少女誘拐
1
『近所に住む由美子が、何者かに誘拐されたらしい』
と噂で聞いても、捨三は、
「へぇ」
と思っただけだった。
捨三は小学生で、由美子とは同級生だったが、決して仲良くはなかったのだ。
たかが子供の集まりといっても、小学校だって人間の集団、社会の縮図であり、様々な構成員がいる。
いいやつ、悪い奴。信用できる正直者。信用できない嘘つき。
クラスにおいて由美子は自分自身のことを、
『美人で優等生で人気者』
と考えていたらしいが、賛同者は由美子の友人たち2、3人に限られていただろう。
授業中やホームルームなどにおける由美子の勘違いや、痛々しい発言の数々、
「私みたいな女の子だと、そんな気持ちがするのよ…」
「私みたいな女の子にとっては、そんなことは簡単だわ…」
などなどを、苦笑とともに捨三も楽しんだが、別の事情で捨三は由美子のことが苦手で、かつ大嫌いだったのだ。
それは、捨三が肥満していることが理由だった。
体質なのか何なのか、物心ついた昔から、捨三はよく太っていた。
運動をしないとか、ゴロゴロしているとかに関係なく、体が大きいのだ。
もちろん捨三はスポーツなど好まず、それも関係はしたかもしれないが。
その捨三の肥満ぶりを、由美子はいつもからかっていた。
確かに、由美子は太ってなどいなかった。女の子として標準的な体型だろう。
髪は長く伸ばし、水色やピンク色のリボンを使うことも多い。
母親の好みなのか、いつもドレッシーで、小学校へ通うのだって、ちゃんとしたワンピース姿だった。
気取った帽子を頭に乗せていることも多いが、あれは恐らく児童文学小説の挿絵からの影響であろうと捨三は推測していた。
「きっと赤毛のアンとかさ…」
その由美子の嫌がらせの方法だが、これがネチネチと陰湿なのだ。
テレビアニメのテーマ曲から替え歌を作り、
「大きなおしりがプリプリしてる…」
などと歌うのだ。
由美子の家はごく近所だから、下校時など、たまたま近くを歩くことになりやすい。
例えば捨三が後ろを行き、由美子とその友人が何メートルか先を歩いているのだが、そんな時に替え歌の歌詞が、風に乗って耳に届くのだ。
かといって、捨三にはどうすることもできなかった。
くやしくて、我慢しても我慢しても涙が出て仕方がなかったが、どうしようもない。
現に太っているのは事実なのだし、由美子に反撃する方法も存在しない。
まさか女の子を殴りにゆくわけにもいかない。
そんなことをしたら、しつけの厳しい捨三の両親がどんなに怒るか、想像もできない。
それ以前に捨三は、生まれてから一度も、口ゲンカ以上のケンカをしたことがなかった。
人の顔にゲンコツをぶつけるといったって、自分の体のどの筋肉にどう力を入れればいいのかさえ、捨三には見当もつかなかった。
だから学校帰り、由美子の姿を目にすると捨三はわざと歩調をゆるめて、ゆっくり進み、距離をとって歩く。
いつの間にかそれが習慣になってしまった。
そこへ誘拐の噂なのだが、ただの噂ではなく、まぎれもない事実だと、捨三はすぐに知ることになった。
捨三の家を警察官が訪ねてきたのだ。
土曜の午後、もうすぐ夕食の支度が始まるという時間帯だったが、玄関のベルが鳴るので出てみると、そこには電気店のテレビ修理人がいた。
修理人は制服を着て、工具箱を持ち、家の前には、電気店の名の書かれた軽自動車まで駐車しているのだ。
だが不思議なことに、捨三の家ではテレビ修理など依頼していない。
修理人の正体は、すぐに判明した。
ポケットから警察手帳を取り出したのだ。
電気店の制服も工具箱も、軽自動車も、実はすべて借りてきたものだった。
目を丸くしている母親と捨三に、
「ご近所の目がありますので…」
と警察官は言った。
「何の御用ですの?」
そこで警察官が説明したのが、由美子のことだった。
確かに由美子は誘拐されていた。
『ははあ、それで今日学校を欠席したのだな…』
と思ったが、捨三は黙っていた。
「それで、うちの息子に何の御用なのです? うちの子は、誘拐された女の子とは特に親しくはありませんよ」
「いいえ、犯人からの指定なのです。犯人はきっと、誘拐する前に何回か、この近所を下見して偵察し、計画を練ったのでしょう。そのとき、被害者と捨三君が一緒に下校する姿を目撃したものと思われます」
捨三は苦々しい気持ちになった。
犯人がどんな奴か知らないが、少し離れたところからちょっと見ただけで、話されている言葉が聞き取れたわけではなかろう。
由美子が発していた言葉が、いつものあの替え歌であったなど、夢にも知らないに違いない。
それどころか、友人同士の仲良し会話とでも思ったらしい。
「犯人は身代金を要求しておりまして、その運び役として、捨三君を指名しているのです」
まったくビックリだった。
そのうちに捨三の父親も帰宅したが、これも目を丸くするばかりで、言葉を発することができないでいる。
いつもいつも、
「勉強しろ勉強しろ」
とうるさい両親が、今日ばかりは金魚のように口をパクパクしているのは、捨三には気分が良かった。
そしてここから、捨三の忙しい夜が始まった。
テレビ修理人に化けた警察官はそのまま帰っていったが、軽自動車がエンジンをかけ、姿を消した数分後、捨三も一人で家を出た。
捨三は、少しでも目立つよう明るい白い帽子をかぶせられ、外出するのにふさわしい服装をしていた。
両親は玄関まで見送ったが、警察官の指示により、玄関の外まで姿を見せたのは捨三一人だった。
家を離れて道路を歩き、3つ目の曲がり角を曲がったところで、先ほどの軽自動車が待っていた。
すぐにドアが開かれ、捨三を乗せて警察署へと急いだのだ。
この夜の捨三の冒険だが、実は語るべきことはあまりない。
由美子の身代金となるものをその手に持たされ、警察署の前から、まず捨三はタクシーで駅へと向かった。
ただその身代金が奇妙なのだ。
札束の詰まった重いバッグなどではなく、小さな指輪が一つきり…。
大きいものではなく、捨三の指にだって簡単にはめることができる。
「大事なものだから、落としたり、なくしたりしないよう注意してな…」
警察官たちは、それを捨三の指にはめさせた。それが犯人からの指示なのだそうだ。
「そういえば、由美子の父親は宝石店を経営しているのだったな…」
と捨三も一人で納得していた。
この指輪はまさしく由美子の父が経営する宝石店の商品であり、ついさっきまでは数百万円の値札と共に、厳重に鍵のかかったショーケースの内部で光を放っていたのだ。
指輪を指にしたまま捨三は出かけ、接触してくるであろう犯人の指示に従う。それがこの夜のミッションだった。
まるでスパイ映画の主人公になったような気分で、捨三もわくわくしなかったわけではない。
「目立たないように慎重にだが、君のまわりには常に私服警官が目を光らせているからね。安心していい…」
とまで言われれば、胸に感じる不安も大きくはなかった。
ただ捨三にも、不満がないのではない。
「僕がこの指輪を犯人に届けたら、あの由美子が無事に戻ってきちゃうじゃないか…」
こんな事態になっても、由美子がとんでもないいじめっ子であるという事実が、捨三の頭を離れることはなかったのだ。
だが捨三は慎重な子供だ。そうは思っても、口にするのは避けていた。
だがこの夜は、本当に何も起きなかった。
タクシーを降り、捨三は一人で電車に乗り、大阪駅へむかった。
そこから福知山線という支線が伸びているのだが、
「そこの列車に乗れ」
というのが犯人の指示で、もう日の暮れた真っ暗な大阪駅ホームを歩き、捨三は1番線へと向かった。
大阪から三田まで、捨三は福知山線で一往復した。
それも犯人の指示だったのだ。
犯人は捨三の顔を見知っているのだから、なんとかして車内で接触し、指輪を受け取るつもりであろうと警察は推測していた。
福知山線はまだ冷房のない列車だったから、あの季節には窓を大きく開けて走行することになる。
何かの理由で列車が減速した折に、犯人は捨三の手から指輪をひったくり、開いた窓から車外へ身をおどらせる計画かもしれなかった。
だが、すべてが推測に過ぎなかった。
ゴトン、ゴトン。
列車は走り続ける。
捨三はわざわざ見回しなどしなかったが、この車内には、警察官が何人もまぎれ込んでいるはずだった。
もちろん私服ではあろうけれど、捨三は一人も認めることができなかった。
しかしながら…、
何事も起きないまま一往復を終え、捨三は大阪駅へ帰ってきた。
途中、話しかけるどころか、捨三に近寄るそぶりを見せる乗客さえ一人もなかった。
2
大田警部がこの事件に関わるのは、ちょうどこのあたりからだ。
署内の同僚に上中という警部補がおり、何歳か年下の後輩だが、ある日の午後、たまたま事件のない暇な日だったが、この上中が困った表情でいるのが目についたのだ。
「おい上中君、どうしたね?」
出世コースからは外れて久しいが、その気兼ねのない態度や口ぶりから、大田の人望は薄くはない。
むしろ相談事などを持ち掛けやすいタイプなのだ。
自分の机に座り、気のなさそうに眺めていたファイルから顔を上げ、上中がさっそく口を開いたのも不自然ではなかった。
「ああ大田さん、例の誘拐事件なんですよ…」
「あれは解決したんじゃないのか? 例の娘っこ、ちゃんと戻ってきたんだろう?」
「戻ってはきました。誘拐の2日後、早朝の公園ベンチに寝ているのが発見されました。発見者は犬の散歩に来た近所の住人で、女の子は睡眠薬を飲まされ、眠らされていたけれどケガもなく、健康に異常はありませんでした」
「ならいいじゃないか…」
「よかありませんよ。身代金代わりの指輪、あれは取られたままですからね」
「どうやって取られた?」
実は大田も、同じ署内で扱った事件だ。
しかも誘拐という大事件だ。内容を知らないはずがない。
だが上中の口からじかに、もう一度述べさせたかったのだ。
『そうすることで、見落としていた何かを発見できるかもな…』
とは考えたが、口では何も言わず、ただ身振りで、大田は上中をせかした。
「あの事件の身代金は変わっていて、値段が数百万もするダイヤの指輪でした。こう…、金の台座の上にバラの花のように大小のダイヤをあしらい、俺も見ましたが、なかなか見事なもんでしたよ」
「女の子の父親が経営する宝石店の商品なんだってな」
「そうです。だからこそ容疑者の絞り込みに苦慮したわけで」
「どうしてだ?」
「もう2ヶ月近くも、この指輪は店のショーケースに、これ見よがしに飾ってあったんです。店の前を通った者は、みなその値札に気づいたでしょう。これを見かけて犯行を思いたったのだとしても、追跡すべき候補者の数が多すぎましてね…」
「なるほどな…。だけど犯人は、福知山線の車内で、捨三とかいったかね? その子供のポケットに手紙を入れることに成功している。そのあたりから容疑者は割れなかったのかい?」
「犯人が指定した時間帯、つまり夕方ですが、あの時間帯の福知山線は猛烈に混雑します。しかも犯人は、捨三が車内のドア近くにずっといるように指定したので、各駅で乗り降りするたんび、捨三のそばを通り抜けた人間が総計で何百いるやら」
胸ポケットから取り出した新しい煙草の封を切り、自分の口に1本くわえるだけでなく、大田は上中にも一本勧め、「どうも」と上中も受け取った。
「じゃあ上中君、その手紙だが、いつごろポケットの中に入ったらしいと捨三は言うんだね?」
「さっぱり見当もつかないそうです。『気がついたらあった』と。
たまたま通りかかった車掌が『ボク、いまボクのポケットからこんなものが落ちたよ』と教えてくれ、それで初めて気づいたとか」
「それで?」
「手紙といっても、真新しい封筒で、封はしてなくて、中に紙が入ってたそうで」
「犯人からの第2の指示書だな。なんと書いてあった?」
「指輪を入れて、この封筒に封をしろと。封筒の口は、シール式にノリのついているやつでした。切手もすでに貼り付けてあり、よく考えた犯人です」
「その封筒を郵便ポストに投函しろというんだな。捨三は指示に従ったのか?」
「もちろんです。同級生の命がかかってるんですから」
「封筒の宛名はどこになってた? 捨三は覚えてないのか?」
「小学生ですよ。まだ英語は習っていません。犯人は、宛名を英語で書いていたんです」
「ふうん…」
しばらくの間、口を閉じ、天井へ向けて大田は煙草の煙を吐き出し続けた。
「ねえ大田さん…」
「まさか犯人は、その封筒をどこのポストに投函するかまで、捨三に指示していたのかい?」
「福知山線の車内に張り込み、俺たちも見張ってました。捨三の一挙手一投足を見逃さないようにって。
捨三が封筒に封をするのを見て、『ポストに投函するのだな』とは理解しました。投函されてしまえば、それがどこの町のポストだろうが、郵便局に話をつけて手配し、封筒の宛名をチラリと見ることぐらいは可能だと考えたんです」
「郵便ポストは日に2、3回、係員が中身を取り出しに来るもんな」
「だけど犯人の指示は振るっていました。もちろん捨三は指示を守っただけなので、責任はありません」
「どこのポストに投函した?」
「福知山線には大阪駅から乗車し、三田で一度下車しました。そして次の列車でトンボ返りをし、捨三は再び大阪駅へと戻ってきたんです」
「捨三は、まだ封筒を持ったままだな。しかし大阪駅のホームに、郵便ポストなんかあったかな? それとも時間が遅い。中央郵便局が近くだから、そこまで…」
目の前で上中が大きく首を振るので、大田は口を閉じた。
「なんだ?」
「犯人は列車ダイヤをよく研究したに違いありません。三田から戻ってきた列車は、大阪駅の12番ホームに到着しました。終点ですから、他の乗客たちと一緒に、捨三も下車したんです」
「あんたら私服警官も、ゾロゾロついて降りたんだな」
「まあそうです。でも警部、知ってますか? この同じ時刻、目の前の11番線にどんな列車が停車しているか」
「ワシは知らんねえ」
「郵便列車ですよ」
「郵便?」
「手紙や郵便局の小包は、なにも自動車やトラックだけで運ばれ、配達されるわけじゃありません。他県や遠くの町へは、列車を使うんです」
「そのための専用列車が存在するのかい?」
「まるで移動郵便局とでも言いたいほど、車内の設備が整っていましてね。郵便物を運びながら仕分けしたり、消印だって走行中に押すんです。
だから鉄道郵便車のボディ、その側面には郵便差出口、つまり郵便ポストが口をあけているんですよ」
「まさか…」
「そのまさかです」
と上中はウンウンとうなずいて見せた。
つまり捨三は、大阪駅の11番ホームにおいて、指輪の入った封筒を郵便車両側面のポストに投函したのだ。
あまりに思いがけない行動に、目撃した刑事たちは口をポカンと開けた。
そのまま何か対策を講じるどころか、どこかへ連絡するということさえ思いつけないままに時間となり、郵便列車は発車してしまったのだ。
「しかし上中君、東京行きの郵便列車と言ったな? 次の停車駅はどこだ?
まさか各駅停車じゃあるまいが、先回りして電話連絡し、なんとか押さえることができたんじゃないのかい?」
「できませんでした…」
「どうして? 次の停車駅は?」
「京都でした。我々は駅事務室に飛び込み、警察手帳を見せて、電話を借りることに成功したんです。
だけど警察は組織です。京都府警じゃなく、まず大阪府警の捜査本部に一報を入れなくちゃなりませんでした」
「京都府警への連絡は、捜査本部からか…」
「そのとおりです。誘拐事件の発生自体、他県警には寝耳に水だったに違いありません。情報漏れを恐れて、最初からそういう方針でしたから」
「じゃあ京都府警じゃなく、滋賀県警でも岐阜県警でも…」
「やっと手配が完了したのは大垣駅でした」
「岐阜県警か」
「ここからがまた問題で、警部知ってますか? 郵便車の車内って治外法権みたいなもので、いくら警察手帳があっても、おいそれと立ち入れない場所なんです」
「どうしてだ?」
この大田警部というのも、若い頃から警察官一筋の男だ。警察手帳にできないことはないと思い込んでいる節がある。
「郵便物を保護し、守るという趣旨なんですよ。客車の車内ではありますが、実は車掌でもなかなか立ち入れないそうで、入口のドアは常にロックされ、用事があるときには車掌もノックして、内側から郵便職員に開けてもらう必要があるとかで…」
「やれやれ。それで例の封筒は見つかったのかい?」
上中は申し訳のなさそうな顔をした。
「見つかりません。それどころか、車内を探させてもくれませんでした。一度ポストに投函された郵便物は、厳重な法の保護下にありまして、通信の秘密の保持ってやつですかね?
『例の封筒をポストから取り出したか?』ときいても答えナシ。
受け付けて消印を押したか、ときいてもダメ。
『車内に積み上げてあるどの郵袋に入れた?』
なんてのは、
『憲法を改正してから、顔を洗って出直せ』
とまで言われたとか」
「おやおや、郵便局も怖いところだねえ」
「だけど同じ公務員のよしみ。最後には郵便局員も同情してくれましてね。こっそりと耳打ちしてくれました。
もちろんこのときにはダイヤどおり、郵便列車はすでに大垣を発車してましたがね。刑事は岐阜で飛び降り、連絡のためにホーム上を大走りしたとか…」
「それで?」
「その封筒は、京都で下ろした郵袋の中じゃないかって。『アッシが犯人ならそうしますぜ』とさ」
「じゃあ京都の郵便局で…」
「いやいや警部、そう簡単には行きませんて。件の郵便列車は、郵便列車の王様みたいなやつだそうで、各地の各駅で接続する小さな郵便列車がいくつもあるんです」
「なんだって?」
「だから郵袋が京都で下ろされたとしても、京都市内のどの局行きの郵袋だったかは分かりようがないし、もしかしたら山陰線の郵便列車に積まれたかもしれないし、ちょうど同じ頃には奈良線の郵便列車も発車してるし、さらには近鉄に乗せかえられた可能性もあるし…」
というわけで結局、封筒は発見されなかったのだ。
特に優等生というわけでもなく、もちろん捨三も宛名などカケラも記憶していなかった。
さらに犯人は私設の私書箱を利用した可能性もあり、宛名が素直に犯人につながったかどうかも疑わしい。
それは大田も認めなくてはならなかった。
「…だけどね警部」
「どうした?」
「実は、犯人はもう分かってるんですよ」
奇妙なことを言い出す上中の顔を、大田はポカンと見た。
「なんだって?」
「犯人は車掌に決まってますよ。福知山線の」
椅子に腰掛けたまま天井を向き、両腕を組んで、大田は思い出そうとした。
そうか、大阪から三田へむかうときの列車だな。
「『ボク、君のポケットから今この封筒が落ちたよ』って、車内で捨三に話しかけたからかい?」
「そうですよ。ありゃ捨三のポケットから落ちたんじゃない。そう言って車掌が捨三に渡したんだとニラんでます」
「なるほどねえ…」
それは理屈の通る考えだと大田にも思えた。
だが、まだ分からないことがある。
「それじゃあ上中君、なぜその車掌を引っ張らないんだね?」
あきらめたような表情で、上中は両手を広げた。
「逮捕するも何も、証拠が一つもありませんもん。宝石店は大阪の中心部。誰だってその前を通ったことぐらいあるでしょう。
この車掌、名前は安田というんですが、安田は自動車を持ってます。誘拐した女の子を輸送するぐらいは、トランクに隠せば簡単ですな」
「指輪の入った封筒の線は?」
「安田の身辺を見張らせてますが、大金をつかんだ様子はありません。指輪を手に入れても、まずは売って換金しなきゃなりませんが、そういう気配もないんです。どこかの私設私書箱と契約してないかなんてのは、調べようもありませんしね」
このときの会話はこれで終わり、くやしがる上中のため息をもう何回か聞かされた後で、大田はその場を離れた。
この誘拐事件当時、大田は別の事件で他県警へ貸し出されており、それゆえに直接関わってはいなかったのだ。
しかし自分が本来所属する署のケースだ。
新聞記事だけは注目して目を通してきたが、事件が終わってすでに3週間がたつ。
「これはもう迷宮入りだな」
とは警察や新聞界隈の下馬評だった。
上中の話に、大田も気になる部分がなかったわけではない。
「車掌の安田はギャンブル好きで、いささか借金をかかえた身なんです…」
国鉄や銀行、街金の協力が非公式ながら得られ、それは事実だと確認されていた。
子はいないが安田は妻帯者で、借金をめぐって夫婦間もうまくいってないらしい、との話もある。
先ほどの話に出た安田の自動車も、実は借金のカタに入っており、遠からず取り上げられる運命だという。
にもかかわらず、安田は大金をつかんだ様子がない。
もしも多少でも金が入れば、返済を始めそうなものだ。
「それだけじゃない。ついに安田は女房とも別居してしまった…」
借金問題が原因で、とうとう安田は妻に逃げられたのだ。
「つまり安田は、指輪を手に入れてはいないのだ」
それが大田の出した結論だった。
さっそく刑事部屋へ戻り、上中を探した。
「ああ上中君、きみ今日、時間あるかい?」
「非番だから、これから帰ろうとしていたところです」
「そりゃ調度いい。ワシは捨三の家を知らないんだ。すまんが2時間ほど付き合ってくれんか。あとで一杯おごるから」
その言葉通り、大田は捨三の家へと上中に案内させた。
なんと言うことのない住宅街だ。
しかしどういう開発の経緯があったものか、いかにも高級そうな大きな屋敷と、小さな貸家や一戸建て、アパートなどが混ざって立ち並んでいる。
「ここは貧乏人とまでは言わんが、金持ちと、そうでないやつが混ざって住んでるんだな」
と大田は感想を述べた。
おっとりとした大田とは対照的に、せかせかした足取りで上中は歩いている。
「大正時代、堤防工事の関係で1級河川のルートがつけ変わりましてね。それで余った土地です。名の知れたデベロッパーが宅地化を手がけたんですが、のちに昭和の不況で売りに出される屋敷が相次ぎ、その跡地に小さな家が立ち並んだんです」
「なるほど…」
面白そうに、大田は風景を眺めている。
「すると、あそこの大きな屋敷が被害者の家かね?」
「そうです…」
「捨三の家は?」
上中は黙って指さした。
宝石商の屋敷から、距離にして100メートルもないだろう。
しかしお世辞にも大きな家ではない。
プレハブというのではないけれど、いかにも安普請な切妻がこちらを向いている。
暑い日なので窓が開いているが、あとから付け足したらしいユニットバスが部屋の中に見えている。
それが付くまでは自宅風呂のない、風呂屋通いの生活をしたのだろう。
とそこへ、突然玄関の木戸が開き、男の子が出てくるのが見えた。
コロコロとよく太っている以外は、特に特徴のない姿だ。
ああ、今どきの小学生といえばあのくらいの身長か、と大田は思った。
半そでシャツに半ズボン。
時刻から見て下校直後だろうし、家の中に置いてきたと見えて、背中にランドセルこそないが、退屈そうに歩き出した。
「あれが捨三かい?」
と大田がささやくと、
「そうですよ」
と上中がうなずく。
「じゃあ上中君、君は少し座を外してくれ。いかにも警察官づらした君がいては、あの子の口も重くなろうよ」
なんだとは思ったが、警部の言うことだ。上中は逆らわないことにした。
数歩下がり、手近な電柱の影に身を隠したのだ。
こんなものでは完全に身を隠すことにはならないが、そこまでは大田も求めないだろう。
捨三に近づく大田の背中を、上中は見守る形になった。
距離があるので、言葉までは聞こえない。
それでも大田が声をかけたらしく、驚いたような顔で捨三は振り返り、立ち止まった。
何を話すつもりだろう、と上中には見当もつかなかったが、会話は少し長引く様子だ。
始めのうち捨三は何もかも否定し、大田が何を言っても首を横に振るばかりだった。
しかし、そのうちに気持ちに変化が生じたらしい。
何かを打ち明ける表情になった。
大田の顔は叱るでもなく、いさめるでもなく、どこかニコニコと聞いている様子。
「一体何をしゃべってるんだろう?」
上中には想像もつかなかったが、やがて会話は終了したようだ。
「一体何を…」
と何秒間か考え事に没頭したため、去ってゆく捨三の表情を上中は見そびれていた。
もう背中を向け、捨三は遠ざかって行くところだ。
大田はといえば、しゃがんで話していたのを、ヨッコラショと身を起こしつつある。
「上中君」
大田が戻ってくるので、上中は電柱の陰から出た。
「警部、何か得られましたか? いまさら捨三にきくことなんてなかったでしょう?」
「ああ? 捨三はどこへ行った?」
思い出したように大田は振り返ったが、もうどこかへ遊びに出かけたようで、捨三の姿はどこにもなかった。
「子供はいい気なもんですな。何も考えずに遊んでればいいんだから。悩みなんてないんですよ」
「上中君、手を出したまえ。ちょっとしたプレゼントだ」
その言葉が意外で、上中は見つめ返したが、大田は笑っている。
「なんです?」
「さあ手を出したまえよ」
その上中の手に、大田はある物を置いた。
重くはない。大きなものでもない。銀色に光る小さな指輪だった。
例の事件で子供の身代金代わりとされたものに間違いない。
バラの花をかたどったダイヤの配置にも見覚えがあった。
何がどうなっているのやら、上中にはわけが分からなかった。
「これは…?」
「たった今、捨三からもらった。捨三も始末に困り、なんとさっきは、どこかに捨てようと思って家を出てきたところだったそうだ」
「どうしてあのガキが、これを持ってるんです?」
「説明してやるよ。だから一杯飲みにいこう。まだ日は高いが、一件落着なんだ。そのくらいいいだろう」
「だけど…」
住宅街には飲み屋など見当たらず、大田と上中は電車に乗り、いくつか離れた駅にまで行かなくてはならなかった。
その間に何度も上中は説明を求めたが、
「まあまあ、とにかく座って落ち着いて話そう」
と大田は言い続けた。
「捨三は、封筒の中に指輪を入れなかったんだよ」
とついに大田が説明を始めたとき、盃を手にしたまま、上中はむせ返った。
「なんですって?」
「福知山線の列車の中さ。安田から封筒を渡され、中にあった指示書を捨三は読み、意味を理解した。
『指輪をこの封筒に入れ、封をし、大阪駅で郵便列車のポストに投函する』とね」
「じゃあなぜ?」
「上中君。福知山線は混んだ車内だったろう? 指輪を入れるふりをして、捨三は代わりに10円玉を一枚入れたのだそうだ。本人がそう言った」
「なんのために? まさか小学生が、指輪を自分のものとするためじゃあ?」
「それは大人の考えさ。捨三はそう考えたわけじゃない。捨三は、被害者がもう戻ってこないことを望んでいたんだ。
被害者が住む大邸宅と捨三の小さな家。ありゃあきっと借家だな。しかも捨三はあの通り太っている。きっと日ごろ、被害者からいじめられていたのだろう…。
なあ上中君、被害者の人となりは洗ったのかね?」
上中はうなずいた。
「そりゃあもちろん」
「どうだった?」
大田が注ごうとする徳利を、唇を尖らせて上中は受けた。
「クラス担任と、近所の同級生に話をききました。まあなんていうか、思いやりがあって人気のある少女ではなかったようですね」
「だろう?」
「でもだからって、いじめっ子が死ぬかもしれないのを望むというのは…」
「捨三はまだ子供なんだ。大人と同じ思考力を要求するのは気の毒さ。それに指輪は誘拐犯には渡らず、被害者も無傷で帰ってきた」
「安田のやつ、1日早く被害者を解放してしまったわけですな。10円玉が一枚入っているきりの封筒が届いたのを見て、腰を抜かしただろうな」
「ああ君も、そう思って溜飲を下げるといい」
「しかし警部…」
「なんだね?」
「この指輪、どうします?」
ここで大田はニヤリと笑った。
「なんなら君にやろうか? 婚約者がいるんだろう? 結婚指輪にしろよ」
「まさか冗談じゃありませんよ…」
「そうだな…、冗談ごとにするには高価すぎる。そこでだ、君に頼みがある」
「いやですよ」
「まあそう言うな。これから家に帰り、封筒に宛名を書いてくれ。宛名は大阪府警だ。ワシの机下でもいい。ちゃんと切手も貼って投函するんだぞ。
宛名の文字も、定規でも使って筆跡が分からんようにな。それと指紋には気をつけろよ。封筒は家にあるやつじゃなく、この帰りに店に寄って新品を買うんだ」
「…」
「指紋をつけないためだぞ。ああそれから、手袋をしてその指輪もピカピカに磨いて、指紋を徹底的に消すんだ。
府警本部に届いてから鑑識にまわされて、まさか現役の刑事二人の指紋が出たなんて記事が新聞に載った日には、ゾッとせんからなあ」
少女誘拐