シューティング・ハート  暁のウォリアー  1

グラウンドが見渡せる石段に腰を下ろし、梶原常史は遠くを睨んでいた。
 遠景に広がる咲久耶市の街並みではない。
 自分が背を向けている校舎の一群、その端の正方形の建物に集中している。
 中央館三階、生徒会長室。
 そこの主は、今頃授業に出ているだろう。
 教室の片隅に形ばかり座り、決して指名されないと分かっている態度で黒板を見つめる少し色のついた眼鏡の 奥の瞳。
 その瞳が、あの日から脳裏を離れない。


 中等部三年の秋である。
 最後の引退試合である中高対抗リーグの練習を終えた薄暗い体育館の脇で見つけた姿。
 すっかり暮れた陽に、声を掛けると、振り返った彼女が無表情のまま答えた。
 木の上に登った子猫を下ろさなければならない。
 迷い猫は迷惑だ・・・と。
 気になって近づくと、確かに猫が木の枝にしがみつき、震えている。
 登ったのはいいが、降りられないようだ。
 俺がつかまえよう。
 言って荷物を放り出すと、猫は小さく驚いて飛び上がった。
 よほど驚いたらしい。
 体勢を崩し、背から落ちる猫を咄嗟に抱きかかえるようにした彼女は、足元を崩して折れた。
 危ない。
 間一髪で受け止めた自分も体勢を崩し、地面の上に自分と彼女と猫が重なるように落ちた。
 そのときだ。
 彼女の瞳が間近で光った。黄金色に輝く瞳。猫の金目よりも遥かに鮮やかで美しい瞳。
 一瞬のことだった。
 彼女が咄嗟に離れて顔をそむけ、猫は脱兎の如く逃げ出し、何か鋭いものが降って来たのは。
 木の枝がボキリと折られて、自分と彼女の間に突き刺さっている。
 やめろ、と低く制した彼女が小さく呟いて去っていく。
 気をつけて帰れ。
 それをそのまま部活で話すと、普段は表情が緩みっぱなしの二人が驚いて、顔を強張らせた。
 よく無事だったね、と卓馬が呆れた。
 他の奴らには言わないでおこうな、と介三郎が言った。
 その横で、綺麗な顔を歪めてなお美しさを残して、
 二度と近づくなよ、と、聞きとがめた藤也が付け足した。
 それらの言葉の真意は分かっているつもりだ。
 だが、あぁそうですかと、一蹴できるようなものではなかった。
 忘れられなかった。
 脳裏を離れない。
 その名は――。


「こんな所でサボっていると、生活指導の餌食になりますわよ」
 ふいに掛かった声に視線を落とすと、石段の上に真行寺万里子が立っていた。
 高等部三年生の彼女は、それ以上に大人びた雰囲気で梶原を見下ろしていた。
 美しく聡明な彼女のことを、全校生徒は『マドンナ』と呼ぶ。
 だが、梶原は彼女を「良し」とは思えなかった。
 自分自身の感情が、あまりにも狭量だと思いながらも、嫌悪していた。
 そして万里子は、そんな梶原の感情をよく理解していた。
 その理由も含めて・・・。
 石段の上と下で、互いに見つめあい、憂いた表情で先に逸らせた万里子が、小さく呟いた。
「あの方を、責めないでくださいね」
 あの方――。
「貴方には腹立たしいことなのかもしれませんが、あの方は、大切なものを守る為に必死なのです。他の事な ど 気にも留められないほどに・・・。まして、ご自分の感情に流されるのを決して良しとはなさらない」
 大切なもの・・・。
 何よりも大切にしているもの・・・。
「それは、マドンナや鳥井のことを言っているんですか。それとも介三郎のことですか」
「どちらでもありませんわ、梶原さん。あの方が守ろうとしているものを、わたくしや雛鳥は知っています。で も所詮、わたくしたちも傍観者。あの方の力になることすらかなわないのです。あの方が守ろうとしているも のは、それほ どに重いもの・・・」
「――」
「それを知りたいと思っていらっしゃるのなら、梶原さん、どうして正直にそうおっしゃらないのですか。貴方 の気持ちは分かるつもりです。たとえ貴方が貴方の感情を表に出し、それが拒絶されたとしても、貴方はそれをするべきだ とわたくしは思
いますわ。今のように心の中であの方を責めてばかりいても、何もならないのですよ」
「――マドンナ・・・」
「もう少し、大人になっていただけないかしら」
 鋭い視線を瞬き一つせず梶原に向け、万里子は暫く立ち尽くした。
 彼に強く言ったところで、結果は同じだろう。
 誰がどう足掻こうと、状況は変わらない。だが、望んでいるのは結果ではない。結果に辿り着くまでの過程な のだ。
「誰もが貴方のように辛い想いを持っています。でも、決して貴方ほどに見苦しくはありませんわ」
 切り捨てるような口調が、梶原の頭を殴りつけた。
 罵声ともとれるその言葉を、梶原は飲み込むようにして立ち上がる。
「マドンナは、あいつの何ですか」
「言ったはずですわ。単なる傍観者です。だからこそ、わたくしはわたくしのできることをやるだけですわ。あ の方にすべて
を押し付けるつもりはありません。少なくともあの方の見える場所にいる時くらいは・・・ね。貴方にもある でしょう、貴方
のやるべきことが」
「俺の、やるべきこと・・・」
「先日の聖蘭との練習試合、貴方は何を見ていたのですか。あの方が我が校の為に動いているのを、見なかった のですか。貴
方は心の中であの方を責めながら、あの方に守ってもらおうと言うのでしょうか」
「・・・」
「よくお考えなさい。あの方が何を大切にしているのか、何を守ろうとしているのか。それも分からないよう で、ご自分の想
いばかりを押し付けるのはいかがでしょう」
 万里子はゆっくりと石段を登り、梶原の横をすり抜けた。
「彼女が貴方をどう思っているのか、知りたいとは思わないのですか」
 すれ違い様に聞こえた声は、一転して柔らかで穏やかだった。
 梶原は立ち尽くしていた。
 思考は混乱を極めた。万里子の言葉がグルグルと身体中を駆け巡る。


 自分にできることは少なく、代われないことの方が多い。
 梶原に背を向け、少しばかり冷たい表情で石段を後にした万里子は、木立の林立する手前で足を止めた。
「藤也さん、貴方も授業を抜けて来られたのですか」
 微笑を湛えた瞳を幾分閉じて、木に寄り掛かっている美少年に声をかけた。
 絵に描いたような横顔が、微かに歪んで万里子を睨む。
「何故、けしかけるんですか。マドンナ」
「けしかけている? わたくしがですか・・・、何を?」
 多少大袈裟な身振りをしてかわそうとする万里子を、一種軽蔑したような流し目で藤也は言い返す。
「シラを切るのは大概にしてください。何故、梶原の馬鹿な感情を逆撫でするんですか」
藤也は不機嫌を通り越して、怒りさえ露わにしていた。
「あの馬鹿野郎の目を覚まさせるのならともかく、惑わすのは、友人として聞き捨てならないんですよ。マドン ナ、まさかあ
いつの馬鹿さ加減を目の当たりにして楽しもうって腹ですか」
 毅然と立ち、正面に藤也を見据えている万里子の眼力にも臆することなく、藤也は言った。
 万里子の瞳に底光りが走る。
「わたくしは、そんな悪趣味ではありませんわ、藤也さん。貴方は、梶原さんの想いが愚かだとおっしゃるけれ ど、果たして
そう言い切っていいものかしら」
「無駄を無駄と言い、決して届かないものを捨てろという俺の道理が間違っているとでも言うんですか」
「無駄なことが、大切な時もあります。決して届かない想いだからと、すべてを諦めてしまうのはどうでしょ う。いずれ離れ
ると分かっていても、一緒に過ごす短い時間を大切にすることも、一つの生き方だとわたくしは思いますわ」
「・・・」
「それは、彼女にとっても大切なことなのです」
「魔女と呼ばれる女が、何を大切にするというんです。梶原が滅多打ちにあって終わりでしょう」
 さっさと結論を出す藤也。
 万里子がゆっくりと息を吸い、止めた。
「――なればいいのです。梶原さんも、そして貴方も」
 万里子の表情から感情のすべてが消えた。
「藤也さん、貴方も早く気付くべきですわ。何故自分が彼女の傍にいるのか、そして梶原さんの想いを愚かだと 言い切るの
か。それがわからないうちは、どれほど口がたとうと幼い」
 その言葉に、明らかに藤也は嫌悪の表情を浮かべたが、万里子は取り合わなかった。


 真行寺邸。
 五十嵐飛水はいつものように主に報告し、若衆の集まるキッチンに行く途中、何気なく顔を向けた。
 いつもならこの時間、万里子のピアノの音が聞こえるはずだが、今日は静かだ。
 確かに帰宅しているはずだが・・・。
 そう思って近づくと、万里子は確かにいた。
 しかし、いつもは座っている席にはおらず、少しピアノから離れた場所に立ち尽くし、足元を見つめていた。
「どうかしましたか、お嬢さん」
 声をかけたが、すぐには返答がなかった。
 飛水が万里子の視線を確認し、
「ピアノの下が気になるので?」
 と、もう一度問うと、やっと万里子の口元が動いた。
「いいえ、何も」
 そう言いながら、万里子は両目を閉じて小さく首を横に振る。
「いつも同じ曲ばかり聴きたがっていましたね。色々練習しましたのに」
 ポツリと呟くように息を吐いた。
 飛水の記憶に、まだ幼い万里子がピアノを弾く足元にうずくまり、ジッと耳を傾けるか細い少女が浮かんだ。
「そう言えば、同じ曲ばかり弾いていましたね、お嬢さん」
「だって、それを望まれるのですもの」
「・・・の割に、よく弾き間違えてましたね、お嬢さん」
 しんみりと話す口調に合わせるように飛水が返すと、いつもの毅然とした物言いが返ってきた。
「思い出さなくてもいいのよ、飛水。遠い昔の話でしょう」
 万里子が怒ったように笑った。
 飛水の口元がほころぶ。
「それほど遠くはなかったように思いますが、ひとまず忘れておきますよ、お嬢さん」
 それでは、と一礼して飛水はその場を去った。
 飛水の軽口で少し気は紛れたが、万里子はまたしばらくその場に立ち尽くし足元をただ見つめていた。

シューティング・ハート  暁のウォリアー  1

シューティング・ハート  暁のウォリアー  1

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-01-28

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