親を攻略し、息つく暇も無く今度は九州であった。
 事の発端は豊前の領主である大友宗麟から、再三に渡って関白殿下宛として援軍の要請が届いた為である。大名同士が領土を奪い合う戦は、もはや自らが関白となった以上、このまま放置して置く訳にはゆかないと思えたのである。それ故に天皇の威光を勅諚や叡慮と言う言葉で匂わせ、従わない場合は成敗に向かう旨、はっきりと認めたのである。まさに成敗は自らの意志ではなく天皇の名代として止むえずに行う、天下の意思である事を匂わせた文面であった。


   嶋津修理太夫殿(折封ウラ書)
 勅諚につき、染筆候。よって関東は残らず、奥州の果てまで綸命に任じられ、天下静謐のところ、九州のこと今に鉾楯の儀、然るべからず候条、国郡境目の相論、互いに存分の儀聞し召し届けられ、追って仰せ出さるべく候。まず、敵・味方とも双方弓箭を相止むべき旨、叡慮候、その意を得らるべ気候、もつともに候、自然、この旨を専らにせられず候はば、急度御成敗なさるべく候の間、この返答、各の為には一大事の儀に候、分別有て言上有るべく候也。
            拾月二日                             羽柴秀吉 花押
    嶋津修理太夫殿

 意味はこうである。
 この度、天皇より関白の職を任官した為、役目柄でもあり筆を執った。その役目とは関東は言うに及ばず、奥州の先まで任ぜられる事となったが、天下は幾分平和であると思っていた所、九州では又戦が始まったと聞き、この役目柄、黙っては要られない事態である。領地の取り合う理由は後で聞くが、取り敢えず武器を収め、元の領地に戻る様に。もしこの意見を聞かない場合には、急ぎ成敗に向かうつもりでいるが、分別の行動を求めるものである。
 
 秀吉は何にも増して九州全域が、嶋津氏唯一人に抑え込まれる事に危惧を抱いていた。天下を平定する為には、これまで通り大友氏と龍造寺氏を含め、三つ巴の均衡を崩しては、増々これから行う天下統一の事業が難しくなると思えたからである。
 その嶋津義久はこの時、既に大友氏の領地に深く入り込み、九州の半分以上を切り取っていたのである。秀吉はその嶋津氏が切り取った肥後半国、豊前半国、及び筑後を大友氏に戻す様、国分令を発したのであった。だが秀吉のこの提案が嶋津氏にとって到底呑めるものでは無い事は、既に予測の範疇であった。それ故にあえて呑める条件を提示する事はせず、関白の命令を強いては天皇の命令を嶋津氏に無視させる事で、九州に攻め込む為の口実を作りたかったからである。
 秀吉の予想通り、その後も嶋津氏は秀吉の命令を無視し、更に軍事的行動に出たのであった。

 翌々年の天正十五年の正月、年賀の席で秀吉は九州攻めを諸大名に伝え、改めて軍令を発したのである。そしてこの正月の二十五日には宇喜多秀家が、二月十日には秀吉の弟秀長が、更に三月一日には秀吉自らが九州平定に向け大坂を発ったのである。実にその兵力は総勢十八万の軍勢であった。
 三月二十五日に長門の赤間関(下関)に秀吉が着くと、すぐさま軍議が行われ具体的な嶋津攻めが決定された。既に前年より九州に渡っていた毛利輝元・小早川隆景の大老格と、黒田孝高(後の黒田官兵衛)らが合流した。秀吉は小倉から九州の西を周りこみ、まずは馬ケ岳そして嶋津方である秋月種実が籠る古処山城を攻め立てたのである。
 要害の山城である岩石城には羽柴秀勝・蒲生氏郷らが攻め込み、四月一日に始まった戦いで、城兵四千の内の三千を打ち取り、その日の内に城を落としたのである。この戦いに秀吉は、敢えて五万の兵力を動員したのである。大軍に城を囲まれた城主の秋月種実は、名器と呼ばれた肩衝茶入れの「樽柴」と、自らの娘を差出し降伏を申し出た。女好きと共に茶道具好きの秀吉の意を汲んでの事であったが、娘に手を付ければ豊臣家とは新たな縁を持つ事が出来るとした、種実のしたたかな戦略でもあった。
 
 この後、秀吉の本隊は筑前の高良山、十六日には肥後熊本城、そして二日後の十八日には八代城にまで届いて居た。これらは嶋津方の武将達ちが、予想を遥かに超えた秀吉の大軍を前に戦意を失い、ほぼ戦わずして鎮圧した為であった。それは又、日向に向かっていた秀長軍も同じであった。だが嶋津側は、かつて大友宗麟を破った耳川の戦いで勝利した日向の高城に、その時の功労者である山田有信を入れ、秀長軍を迎え撃つ策を講じていたのである。
 九州平定に於ける幾つもの戦いの中で、この時の戦が最大のものとなったのは云う迄も無かった。嶋津義久の率いる二万の軍に、根白坂に築いた秀長の砦は包囲されてしまうも、藤堂高虎や黒田孝高・小早川隆景の加勢を得て、嶋津軍はついに都於郡城へと兵を引く事となり、この戦いが組織的な抵抗の最後となったのである。
 四月二十一日には義久から和睦の申し出が秀長にあり、鹿児島に一度戻った義久は五月六日に剃髪をすると、八日に川内で秀吉の前に出て恭順の意を示したのであった。
 九州平定を終えた秀吉が、博多の箱崎に戻ったのは天正十五年(1587年)六月六日の事である。既に秀吉が大坂を出てから、実に三ケ月程の日々を九州平定に要していたのであった。

 梅雨の季節が一段落したのか、久しぶりに晴れ間の出た蒸し暑い日であった。秀吉は仮の館としている箱崎八幡宮で体を休め、既に頭の中に描いていた九州国分の素案を書き上げていた。残るはこの九州そして博多を、唐入りの為の後方的な役割を持たせ、街づくりを進める事を考えねばと思ったのである。
 曾て秀吉が信長に仕えていた五年前の天正十年、その信長からいきなり領地は何処が欲しいかと聞かれ、咄嗟に秀吉は博多のある筑前国と答えた事があった。この時の秀吉に取って世界に繋がる港は、この筑前の博多しか無いと思っていたからである。この時以来秀吉は、信長から領地でもない羽柴筑前守と名乗る事が許されたのである。だがその博多の港は目の前にあった。今はその筑前国どころか、この国の全てが自らの意志で、意のままに動かす事の出来る頂点に立ったのである。
 だが秀吉に一つ気になる事があった。九州平定の折に見て来た戦場での、キリシタン同士の繋がりであった。領主と家臣は基よりではあるにしても、伴天連とその信徒との関係は想像以上に固く、キリシタン同士も同様に固く結ばれた兄弟の様な繋がりがあった。これまでの武家社会の仕組みとは質を全く異にして、それは遥かに秀吉の想像を超えるものであった。今の内にこの力は摘んでおかなければならない、秀吉は密かにそれを思った。その信仰がこれまでの日本の仏教には無い、信徒同士がまさに兄弟と呼び合うそれは、一つの考え方や生き方が信仰の奥深くに流れ、深く根ざしていると思えたからである。
 伴天連の影響を抑えなければと考えて居た矢先、その中心人物の一人であった豊後のキリシタン大名大友義鎮が、隠居地である豊後の津久見で、ひと月前の五月六日に突然病死したと言うのである。「日向一国を隠居料としてつかわすが、どうじゃ」と言った秀吉の心遣いを、何を思ったのか辞退して直ぐの事であった。
 更に同じキリシタン大名である肥前の大村純忠も、遡る事そのひと月前の四月十一日に、やはり病で亡くなっていた。残すはその大村純忠が、キリシタンに寄進した長崎の地を、秀吉自らの直轄領としてイエズス会から取り戻す為、手筈を整えて置く必要に迫られていた。長崎は天下を平定して以降も、最も目を光らせていなければならない場所なのである。それ故にキリシタン大名達に割り振る領地も、朝鮮や明国出兵の方策を加味し考えて置く必要を思ったのである。
 既にこの国に於いて、九州国分はおろか、何事によらず自らが行う采配に対し、異を唱える者は誰もいない事は確かであった。寧ろこの為にこそ、敢て征夷大将軍の官職を求めず、「天下の万機を関(あずか)り白(もう)す職」として、二年前に関白職に任官したのである。それは天皇より賜った、国政を総覧する臣下第一の職であり、公家や寺社の実質的な支配をも含まれる官職だからであった。
 元々関白職は古くより、藤原北家流の近衛・鷹司・九条・二条・一条の五家からのみが選ばれる決まりがあり、武家に関白職を与える事はこれまで前例が無かったのである。しかし近衛家に働きかけ秀吉を嫡子にと申し出る事で、それに応える形で近衛家に入ったのである。全ては秀吉の目論見通り、事は運んだのであった。その近衛家に千石、他の四家にもそれぞれ五百石の知行を与える事で、関白職への任官の道を開けさせたのである。
 
 秀吉は、その行うべき自らの事業に向けて、手抜かりや見落としの無いよう、石田三成を部屋に呼ぶ様に側付きの者に言った。執務と共に諸将に目通りする為の部屋であった。
「殿下、御呼びとの事、三成、ただ今参上致しましてございます」
「ん。戻ってからもしばらくは忙しいとは思うが許せよ。ちと、そちに聞こうと思うて呼んだのじゃが、浜に来ている船は伴天連の船と思うが」
「はっ、大阪城にて一度目通りしたイエズス会の伴天連、コエリュ殿がお目通りを願い出て、数日前より湊内にて留まり置きますれば」
 三成は下を向いたまま、秀吉の問いかけに答えて居た。
「ほぅ、奴が来ておるのか、確か一年前であったかのう、大坂城で謁見した折に船を二艘ほど貸さぬかと申した事があったが。良い、その話とも絡んでおる。実はのう三成、明年には明国に戦を仕掛けたいと考えておるのだが、そちの意見を聞きたいと思うての。他言は無用ぞ」
「はっ、して殿下、その御心の内を受け賜りますれば、どの様な目論見がございますのか、お教え願いとう御座います」
 三成には秀吉の突然の話が分かりかねていた。唐入りの話はこれまで一切無かったと言う訳では無かった。関白任官後の翌年の四月十日に、毛利氏に対して九州平定の指示を行うと共に、朝鮮攻めの準備をする様に伝えていた。しかしそれはあくまで国内を平定を終えた後と言う、希望の様な目論見の話であった。
「なぁ、三成よ、これでようやく九州も落ち着いた。後に残るのは関東、そして奥へも我らの力を強く示せば、この国は平定したも同然じゃ。じゃが未だ地方の大名諸将は、財を蓄えておる者も見受けられる。それ故に、その財をこちらに向けぬ様に減らす方策も考えねばならぬ。そこでじゃ、それらの兵を集めて明国や朝鮮に送り込めば、戦の結果は別としても、我らが思う大方の目論見は達成されるはず。無論戦で得られたものは恩賞として分け与えるにしてもじゃ。まずは危うき者、危うき事の根を絶つ事が肝要と心得ておるが、どうじゃ、その様には思えぬか」

 得意そうな秀吉の目は、三成を見ながら笑っていた。
「殿下のお考えは何一つとして、意見の挟む余地もない程の正に妙案でございまする」
「既に数年来より頭の中で考えておった事よ、一石で二鳥が得られるかどうかは別にしても、この名目に異存のある大名は出て来ぬと思うが。明年までには準備をさせ、名護屋にそれらの兵を集めて一気に向かわせれば、事は然程難しいとも思えぬ。それ故に九州は最も重視しなければならぬ場所よ」
「仰せの通りでございます。しかしながら船の建造や兵達の詰所など、時間が必要な物も御座いますれば、早急に諸大名には伝えて置く必要もあるかと」
「ん、そこよ。九州に集まっている諸将には急ぎ申し伝え、又、他の諸将には文にて伝える事と致す、但しその時期は関東から奥の平定後に致すつもりだ。この秀吉とて、体は一つしか無いのでのう」
 満足した様に秀吉は笑顔を見せていた。今日の殿下は機嫌がいい、三成はそう思った。 

 この言葉通り、秀吉が朝鮮出兵の話を九州博多に居た諸将に語ったのは、翌日の七日の事である。更に九州平定に出陣していない地方大名達に対しても、この日付で覚書を申し送ったのである。この秀吉が企てた朝鮮出兵の意図とは別に、九州名護屋までの兵達にかかる軍役の費用は、其々の大名が禄高に応じて負担し、兵の出せない大名は船を建造し、水夫(かこ)と共に名護屋まで運ぶ事を求めていた。更に朝鮮・明国を攻めた際、その領地は大名の切り取りとし、分け与える事を記していたのである。
 しかし戦とは単に兵を送り出すだけでは無い。その兵を支える為に、馬の世話をする者から飯の支度、荷物の運搬まで行う小者を含めた人数を要するのである。
  
 その翌日の六月十日の事であった。イエズス会の準管区長でもあり、日本布教の最高責任者のガスパル・コエリュが、秀吉に目通りを求めて来た。南蛮船を見て貰いたいと言うのである。一年前に初めて大坂城で目通りした際、伴天連船を貸す様に暗に匂わせていた返事を、この時に持って来たものと秀吉は思ったのである。
「よし、会おう。南蛮の船も見て観たい」
 秀吉は立ち上がると、謁見の間に向かった。
「是は殿下、ご無沙汰しておりますが、御機嫌も麗しく」
 頭を下げたコエリュは愛想笑いを浮かべ、盗み見る様に部屋の隅に置かれていた金の茶釜を見た。相変わらず言葉が巧く話せないのか、聞きとり難い挨拶であった。それにしても一年前に大坂城での謁見では、多くの神父やイルマン(修道士)等と共に、黄金の茶室を見せた時の驚き様といったら、まさに度胆を抜かれた様な目で見つめていた事を秀吉は思い出していた。
「関白殿下にはご機嫌うるわしく」
 コエリュの後ろに控えて居たもう一人の通訳の男が、うやうやしく秀吉に挨拶をした。今度は流暢な日本語であった。
「おぅ、これは確かフロイス殿か、して今日は上司の通訳でご一緒か? しかし懐かしいの。予は相変わらず醜い顔と、それにほれ、五体もこの通り貧弱な者だが、やっとこの国をここまで纏める事が叶うたわ。後々も予の成功を忘れぬ様、そちの筆で書き留めてくれよ。ウァッハツハ」
 何処かつくろう様な親しみと共に、威圧を与える秀吉の物言いであった。秀吉が未だ信長に仕えて居た頃に、信長が大声で「猿!」と呼び捨てにされていた事を、未だ宣教師であったルイス・フロイスは幾度も目にしていた。恐らく秀吉は、その頃の余り知られたくない自らの過去を、フロイスを見て思い起こしたのだと思えた。
「殿下、私めは既に四年程前より宣教師を辞しており、この国の出来事を書き記しているに過ぎません。それ故に単に通訳としての用向きでございます。なにとぞ御承知いただけますように」
 通訳とは言っても全ての話を訳して伝えるわけでは無く、会話の中で難しい日本語の或いはポルトガル語での会話が止まれば、それを手助けする為に答える程度の立場であった。 
 秀吉とフロイスの少し親しげな会話を止める様に、コエリュは恐る恐る用向きを伝える為に声を出した。
「実は殿下にお目通りを戴く為、七日前より湊に留めておりますフスタ船にて寝泊り致しておりました。出来ますればぜひ船にお目見えを戴きたいと思い、長崎より船を廻した次第でございます」
「おぅ、それは面白い、昼から湊に出掛け、皆とその船を見ようかの」
 秀吉はコエリュの話に応じたのである。浜では既に伴天連と岸に近づいた南蛮船を見ようと、多くの見物人が押し寄せていた。
「では早速船に戻りまして、お迎えの支度を致しますので、殿下には後ほど」
 コエリュは秀吉を迎える為に船に戻り、その到着を待つ事にした。
 フスタ船とは外洋向けの艦船と違い、船底が浅く平らに出来ていて細長い船であった。速度は遅いが二本の帆柱を持つ船で、主に荷物や人員を輸送する事を目的に建造された船である。しかしコエリュはこの船に、敢て長崎で大砲を積み込んで博多まで秀吉に見せに来たのであった。

 午後になり、秀吉は小舟に警護の者を乗せて、フェスタ船に乗り込んできた。小舟は数艘で湊と往き来した為、船に乗り込んだのは警備の役人を含めて数十人程の者達であった。その供の者の中には、茶人の利休や高山右近、そして小西行長などの姿も見えていた。初めて異国の船に乗った者からみれば、さしずめ船の中は異国の家に訪れた感慨があったのか、あちらこちから驚嘆の声が聞こえていた。
「殿下におかれましては、わざわざおいで頂き、誠に光栄でございます」
 コエリュはわざわざ背を低くし、背の低い貧相な秀吉を迎え入れたのである。船室には砂糖菓子と共に、ポルトガルの酒がグラスに注がれていた。歓待の意を表したつもりだったが、秀吉はそれらを口に運ぶ事は無かった。船倉に降りた秀吉は珍しそうに手押しのポンプに触れながら、近くで船の櫂を持つ男達に目をやった。その足は鎖に繋がれていたのである。それを見て秀吉は、思い出したかの様にコエリュに声を掛けた。
「のう、ちと聞きたいのだが、予が九州平定の折、ポルトガル人が多くの日本人を買い漁り、ポルトガルに売っておると聞き及ぶが、伴天連達はその様な事に、まさか手を貸している事は無いであろうな?」
「とんでもございません殿下。その様な事があろうなど聞いた事もございません」
「ならばこの漕ぎ手の水夫は、一体何処の者か、奴らは商売で手に入れた者か?答えよ」
 珍しく問い詰める様な秀吉の云い方であった。
「いえ、滅相もございません。こやつらは長崎で水夫として雇い入れた明国の者達と、商人たちから雇い入れた者でございます。元は罪人ではございますが、重罪を犯した者では無い為、ニ年の労役を科されている者達でございます」
 コエリュは自らの立場を守る為、弁明は必死であった。
「ならばお主らの信仰の事で聞きたいのだが、何故に強引にお主らは信仰を広めようとするのか? 又この国の古くから伝わる神々や仏の寺社を、何故に破壊されるのか、又それらを何故に認める事をせず理解しようともしないのは何故なのか?のう」

 秀吉が九州平定の折にキリシタン大名の領地で見た、倒壊した寺社の荒れ果てた姿に驚いた事を思い出していた。
「太閤殿下のご懸念は尤もではございますが、私共は所詮は異国の者、国から国へ地方から地方へと、私共の信仰を広めるのが役目でございます。私共が傍に行き、お話をさせていただき信仰は広がるもので、彼らから私共の方には、近寄る事も無いからでございます。既に叡山でも私共からの申し入れで、仏教との問答も致してはおりますが、異なる信仰の為なのか怒り狂いだす始末。彼らからは私共への、その様なお話は一切ございませぬ。又寺社仏閣が破壊されるのは、私共は一切関知してはおらず、長く高額な寄進を求められていた事に対して、かつての信徒だったものが腹を立て、或いは檀家が減り僧が居なくなった為に、宗門の信徒らが自ら取り壊していると聞いており、寧ろその様になった事を私も悲しんでおります」

 ポルトガルの商人が貧しい日本の女達を買い漁り、印度やポルトガルまで連れて行き売っていると言う話を、コエリュとて知らない話ではなかった。しかしイエズス会には関係の無い話であり、知らない事にしておくのが賢明だと思ったのである。
 だが秀吉は、そうしたコエリュの腹の内を見透かしていた。
「処でコエリュ殿はこの船で、我々が明国、或いは朝鮮に兵を送りたいと申したら、さてどの様に思われるかの?」
 秀吉はコエリュの横顔を見ながら、その表情を観察する様に聞いた。船を貸せぬかと聞いた話に、何一つ触れては来ないコエリュに対し秀吉は少しいらだっている様でもあった。
「さて、我らは信仰に生きるものでございます。しかしこの国は殿下が治める場所でございますから、何事も殿下のお考え一つ、ですがもしその様な折には、我らが九州の大名達も喜んで出兵させる様に致しましょう」
 時折ポルトガル語の言葉を訳して伝えていたフロイスにも、コエリュの言った意味が良く呑みこめなかった。しかし訳した言葉に誤りは無かったと思い返すと同時に、それを言葉にした後にフロイスは意味の深さに驚いたのである。
 秀吉のコエリュを見る顔つきが、一瞬こわばった様にフロイスには見えた。いや、傍に居た利休も、キリシタン大名の片山右近や小西行長さえもが、思わずコエリュの返事に顔を見合せていたのである。
 しかし秀吉は黙っていた。少しして秀吉は訳す必要があるのかどうかさえ戸惑う様な小声で、誰に言うでもない言葉を漏らしたのである。
「・・・・しかしそれにしても信仰に生きる者が、なぜに大砲を積んだ軍船を走らせるのか、理解に苦しむのは我ら日本人だからかのう・・・」
 誰に言うでもない秀吉の、小さくつぶやくのをフロイスは聞き逃さなかった。しかし秀吉は何事もなかった様に、今一度船を見廻るとコエリュの見送りを断って下船して行ったのである。
 
 四日後の六月十四日、未だ博多の湊に留まっていたフスタ船に、未だ若い高山右近がコエリュを訪ねていた。右近は千利休の七高弟の一人としても知られ、茶人としても「南坊」の号を持つ大名である。生まれは大和国宇陀郡の沢城で、この城を居城とする父友照の嫡男として、天文二十一年(1552年)に生まれ、今年で三十五歳となる若い大名である。永録七年(1564年)の右近が十二歳の折に、父の友照が盲目の琵琶法師でイエズス会のロレソン了斉から信仰の話を聞き、感銘を受けて家族共々入信した一族に育った青年であった。
 右近と信長との関係は、かつて高山右近の主君であった摂津守の荒木村重が、信長に反旗を翻した事に始まっている。右近の居城であったその摂津国の高槻城を落そうとした信長は、キリシタンである右近に対し、投降しなければ畿内の宣教師を手始めに、キリシタン全てを皆殺しにした上、教会を破壊すると伝えたのである。信仰を捨て主君を選ぶか、それとも主君を裏切り信仰の者達を守るか、悩んだ右近は城主を辞し白装束に身を包み信長の許に出頭したのである。
 これにより後に信長は右近のその覚悟を認め、それまでの二万石から倍の四万石に加増し、これまで通りに高槻城主である事を認めたのである。この事で高槻領内には更に二十カ所もの教会が建てられ、領民の六割がキリシタンとなったと云う。
 又、天正十年に本能寺の変で信長が没すると、右近は羽柴秀吉の許に駆けつけ、山崎の戦いでは先鋒を務めるなど、人徳の人として知られる様になった。だがそうした反面、仏教徒や神道氏子からの批判は厳しく、領内の高槻周辺の神社仏閣は殆どが壊され、仏法の僧からみれば、高山右近はまさに憎しみの相手でもあった。

今、秀吉の許で播磨国明石の船上城を居城に持ち、六万石の大名となったのは、或いは秀吉の覚えが良かった為かも知れないと右近も思っていた。しかし既にイエズス会に入り、二十三年もの長い信仰を持ち続けて居たのである。
 その右近がコエリュにどうしても伝えたい事があった。
「コエリュ殿、どうもこの度の太閤殿下が行った九州の知行割について、いささかの疑問がございましての」
「何故ですか? 九州の知行割では豊前には黒田氏が、豊後には大友氏、日向に伊東氏ならこれまで通りではありませんか? 我らキリシタンの信仰は九州に於いても増々深く根付いておりますよ。更に畿内にも広がって行くと思いますが、それとも何か問題でもあるとでも?」
 コエリュは未だ右近が疑問を言う前から、問題の無い事を決めつけていた。
「腑に落ちないと申すは、余にもこちらに都合に良すぎると思えるのだ。何故な唐に向かうに一番近い場所に、我らがキリシタンの領主ばかりではありませぬか。それに船は関白殿に差し上げた方が宜しかろうと、あれ程申し上げたのですが、お聞き届けを戴けない様ですな。日本人には表の顔と裏の顔の、二つを併せ持つ者と多いのです。特に太閤殿下は腹の中は、誰にも見せるお方では有りませぬぞ」

 イエズス会の日本布教に於ける責任者に対し、少し言いすぎたかと右近は思った。しかしこのコエリュと言う者に対しては、何時も不満が積み重なってゆく様にも思えるのである。そしてそのいら立ちの元は、この宣教師のコエリュが、日本人を全く理解しようとしない為でもあった。何の為にフスタ船を長崎から回航したのか、まるで秀吉に見せに来ただけではないかと右近には思えたのである。
「右近殿は考え過ぎですよ。秀吉殿が欲しいと望まれれば、差し上げ様と思っておりました。しかし話が奴隷の売買と言う方に向いたもですから、その話も切り出せなくなりました」
「取り越し苦労であければ良いのですが、私は九州のキリシタン大名と呼ばれる方々が、朝鮮出兵の折には先鋒として真っ先に、向かわされるのではと危惧しておりますものでな」
 右近は相手の気持ちの読めないコエリュに対し、突き放した様に言い捨てたのである。何を言ってもこの男は駄目だと思えたからであった。翌日、コエリュは秀吉を訪ね、長崎への帰還を願い出て許され、フスタ船にはフロイスを同乗させ長崎へと帰って行ったのである。そしてこの日から三日後の事であった。覚書が更に翌十九日には定書が示され、秀吉からの伴天連追放令が下されたのである。それはイエズス会の誰もが、予想さえしていなかった事であった。


 【伴天連追放令】
 秀吉が長崎のコエリュに対し、伴天連追放令の覚書を送った同じ十八日、高山右近は秀吉からの書状を受け取っていた。その手紙の大凡の意味はこうであった。
「キリシタンの教えが、身分ある武士や武将達の間に広まっているが、予はそれらが右近の彼らに対する説得の結果だと承知致しておる。そしてそれを不快にさえ思っている。何故ならキリシタン達は血を分けた兄弟以上に団結が見られ、それらはやがて天下に累を及ぼすであろうと案ずるからである。今後とも武将の身分に留まりたいのであれば、直ちにキリシタンである事を断念せよ」
 秀吉からの信仰を棄てろとした、名指しの脅しであった。手紙を読み終えた右近は改めて、今その時が来たのだと悟ったのである。秀吉が天下を握ってからと言うもの、絶えず恐れて来た事でもあった。家臣や領民は領主である右近に信仰をも合せようと、それまで代々続いた信仰を棄てて、主従の関係を大事にしてくれたのである。それは自らが強い信仰を持つ事によって、周囲が変わった事は言うまでもなかった。しかし秀吉には自らの信仰と言う、その強い信仰心が皆無であった。あの信長に至っては、全く神仏を認める事さえしなかった。否、神仏を信仰する者に対しては、憐みの気持ちを持っていたのかも知れないと思えた。もし信長にしても秀吉にしても、自ら崇めるものを持ち強い信仰心が有ったなら、或いは自分が持つ信仰も、これ程に深く育つ事は無かったかも知れないと思えた程であった。

 だが今は強い信仰を持っていた。全てを犠牲にしてでも、この信仰心は捨てられないものであった。右近は大名を棄て、信仰の道を歩もうと決心したのである。しかし振り返ってみれば転封地である明石は、領民はもとより寺の僧侶までもが改宗していた。僧侶さえもが改宗してキリシタンになったが為に、自らが自らの寺を破壊し氏子の無い寺社はいつの間にか消えていたのである。無理やり命令した訳では無かったが、主従の関係は阿吽の関係であった。しかし秀吉との主従の関係には、その阿吽の関係を覚える事が無かったのである。
 恐らくこの阿吽の関係とは、目指す先が互いに同じと言う関係の上に、立場を越えて主従の関係が築かれたものだと右近には思える。それ故、秀吉の目指したものは、単に秀吉だけのものであったと思えるのだ。
 左近は翌日の十九日、秀吉の許に出頭し、小西行長にて預かりとされ、改易を言い渡されたのであった。
                             
                                  定

一、日本は神国たる処、きりしたん国より邪法を授候義、太 以不可然候事。
一、其国郡之者を付近門徒になし、神社仏閣を打ち破らせ前代未聞候。国郡所在知行等給人に被下候義者当座事候、天下よりの御法度を相守、     諸事可得其意処、下々として猥義曲事事。
一、伴天連其知恵之法を以、心さし次第二檀那を持候と被思召候ヘバ、如右日城之仏法を相破事曲事候条、伴天連義、日本之地二ハおからせ間     敷候間、今日より廿日の間二用意仕可帰国候。其中に下々伴天連に不義申懸もの在之ハ曲事たるへき事
一、黒船之儀ハ商買之事候間格別候之条年月を徑諸事売買いたすへき事
一、自今以降佛法のさまたけを不成輩ハ商人之儀は不及申、いつれにてもきりしたん国より往還くるしからず候条可成其意事

                                            巳上 天正十五年六月十九日    豊臣秀吉 朱印
 
 秀吉が十八日に発令した覚書は、未だ高山右近が棄教するだろうという甘い見通しが色濃く残っていた。多くのキリシタン大名が居る中で、敢て積極的に信仰を広げる高山右近にだけ文を書いたのである。言葉だけでも理解した事を示せば、これ以上の心配は無くなるはずであった。それ故にの時までの秀吉の腹の内は、諸侯や身分のある者の改宗は規制するものの、一般庶民や農民、そして伴天連達の布教活動も許す積りでいた。しかし右近が棄教もせずに改易を受けた態度に、翌十九日に出した追放令の定書には、秀吉の強い意志が明らかに滲み出たものとなっていた。
 十九日の伴天連追放令の定書を簡単に言えば、キリスト教は邪法である。古くからこの国にある神社仏閣を、むやみに取り壊している事は許される事では無い。それ故、キリスト教を広める伴天連(宣教師)は二十日以内に、この日本から出て行く様に申しつける。
 ただし貿易は信仰とは違い売り買い故に、この国に入るのは信仰とはかかわりが無く、従来通りに取引きを行う事に制限を付け加える物では無い。と言う内容のものであった。

 この伴天連追放令を下した翌日の朝、秀吉は自らの館にしていた箱崎八幡宮に、この九州攻めに来ている諸大名を直ぐに集める様、三成に申し付けたのである。
 昼前であった。接見の間に集まった諸大名に向かい、秀吉は伴天連追放令に関する自らの見解を伝えたのである。
「諸将は、この度の伴天連追放令に関する命令について、はなはだ疑問を持たれる者もおられるとは思う。これまで予は奴ら伴天連どもを見ては来たが、初めは一向宗とよく似ていると思うていた。しかしそれは少し前までの事である。今、改めて思うに、奴らは一向宗よりも遥かに危険極まりなく、狡猾な者達だと思うておるのじゃ。
 汝らは一向宗が、下賤な者どもの中で広まった事は知っておろう。確かに一向宗が加賀に於いては領主を追放し、大坂の坊主を主君として領主に迎えた。だが予は、一向宗については築城も濠を掘る事さえも許してはおらぬ。
 ところが伴天連達は奴らの持つ高い知識を基に、我らの公家や貴族、それに地方の諸侯達に近寄り、信者への入信活動を始めておる。奴らの絆は一向宗のそれからみても遥かに強固である事を、わしは此の地でしかと見てきた。信仰心を用いてこの国を占有すべき企ては、疑念の挟む余地すら無いと予はその様に思うておる。
 その理由は明白である。伴天連の信徒はそれが大名で有ろうが下賤の者であろうが、全ての者が奴らの宗門に対しては徹底的に服従しておるからよ。それにもう一つ、先日には伴天連が軍船に乗り、長崎からこの博多まで来ておった。軍船を予に見せにじゃ。信仰を持つ者が軍船を操るなど、我らの常識からすれば全く不可解な事でもある。この事でも奴らの狙いが分かろうと言うもの。そして未だ一つ、九州平定に於いて耳にした事だが、ポルトガル人が事もあろうか日本人を、異国に売り渡していると聞いた。それ故に、これらの事から予はこの度の処置を取ったのじゃ」
 秀吉はキリシタン達の強い信仰心の源が一向宗達の単に勢いだけの様なものとは違い、仏教のそれとは全く異質な信仰である事に不安を感じ始めていたのであった。

 一向宗とは鎌倉時代の僧である一向俊聖が、浄土宗の開祖である法然の影響を色濃く取り入れた踊り念仏の宗派である。以降に浄土真宗石山本願寺教団の蓮如が自らの信徒を集めたのも、それが一向宗に影響された僧や信徒であったが為に、蓮如は後に彼らは一向(衆)だと区分けしている。だが一向宗は浄土真宗であり、本来は浄土宗の法然を師と仰ぐ親鸞が、「浄土真宗は弟子一人も持たず候」と云うとおり、初めは親鸞自ら広めた宗派である。しかし真宗も八世の代に蓮如が教団を作り、それが十一世の顕如になると、何時も一向一揆の後ろには本願寺の姿が見え隠れしているとまで言われ始めていた。この頃の本願寺教団は地方大名とも親交を深め、甲斐の武田信玄の妻の妹を、政略結婚ではあるにしても顕如は妻に迎えるまでになった、それは信長を包囲する為に作り上げた、武力も辞さない信仰による教団組織だったのである。
 天文元年(1532年)の飯盛城の戦い以降、更に教団と信徒の武装化は進み、この時は既に十万の兵を持つまでになっていた。永録四年(1561年)に都で布教を始めたイエズス会の司祭、ガスパール・ヴィレラの手紙には、日本の富の大部分はこの坊主(顕如)が所有しているまで書かれていたのである。

 この頃に信長と対立していた浄土真宗本願寺教団は、加賀では古くからの領主富樫氏を追い出した一向(衆)の信徒達を集めるなど、摂津国の淀川河口近くの石山御坊の小高い丘に、城郭をなした本願寺の寺院を建てたのである。後に場所の名から石山本願寺と改称するのだが、信長と顕如の淀川堤での戦闘の後、顕如はその石山本願寺に立て篭もる事となるのである。信長との戦いは勝敗を決める程の確たる戦果も無く、決定的な負け戦も無かった。それらは本願寺教団が築いた各地の一向一揆と共に、信長に敵対する地方大名との関係がそこに存在したからである。しかし天亀四年(1573年)の武田信玄の急死によって、それらの均衡は大きく崩れ去り信長からの和議の申し入れもあって、石山本願寺を引き渡す事で11年にも及ぶ石山合戦と呼ばれた戦が終わったのである。しかしこの石山本願寺を引き渡す日の早朝、寺から出火した為に廃墟と化したのである。やがてその後のこの場所が、秀吉が建てる大坂城の場所へと移って行くのである。本能寺以降は本願寺教団も秀吉の管理下に置かれ、摂津中島(天満)に本拠を移したが、秀吉に「城の様なものも濠の作る事も認めていない」と言わしめたのは、その事を指しているのである。

 それにしてもフスタ船の中で秀吉に伝えたコエリュのあの時の言い方は、秀吉の下にいる大名達を間違いなく自らの下に見て居た事であった。それは自らに神の名を被せてしまえば、自らの命によって自由に動かす事が出来ると言う、傲慢さそのものであった様に秀吉は受け止めたのかも知れなかった。しかもフスタ船を軍船として貸し出す話も話題に出る事は無く、まるで忘れて居るかのような態度を示した事であった。

 一方、イエズス会のフロイスは追放令が出されたこの時に、コエリュと共に長崎に戻って居た。一年半程前には、日本布教の責任者となった上司のコエリョを秀吉に謁見させる為、長門国赤間関(下関)から船で瀬戸内を渡り、大阪に着いたのは三月の事であった。五月初めに秀吉との謁見が済み、又堺から船で四国の伊予国の三津浜を経て、豊後国(大分)の臼杵に戻ったのは五月の終わりの事である。そこに八月まで滞在した後のひと月後には又赤間関に戻り、更に今年の二月には又都に出向き、やっと山口から赤間関に戻ったばかりの後に、コエリュからの手紙で博多に出掛け、通訳として自らの仕事を務め、フェスタ船に乗り博多を発って三日目の十八日であった。
 フロイスは九州と大坂や都との間を、一年余りで二度も往復しているのである。何時も何がしかの用事で往き来したのだが、自らの著書「日本史」を書く筆よりも早く、様々な出来事がせわしなく自分を追い立てていると思えた。

 伴天連追放令が長崎のイエズス会に届いたのは、秀吉が箱崎で定書を認めた翌日の事である。それは宣教師だけでなく、信仰に関わる者達の誰もが驚くに値した出来事であった。博多で秀吉がフェスタ船に乗り込んだ時までは、一切そうした様子を受ける事は出来なかったからである。それだけに突然の追放令であった。イエズス会は急遽会議を開き、善後策を話し合ったのである。何れは巡察師であるアレッサンドロ・ヴァリアーノの指示を待つ事になるのだが、今はインドのゴアに居て直ぐに連絡を取る事は不可能であった。秀吉の示した二カ月と言う期限を、とにかく出来るだけ遅らせる方策が必要であった。


 箱崎に滞在している秀吉の許に、長崎のコエリュからの使者が来たのは伴天連追放令から十日後の事である。この時既に秀吉の腹心である黒田孝高は、秀吉に棄教する事を申し出て許されていた。信仰よりも秀吉への忠誠を選んだのである。
 処でコエリュからの使者が秀吉に伝えた内容とは、母国に戻る船が長崎に入港して居ない為、又、今後六カ月間は出航が出来ない為、追放令にある様な二十日間以内の退去は出来ないとする弁明であった。
 秀吉は取り敢えず猶予を与える事にしたが、再度新たな命令書を送ったのである。その内容は、伴天連は全て平戸に集まり、出航までの期間は同地に留まる様に、又ヨーロッパ人の伴天連だけでなく、全ての伴天連を追放する事を明記した上で、イルマン(修道士)をも含め伴天連同様に追加したのである。更に十字架の旗を船に掲げる事を禁じ、キリシタン大名達がイエズス会に付与した用地や建物などを、一切没収する事を命じたのである。

 だが初めて発した伴天連追放令も、後々日が経つにつれて様々な問題が表面化し、秀吉の思惑から遠くかけ離れて行ったのである。即ち、交易の相手であるポルトガル人は、その殆どがキリシタンであった。キリシタンには伴天連が傍に居る事が絶対的な要件であった。伴天連を一切受け入れないとするのは、貿易を止める事を意味していたからである。更に商いに関わる者はお咎めなしとして、又この機に乗じて伴天連に危害を加える事も禁止していた。こうした曖昧さの含んだ禁止令は、強い強制力を持つものでない事が露呈されて行くのである。
 イエズス会は絹の輸出に関しても、商いは布教の一部を担っていた。その利益を以て宣教師達の活動資金に充てていたのである。秀吉は下々の信仰も、建前としては認めて居た。本来は領主達がその身分を使って家臣達へ行う、強制的な入信を禁じたに過ぎなかったのである。
 イエズス会の宣教師達は都の南蛮寺が取り壊されるに至って、国の中心であった都の京からの撤退を余儀なくされ、九州での布教に力を入れる事で、しばし秀吉の動向を見守る事としたのである。
 そして明石のキリシタン大名高山右近が、肥後の領主でキリシタンの小西行長に引き取られたのは、この時から直ぐの事であった。

 九州平定を遂げ、博多から大坂に戻った秀吉は、執務と住まいを兼ねた居城として、都の御所の西側にある内野に、その年の九月に完成させたのが聚楽第であった。櫓を建て、白い城壁の周囲には濠を巡らせては居るものの、城と云うには余りにも絢爛であった。殿舎の屋根や軒丸瓦の縁は全て金箔で黄金色に飾られ、鬼瓦さえもが金色に光輝いていた。本丸が三層程の数寄屋風の天守を持っているのは、度々起こる地震に備えての事でもあった。
 配置は中央の本丸を挟むように、北の丸と南の丸が其々置かれ、西側には西の丸と呼ぶ出丸が張り出していた。更に本丸の庭が広く取られて、その庭を望むように百畳余もの大広間が、謁見の間として作られていた。此処は襖を入れれば五つ程の部屋に分けられる程で、襖の多くは松の襖絵が金箔で描かれて、部屋の奥に行くに従い眩しい程の光を放つ様に造られていた。戦を頭に描いて造営された平城と違い、そこは明らかに執務と謁見とを重視し、自らの住まいとした事が見て取れるのである。

 天正十六年(1588年)四月、秀吉は時の天皇である後陽成天皇を、出来て間もない聚楽第に行幸させている。この行幸した五日間の儀式の内、初めの二日間を主要な儀式に充てられ、三日目には和歌会が、四日目には舞楽が演じられた。そしてこの最初の日に秀吉は天皇に対し、地子銀五千五百両余りが、禁裏御料として供された。天皇家や貴族などに対して行った終生変わらぬ援助の約束は、政(まつりごと)以外の天皇の復権を認めた事であり、天皇の威光が使える事となった秀吉からの見返りでもあった。
 そして秀吉は早速この日に、その天皇の威光を利用したのである。秀吉は全国から集まった諸大名達に対し、天皇の前で自らへの絶対服従を確約させる誓約書を求めたのであった。秀吉の意志は天皇の意志であるとした、嫌とは言わせない程の鮮やかな手際であった。
 そしてその翌年の十二月、絶対服従を示した誓約書を補う意味をも含め「関東・奥両国惣無事令」を発令した。大名同士の私闘を禁止し、破った場合は秀吉が天皇の名代として、公的に討伐するとしたものである。

 翌年の五月に側室の淀殿は、山城国の与度津に新たな産所として築城した淀城で、世継ぎの「捨」を産み落とした。捨てとは一度捨てて拾うと丈夫な子に育つと言う、当時の習慣から行われた儀式でもあった。この「捨」は後の名を「鶴松」と云ったが、病弱な子供であった。熱が有る咳が出るなど其の度に、秀吉は医者に治療を命じ寺社には平癒祈願を行う様に命じたのである。
 秀吉が自らの姉「とも」の実子だった秀次を、養子として迎えたのは天正十八年(1590年)である。この年に関東では唯一抵抗の姿勢を見せる北条氏に対して、秀吉は自らの意志をはっきりと示さなければならない事を、そしてその時を迎えている事を感じ始めていた。更に関東以北の絶えず小競り合いを行う大名に対しても、従わない者に対する力の差を鮮明に見せる必要があったのである。
 関東の北条氏は、まさに九州の嶋津義久と同じであった。都から遠く離れる程に、自らの力を過信する大名が跡を絶たないのである。これ以上に天下を理解出来ない者が大名で居る事は、天下を平定するに大きな障害になる事は明らかであった。


 【北条攻め】
 秀吉が自らの三万二千の兵と共に都を発ったのは、三月のはじめの事である。家康も三万の兵を揃えて、秀吉の部下でもあった諸将も兵を国元から集め、本体は併せて十六万余り、水軍二万、北国軍二万の約二十万余りの軍勢が関東に向かったのである。秀吉と家康の本体は沼津に到着してすぐ、箱根峠の途中にある守備隊四千の山中城を、秀次と家康の六万の軍勢で攻めさせた。更に伊豆韮山には織田信雄を差し向け、その守備隊四千に対し織田の兵は四万と、其々圧倒的優位のなかで僅か一刻後には落城させたのである。
 他方、土佐の領主であった長宗我部元親の指揮する水軍一万は下田城を攻め、僅か六百の北条方守備隊をせん滅した。更に一方の北国軍の前田利家は、上杉景勝・木村一等と共に北陸筋より攻め入り、四月には上野の松井田城を攻め落とし、その後も進攻は衰えず六月には、武蔵の鉢形城を落としていた。
 小田原城を包囲した本体の半分約八万の秀吉の兵は、籠城策しか取らざるを得ない北条氏と対峙していた。一方で秀次や家康を擁する秀吉は、残りの兵と共に小田原城を見下ろす石垣山に陣を敷いたのである。しかし秀吉は余裕であった。利休を呼び寄せ茶会を開き、淀殿までも大坂から呼び寄せて箱根に湯あみに出掛けるなど、その余裕を余す事なく天下に見せる事にしたのである。
 三カ月余りも続いた戦も七月に北条氏が降伏し、ここに秀吉の天下統一がほぼ完成した。秀吉はこの時、九州征伐の折に示した朝鮮出兵を控えて、自らの政権と安泰を頭に一層強く描いていた様であった。七月十七日、小田原城内にて論功行賞の申し渡しがあった。この時、家康には北条氏の遺領の全てが与えられたのである。しかしそれまでの領地であった三河・駿河・遠江・甲斐・信濃の全てが収公されたのである。
 家康を出来るだけ京から遠くへと追いやりたいとする秀吉の、明らかな目論見が誰の目にもはっきりと見えた時であった。しかし家康は黙ってそれを受けいれたのである。
 家康にとっての大事は、この秀吉の方針に対して誰がどの様に動くか、それを見極めねばならない事であったからである。
この後、秀吉は奥州への仕置きに下野から宇都宮へと向かい、小田原攻めで来ていた伊達正宗の案内によって、白河、会津から鳥谷ケ崎(花巻)を経て平泉で奥州仕置きを終えたのであった。

 九州に多くの宣教師たちを引きあげさせたイエズス会は、秀吉の伴天連追放令の対策に頭を痛めて居た。印度のゴアに居たインド管区の巡察師、アレッサンドロ・ヴァリニァーノ神父に対し、その事情を書き送ったのは伴天連追放令が出た翌年の天正十六年の事である。今しばらくの様子見をしつつ、ヴァリニァーノが目論んだ事とは、インド副王としての肩書を持ち、ヨーロッパから戻るはずの遣欧少年使節と共に日本に向かう事であった。
 天正遣欧少年使節とは、九州のキリシタン大名だった大友義鎮や大村忠純、有馬晴信らが、アレッサンドロ・ヴァリニァーノの発案で、少年達をヨーロッパに向かわせ、ローマ教皇に拝謁させようとしたものである。それは既に天正十年(1582年)一月二十八日には長崎を発ち、天正十三(1585年)年の三月一日にはローマでグレゴリウス十三世に謁見し、更に二月三日にはイタリア中部のフィレンツェにある、メディチ家の舞踏会にも招待されていたのである。
 天正十八年六月二十日に日本に戻った遣欧使節の中に、このインド管区の巡察師であるヴァリニァーノが、目論み通りにインド副王使節として上陸したのである。急ぎイエズス会の伴天連が集まり幾たびもの会議を重ねた結果、ヴァリニァーノはこの時にガスパル・コエリュの任を解く事を決めたのである。ここまでの問題を深刻化させた事に、遅ればせながらその責任を取らせたと言うべきであろう。
 更に長崎を要塞化して秀吉と対抗しようとした意見も抑え、ヴァリニァーノ自らが京に上る事を提案したのである。それは有馬晴信から秀吉に、天正遣欧使節の接見を求める願いを出す事であった。ヴァリニャーノは未だ秀吉とは会った事は無いが、信長とは都で十二年前の天正七年二月に会っていた。ヴァリニァーノの連れて行った随行者の中にいた黒人が、都では酷く珍しがられて信長も、その男の黒い肌に触れた事があった。そしてその五日後には、同じ都で行われた馬揃えにも招待されている。この時には曾てフロイスが贈ったビロードの帽子を信長は被り、まるで子供の様に喜んでくれた事があった。更にその二年後には安土城に信長から招かれた時で、その時には信長から、安土でのセミナリオ(キリスト教の学問所)を造る許可を得た時でもあった。
 しかし信長の部下であった秀吉の天下となった今、行われているのは信長とは全く正反対の事ばかりであった。まずは秀吉を見る事、都の状況を知る事から始めたいと、ヴァリニァーノは考えたのである。キリシタン大名の小西行長に助言を受けて、宣教師を減らし俗人のポルトガル人を入れ、通訳もイルマンのジョアン・ロドリゲスを加えさせる事にした。こうしてキリシタン大名の有馬晴信らが秀吉に対し、十年前に送り出した天正遣欧使節の少年達が戻った事を知らせ、秀吉の接見を求めてたのである。
 秀吉は伴天連追放の撤回を求めるなら会う事は叶わず、単に礼儀的な事であるなら聚楽第での謁見を赦すとした返事を認めた。この為、天正十九年閏一月八日、スペイン・ポルトガル・イタリアを訪問し、ローマに置いては教皇のグレオリウス十三世に謁見した少年四名と随員八名が、聚楽第での謁見を受ける事となったのである。
 土産はイタリアのミラノで購入した、白い甲冑が二つ、双ふりの西洋の剣、珍しい二挺の鉄砲、これには車輪が付いていた。そしてアラビア馬が二頭、更に野戦用の天幕がひと張であった。ヴァリニァーノは接見の最中、秀吉の前で大げさにヨーロッパ風の拝礼をした。これが功を奏したのか、秀吉は大分機嫌か良くなり、他の同行した司祭と同様に銀百枚と絹衣の小袖が与えられたのである。
 
 その一月も末の事であった。かつては最も秀吉の身近に居ながら、表に出る事を嫌った実弟の秀長の死が、大和国郡山城から兄の秀吉に早馬で伝えられた。既に一年も前から病に伏せっていると云う報せが、秀吉の許には届いては居た。しかし見舞いに行く事さえも、秀吉は疎かにしていたのである。
 更に主従の関係が悪化していた茶道の師である利休に、秀吉は怒りに任せて切腹を命じたのである。命乞いをするでもなく命じられたまま、利休が切腹を選んだのは二月二十八日の事であった。
 四年前に秀吉が、明石の領主だった高山右近に対して改易を命じたのも、右近が自分より神を選んだ事に対する怒りであった。そして利休もまた秀吉よりも茶の道を選び、その秀吉から去っていったのである。茶の道では利休は秀吉の師であった。しかし秀吉は主従と共に師弟の関係をも理解する事が、終生出来なかったのであった。
 八月には側室淀殿との間に出来た「鶴松」も、秀吉の前を往き来する単に一つの命であったのか、僅か三歳であっけなく死んで逝ったのである。


 【与助と云う男】
 一人の男が神が語ったと言う話を、道往く人達に向かって投げかけていた。京の鴨川に架かる四条橋の袂である。その男がこの場所に、決まって昼前の同じ時刻に毎日現れる様になったのは、既に二カ月程も前からの事であった。そして男が耶蘇教の伴天連、つまり神父だと直ぐに分かるのは、赤みがかった白い肌の色と大柄な体付の所為でもあった。
 随分と年寄の様に思えるのは、眉の下の目が酷く窪んで皺の多い顔立ちだった所為でもあった。頭に被る黒い頭巾とひざ下まである服とが繋がって、腰は太い紐が巻き付く様に縛ってあった。それに足は何時も素足で、手にはロザリオと云うクルスの付いた数珠を持っていた。そしてもう片方の手には何時も厚い本を抱え、決してそれを放さなかったのである。
 男の名はペドロ・バプチスタ・ブラスケス、スペイン人の宣教師であった。以前に都で布教をしていたイエズス会の宣教師とは違い、サン・フランシスコ会の宣教師なのである。
 幼い子供達にはこの異人の姿が物珍しいのであろうか、初め遠巻きに神父を取り囲み、そして近くに寄って来ては服に触れ、大声で奇声を上げるのである。そうした頃に今度は大人たちが、一人二人と傍に寄って来るのである。未だたどたどしい言葉であったが、それでも何とか聴く気にさえなれば、大凡の意味は理解出来る程度であった。
 その神父がこの日、神の御子であるイエス・キリストが説いたと云う、人の罪を赦すと言う話を説いていた時の事である。
 今まで大人しく話を聞いていた一人の男が、突然声を張り上げて言い返して来たのであった。大きな木桶を持ってはいたが、その男がどんな仕事をしているのか、神父には皆目理解出来なかった。
「なぁ、耶蘇の坊さんよ、坊さんはどうしてその様に、悪い事をした奴らを赦す事が出来るのかの?パーデレは自分の女房や子供を殺されても、それでも本当に許す事ができるのかいの?」
 既に七年前、キリスト教の布教は秀吉の伴天連禁止令によって、唯一のキリシタンであったイエズス会は、都での活動を辞め九州への撤退を余儀なくされていた。しかしこのサン・フランシスコ会のこの神父は、そうした事にはお構いなく、身振り手振りを交えて信仰の話を堂々としていたのである。寧ろ都に来て然程の時間を過ごしてはいない神父には、かつて伴天連追放令が示された事さえ知らない様子でもあった。

 それにしても突然の、齢も同じぐらいの男からの問いかけが、神父には堪らなく嬉しく思えた様である。信仰に対して問いかけられる事こそ、この国に来た目的でもあったからである。
「私は結婚の経験がありません。ですから奥さんや子供さんが殺された人の気持ちには、深い同情の気持ちがあります。しかしだからと言って、家族が殺された人と同じ気持ちにはなれません。それはどうか赦して下さい。ですがあなたの家族が殺され、その恨みや憎しみがあるとするなら、生涯その思いを持ち続けてゆくのでしょうか? 殺されたあなたの家族は、その事を望んでいると思っているのですか? もしあなたが殺されたとするなら、あなたの奥さんや子供達に、一生涯その思いを持ち続けて欲しいと、あなたは本当に願うのでしょうか? そして憎しみや恨みを持ち続けて行く事が、あなたのこれからの人生に、どれ程の豊かさを約束してくれるものになるのでしょうか?」
 神父は哀しそうな目をして、その質問をした男の顔を見つめていた。
「もう二十年も前の事になるがの、女房は五番領の戦で、信長の兵に殺されてしまったんだよ。信長が戦をしなければ、五番領の土地に攻め込んでこなければ、女房は殺されずに済んだはずだ、それをパーデレは赦してやれと言うのか?」
男は怒った様に拳を握りしめ、声を荒げて神父に詰め寄ったのである。都や近江に住む者なら、その戦が信長と家康が手を組み、北国の朝倉を攻めた時の戦いである事は、誰もが知っている事でもあった。神父は質問をした男を見つめると、又静かに語り始めた。
「確かに自分の妻や子を殺されれば、赦す気持ちなど湧く筈も無いでしょう。ですがその憎しみからは、何一つ生まれて来る訳ではありません。あなたが憎む相手を赦すとは、あなたが相手の罪を憐れむ事であり、相手の遥か上に自分の心を置く事に他なりません。相手を赦すとは相手の罪を赦す事であり、我が身をその痛みから解き放つ事でもあるのですよ」
 そして最後に一言、その神父は男に声を掛けた。
「だから赦してさしあげなさい。あなたの為に、私はあなたの為に祈りましょう」
 既にその男が憎む信長は、家臣の明智光秀の謀反によって十二年も前に殺されていた。ましてその信長を殺した光秀さえもその数日後には、今の太閤秀吉に殺され生涯を終えていたのである。

 翌日、梅雨に入るのか湿った南風が吹く昼前の事であった。昨日と同じ場所に神父は立ち、目の前を行き過ぎる人に声を掛けていた。その時である、昨日神父に質問をした男が、立ち止まって話しかけて来たのである。
「俺の名前は与助と云うが、パーデレに昨日言われた事を一晩中考えたよ。未だ納得した訳じゃないが、それでもこれからもっと考えてみたいと思ってな、それを言いに来た。今日はこれから近江の今津に帰るが、又パーデレの処に寄りたいと思っとる。また来るでの」
「与助さんと云うのですか? 私は名前をペドロ・バプチスタ、バプチスタと云います。私の話を聴いてくれた事、感謝してます。それにお見かけの処、御年も同じ位かと・・・」
「俺はもうすぐ五十になる。近江国の今津に近い安曇川(あどがわ)から来た者だ。そこで漁師をやているからの、都にはこうして月に一度位、活きた魚を売りに来ているのさ。家で待つ者も居ないから気楽なもんだが、又次に来た時には又パーデレの話を聴かせてもらうからの」
 琵琶湖の川魚の漁師だと言う与助は、ペドロ・バプチスタの前で頭を下げた。
「ぜひ又お会いしましょう。待ってますよ与助さん。話を聴いてくれてありがとう」
 ペドロ・バプチスタが近江の漁師である与助と、初めて出会ったのはこの時の事であった。

 与助は琵琶湖西岸の今津と云う湊に程近い、安曇川(あどがわ)の河口近くに住む川魚の漁師である。
(安曇川はその源を若狭国界と志賀郡とに発し、阿弥陀山の北麓を流れ、舟木より湖に入る。流域は十一里、川幅二~三百間もの間で、湖西第一の大川より、而して此の川古くは阿度とも又吾迹とも書き、往古加茂神社供御の鯉はこの川より漁して奉りしと云う。(高島や あど川柳風ふけば ぬれど雫にかかる白波 順徳院)と、近江名所図会に記載されている。
 その近江名所図会の説明通り、河口では鰻や鯉、それに鮎や雨の魚と呼ぶ魚も獲れる、そこは与助の昔からの漁場であった。川魚は、四つ手と呼ぶ竹竿を組んで作った網を使い、鰻や泥鰌は「のどき」と呼ぶ竹籠の仕掛けを使い獲るのである。それに僅かばかりの野菜畑と漁に使う為の小さな舟と、傾きかけた藁屋根の家が与助の財産の全てであった。

 その安曇川から大津までは、陸路を歩けば丸一日がかりである。朝早く暗い内に安曇川を出ても、大津には暗くなってから着く事になる。だが琵琶湖は遠い昔から琵琶の海とも呼ばれ、湖上を渡る舟の運行は随分と発達していた。それは北国や若狭からの材木や米、海産物などが、都や大坂、堺辺りまで運ばれる為である。一方で家具や布織物、生活用具などは、北国や若狭に向かって運ばれる、それ故に琵琶湖は交通の要でもあった。特に琵琶湖の水運を支えて居た丸子舟は、大木を二つに割り、舟の左舷と右舷に取り附けて、重心を低くして浮力を高める為、雨に筵帆が濡れても転覆を防げると、湖独自の姿をした舟でもある。この船は又荷物だけでなく人も運ぶもので、琵琶湖の水運には欠かせない物なのである。
 それは琵琶湖の湖岸に幾つもの湊が、草津、大津、今津、海津、塩津等と呼ばれ、津が湊を指す言葉である事を今に知る事が出来るのである。それ故に風さえあれば荷は馬や牛で運ぶよりも早く、今津からなら半日で大津に着く事が出来るのである。与助は獲れた魚を何時もなら、丸子舟の生簀に入れて大津の魚問屋に送っていた。しかし自分で直接に売れば高値で売れる。それ故に月に一度は都に出て、魚を売りながら必要なものを買い求めていたのである。

 与助が四条の橋の袂のバプチスタを見つけ、声を掛けたのは秋の気配が漂っているひと月後の事であった。
「パーデレ、又来ましたよ」
 ひと月前と全く同じように、昼前の時間であった。
「与助さんでしたね。何時来られるのかと、毎日の様に待っていましたよ。今日も商売ですか?」
 バブチスタの顔はほころんで、この異人には笑顔が似合うと与助は思った。
「今朝、この都に着いたばかりですよ。昨夜は大津に泊まりましたものでね、此れから都の街に魚を売り歩いて来ようと思ってます」
「もし、与助さんさえ良ければ、今夜は私の教会に泊まりなさい、神のお話もさせて貰いたいと思いますが、それに教会は神の家ですから、お金は頂きませんしね」
「ありがとうございます。それでは今晩一晩だけお世話になりたいと思います。私も少しお話したいと思っていますから。で、教会はどちらにあるのでしょう?」
「堀川の綾小路にある、妙満寺跡ですよ。まぁ教会と云っても移転した妙満寺の跡地になりますから、直ぐに分かります」
「それでは日暮れにはお伺いしますので、その時にゆっくりとお話をさせてください」

 月に一度か二度であるにしても、それから与助が都の堀川にあるフランシスコ会の教会に通い始め、既に半年が過ぎていた。何時もの様に教会では、夕刻からの僅かな時間にミサが開かれていた。粗末な祭壇の前でバプチスタは聖書を広げ、数人の集まった信徒に対してイエスの教えを説いていたのである。そのミサの中には与助の姿があった。陽が早く暮れた為なのか、魚を売りつくした為なのか、バプチスタから様々な話を聴かせて貰える事が、与助に取っては最も充実した時間でもあった。
 その日は食事をした後の事であった。バプチスタから洗礼を受けたらどうかと勧められたのである。
「与助さんが教会に通って半年です。実は私は与助さんに洗礼を受けて貰いたいと思っているのですよ」
「そんな勿体ない事が、私などに許されるなど考えた事も御座いませんが」
 驚いた様に与助は、バプチスタの話を即座に言い返していた。与助にとっての洗礼とは、もっと身分の高い人が得られるものと解釈をしていた様であった。
「勿体ないなど、その様な事は無いのですよ。武士でも漁師でも誰もが神の前では平等です。同じように時間は流れ、同じように頭の上には陽が射すでは有りませんか。信仰の気持ちの強さだけが、神の洗礼の基準となるのです。どうか出来たら次においでの時までに、与助さんの気持ちを決めて見て呉れませんか? 勿論洗礼を断られても構いません。断られたからと言って、今までのお付き合いが無くなる訳ではありませんから。処で今夜は私の故郷の大学で学んだ事を、与助さんにも聴いて貰いたいと思っています」

 バプチスタは与助の洗礼を急がすつもりは無かった。寧ろ与助の心に生まれる信仰の気持ちが、静かに熟してくれるのを待ってでも居る様であった。
「与助さんはイエス様のお弟子さん達の事を、どなたかに聴かれた事はあるでしょうか? イエス様がお生まれになったナザレと云う場所から、それは遥か北にあるヨルダン川の源近く、ガリラヤ湖と云う琵琶湖程の広い湖の岸辺で、初めてイエス様は教えを説かれたのです。その時に最初にお弟子になられたのが、その湖の漁師だったシモンペテロや、その兄弟のアンデレ、それにゼベダイの子のヤコブや、ヤコブの兄弟ヨハネ達だったのです。彼らはあなたと同じ大きな湖の漁師だったのですよ」
 バプチスタは漁師である事に恥じる理由は何一つ無いのだと、私たちが信仰するイエスの初めての弟子は、同じ湖の漁師だったのだと言っていた。
「パーデレは武士も漁師も神の前では平等だと云いました。平等とは何の事でしょう?」
疑問が浮かぶとまるで子供の様に、与助はバブチスタに質問するのが常であった。そして納得するまで深く掘り下げて行くのである。
「平等とは皆が同じと言う事です。一つの命がゼウスと呼ぶ神から与えられ、必ず生まれれば死ぬ事が決められています。例外は無いのです。確かに私の国でもこの国でも、王が何事でも決めてはおります。しかしそれは国の政を王が決める事だと、多くの人達から任せられているからの事です。信じる者に対して自らの行く末を委ねるとするのが信仰ですが、反面それを疑う気持ちを人は持ってもいるものです。疑う気持ちの強い人と、信じる気持ちの強い人と、どちらの思いが安らかな心の自分になれるのか、それは自らが決める事なのです」
「それでは先ほどパーデレが言った、大学で学んだと云いましたが、大学とはどの様な所なのでしょう?」

「大学はこの国では作られは居ない様ですね。強いてあげれば、比叡山のお寺でしょうか、但しあそこは仏教に限られた場所、様々な事を教えてくれる場所ではありませんね。本来は人々が知りたいと思える事を、人々に教えてくれる仕組みとか場所の事を言うのですよ。私はエスパーニャのサラマンカ大学で、哲学と神学を学びましたが・・・iuyi!」
 バプチスタは慌てて肩をすくめ、与助を見つめていた。今度は与助から哲学とは何か、神学とは何かと問われてしまいそうに思ったからである。慌てて故郷の言葉が口を突いた。iuyi!とはスペイン語で「まずい!」と言う意味であった。
「哲学の話は又次の機会に説明しましょう。まぁいずれにしても、知りたいと思われる人達が集まり、お金を出し合って知識の有る方を呼び寄せ、教えて貰うその様な仕組みの事なのですよ」
 与助に訊かれたこの国の仕組みは、ヨーロッパの仕組みとは大きく違っていた。この国では武士の子は武士であった。百姓の子は百姓である。偶々太閤秀吉が百姓から天下人になたとは言え、それは信長の頃の話であった。戦に狩り出される百姓は居るようだが、武士にしてやると煽てられ戦が終われば死んでいるか、約束は守られないかのどちらかであった。

 ヨーロッパでは貴族の者達はこの国と似ている、だが騎士たちが世襲とは限らなかった。それに少なくとも七十年も前の宗教改革までは、国王たちはみな同じ信仰を持っていた。印刷機の発明が聖書にまで及ぶと、自らの国の言葉に直され印刷され本にされた。聖書の解釈が言葉によって意味が変わっていったのである。プロテスタントと呼ぶ新たなキリスト教の会派は、それ故にカトリックからは異端扱いとされているのである。
「ところで与助さんに、今日は折り入ってお願いがあるのですが」
「なんでしょう、私に出来る事があれば何でも致しますが」
 怪訝な顔をしながら与助はバプチスタの顔を見ていた。
「実は二月程前に薬を貰いに来たご婦人の許に、魚を届けて差し上げられないかと思いましてね。叔父と云う方が結核、この国では労咳と言われる病気に罹っており、精の付く食べ物を食べさせないと薬だけでは直りません。そこでもし鯉か鰻でも獲れたましたら、その方の処に届けて欲しいと思ったのです。ただ御代は差し上げられません。これは商売では無く善意の、奉仕のお勤めです」
「私は構いません。魚が網に掛かるのも神の思し召しでしょう? それを必要とされる方のお役にたてられるのであれば喜んで」
 与助はこうしてこの約束を頭に翌日、大津から舟で今津に戻ったのである。


【秀次事件】
 秀吉が側室の淀殿から、二人目の子供を授かったと報せを受けたのは、養子にした秀次に関白職を与えて二月後の、文禄二年(1593年)二月の事である。初めての鶴松が死んで一年余り、もはや子供は授からないであろうと覚悟したのは、僅か数か月も前の事であった。この時の秀吉の歓び様は誰に憚る事もなく、その顔から笑顔を絶やさぬ日は無かったと言っても良かった。
 この年の八月、秀吉が待ち望んでいた嫡男捨丸(秀頼)が誕生した。秀吉五十七歳の時であった。だがこの秀頼の誕生に怖れを抱いていたのは、既に関白職を譲り受けた秀次であった。時が来れば自らが貰い受けた関白の職を降りるか、それとも突然に降ろされるか、不安は怖れへと変わっていったのである。
 秀頼が産まれた翌月の九月の初めから十月末までの二月の間、病と称して秀次は都から遥か遠くの伊豆は熱海に、湯治で出かけて行ったのである。その秀次が帰京するのを待って、未だ生まれて三カ月の捨丸と秀次の娘の婚儀の話が持ち上がって来たのは、秀次から捨丸への速やかな政権移譲を秀吉が目論んでいた為である。
 それは秀次の行状が淀殿の懐妊を期に、幾つもの噂を流される様になったのも、あながち間違いでは無かった様である。正親町上皇の諒闇にあっても、しばしば大原や醍醐山で野遊びを行い、公家を招いて聚楽第の茶亭で平家琵琶を語らせた。更にその聚楽第で相撲も取らせ、殺生を禁じた比叡山では鹿狩りを行っていたのである。
 秀次の関白任官の折に秀吉は、教訓状を与えて戒めていた。それらは凡そ次の様なものであった。
一つ、秀吉を範として武具をおろそかにしない事
二つ、掟を厳重に定め、正しく理非を裁く事
三つ、朝廷への奉公に励み、家臣団の管理に配慮する事
四つ、茶の湯、鷹狩、女狂いなど秀吉の真似をしない事
 などであった。しかしこの中で秀次が唯一守ったと言えるのは、朝廷への奉仕と云う一項目である。秀次が熱海に湯治に出掛けるとした前日、見舞いに訪れた秀吉は秀次に対して、この国の五分の一を秀頼に、五分の四を秀次に与えるとした約束がなされたのである。秀吉の頭には我が子秀頼を大坂城に住まわせ、我が身は指月山の伏見城を改築し、そこに隠居後の政を見守りたいとする意図が生まれていた。それは大名諸侯の屋敷の普請が、関白秀次の居る聚楽第から徐々に秀吉の住む、伏見城周辺へと広がって行く事で見えてくるのである。

 その秀次の背後に「謀反の用意あり」と、秀吉に進言したのは三成であった。朝廷に対して既に秀次が、白銀五千枚を献上していた事が判明したからである。更にこの献上した事実が判明した二日後の文禄四年七月五日には、毛利輝元が秀次に進上した誓書の案文、つまり秀次からの打診の内容が秀吉に露呈したのである。中身は抽象的な言い回しではあったが、有事の際は自らに忠勤を求めたものであった。
 言経卿記の七月八日条には「関白殿と太閤殿と、去る三日より御不和なり、この間、種々雑説あり」と記されている。更に毛利輝元、細川忠興、一柳直盛、織田長政、小堀正勝、石川家清、筒井貞次、田中秀正、前田景定など三十九名の諸将に対し、秀次は千八百枚に上る金が貸し与えられていた事で、三成は謀反と云う口実を掴んだのであった。

 秀吉が朝鮮出兵で大名諸将に課したのは、いわば地方財政を逼迫させることが第一の目論見であった。それは国家の安泰の為に地方自らが蓄えたものを吐き出させ、天皇や自らの持つ権力に、地方大名が抵抗出来ない仕組みを作る事であった。だが自らが蓄えた聚楽第の金蔵の金を、大名達に貸し与えてしまうとなれば、秀吉の朝鮮出兵は根底から崩れ去ってしまうのである。貸した相手が謀反を起こした場合、自らの金で自らの首を絞める事となるからであった。
 秀吉はこの頃、それまでの領地を未来永劫に領主のものとしていた考えに、全くの異を唱えていたのである。領地は領主の物では無く、全て公儀のものであり、あくまでもその土地を活用して得られる米などの収穫物のみが、地方領主の財である事は当然と考えて居た。領地とは天皇や公儀から借り受け、そこに民を養うべく様々な事業を行い、税を得て豊かさを追求する仕組みだと考えていたのである。それは領主が公儀から改易された場合には、新たな領主に対して公儀が貸し与えるとするものであった。
 とは言え朝鮮出兵に伴う兵の拠出が、弱少藩の財政には耐えられなかったとしても、秀次が貸し与えていた金の使い道は、秀吉の強い怒りを買ったのである。この事件が発覚してすぐに、貸し与えた諸大名に対する返金要請が行われ、殆どが聚楽第に返金されたのである。しかし秀吉の心に生まれた秀次への不信は、増々大きくなって行ったのである。
 
 秀次の住む聚楽第に前田玄以、石田三成、増田長盛の三奉行、そして秀吉の御伽衆でもある宮部継潤と宮田一白の五名の者が訪れたのは、文禄四年(1595年)七月三日の事である。無論秀吉の指図によっての事で、用向きは秀次に謀反の嫌疑ありと云うものであった。秀次は当然の如くその嫌疑を否定したのである。
「この関白である予に対して、謀反の嫌疑を掛けるとは心外な事、一体その謀反の嫌疑とは何を以て示されるのか?」
秀次の怒りに満ちた声は、三奉行に向かって突き刺さる様に投げられた。秀吉の名代である三奉行が上座に座り、御伽衆の二人は一段低い場所に秀次と向かい合う様に坐り、御伽衆だけは黙って聴いていたのである。
「さればまず、秀次殿は何故に多くの大名諸将に対して金を貸し与えたのか、ご説明を戴きたい」
 三成の詰問の声が聚楽第謁見の間に響いた。秀次に味方する者はそこには誰もいなかった。
「されば先の朝鮮征伐に於いて示された、兵などの派遣にかかる軍役の支払いは、貧しい地方大名は中々やりくりが難しいと泣き付かれた為で、他にどれ程の意図も御座らぬ」

 秀次は弁明に終始していた。
「この三成、秀次殿だからこそ腹を割って申仕上げまするが、三年前の文禄の役に於いて、内々に太閤殿下よりご相談を賜った事が御座いました。それはあの朝鮮出兵の目論見が、決して領地を広げる事にあらず、又明を攻める事を第一の目論見としたのではござらん。天下安泰の為に地方大名の財を減らす事こそ第一の目論見。しかるに秀次殿は金子を貸し与えた者たちが、未来永劫に渡って豊臣の家臣で居続ける者達だとお考えのご様子。さすればその確たる証をお示し頂きたい」
 三成が朝鮮出兵に向かう前、秀吉から受けた天下泰平を行う為の知恵を、諭すように秀次に語ったのである。
「予はそれ故に毛利輝元に対して、誓書を求めたのである。それは関白に対して謀反を起こさないと言うものである」
口ごもる様な秀次の言い訳であった。
「謀反を起こさない事とは、謀反を企てる財が無い事が肝要ではございますまいか? その財を貸し与えて謀反が起きないとするは、謀反の財を貸し与える事になるもの。仮に謀反をするお気持ちが無いと言えども、淀殿がご懐妊以降、捨殿のご誕生以降も言うに及ばず、湯治に向われて以降も幾度となく病となる事多く、法師である信良殿を急に折檻される、果ては聚楽第にて公家衆を招く折も、ご自身がが催しされた連歌会にも突然病気と偽り、又途中から突然ご出座されるなど奇行の数々、更には正親町上皇の諒闇にも拘わらず、謹慎を欠いて比叡山への鹿狩りを行うなど、巷では鉄砲の試撃ちと称して農民を撃ち殺し、妊婦の腹を開いて赤子を出したなどの噂が絶えませぬ。これらが例え噂であれ噂を立てられる側に非が無いとするは、関白の御名が泣きましょうぞ。更に付け加えて申せば、金子を貸したお相手の大名が、もし改易とならば如何とする所存か」

 石田三成は穏やかな口調で、更に諭す様にゆっくりと話を続けた。
「まずは聚楽第を出て高野山の仏門に入り、太閤殿下の御怒りが静まるのを待つが得策」
 と諭したのであった。こうして秀次は即日、聚楽第を出て高野山に向かったのである。高野山では直ぐに剃髪を行い、母の弟である秀吉の使いを待った。七月十五日に福島正則、池田秀氏、福原直高が高野山を訪れ、太閤殿下の命として、秀次に切腹を言い渡したのである。それは既に以前から打ち合わせでもしていかの様な、段取りの良い手順であった。
 高野山ではその日、秀次に仕えていた小姓を初め、家臣や僧侶も殉死した。聚楽第に居た秀次の家臣達は、これも斬首、遠島、左遷など約四十名がこれに殉じたのである。言経卿記にはこの秀次切腹の翌十六日条に「殿下弾定、高野山に於いて御腹を切られると云々、太閤より仰せつけられると云々、言語道断の事なり。御謀反必定の由風聞なり」と記されている。そして最後まで返済していなかった細川忠興は、秀次からの借金に付いて三成に詰め寄られ、急遽家康からの援助を得て返済した事も又、秀次謀反の容疑を更に一層深めたものとなったのである。

 更に秀次が高野山に追放となった後、丹波亀山城に幽閉されていた秀次の妻子らは、秀次が切腹した後の八月二日に三条河原に集められていた。秀吉の命を受けて次々と自害させ、また惨殺したのである。実にその数三十九名にも及び、その中には秀次の子供達も含まれていた。秀吉がわが子秀頼の将来を思うが故の、いわば「根絶やし」にしたのである。それ故にこの秀吉を最も憎んだのは、実の姉であもある「とも」であった。それまで子供のいない秀吉は、姉の子供を自らの目論見に次々と利用していった。秀次の事件では「元」の夫で、秀次の父である三好吉房を改易し、讃岐へと流罪とした。秀次の弟秀勝は、朝鮮出兵の折に病死している。弟で三男の秀保は、秀吉の弟である秀長の長女「おきく」を室として養子になり、大和郡山城に入ったものの、領地経営や軍事を後見人の藤堂高虎に任せっきりにしていた。だが病となって療養中に、小姓に抱きかかえられる様に十津川に入水し亡くなったのである。十七歳であった。
 それ故に秀次と秀保の母である「とも」は、この事件以降、日秀と名を変えて京都嵯峨野の瑞龍寺にて尼僧となったのである。

 八月半ば、淀殿と共に秀吉は伏見城から大坂城に住まいを移した。同時に秀次の住んでいた聚楽第の取り壊しを命じたのである。完成して僅か八年、建てた秀吉の命によって、今度は見事に跡形もなく破壊されたのであった。


 【与助の洗礼と美代の事】
 与助がひと月も経たず、堀川の教会にバプチスタ神父を訪ねたのは、頼まれた魚を届ける為である。そして洗礼を受けて貰いたいと言う話に、素直に応じる為でもあった。昼過ぎになると教会に戻って来るの分かっていた為に、大津から真っ直ぐに堀川の教会に来ていたのである。
「パーデレ、頼まれていた魚を持って参りましたよ」
 大津から水の入れた桶に魚を入れて、都に来るのは大変な事であった。それ故に水を少なくして、途中で二度も川の水に入れ替えて運ぶのである。
「おお、ありがとう。きっと喜んでくれるとは思うが、実は届ける先が伏見なのですよ。此処から凡そ二里程の、伏見の手前の藤が森と云う場所なんだが・・・」
「良いですよ。私が届けます。其れとパーデレ、私の洗礼もお願いしたいと思って参りました」
 与助の言葉にバプチスタは一瞬、驚きの表情を見せた後、それは直ぐに歓びの顔に変わっていった。
「良く決心してくれましたね。その言葉を私は待っていました。とても嬉しいですよ、そうだ、早速洗礼の儀式を済ませて、魚を届けて貰わねば。帰りましたら祝いの食事をしましょう、今夜もぜひ泊まって行きなさいね。今夜はあなたの為に、祝杯をしましょう」
 バブチスタの心は躍っていた。与助が漁師ではあったが、きわめて聡明な日本人だと思える。探究心に富み、知るという事に喜びを見出す、子供の様な純真な気持ちを持っていると思うのである。早速、教会に居合せた信徒数名を集め、イルマンらと共に与助の洗礼の儀式を執り行ったのである。与助の洗礼名をバプチスタは、マチアスとしたのである。これから教会ではマチアス、或いはマチアス与助と呼ばれる事になるのである。

 土塁に囲まれた洛中から、与助が東寺口を出たのは未だ陽の高い時刻であった。バプチスタに教えてもらった地図を頼りに、伏見街道を伏見の藤が森に向かったのである。道はまっすぐに伏見に向かい、伏見の手前左にある藤が森の社の裏手であった。地図には百姓の家で美代殿と書いてあった。
 幾度か村人に聞いて、与助は美代の住む家の前に来ていた。百姓の家だと直ぐに判るそれは、周囲を低い雑木林で覆われていて、古くなった藁の屋根が重そうに、少しまがった柱に支えられていた。
「御免なさいまし」
 古びた障子戸の前で、与助はもう一度大声を張り上げた。
「御免なさいな、私は与助と申します。都の耶蘇のパーデレから頼まれて、魚を届けに・・・」
 云い掛けた途中であった。障子戸が外れてしまうかの様な音を立てて開くと、その向こうから四十過ぎの女が顔を出して、怪訝そうに与助を見つめていた。
「あのぅ、都のパーデレから頼まれまして、美代さんのお宅はこちらでしょうかの?」
「はい、何か?」
「実は都のパーデレにこちらへ魚を差し上げてはくれないかと頼まれましての、それで琵琶湖から運んで参りました」
「あなた様は?」
「私は琵琶湖の安曇川の河口で漁師をしております与助と申します。耶蘇のパーデレとは親しくしておりまして、何でも叔父の方が病とか、薬だけでは直らぬから精の付くもの、それで鯉を届けた次第での」

 この時に美代はやっと事の次第が呑み込めた様で、慌てて外に出ると与助の前に出て頭を下げたのであった。
「与助はんおいいやしたな、おおきに。それにわざわざこないな所まで届けてくれはってからに、ありがとうございます」
 何時もは聞きなれている都の言葉ではあったが、美代の声は与助の耳に心地よく届いたのである。
「いいえ、大丈夫で、御気になさらないで下さい。それよりも御身内の確か利兵衛さんと聞いていますが、具合は如何でしょうかの」
 バプチスタから病人を抱えていると言う美代に、与助は心配そうに声を掛けたのである。
「おおきに、せやけど暫くは寝たままどす。少しは布団の上に起き上がる程度で・・・」
「そうですか、それは大変な事で、そうだ、せっかくですから包丁を貸して貰えますか? 魚を捌いてから都に戻りますので」
 与助は木桶の蓋をとると、側にある井戸端に向かった。恐らくは魚を捌くのは、無理だろうと察したのである。
「これで宜しゅうおすか? わてな、こないな大きな魚、切った事あらへんのどす、助かります」
 台所から美代の手には、見るからに切れそうもない包丁が握られていた。与助はその包丁を受け取ると、近くに大きな石を見つけて、水をかけて研ぎ始めたのである。美代はそうした与助の後ろに立ちすくみ、これから起きる事を見つめていた。
 一尺半もある大きな鯉が、木桶の蓋の上に寝かされていた。与助はその鯉の頭を包丁の柄で叩くと、鯉は一気に力の抜けた様にえらの動きを止めていた。鱗を包丁の背で取り除き、腹を切って内臓も取り出した後、魚の頭を取り外して血合いを取り除いて筒切りにしたのである。
「殺生は哀しいやすな、人は生きているものを殺して食べて、そないして生きてゆかなぁ仕方おへんのどすけど、けどやはり生き物が死んで行く姿は、可哀そうでなりまへんのや」

 差し出された包丁を使いながら、与助はまだ黙々と内臓を捌いていた。しかし考えてみれば、それが当たり前だとは言え、美代の様な言葉は久しく聞いたことが無かった。与助はこの時、初めて美代と云う女に親しみを感じたのであった。
「切り身は味噌で煮立てれば、臭みも取れて美味しい鯉こくが出来ます。ゆっくりと時間を掛けてとろ火で煮るのがコツと言えばコツです。それと内臓と頭は良く洗ってから醤油と白酒で味付けをして食べて下さい。味は濃いめにすると日持ちがしますよ。時間をかけて煮込むと骨まで軟らかくなりますから」
 与助は美代に親しみを感じながら、魚の調理の仕方を教え、木桶を洗い始めた。
「これから都に帰ります。パーデレの処に戻ります」
「与助はん、おおきに、なんぞ差し上げとうございますが、けど生憎差し上げるものが何もおまへんのや。今度はいつ頃に教会に来はりますのどすか?」
 さも済まなさそうに、美代は与助に訊いていた。
「へぇ、又ひと月程過ぎた頃になるかと思います。実は今日、教会で洗礼を授けて貰いました。とても良い日でございました。マチアスと云うお名前も頂きました」
 思わず与助は美代に心を赦していた。この人なら祝ってくれると思えたのである。
「ひぇ、それはようございましたな。おめでとうさん」
 美代の微笑んだ顔が、誇らしそうな与助の顔を見つめていた。すでに夕陽が秋の空を染めはじめていた。
 
 堀川の教会に与助が戻ったのは、すっかりと陽も落ちて辺りは夕闇に包まれていた頃である。
「ご苦労様、やっとお戻りになられましたね。先ほどから、もうそろそろ帰って来るはずと待っていたのですよ。食事の支度も出来ていますからね」 
 「遅くなりました。魚を捌いていたものですから、それに少しですが届けた先の奥様ともお話を少々してしまいました。ただ何かご事情がおありの様で・・・」
「気にされる事はありませんよ。心のお優しい、しっかりとした方だと思いますよ。ただ、ご両親の話は、あの方の前では話さない方が良いでしょうね」
 ー「それは何故でございましょう?」
 与助は少し曇った顔で、バプチスタの顔を見上げた。
「美代殿の顔が暗くなります。触れたくない昔の事の一つや二つ、誰もがお持ちなのではないでしょうかね」
 戻って来た時に見た明るい与助の笑顔を、バブチスタは思い起こしていた。もし神の御意志でこの二人が結ばれるとしたら、信仰に満ち溢れた素晴らしい家庭が生まれるかも知れないと、独りがってな想いを膨らませていたのである。
 美代が教会に来たのは、与助と出会うひと月程前のことであった。突然に倒れた叔父の為に、薬を貰える教会があると、人伝に聞いて訪ねて来たのである。訳を聞くと美代は以前に、都の足利氏に仕えていた、武士の父を持っていたと言うのである。その足利義昭が将軍になった途端、それまでの庇護していた信長と敵対し、本願寺の蓮如や武田信玄などと内通して信長に討伐令を出したが為、今度は信玄の死去とともに形成は大きく変わり、美代は父親と共に信長に都を追われる事となったのだと言う。しかし幼い美代の身を案じた父に手放され、武家の家に貰われたと言う。美代が十八歳の折に京極氏に仕えていた侍に嫁いだものの、子供が出来ぬとして嫁いで四年で離縁された。戻る先も無い美代に手を差し伸べたのは、母方の弟である叔父の公庄利兵衛であった。だが十数年も前に病に罹り、武士を辞めて藤が森に住みついたと言うのであった。
 今は僅かな畑を耕し野菜を作り、近所の子供達に読み書きを教えて、まさに細々と暮らしていたのであった。

 こうして伏見の藤が森に住む美代の許に、時折ではあるにしても魚を届けながら、与助は教会に通う日々を過ごしていたのであった。病人を抱え教会にも余り顔を出す事も無かった美代が、バブチスタに会いたいと教会に来たのは、降誕祭が行われるひと月前の事であった。
「パーデレはん、実は叔父の病に、わても掛かってしもた様で、この処熱も咳も気になりますのんや、さほど未だ酷いと言う程の事ではおへんのどすが・・」
「薬を少し多くだしましょう。与助さんはご存じなのですか?」
「心配かけますよって、言うてはおりまへん。ですが与助はんにもうつるのかと心配で、それにこの前に魚を運んでくれはりましてなぁ、その時に偶々鰻が獲れたと言うて持ってきてくれはったんどす。うなぎ頂くお話しをしておりまへんよって、わてが約束違う言いましたんや、ほないしたら与助はんが言うには、それなら野菜と交換してくれ言うて聞きまへんのや。教会に持って行くゆうて・・」
「あぁそれで、あの時の野菜は美代さんの処の野菜でしたか」
 信徒の泊まる部屋の台所に、野菜が沢山置いてあったと耳にしたからであった。
「ほいでな小刀で竹藪から竹を切りだして、竹串を作りはった後に、今度は鰻を割き始めてな、それを竹串に巻き付けてな塩を付けて食べろと言いましたんや。その時にわて咳き込みましてな、なんか知られてしもうた様な気がしますんや」
 病気だとは言え、少しは明るく与助との事を話す美代を見て、バブチスタは僅かな安らぎを覚えたのである。

 この年の十一月、堀川の教会では、初めての降誕祭が行われる事となった。冬至の前後にあたる木曜日がその日となり、既にイエズス会は十年も前から、この行事が行われていると、バブチスタは日本人のイルマンから聞いた事があった。そして信徒達はこの日をナタリアと呼び、牛小屋で生まれたイエスの誕生日として、一年に一度の格別の祝いをするのである。
 前夜からは支度も急に忙しくなり始め、祭壇には酒や肴なども並べられ、教会に来ない信徒の家では、幾度もアベ・マリアと唱えるのだと言うのである。教会での降誕祭に集まるのは、畿内でも近くに住まいのある者が主であった。しかし泊まり込みで来る者も居て、前夜は同じ信徒の家に泊まる者も少なくは無かった。
 そうして其々の信徒が持ち寄った料理も並べられ、特別のミサと共に自らの罪を告白し、更には信徒達が考えた演劇も用意されていた。この演劇の最後には小さなビオラの音色に合わせ、信徒達の全てが讃美歌も歌うのである。
 この日、与助も美代と初めて二人で、この降誕祭に姿を現した。余り上手とは言えない信徒達の演じるアダムとイブの短い劇は、それでも席の後ろの方で楽しげに見てるの二人の姿を、バブチスタも嬉しそうにそれを見つめていたのであった。


 【伏見の大地震】
 九年前に、自らの住まいと政務を行う場所として聚楽第を建てたものの、自ら取り壊す様に命令を下して一年余りが過ぎた慶長五年閏七月五日、秀吉は既に工事も終わっていた指月山の伏見城に戻っていた。あえて宇治川の畔に建てた城で、舟を直接に城内に入れられる様、舟入濠も作ったのである。どちらかと言えば歩く事も雨に濡れる事も無く、舟で大坂などにも出掛けられる様に考え、老後の隠居所として建てた城であった。
 ところがこの日の夜半の事であった。初めはさほど大きな揺れでは無かったが、少しすると大地が揺れて、城がミシミシと鳴り出したのである。驚いて城から飛びだした者も少なくはなかつたが、深夜であった為に都でも火の手が上がる程の事も無く、しばらくは眠れぬ時を過ごした程度で事は済んだ。
 その三日後の十二日、申の刻(午後四時)にも又、やはり三日前の揺れと同じような地震が、都を激しく揺らしたのである。今度のその地震は都の人々の気持ちを、一気に落ち着かない不安の底にと落したのであった。
 そして誰もが抱えている不安は、まさにその日の深夜に現実のものとなったのであった。
 それは前の二回の地震とは比べようもなく、激しい揺れであった。京の都と伏見を含む、畿内一円を襲ったものであった。特に伏見では無事な家など、一軒も無かったのである。古い家は倒壊し新しい家も歪んでしまい、人々は家の外で夜を明かす事を強いられたのであった。強い余震が引き続き襲ってきたからであった。

 それは秀吉の居た指月山の伏見城でも同じであった。大きな揺れは本丸の石垣を崩し、天守閣は崩れて傾いていた。濠の石垣は崩れて、水煙を巻き起こして濠の中に落ちていったのである。大坂城の築城と同じ様に、三十里以内の領主に対し、禄高に見合う城石を船で送らせる様、申しつけて築城した城であった。深夜の地震で火事は起きなかったものの、伏見城内では地震によって逃げ惑う者達の上に屋根が落ち、およそ六百人程の仲居や女﨟が命を落した。
 秀吉は辛うじてたすかったものの、明け方まで近習の者達に囲まれて過ごし、夜が明けるのを待って、少し離れた木旗山の頂に小屋掛けをして難を逃れたのである。城下の大名屋敷もその殆どが傾き、或いは蔵が倒壊するなどの被害を出していた。都は上京よりも伏見に近い下京の方が被害も大きく、四条町あたりは二百人程が死んだと秀吉の耳にも入ったのである。
 更に都の東山にある方廣寺では、奈良の大仏を模した高さ十間もの、金箔を張り巡らせた木造の毘蘆舎那仏が倒壊した。秀吉が出向いて開眼法要をした僅か一年後の事で、その仏像を覆う高さ二十五間もの大仏殿共々の倒壊であった。しかも全国の百姓から集めた刀や槍、武具などで作った釘で、全て寺の建築を賄った秀吉の建てた寺であった。その折には開眼供養に全ての宗派から僧侶千人を集め、千人供養として大々的な法要を行ったばかりだったのである。

 秀吉は地震の収まった翌々日、都への視察と共に朝廷への見舞いを行ったその帰りであった。方廣寺を見舞った秀吉は、倒壊して横倒しとなった大仏に向かって、供の者から弓矢を取り上げると、思わず大仏に向って矢を射かけたのである。そして仏像に向かって言い放ったのである。
「ぬしは都も守らずに倒れるとは、それでも仏か?何たる様よ!」
怒りに任せて言い放った秀吉の憎しみの言葉が、やがてこの寺の梵鐘に刻まれた国家安泰・君臣豊楽の文字によって、豊臣家の滅亡になる事件に発展して行く事になるなぞ、この時の秀吉には微塵も気付かない事であった。
 文禄のこの伏見の地震による死者は畿内で千七百人を上回り、五日後に行われる明国の使節を招いての馬揃えの儀式は、急遽大坂城にて行われる事となったのである。そしてこの三つ続けて起きた地震が四国の伊予国や、九州豊後で起きた地震と関連していると人々の話題に上り、豊後では島が海に水没した事や、津波や崖崩れなど、甚大な被害が起きて居たと知られる様になったのは、この二日後の事であった。この地震により秀吉は、文禄五年十月二十七日を持って年号を改元し、慶長と改める事にしたのである。

 与助は安曇川の自分の家で、深夜にその揺れを感じていた。家が音を立てて揺れては居たが、その地震が収まった時に何故か美代の事を思っていた。訳も無く不安が与助の体を包んでいたのである。もし激しい揺れの中で一人で怖さに怯えいたら、そうした事を思うと増々眠る事も出来なくなっていた。思い悩むより出かけて見よう、大津まで行けばもっとはっきりと、何かが分かるだろうと思ったのである。
 朝の陽が昇り始めた頃に与助は、既に自分の小舟で朝靄のかかる湖の上で力の限り漕いでいた。未だ風も無く帆を張る事も出来なかったが、それでも大津に行けば、ある程度の事は分かるはずだと思えるのである。その大津に与助が着いたのは、陽も真上に上がった頃の事である。しかし大津の街は京や伏見からの、荷物を担いで避難する人々で溢れかえっていた。道には荷車に家財を縛り付け引いてくる者も多く、聞けば都や伏見は混乱の最中だと耳にしたのである。火事は殆ど無かったものの盗難等が相次ぎ、助けを求める怪我人の声が、絶えずそこここから聞こえると聞いたのであった。
 与助は迷わずに大津から伏見に向かう街道を、逃げて来る人々とぶつかる様に、美代の居る藤が森に向かったのであった。自分の事を誰よりも待っているのは、美代だと与助は知っていた。舟を大津の川魚問屋に預けた与助は、大津街道と呼ばれる奈良に向かう道を藤が森に向ったのである。近江と山城の国境の逢坂山を越え、山科の手前の追分で洛中に向かう道と分かれて、南に下り宇治や奈良に向かう道である。しかし逢坂山の所々に崖が崩れ、山科に入ると傾いた家が目に付き始めて来たのである。伏見に入ると遠くに伏見城の天守の崩れて居るのが分かった。家族を探し出す為に屋根を壊す者、自らの倒壊した家の前で途方に暮れる者、食べ物を探し駆けずり回ている者など混乱の最中であった。

 藤が森の美代の家は、既に崩れて屋根の落ちているのが遠くからでも分かった。与助が走り寄ると家の前には美代が、何をする訳でも無く呆然と座っていた。その傍には叔父の利兵衛が、遺骸となって布団に包まれていたのである。誰が手向けたのか傍には線香の煙が漂っていた。
 美代が無事でいた事に安堵した与助は、その細い肩を思わず抱きしめた。
「美代さんが無事で、とにかく良かったよ」
「叔父さんが死んでしもうて・・」
 与助の胸に飛び込むと、美代は初めて泣き出した。暫く後に気持ちが収まったのか、美代が話したのは眠っていた時からの話で、気が付いた時には家は屋根の梁が、落ち真っ暗になったと言うのである。動く事も出来ず声を出したが、叔父の利兵衛の返事も無かったらしい。やがて屋根の藁をはがす音がして、近所の夫婦が穴を空けて助け出して呉れたと言うのである。利兵衛は既に梁の下になって冷たくなって、明るくなって利兵衛を引き出したのだ言うのである。
「叔父さんには気の毒だったな。だがな、もう嘆くな。どこでも酷い有様だ。まずは利兵衛さんを埋めてやらねばなるまい。俺が全部やるから、美代は休んでいろ」
 与助は取り敢えず利兵衛の骸を埋める事にした。崩れた家の隅に転がっていた鍬を持ち出し、目印の欅の木の下に穴を掘ったのである。一刻余りで墓に埋める事が出来た。上には目印の石を乗せて与助は手を合わせ、与助は初めて胸に十字を切って使者を弔ったのである。
 その夜、与助と美代は崩れた屋根の下の、僅かな隙間で眠る事にした。思い出した様に余震が襲ってくる事があった。その度毎に美代は体を震わせていた。
「大丈夫だ、大丈夫」

 与助は美代の不安を取り除く様に、声を掛けた。やがて眠りに落ちて行きそうな美代に、話しかけて居た。
「美代さん、俺の家に来てはくれないか、大した家ではないが、美代さん一人なら養っても行けると思う。ずっと前からこの話を云おうと思っていたが、やっとこんな時になってしまった」
 与助の声を美代は夢の中で聞いて居た様であった。穏やかで温かな与助の腕の中であった。美代は返事をしなかった、返事の代わりに与助の胸に顔をうずめて居た。屋根に開いた藁の穴の隙間から、与助は頭上にきらめいている星を見つめていた。
「大丈夫だよ、大丈夫」
 まるで囁くように、与助は美代の耳元でもう一度言った。今、美代の甘い吐息が、穏やかな鼓動が、与助の腕の中にあった。時折小さな揺れが襲ってはくるが、耳元では虫が声を出して泣き始めていた。怯えた様に美代は小刻みに震え、握った手を放そうとはしなかった。

 翌朝であった。美代は近所の人達に挨拶を済ませ、与助と共に藤が森を発ったのである。近江に行くと近所の人には伝えてはいたが、美代はその近江にさえ一度も行った事はなかった。与助は一度近江に帰ったあとに、またここにきて後片付けをすると約束してくれた事で、美代は何もかも与助に任せる事にしたのである。だが何もかも任せるなど、美代にとってみれば初めての経験でもあった。不安が無いわけでは無い。しかし今は何もかもを失ってしまった。与助を除いて全てであった。
 大津から美代は、与助が漕ぐ小さな船の上にいた。湖面は僅かに波立ってはいるものの、穏やかに薄日が射していた。艪の擦れる様な単調な音と共に、船べりをひたひたと叩く波の音が二人を包んでいた。
「なぁ、与助はん、琵琶の海はほんに広うおすな。見たのもこれが初めてなんどすえ」
まるで思い出したかの様に美代は話し始めた。
「そうですか、近くに居られたのに、初めてなんだ。この琵琶湖は嵐が来ても、塩水の海の様な波は立ちません。穏やかで魚も沢山獲れる海なんですよ。贅沢は出来ませんが、働けば貧しい思いをしなくて済む、ここはそんな所です。ほら左の山が比叡山です。京の都はあの山の向こう側、未だ教会にも行けませんでしたが、落ち着いたら又すぐにでも教会と藤が森へ行こうと思ってますよ」
「わてな、時々こないな事を思う事がありますのんや、それはな、お人はみんな同じ大きさの袋を持っていて、そこがいっぱいになると、そこに何かを入れても、袋の中の何かがこぼれ落ちてしまう。そんな風に思えるのどす。子供が齢と共に大きゅうなって、大人になると大人の狡さを手に入れる代わりに、今度は幼い時から持っていた純真な気持ちを無くしますやろ、沢山のお金を手にした時は、物を大切にする気持ちも無すやろうし、何かこの世の中、みんなどこかでつじつまが合う様に、出来ている気がしてますのんや」
 面白い考えだとは思ったが、与助は黙って聞いて居た。


 【二度目の禁教令】
 伏見の大地震からひと月後の十月十八日、秀吉は朝から大坂城に主だった重鎮達を集め、増え始めたキリシタン達の対策と、九月二十八日の嵐で遭難したエスパ-ニャ船の対処について、その評議を行っていた。遭難事件は四国の土佐、浦戸湊の入口で起きたものである。船は折からの嵐に遭遇して、近くの浦戸の湊に逃げ込もうとしたが失敗し、湊入口の岩礁に乗り上げ浸水したのである。浅瀬であったが為に沈む事も無く、船員達からも死者が出る事はなかった。しかし船から避難した者の中には伴天連なども乗り込んでいた事で、捕縛して近くの町屋に住まわせているとのことであった。
 秀吉の座る中央の上座ま前には奉行筆頭の浅野長政、石田三成、増田長盛、長束正家、前田玄以が並び、その向かいには前田利家、そして徳川家康の二人が座っていた。呼び寄せた者達が揃ったところで秀吉は自らの場所に腰を下ろし、やがて集まった者達が頭を上げると、いきなり秀吉は用向きを伝えた。
「三成よ、まず畿内のキリシタン達の取締りに関してじゃが、わしは天正十五年には既に伴天連追放令を認めておる。しかるにその追放令は然したる効果も無く、このまま放って置く訳にもいかぬ。何か思うところが有れば申して見よ。どうじゃ」

 来年には二度目の朝鮮出兵の事が、秀吉の頭を過っていた。何事も猶予は無いのだと思ったのか、語気は自ずから強くなっていた。その原因がエスパ-ニャ船の座礁事件であるのは、この場に集まった誰もが知っていた事である。それに例えそれが避難事故であったとしても、これほどの近くをエスパ-ニャ船が航海していたなどとは、全く思いもしなかったからであった。しかも宣教師やイルマンが多く乗船していた事が知られて、話は伴天連追放令の取り締まりにまで及んだのである。
「畏れながら、この度はエスパ-ニャ船の船その物の事もございますれば、早急に事に着手すべきかと。しかし問題は畿内に増え始めたキリシタン達をどの様に処分するかと言う事、この際は国内に留まる伴天連達を捕え、まずは処刑する事が肝要かと存じますが」
 三成はそう言いながら、自らの前に坐っている前田利家の顔を盗みみていた。四女の豪姫が秀吉の養女となり、宇喜多秀家に嫁いではいるが、その豪姫さえキリシタンである事は既に調べはついていた。そしてキリシタン大名と言われた高山右近が、加賀の金沢で目の前の利家に保護されて居る事すら、三成は自らの手の者から聞き及んでいたのである。
「だがのう、三成。エスパーニャを含めてポルトガルとの交易も止まると思うが、どうじゃ」
「殿下、畏れながら座礁致しましたエスパーニャ船の航海士、ランティアと申す者に問いただしたる処、エスパーニャは世界中の国を廻り、特に未開の国に対してはヨーロッパの文化と信仰をも与えており、フランシスコ会の信仰は、それ等の民の魂を救済していると申しております。又エスパーニャ国王は耶蘇教の王であるローマ教皇のアレクサンドル六世の仲裁により、大西洋の中ほどより西側をエスパ-ニャが、その東側をポルトガルが植民地として支配出来るとした条約を昔に交わしている、と申しております。この様な思い上がった奴らに対しては、はっきりとした殿下のご威光をお示し頂く事こそ、必要ではないかと思われますが・・・」
 秀吉は自らの前に居る重鎮達の顔を眺めていた。その時、黙って聞いて居た前田利家が頭を下げ、おもむろに口を開いたのである。
「太閤殿下におかれては、誠に由々しき問題。しかしキリシタンが増えましたのも、言うなれば新たな伴天連達が増えましたが故の事、しかし全てを処刑する為に伴天連達を捕えるととなれば、増々我らの見えない場所に潜りましょう。又エスパーニャやポルトガルもそれを口実に、軍船を揃えるやも知れません」
「だがな亜相殿、九州の博多であのイエズス会の坊主め、名を何と申したかの、おお、そうよ、こえりゅと申した。その坊主が軍船の上で予に向かって、九州の大名達も朝鮮出兵の折には喜んでゆかせましょう、とまるでおのれの配下の如くに言いおった。放っては於けぬわ」
「太閤殿下、それ故に何卒、今一度殿下のご命令をお示し頂きとう御座います」
 亜相殿と秀吉に言われた利家は、頭を一層深く下げた。珍しい事であった。
「さすれば亜相殿に免じて、取り敢えずキリシタンを捉えて棄教を促そう。又伴天連には帰国を求める事と致そう。しかる後に我らが本気である事を示さねばならぬであろう。のう三成、どうじゃ」
 利家の腰の低さを見た秀吉は、自らの考えを強く押し通そうとはしなかった。
「畏れながら、殿下の仰せの通り、私も左様に心得てはおりますれば、本気であるに足りる数のキリシタンや伴天連を捕え、見せしめにて長崎にての処刑を行う事が肝要か存じます。特にルソンよりの特使として参られたフランシスコ会の者達は、イエズス会を凌ぐ程にて都での布教を行い、今回の様に南蛮船が我が国の近くまでに近づき、我らの隙を伺っておりますれば、まずは彼らフランシスコ会を中心に捕縛を始めたいと考えております」
「よかろう、三成にこの件は任せるものとするが、禁教令は即刻に示すものと致そう、依存が無ければ次の評議に移りたい。エスパーニャ船の積み荷没収と、この船乗り達の処遇だが、確かこれは長盛に任せていたはずだが」
 秀吉の弟秀長が没した後、その所領を養子の秀保に引き継がした後、秀保も病死して大和郡山の所領二十二万石は、一年余り前にこの増田長盛の領地となっていた。
「畏れながら、既に船乗り達及び伴天連どもは土佐に捕え置き、積み荷は土佐の長宗我部元親殿に対して、速やかに大坂城内の荷物蔵に送らせる様伝え、既に荷は届いております。ここに今回の詳細な報告も出ており、ご報告いたしますと、船の名は、サン・ヘェリペ号と申し、エスパーニャの船でございます。ルソンのマニラより発った後、グアム島を経由して、ヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)のアカプルコへ向かうと申しておりました。船の積み荷の多くは明国との交易品と、又乗船しておりました者の中には伴天連が七名で、ルソンよりエスパーニャに戻る途中と申しております。船長はデ・ランデーチョと申す者。積み荷は襦子が約五万反、唐木綿が約二十八万反、大筒が八門、鉄砲三百二十丁、弾薬の樽が二十八樽、絹織物は千八百反、そのた金、銀、絨毯等がございました。又これらの代価を我らの価値で換算致しますと、大凡七十万石となりますが、詳細は長束殿にご報告致しておりまする。尚、船員、伴天連は土佐に据え置き、町屋に住まわせ警護を付けております。その処遇に付きましては、長崎のエスパーニャ商館及び長崎奉行宛にて紹介致しており、近々その返事が届きますれば、暫時ご報告致す所存。船乗り達は船を自ら修復し、ルソンに戻りたいとの請願もあり、費用等を自ら工面するのであればと考えてはおりますが、殿下のお許しを頂ければとお願い致すものでございます」
 既に大方の事務処理は出来ている様であった。
「ん。ご苦労である。船の修理を含めて、この件は引き続き長盛に任せるとするが、他に意見のある者はおるかの、・・・内府殿は如何かな?」
 一言も言葉を発していなかった家康は、この時初めて口を開いた。
「御意のままに」
 我関せずの姿勢の様であった。
「ん、無ければこれで、おぅそうじゃ、三成よ、先ほどの見せしめにするキリシタンの数じゃが、どれ程と心得ておるのかの、予は五十程と思うておるが、それも年明けの早々にも、片づけたいと思うておるのだがの」
「は、畏れながら、二十か三十人程で十分に事足りるものと考えております。と申しますのも、数よりも信仰心の強い者を選び、さらに都や大坂、そして堺などでの引き回しを行いますれば、その影響は非常に大きいかと思われます。殿下のご命令通り、速やかに行いますれば・・・」
「合い分かった、処で皆にはこではっきりと申しておくが、予は下々の者が信仰を持つ事には、以前から一切口出しをしてはおらぬ。だが信仰を広げる事は禁止しておる。特に耶蘇教の布教を赦した途端に、同じ神だと言いながらイエズス会、フランシスコ会など、幾つもの会派が互いに憎しみ合い信徒の奪い合いを始めるのは必定。そして又それらのキリシタンとは違うと言いながら、又新たなキリスト教の信仰を持つオランダやエゲレスなどが控えておる。エスパーニャやポルトガルの様に、信仰が唯の一つであれば政も穏やかではあろう。しかし幾つもの信仰が入り乱れてこの国に入り込めば、必ずや憎しみの国となるであろう。領地を奪い合う争いと違い、互いが互いの信仰を消し去るまで争う戦は、まさに我らの言う根絶やし、仏の言う修羅に瓜二つよ。一つ屋根の下に二つの信仰は憎しみを生むだけ。その事くれぐれも違わぬ様にな。良いかな皆の者」
 秀吉は珍しく雄弁であった。天下を治める者の道理としては、正に異を挟む者は居ない程の正論であった。
「はっは・・・」
 その場にいた者全てが、頭を下げて秀吉の方針を認めたのである。
 評議が終わると三成は浅野長政に対し、秀吉の禁教令発布の手配を求めた。既に三成の手の中には捕縛する主だった伴天連の名と、キリシタン信仰に厚い者達の名簿が出来上がっていたのである。
 協議が行われた翌々日の十月二十日(1596年12月9日)、都の辻には秀吉の禁教令が高札として掲げられ、翌日には大坂や堺の街にも掲げられたのである。この時、既に都と大坂のイエズス会にも見張りの役人が付き、伴天連やキリシタンの監視が始まったのであった。

 秀吉の発した二度目の禁教令は、大凡次の様なものであった。
 天正十五年に発した伴天連追放令を無視し、耶蘇教を許可なく広める為にこの国に留まる伴天連に対しては、速やかに捕縛する事。棄教しない伴天連に対しては、捕えて後、磔の刑に処する事。更に耶蘇教の教えを広めたキリシタンに対しても、同様の刑を科すものとする事。その罪の証として都の一条戻り橋にて、耳及び鼻を削ぎ落し、京及び大坂そして堺にて市中を引き回しの上、処刑は長崎又は九州名護屋にて行う事が記されていた。
 道を行交う人々は何事かと高札の前に立ち止まり、秀吉のこの禁教令の行方を見守っていた。信仰を広めた者に対する仕打ちが、一条戻り橋での耳と鼻を削ぎ落し、後に九州で磔にされると言う、その刑の重さ残忍さに、都や大坂をはじめとした畿内の人々が怖れ慄いたのは云うまでもなかった。それは又、瞬く間に畿内のキリシタンを含め、九州での活動を行っていたイエズス会にも、その衝撃は広がっていったのである。この国でやっと芽を出し始めたキリスト教は、ここで大きな転換を余儀なくされる事となるのである。
 高札が市中に掲げられたこの日の昼近く、堀川の妙満寺跡に建てられたフランシスコ会の教会では、ペドロ・バプチスタ神父が捕えられ、同時に隣に建てられた、らい病の病院責任者であったレオン烏丸、修道士のパウロ鈴木、ボナベンツウラ、トマス談義、ガブリエル十助の五名も捕えられたのである。
 石田三成の動きは早かった。秀吉の決断を待つまでも無くそれ以前から、教会の場所や捕縛者の名簿は作られ、主要な信仰心の厚いキリシタンや伴天連の動向も掴んでいたのであった。

 中でもフランシスコ会のペドロ・バプチスタは秀吉の追放令に背く者として、最も重要な伴天連であった。五年前の後に文禄の役と呼ばれた朝鮮出兵の折、ポルトガル領であったインドのゴアにあるインド政庁、朝鮮の第十四代の宣祖王、それにルソンのエスパーニャ政庁総督に対し、秀吉は日本への帰順を促す書状を送り付けた事があった。ルソンのペレス・ダスマリニャノス総督はこの時、使節として折り返しドミニコ会のコーポを日本に送り、この時に秀吉はコーポに返書を与えると共に、再度入貢を促していた。その返礼として今度はフランシスコ会の宣教師であるペドロ・バプチスタに、通商条約の特使としての肩書を与え、日本に向かわせていたのである。
 日本に着いたペドロ・バプチスタは折からの朝鮮出兵の混乱の最中、九州肥前の名護屋城で秀吉と面会したのは文禄二年の事である。ルソン総督からの親書と共に日本との通商協定を結びたい旨、その意向を打診する書状も携えて居た。この時のルソン提督からの親書には、エスパーニャ本国に日本の王である秀吉殿下からの意向を伝え、その回答が届くまでの間しばらくの猶予を戴きたいとするものであった。
 この挨拶を伝えた翌年にに、三度目の使者としてジェロニモ・ジェズスが伏見城にて秀吉との面会が許され、その折に都での住まいと教会の建設の許可を貰う事が出来たのである。又、その用地として借り受けたのが元法華宗総本山妙満寺の跡地であった。その翌年、ペドロ・バプチスタは長崎に着くと、すぐさま都に上がり、翌年にはらい病患者の為の聖アンナ病院を建て、医療活動を始めたのである。そして更にイエズス会が伴天連追放令で九州に退いた後の都で、バブチスタは新たな信者獲得の為に布教活動を行ったのであった。
  
 捕えられたバプチスタは、その日の内に小川牢屋敷へと護送されて入牢した。同じ日に聖アンナ病院のレオン烏丸や熱心な修道士のパウロ三鈴木なども入牢したのである。その後しばらくの間、教会は石田三成の手の者の監視下に置かれ、表向きは静かな時間が流れていった。しかし捕えられたバプチスタは、自らが囚われた理由さえも、未だ確かなものと理解するには至っていなかったのである。
 何故なら都での教会建設も、秀吉から許可を得て居たからであり、妙満寺の土地でさえ秀吉から借り受けたものだからであった。しかも天正十五年に出された伴天連追放令なるものは、当時そこに居たイエズス会に向けてのもの。まだフランシスコ会は日本に、一歩も足を踏み入れてもいなかったからであった。
 
 その日、予告もなく突然に、バプチスタを見に牢屋敷に来た者がいた。石田三成であった。ゆっくりとバプチスタを観察する様に、三成は牢の向こう側で見つめていたのである。
「そちがバプチスタか?」
 その言葉は落ち着いて、酷く冷たい乾いた様な声であった。
「はい、フランシスコ会の宣教師、ペドロ・バプチスタでございます。あなた様は何方で」
「石田三成と申す」
「確か町の人達が申す五奉行のお一人の・・・」
「良く存じておるの。しかしこの度の捕縛の事、理由が呑み込めまいと思い参った次第じゃ」
 納得が行く筈など、有るはずがないとバプチスタは思った。
「大凡の察しは付いておりますが、直接にお聞きしとうございます」
「よかろう、ならば申し聞かそう。この度、太閤殿下が申すには、伴天連はこの国からご遠慮願いたいと、その様に申しておる。理由はこの国は仏教の国ゆえ、これ以上、伴天連殿に長居しては欲しくないとの事である」
 バプチスタはもう一つ腑に落ちない疑問を投げかけたのである。
「捕えられた者達は、どの様な御裁きをされるのでしょうか? ぜひお教え願いたいのですが」
「この度、捕えた伴天連及び信徒達はみな信仰心が強く、太閤殿下はこの日本で、耶蘇教の信仰を勧める者に対して棄教を求めておる。しかし棄教しない者は都にて引き回しの上、一条戻り橋にて耳と鼻を削ぎおとし、罪人としての証を付た上で、更に大坂や堺での引き回しの上、九州にての磔の刑となる」
「つまり私共が見せしめとなって、私共の信仰を抑え様となさるので・・・」
「どの様に取ろうと、それは等の解釈は勝手だが、既に九年前にも伴天連の追放令は出されており、太閤殿下は未だそれを御取下げはしておらぬ」
「されば何故に太閤殿下はあの妙満寺跡の敷地を、私共にお貸しくださり、病院や教会を建てる事のお許しを下さったのでしょうか、ぜひお聞かせ戴けないでしょうか?」
 バブチスタには今、最も知りたかった事であった。
「さて、これは又異な事を。お主らが貸して欲しいと頼んだ事では無かったかの、我らは教会を建てる事や病院を建てる事に、只の一度も禁止した事は無かったぞ。ただその教会で、或いは町中で、信者を増やす事を我らが認めた事は無いと申してたまで。太閤殿下はこの様に我らにも話しているが、殿下は下々の者が神でも仏でも信ずる事は認めておる。しかしその信じるものを、他人に信じ込ませる事を赦してはおらぬのよ。未だ世の中を知らぬ子供にさえ、親が決めた信仰を無理強いさせるそれは、家族や一族の事である故に他人が口を挟むものでは無いとは云え、領主に取り入ろうと家臣もろ共、信仰を変えさせるそれを、果たして信仰と呼べるものか否か、伴天連殿なら分かるであろう。それとも太閤殿下が言う様に、それこそ貴殿の国王が目論む魂胆なのか、こちらとしても是非にそこは知りたいものよ」

 この二人の間には、深く理解しあえない溝が横たわっていた。少しの間、沈黙が続いた。
「もう一度伝えて置くが、棄教する者は放免すると申しておる。太閤殿下はこの様にも話しておったが、お主らの国には幾つもの信仰などあるまい?この国には既に仏の信仰がある。それに神道と申す信仰もある。否、火の神や山の神、至る処に我らの神や仏がおってな、道を歩いて居ても仏につまずく程よ。だが、お主ら伴天連は同じ神だとしながら、まるで仇の様に互いが互いを罵り合い、信者を増やす事に急いでおる。お主らフランシスコ会の布教を許し、イエズス会の布教を許し、初めてルソンから来ていたドミニコ会の布教も許すとなると、その後に続く多くの異国の信仰を許してしまうと、この国がどの様な姿になるか、一つの信仰しか理解しようとしないお主等には理解出来まい? 既にこの国では仏教でさえ、幾つもに別れてしまっていると言うのに・・・この上、更に幾つもに別れた耶蘇の信仰を広めて何とするのか」
 まるで何故にそれが分からんのだ、と言う様に三成は薄らと笑った。

 それを見てバブチスタは話すのを止めた。三成の言い分にも幾らか理解出来るからである。特に「一つの信仰しか理解しようとしていない」とは当然とは云え、反論の余地はなかった。。しかしそれが宣教師でもあるとパフプチスタは言い返したかった。三成は更に言葉を続けた。
「これからの予定だが、十一月十五日(1597年1月3日)には都での引き回しを行い、戻り橋で耳と鼻を削ぎ落す。翌日には大坂に向かい堺と大坂で引き回を行った後に、長崎にて磔の為に出立となる。棄教されよ、さすれば放免となる。処で話は変わるがふた月程前に、土佐沖で遭難しかけたエスパーニャの船の事だが、お主はその話を存じておるか?」
「噂程度ではございますが存じております」
 既にバプチスタは囚われる以前、そのエスパーニャの船員達を解放して貰う為に、水面下では動いてしたのである。その為に教会の金も使い、日本人信徒からも金を借りていた。しかしほとんどが今になって見れば、無意味だった様にも思えるのである。
「その船に乗っていた者が、この様に申しておった。エスパーニャは世界の海を渡り、この日本まで来ている、我らの神は世界中に知られる事を望まれている。我らはこの日本さえも、その気になれば植民地にも出来ると。そしてポルトガルとエスパーニャの王が、耶蘇教の王の仲立ちで大西洋の真ん中から、世界を東と西に取り分ける条約を結んでいると聞いておる」
 しばらくの沈黙が続くと、三成はそのまま黙って牢から出て行った。


 【捕縛された人々】
 慶長元年十一月十二日(1596年12月31日)のこの日、大坂にあるフランシスコ会の修道院で、マルチノ師と同宿していたコスメ竹屋やトマス小崎、そして炊事仕事をしていたヨアキム榊原が捕えられた。そして同じ大坂のイエズス会修道院でも、イルマン・パウロ三木やジョアン草庵五島、そしてディエゴ喜斉らが捕えられ、翌日には早々に都へと護送されたのである。その同じ日には都の修道院で、フランシスコ・ブランコなどのフランシスコ会の外国人宣教師や修道士の他に、八名の信徒が捕えられたのである。捕えられた者の名前が分かるにつれて、バブチスタはその傾向から秀吉の意図を考えていた。都で捕縛された者は全てがフランシスコ会の者であった。イエズス会の者は大坂で捕えられた日本人のイルマンを始めとした数名であった。
 イエズス会と秀吉の関係以前に、イエズス会は信長との関係も深かった。長い時間の中で培われていた関係は、当然だが秀吉を囲む者の中にも、その関係がある事は伺い知れる事なのである。寧ろイエズス会の者が何故に捕えられたか、その方が遥かに気がかりであった。恐らくは何処かで手違いが生じたに違いないと思える。そうでも思わなければ、余にも納得の行かない出来事であったからである。

 翌々日の十一月十四日、この日の午後の事であった。幾つもの狭い牢から大きな牢に集められた者はバプチスタを含めて二十四名であった。だが最後に牢に入って来た者のなかに、思ってもいない男の姿が見えたのてある。
「マチアス与助さんではないですか、何故あなたがここに?」
 慌ててバプチスタは声を上げ、立ち尽くしていた与助の傍に行ったのである。三成の話に由れば、布教に熱心な者しか捕えては居ない筈であったからである。
「私にも分からないのです。一体何がどうなっているのか、私は三日前の朝に今津を発って、一人で都に参りました。教会の近くに貸家があると聞いて、そこを見に参ったのでございます。そしてパーデレに相談しようと教会に寄りました処、お役人から何をしに参ったのかと聞かれ、パーデレを探して居ると答えました。お役人が私に名簿を見せて、料理人のマチアスと云う者を探して居ると申しましたので、料理人ではないが私もマチアスと云う名だと答えましたら、それならお前でいいと言われてこちらに連れて来られました」 

 バブチスタは与助が何故此処にいるのか、初めて理解する事が出来たのである。与助は元々名簿には載せられてはおらず、洗礼名が同じと言うだけで役人の判断で連れて来られた様であった。
「与助さん、あなたには大変済まない事をした様です。私が他の方と同じ洗礼名を付けたが為に、この様な事に巻き込で仕舞ったのだと思います。どうか許して下さい、今これから、他の方にも説明しなければなりません。ですから私の話を良く聞いて、事の重大さを理解して下さい」
 この時バブチスタは、秀吉の意図がかなりはっきりと見えてきた様に思えた。宣教師やイルマンは別にしても、信徒の中でも特に熱心な信仰を持つ者を選び出し、未だキリストの信仰も知らないこの国の人々に対して、見せしめとして選ばれている事を理解したのである。静かに呼吸を整え、自らの心を落ち着かせた。捕えられた人達に対して、その訳を話さなければならなかったからである。

「みなさん、お話をお聞きください。突然の事態にさぞ驚かれた事と思います。恐らくは明日にでも、改めてお役人の方から皆さんにお話があると思います。しかしその前に、私は皆さんへお詫びと共に、この今回の事態招いた理由と原因をお話し、私の気持ちをもお伝えしておかなければなりません。実は先日、都のお奉行職でもある石田三成殿がこの牢にお見えになり、私にこの様なお話をされました。ぜひ心を静めてお聞きください。
 その三成殿が申されるには、九年前に既にこの国には、伴天連追放令が出ているとの仰せで御座いました。伴天連追放令とは、日本は神国であり仏教の国で、この国にキリスト教を広める事は相応しくない。特にキリスト教が領主を信徒にした後、家臣や領民を纏めて信徒にするなどの他、それらの者が神社仏閣を取り壊すなど禁止すると言うもので、伴天連などは国外へ出る様に求められたご命令でした。
 ただ貿易に関する場合はその限りにあらずと、その様な内容だったと思います。石田様のお話ではこの時、私共が信仰を広めた為に捕縛したと申しておりました。私はその伴天連追放令が出されていた事は、この国に来てからも存じておりません。それを知ったのは少し前の事で、しかもその対象がイエズス会の宣教師であると、信じて疑いませんでした。何故ならその頃は未だこの国に私も、私の信仰も未だ入ってはおりません。それに、これまで布教を理由にして、誰一人捕えられた者はおりません。私たちは太閤殿下より妙満寺に土地をお借りし、教会や病院の建設もお許し戴いております。しかしながら今からふた月程前に、エスパーニャに向かうサン・フェリペ号と云う船が、土佐の沖合で遭難し、湊の入口で座礁してしまいました。荷は全てお取りあげになり、船員や乗っていた修道士なども捕えられ、今此処にいるヘスス殿もフェリペ号に乗られ、エバエスパーニャに向かう予定でしたが、下船後に大坂に逃げられ、ここにこうやって一緒に捕えられております。

 太閤殿下はもし捕えられた者が棄教するのであれば、命は許し、放免すると申しております。しかし棄教しないのであれば明日、都での引き回しの後に耳と鼻を削ぎ落され、大坂や境にても引き回された上、九州の恐らく長崎にて磔にすると申しておりました。私は皆さんを無理やり、神の国にお連れするつもりはございませんし、又皆さんにもそれぞれのご事情がおありだと思います。しかし私は神を信仰するが故に処刑されるのであれば、喜んで主の御許に召されたいとその様に考えております。どうぞお一人お一人の考えで明日の朝までにお心を決めて下さい。そして私にお気持ちを伝えて頂ければと思っております」
 最後まで落ち着いて言えた事に、バブチスタはホット胸を撫で下ろしたのである。二十数名の命を、自らの意志で動かしてはならないと思う反面、聖職者としての意志は示すべきだと自分の考えを伝えたのである。
 言い終えたバブチスタの胸の中には、神の身許に行けるだろうと言う思いが生まれて来たのである。この国の王が、神の為に生きた事を証明してくれるのである。何故か大きな喜びとなって、心に溢れて来たのを受け止めていた。

 
 美代は今、大津に向かう丸子舟の中に居た。狭い船底に押し込められる様に身を屈め、四人程の客達はみな押し黙って乗っていた。思い起こせば未だ与助の元に来てから、未だ僅かに四月程しか過ぎて居ないのである。
 隣には手紙を届けてくれた若い手代が、夕べは寝つけなかったのか足を縮めて横になっていた。その横で捕えられていると言う与助の事を、美代は思い起こしていたのである。与助が安曇川の家を出たのは、十一日の朝早くであった。都の教会の近くにある貸家を、この目で見に行くと言い残し出かけたのである。処が翌々日の夜に若い男が届けに来てくれた手紙には、与助が十二日の午後に教会で役人によって捕えられた事、そして高札が十日には京の辻に掲げられ、そこには禁教令として耶蘇教を広める事が禁じられた事が記されていた。更に高札が掲げられて直ぐ、バプチスタ神父が捕えられた事などが書かれていたのである。
 美代が更に驚いたのは、棄教しない者は都の戻り橋で耳や鼻を削がれ、九州の長崎で磔になると言うものであった。手紙は信徒の店に至急来て欲しいと書かれてあったのである。
 美代はその手紙を読み終え、与助が大きな事件に巻き込まれた事を知ったのである。特に与助が磔にされるかも知れないと思えたのは、簡単に棄教をする様な人間では無かったからであった。それ故に美代は全て覚悟を持って京に向かっていたのである。既に昨日、家や舟などを事ごとく担保にして金に換えた。もう安曇川にも戻る事は無いと思ったのである。それはある意味で、美代自身の病の事もあった。酷い吐血は未だ無いが、うっすらとした吐血は頻繁にあったからである。それ故に与助の行く先には、どこまでも付いて行こうと心に決めたからでもあった。

 北からの冷たい風が強く吹いて船足は思った以上に早く、昼前に大津に着く事が出来た。舟の中で美代は与助の事を考えていた。与助は耶蘇教を広めた為に捕えられたのであろうか?。そんな馬鹿なとも思えるのは、人に勧められる程、信仰の事を詳しく知っている訳では無かった。 それ故に事実を伺う事は出来ないにしても、高札のお上の言う禁教令によって、捕えられていた事は確かな様であった。手紙を届けて知らせてくれたのは、教会の近くに住む信徒でもある漬物屋の女将であった。美代はその女将の元に急いだのである。
 美代と手代の若い男が、手紙を送ってくれた女将の店に着いたのは、まだ夕刻の前の事であった。四条通りを南に一つ外れた、綾小路に面した名を伊勢屋と云う漬物屋であった。
「ごめんやす。わては近江の安曇川から参りました。与助の妻、美代と申します」
 出て来たのは五十過ぎの女将であった。
「わてが手紙送りました。美代さんどすか、まぁまあ遠くから難儀な事で」
「お手紙で教えて頂き、おおきに、ありがとうさんどす。えらいお世話になりまして。で、いま与助は、どちらにいるのでっしゃろ」
「わてな、パーデレはんから美代さんの事、聞いとりましたんえ、そやさかい今回の事、直ぐにお知らせしたんどす。今、捕えられた皆はんは、小川牢屋敷ゆうところにおります。何でも耶蘇教の教えを棄てなければ、明日は京の都を引き回され、一条の戻り橋で鼻や耳を削がれる言う事を聞いとります。その後は大坂や堺を引き廻されて長崎まで歩かされると・・」
「何とむごい事を」
 顔をしかめる様に横を向き、美代は小さな声でつぶやいた。与助が信仰を棄てる事が無いと確かに思えるのは、初めて与助が知った広くて深い世界で有ったからだ。平等とか自由とか大学とか学問などの言葉を、この国の仏の信仰には無いと与助から聞いて居たのだ。知ると言う事を強く追い求め、学ぶ事に最も歓びを見出していた人であった。
 そして美代は与助が決めた事を、何処までも追いかけようと思っていた。果たして与助と共にパーデレが言う、神さんの国に行けるかどうか、分からないと思う。だが与助の死を見届けてやりたいと思う。そして出来るなら、その与助の後を追いかけたいと思っていたのである。
「小川牢屋敷はどちらに」
「行かれても会えないはず、信徒の方も両親や子供など身内のかたも会えないと、ですがそれでも傍に行きたい気持ちわかりますよって案内しまひょ、さほど遠くではありませんよって」
 女将は店の中に向かって声を掛けた。
「すこし出て来るよって、店をみといてな」
母親なのであろうか、老婆が出て来た。その首には細い紐に吊るされた、小さなクルスが揺れていた。
「すみまへんな、面倒かけよってからに」
「それより美代はん、泊まる処はありますんの? 良かったら狭いとこやけど、わての処に泊まって行きや、な」
「おおきに、そう言って戴けると助かります」
 四条通りを越えて御池通りに出ると、女将は左に曲がった。
「ほら、あそこが小川の牢屋敷や」
 捕えられた息子を心配しているのか、門の近くに老夫婦が諦めきれない想いで佇んでいた。黒い板張りの塀が、通りの片側に長く続いていた。この向うに与助がいると想うと、美代は胸を締め付けられる様な痛みを感じるのである。じっと佇んでいると、夕闇と共に寒さが少しずつ増して来るのが分かった。ここに来ているのだと知らせる事が出来れば、どれ程与助に強い気持ちを与えられる事が出来るだろうとも思える。しかし会う事も伝える事も出来ないもどかしい想いの中で、美代はふと与助の信じる神の事を思った。美代に今残されているのは、与助がいつまでも与助でいてくれる事を願う、その想いだけであった。

 翌朝、小川牢屋敷は寒い朝を迎えていた。粟と米とで作られた粥が配られた。バプチスタはこの朝を不安と期待とで向えていたのである。自らを加えて捕えられた二十四名の内、どれ程の棄教者が出るのか、それはバプチスタがこれまで行って来た宣教師としての、謂わば役割が形として示される事でもあった。しかし未だ誰も棄教したいと言って来た者はいなかった。
 そしてもう一つ、バプチスタの気になる事があった。幼い子供の信徒が、数人ほど含まれていたからである。最も若い子供は尾張の出身で、未だ十二歳のルドビコ茨木である。同じ日に捕えられたレオ烏丸やパウロ茨木の甥にあたり、パウロ茨木はレオ烏丸の兄になる間柄であった。そして伊勢出身で弓師と云う職人のミゲル小崎の子で、十四歳のトマス小崎がいた。親子共々に捕縛されたのである。そしてアントニオは十三歳、父が明国の出で母は日本人に持つ子供であった。

 その時、マチアス与助がバプチスタの傍に来た。その様子からして直ぐに分かったのは、大勢の居る牢内で何かを伝えたいとしている事であった。バプチスタはあえて牢の隅に行き、マチアス与助を呼んだのである。
「お話がしたいのですが、云いえ、話を聞いて頂きたいと思っています」
「どうぞ、なんなりと話して下さい」
 バプチスタは与助が棄教するものだと思っていた。まだ洗礼をしてから一年も過ぎてはいない、しかも未だ誰一人として信仰を広める為、教会に連れて来た事もない信徒だからである。それ故にマチアス与助が棄教する事は、無理のない事だと思っていたのである。
「私は一晩中考えていました。今度の事もそうですが、私はこれまでの事も含めて、これ程深く信仰の事を考えた事は、私の生涯に於いても初めての事でした。特にこの出来事を振り返ると太閤様のお気持ちは、結局のところ主を信仰する者であれば、誰を捕えても良かった様に思えるのです。そして信仰を棄てる者には命を助けると言うのも、私たちの信仰に恐れを抱いている証拠ではないでしょうか。
 私たちの誰もが物を盗んだり、騙したり人を殺してもしてはおりません。ですから太閤様は私たちが棄教する事を望んで居る様に思えるのです。ですが私は私の崇めるお方を太閤様では無く、主イエス様であることを決めております。私はこれまで誰一人として、私の信仰を何方かに勧めた事はございません。ですがパーデレ、私はパーデレと共に長崎に行きたいと思っています。私のこれまで生きて来た事が、神に召される事で意味のある事になるのなら、そしてこれから先に生きて行く者が、私の様な者が居た事を知り、何方かが信仰の道に入られる僅かでもお役にたつのなら、信仰の道を勧める事の資格を、私はやっと得る事が出来るのではないかと思ったのです」
 バブチスタの目からは、涙が溢れ出ていた。マチアス与助が信仰の事を、ここまで深く考えていたとは、思ってもいなかった事でもあった。そしてほんの少しではあったにしろ、棄教するかも知れない、それも仕方がないと思っていた自分を恥じたのであった。
 与助は又、言葉を続けた。
「パーデレ、私は信じる事の意味をこの様に思う事があります。それは何の根拠もなく、妻を愛する事に似ていると思うのです。主イエス様を信じる事も、愛する妻を信じる事も、いいえ、命あるもの全てを慈しむ優しさも、全てその想いの中には主イエス様がいらっしゃると私には感じるのです。

 この様にお話をすると、パーデレにお叱りを受けるかも知れませんが、私は主イエス様がいらっしゃるから信じるのではないのです。美代が私を信じてくれるからでも、裏切らないから信じているのではないのです。何も触れる事も出来ず見る事も出来ないそれを、ただ信じる思いの中にだけ、私は深い意味がある様に思えているのです。例えばそれが辛くて深い悲しみの淵に立つ時でも、一人の寂しさに打ちのめされる時でも、それでも人の心の中には、いつかはささやかな願が生まれて参ります。ですから、人は祈る想いを棄てない限り、信じる事によって生かされてゆく事が出来るのだと思うのです。
 信じるとは私に取って、願であり祈りなのです。そして恐らく、その願いや祈りを生き方で人に伝え行いで表す事が、生きると言う事ではないかと、私はやっとそう思える様になりました」
 心の中の想いを全てバプチスタに伝えた満足感なのか、マチアス与助の顔は綻んでいた。
 バブチスタは確かめる様なゆっくりとした口調で、目の前のマチアス与助に話しかけた。
「私はいま、マチアス与助さんのお話を聞いて、聖書のなかのある主イエス様の言葉を思い出しました。ヨハネによる福音書の十五章に『私こそ、あなたを選んだ』と言われた主イエスの言葉です。マチアス与助さんを捕えた役人は、料理人のマチアスの代わりに与助さんを選んだと聞きました。しかし私には、神は確かにマチアス与助さんを選ばれたのだと確信したのです。あなたが太閤殿下では無く、主イエスを選んだ様に、主イエスも又マチアス与助を選ばれた。私はそう確信しました。ありがとう、マチアスさん」 
 与助の話を聞き終えてたバプチスタは、最後の意志の確認をする為に立ち上がった。
「おはようございます。昨夜より寝つかれずに一夜を過ごされた方も多いとは思います。がしかし、ここで再度確認させていただきたいとお声を掛けさせて頂きました。如何でしょう、主の教えを棄てたいとお思いの方がおられたら、どうぞお声を掛けて下さい」
 だがバプチスタの声に、誰も手を挙げるものは居なかった。しかしバプチスタは、宣教師としての歓びを感じる事は無かった。この人達が生きて、多くの人々に信仰を広める事が、何よりも大切な事だと知っていたからである。自らの想い過ごしで信仰への道を閉ざしてしまったとなれば、自らの過ちを正さなければならないとも思えたのである。


 【長崎への道】
 マチアス与助などが捕えられた小川牢屋敷に、石田三成が顔を見せたのは十一月十五日の事である。棄教する者がいたかどうか、最後の確認を行うためであった。
「皆の者に尋ねる、太閤殿下は皆が信ずる耶蘇教を棄てるなら、直ぐにでも放免致すと申しておる。最後のお調べである。棄教する者はおらぬか?」
牢の中に座っていた誰もが、沈黙を守っていた。捕えた者を一通り見渡した後、三成は又口を開いた。
「相分かった。さすれば本日、これからの予定を申す。これから都の街中を引き回した上、昼過ぎには一条戻り橋にて、耳と鼻とを削ぎ落し罪人としての証を付ける事となる。そして明日十六日には、都を出立し大坂に向かう。大坂から堺でも引き回しを行い、その後は九州まで歩いて貰う事となる。引き廻しは牛車にて行うが、大坂や堺への移動は歩きとなる、但し、伴天連殿の移動には太閤殿下の御指図に寄り、馬をあてがうものと致す」
 バプチスタは立ち上がると、石田三成に口を開いた。
「私共だけに馬を与えて頂く必要ありません。しかし聖書は私共の命でございます。聖書を読む手の自由をお許し下さい」
「良かろう、伴天連の手を縛らない事は約束する。それでは外に留めてある牛車に乗る様、これから引き回しを行う。おぅそうであった、これでそちとも顔を合わせる事も無いであろう。少しだけお主に申しておこうと思った事があった。それを伝えておこうかの」
 三成はバブチスタを牢から出る様に言った。牢役人の詰所の部屋に入ると、火鉢の前に座り、小声で語り始めたのである。

「ひと月前の事であるが、太閤殿下が大坂城にみえての、そこで例の遭難した船の事とキリシタンに対しての、これからの対応が話し合われたのよ。その時に太閤殿下は、長崎に残る伴天連をも含め、すべての宣教師を捕え即刻処刑すべきである、とのお話があっての、そこに居合わせた前田利家殿が太閤殿下にこう申された。殿下の仰せ通りではあるが、一度伴天連を全て国に戻らせ、再度舞い戻るその時こそ処刑すべきではと言われての、太閤殿下はしばらく考えてから、利家殿がそこまで言うならと思いとどまられたのよ。しかし我らが本気である事を伴天連に示さなければと、この様な話で今に至った次第よ」
 三成は横に置かれた茶を啜ると、又話を続けたのである。
「我らはキリシタンの教えを恐れて居る訳では無いが、その信仰に続くものを恐れておる。我らはかつて一向宗と云う、信仰の為なら命を投げ出す者達が居た事も存じておるでな。しかし我らは異国の信仰よりも、交易だけで十分なのだ、この国には異国の者が奪って行きたい物など無い程に、貧しい国なのだ。それ故にそっとして於いて欲しいのだがのう・・・」
 三成はそう言い残して立ち上がった。
牢の役人が大きな声を掛けた。
「出ませい」

 秀吉や三成から見れば、この国に居るすべての伴天連を捕え、処刑する事はさほど難しい事では無かったはずである。かつて浄土真宗本願寺教団の「阿弥陀如来の本願にすがり、一心に極楽往生を信じる」とする一向宗は、自らの信仰を守る為に武器を持って立ち上がった。生きる事よりも死ぬ為に、極楽往生を求めて戦ったと言ってもいいだろう。
 しかし伴天連を含めたキリシタンの信徒達は、武器を持たず戦いもせずに死んで行くだけであった。見ようによっては喜んで死んで行く様にも見えるのである。もし全ての伴天連を捕え、その処刑を難しくしているとすれば、エスパーニャとポルトガルが貿易から手を引き、或いは互いが手を携えその報復として戦を仕掛けてくる事も想像は出来る。それ故に侵略させる理由を強く与えない事であると、秀吉は考えていた様であった。何故ならあのエスパーニャの船、サン・フェリペ号が遭難しなければ、或いは航海士が政治的に恫喝する様な話を語らなければ、此処まで大きな事件にはならなかったであろう。
 だが三成はその言葉通りにその日、捕えられた二十四名の者達は八台の牛車に載せられ、都の通りを引き廻されたのである。伴天連以外の者は手を縛られていたから、絶えず牛車の上で囲いの手すりに掴まって居なければならなかった。そして八台の牛車の列の先頭には、秀吉が命令した高札が掲げられていた。
                       
                     告
 この者、呂栄(ルソン)より大使と称し、予が厳しく禁じた教えを説きて留まりし者也 それ故にその教えを受け広めし者共々に、長崎にて処刑を命じるもの也、予は以降も耶蘇教の流布を禁じる故、この命令に従わぬ者は家族同罪にて処罰する者也
 慶長元年十一の月       豊臣秀吉
 
 それは街中をゆっくりと練り歩く様に、伴天連追放を知らしめる引き回しであった。見物がてら面白半分に見に来た者も多く、中には道の小石を拾い投げつける者も少なくはなかった。彼ら一行の中には飛んできた石で額を切る者もあり、修験者や僧侶からの罵声の飛び交う中に居たのである。それでも時折、隠れる様に十字を胸の前で切る信徒もいるなど、この引き回しが罪の為の罰では無く、見せしめの為に仕組まれた意図のある事を誰もが感じ取っていたのであった。

 一条戻り橋に一行が着いたのは、既に昼過ぎの事であった。
 戻り橋は都の中ほどを流れる、細い堀川に架かる小さな橋である。平安の時代に漢学者であった三善清行が亡くなり、その葬儀がこの橋を渡っていた時であった。父の訃報に接した息子の浄蔵が、修行先の熊野から夜を突いて走り駆けつけ、葬儀の列がこの橋にさしかかったこの場所で追い着いついたのである。泣け叫びながら父親の棺桶にすがり、今一度声が聞きたいと願った処、死んだ父が蘇り、その後七日程を生きながらえたと言う。その時からこの橋は死者を蘇らせる橋として知られ、旅に出てももう一度戻って来られる橋として、源氏物語にも「ゆくはかえるの橋」と都人に知られる様になったのである。
 しかし今、何故か死に行く者を送り出す場所ともなり、二度と戻れない事は一行の誰もが理解していた事であった。そして鼻と耳を削ぎ落すと言う罪人の証を受け止められるのは、ゆるぎない信仰の所以でもあった。この時に誰もが脳裏に浮かんだのは、イエスキリストが処刑されたと言う、ゴルゴダの丘に向かうイエスの苦難でもあった。しかしそのイエスの苦難から見ても、取るに足りないものの様に誰もが思っていたのである。

 止まった牛車の一番後ろから、マチアス与助が降ろされた時であった。目の前に走り寄って来た美代の姿を、マチアス与助は見つけたのである。
「美代、どうしておまえが・・・」
 どうしてお前が此処に居るのかと、与助はとまどっていた。しかしその美代は与助の顔を見ると、直ぐに涙で顔は曇り、声さえ出せない程に泣き崩れたのであった。都に出掛けてから、何がどの様になっているのか、皆目分からないままに日にちだけが過ぎ行った。美代にしてみれば訳も判らずに突然に引き離され、夫は死刑の宣告を受けたのである。役人に引き立てられて行く与助は、一度だけ立ち止まり振り返って美代に頭を下げていた。それは自らの運命を、美代には相談もせずに決めてしまった事の、謝罪の様に美代には思えたのであった。
 この時、何を思ったのか三成は鼻を削ぐ事を止めさせ、片耳を半分程切り取る事に留めたのである。政治的な思惑で磔にする者達への憐憫なのか、未だひと月は生かしておかなければならないと言う算段だったのか、いずれにしてもこうして都での引き回しを終えた一行は、又小川牢屋敷へと戻ったのである。

 引き回しから戻った信徒や司祭そして修道士は、互いに傷の手当をしなければならない有様であった。切り取られた耳や、石をぶつけられて腫れ上がった頬、そして唇からも血を流している者がいた。それは顔だけでなく胸や足など、幾人もが投げられた石によって傷ついていた。傷の手当てが済んだあとである、バプチスタは、そこに居る者達に向かって語りかけた。
「みなさん。どうか聞いて下さい。私たちはイエス様を信じる事で、長崎での処刑が決まりました。ですが捕えられた私たちの誰もが、処刑も恐れず信仰を棄てる事を拒否しました。この事は主の御許に行かれた時、きっと皆さんに対して主は、微笑みを投げて下さると信じて止みません。そして皆さんの信仰の強さは、残された人々の心に永遠に刻まれ、語り継がれて行く事になるでしょう。これから大坂や堺でも、今日と同じ様な引き廻しが行われ、そして山陽道を長崎に向けて歩き、その地で私たちは処刑される事となるでしょぅ。どうか心を強く持って体を労り、途中でも多くの人達に教えを説いて参りたいと思います。最後にこの事態を招いた秀吉殿を、どうか許して上げて下さい。皆様には主のご加護が有る事をお祈りします」
 
 信仰を持たない者からみれば、信仰に生きる者達のこの時の喜びは、到底理解出来るものでは無いだろう。しかし死は主の御心、主を信じるが故に死を迎えるのは、主に選ばれた者としての誇りと栄光が勝っていた。彼らには信仰によっての死こそが、永遠の命を得られると確信を持っていたからであった。
 翌日、朝の早い時間であった。都を後にするこの日、噂を聞き付けた多くの人々が、暗いうちから小川牢屋敷の前に集まっていた。信徒や親や兄弟、果ては妻や子が別れの時を待っていたのである。たとえ話す事や触れる事が出来ないまでも、その姿を最後に見たい、見て貰いたいとするのは自然の想いであった。
 うっすらと明るくなった頃、牢を出る与助の目にも、通りの向こうに立つ美代の姿を見る事が出来た。美代も又同じであった。ここから歩いて都の外に出て、大坂に向かうのである。判れを惜しむかのように二十四名のキリシタン達と、それを見送る人々の列が続いていた。伴天連は土塁の外までとして、裸馬に乗せられいたが、そのほかの者は皆縄で手を縛られ、腰を長い縄で繋がれていたのである。与助も又、これで美代に会えないと思う気持ちと共に、済まないと言う思いが溢れて来た。涙は訳も無く流れて行くのであった。

 都である京の街から全国に繋がる街道を、都人は京の七道と言った。更に其々の街道に向かう出入り口を、七口と呼んでいたのは鎌倉時代の事であった。時代が秀吉の時代になると、六、七年前に秀吉が造った御土塁によって、既に新たに十二もの出入り口が附けられていた。その一つ東寺口に一行は向かっていたのである。
 東寺口は河内から摂津、播磨に向かう、いわば都の正面に開かれた起点であり、捕えられた一行も、その東寺口より都を後にする事になるのである。そして都を発つ者の見送りは、全てこの洛中の口の内までと決められていたのである。
 小川牢屋敷から与助に声を掛け様と追いかけて来た美代も、いざとなれば又泣きそうであった。それでもここでは役人からのお目こぼしも得られ、僅かではあったが言葉を交わす事が出来たのである。
「済まなかったな美代、一人で行く末を決めてしまった」
 断りも無く決めてしまった事を、何としてでも美代には詫びたかった。しかし美代はその言葉を聞いた後、思ってもいない言葉を口にしたのであった。
「何時までも一緒どすえ」
 その美代の一言は、嬉しくもあり、そして哀しくもあった。出来るならこの先も、ずっと強く生き続けて貰いたかったのである。与助は黙ったまま頷くと、やつれた美代に向かって言った。
「体を労わってくれ。無理をしない様にな・・」
 二人にそれ以上の言葉は要らなかった。ただお互いが無理に笑顔を作ろうとしていたのは、涙を見せまいとする互いへの想いであった。

「パーデレ、御見送りに参りました・・・・」
 喉から振り絞る様な声が人ごみから聞こえ、その声は子供の様な泣き声に変わったのは、それからすぐの事であった。バプチスタの姿を見つけて足元に走り寄って来たのは、この都に来て初めてバプチスタが洗礼を授けたコメス庄林と呼ぶ男と、その家族であった。男の後ろには妻のマリア、そして娘のイザベルの三人が、バプチスタを見送る為に、この場所で待っていてくれたのである。
 洗礼名であるコメス庄林は名を庄林源左衛門と云い、堀川に近い丸太町通りで材木商を営む男であった。年齢はバプチスタより少し若く、妻と娘の居る明るい家庭を持つ男であった。偶々バプチスタが雨の日に四条の橋の袂で教えを広めていた時に、持ち合わせていた傘を貸してくれた事が縁となり、都の教会や病院の普請を頼んだのがきっかけであった。
 特にバプチスタが都に初めて足を踏み入れ布教をした頃は、このコメス庄林とその家族には計り知れない程の迷惑をかけ、数々の世話になった事は言いつくせない程であった。そしてあのサン・フェリペ号の遭難の時も、エスパーニャ人の助命嘆願をする際には、間に入った大名へ贈り物をする為に金を随分と借りていた。それは恩人と言っても過言ではない程、彼と彼の家族に幾度も助けられた事を思い出していた。
「コメス、どうか泣かないでくれませんか、笑顔で見送って下さい。これから私たちは主の御許に旅立つのですからね、旅立ちは笑顔の方が似合いますよ」
 それを聴いたコメス庄林が、増々涙を流し始めた時であった。バプチスタは彼らに何一つお礼の出来なかった事を、今更の様に悔やんだのである。そしてそれは咄嗟の思いつきであった。バプチスタは首に掛けていたロザリオを外すと、子供の様に泣いているコメス庄林の首に掛けて、微笑みながらこう言ったのである。
「これは私からの形見です、どうか受け取ってください。振り返ってみると、私はあなた達に何もしてあげられなかった。だが、あなたこそ私の真の恩人でした。ですから私の感謝の印です。ぜひ受け取って下さい。それからお借りした金子は、後ほど私たちの教会から届くでしょう。あなたには本当に助けられました。どれほどの感謝の言葉も足りない程です」

 片耳を半分切り取られた時、噴き出したバプチスタ自らの血がロザリオのクルスに掛かり、それは既に乾いて黒くなっていた。コメス庄林はロザリオを押し戴く様に外すと、想像もしていない様な事をバプチスタに話したのである。
「パーデレ、私はこのロザリオを何年かかろうと、必ずあなたの故郷に届けたいと思います。そしてあなたの故郷から遥か遠いこの国に来られ、パーデレがなされた事を私は必ずパーデレの故郷の方に伝えたいと思っています」
 その言葉を耳にした時、バプチスタは思わず涙が込み上げてくるのを感じていた。この国に来て初めてバプチスタは、声を出して泣いたのである。それは生まれて初めて知った喜びの涙であった。これまでの生涯に於いて、味わった苦しみや悲しみを、全て消し去って仕舞う程の喜びに、バプチスタは心が満たされたのを感じたのである。そうしてコメス庄林の肩を抱くと、バプチスタは涙を隠す様に大きな声で一行に向かって言った。
「さぁ、みなさん、神の国に参りましょう」

 大坂に向かって一行が都の東寺口を出たのは、慶長元年十一月十六日(1597年1月4日)の朝の事である。大坂奉行所の役人が馬に乗った一行を先導し、八里余り離れた大坂城天満橋の、東町奉行所に着いたのは既にその日の夜半の事であった。
 元々大坂城は一向宗と呼ばれた浄土真宗石山本願寺の跡地である。聖徳太子が此の地に都を作る為に石置き場にした事から石山と名が付いたと言うが、信長に焼き討ちにされて以降、その土地の跡に大坂城が造られたのは天正十一年の事で、今は既に五層の本丸も聳えて二の丸三の丸もあと少しで完成すると言う。その三の丸近くにある東町奉行所で翌日の十七日は留め置かれ、大坂の街で引き廻されたのは十八日の事である。
 都での引き廻しと違い、石を投げる事は役人から止められていたのは、牛車の牛に当たって暴れ出す様な不測の事態を避ける為であった。それでも目的は都と同じ見せしめ為の引き廻しで、僧侶達からの罵声を受け、ただ黙々と町中を回るだけの儀式の様な物であった。
 
 一方の美代は東寺口から出て行く与助たち一行の後を追い、摂津に向かう道を伏見まで来た時であった、激しく咳き込んだ後に吐血をしたのである。それはこれまでで一番酷い吐血であった。安曇川を発ってからの落ち着かない日々の毎日と、疲れた体に無理を積み重ねた結果だとも思えた。幸いにも寝込む程では無かったが、歩く事はままならない状態であった。それでも伏見は美代にとって随分と長く暮らした場所で、知り合いを訪ねて藤が森へと足を向けたのである。かつて親しくしていた知り合いの家に頼み込み、一晩をそこで過ごしたが、だるさや微熱は直ぐに取れそうにもなかった。二日目が過ぎて三日になると、美代の心にも不安がよぎって行くのである。幾らか楽になった事で大坂に行くと言い出した時、曾て子供に文字を教えていた時のその母親から、歩く事も無く大坂に行ける方法を知らせてくれたのであった。

 それは淀川を下る舟であった。秀吉が初めて伏見城を築いた時、古くからそこにあった巨椋池を埋め立て、桂川・宇治川・木津川三川の水を、淀川に流す為の治水工事を行っている。それにより大阪城同様に、石や木材などを船で運ばせ、伏見城を築いているのである。それは琵琶湖や都から大坂に向かう物の流を更に活発にするものであった。それ故に伏見からの三十石舟は夜半に伏見を出て、翌朝卯の刻(午前八時)には八軒家橋の袂まで行くのである。伏見の船乗り場は平戸橋か京橋から乗れると言い、舟が発つのは毎日戌の刻(午後八時)と言う。しかも藤が森の知り合いの者達は、美代がこれから長崎に行くと聞かされて、荷車に乗せて伏見まで送り届けると言ってくれたのであった。
 美代は昔の知り合いの人々に甘える事にした。その船で行けば、又大阪で与助に会えると信じていた。後は山陽道を長崎に向けて歩けばいい事であった。美代が藤が森を発ったのは十九日の酉の刻(午後六時)である。寒そうな月明かりの下、伏見の城下で舟に乗り、故郷とも言える藤か森の人々に見送られ、何とか八軒家橋に向かう事が出来たのである。
 
「みなさんに聞いて貰いたい事が有ります。既にお気付きの事とは思いますが、私たちは秀吉殿の意にそぐわない者として、多くの名にも知らないこの国の人々に対して、まさに見せしめ、としての役割を負わされていると思えます。そこで私達はその様な秀吉殿のご意向に関わりなく、明日からは皆さんと共に歩きながら、声を合せて讃美歌を歌いたいと思うのですがどうでしょう? そして私たちの信仰をより多くの人達に広める為、私たちを見つめる人々に神の言葉を伝えたいと思うのですが」
 この日、大坂から二里程離れた堺の街で、三度目の引き廻しが行われたのである。この時も捕えられた一行はまるで本当の罪人の様に、ただ黙々と下を向いて歩くだけであった。バプチスタは大坂東町奉行所に一行が戻った二十一日の夕刻、早速イエズス会の者達をも含め、自らの気持ちを一行に伝えたのである。それは下を向いて声を失った自らに対して、恥ずかしさにも似た感情が沸いて来たからでもあった。
 イエズス会の三人は、バプチスタの意見に異存はないと言う様に頷いた。その時やっと、この捕えられた一行の中に、笑顔を取り戻した様な明るさが見えはじめたのであった。明日からは長崎に向けて大坂を後にする手筈であった。

多くの見物人や信徒達の見送る中、一行が大坂を発ったのは十一月二十二日の昼前の事であった。イエズス会の布教長であったオルガンティーノ神父から、イエズス会の捕えられた三人の面倒を見る様にと、ペドロ助四朗と呼ぶ男が一行の後に続いた。イエズス会も又自らの信徒を捕えられた事によって、放置できない事態と認識した表れでもあった。
 そしてその日の夕刻近く、一行が摂津尼崎の街を抜けたあたりで、一人の若い男が一行の前に座り込んだのである。地に頭を擦りつけ、自分も連れて行って欲しいと懇願を繰り返すばかりであった。その男は都でバプチスタが洗礼を授けたばかりの、伊勢に住む宮大工をしていたフランシスコ吉であった。役人達は当然の事としてなのであろうが、その懇願を聞きいれる事はせず、寧ろ殴る蹴るなどをして、その申し出を受ける事はしなかったのである。だがフランシスコ吉の懇願は、諦める事のない必死の形相で、見守っていた街道を行交う人々の多くは、殴られるフランシスコ吉の味方であった。終いには役人に石を投げつける者も出て来た様で、根負けした役人は渋々ではあるにしても、一行の世話役としての同行が許されたのである。
 前夜の約束通り彼ら一行は下を向く事も無く胸を張り、大声で讃美歌を歌い道往く人には簡単な説法を行うなど、それはまさに不思議な行列であった。見た目は素足で歩かされ、縄で互いを繋がれ両手は縛られているものの「私たちは罪人ではありません」「神を信じた為に処刑されてしまいます」と目を輝かせながら訴えていたのであった。
 確かにこれまで役人に縛られ引き立てられる者は、皆下を向いて罪の意識を表に表していた罪人であった。そうした者達は誰もが同じように自らの死を恐れ、死は甦るる事のない怖くて不安なものであり、怯え慄きながら刑場に向かうのが常であった。しかし罪を犯してはいないと言う自負と、更に神の御許に行き、永遠の命を授けられるという確たる信念が、死を恐怖として捉える事から遠ざけていたのである。それは死を怖れと思う世界とは反対の、神の存在を信じ切り、その命を全うした選ばれた者の誇れる喜びが勝っていた様であった。
 
 古来より山陽道は都に向かう道として、文字や仏教などの文化が運ばれた、この国の最も重要な街道であった。特に長崎に向かう場合は大坂を出て、兵庫から明石、姫路と通り片上から岡山、神辺から三原そして廣島から徳山、赤間関(下関)まで山陽道を下り、舟で小倉に渡り長崎街道を進むのである。尤も大宰府が置かれた九州からの道は、大陸からの文化が運ばれて来た道ではあったが、戦国時代の街道は未だ整備が遅れていた。
 戦略上ではあるにしても川に橋が架かる事もなく、宿驛も後の時代程には整って居なかった様であり、寧ろ殆どの物や人の流れは瀬戸内の海路によって保たれて居たとも言えるのである。
 例えば廣島の沖に浮かぶ厳島神社(宮島)は、北九州の宗像神社に由来する三女神を祭神とする古社である。平安末期の平清盛は安芸守在任中の時期、厳島神社への参詣を十数回、弟の頼盛に至っては二十回もの参詣を行っている。こうした背景から海路での厳島神社への参詣は公家や殿上人、果ては後白河上皇なども海路での参詣するなど、瀬戸内の海路は盛んになって行くのである。それは宣教師達も同じであった。イエズス会の宣教師フロイスは天正五年(1577年)に、伏見の鳥羽草津から川船に乗り、淀川を一気に下って大阪湾に出て、神崎川河口の川尻で船に乗り換え、瀬戸内の海を渡り府内豊後(大分)に戻っているのである。
 それ故に陸路の山陽道は、戦国の時代に生きた其々の権力者の思惑が、永く色濃く引き継がれて来た道なのである。

 一行と共に大坂を発ったマチアス与助が、美代と久しく顔を合わせたのは大坂を出て三日後の事である。瀬戸内の海に淡路の島影が見える明石から姫路に向かう途中で、冷たい北風がまるで頬を突き刺す様に吹き続いていた日であった。与助の左足の親指は、石に躓いた時に爪が半分程剥がれて、その痛みで足を引きずる様に、下を向いて歩いていた時であった。
 目の前にふとどこか覚えのある女の足許が視界に入り、思わず顔を上げた時であった。数歩の距離で美代の微笑む顔が、与助を見つめてそこに佇んでいたのである。
「美代、元気か」
 与助は自分が繋がれている事も忘れ、思わず立ち止まり美代の名前を呼んだのである。だが美代は頷くだけで黙っていた。いきなりマチアス与助が停まった為に、列の全体が停まる事となったのである。役人達は何事かと与助の傍に走り寄って来た。だが何でもないと判ると、追い立てる様に一行に向かって歩く事を命じたのである。美代はただ黙って微笑みながら、その与助の後ろ姿を見つめていた。
 与助は歩き出しながら振り返った時、一行の後を付かず離れずに美代が後を追って歩いて来るのが見えたのである。しかも美代と顔を合わせた一瞬、美代から「もっと胸を張って、堂々と歩きなさい。私は後に付いて行きますから」と言われた様な気がしたのである。美代が後ろからじっと見て居る様に思えて、思わず与助は背筋を伸ばした。
 
 姫路城の牢で一夜を過ごしたのは、大坂を出て四日目の事であった。途中からペドロ助四朗やフランコ吉の二人が一行の世話役となった為、この二人は縛られる事も無く、炊事の世話や道具のなどの荷物を担ぐなど懸命に二十四名の世話をしていた。そこにはフランシスコ会やイエズス会の区別も無く、譲り合う気持ちや労わりあう思いで、互いが繋がれているのだとバプチスタには思えたのである。
 心の中は彼らとは違う、と言う思いを植え付けられていたとしても、そこに口論を持ち混む様な事は無かったのである。少なくともイエス・キリストの言葉と祈り、そしてそれを信じる者達と云う一点で結ばれた兄弟であった。しかし何故に信仰が分かれてしまつたのか、バブチスタにはそれが悲しいと思えた。それにしてもこの城の城主だった黒田荷如水は、かつてはキリシタン大名であった。秀吉の伴天連追放令によって高山右近は信仰を選んだが、黒田如水は秀吉の目論見を受けて棄教したのである。
 人はその生涯に於いて信念と云うものを育て、それに支えられて生きて行く生き物だとバプチスタは思っていた。輝くとはその信念に支えら、苦難を乗り越えて歓びを見出す、いわば自らが自らを認める事では無いか、とも思えるのである。しかし他人を非難する事は出来ないとも思った。弱い者も強い者もこの世に居る事は、確かな事だからであった。
 
 大坂を出て六日目、一行が寝泊りする場所の多くは城の中に造られた牢であった。城が無い所はその領主が決めた寺の御堂が常であった。しかし逃げ出す事もしない者を縛り、牢に入れる事に一番戸惑ったのは云う間でも無く役人達であった。まして処刑される事に喜び、感謝すらしている姿を目のあたりにすれば、処刑を恐れる罪人とは全く別の、不思議な戸惑いを覚えたはずであった。
 その夜は備前片上宿の外れにある、三石城と云う山城の牢に入った時の事であった。牢の外ではベドロ助四朗が夕餉の支度をしていた。マチアス与助が珍しくバプチスタの傍に行き、伺いたい事が有ると前置きして話し始めたのであった。
「パーデレ、今でも分からない事がございます。それはあの幼い子供達の事です。歳も行かない子供達が何故捕えられ、何故私たちと共に長崎に行くのでしょうか?」
 十二歳のルドビゴ茨木や十三になるアントニオ、そして十四歳のトマス小崎など、未だ幼さが有り余る程の子供達であった。それにしても疑問に思っていた事に、納得したい気持ちの強いマチアス与助は、捕えられてから最も大きな疑問を抱えていた様であった。

「正直なところ、私にもその事は分からないのです。捕えられた大人の方々は、其々が信仰を強くお持ちの方々です。これは私の推測なのですが、秀吉殿から私たちを見れば、私たちは単に道具の一つでしかありません。その道具を効果的に使うとなれば、都や大坂などで行った様に私たちを見せしめにしたいが為、残忍であればある程、その効果は大きいと思えます。それに子供の信徒だとは言え、彼らも私たちと同じキリシタンです。信仰には身分も年齢も関係ないと、私は以前あなたに言ったはずです。ですから、それも主が選ばれた。そう、主の御心です。
 何故なら秀吉殿の目的は、それこそ誰でも良かった、そう言ったのはマチアスさん、確かあなたでしたよね。あの子供達でさえ秀吉殿に生かされるよりも、自らの信仰を選びました。あなたもそうでは有りませんか? 主はあなたを、そして私たちを選び、あなたもそして私達も主を選んだ」
 しかしバプチスタの心には、与助に答えた事とは違う、言い知れぬ痛みが残っていた。彼ら子供達には、まだまだ沢山のの未来が待ち受けていたはずであった。幾つもの経験を経て下した決断でない事が、哀しいと思えたのである。しかし全てはこの国の王が決めた事、そして自らが信じる主の決めた事であった。
  
 この備前国片上の山城に泊まった夜遅く、バプチスタは初めて手紙を書く事が許された。それはイエズス会の手配に依るもので、この時にイエズス会のパウロ三木が、大坂の四人の神父宛に書いた手紙がのこっているので、その手紙をここに書き写す事にする。しかしバプチスタの書いた、フランシスコ会マニラ管区長のフライ・ファン・デ・ガロピアス宛の手紙は残されてはいない。

『この月の二十六日(1597年1月14日)、備前の国の片山と言う所に着き、昨日から主が私たちに示された特別な御摂理によって、その事でこの道の功徳を失うかもしれないと、心配する程でした。播磨の国の赤穂部と云うところから、備前の国の川辺川まで、三日の道程で明石掃部殿の管轄下にあります。彼は私を最初に見ると、手を握ってご説明できない程、多くの涙を流しました。太閤が自分を私達の人数に入れる為、ひそかに調べていると言っています。
 しかし自分の信仰は自分の内にあるもので、この時に私達と会った事で臆病な弱い信仰を棄てた、と話してくれました。この出来事は私たちに大きな慰めを与えてくれた様です。それに道中では大勢の人達が私たちの話を聴き、聴いた人達は皆驚いていました。異教徒の坊主さえもこの方法なら、私達の聖なる教えは増々広がるだろうと言っています。 
 私達を担当する人々は、次の人々に引き渡す時、私達の事を宜しくと願うので、皆哀しんで親切に処遇してくれ、功徳になる事が余りありません。ペドロ助四朗は元気で私の傍を離れません。赤間関からの知らせを伝える為、先行する様に頼みます(以下略)  パウロ三木』

『副管区長宛
 神の御あわれみによって、イルマン・ディオゴ・ジョアンと私が、この修道者と一緒に死刑の宣告を受けた事は素晴らしく、予期せぬ事でした。今日、十一番目の月の二十六日(1月14日)に、備前国の片上と言う所に到着しました。明日の朝早く岡山に向けて出発し、七日後には赤間関に着くでしょう。そこから名護屋まで行き、そこで私達を長崎で磔にする為、寺沢に引き渡されるでしょう。これが最後の宣告です。私達三人の準備についてはご心配なさらぬよう、神の愛によって元気いっぱい喜んでいます。
 この世に於いては一つの望みしか持ってはおりません。それはわたしたちが長崎に到着する日に、告解するためイエズス会の神父にお会いしたいのです。サンフランシスコ会の神父様たちは、言葉が余り良く通じませんので、完全に良心を打ち明ける事ができません。できればパシオ神父を派遣して下さる事を望んでいます。
 私達二十四人は全員が同じ望みを持っています。即ち、磔の前にせめて一度、ミサをあずかってご聖体拝領をしたいのです。そこで寺沢、或いは代官にその事をお願いして下さい。長崎の代官、源蔵又は半三郎は私の友人ですので、差支えがないだろうと思っています。 (以下略) パウロ三木』

 イエズス会のパウロ三木がこうした手紙を書く事が出来たのは、備前の宇喜多秀家が遣わした警護役が、イエズス会の神父の洗礼を受けたジョアン明石掃部であったからである。それ故に片上から川辺川までの備前領内では、サン・フランシスコ教会のバプチスタ神父も、手紙を書く時間を貰う事が出来たのである。しかしバプチスタはパウロ三木からの話を聞き、ただ唇を噛みしめていた。イエズス会が広げたこの国の信徒達の広がりは、正に驚くばかりの話であったからである。
 それは備前の国の領主が宇喜多秀家殿であり、その奥方は筑前殿(前田利家)のご息女で、しかも秀吉殿の養女になられた豪姫さま。そして豪姫様はマリアの洗礼名を持つキリシタンであった事である。それだけでは無かった、前田利家さえもが洗礼を受けていたのだと聴かされ、四十年以上も前からこの国で布教に力を注いだイエズス会の事を、バプチスタは改めて思い知ったのである。思い返してみれば都での布教は、既にイエズス会が行っていた場所であった。言い換えるならイエズス会が耕した畑に、サン・フランシスコ会は黙って種を蒔いて居たのかも知れない。何故あの時イエズス会が九州に去ったのか、知ろうともせずに布教を都で始めた事が、或いは原因になっている様にも思えたのである。

 大坂を出て七日目の夕刻、一行は備前の国川辺川宿の手前にある、瀬音と呼ばれる村はずれで、広い川幅を持つ高簗川を渡る為に支度をしていたのである。春から夏ならば水かさも増して渡し舟もあるとは言うが、冬は深い場所でも精々ひざ位までの深さであった。街道を行く者達も又誰もが裾を持ち上げて素足で冷たい川を渡って行くのである。
 一行もこの時ばかりは縛られた縄を解かれ、手も自由にしてもらい対岸目指して川を渡っていた。与助があと僅かで対岸に渡りきる時であった。川底の岩に生えた苔に足を滑らせ、倒れて腰まで冷たい水に浸かってしまったのである。偶々片上の国境から警護の代わった役人が、与助の傍を同じ様に渡っていた時でもあったのか、役人は水に浸かった与助に手を差し伸べてきたのであった。
「大丈夫か、どこも怪我をなかたか? 」
 そして更にこう言った。

「向う岸は既に川辺宿だ、従者は先に行って既に火を焚いておる。縄は打たぬ故、皆と一緒に急ぎ宿舎の寺に行くが良い」
 この与助の様子を、近くの土手で見ていた者がいた。与助の妻の美代であった。この時、美代は大きな決心を固めたのである。
 その夜の一行が泊まる場所は、川辺宿の外れにある大きな寺の本堂であった。この川辺宿と次の矢掛宿の間には、備前と備中の国境である。明日の昼前にはその国境では、備中の新しい役人に引き継がれるはずで、引き継がれる前に美代はあの役人に話したいと考えていたのである。
 役人達の一行が、警護の役人を残して引き上げたあと、川で与助に手を差し伸べた役人も又、一軒の町屋にと入っていった。そこが宿舎になっていると美代には思えた。
 冬の未だ夜の明けきらない朝は、吐く息も真っ白になる程に寒い朝であった。昨夜に役人が入って行った町屋の玄関先で、美代はその役人が出て来るのをじっと座って待っていた。夫である与助に手を差し伸べてくれたあの役人の、優しさに賭けてみたい、情けがあるならすがって見たいと思ったのである。やがて薄らと夜が明け始めた頃であった。その町屋の玄関から、昨日の役人の姿が見えたのであった。

「恐れ入ります。お願いでございます。お願いを申し上げ、お聞き届けいただきとう、お待ちいたしておりました」
 美代は玄関先で両手を付き、供の者を従えて出て来た役人に向かって、頭を地に付けて懇願した。雪の滅多に降らない地方だとは言え、白い霜が一面に降りた朝であった。美代の声に供の者が慌てて、塞ぐ様に立ちすくんでいた。役人は相手が女である事に、立ち止まって美代を見たのである。
「朝も早くからの願とは何か、申して見よ」
 与助と言葉を交わす事が出来るとすれば、これが最後の機会になるかも知れないと美代は思った。
「申し上げます。ただ今おつれの御一行の中に、私の主人与助と申す者がおります。主人は都で捕えられ、長崎に送られると聞き及び、住まいのある近江より一人ここまで追って参りました。急な御栽定故に別れの挨拶すら致しておりません。何卒少しのお時間を戴き、別れの挨拶が出来ます様、お取り計らいをお願い申し上げます」
 美代の訴えを聞いて居たその役人は、逆に美代に聞き返して来たのである。
「もしや、そなたもキリシタンか?」
「はい、未だ洗礼はお受けしてはおりませんし、そのお名前も戴いてはおりません。ですが捕えられた主人の与助同様に、信仰の道を一緒に歩いておりました。出来るなら私も一緒に捕えて頂き、長崎へと行かれる一行の皆さまにお加え頂ければ、この以上の幸せはございません」
 美代は本心から、その様に思っていたのである。
「キリシタンは不思議よ。皆死を恐れてはおらぬ、恐らく真の信仰とは、そして夫婦とはその様な姿なのであろうな。だがこれ以上の同道は役目としては認められぬ、そして逢わせる事も許されぬ事・・・しかし話す機会だけは作ってやろう。夫婦であればそれが通理でもあろう。一行は今夜、備後の神辺宿に泊まるが、手前の役目はこの先の国境までと決められておる。しかし備中の役人にはその旨申し伝えて置く故、役人達が国境で引き継ぎを終え、国境を越えた処で一行の後を歩く様に致せ。良いな」
 役人は言い残すと、直ぐに与助たちが泊まる寺の方に、足早に向かって言ったのである。
 何時もの様に夜が明け、痛い程に冷え切った朝の冷気の中で、一行は藁で出来た布団の中から起き上がって来た。陽が昇り始めて体に受け止める光の暖かさは、どの様な食べ物にも増して御馳走だと与助には思える。ここしばらく美代の姿を見る事も無く、先に行って居るのか後から来るのか、皆目分からない日が続いていた。朝の祈りを捧げた後に、ペドロ助四朗やフランシスコ吉が作ってくれた粥を食べ、街道に戻って今日の一日が始まるのである。
 歩いて僅か一里程行くと備中の国境となり、そこで役人の引き継ぎが行われるのであった。秀吉が長崎まで続く街道の領主に対し、予め一行の安全と通行の保障を求めて居た為である。しかしその安全は長崎までは生かしておけと云う、極めて限られた目的であった。

 一行が山陽道の矢掛の宿を過ぎて井原七日市の宿場外れに来た時であった。同行していた備中の役人から、いきなり一行に止まる様に命令が出されたのである。そしてそれは全く突然に、役人は声を上げた。
「マチアス与助と申す者はいるか?」
 事情の分からない与助は、恐る恐る声を上げた。
「私がマチアス与助で御座いますが、何か?」
「この少し先の高屋宿を過ぎた辺りに、四つ堂と申す小屋がある。そこにて半刻ほど吟味致す事がある。一行と離れてそこで暫し待つように、他の者は今宵泊まる神辺の城に向かう、歩け」
 四つ堂とは山陽道の街道沿いに、旅人が雨宿り或いは暫しの休息に、そして野宿も出来る様にと、この地方の領主が建てたお助け小屋であった。旅人の行き倒れを防ぐ事が目的とも言うが、粗末な藁葺屋根と風よけの崩れかけた土壁が土間を囲んで、二間四方の土間の真ん中には小さな囲炉裏が切られていた。
 与助が訳も分からず高屋宿で一行と切り離され、目隠しをされて四つ堂に入り、土間の柱に手を縛り着けられた時であった。壁の向こう側から美代の泣く声が聞こえて来たのである。
「もしや、そこに居るのは美代か?」
 与助はまるで夢でも見ている気持であった。
「へぇ、美代どす。お逢いしとうおした。・・他の方にご迷惑になるからと、備前からのお役人さんが、こうして声だけの面会を許してくれはりましたんや」
 声だけなら逢せた事にはならないと、声だけを聴かせてくれたのだと与助には思えた。
「美代、体の方は大事かないのか?」
 与助の一番心配していた事であった。だが与助のその問いかけに、美代は答えなかった。
「半時ほどお役人さんから頂きましたんへ」
「しかしよくもこうして逢う事を許してくれたものだ」
「へぇ、もうこれ以上のキリシタンを、長崎には連れて行かれへんとお言いやした」
 美代は勤めて明るい声で答えていた。しかし与助はこの時、どうしても美代に聴きたい事を、今知りたいと思った事があった。
「如何しても聴きたい事があるのだが、そして一番聴きにくい事なんだが、美代は死ぬ気ではないのか」
 与助はずっとその事を思っていた。確かめる事の怖さと聴かない事の苦しさが、大坂を出てからずっと与助の胸の中で同居していた。

「わてな、長い事生きてゆけしまへん。もう無理どす。それに昔与助はん、逝くときには一緒に逝ってやろう言うたん、与助はんでしゃろう」
 予想していた美代の言葉であった。
「しかしあの時は、美代が一人で死ぬのは怖いと酷く恐れていたからだ、寧ろこんな事になって、一緒に逝けなくなった事を済まないと思っているんだよ」
「ですよって、わての好きな様にさせておくれやす、残された僅かなひと時を、気持ちだけでもご一緒させていただきたい思うとります。それに暮らした日々はほんに短いものやったけど、生まれて初めて幸せもろうたと、与助はんにお礼いわなあと思うておりましたんへ。パーデレはんは自ら死ぬ事は地獄に堕ちるいわはりましたけど、そやけどうちは、この世でパライソを見させてもろうた思うとります。ややこは出来しまへんどしたが、ご一緒させてもろうた事ほんに幸せな毎日でしたんえ、与助はん、わてな、不思議なことなんやけど、もう怖いものもうなんものうなりましたんや」

 与助は涙を堪えて話している美代に、静かに語りかけていた。
「わかったよ。美代、もうこれから後のことは、主の御心に従うまでだ。だが、出来れば美代に長く生きて欲しいと思っていた。生き続けて私の事を思い出して欲しいと思っていたのだ。あの時に言った永遠の命が、人の心の中に生きる事だと言った事があったな。今でもその気持ちに変わりはないのだが、この頃は人だけではなく、全ての生き物の様にも思え始めているのだ。神はどの様な生き物の中にでも、住まわれて居ると思う様になってきたのだ。言うなれば、神の御創りになった物を、人は食べて生きていと云う事だ。それ故に生かされていると思うのだが、ただ人はその事には気が付いては居ないのだよ。

 私達は命を、産まれた時から死ぬときまでだと勝手に思っているが、そんな短いものでは無い事に気が付いたのだ。命は気の遠くなる様な、遥か大昔から続いているものだ。親が子を産み、又その子が親になり、そして又子を産む様に、生き物は神と共にその永遠と云う、未来に向っているのだと思うのだ。私達は単にその架け橋でしかないのだが、だが神と共に居る事だけは確かなのだよ。私の中の神が私と共に消え失せても、神は誰かの心の中に生き続けて行くはずだ。何故なら神は生きるものすべてに対して、沢山の果実をつける様に御創りなったからだ。その果実を作れなかった私が、この地上から消え去る前に、神は私に美代と出逢わせて呉れたのだと思っているのさ」
  
 キリストの教えを信じる者達は、自らの意志で死ぬ事も他人を殺す事も認める事はしない。何故なら命とは、この世界でしばしの間を生きる為に、全能の神ゼウスから預かったものだからである。とは言え、武士の国であり辱めを決して見過ごさない者達に、それを理解させる事は長い年月が必要なのかもしれない。そして美代の気持ちがどうであれ、とにかく生きる事や命の事を二人は一生懸命に考え、そして生きてきたのである。寧ろ怨む事や憎む事を捨て去り、神に委ねた命を最後まで与助は持ち続けようとしていたのである。
 半刻は直ぐに去ってしまった。二人に取っての今度は無かった、元気でと言う挨拶もなかった。ただ姿も見えない声の方に向かって、与助はうなづいていた。美代は涙をぬぐっていた。

 海に面した備後の三原城に一行が泊まったの、既に大坂を出て十日が過ぎていた。与助はこの夜、美代に手紙を書く事を思いついたのである。書いてはみても届ける事の出来ない手紙ではあったが、それでも書きたいと思ったのであった。与助には、ただ思っているだけの毎日が、酷く苦しく思えるのである。
 襟に縫い込んでいた永楽銭の五文を取り出し、筆と紙に換えてもらえないかと、牢の向こう側にいたペドロ助四朗に頼んでみたのであった。しばらくしてペドロ助四朗が、紙と筆を持って戻って来た。
「筆と墨は後で返して欲しいと役人が言ってました。それからあと十文くれたら、手紙を届けてやるっていってましたが、本当に届けてくれるのかどうか」
「いいんですよ。届ける為に描いているのではありません。届け先すら分からない手紙なのですから、ありがとうペドロさん」
 与助は紙と筆を受け取ると、僅かに灯る灯りの下で、無心に手紙を書いた。自分の想いをただ祈る様に文字に換え、束の間のひと時を惜しむ様に、美代を自らの心の中に甦らせていたのであった。
 その時であった。ミゲル小崎の息子で十四歳になるトマス小崎が、手紙を書いている与助の傍に来て、不思議そうに見つめていたのである。
「トマスさんも手紙を出したい人がいるのかな?」
与助は思わず微笑みながら、幼いトマスの顔を覗き込んだりである。
「はい、私も母上に手紙を書いて届けたいと思いますけど、でもここは牢内ですから、届ける事が出来ません」
 諦めた様にトマスは与助を見ると、肩を落としてうつむいていた。
「諦めてはいけませんね。私はもう少しで書き終わりますから、終わったら紙を差し上げましょう。私は諦めてはいませんよ」
 少し離れた場所で、トマスの父であるミゲル小崎が与助と息子のトマスを見つめていた。与助は軽く頭を下げて挨拶をした。しかし秀吉が何故この親子を捕えたのか、未だ理解出来ないもどかしさが、魚の骨の様に心の中に突き刺さっていた。


 【舟の道】
 赤間関まで続く山陽道は、川が幾つもこの街道を横切り、その川に橋の掛かっている場所は、ほんの数える程であった。それも板切れを縄で縛り付けた様な粗末な橋で、それ故に街道を歩く人々は、川にぶつかる度毎に冬なら川を素足で渡るのである。戦の多かった時代の名残なのか、川は戦略的な濠となり、領地に侵入する兵の歩みを止める役割があった。高い山も無い代わりに平野も少ない瀬戸内の道は、絶えず低い山並が連なりその山並みのうねりに合わせ、上り下りの繰り返しであった。
 神辺宿の外れにある四つ堂で、顔を見る事は出来ないにしても、美代との僅かに過ごした時間の記憶は、未だ与助の心の中に余韻の様に残っていた。処が三原城の先にある本郷の宿場で、美代の疲れ切った姿を見つけたのは、三原城を出た日の昼前、本郷宿を通りかかった時であった。
 胸を張って歩いて居た与助の目に、覚えのある着物が宿の軒先に干してあった。そしてその干した着物の下に、美代のやつれ切った顔を見たからであった。あの時、美代は確かに与助の顔を見ていた様に思う。そして胸に手を当てて十字を切る姿があった。それは追いかける事がこれ以上、出来ないと与助に言った様にも思えて来るのである。そう思うと、これが見納めになるのかも知れないと、与助は歩きながら後ろを幾度も振り返ったのであった。幾つもの心配が頭に浮かんでは消えて行くのである。昼間の時間にも拘わらず、宿に居る事も、着物が干してあった事も、やつれた顔もその全てが心配であった。
 
 与助の心配そうな顔を見つめながら、これが最後になるかも知れないと美代が思ったのは、本郷宿で吐血した翌朝の事である。床から起き上がる事も出来ず、疲れ切ったて力の抜けた体は、気持ちさえ受け付けてはくれなかった。昨夜この宿に着いた後、久々に着物の洗濯しようと坐り込んでいた時であった。急に激しく咳き込んでしまい、多くの血が喉から噴き出す様に出た。途端に体はだるく熱っぽい倦怠感に襲われ、体から力が抜けて行くのを他人事の様に感じていたのである。
 朝、相部屋だった親子連れも既に発ってゆき、そのまま一人で部屋の中で横になっていた。外の賑わいで一行が来た事を知り、そのまま与助を呆然と見送ったのである。街道を行く一日の遅れを戻すには、女の足では辛いものがある、だが体も思うようにはならなかった。その夜も美代は、本郷宿に泊まるしか方法が無かったのである。吐血して二日目の朝も、やはり美代の体は辛かった。それでも眠る事が体を元に戻しているのか、辛うじて布団の上に起き上がれる事が出来た。しかし既に与助との間には丸々一日の距離が離れ、それは増々刻と共に距離の遠のいて行く事を感じていたのである。
 昼過ぎの事であった。宿の主人が心配そうに訪ねて来て、床に臥せっていた美代に声を掛けてくれたのである。
「大変ぶしつけではございますが、奥様はどちらに行かれるのでございましょう、御加減が悪いと宿の者から聞き、医者でも呼びにやろうかと思いまして」
 美代を見つめる目は、客の身を案じる気持ちと、女が一人旅をしている理由に関心がある様な聞き方であった。しかし反面、美代はそれも仕方がないと打ち消した。女一人が旅をするなど、殆ど有り得ない事でもあった。
「主人の死に目間に合わせようと、急ぎ長崎に向かっております。けれど病に臥せってこの有様、何か良い知恵でもありましたら教えて下さいませ」
 都の言葉を敢て消したのは、余計な詮索をさせたく無いと思ったからであった。

「それはそれは、何とも難儀な事でございますなぁ、それも長崎までとは、しかしお尋ねの事に関しては、旅をされている奥様にはご存じないのも仕方がない事。この街道は今でこそ歩く人も増えて来てはおりますがな、荷は船で運ぶことの方が多う御座います。この辺りでは「地乗り」と申しましてな、明るい日中だけ帆を張って走る船が御座います。乗る事が出来ます湊はこの先を直ぐ左に折れ、沼田川を渡ります。まぁこの川も今は水が少ない筈ですから、歩いて渡れるとは思います。その道をまっすぐに二里も歩けば、忠海(ただのうみ)と言う瀬戸の湊に着きましょう。
 そこからは地乗の早船に乗りますと、後は瀬戸の風次第と云う事になりますが、冬の季節ならば風も追い風、、早朝に出る早船ならば風待ち湊の津和地島には、恐らく夕刻には着くと思われます。そちらで一晩お泊り戴き、周防国の寵戸関(上関)には、翌日の昼過ぎには着くかと思います。寵戸関から山陽道の徳山宿までは、陸路を歩いて一日半となりましょう。この山陽道も昔は奈良や京までは、瀬戸の海が街道でございましたからなぁ」
 又、船に助けられたと美代は思った。都を出で与助を追いかけ病で寝込んだ時にも、伏見から淀川を下り大坂の八軒家橋の袂まで行く事が出来た。今度は瀬戸の海を船で行く事が出来ると言う。
「おぅ、そうだそうだ、丁度いい、今日は、その忠海の湊から、漁師の娘が魚を売りに来ている日だ。舟も朝早くしか出て居ないはず、湊まで案内してもらうといい」
 宿の主人はそう言うと、漁師の娘を探しに部屋を出ていった。
 こうして美代は未だ体の疲れが取れないままにしても、忠海の湊に着いたのはその日の夕刻の事であった。船は毎朝、日の出と共に出ると聞き、美代はやっと安堵して船宿に泊まる事となったのである。

 翌朝、未だ外はうっすらと明るくなった日の出前であった。莚帆を幾枚の畳んだ大きな船の横に、小さいながらも布の帆を持つ一艘の早舟が、乗り込む者達を待っていた。既に荷は水主(かこ)達によって、船倉に積み込まれた様であった。美代を含めた数人の者が乗り込むと、それはあっけない程に突然もやいを解き、日の出と共に湊を離れ海に出たのである。
 岸を離れると舟は直ぐに帆を膨らませ、昼すぎには右側に上蒲刈島と言う島を見て、狭い島を間を過ぎ、斉灘と呼ばれる島の少ない海に出ると、帆は増々風を一杯に受け、夕刻には津和地島に着く事が出来たのである。
 山陽道が未だ街道として整備かされていなかった昔から、瀬戸内の海を走る地乗りと呼ばれるこの船は、この地方では最も一般的な乗り物であった。舟は昼間だけの目測による運行と決められ、その範囲も特別な場合を除けば、瀬戸内の島々の間を縫うように航路が決められていた。遣唐使を含めて異国の品々が絹の道と称し、九州から都や奈良に向って運ばれたのも、殆どがこの海路であった。それは平安時代の荘園と呼ばれる制度によって、この地方で造られた塩などのが、都に送られた事で発達したとも言われていた。
 四国や九州を平定して以降、秀吉はこの時から九年ほど前に、様々な命令を発している。その中の一つに海賊禁止令と言うものが出されていた。それまで通行料や警護料の名目で、海を行く船から金を取り上げていた海賊船と呼ばれる船も、いつしか秀吉の朝鮮出兵の船として召し上げられていた。瀬戸の海賊として広く知られた村上氏や来島氏などの一族も、秀吉の水軍としてその任にあたる様になっていったのである。この国にも時代の風が吹き始めて、世の中の仕組みや国と言う姿や力が、少しづつ庶民にも見え始めて来た時代でもあった。

 その瀬戸内の津和地島で降りた美代に、不思議な出会いが待ち受けていた。津和地島は周防国と四国の間に浮かぶ、それは小さな島であった。伊予灘、斉灘、安芸灘の三方に囲まれた、瀬戸の海路には最も要の様な島でもあった。
 未だ宿と呼ばれる程の建物も無く、漁師の家の一間を乗り継ぎの客に与えている程度の、簡素な宿であった。しかし美代一人だけが他の客とは別に、乗って来た船の船頭に案内され、海で財を成したと思われる、門構えの立派な家に連れて行かれたのである。部屋に案内案内されてしばらくすると、美代よりも少し年上と思われる男が、通された部屋に挨拶しに来たのであった。
「奥様はお一人旅だとお見受けしました、そして何かご事情があるとも思い、もし宜しければお話をお伺いしたいと、私の家の方にお連れ致しました」
 美代は突然のこの男に、毅然とした言葉で問いただした。
「何故に私を他の客と離したのでしょうか?」
 陽に焼けた男の肌が、長く海で仕事をしている事を物語っていた。

「御不信は尤もな事で御座います。実は・・あなた様と同じ信仰を私も持つ者で御座いまして」
 自分の胸元から、首に掛けていた紐をゆっくりと外し、大切そうに美代の前に差し出したのである。その紐の先には木を彫って作った十字架が、逞しい指の先に揺れていた。美代は驚いた。瀬戸内の真っただ中の小さな島で、同じ信仰を持つ者と出会うなど、考えてもいなかったのである。
「奥様にはさぞ驚かれたことでしょうが、私の方も驚きました。私は塩飽の源三と申します。同じクルスを持った女が舟に乗っていると、舟の者が知らせて呉れまして、こちらに来ていただいた次第で御座います」
 美代の首に掛かっているクルスも、与助が何時も持ち歩いている切り出しの小刀で、堅い樫の木を削り彫あげてくれたものであった。美代はやっと事の次第を理解し、これまでの経緯を源三に語ったのであった。
「実は秀吉殿の伴天連追放令に反していると、都でキリシタンが突然捕えられ、長崎で磔の宣告を受けて今向っております。その数二十数名にも及び、神父様たちを含めて、私の夫もその中に含まれております。夫の後を追いかけ本郷宿まで参りましたが、そこで病に臥せっておりました時、宿のご主人から早船があると聞き及び、ここまで辿り付いたと次第でございます。夫達の一行とは既にもう丸二日半と離れ、何とか追いつきたいと藁をも掴みたい思いでございます」
「それは大変な事で、お気持ちはお察しいたしますが、舟は間違いなく明日の昼には寵戸関には着きましょう。どうか安心されればと思います。私は四国丸亀と吉備玉島の間にある、塩飽島の出、あれは今から数十年も前の、確か天正十五年(1587年)の、冬の事であったかと。フロイス様と申される神父様が都から九州の府内に行かれる途中、塩飽の島に寄られた時の事で御座いました。重病の母を診て頂き薬をも戴き、島の医者が見放した母の命を助けて頂いた事が御座います。それ以来母も私もイエス様を信仰する様になりました。とは申しても教会に行く事も出来ず、私もこちらに来てしまい神父様の説教も、その時から聞く事も御座いません。塩飽は年に一度か二度程、耶蘇教の神父様が来られたと聞いておりますが、しかし母が作ってくれたクルスを首にかけて、同じ様な方が見えられたら何かのお役に立ちたいと思っておりました」
 美代は十年以上も前から、この様な場所に神父が訪ね、信仰を広めていた事に今更の様に驚いたのてある。
 源三はさらに口を開いた。
「何もおもてなしも出来ませんが、馳走も用意させました。水の少ない場所ですが風呂も用意させております。どうぞお気持ちを楽にして、お過ごし頂けたらと思っております。それから寵戸関から徳山に向かう途中、平生村と言う場所に懇意の者がおります故、安心してお泊り頂ける様、一筆書き添えておきました。お持ち致して頂ければと思っております」
「お申し出をありがとうございます。しかし主人は今も素足で長崎に向かう囚われの身、私だけが馳走を頂く事は出来ません。ですが風呂だけは喜んで使わせて頂きます」
 美代は深々と頭を下げた。この夜は美代に取って、心と体の休まる一夜となったのであった。

 その美代が周防国の徳山宿の手前一里半の、間宿と呼ばれる花岡に着いたのは津和地島に泊まった翌々日の夕刻である。街道は山陽道であった。そして与助達一行が、僅か一刻程前に通って行ったのを、宿場の茶屋のもから耳にしたのであった。やっとの事で距離を縮めた事に安堵し、美代は本郷の宿の主人や、津和地島の源三達を思い起こし、振り返ると深く深く頭を下げたのであった。

 
 【与助のそれから】
 与助が本郷の宿で美代の姿を見てからの事である。一行は相変わらず幾つもの川を渡り、幾つもの峠を越えて長崎に向かって歩いていた。峠や坂はまるで人の世に似て、厳しい上り坂を上った後には、大方、見晴らしの良い風景に出会い、やがて軽やかな足取りで歩く事の出来る下り坂が待っていた。しかし与助の心の中にはあの時以来、美代の事が何時も思いの中を占めていた。他の信徒達への気配りもあるのだが、以前よりも無口になっていたのである。
 秀吉が建てた聚楽第を真似たと言う、未だ普請中の廣島城の牢内で、バプチスタは久しぶりに与助と言葉を交わしたのである。
「マチアス与助さん。元気がない様ですが、大丈夫ですか? 本郷の宿場では私も久しぶりに美代さんのお顔を見る事が出来ましたが、美代さんは与助さんの方ばかり見られていましたね」
 与助の隣に座り直し、話を切り出したのである。しかし与助は冗談とも言えるバプチスタの言葉にも答えず、真顔で話し始めたのである。
「私はこの頃、この様な事を思う事があります。それは人とは何時も、どんな時もで独りでは無いのかと言う事なのです。いえ神が何時も私達を見つめていて下さると言う事ではなく、生きて居る血の流れている人間の話でございます。例えば妻が隣に座っていても、パーデレが皆さんの前で説教をしている時でも、人は独りで生れ、この世に独りで生きて居ると言う事なのです。美代もそうですが、私達は互いに独りである為に、独りである事を理解したが為に、惹かれあったのだと思うのです。
 あれは美代が伏見の藤が森に居た頃の事なのですが、その美代が労咳と呼ぶ胸の病に罹りました時、突然に申した事がありました。
『このままで死ぬのは嫌です』
 と、とても哀しそうな目で、私を見つめて言ったので御座います。
『もっとこの世の幸せを知ってからでなければ、今まで何の為に生きて来たのでしょう』
 と、涙を浮かべて訴えておりました。私はその時に、この様な事を言ったのです。
『美代が独りで死ぬ事を怖がるのならば、その時には私が一緒に死ぬのなら怖くはないかな?』
 と聞いた事がありました。美代は自ら選ぶ死について、このように言ったのです。
『教会では自分から死ぬ事は赦してくれません、人の体は神様からお預かりしたものだからです』
 と、哀しそうでした。そこで私はこの様に言ったのでございます。
『生きる事を嘆いて死のうと言っているのではないのだよ。美代と一緒に居たいから、その事で美代の怖さが軽くなるのなら、私の死にも意味があるはずだ』
 そして私は美代に、こう付け足したのです。
『私は自分のこの命を、最も必要としてくれる者の為に使いたいのだ。その事こそ、その必要とする者の中に生きる、その者の中で生かされる事だとは私は思っているんだよ』
 どれ程私の話が美代に届いたのか判りません。しかし今はどれ程、美代の事を理解出来ているのか、今度はその事を大切に考えているのですが・・・」

 そして与助は更に、この様な事も美代と話したのですよ。と懐かしそうにバプチスタに打ち明けたのである。
 それは美代が与助の住む安曇川の、河口にある家に住むようになった頃である。一緒に漁に行くと美代が言い出し、仕掛けの籠を引き上げに行った舟の上で、与助が美代に語った事であった。
『私はイエス様を信じ、バプチスタ神父を信じて、この信仰に入ったのは美代も知っているだろう。琵琶湖の魚を獲って毎日を暮らす、何処にでも居る漁師だが、今に思うと、この信仰は私に誇りを与えてくれた様に思えるんだ。生きる事の意味さえ何も考えずに暮らしていた昔は、その誇りさえ感じる事は無かった。だがこの頃は、その生きる意味さえこんな風に思う事があるんだ。もし出来るなら、この私の命が消えた後でも、残された人の心の中に何かを残す事の出来る、そうした生き方を追いかけたいと思う事があるんだ』
『その何かとは、どんな事なんでしょう?』
与助は少し考えてからこの様に答えたと言うのである。
『そう、何百年も何千年も、人の心の中に生き続ける事の出来る生き方、そう、あのイエス様の様な生き方だよ』
 与助は考えている美代に向かい、こんな風に言葉を続けたのであった。
『私は沢山の人の心の中に残る事など、その様な事は一度も考えた事はないし、そんな沢山の人の事を思い遣る程、強くて心の広い人間では無い事位、私自身が一番よく知っているさ、だがな、私は今この世でたった一人だけ、相手の心に残る事が出来れば、それで十分だと思っているんだ。もちろん死んだ後の事では無いよ、生きているうちで、私の命を最も輝かしてくれた人の為に、この命を使いたいと思っているんだ』
 美代は黙って聞いて居た。そこで与助は自分の母の事を語ったのである。
『母は、たった一人で私を産んでくれた。酷く貧しかったが、何とか育ててくれた。だから母も苦労の多かった人生だと思ったよ。その母もわりあい早く死んでしまったのだが、母が死ぬ間際に一つだけ言い残した事があった。それは「私が死んだ後も、私の事を時々思い出して欲しい」と言う事だったのだ。「お前が私の事を思い出す時だけ、お前の心の中に私は生き返る事が出来るのだからね」と、そう言って死んで逝ったんだ。人が人の中で生き続けるとは、それが既に亡くなってしまったとしても、その相手に影響を与え続ける事ではないかと、この頃はそんな風に思う事があるのだ。だから多分、生きるとは生き続けると言う事は、相手を思ってくれるその想いの中に、人は生き続けて行く事が出来ると思えるんだよ』
 与助は恥ずかしそうに少し笑い、美代に語ったと言う話をバプチスタに語ったのである。それは心の中に溜まった美代への想いを、吐き出したかった様にもバプチスタには思えた。
 そのバプチスタが今度は与助の耳元に顔を近づけて、小さな声で与助に語ったのである。
「実の処、私達の信仰の在り方は、一人一人違うとしても良いのではないかと、私は少しずつこの頃思い始めているのですよ。そうでなければ、この信仰に対して幾つもの誤解が生じ、その誤解の数だけ信仰が分かれてゆく、そんな気がするのです。しかし信仰の数だけ神が居るなどとは、到底私には思えないのです。それに私は神に仕えて居るはずなのに、いつの間にか王室や国のお役人、そして上司に仕えている気がしているのですから」
 不思議な事に与助の話を聞いていると、本来の信仰が持つ単純で素朴な姿が、バプチスタの持っていた考え方に、鋭い疑問を投げかけてくるのであった。

 古くから伝えられるこの信仰の歴史は、さほど穏やかに人々の心に広がったものでは無い事は、バプチスタも理解していた。あの三十九冊に纏められた旧約聖書でさえ、元々はユダヤ教徒に向けられて書かれたものである。その旧約聖書の最初に書かれたモーゼ五書と呼ばれる、天地創造に始まる創世記から引用すれば、そのモーゼがエジプトからユダヤの民を連れ、乳と蜜とが流れる国カナン(現イスラエル)に向かう事から、この信仰の苦難は始まったとバプチスタは思っていた。
 神との約束の地とされたカナンの地では、神を信仰しない者達との争いが始まったからである。今でもバプチスタが答えを出す事が出来ないのは、自分たちの信仰を受け容れないからとしても、神はその者達に対して苦しみを与えるなど、到底理解する事が出来ないでいたからであった。
 人々の罪を一身に背負い、ゴルゴダの丘で処刑されたイエスの想いとが、全く矛盾して来るからでもある。
 更にはこの東洋の果てにあるこの国でさえ、宣教師達が訪れる遥か昔から、自分たちとは異なる信仰を持つ人々も又、どれ程多くの血を流し、命の灯を消し去った事であろうかと思うのである。とは言っても血を流す事をも厭わず、自らの命さえ消し去る事が信仰の一部と言うなら、信仰とは一体誰の為の、なんの目的を持ったものなのであろう。突き詰めて言えば、全ての民がその信仰の為に命を消し去った時、その信仰そのものが消滅する事は確かであろうと思えるのであった。
 信仰と言う言葉で人々の心を操り、その命さえも目的の為に利用するそれは、既に信仰と言う領域を遥かに離れてしまっている様にも思えるのだ。それ故にこそ信仰は、一人の王に操られる事を最も恐れ、避けなければならないはずであった。特に信仰は政を司る者にとって、これほど都合の良いものは無い。民衆を纏め一点に向かわせる事は、至って簡単にそれは可能になる。神が仏がと、命令の頭にその言葉を載せれば良いのである。
 しかし他の信仰を認めず自らこそ正しいとする絶対性は、それが故に何れは国家や人種と同じように、いやそれ以上に徹底して本来救うべき人間を殺してゆく様に思うのである。だが自らの信仰を絶対だと確信も出来ないそれを、信仰とは呼べるべくも無い事も又確かであった。
 与助が語った、存在するから信じるのではない、信じる想いの中にこそ、その信じる事の意味があるのではないか、と言う言葉をバプチスタは思い起こしていた。信じる中にこそ意味がある。信じない者や他の信仰を信じる者を否定するのではなく、単に自らの信じるその想いを大事にする信仰こそが、荒れ地に様々な花を咲かせる様にも思える。バプチスタは心の中で、新たな信仰の在るべき姿を今見つけた様に思えた。

 周防国の東の外れにある関戸宿を過ぎると、瀬戸の穏やかな海は全くと言って良い程に、姿を隠して見る事は出来なくなってしまった。そして御庄(みしょう)と呼ぶ間宿を過ぎる辺りは、街道も上り下りの多い峠道になる。与助やバプチスタが福山宿近くの若山城と云う山城の牢で、大坂から十三日目の一夜を過ごしていた。ここで一行は街道を離れ、山口に向かう事が初めて知らされたのである。
 その山陽道を山口に向かう富海に向かう途中、椿と言う名の峠があった。さほど高い峠では無いが、峠の両側には名前の通りに椿の花が咲き誇り、その向こうには周防灘の海が霞むように見え、一行の誰もが慰められた。その峠に咲く椿は、かつての領主だった大内義隆が植えたと言うが、周防山口の領主であった大内義隆は、天文十五年(1550年)の春に、初めてキリスト教を運んだフランシスコ・ザビエルを山口に招き、この地で布教を許した経緯があった。その後に同行したコメス・デ・トーレスをこの山口に残し、勇んで京の都に向かったのである。しかし都は盗賊がはびこり、治める者も無く荒れ果て混乱した街の姿に、ザビエルはやむなく九州平戸に戻り、再度山口に戻って僅かな時期を布教していた。
 一方の義隆は京の公家の文化に憧れ、和歌や芸能を好んでいたと言い、更に僅かであったが大陸との交易も行っていた。しかしキリスト教が禁じている衆道(男性の同性愛)を好み、ザビエルとは激しい議論を重ねた事は広く知られていた。尤もザビエルが山口を離れた数カ月後に部下の謀反によって亡くなり、跡を継いだ大内義長もその七年後、毛利氏との戦いで敗れ自害したのである。それ以降、山口は伴天連嫌いの毛利輝元の領地となり、ザビエルが広めた信仰はこの地を離れたか、或いは心の中だけの信仰となったか、いずれにしてもそうした者達への見せしめであった。
 山口から長門の赤間関に向かう頃は、毎日が同じような日々の連続であった。与助は美代がすぐ後ろを追いかけている事さえも、気付く事は無かったのである。


 【九州での出来事】
 山陽道を長崎まで向かうのは、赤間関から狭くて流の早い海峡を、船で九州に渡らなければならない。その船は九州小倉城近くの常盤橋と呼ぶ橋の袂に着けられ、そこから長崎街道が始まるのである。しかし筑前の領主である小早川秀秋が用意した船は、一行を乗せたまま常盤橋の下をくぐり、小倉城内に横付けされたのであった。この城の牢に一行が入れられたのは、既に大坂を出て十七日目の午後の事であった。
 だがこの日、牢内で受けた命令は出立が今夜半である事、讃美歌など歌を歌う事や又歩きながら説教も禁じられ、ただ黙って歩く様に命令されたのであった。何故深夜に出発しなければならないのか、これまでとは扱いが大きく違った事に、バプチスタの頭には秀吉の恐れを感じ取ったのである。それを言いかえれば、秀吉が九州の地に根付いたキリシタンの力を、決して過小評価しては居ないと言う事であった。
 秀吉が最も恐れる事とは、キリシタン達に依る信徒の奪還であったろうと思う。そうなれば秀吉の面目は潰れる事となる、それを恐れて居るのだとバプチスタには思えた。それ故に、秘密裏に無事に長崎に送り届け、速やかに処刑する事を狙ったものだと伺えるのである。その夜、小倉城を出た一行は、闇にまぎれ、先頭の役人が持つ提灯一つを目印に、城下を抜けて星空の下を長崎に向けて歩き始めたのである。
 しかしそれが長崎に向かう街道では無く、博多を経て唐津の名護屋城に繋がる道だと知ったのは、それからしばらく後の事であった。

 バプチスタを含めた一行が、低い松林の中を続く道で、強い北風を避けながら身を寄せ合い、朝を待ち続けて居たのは二十日目の明け方の事であった。小倉を発って毎日、昼間は寝て暗くなってから歩く日が続いていた。
 その松林と砂浜が博多湾に突き出た細い岬だと知ったのは、朝の鉛色の空の下であった。肌を差す冷たい北風の吹く中で、岬の外は白い波頭が押し寄せて来るのが見えていた。これから一体が何処に連れて行かれるのか、誰もが不安に怯えていたのである。
 岬の先端には、木の葉の様に揺れる一隻の船が、風と波にもまれているのが誰にも見えていたからであった。空が明るくなって来た頃に役人達から、その船に乗る様に命令が出たのである。一行は誰もが渋々その命令を受け入れた。処刑で殺される事と、船に乗せられて沈没する事とは、全く意味が違うのである。だが一行の乗り込んだ船は、岬を離れて直ぐ帆を上げる事も出来ず、博多湾の中を強い風に流されて行ったのである。それでも辛うじて転覆は免れたが、一行は波しぶきで濡れてしまい、その船は博多湾の今宿の海岸に乗り上げたのであった。処がその海岸では宣教師や修道士などが、バプチスタなどの一行を待ち受けてくれたのであった。処刑されるキリシタンが博多に向かった事は、既に彼らには知れ渡っていたからであった。一行は濡れた体のまま九州の宣教師に歓迎され、手厚く迎え入れられたのであった。
 この時、パウロ三木は出迎えた宣教師に、自らが磔になる前に御聖体を拝領できる様に、とした手紙を長崎へ届ける様に頼んだのである。その後一行は名護屋に向かう予定を変え、二里先の加布里村まで歩かせられ外た翌日に、再度海路を唐津に向かう事となったのである。玄界灘に突き出た糸島の半島を迂回して、冬の外海を船で渡るなどとは、都や大坂に居る役人の考える事であった。キリシタンに知られない様にとした目論見さえ、全くもって無駄となっていたのである。しかしとにかく翌日の午後、こうして一行は唐津の湊に着く事になったのである。だが役人達の命令は、暗くなるまで船の外には出ではならないと言う命令であった。彼ら一行は揺れ動く船底で、暗くなるのじっと待ち続けたのであった。

 処が唐津の湊に着いたその夜の事であった。一行には思いがけない嬉しい出来事が待っていた。この唐津では豪商とも呼ばれた材木問屋を営む木屋利右衛門宅から、役人共々当家に泊まって頂きたいと言う招待があったのである。利右衛門は泉州堺の出であった。六年前の天正十九年から名護屋御陣材木運搬の船頭(ふねがしら)として、この唐津に移り住んでいた居たのである。元々は信長が一向宗との戦いに明け暮れていた頃に、戦の後は材木が必要になるであろうと、当時信長の配下であった秀吉に近づき、その商才を開花させた先を見る商人でもあった。
 それに利右衛門が故郷の堺で商いをしていた頃、良く訪ねたのが堺でも屈指の豪商、日比屋了桂宅でもあった。それはフランシスコ・ザビエル神父も堺の日比屋了桂の屋敷に逗留した事もあり、キリシタンとは縁のある商人であったのだ。この夜、一行には風呂に入る事が許され、更に一日の休みが与えられた。そして新しい着物も揃えて貰ったのであった。しかし誰もがその袖に腕を通す事は無く、ただ利右衛門の気持ちだけを押し戴く様に受け取ったのであった。
 唐津でのこの突然の出来事は、彼ら一行にはその嬉しさを言葉には表せない程であった。彼らはその感謝の気持ちに代えて、屋敷の中でミサを開く事にしたのである。
 当初の予定では博多湾の志賀島から舟で玄界灘を渡り、呼子の名護屋まで行き、そこから歩いて唐津まで行く予定になっていた。しかし強い風の為に名護屋には行く事も出来ず、少しの時間が生まれた為に唐津での休息となったのである。
 
 翌日、一行が唐津から伊万里に向かう途中であった。長崎までの護送役の引き継ぎが行われたのである。この役目を任せられたのが奉行の寺沢半三郎と言い、兄は肥前唐津城の城主、寺沢志摩守であった。しかも一行の中にはこの寺沢半三郎の幼友達であったパウロ三木が居たのである。
 パウロ三木は摂津の生まれである。父は三木半太夫と言い、三好氏に従う信長時代の武将である。三好氏は鎌倉時代の終わり頃から名前の出て来る家系であり、信長が十五代将軍足利義昭に奉じて都に上がった頃、父の半太夫がイエズス会の信仰に惹かれ洗礼を受け、その折に幼い息子のパウロも洗礼を受けたのである。寺沢半三郎と知り合ったのもその頃で、処刑する側とされる側が幼友達同士であったなど、互いに考えてもいなかった事の様でもあった。
 更にもう一つ、奉行の半三郎を驚かせた事があった。あの幼いキリシタンの子供達であった。書き送られて来た書類には、出生と名前だけであった。キリシタンとは言え、幼い子供達を処刑する役目に、半三郎は悩み始めたのであった。それ故に半三郎は伊万里へ向かう道々を、何ゆえに子供達が捕えられたのか、子供達は何故処刑を受けいれたのか、秀吉が棄教すれば命は助けると言った言葉を頭に、自らの養子縁組まで持ち出して聞き出そうとしたのである。
 しかし、子供の心とは言え頑なであった。束の間の命と永遠の命と取り替えられないと、はっきりとした意志を示していた。未だ年端も行かない子供達の口から、信仰を信じ切った返事を聞いた時、半三郎はこの子供達を導いた信仰の怖さと共に、そこまで信じ切れるものが何もない自らの事を思った。自らの信仰をこの子供達から見れば、曖昧さが漂うどころか、信仰とは名ばかりの単に手を合せるだけの事と言ってよかった。その程度の信仰しか持ち合わせていない自分が、遥か年下の子供と語りあえない恥ずかしさに、半三郎は全てを諦めたのである。

この日、バプチスタは長崎のフランシスコ会宛に手紙を書いている。手紙を書く事もこれが最後になるだろうと思えた。それ故に仕事の引き継ぎや、同じ宣教師の行方、そして都で心配してくれているであろうコスメの事などであった。
 「敬愛する兄弟たちよ、イエスが何時も私たちと共にいらっしゃいますように。信者の慰めの為、フライ・ジェロニモが大坂に残る様にしました。彼は今潜伏しています。そうでなければ一日、あるいは二日も経ないで捕えられるでしょう。フライ・ファン・ポブレは、サン・フェリペに乗って来たスペイン人達と一緒にいます。太閤様が彼らについて、どの様に決めたのか分かりません。(中略) 道の途中でフライ・ジェロニモ、オルガンティーノ神父、モレホン神父に手紙を書きました。
 フランシスコ・ロドリゲス・ピントさんへその手紙が届けられたか否か、判りません。管区長への手紙は非常に大切です。その手紙には我らの兄弟、コメスに太閤様がサン・フェリペ号の船荷を没収しない様に、ある大名に取り継を願って贈り物を差し上げる様、私の勧めによって貸してもらった百四タエスをコスメに支払う様、頼んであります。このお金は乗船していた人が払うべきもので、我らの家にいたクリストバル・デ・メルカドさんが、コメスに与えたお金を頼む事に賛成し、自分がそのお金を受け取ると約束しました。他の手紙で、これ以上、六タエスが必要であると書いていましたが、その六タエスは支払済みですので、コメスに返すのは百四タエスだけです。略 」
 フライ・アグスティノ、フライ・マルセロ、フライ・バルトメロ、さよなら。天国まで私の事を覚えていて下さい。この道から 今2月2日1597
キリストにおいて皆さんの兄弟 フライ・ペトロ・バプチスタ
 
 小倉城近くの常盤橋に美代が九州の地に降りたのは、与助達一行が夜半に出発した翌日であった。美代はさっそく近くの宿や店を聞き廻った。だが誰もその様な一行が歩いて行ったなどと耳にする事は出来なかったのである。
 長崎街道はここから黒崎、木屋瀬、飯坂を経て嬉野から俵坂峠を越え、彼杵から大村湾沿いの街道を永昌、諫早を経て長崎となる。その距離は五十七里、歩いて六日から七日の道程であった。それだけに見事に行方を消し去ったのは、何か事情があったのだと思わずにはいられなかった。だが与助達一行が、長崎に向かっている事は、まず間違いのない事であった。長崎以外に与助達一行を処刑するには、意味は一切ないからである。
 とにかく長崎に早く着く事であった。そこに着けば間違いなく与助に会える、声を聞く事が出来ないにしても、姿は見えるはずであった。それは与助も同じはずだと思えるのである。「お前が死ぬのを怖いと思うなら、一緒に逝ってやろう」と与助の言ってくれた言葉に、今、美代は素直に頷きたいと思っていた。

  
 【二人の対談】
 慶長元年十二月十七日(1597年2月3日)、佐嘉の柄崎宿(武雄市)の外れにある古い寺の庫裡であった。既に夜半近い時刻にバプチスタを訪ねて、一人の男が訪れたのである。名前はルイス・フロイス、イエズス会の元宣教師であった。既に宣教師の職を解かれ、今はイエズス会の活動やこの国の出来事などを、インドのイエズス会を経由してローマ教会に書き送る事を使命としていた。それに既に信長や秀吉などとも面識があり、自らはそれらを纏めた「日本史」を、イタリアで出版したいと願っても居た男である。歳は恐らく自分より十歳は多いとバプチスタは思った。
「正直に申しますが、この様な時期にあなたとお会いできました事、本当に驚いています。もし会派を越えて話したい人と言えば、この国に於いて真っ先にフロイス殿を指名したと思います。それほど一度はお会いしたいと思っておりました。しかし宣教師を辞められたイエズス会の貴方様が、こうした場所に役人の許可を得て来られるなど、この国に来てから今だ数年の私には、想像すら付かない出来事なのでございます」
 少し棘のある言葉になったかもしれない、と言い終えたバプチスタは思った。しかも夜半のこの様な時間に訪ねるなど、表沙汰には出来ない事のはずであった。
「突然の事にてさぞや驚かれたかと思います。何分御赦しを戴けます様に。御不信はバプチスタ殿の御推測通で御座います。実はかつて、信長殿の配下でもおられた秀吉殿が、近江長浜に城を構えた頃からのお小姓役が石田三成殿でございました。
 ですからその信長殿の時代から、私共と三成殿とは大変懇意にさせて戴いております。この一件でも秀吉殿のご意向とは別に、当初五十名と示された処刑される者の人数を、半分程に減らして頂いたのも三成殿の配慮、都の戻り橋で片耳の半分で良しとして、何とか形だけのものにしたのもその様な繋がりがあったればこそ。私がこの様にあなた様にお会いできるのも、三成殿から役人達に便宜を図る様にと、書状を戴いて居るが為でございます。
 しかし今夜バプチスタ殿の元にお伺いいたしたのは、是非ともバプチスタ殿から直接に、今回の事件に関わるお話を伺いたいと、やむに止まれず参った次第で御座います。更にバプチスタ殿がお考えの信仰のお話など聴かせて頂ければと、尤もこれ等は極めて私の個人的な気持ちで御座います。ですが今伺う事を逃してしまうとなれば、私は自らの生涯に於いて、悔やみ続けると思えたのでございます。何卒失礼な事、御赦し戴きます様に」
 フロイスは齢下のバプチスタに向って深々と頭を下げ、赦しを乞うていた。

「私共は本来、異なる会派の方との信仰のお話は、してはならぬ決まりがございます。しかしフロイス殿はそれでも聴きたいと言われるのでしょうか?」
「左様で御座います。既にイエズス会の宣教師を辞しておれば、この度の出来事については是非とも、お聴きしなければならないと思っておりました。何故なら今回の出来事は、その原因や動機が何であれ皆様方が神に選ばれ、そして我らイエズス会の三名の者達も一緒でございます」
 フロイスは心底バブチスタの想いを聴きたいと思っていた。
「この度の出来事とは、私共サン・フランシスコ会の宣教師や信徒を含めた、処刑に行きつく秀吉殿の企てがその全てかと思いますが、フロイス殿はどの様は如何思われるのでしょう」
「はい、恐らくそのきっかけとなりましたのは、我らのコエリュ殿が博多にて、秀吉殿と面会の折の折に軍船を見せ、尚且つ九州の諸大名を我がしもべの様なお答えをした事、小西行長殿から後で大変問題のある発言としてご指摘を受けております」
 バプチスタにとって初めて聞く話であった。

「ならば何故、サン・フランシスコ会の者達がこの様な事態に引き込まれたのか、フロイス殿はどの様に理解されているのでしょう? 」
「イエズス会のフランシスコ・ザビエル殿がこの国での布教を初め、既に五十年が過ぎております。私でさえこの国に参りましてから、既に今年で三十四年でございます。その私が布教を始めてからこれまでの間、この国の変わりゆく王達を見つめ、更に地方の王達など多くの方々のご意見を伺い、これまで信仰を広めて参りました。そのイエズス会は元々が、どこでも同じ手順での布教を行っております。まずはこの国の最高権威でもある天皇を教化し、この国の隅々へと信仰を広める事を目的にしておりました。ですがその天皇の権威は地に落ち、将軍職にあった足利義輝殿に謁見を戴き、やっと都での布教の許可を得る事が出来ました。
 しかし布教の許可を頂いた足利義輝殿も永録八年の五月に、松永久秀殿によって暗殺され、七月には正親町天皇の論旨によって「おおうすはらい」(デウス払い)が行われ、我らの布教が都では出来なくなってしまいました。

 つまりキリスト教はこの時、この国の天皇によって、最初の「大うすはらい」という、伴天連追放が行われたのでございます。その後は布教の出来ない都を去って、宣教師達は堺などに移り住み、新たな王の出現を待ち望んでおりました。そして尾張の織田信長殿の出現によって、足利義昭殿が将軍職となられ、宣教師達は都での住まいと布教の許可を再度手にしたのでございます。
 この間、仏教の僧や公家の者達による宣教師の追放運動は激しさを増しており、ついに信長殿から「案ずる事は無い、内裏も公家様も気にするには及ばぬ、全て予の権力の下にあり、予が述べる事のみ行い、汝は欲するところに居るがよい」との言葉を得る事が出来たのでございます。ですがその信長殿も明智殿に裏切られ、本能寺以降の布教はまさに混沌としておりました。
 あの十年前に秀吉殿が出された伴天連追放令は、それ故にイエズス会では畿内での活動を再度自粛し、今度はその畿内を去って九州での布教に留める事に決め、秀吉殿のご意向に留意し慎重に進めて来たので御座います。しかしバブチスタ殿のサン・フランシスコ会の布教は、これまでの駆け引きや反対勢力の意図などと共に、そうした秀吉殿の思惑を遥かに超えておいででした。我らは又この国の王が変わるかも知れないと言う予測の下で、布教に重きを置いて居たのでございます」
 フロイスの言葉にバプチスタは静かに頷いていた。

「フロイス殿の言う通り、確かに我らの布教は性急過ぎていた様に思います。三成殿と牢でお話した時も、この様に言われた事がございました。何故に他の信仰と調和して行かれぬのかと、そして又この様に言われました。そなたの国にはこれ程様々な神仏の信仰は無いであろう、我らが一たび信仰を許せば同じデウスの名の元に、異なる会派が我も我もと続き、この国に押し寄せて来るはず。それらが互いに憎しみ合う以上、混乱を招く信仰は不要である、と申しておりました」
 二人の間にはしばらくの沈黙が続いていた。やがてフロイスはまるで他人事の様にバプチスタに語ったのである。
「本来なら、バプチスタ殿が言われる様に、私達はこうして互いの信仰の話などは、決してすべきではないのでしょう。ですが今夜、あなた様とお会いした事は一切無かったと言う事で、私達は互いの心の内を出し合う事が出来るなら、私は互いに取って意味の有る事の様にも思うのですが、如何お考えでしょう? 」
 フロイスは、同じキリスト教のカトリックでありながら、異なる会派の宣教師としての規律を頭に浮かべ、バプチスタの返事を待った。
「あなたがこの話をお国の方に届けないと言う御約束がいただけるなら、私もぜひ心の中の全てを、洗いざらいお話したいと思いますよ」
「結構です、御約束致しましょう」
 フロイスは一人のキリスト者として自らの心の内を出し、バブチスタの心の内を知りたいと思った。二人が向かい合った間の囲炉裏の火が、すでに
消えかけていた。バプチスタは細い枝を折ると、消えかけた火種のような炭火の中に突き刺した。まるで二人の関係を物語る様だとフロイスは思った。
枝に火が燃え移ると、又数本の、今度は少し太い枝をくべたのである。
「すっかりと、こうして火を熾すのが上手くなりました」
 苦笑しながらの冗談とも思える一言が、フロイスの胸を刺した。あと僅かで目の前のバプチスタは処刑されるの身の上であった。

「そう言えばフロイス殿にお尋ねしたい事が御座います。実はこの一行の中にマチアスと言う信徒がおりまして、その妻が近江より長崎に向かっているはず、最後に見かけたのは備中本郷の宿場ででした。その様な女性を、お見かけになってはいないかと思いまして・・・」
「生憎と、私も小倉から一行の後を追いましたが、まさか博多に向かうとは思ってもおらず、そのままこちらに参ってしまいました」
「ご心配をお掛けしました、どうぞお忘れください。処でフロイス殿はポルトガルのご出身とか」
「はい、ポルトガルのリスボンでございます。しかし私の事よりバプチスタ殿の事を、私は余りよく存じてはおりません。その辺りの事からお話して頂くと・・・」
 フロイスはバプチスタの人柄も知りたいと思えた。同じヨーロッパのイベリア半島から、自らは大西洋を南に下り、喜望峰からインドを経てこの日本にきたが、バプチスタは大西洋を渡り、ヌエバエスパーニャ(メキシコ)を経て日本に来た筈であった。しかもその二人が、東洋の端にある日本の片田舎で、夜更けに話しているのが酷く不思議に思えて来たのであった。
「私が生まれたのは丁度イベリア半島の真ん中あたりでしょうか、カスティーリア地方のアビラ県になります。大學はサラマンカ大学の哲学と神学を修め、サン・フランシスコ会士になりました。産まれは1542年ですから、今年で五十四歳になります。フロイス殿は御いくつに? 」
「私は今年で六十五歳となり、あなたとは十歳程も齢上です」
「それなら私よりも年長者、ですが私はあと数日の命で、これ以上はどうしても難しい。しかし私もあなた達も、この国に来て何か追い立てられるように、必死に信仰を広げていた様に思うのです」
「確かにその通りです」
 フロイスも身に覚えのある事であったから、思わず頷いたのである。

「時々私は思う事がございます。まるで信徒の数を競うように、その数が多ければ多い程に、我らの神は我らだけに微笑んでくれると思い込んでおりました。私が都を離れる日に、三成殿が言った事がございました。あのガリオン船サン・フェリペ号の遭難した者の中に、ポルトガル国王とスペイン国王が、ローマ教皇のとりなしで取り交わしたと言うトリデシリアス条約、つまり大西洋の真ん中を中心に、東をポルトガルが西をエスパーニャが、その未開の国をわがものに出来ると言う百年も前の取り決めが、今でも生きて居ると言う事に驚いたのでございます。ヨーロッパ人の持つ傲慢さに私は、ただただ哀しく情けない気持ちを感じたのです。しかし我が身を振り返った時、私達はこの国の信仰でさえサタンと罵り、直ぐに捨てる様に迫った事を覚えております」
 嘆く様に顔を曇らせたバプチスタは、目の前のフロイスを見つめ、まるで投げつける様に言った。
「実は私も驚いた事実が御座います。既に十七年前にもなりますが、私の上司であったアレッサンドロ・ヴァリニャーノ殿が長崎に居られた時、フィリピンの提督であったフランシスコ・デ・サンデー殿に充てた書簡が長崎に戻ったのを、偶然にも読んでしまった事がございます。海水に濡れた多くの書類を整理していた時の事で、内容は確かこの様なものだったと記憶しております。

『私は閣下に対し霊魂の改宗に関して日本布教は神の教会のなかで最も重要な事業の一つである旨、断言する事が出来ます。何故なら日本国民は非常に高貴かつ有能にして理性によく従います。尤も日本は何らかの征服事業を企てる対象には不向きでございます。何故なら尤も国土が不毛で、且つ貧しい故に、私共が求めるべきものは何もなく、又国民は非常に勇敢で、絶えず軍事訓練に励んでいます。しかしながらシナに於いて、閣下が行いたいと望んでいる事の為、日本は時と共に非常に益するこことなると思われます・・・・』

 とこの様な内容でした。この(日本は不毛で我らが求めるべきものは何も無く)とは、一体何を指すのか私は今でも真実を知るのが恐ろしくなるのです。私の上司でさえ信仰を離れて、軍事訓練を積んだ勇敢な日本人が居なければ、私達はポルトガル国王の名で、この国を植民地にしていたかもしれないのです」
 言い終えたフロイスは、小さく深いため息を吐いた。
「フロイス殿、私達は同じイエスの御名を口にしながら、互いに話すこともせず自らの耳を塞いでいるのは、何処か間違いの様な気がするのです。恐らくはプロテスタントと呼ばれるキリスト者も同じかもしれません。何故なら神はこの幾つも散った信仰を、決して喜んでは居ない筈。しかし何故神は沈黙を守っていなさるのか」
 嘆く様なバプチスタの切なる願いであった。
「バプチスタ殿はどの様にお考えかは存じませんが、私達の信仰が、これ程に国家や国王と密接に結びついていると、思ってもいなかった事です」
 フロイスは自らの心の傷と痛みを語ったのは、このバプチスタだけであった。

「私はしばらく前から気が付いておりました。そう、私が都の教会に居た時でした。マチアスの妻、美代殿が言われた事がありました。この国の多くの者達は、路傍の石の地蔵に手を合せるのだと、地蔵は仏教の地蔵菩薩と言う仏の事ですが、この国のものは誰もが難しい事を考えるのではなく、ただ多くの者達は昔からあるものを大切にしているだけなのだと、野辺に置かれた石仏に手を合せる信仰と、信仰を広げる為に国家を挙げて遥かな地の果てに向かう我々と、この余にも大きな違いを感じています。信仰の強さや確かさは、資金の額でも信徒の数でもございません。美代殿が夫のマチアスに語った話で気付いたのは、数は量を示しても、決して質を示している訳では無いと言う事なのです」
 フロイスはバプチスタの心の中に、これまでのサン・フランシスコ会には無い新たな見方を抱いて居る様に思えた。
「これまで私たちは、その数だけを競っていた事は確かでしたね」
ぽつりとフロイスは、納得したように言った。静かな夜の冷たさが二人を包んでいた。
 バプチスタは更に言葉を選ぶ様に語り始めた。

「もし私の話す事が違っているとするなら、ご遠慮なくご指摘ください。私がこれまで学んだ信仰、つまり本来私共の信じるキリスト教は、ユダヤ教から別れた信仰ででありましょう。旧約聖書は新約聖書の源であると同時に、旧約聖書はキリスト教だけでなく、寧ろユダヤ教の聖典そのものでもあるはず。イスラム教徒ですら我らの聖書の一部は、信仰の対象となるもの。それらの三つの信仰の聖地が同じエルサレムにあるのですから。

 ユダヤの聖地であったエルサレムの神殿が、ローマ帝国の十字軍の手によて破壊されて以降、神殿祭儀を中心にしていたユダヤ教は、集会や書物から学ぶ事を中心に広がったもので、言い換えればその旧約聖書に描かれた内容を、一つに纏める事が出来なかったところから、新たに私たちの信仰が生まれ、そして今やプロテスタントやカトリックに別れて、更にイエズス会やサン・フランシスコ会にも別れたと思うのです。
 それは書かれたものも伝えるられたものも、或いは国によって言葉が異なる場合や、時々の信仰を支える者によっても解釈が変わり、新たな会派が分かれて行くので有ろうと思うのです。それにイエズス会でさえ堕落した聖職者達に見切りを付け、ローマ教会の有様に嘆き憂いてイエズス会を創立したのではありませんか?
 まったく同じ様に姿を、この国の仏教からでも見る事が出来ました。この仏教と言う教えは正直、全てが聞いたお話ですので、正しいかどうかは分かりません。しかしその流れだけは間違いない事だと、申し上げるのです。

 一千年前の天竺と呼ばれたインドの信仰は、明国の遥か先のガンダーラから伝えられた釈迦の教え。しかしその教えさえ唐の地に届く途中、西域では契丹や蒙古の言葉に換えられ、更に明国に入って漢語へと書きかえられ訳されていったもの。この国の最澄の天台宗ですらその元は大乗仏教からの流で、今やそれが浄土宗、浄土真宗、臨済宗、曹洞宗から日蓮宗へと、幾つもの宗派へと分かれてまいります。つまりインドの公用語であったサンスクリット語の経典が、幾つもの国の言葉に訳され新たな経典となり、またその経典が訳された新な国の経典や言葉になると言う、それがこの国の信仰の姿でもございました」
 消えそうな囲炉裏の中に、バプチスタは又木の枝を折るとフロイスの顔を見て語り始めた。

「フロイス殿が信長とお会いしていた頃の事ですが、ご存じでしたらお許し下さい。実は1572年8月つまり二十五年前の事ですが、聖バルテミルと呼ばれる虐殺事件がフランスのパリで起きております。およそ殺された人の数は二千とも三千とも言われておりますが、殺したのはカトリック教徒で、殺されたのはユグノと呼ばれていたプロテスタントの信徒でございました。この事件が虐殺と呼ばれたのは、殺した後にその死体を切り刻んだと言う事が起きたからで御座います。
 人間は自らと異なる信仰を持つと、そしてそれが集団となると、何と愚かで恐ろしい生き物になるのかを、はっきりと示す出来事でした。そして今でも、ユグノ戦争と呼ばれるこのカトリツクとプロテスタントの争いは、未だ終わってはいないのです。

 この様な時代の中で私が強く思うのは、八十年も前に宗教改革を唱えたマルチィン・ルターが言う「キリスト者の自由について」と題する書物の中で語った「キリスト者は自由に福音(キリストの生涯と言葉)に近づく事が出来なければならない。彼は何人も服従しない代わりに、全ての人間に奉仕する。愛である神を信じれば、神への愛と隣人への愛しが、おのずと生まれる。まず信仰あり、つぎに行いあり」と言う一文が何時も心を揺らしているのです。カトリックでいながら、プロテスタントの彼の言葉を。しかしプロテスタントの彼も又イエスを信じている。彼の言うイエスと私の思うイエスは同じでないのか? と云う事なのです」
 一呼吸置くと、バブチスタは更に言葉を続けた。
「私は向こうの部屋で眠りについているマチアスの言葉、主を信仰する者の一人一人が主の教えを考え、そして悩み理解し、その命の輝きを増す為の支えとする事こそ、私達の信仰の最も自然な姿ではないのかと、そう思える様になったのです。もし、人々が真に救われるとするならば、まず自らが悩み、考えて行動する者だけに与えられるものだと、その様に私も思うのです。それ故にこそ、信仰が自らの意志とは異なる理由で得られたのであれば、それこそ信仰とは無縁のものでありましょう。信仰とは与えられるものでは無く、欲したもの、自ら望むものでなければならない筈。
 私はこの国に来て、僅かな期間でしか布教する事は出来ませんでした。しかし私は私の持つ信仰に対して、多くの事を教えられた気がします。我らの信仰こそが善だと思い込み、傲慢にも我らは国王や教皇の意志で動き、神の御意志を疎かにしていた様に思います」

 初めてバプチスタは微笑みながらフロイスを見ていた。そのフロイスは、多くの奴隷が集められた長崎での出来事を思い出していた。彼らはみな秀吉によって捕えられ、日本に運ばれた朝鮮人の女や子供であった。そこには鼻を削ぎ落された兵士らしき者もいたのである。
 今度はフロイスが囲炉裏の火をみつめながら、静かに語り始めたのてある。

「実はこのサン・フェリペ号の遭難を知るまで、私は長崎におりました。遭難は元々がエスパーニャの船の事、イエズス会が顔を出すまでの事ではありません。しかし長崎では秀吉殿の朝鮮出兵の所為で、まるで朝鮮人の奴隷市場の様な状態と化しており、私はその奴隷となって売られて行く朝鮮の人たちに対して、次から次へと洗礼を授けておりました。昨年(1596年)は千三百人程に洗礼を授けておりますから、恐らく日本に連れて来られたのは、二万人~三万人程かと思えるのです。
 かつて秀吉殿は日本人の奴隷の事をポルトガル人に問い正し、強い言葉で非難し憎悪をお持ちの様でした。しかし事が自らの国の民でない、朝鮮人を奴隷として連れて来ているなど考え合わせますと、この国の民は所詮秀吉殿の所有物として、考えられていたと言う事になろうかと思います。
 処でローマカトリック教会では、布教の正当性の根拠として、自然法に反する重大な罪を犯す様な野蛮な悪習を守り、それを止めようともしない者の土地を占領し、武力で服従させる戦争は正当だと表明しておりました。であれば、本来この野蛮な行為を止める事こそ、私共の使命のはず、しかしそれを認め放置し、尚且つ信仰を与える事で救ったなどと言う思い上がりに、私は自らの行いに恥じる様になりました。教皇や教会が奴隷を正当だと評しても、私はそうは思えないのです」
 フロイスの言葉が終わると、バプチスタは慰めにもならない言葉で締めくくる様に言った。

「どの国でも同じでしょう。王達はたしかに時には弱い者達を憐れむ事があるにしても、その向こうに目指すのは自らの栄華であり、国家の繁栄でしょう。ですから信仰を王に委ねる事こそ、私は最も恐れなければならないと思っているのです。政が信仰と重なる時は、何れの国もそう長くはないでしょう。私達が求めてやまなかった信仰は、力や欲望の中で育つものではありません。その事をこの国の人達に知らせて貰えたと思っております。
 明日、言いえ今日のこれからの事で御座いますが、肥前国佐嘉藩と大村藩の国境、俵坂峠を越え舟にて彼杵から、大村湾を渡りやっと明日が長崎です。もし私に心残りがあるとするなら、都に残してきた信徒の事と、お話致しましたマチアスの妻美代の事でしょうか。ぜひともこの事あなた様の記憶の中に留めて頂き、何時の時代かに生きる方々へお伝えして頂ければと思う次第でございます。この事くれぐれも宜しくお願い致します」
 幾つもの小枝を集めたバプチスタは、囲炉裏の中に放り込んだ。それは別れる前の最後の儀式の様であった。 
「バプチスタ殿、沢山の心に響くお話をお聴きする事が出来ました。ありがとうございます。あなた様のこれまでの道程は、私にとっても頷く事ばかりでございました。しっかりと記憶に留めておきたいと思います。そしてあなた様のお考えの事、いつの日にか、必ずやその様な時が来ると信じております。間もなく夜も明けてまいるでしょう。いくら石田殿の書状があるとはいっても、役人達にとっては迷惑な事。この辺りでイエズス会の私の仕事に戻ろうと思います。神の御恵みを」
「私の方こそ長々と、心からお礼を申し上げます。私もサン・フランシスコ会の宣教師として、僅かに残された時間ですが他の皆さまを、神の国へお連れしなければなりません。ぞうぞお体を労り、一層の良いお仕事をお続けくださいませ。どうぞお元気で。 あなたに神の御加護が有りますように」

「そうでした、最期に一つだけお尋ねしたかった事があります。大坂で捕えられたイエズス会の方々は、なにかの手違いでは無かったかと、今でも思って居るのですが」
バプチスタの最後まで気になっていた疑問であった。
「その事でしたか。おっしゃるように当初は全てフランシスコ会の方々だけでございました。選んだのは三成殿、しかし二か月程前の十二月十二日に秀吉殿から、イエズス会の宣教師が含まれてはおらぬと指示をされたとか・・・」
 バプチスタは黙ってうなずいた。

 ルイス・フロイスとペドロ・バプチスタと別れたのは十二月十八日明け方であった。別れの言葉を残した後に、バプチスタはフロイスに声をかけた。
「彼杵の浜で、私はマチアスを紹介しますよ。彼の肩を抱いてね。それでは、ごきげんよう」

  
 【磔】
 佐嘉藩と大村藩の国境にある俵坂峠は、これまで越えて来た山陽道の峠から見れば、さほど坂道の厳しいと思える峠では無い。しかしこの峠の道には俵石と呼ばれる六角の岩が随所に露出して、素足で歩く一行には、これまでのどの峠よりも足を痛める道であった。旅人も足許を見ながら歩かねばならず、長崎街道一の難所と言われる事に頷くものがあった。
 フロイスはこの峠で、バブチスタ一行が来るのを待ち構えていた。先頭を行くバプチスタと目が合った時、二人は互いに軽く頭を下げただけであった。既に十分に二人は語り合い、あの時間を共に過ごした親しみを心に、フロイスはその一行の後に続いたのである。
 二十六名の宣教師や信徒、そして役人達がこの峠を越えたのは四日の昼過ぎの事である。時折眼下に広がる大村湾の海を望み、幾つかの部落を通りて細い川沿いの街道を下ると、大村湾に面した郷浦田と呼ぶ浜辺に着いた。冷たい北風の吹く、陽も西に傾き始めた夕刻の頃であった。浜には既に艪漕ぎの三艘の舟が、彼杵川の河口近くの浜辺で彼らを待ち構えていたのある。
 艪漕ぎの舟とは言っても其々舟の左右と後方に、併せて三つのの艪を持つ船で三人の船頭が漕いで行くのである。それは折からの北風に押される様に、一気にこの大村湾の対岸に彼ら一行を運ぶつもりであった。更に其の浜辺には、長崎から来た神父や数人の信徒達が集まり、一行を出迎えていたのである。
 この一行の全員が舟に乗り込む前に、イエズス会のパシオ神父やロドリゲス神父は、御ミサを捧げようと用意して待っていたのである。パウロ三木が博多から送った手紙の中に書いた、その希望に沿うようにと用意したのであった。処が役人は時間が無いとそれを拒否し、パウロ三木は半三郎からは御聖体拝領の許可を得ているとして、互いが言い合いとなってしまった。半三郎はこの時、既に早馬で街道を長崎に向けて発っていたのである。
 近くに居たパシオ神父からの声で、彼杵で御ミサが出来ない場合は長崎で行うとした副管区長からの言附けを聴き、パウロ三木はやっと納得したのであった。
 
 この時バプチスタは、イエズス会のジョアン・ロドリゲス神父の前に立ち、詫びと礼の言葉を伝えたのである。
「バプチスタで御座います。私達は処刑を延期される事も無く、直ちに執行されるかもしれません。それ故にその前に謹んで副管区長及び他の神父の皆様に、私と私たちがお掛けしたご迷惑を、どうか御赦し下さるようにお願い致します」
 その言葉を聴いたロドリゲス神父は、バプチスタ神父の肩を抱き寄せて言った。
「私達イエズス会も同じでございます。私たちはお互いに自分たちこそ善い望みを持ち、善い目的を目指して努力していると確信しておりました。それ故に相手からの言葉に耳を貸さず、私共の方こそご迷惑をお掛けしていたのかも知れません」
 二人はこの時、初めて互いに自らの過ちを相手に伝え、涙ながらに互いの手を握ったのである。相手に赦しを乞うとはキリストの名を語る彼らの信仰に於いて、最も大切なそして重要な要素であった事に、改めて気が付いた様でもあった。そしてその謙虚さを持ち続けなければと、そこに居た者達の誰もが思ったのであった。
 バプチスタはその時マチアスの傍に行き、その肩を抱いて、少し離れて見て居たフロイスに向かって片手を挙げた。それはまるで後は頼みますとでも言う様な、微笑みに満ちた顔であった。 
 宣教師と修道者以外の者達は手を後ろで縛られ、その縄を首にまで巻いて舟に座る事を役人に求められた。何かの拍子で舟が横になろうものなら、彼らは一たまりも無く海の底へと沈む事になる。処刑直前で心を変えるかも知れないと考えた役人達の、初めて扱う理解出来ない罪人への対応であった。やがて三艘の舟に乗せられ、一行は対岸の時津の浜に向け、陽の落ちかけた海に漕ぎだしたのである。
 自らの信仰を棄てず、その意志を全うしようとしている二十六名全員が舟に乗り、漕ぎ出すのを見送った後の事であった。長崎から来ていたロドリゲス神父達と共にフロイスは、急いで又長崎に向かって舟を出したのである。
 フロイス等を乗せた船は、時津には向かわなかった。岸沿いに諫早を目指したのである。諫早から長崎に向かって矢上宿から日見宿を通る長崎街道であった。

 二十六名の者達を乗せた三艘の舟が、時津の浜に着いたのは既に夜半の事であった。この時、偶然ではあったが、あのサン・フェリペ号に乗っていた乗組員達が故郷のエスパーニャに帰る為、この時津の旅籠に投宿していたのである。だが彼らはバプチスタ等を運ぶ役人達に追い払われ、歩いて長崎に向かう羽目になったのである。
 だが舟で着いた一行も朝まで浜に上陸する事が許されず、薄い藁で編んだござを肩に掛け、朝まで狭い舟の中で身を寄せ合い寒さを凌いでいたのであった。
 十二月十九日の朝であった。役人達に起されて時津の浜に降りた一行は、そのまま長崎までの二里の道を歩く事になった。その距離が、その時間が彼ら一行の残された時間でもあった。既にこの時には途中から一向に加わった、イエズス会のペドロ・助四郎とフランシスコ吉も処刑を希望し、長崎での磔が決まっていたのである。

 彼ら一行が長崎の浦上にある、イエズス会のらい病診療所に着いた時であった。前日に彼杵まで出迎えてくれたパシオ神父が待ち構え、彼ら一行に労いの言葉をかけたのである。パシオ神父も又夜を徹して急いで長崎に戻り、パウロ三木が求めたイエズス会の三人に対して、告解する準備をしていたのである。
 しかし彼ら一行は、まるで磔になる者とも思えない程に、明るい笑い声や喜びの声を上げていたのである。それは寺沢半三郎と交わした約束の、イエス・キリストが処刑された金曜日に、自分たちも処刑されるものだと信じ切っていたからであった。この日は西暦で言えば二月五日、水曜日であったからである。だが程なく半三郎からこの日に処刑を行うとの知らせが届き、診療所では慌ただしくパシオ神父の告解が始められる事となった。
 半三郎にしてみれば、長崎はまさにキリシタンの街であった。湊にはポルトガル船が停泊し、身なりや肌の色のちがう異人達も頻繁に見る事が出来た。街の人々は処刑される彼らの死に方を名誉に思い、処刑をきっかけに大きな混乱が起きるかも知れないと言う不安があった。
 もしそうなれば、太閤はその責任を自分一人ではなく、兄が藩主である肥前唐津藩の取り潰しまで平然とやられると思えた。半三郎は急いで長崎の街の者を全て対象にした、禁足令の御触れを出したのである。だがその禁足令は殆ど効果は無かった。今日にも処刑が行われる事が知れ渡り、人々は処刑地である西坂の丘に向って、彼らの処刑を見る為に向かって集まったのであった。

 西坂の丘は長崎を含めた近在の処刑場として、以前から罪人の処刑を行っていた場所である。そこには既に二十六本の十字架が横たえられ、一行の到着を待っていた。やがて神父や多くの信徒達と共に、一行が刑場にその姿を見せたのである。この時、長崎に居たポルトガル人の宣教師から、犯罪人と同じ場所での処刑に対して、激しい抗議を半三郎は受けたのである。禁足令は既に全く意味をなさなかった。まるで処刑の十字架を囲むように、処刑の見物する人々が集まって来たからであった。
 やっと半三郎は抗議の声を聞き届け、道の反対側にある長崎の湊を見下ろす場所で、処刑を行う事を認めたのである。矢来を動かし、十字架の柱を入れる穴を開け終えたのはこの一刻も後の事であった。
 十字架とは不思議な意味を持つ信仰の印である。この磔に使われた白い杭の形が、そのままキリスト教を表す形であり、多くを語る必要のない意味を持つ姿であった。イエス・キリストが処刑された様に、彼ら二十六名もまた、そのキリストの姿に似て処刑されようとしていた。彼らは既に自らが磔にされる十字架の前に立ち、その誰もがキリストの死と自らの死を重ね合わせ、じっと祈りを捧げていたのである。多くの人々は声も立てず、その厳粛な儀式に立ち会っている様でもあった。 
 横に寝かされた十字架の足許には既に穴が掘られ、その白木の十字架の上に体を横たえ、手足を縛られると十字架は引き起こされて穴に差し込まれる。穴の隙間には石が詰められ、十字架を固定するのである。イエス・キリストの処刑と異なるとすれば、体を支える物が掌に打ち付けられた釘では無く、鉄の輪であった。イエス・キリストは絶命するまで十字架の上で放置されたが、彼らは研ぎ澄まされた槍の穗先で突きたてられるのである。 
 両手と首にはその鉄の輪が嵌められ、足や腰には縄が用いられてきつく縛られ、股の処には全身の重みを支える杭が突き出ていた。彼らはその杭をまたぐ様にして十字架に縛り付けられ、固定されるのである。速やかに絶命させる為であった。
 
 あのバプチスタ神父は役人に向い、キリストの様に釘で手を打ち付け処刑して欲しいと、大声で懇願していたのが与助には聞こえていた。その与助が自ら磔になる十字架の前で、他の人々と共に祈りを捧げて居た時であった。矢来の組まれた柵の向こうから、泣き叫ぶような聞き覚えのある声を与助は耳にしたのである。振り返ると人垣の前に、すっかりとやつれた美代の姿がそこにあった。
 これから神の国に旅立つ時に、美代の姿を見る事が出来たのは、何よりも与助に取っては大きな慰めであった。言葉は交わすことすら出来ないものの、そこに居てくれるだけで分かり合えるものを、二人は確かに受け止める事が出来たのである。
 美代は泣いていた。その涙は止む事もなく、まるで心の傷ロから止めども無く溢れて来る血汐の様であった。

 十字架に乗る前、与助は服を脱ぐと役人を呼び寄せ、服をあの女に渡して欲しいと頼んだのである。役人は強い口調で首を振って居た。それでもなお、与助は役人に食い下がり「私の妻なのだ、これをあの女に、妻に渡してくれないか」と叫んだのである。
 騒ぎを大きくした無かったのか、諦めた様に役人は半三郎の元に聞きに行き、戻ってくるなり服を取り上げ、手を差し伸べて居た美代に投げつける様に渡したのである。美代は未だ与助の温もりの残る服を胸に抱き、摺り寄せる様に顔を埋めていた。

 やがて下帯姿の与助も十字架に縛られ、それが起こされて固定されると静かに与助は美代を見つめた。その顔はまるで悲しむでもなく、寧ろ穏やかな笑顔で見つめていたのであった。
「あ・り・が・と・う」
 声にはならない言葉が与助の唇を動かし、聴こえる筈も無い与助の声を美代は確かに聴いた様に思えた。それは最後の瞬間を互いが見つめあ事が出来た事に、与助は心から感謝している様でもあった。
 洗礼を受けた名前が偶々同じで有ったが為に捕らわれ、棄教すれば許されるとした秀吉の思惑をはねつけ、長崎で秀吉と対峙したマチアス与助のその顔には、卑屈さを捨て誇りを持ち続けた穏かな幑笑があった。 
 
 長崎の街を見下ろす丘の上に立てられた二十六の十字架には、信仰によって処刑されるその時を待っていた。讃美歌を歌う者や近くに居る者に説教しているもの、祈りを捧げる者や目を閉じているものなど様々であった。それでも六名の修道者を中央にして、左右には其々十名の日本人信徒が両を広げ、パライソ(天国)に向かうその時を待っていた。
 処刑は磔にされた者の心臓を、二人の執行人が槍で左右から刺し、二つ組になった四人の執行人が交互に突き刺す方法がとられていた。鞘を外した槍の穂先は、苦しまなくても良い様に鋭く研ぎ澄まされ、一気に右と左の下腹から、心臓めがけて突き刺していったのであった。槍の刃先は肩口から後ろに抜けて、突き刺した場所からは激しい勢いで血が噴き出した。それでも死なない場合は、引き抜いた槍で再度首に突き刺し、或いは心臓に向けて刺し直すのであった。
 イエス・キリストが同じように処刑されたなど知る由もないこの国で、彼らの磔の手順は全く同じであった。半三郎の号令で始められた処刑は、長崎の信者達の歌う讃美歌に包まれ、信仰に生きた二十六名の人々は、こうして次々とこの世での命を消していった。やがてすべての処刑が終わると、その遺骸の下には信仰を同じくする者達が集まり、磔にされた者達のクルスや服を求めて居たのである。聖なるものとして崇める為である。

 この処刑の一部始終を見つめていたフロイスからみても、彼らは神を選び、神も又彼らを選んだ事で、神の許に召されたのだと言う事は理解できる。しかし、中央に骸となっているバプチスタ見て居ると、昨夜の明け方まで話していた事が、まるで幻の事の様に思えて来るのである。
そのフロイスが長崎の町に戻ろうとした時である、十字架の下で磔になった男の足に手を触れ、物思いにふけっている女を見た。涙も悲しみも全てを流し去った様な女だと思った。
 その女が処刑前に磔になった男から、形見なのであろうが身に付けていた服を受け取っていた女だと分かった。やがてその女は立ち上がると、丘の奥に向かう細い道を歩いていったのである。丘からの坂道を下る途中でフロイスは、バプチスタから聞いて居た美代と言う女ではなかったかと思えた。
 マチアス与助と言う夫を追いかけ、病を押して近江の琵琶湖の畔から、この長崎に向かっていると聞いていた女である。フロイスは岬に向かうその細い道を急いだ。藪の様な木立の先には、急に視界が開けて明るい午後の陽に、眩しい程に海が輝いているのが見えていた。そしてその岬の先端には、今しがたに見かけた女が佇んでいたのである 
「私はフロイスと申します。あなたは美代さんはありませんか?」
 フロイスは顔が分かる程の場所まで近づくと、その女に声を掛けた。
 女は黙って頷きながら、そのフロイスに返事をしたのである。
「どうぞ許しておくりやす。恨みでも諦めでもあらしまへんのや、誰よりも好いた方の傍に行きたい言う、ただそれだけのことなんどす。どうぞ堪忍しとくりやす」
 久しく忘れていた都の言葉が、フロイスには不思議に懐かしく響いていた。だが美代は足がもつれているのか、憔悴しきった様でもあった。やがて美代はゆつくりと頭を下げると、それはまったくの突然に与助の服を抱いたまま、フロイスの視界から消えて行ったのであった。
 その美代の佇んでいた崖の下には、白い波が打ち寄せ、深い藍色の海が何事も無かったかのように、同じ営みを繰り返しているだけであった。

 フロイスは美代が飛び込んだその場所の足許で、小笹の先に引っかり風揺れている二通の手紙を見つけたのである。捕えられていた与助に、美代が送った短い手紙であった様に思えた。

「貴方様、何時も御傍におります。どうぞご心配無きように。  美代」
 皺だらけの小さな紙には、女文字で男に送った手紙だと判った。
 恐らく与助が捕えられてから長崎に来るまでの間に、美代が渡した手紙であろうが、皺になっているのを見ると、与助は自分の服の襟に挟み込ませて持っていた様に思えた。
 そしてもう一通、今度は与助から美代に差し出した手紙であった。

「美代、生きて居る内に逢うことがあれば、この手紙も無用となるであろうが、言いたい事は唯一つ。お前には生きて行って欲しい。生き続けていって欲しいと願うばかりだ。だがこの願い、美代には届かぬであろうな。美代が病で逝くときは、必ず一緒に逝くとした約束を果たす事が出来ず、許して欲しいと願うばかりだ。美代にとっては余り良い夫では無かった様に思うが、美代は良い妻であった。ありがとうの感謝の気持ちを伝えたくて、この手紙を認めている。主の許で巡り会えたその時は、これまで以上に良い夫になると約束しょう。
 最後に美代、人は愛する者の心の中だけでしか、真に生きては行けないものなのだ。その事をやっと気付く事が出来た様だ。今こうして遠く離れて居ても、美代は私の心の中で、確かに生きていると感じているのだから」    備後国 三原城内にて   与助

 この手紙もマチアス与助が自らの服に忍ばせてもであろう。書いたのは三原城内とあった。手紙を読み終えフロイスが目を海に向けた時、美代を呑みこんだ藍色の海が光り輝いていた。「人は愛する者の心の中だけでしか、真に生きては行けない」と書かれたマチアス与助の言葉が、何時までもフロイスの心に残っていた。
 愛する想いを燃やし続けながら、その命を終えた二人の姿は、フロイスにとっても大きな救いであった。神を信じる様に妻を信じた与助の信仰は、伴天連と呼ばれた自分たちが運んできた信仰が、日本人の心にやっと届いたと思えたからであった。
 フロイスが刑場に戻ると幾人かの信者が、処刑された者の衣服の一片を切り取っていた。聖なるものとして崇める対象にしたいのだろうと思えるのだが、フロイスには何故か酷くそれが不快な気がしたのだ。
 それにしても秀吉や三成が考えた、この信仰に対する恐怖を植え付ける目論見が、ここでは全く逆の作用が出いてる事を知ったのである。既に刑場からは多くの見物人も姿を消し、二十六の十字架には、首をうなだれる様にして遺骸が眠っていた。小さな子供達にも小さな十字架が用意され、その姿は信仰を持つ者でなくても涙を誘うものであった。

 ここで十四歳になるトマス小崎の手紙の事を、伝えねばならないと思える。マチアス与助が三原城の牢内で妻に書いた手紙の後、トマス小崎に渡した紙と筆で書かれたものであった。それは母親に宛てた手紙ではあったが、父親の下帯の中から出て来たもので、その父親の血で滲んでいたのである。その為にフロイスはやむなく自らが後で書き写したのであった。
 そこには強い信仰と共に、幼い者が持つ肉親への想いが入り混じった、母を思い遣る心優しい手紙であった。

「神の御助けに寄りこの手紙をしたためます。神父さま以下二十四名は(後に二名が追加される)、列の先頭を行く高札に書かれた判決文の様に、長崎での磔を受ける為にここまで参りました。私の事、又、ミゲル父上の事、ご心配下さいませんように、天国ですぐおあいしましょう。お待ちしております。例え神父様がいなくとも、臨終には熱心に罪を痛悔し、イエス・キリストの幾多の御恵みを感謝なされれば、救われます。この世は、はかないのみですから、天国の全ての幸福を失わない様に、努力なさいますように、人からどんなに迷惑をかけられても耐え忍び、全ての人に多くの愛徳をほどこされます様に、私の二人の弟、マンシオとフェリペを、どうぞ異教徒の手に渡さ
ない様、ご尽力ください。私の母上の事、我らの主にお願いしましょう。母上から私の知っている人々に宜しく申し上げてください。罪を通悔するのを忘れぬ様。
 再び重ねて申します。なぜなら唯一の重大な事なのですから。アダムは神に背き、罪を犯しましたが、通悔とあがないによって救われました。
 十二の月二日  安芸の国 三原城にて  トマス小崎

 ペドロ・バプチスタ神父の話された柄崎宿での言葉が、今でもフロイスの耳の奥に残っていた。それは信仰の見解に関する神父の個人的な意見であった。確か主の為の信仰、王室や国家の為の信仰ではなく、信じる者達一人一人の為の信仰でありたいとするバブチスタ神父の願いに、この頃は少しずつ共感を持ち始めている事に、自らがとまどいを感じ始めている事であった。
 磔の日から十日後の事である。長崎の湊からルソンのマニラに向けて、更にフロイスの祖国ポルトガルに向う為、
一隻の船がゆっくりと外洋に向かって出航して行くのが見えた。その船には宣教師や信徒達が磔になる事件の発端となった、あのサン・フェリペ号の乗組員も乗船していた。彼らは長崎で起きた事を記したフロイスの手紙や報告書を携え、そして幼いトマス小崎の父親の血にそまった手紙を、イエズス会に届ける為であった。
 船は帆を徐々に膨らませ外洋に舳を向け、狭い入り江をゆっくりと進んで行った。恐らくその船の上からでも、長崎の街の上の西坂の丘には、キリシタン達をその腕に抱えた十字架が見えるはずであった。中でもその十字架の中央辺りには、他よりもひときは小さな三つの十字架が見えたはずである。

 フロイスは大坂の神父から届いたばかりの手紙を読み返していた。一番小さな十二歳のルドビゴ茨木が、何故一向に加わったのかその理由が書かれていたのである。その手紙によれば、ルドビゴ茨木はレオ烏丸とパウロ茨木の甥にあたる少年であった。大坂の奉行所の役人が、フランシスコ会の家に捕縛する者の名簿を作りに行った処、その家に同宿していた少年のルドビゴ茨木が、余にも幼い為に記入を控えた時、ルドビゴ茨木が名簿から除く訳を聞いた為に、捕えるのだと話した処、寧ろ執拗に自分の名前を記載する様、懇願したと言うのである。役人は仕方なくその幼い者の名前を、名簿に記載したと言う事であった。

 慶長二年(1597年)五月二十四日、あの磔刑の日から五カ月後の事であった。ルイス・フロイスも又長崎のコレジョで病の為に帰天した。慶長の役で捕えられ、奴隷として異国へ売られてゆく朝鮮人達の洗礼に、あの日から主に召されるまで立ち会っていた。そして没する三カ月半も前に、フロイスはこの二十六人の殉教の記録を、既に書き上げていた。後にこの記録が世界に紹介される事となるのである。
 
 秀吉はこの翌年の慶長三年、三月十五日に伏見の東にある醍醐で、花見の宴を開いていた。しかし五月になると、時折木幡山伏見城で寝込む様になっていた。八月五日には死を悟ったのか、五大老宛に遺言状を書いている。
 「秀より事なりたち候やうに、此かきつけ候しゆとしてたのミ申候。なに事も此ほかにわおもひのこす事なく候。かしく 返々、秀より事たのミ申候。五人のしゅたのミ申候、たのミ申候。いさい五人のものニ申わたし候、なごりおしく候。以上」
 十日後の慶長三年(1598年)八月十八日、秀吉は自らの跡継ぎである秀頼を五大老と五奉行に託し、淀殿を含む多くの側室と六歳の秀頼を残して没した。
「つゆとおち、つゆときえにしわがみかな なにわのことも ゆめのまたゆめ」は辞世の句であった。しかし秀吉の死は伏せられたいた。朝鮮からの撤収を速やかに実現する為でもあり、公表は翌年の一月五日の事であった。
 この年の四月に後陽成天皇から秀吉に対して、豊国大明神の神号と正一位の位が贈られたのである。伏見にあった秀吉の遺骸は、都の東山にある阿弥陀ケ峰の廟に送られ、諸大名が参列する中、忌日の十八日に秀吉を祀る豊国神社の正還宮がとりおこなわれ、そして秀吉は神となった。
 だが後に豊臣氏を完璧なまでに滅ぼした家康は、元和元年(1615年)の七月、豊国社を破壊し、豊国大明神の神号を廃したのである。今度は家康が秀吉に変わり、自らが神になる事を望んだからであった。

 処で秀吉が建てた京の都の方廣寺の傍に、耳塚と呼ばれる大きな塚が祀られている。しかしそこに祀られているのは耳ではなく、全て朝鮮人と明の兵士の、数万に上る切り取られた鼻である。朝鮮の戦で切り取られ塩漬けにされ、軍目付がその数を数えて「鼻請取状」を発給し、朝鮮に渡った大名達が戦功の証として報償を得る為であった。しかし必ずしも、その鼻は死者の物と限った訳ではない。朝鮮に進攻した日本軍が撤退した後に、鼻を失った者が多数見受けられたと記録に残されているのである。  

 慶長二年九月末、秀吉が亡くなる一年前に「大明・朝鮮闘死の衆」の為として、秀吉はその供養をおこなっている。しかし元はと言えば天下泰平の為と称して、自らの政権安泰を目論んだ結果であり、その理不尽な犠牲を強いられたのは侵略された朝鮮の人々であった。
  
 九州豊後国の臼杵の小大名と共に、従軍僧として朝鮮に出兵した一向宗安養寺の慶念が、朝鮮人を日本人の武士から買い取る奴隷商人の様子を、 慶長二年十一月十九日条の日記に書き留めている。
 日本よりもよろつのあき人(商人)きたりしなかに、人あきないせる物(者)来たり、奥陣ヨリあとにつきあるき、 男女老若かい取って、なわにてくびをく
くりあつめ、さきへおひたて、あゆひ(歩み)候ハねハ、あとよりつえにておったて、うちはしらかす(走らす)の有様ハ、さなからあほうらせつ(地獄の獄卒)の罪人をせめけるもかくやとおもひ侍る。        
                                                                       ( 了 )
                                                      



 


 


 


 

 



 





 





 
 












 



 



 
 


 
 

 

 




 

 

二人の伴天連

磔刑によって長崎の地で帰天したペドロ・バプチスタ・ブラスケスは1862年2月、ローマ教皇ピオ九世により聖人に列せられた。神父の生まれ故郷はマドリードとサラマンカの間にあり、そこはアビラ(Avila)県のサン・エステバン・デル・バリエ村(San Estabaan Dalle Valle)と云うグレドス山脈の麓に広がる谷間の村である。
 春にはオリーブやブドウ畑の緑が石造りの家を囲み丘の上には教会が聳える、スペインなら何処にでも見る事の出来る美しい村であった。
 毎年この村のバジェ聖堂では、バプチスタ神父の磔刑にされた2月5日に神父を偲ぶ賑やかな祭りが行われ、その日には今も神父の遺骸を見る事が出来る。長崎の信者達が磔刑の後、密かにその遺骸を持ち出し遠くスペインの故郷へ運んだのである。同時にそこでは都の東寺口でコメス庄林が、バプチスタからの形見として受け取った、あのロザリオも併せて見る事が出来るだろう。

 一方のルイス・フロイスは宣教師の役目を解かれた1584年頃には、新たな仕事としてコエリョ副管区長の秘書や通訳の仕事を任された。それまで日本での出来事を書き溜めて、密かに「日本史」の第一部を完結していたのである。さらに第二部を1589年に書き上げ、1592年にはアレッサンドロ巡察師とマカオに向かうと、そこでは帰国した天正遣欧少年使節の記録を執筆したのである。1595年7月には長崎に戻り、日本史の最後の執筆に取り掛かっていた。それは自らが経験した出来事と共に、見聞きした出遭った日本の王達の事を世界に知らせる為、ローマで出版する希望を持ち続けていたからである。しかしイエズス会の巡察師でもあるアレッサンドロ・ヴァリアーノは、イエズス会の教化を目的に書いたものではない為、更に信仰を深めるにも役立つものでは無いとして、ローマに送る検閲を拒んでいたのであった。それはルイス・フロイスの好奇心が余りにも多岐に及んでいた為なのか、ローマ教会への信仰が未だに浅いと受け止めていたのかは知る由もない。だがこの翌年の10月、サン・フェリペ号の座礁事件からフロイスも又伴天連の一人として、多忙を極めた日々となって行くのである。
 しかしフロイス書いた「日本史」の内容は、信長や秀吉など権力に関わる話だけでは無い。城や庭園、日本人の暮らしなど、戦国時代の三十年余りを見聞きした多くの出来事は、客観的な視点から見つめた貴重な資料と云う事が出来るだろう。
 それにしても遠くイベリア半島からやってきた宣教師の二人が、この国に残したもののは歴史の中でこれからも消える事なく、日本人の精神に影響を与え続けてくれる事になるだろう。

 最後に長々と拙い文章でしたがお読みいただき、有難うございました。ご感想などございましたら下記宛にご一報戴ければ幸いです。
 kumakuma2211mail@yahoo.co.jp 又資料やお話等のご協力を戴いた皆様には、心より感謝いたします。

 【参考文献】  
「フロイスの見た戦国日本」 著者 川崎 桃太;中央公論社/「宗教で世界を読み解く本」 著者 ひろ ちさや;主婦と生活/「中世瀬戸内の旅人たち」 著者 山内 譲;吉川弘文館/「日本史」 著者 ルイス・フロイス;中央公論社/「世界の歴史」ヨーロッパ近世の開花 著者 長谷川輝夫/他:中央公論社/「日本二十六聖人殉教記」 著者 ルイス・フロイス/訳 結城了悟:聖母文庫/「世界が分かる宗教社会学入門」 著者 橋爪 大三郎:筑摩書房/「侵略の世界史」;著者 清水 馨八郎;祥伝社/「秀吉の天下統一戦争」 著者 小和田 哲男;吉川弘文館/「国民の歴史」 著者  西尾 幹二;産経新聞社/「信長の親衛隊」 著者 谷口 克広;中公新書/「日本キリスト教史」 著者 五野井 隆史;吉川弘文館/「織豊政権と江戸幕府」 著者 池上 裕子;講談社/「日本と韓国・朝鮮の歴史」 歴史教育者協議会(日本)・全国歴史教師の会(韓国) 青木書店/「水軍の日本史」 著者 佐藤和夫;原書房/「日本キリシタンの死生観」 著者 佐藤 吉昭 IBM無限大(NO93)/その他。

  【資料・情報提供】
大阪歴史博物館               大澤 研一    大坂歴史博物館研究員
日本二十六聖人殉教のメッセージ・基調講演  片岡千鶴子    長崎純心大学学長
戦国時代のクリスマス  講演 名古屋サテライトスタジオ    名古屋商科大学講演会 

二人の伴天連

天下の統一まで、まだ少しの時間が必要であった。種子島が国中に広まり硝石を含めた明銭などの貿易は、秀吉には絶対的に必要なものであった。しかし信仰と共に入り込む西洋文明の脅威、そこにはいがみ合う幾つものキリシタンの信仰が海の向こうで待ち構え、この国の様子を窺っていた。 秀吉の命で処刑された、所謂「二十六聖人」と呼ばれた事件の背景には、戦国の時代を終わらせ様と、そして自らがこの国を治める為に秀吉は動いたいた。否、この国の信仰を自らの信仰だけにしたいと目論み、カトリックのイエズス会は地方の大名にまで信徒を広げていた。 ポルトガル生まれでイエズス会の元宣教師だったルイス・フロイスは、サン・フランシスコ会の司祭で刑場に向かうペドロ・バプチスタを訪ね、互いの信仰を語ったのである。それはバプチスタが処刑される僅か二日前の夜であった。そこで語られた信仰の話とは・・・

  • 小説
  • 長編
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-01-15

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