『ガラスの器と静物画』展
東京オペラシティアートギャラリーで開催中の『ガラスの器と静物画』はガラス作家である山野アンダーソン陽子さんがアートブックの制作の企画として始めた『Glass Tableware in Still Life』と連動した展示会である。
「自分が描きたいガラス食器」のリクエストを画家から聞き、山野さんが完成させた物を受け取った画家がそれをモチーフにした静物画を描くというユニークな作品交流を核とする本企画の主眼は文化的又は歴史的な背景を異にする者同士の間で生まれ得るイメージのズレを梃子にして、ガラス食器のあり方を将来に残るよう形にするという点にあった。山野さんはその出身や活動拠点が異なる画家からのリクエストを受けるにあたり言葉でのやり取りしか行わなかったというが、それも各人が日常的に用いる言葉にこそ上記した差異が最も現れると考えたからである。しかも具体的な形状を伝えるだけでは企画意図を実現できない画家の要望は必然、ガラス食器が存在する状況といった様々な情報も加わることで膨らんでいく。その狭間にあるニュアンスを、しかしながら山野さんが正確に理解できるとは限らない。寧ろ、言語表現を受けて得られた山野さん自身のイメージが混入したものとしてガラス食器は完成するに至る。必然、それを受け取った画家が描く静物画も当初のイメージ通りという訳にはいかなくなる。山野さんのガラス食器には宙吹きの技法によって生まれる歪みがそのまま残されているから、余計にそうだったかもしれない。展示会場でも拝見できたその歪みは見上げるような角度で視界に収めた時に気付ける作家のシグネチャーのようでいてその実、誰のものにもならない食器本来の美しさとしてこの目に飛び込んできた。その自然な痕跡に刺激されない画家ではなかったことを、同じく展示会場で鑑賞できる静物画が様々な形で証明するのだがモチーフとなったガラス食器はその近くに展示された状態で固有のイメージを伝えてくる。絵画と食器、それぞれの表現物が重複し合って離れ合う様子は非常に不思議な気持ちを筆者に感じさせた。曖昧な文節があるために物語の筋を見失う本を目の当たりにしている気分に陥りそうにもなった。そんな時に展示会場で目にする山野さんの言葉は本当に助けになる。『Glass Tableware in Still Life』を企画してから5年、その内容が実現するまでにあった紆余曲折を綴った山野さんのエッセイ本、『ガラス』から抜粋した文章はアートブックという終わりに向けて流れ去った時間を日記的に呼び起こし、ガラス作家でも画家でもない山野さんの立場から本展をガイドしてくれる。それに沿って鑑賞し直すガラス食器や静物画からは融け合う印象も、バラけた印象も受けない。対話という関係性だけが明瞭になってとても楽しい時間を過ごせる。
三部正博さんの写真について、ここで言葉を添えたくなるのもそのせいだろう。山野さんが制作したガラス食器と、そのガラス食器を描いた静物画の双方を画家のアトリエで撮影したというモノクロの写真表現には親密なる関係性が収まっている。寒々しさを彷彿させる位置と距離をさっぱりと洗い流しては、その内実を語り出す予感が画面の隅々にまで満ちている。ときに水の如く机上に零れ落ちる様子を見せる光線によって生かされる影と、浮き彫りになる器の形が画角の外にあるものを正しく伝える。故にまとまりのある画。それでいて、現在進行形の時間を思わせる。三部さんの作品があるかないかで本展の印象はきっと大きく変わっただろう。エッセイストとして言葉を紡いだ山野さんより自由な立ち位置で企画に携わった三部さんがそのレンズで捉えた記録群に覚える安堵感こそ、山野さんが未来に送りたいと願った「未来」たち。それを受け取った方たちが生きる今と、私たちの「今」を繋ぐ。この完結は見事というしかない。ヒストリーというべき営みに覚える感動があるのだ。
一風変わった、というだけでは決してないしっかりとした展示構成。興味がある方は是非、東京オペラシティアートギャラリーに足を運んで欲しい。
『ガラスの器と静物画』展