TL【眼差しより鋒をくれ】

女教師/血生臭くしたい予定

1


 射すような視線に気付く。雪は黒板から振り返った。黒板といいながら、濃い緑色の板へ押し付けられた白墨の粉が砕け落ちていく。
 教師である。前に立っているのだし、視線が集まるのは不思議ではない。授業中だ。黒板へ注目するほうが理想的なくらいである。だが、そうではない。今から引かれる白い線への関心ではない。それとは異質の眼差しがある。
 雪は、その主を探し当てた。これが初めてではない。だが誰のものなのかは曖昧にしていた。けれども、それももう叶わないらしい。搗(か)ち合ってしまう。
 色白の、髪の黒さがさらにそれを強調した男子生徒だ。癖毛が瀟洒(しょうしゃ)な印象を与えるために、頭髪の加工禁止の校則を犯しているように見えた。
「もう、鏑木(かぶらぎ)くん。そんな見つめないでよ。先生、照れちゃうじゃない」
 彼女はおどけてみせた。生徒たちが一気に鏑木という生徒を見遣った。最もベランダ側に近い列の最後尾、掃除用ロッカーの前の席である。クリーム色のカーテンも、彼を嘲笑うように、風を抱いて撓(たわ)む。
 どっと笑いが起こった。
 上手くやったつもりでいたのは、ほんのわずかな時間のことであった。一生徒が笑われてしまう結果になってしまったのだ。
「前を見るのはいいことだけれど、黒板ね。ほら、こうやって、内職してる子もいるんだから」
 雪は別の教科のワークを開いている生徒のもとへ行き、それを取り上げた。
「ごめ~ん」
 その生徒は両手を合わせた。ちょうどよかった。
「じゃあ、牧村くん。便覧の42ページを読んで」
 牧村はあたふたとページを繰った。
「うん。あ……待って、雪ちゃん」
「先生、ね」
「あ、うん、塔本せんせ。ここの字、読めない」
 開かれたページを覗き込む。牧村から、男性用ボディペーパーにありがちなシトラスとミントの匂いがした。
「先生」
 牧村の指が示す漢字を探る。その間に、また別の生徒が声を上げた。
「ちょっと待ってね―」



 雪は頭の沈む浮遊感で目が覚めた。ついていた頬杖で、そのまま顔を覆った。すでに日が沈んでいる。気怠い身体を無理矢理立ち上がらせた。
 ドアポストから紙が滑り落ちてくる。拾わずとも、書かれている内容は知っていた。今から出れば、入れた相手を捕まえられるはずである。しかし怖かった。相談する機関はいくらでもある。だが彼女はそれで安堵しなかった。


 学年主任に呼び出されたのは放課後のことであった。数日前の事柄についての指導である。つまり、鏑木という生徒に対しての注意の仕方が適切ではないという旨のことであった。生徒と教師である。あのような指導は誤解を招くらしい。実際、雪と鏑木が並々ならぬ関係にあるという噂さえ流れているらしい。或いは、雪が鏑木を贔屓しているとさえ。
 鏑木は、見目の麗しい男子生徒であった。それは雪も認めるところである。だが、子供である。親の保護と養育なしに何もできない子供だ。成績優秀で、授業態度も悪くはなく、対人関係にも何ら問題のない、手のかからないゆえの都合の良い愛らしさがあることは認めるが、そこに色恋の情はない。
 気にしていなかったことだけに、驚きと相俟って、大きな罪悪感を芽生えさせた。同時に内心では自己弁護しようとしていた。しかし謝るほかない。まずは、それを指導するしかない学年主任へ。それから、鏑木へ。
 鏑木の家へ電話を掛けたが、出たのは家事代行員であった。家が資産家らしかった。それを羨む声を聞いたことがある。
 雪もまた、公僕と蔑まれ、聖職とも謳われる教師だが、俗世間の、格差社会の一員である。社会的動物であれば、力関係というものを気にしてしまうのだ。税金を食み、公平と平等の理想を掲げようと、貧困家庭よりも資産家の力というものを恐れるのである。一口にいえば、彼女はこの瞬間、家事代行員などというそう普遍的ではない概念と触れ合ったときから、鏑木 兎馬(とうま)を恐れた。教室の端の、無害で穏和しい、手のかからない分存在の薄い生徒を。


 雪はドアポストの紙を拾った。溜めておくわけにはいかない。拾った機(はず)みで、習慣として、無意識に、二つ折りのそれを開いてしまう。
『淫乱教師』と書いてある。彼女は咳をするように乾いた笑いを漏らした。


 外面上は避けまいと努めていた。しかし意識してしまう。鏑木のクラスでの授業が苦痛になった。
 執拗な眼差しの往なし方も分からない。鏑木と関わりたくなかった。気付かないふりをした。そこにも気力を削がれていく。
「雪せんせ」
 牧村が呼んだ。素行は悪くないが、成績については悩ましい生徒であった。地頭は悪くないが鈍さがある。
「塔本先生、ね」
「うん。とぉもとせんせー。ここ、よく分からんです」
 教壇側の生徒が辞書か何かを取りに、ロッカーへと向かっていった。雪は牧村のほうへ寄って通路を空ける。
「先生」
 それが誰のものかなど、ろくに考える間もなかった。咄嗟に振り向くと鏑木が手を挙げている。
「ちょっと……待って………」
 牧村の質問が頭に入らなかった。窮鼠というのは大袈裟だったが、雪のなかに、ある閃きが起こる。
「みんな!分かった人は、分からない人に教え合おうか」
 ところが、無駄である。鏑木が他の生徒と親しくしているところなど見たことがない。あの生徒には友達などいないのだろう。
「あ!分かった。鏑木くん、問4でしょ?えっとね―……」
 牧村が勢いよく振り返る。日焼けで傷んだ髪が外へ上へと跳ねている。捻られた首から、ボディシートの清涼感が薫った。


 ピンポーン……
 ピンポーン……ピン……ピンポーン
 ピンポ……ピンポンピンポンピンポンピンポン

 シンクへ、何か物が落ちた。高い音が鳴る。雪の肩が跳ねた。幻聴である。だが彼女の心臓は早鐘を打ち、落ち着くのにはまだ時間がかかる。

 ピンポーン


「先生」
 そこに音もなく、鏑木が立ってる。
 放課後に受け持ったクラスで、書類をまとめていたときだった。生徒たちがみな帰り、職員室へ行こうとしていた。雪は座っていた。立っている鏑木を見上げるかたちになる。伏せがちな長い睫毛が反って見えた。瞳が、その奥まで曝け出さんばかりに雪を見つめている。授業中の、鋒(きっさき)じみた眼差しを注がれている。
「ど、どうしたの」
 雪は髪を耳に掻けた。無意識が、彼を恐ろしいものだと認識している。人間は俗世間に甘やかされ、人間至上主義を錯誤し、捕食者を気取っているけれど、所詮は被捕食者なのだと、知らしめられる。人間の世界では、目を合わせることが礼儀とされているが、野生動物ならば違うのだろう。それをまざまざと理解させられる。
「塔本先生に相談があるんです」
 彼女はこの子供が怖かった。忙しいふりをして立ち上がる。特に今する必要のない正理整頓をはじめた。
「授業のこと?どこか分からないところがあった?わたしの授業が分かりづらいとか……?」
 ゆえに、あのような、睨むのともまた異なる眼差しをくれるのか。
「違います」
 切り捨てるような即答であった。
「成績のこと?進路のことかな。西谷(にしたに)先生なら職員室にいらっしゃると思うけれど」
 授業内容の相談ではないのなら、クラス担任の西谷先生にするべきだ。
「塔本先生に相談があるんです」
「そ、そう……じゃあ、職員室で……」
 妙な噂が流れていると、学年主任は忠告したが、雪自身がそれを感じたことはなかった。だが火のないところに煙は立たない。煙を湯気と勘違いする輩もいる。煙かと思えば目脂かも知れない。
 だが、厄介なのは、鏑木の縹緻(きりょう)がいいことにある。教師と生徒。女と男。要らない誤解を招く。
「いいえ……他の人には聞かれたくないので」
 一体、何の相談だというのだろう。興味よりも、不安が募る。あの授業中、その視線について言及さえしなければ、疑うことなどなかったのだろう。
「忙しい……ですか」
 相手に忖度を求めるような沈黙があった。明らかに萎縮した鏑木の顔を見ると、雪も良心が痛む。
「分かった。多目的室でいい……?」
 雪は鏑木を置いていくかのようにせかせかと歩いて移動した。共にいるところを見られたくなかった。幸い、校舎に残っている人たちは少なかった。
「塔本せんせ~」
 スクイズボトルを持った牧村が、裏玄関から入ってきた。そこが部室棟から一番近かった。
 牧村は人懐こく雪のところへやって来て、それから後ろの鏑木を一瞥した。
「面談?」
「そ。牧村くんは部活か。頑張ってね」
「うん~。せんせ~、さよぉなら」
「さようなら」
 陽気な生徒は水道に用があるらしかった。部室棟の水道が埋まると、時折運動部が裏玄関からやって来ることがある。
 人気(ひとけ)のないところまで来た時だった。
「先生は、牧村がお気に入りなんですか」
 鏑木がぽつりとこぼした。
「え……?」
 立ち止まって振り返る。鏑木はふいと目を逸らした。
「……っ」
 眉間に皺が寄っている。
「何を言っているの?」
 厳しい口調になってしまった。また妙な噂が立つことを恐れた。牧村を贔屓しているつもりはなかった。ただあの生徒の気質として、関わり合いが多くなるだけである。
「なんでもないです」
「おかしなこと言わないで」
 鏑木とは何もないのだ。それを知らしめようとばかりに、語気が強くなる。しかしそれを鏑木に知らしめたところで、噂が鎮火するとも思えなかった。そしてその噂がどの程度、流布(るふ)しているのかも雪自身知らずにいる。
「……すみません」
 彼女は男子生徒を睨みつけてから、また歩を進めた。
 多目的室は増設されたばかりの多目的棟にあった。補習や選択制の科目で使われていた。どこか病院を思わせる内装であった。床が艶やかに照っている。校舎の陰気な古臭さがない。
 入ってすぐの部屋を選んだ。先に鏑木を通したが、閉めろとばかりの視線を食らう。他に人はいなかったけれども、教師として生徒のプライバシーは守らなければならなかった。
「それで、相談って?」
 鏑木の座っている机に、雪も椅子を回して座った。何気なく置いた手に、鏑木の手が伸びる。体温が重なった。瑞々しい肌理(きめ)を感じる。咄嗟に手を引っ込めようとしたが、乗っていた掌に力が入った。重みによって、手を退げることができない。児啼爺とかいう妖怪を思わせた。手を掴まれている。
「な、何……?」
「勉強に、身が入らなくて……」
 男子生徒は顔を俯かせていた。手を掴む力が強まっている。
「何か、悩んでいることがあるの……?」
 取り繕って笑みを浮かべる。手を退こうとするが、放そうとしない。雪は苛立っていた。自身にも悩みがある。それは目の前の生徒についてだった。教師が生徒に手を出しているなど、矜持を傷付ける噂だ。不名誉なことこのうえない。信用を失う。
 悩んでいるのはこちらであると怒鳴り散らしたい気分だった。そもそも、クラス担任の西谷に打ち明けるべきことである。そうでなければ、西谷の顔に泥を塗るようなものである。クラス担任を差し置いて、教科担任に相談を求めるなど。子供には分からない、縦の繋がりがあるのだ。
 牧村について揶揄されたことにも腹が立っている。
 雪の怒りは静かなものであった。黙っている鏑木を冷ややかに見ていた。黙っていては何も分からないと嫌味のひとつでもぶつけたくなってしまった。しかし体面を保っていたかった。相手が切り出すのを待つ。他人の体温が熱い。色の白い、涼しそうな鏑木にも体温があるらしい。
「先生のことばかり、考えてしまうんです……」
 彼女は手を引っ込めようとした。しかし固く握られていた。爛れそうだ。疼く。
「どうして?やっぱり授業が、分かりづらい?」
「……先生が、好き。先生のことが、好きなんです」

 インターホンが鳴った。この高い音が嫌いだった。
『姉ちゃん、オレだよ、オレ』
 雪は安堵した。けれど恐ろしくも慌てて玄関扉を開いた。弟の霰(あられ)が立っている。
「よかった……霰。変な人に会わなかった……?」
 彼女はすぐに弟を引き入れようと腕に触れた。だが躊躇した。弟は数日前に、何者かに切り付けられたのだった。
「ああ、さっき、モデルみたいなイケメンとすれ違ったよ。こんなマンションにも、あんな人がいるんだねぇ」
「こんなマンションって。一応わたしが住んでるんですけど」
「はっはっは。でもどうして?何かあったの?」
「ううん。別に」
 霰は切り付けられたことについて、まったく気にしている様子がなかった。楽観的なのだろう。酔っ払いや、質の悪い人間の仕業だと思っているらしかった。警察にすら通報していない。そういう人間はどこにでもいるのだそうだ。しかし呑気なことである。
「あ、そうだ、これ、お土産ね」
 ケーキの箱が差し出される。最近は、必要最低限の外出しかしていなかった。弟なりに、そんな姉を気遣っているらしい。
「ありがとう。わたしもそろそろ、とりあえずアルバイトからでも、働きに出ないと……」
「なんだよ、急に。……もう少し休んでいたら。お金のことなら気にするなって、親父も言ってたし、さ」
 弟が笑った。ふと、亡くなった生徒の顔がそこに重なった。


「……勘違いじゃない?」
 静かな部屋であった。早まっている鼓動を聞かれているのではあるまいか。彼女は努めて冷静な態度を装った。
「あなたたちくらいの年頃になるとね、年上の女の人に憧れを持ち始めるの。教師としてはあまりこう言える立場ではないけれど、そういうのは、本当は同じ年頃の女の子たちに向くものだから、きっと勘違い。聞かなかったことにしてあげる。だから勉強、頑張ってね。次のテスト、楽しみにしているから」
 語気が柔らかくなるように、彼女なりに努力したのだった。この男子生徒は、教師にそういったことを打ち明ければ、相手にどれほどの負担がかかるのか理解していないのだろう。成績は優秀だが、結局のところまだ子供である。子供を突き放さなければならないのには気力が要る。
「勘違いではありません。勘違いなんかじゃないんです」
「今はそう思うだけ。もう少し大人になったとき、きっと今の発言が軽率だったと気付くだろうし、きっと恥ずかしくなると思うの。先生は忘れるから、鏑木くんも、もうそのことはあまり考えてはだめ。勉強も大事だろうけれど、少し休んだほうがいいんじゃない?睡眠時間はきちんととれているの?しっかり食べて、しっかり寝る。それが大事」
 この生徒は何を期待しているのだろう。たとえそれが本気の恋慕だったとしても、教師と生徒で恋愛をするわけにはいかない。それを知らないのであろうか。勉学一辺倒というのも考えものである。
 重なっている手が冷えていく。そして這うように去っていった。
「どうして、先生は……そんなふうに言うんですか。困るなら困ると言ってくれればいいじゃないですか。どうして、俺の気持ちごと否定するんですか。俺はずっと、今後……この気持ちは全部、勘違いかも知れないって思いながら生きていくんですか」
 雪の目は、無意識に鏑木を疎んでいた。視界に入らないようにしていた。所在なく、窓の外を凝らしていた。この学校の生徒の溜まり場になってしまいそうな密集した商業施設を。斜向かいのホームセンターは、最近できたばかりで、敷地内には一軒屋のファストフード店を抱えている。そういう場所で、生徒同士語り合っていればよかったのだ。何故、本人に撃ち落とされに来るのであろう。
 ところが彼女は、震える音吐(おんと)を聞き、鏑木のほうを向いた。俯いているために脳天だけが見えた。加工を疑ってしまうウェーブした黒い髪が垢抜け、よく似合っていた。指導されたとおり、直毛に矯正はしていないようだ。加工は原則禁止のはずだが、直毛にするならば加工が認められているのもおかしな話である。
 背は平均的にはあるけれども、華奢な肩を戦慄かせ、やがて小さな水滴を落とした。
「俺は確かに、未成年で、年下です……断られるのは仕方ないと思っていました。でも、そんなふうに、なかったことにされるなんて思ってませんでした。勉強が手につかないのも、ごはんが喉を通らないのも、眠れないのも、全部……気のせいだっていうんですか。ただ断ってくれるだけで、よかったんです、俺は」
 彼女は子供に求め過ぎてしまった。断られることを理解しているのなら何故打ち明けたのか。断る側の労力について慮りはしないのか。それを知らされて、今後どのように接すればいいのか。相手は教師といえど他者である。甘えすぎだ。鏑木を責める言葉が喉の辺りで渦を巻き、段々と腹が立ちはじめた。しかし、己の立場を鑑みれば、呑み込むほかない。教師である。大人である。相手は未成年で、生徒だ。
「分かった。それは先生が悪かったよ。鏑木くんの気持ちを否定してごめんなさい。打ち明けてくれてありがとう」
 苛立ちに身体が熱くなっていた。だが雪は、そういう内面はひた隠し、この場の空気に合わせ、毅然とした態度で接していた。
「……時間を割いてくださって、ありがとうございました」
 鏑木は静かに席を立った。


 インターホンが鳴った。今度こそ、鼓膜を震わせ音である。頭の中で鳴り響いている音ではなかった。
 雪は出るか出まいか迷った。
『ガス点検でーす』
 忘れていた。そういうはがきが確かに来ていた。エントランスのポストは封じてしまったため、中傷ビラに紛れて、ドアポストに届いていたのだった。今日だったらしい。彼女はチェーンを外して、玄関扉を開けた。何か白いものが、ドアから落ちていく。紙であった。玄関前は紙が散乱していた。ガス点検業者にすまなく思った。
「やっと出てきてくれた……」


 ただでさえ気の重かった授業は、鏑木によってさらに嫌気が差してきていた。告白は断ったはずである。相手もそれは承知しているかのような口振りであった。だがあの眼差しは今も変わらない。
「雪せんせ~」
 息苦しさのあまり溜息を吐きたくなったとき、牧村が手を挙げた。
「塔本先生、ね」
「とぉもとせんせぇ、ここ分かんない」
 雪は牧村の開く教科書を見遣った。そして説明文に線を引き、解説する。
「おお~、とぉもと先生、好き~」
 にぎやかな生徒には、にぎやかな友人たちがついている。牧村、塔本先生のこと大好きだからな。
「あら、嬉しい。プラス5点してあげちゃう」
 ふざけがちな牧村とその友人たちに、雪なりにふざけたつもりだった。しかし視界を突っ切るような眼差しに気付くと、そちらを見遣らずにいられなかった。鏑木の燃えるような双眸に曝されていた。毛穴のひとつひとつに薪を焚べるかのような視線なのだ。
 雪は慄然として、目を逸らす。生徒たちとのじゃれ合いは楽しかった。しかし冷水をかけられた気分であった。水を差された心地である。
「さ、みんな。あと2分、頑張ってみて」
 腕時計を確かめて、手を打ち鳴らす。
「先生」
 鏑木が、呼んだ。
 雪はその男子生徒を一瞥した。
「分からない人がいたら、教え合ってもいいよ」
 ところが人数的に、鏑木の席だけぼこりと1つ後ろに出ているのだった。とはいえ、周りにも生徒はいる。しかし決まって、仲の良い間柄でしかコミュニケーションは生まれなかった。鏑木は艶福家ではあるようだが、こういったときに頼り頼られる相手ではないらしかった。
 雪は、焦った。
「先生。分からないです」
 行かねばならなかった。オフィスサンダルを踏み出した。
「何、鏑木くん。どこが分からないの?」
「塔本先生!問5じゃない?そこはね、」
 牧村は4つほど席の離れた鏑木を振り返って、先程雪が解説したところの説明をはじめた。成績は悪いが、地頭はそう悪くない生徒だった。
「どう?今ので、分かった?」
 鏑木は牧村のほうを見ていたが、話が終わると、雪を見上げた。瞳孔のすべてで食らいつこうとするような貪欲な希求を、彼女はそこに見つけそうになってしまった。
「分かりません、先生」
 無防備に、机に手を置いた。
「どこが分からないの?全部解けてるみたいだけれど……」
 そこに他人の体温が重なる。反対の手で、設問をなぞろうとしたときだった。
「先生……やっぱり俺…………先生のことが、」
 冷たい手に、強く握られる。何故、今言うのか。何故……
「もう、鏑木くんたら。答え、もう分かってるじゃない」
 牧村に接するように声を上擦らせた。
「正解。答え合わせするまで、待っててね」
 逃げるように教壇へと戻る。もう鏑木のほうを見ることができなかった。

2


 そこに点検業者はいなかった。背の高い青年が立っている。ほんの一瞬でも、色白い肌に癖のある黒髪が分かった。そしてその下の、温血動物を装った冷徹な眼差しと美貌を理解した。雪は扉を閉めようとする。しかし手が割り入った。さらにはわずかな隙間をさらに抉じ開けて、爪先を挟む。
 扉を閉め切ることはできなくなってしまった。
「逃げるなんて酷いです、先生……」
 雪は頭を真っ白にしていた。何故チェーンを外してしまったのか。
 逆光した顔の奥に、感情は見えない。
「先生」



 仕事の面倒臭さはあった。働かずに済むのなら働きたくはなかった。けれども経済的事情を差し引いたとして、働かずにいれば己の堕落も予見できた。今の給料に満足していたわけではなかったが、転職するほどの不満ではなかった。やり甲斐も皆無ではなかったし、他の仕事と想像のみで比較するのだとしたら、然程嫌気が差しているわけでもなかった。煩雑な事柄もあるけれど。そして雪にとって顕著に感じられたのが今現在であった。
 素行不良や成績不良とはまた違う不安を煽る生徒がいる。辛辣な生徒や、嫌味な生徒のことは知っている。だがそれとも違うのであった。苦手や嫌悪ともまた異質の、それは恐怖であった。
「先生」
 憂鬱である。雪は鏑木(かぶらぎ)のクラスの担任ではないが、同じ学年の別のクラスを受け持っていた。その男子生徒は待っていた。どこかで待ち構えている。教室の並ぶ廊下を抜け、階段を降りるときに呼びかけるようになった。呼ぶだけ呼び、用事はないのだ。振り返り、目が合う。男子生徒は悪癖を持ってしまった。用がないことは分かっている。だが聞かなかったことにして、本当に何かあれば問題になる。憂鬱だった。教室を出ていく生徒の後ろをついていったこともある。特に関心のないことを訊いてみたりもした。だが鏑木には、関係がなかった。まるで噂を裏付けるように、信憑性を強めるためかのような行動をとる。
 雪は振り返った。階段の上にいる鏑木の見下ろした視線は彼女の隣の男子生徒に注がれる。冷ややかな、蔑みを込めた恐ろしい眼差しであった。咄嗟に男子生徒の肩に置いた手を下ろす。
「ごめんなさい、鏑木くん。今は構っていられないの。何か大事な用事?」
 もしここで、声をかけたのが鏑木ではなかったなら。おそらくそのような物言いにはならなかった。もう少し語気を緩めることもしただろう。
 鏑木は、雪の隣で鼻を押さえる牧村から視線を逸らした。
「いいえ」
「そう……」
 踊り場で折り返すときに、雪は上を見遣った。鏑木はまだ段差の寸前に立ち尽くしている。まるでそこから飛び降りるかのようであった。そしてその男子生徒の不気味さは、実際、そうしてしまいかねなかった。
「ん、せんせ、オレ大丈夫だよ。鏑木くん、用があるんでしょ?」
「大丈夫よ。牧村くんのことが心配だったんじゃない?」
 また新しくポケットティッシュを出してやる。牧村の鼻血はまだ止まっていなかった。
「あんま仲良くないケド、優しいんだ」
「仲良くないの?」
「オレは仲良くしたいケドさ、もしかしたら嫌われてんのかも。オレうるさいでしょ」
 牧村はへらへらと軽快に笑っていた。好意を寄せてくるのが牧村のような生徒であれば、不快感はなかったのかもしれない。素直に、あっさりと、決着するのかもしれなかった。



 雪は腹の底から冷えていくのを感じた。空ではヘリコプターがぱらぱら音を立てて飛んでいる。彼女は目を見開き、訪問者の顔を凝視していた。借金の取立てではなかろうか。警察を呼んでしまいたい。しかし呼べば、己の過去を掘り返すことになるのだった。
「先生……やっと捕まえましたよ」
 だが雪は部屋の奥へ逃げた。鏑木は柔らかく微笑んだ。あれから時を経て、無愛想な生徒も丸くなったらしい。
「先生……」
「もうあなたの先生じゃないでしょう」
「けれど、昔、俺の先生でした」
 玄関を入ってすぐにキッチンであった。鏑木は室内を見回し、深呼吸している。否、深呼吸ではなかった。彼はこの部屋に漂う空気を吸っていた。そして嗅いでもいた。ふっさりと睫毛に覆われた目を眇め、恍惚としている。
「先生の匂いがしますね。先生と同じ空気、美味しいです」
 雪は息ができなかった。息をしているつもりで、酸素が入ってこなかった。肺に穴が空いているみたいだった。焦ってしまう。呼吸を急いた。誰かが耳元でぜぇぜぇやっているが、他に人はいない。
「大丈夫ですよ、先生……先生の分の酸素を吸うなんてことはできませんから」
 妙に人懐こい、距離感の分かっていない、親近感の狂った揶揄の色が、その笑みと目元に滲んでいる。
「ああ……先生………」
 彼は後ろ手に玄関扉を閉め、鍵を掛けると、キッチンにあった包丁を見遣って上擦った声を漏らした。きぃん、と耳障りな、甲高い金属音があった。


 気が重かった。あの気味の悪い男子生徒のいるクラスの授業がない日にまで、雪は不快感を抱えていた。どこかで監視されている。そして待ち構えている。隙があれば声をかけ、見送っている。常軌を逸してる。だが相手は子供である。大人の庇護と養育なしに、何もできない未成熟な人間である。雪は児童とそう変わらない者に対して怯えている自身が嫌になってしまった。誰かに相談できるはずもない。自尊心が邪魔をする。
 何かしたわけではないのに肩が凝る。首を持ち上げる気力もなく、俯いて歩き、足元ばかり見ていた。それは失敗であった。無理にでも我慢をして、健気に、前を向いて歩くべきであった。そうでなければ餌食になる。神だの運命だのは、或いはそういう人間を、モラルハラスメントの常習者のごとく、不幸に見舞われてもいい個体だと判別するらしかった。
「先生」
 辿り着いたそこは職員玄関であるはずだった。教室でも教室棟の廊下でもない。幻聴まで聞こえるようになったか……
「先生、おはようございます」
 顔を上げると、鏑木が立っていた。額に包帯を巻き、片腕を吊るしている。
「……お………は、よう………どうしたの、その怪我………」
 ガラス玉のような目が、ぎとりと雪を捉えた。
「昨日、階段から落ちました」
 人の瞳孔を抉じ開けて、中に入ってこようとするかのような粘着質の眼差しが嫌であった。怖かった。
「……そう。大変ね。西谷(にしたに)先生を待っているの?」
 だが命に別条はなさそうであった。返答を求めてもいない問いを投げ放しにして、パンプスからオフィスサンダルへ履き替えると、怪我をした男子生徒の脇を通っていった。
「牧村ではなくて残念でしたか」
 すれ違った直後だった。日当たりの悪い暗い廊下を通らなければならなかった。快晴の日の昼間でも明かりを点けなければそれなりに不便な場所だが、そもそも明かりを点けるほど長居をするところでもなかった。階段の踊場から差し込む北側の外光が頼りであった。そういう不気味な場所である。
「何?」
 雪は語気に不快感を込めた。だがそれだけでは伝わらないような気がした。
「何が言いたいの?」
「待っているのが牧村ではなくて……」
「どうして牧村くんがここで出てくるの?」
 あの愉快で賑やかな男子生徒の言うとおり、嫌い嫌われている関係なのだろうか。
「それとも安心しましたか」
 鏑木は雪の問いには答えなかった。新たな問いを重ねるだけだ。
「階段から落ちたのが、牧村ではなくて……」
 卑屈な態度も気持ちが悪かった。痛々しかった。寒々しい。しかし相手は子供であり、生徒である。雪は浴びせたくなった辛辣な言葉を呑み込んだ。
「誰なら安心するとか、誰なら残念とか、あるわけないでしょう」
 雪は吐き捨てて階段を上っていった。そしてふと昨日の出来事を思い出す。階下を凝らす悍ましく冷たい美貌と、職員室まで届いた救急車のサイレンを。
「先生」
 振り返る。嫌であった。しかし相手は子供で、生徒であり、自身は大人で、教師である。
 階段へやって来る鏑木は、片方の足を引き摺っていた。
「何……?」
 化け物が階段を這い上がってきている心地だ。
「職員室まで、一緒に行きます」
「西谷先生を待っているんじゃないの?まだ来ていらっしゃらないはずだけれど」
 遠回しの断りが伝わるはずはない。いいや、伝わったかもしれない。だが拒否の意を汲む相手であろうか。
「先生を待っていました」
 相変わらず、表情の乏しい、凍てついた顔をしていた。日陰を介した北向きの窓から入る外光が青白く差し込んでいる。包帯も制服も透けているみたいだった。まるで幽霊。この学校には幽霊がいるに違いない。階段で怪談に触れている。
「何か用があったの?」
「いいえ。好きだから、待っていました。先生のことが好きだから」
「鏑木くん。そういうのは困るよ。潔く断ってくれたらそれでいいって、鏑木くん、言っていたでしょう?」
「諦めきれなくて……」
 雪は周囲を気にした。誰かに聞かれていたら、教師生命を絶たれるかもしれない。
「諦めて。どうしても叶わないこともあるの。鏑木くんは先生に告白してくれた。先生はそれを断った。それがすべてなの。期待しないで。諦めることなの。教師と生徒っていうのはそういうもの。鏑木くんくらいの年頃だと、もう自分を大人だと思うのかもしれないけれど、年齢で考えてみて。まだ未成年でしょう。子供なの。子供の告白に応えるのはろくでもない大人。相手が先生ではなくても、よく覚えておいて」
 それは為倒(ためごか)しでもあった。自覚もしていた。そうやって教師としての矜持を保とうとした。
「分かっています。分かっているから苦しいんです……」
「そういう目で見るから、期待してしまうんじゃないの」
 伏せ気味の顔が、ふっと持ち上がった。美しい面構えが引き攣って歪む。硝子玉のように澄んだ目が、北側から入る呆気ない光を受けて潤んで見えた。


 雨が降り、夜空の下でアスファルトは外灯によって、白く照っていた。そしてその上に、雨粒だらけのビニール傘が転がっている。その傍には墨が降ったような光の届かない場所がある。そこには誰か、倒れている。アスファルトを濡らしているのは、果たして雨水であったろうか。
 雪は気付いてしまった。見知った服が、質量を包んでそこに寝ている。
「ああ……!そんな………」
 新しいパンプスに踵を苛まれていたことも忘れた。彼女は走った。濡れることも厭わず、アスファルトに膝をつく。
「霰(あられ)ちゃん……!霰ちゃん……そんな………」
 弟だった!そこに仰向けに寝転んでいたのは弟であった。彼に持病はなかった。急病であろうか。雪は弟の身体を揺らすのをやめた。退勤後に、姉の元を訪れようとしたのだろう。スーツ姿であった。シャツに血が滲んでいる。二箇所、三箇所、四箇所、五、六……
「霰ちゃん……」
 そして我に帰った。高機能携帯電話を取り出した。救急車を呼ばなければならない。そして警察を……
「霰ちゃん……霰ちゃん…………お願い…………」
 雪は癇癪を起こしたようにぼそぼそと呟いた。

「先生」

 ぱんっ、ぱんっと暗闇のなかで何が破裂する。霧のような煙がまろみを帯びて爆誕し、透けながら形を変えて消えていく。火薬の匂いが鼻を突いた。ふたたび、ぱんっ、ぱんっと爆竹が鳴らされている。犯人はまだ傍にいる。
「ああ………あああ………」
 震えながら身を伏せ、雪は平たい携帯電話を頼るほかなかった。弟に縋りつき、泣きべそをかいた。鼻炎を起こしたみたいに鼻が詰まり、火薬の匂いはもう嗅げなかった。鼓膜を殴るような破裂の音もしなくなった。だが足音が近付いているのだった。

 かちゃ……かちゃ……くっ、くっ、こっ、こっ、ごりり……

 姿勢を低くしていた雪の視界に暗い色の長靴が入ってくる。それが救いの手とは思えなかった。見上げていく。雨粒をつけた丈長のレインコートの裾が見えた。その者はフードを被り、顔は見えなかった。黒い不織布のマスクがしっとりと暗闇を吸っている。
「え……?」
 目の前で閃光が走る。雪も持っている平たい小型の板とその奥の顔が見えた気がした。だが暗い中で強い光を向けられた雪の視界は少しの間、頼りにならなかった。
 長靴は踵を返した。路盤の細かな凹凸に挟まる砂利を踏み、薄らと層を作る雨水を散らしていく。


 雪は学年主任に頭を下げた。或る生徒にハラスメントをしたことについて注意を受けたのだった。尊厳を蹂躙するような、辛辣な言葉遣いは控えるようにとのことだった。まったく、身に覚えがない。
「申し訳ございません……」
 体罰も禁止され、正論であっても笑顔のひとつでも忘れたならば、飴のひとつでも与えなければ糾弾されるのが今の時代なのだという。
 雪は職員室を出た。またすぐに授業がある。溜息を吐いている暇はない。
 引戸を後ろ手に閉めた。
「先生」
 まだ、進行方向にさえ目を向けていないときだった。鏑木が出迎えるように立っている。雪がハラスメントを行ったという生徒は匿名だったらしいが、誰何(すいか)の必要はなかった。分かっていた。その者は今、目と鼻の先に佇んでいる。
「おはよう……」
 額に包帯を巻き、片腕を吊るし、片足を引き摺っている鏑木は、不気味な美貌に微笑みを浮かべた。
「おはようございます、先生」
「何か、用……?」
 上手く柔らかな表情を作れなかった。語気も威圧的になってしまう。
「荷物、お持ちしますよ」
 雪の手にはワークがタワーマンションみたいに重なっていた。採点が、各クラスの週番の回収に間に合わなかったのだ。
「鏑木くんは怪我しているでしょう。気持ちだけ受け取っておきます。ありがとう」
 反芻する。おかしなことは言っていないはずだ。自身の言葉は適切であっただろうか。揚げ足を取られはしないだろうか。
 職員室の前には生徒会室があった。そして職員室と生徒会室の間にはトイレがある。教室棟の西側にはトイレがないために、西側の教室を使っている者たちは、渡り廊下を通り、この職員室と生徒会室の間のトイレを主に使っていた。そこから牧村が出てきた。
「んお、とぉもとせんせ」
 それは闇夜の提灯であったのか。はたまた、余計にややこしくなるのか。だが雪は、助かったと思ってしまった。
「おはよう、牧村くん」
「おはよぉございます。せんせ、それ持とうか?重くないん?」
 いつもはふざけているが、根は気が利くのだろう。牧村からは壁に隠れて鏑木の姿は見えていないらしかった。雪は、断ったばかりの怪我人を一瞥してしまう。冷ややかな眼差しである。
「あら、牧村くん。お手々洗った?」
「当たり前ぢゃん。オレは手を洗う派なんだよ。水洗いだケドね~」
「そう。じゃあお願いしようかな。まだあるから……先に教卓に運んでおいてくれる?」
「ほ~い」
 そして受け取りにやってきた牧村は、鏑木に気付いた。気拙げな会釈を目にした。鏑木はそれに応えることもせず、足を引き摺り渡り廊下を行ってしまった。
「へへへ」
 咄嗟に牧村と顔を見合わせる。微苦笑を向けられた。
 雪が残りのワークを取ってくるまで、牧村は職員室の前で待っていた。彼女を見上げて人懐こく頬を緩める様はゴールデンレトリバーを彷彿とさせる。
「ありがとうね、牧村くん」
「ううん。この前お世話になりましたもん。オレは義理堅いんです!」
 2つの高層ビルみたいなのが教卓に置かれた。牧村はへらへらと笑って席に着く。ちょうどいいところでチャイムが鳴り、雪は生徒たちへ着席を呼びかけた。教室を見回した。しかしベランダ側まで視線を這わせることができなかった。鋒(きっさき)のような眼差しを返されている。


「俺の純情を弄ぶからいけないんですよ、先生」
 首を絞められたわけでもないというのに、呼吸に満足できなかった。
「先生」
 酸素を求めた。酸素の代わりに、恐ろしい男を吸い寄せていた。鼻先のぶつかりそうなところに人影がある。ふっさりした長い睫毛に囲われて、ショコラみたいな色の瞳がじとりと雪を見ていた。目に入れても痛くない、などという大袈裟な慣用句があるけれど、本当に、目に入れてしまいそうであった。彼女に見えるのは、丸い泥水の中を揺らめくボウフラのような虹彩である。
「ひ……っ」
「先生……どうして俺を怖がるの?俺、先生に何かした?先生は俺より年上で、俺は教え子です。先生のほうが偉いのに、どうして俺を怖がるの?先生……」
 雪は肩で息をし、喘鳴を漏らしていた。顔の前には、白刃が閃いている。包丁である。
「そ……んな、…………」
「先生、ちゃんとお料理しているんですか?俺も先生の手料理、食べたいな……結婚したら、食べさせてくれるんですよね?」
 包丁の刃が翻される。きらり、きらり、輝く。
「う、うう………」
「先生、寒いの?温めてあげます。女の人は冷やしたら大変ですからね。特に先生は、俺の子を産むんだから……」
「そんなもの………しまって…………」
 その包丁を何に使う気なのだろう。一体何を切るというのだ。野菜も肉も魚も果物も、この家には置いていないというのに、一体何を加工するつもりなのだ。
 おそるおそる手を伸ばした。日常に潜む凶器を返してくれるかもしれなかった。
 親指に厳しく鋭い痛みが走る。
「あっ、アア……」
 痛みだけでは終われない。恐ろしさが痛覚を過敏にした。感情を刺激する。小さな痛みが命の危機を予感させる。
「先生……なんてことを」
 鏑木は刃物を捨てた。そして雪の手首を鷲掴むと、赤い玉を浮かべた彼女の親指を口に入れてしまった。
「先生……ああ………先生の味がする。先生の汗と血の味がします。先生………美味しい…………先生」
 彼は雪の指を啜り、掌まで食べる気らしかった。
「ひ、ひぃぃ……」
 声が出ない。顎ががたがた震え、歯がかちかち鳴っている。錆びついたブリキの軋るような音を喉から漏らし、咥えられた己の手を見るので精いっぱいであった。
「先生……美味しい…………先生、食べたい。もっと、食べたい」
 手が涎まみれになっていく。指はふやけていた。


 隣の隣のクラスで悲鳴を聞いた。怒声にも思えた。ベランダからである。慌ただしい声が聞こえ、それから廊下を走っていく生徒がいた。只事ではなさそうだった。生徒たちがベランダを気にする。雪は隣の教室を覗きにいった。生徒たちがベランダ側に集まってさらに隣の教室のほうに集まっていたし。数人はベランダへ出て、手摺の下を見ていた。雪は自身の受け持つクラスの隣の隣のクラス、7組へ顔を出した。やはり教員はいなかった。指示を出さなければならない立場になってしまった。
「何があったの?」
 騒然としている教室内では、声を張らなければならなかった。問題はベランダで起きている。人垣から離れている生徒が、窓ガラス越しに振り向いた。鏑木である。雪を捉え、口角を吊り上げる。鏑木が何かやった。この騒動を引き起こしたのは鏑木だ。嫌な確信があった。証拠がないのである。しかし確信が揺らぐことはない。
 彼女は生徒たちを掻き分けてベランダへ出る。
「牧村が転落しました」
 説明したのは鏑木である。あまりにも冷静な口振りであった。雪は手摺の下を覗いた。見慣れた制服姿が仰向けになって倒れている。頭の周りにだけ血溜まりができて、シャツがいつもより白く見えた。雪は肝を潰した。
「すぐに職員室に行って。もう行ってるの?」
 最西端8組の野次馬を掻き分け、外階段から下へ降りた。青空と対峙した牧村は微動だにしない。桃色がかった灰色の、豆腐の欠片みたいなものを飛散させ、その双眸は鏡面と化し空を映していた。鼻と耳からも出血が認められた。投げ出された手は朽ちた花を思わせる。
「牧村くん……?」
 開いたままの唇は乾き、薄皮は鱗のような模様を透かしていた。雪は、7組を見上げた。鏑木が、見下ろしている。クラスメイトを見ていたのだろうか。違う。あの男子生徒が見ているのは四肢を投げ出したクラスメイトではなかった。
「牧村くん……しっかりして。牧村くん」
 手を握った。力が感じられない。指は弛緩していた。
「牧村くん………牧村くん!」
 鏡面のような眼は空を茫然と凝らしたままだった。しかし唇がわずかに動く。音はなかった。握った手に、反応があったよう気がした。次々と、教師たちがやって来る。携帯電話を片手に、教頭が何やら喋っていた。野次馬がぞろぞろとベランダに溢れ返る。校庭からもぞくぞくと野次馬がやって来た。外から見たら、何かの行事に見えたことだろう。
 ドクターヘリが来るらしかった。体育の授業は中止になり、臨時集会が開かれるしい。
「牧村くん……」
 雪は、教師たちの会話を見上げていた。握った手にまた反応がある。
「せ………ん、せ」
 それが牧村から発せられた、最期の言葉だった。

3


「どこに行こうっていうんですか、先生。どこに行くんです?俺を置いて……先生。先生は俺と結婚するんですよ」
 鏑木(かぶらぎ)は上着のなかへ手を入れた。大枠のなかに、さらに記入欄らしきものがブロックのごとく敷き詰められ、さながら中高の答案用紙を思わせる。
「それは、何……」
 雪は、己の考えを否定してほしかった。そうではないと知りたかった。こういうときは、否定がほしかった。人とは難儀で、げんきんで、不可解である。
「婚姻届です。できれば、先生にも書いてほしくて。こんな形になってしまいましたが、先生……結婚してください。そうだ、指輪も。とりあえずの号数なので、合わなかったら直しに行きましょう。先生……?手を出して?」
 舐め苛み、脅迫同然に歯を立てた手は右手であった。鏑木の物欲しそうな目は、彼女の左を射す。
「いやよ……結婚なんてしない…………どうして、あなたと………」
 譫言のようだった。鏑木が何をしたのか、すぐさま浮かぶのだ。この男と出会ってしまったことが、人生に於いて最大の不祥事であったのだ。
「ヘリーウィーンズストンですよ。女性の憧れだって聞きました」
 ブルーブラックにシャンパンゴールドの印字がよく映えたボックスであった。確かにそれは、宝飾品を扱かうブランドのなかで特に高級で有名だった。
「気に入りませんでしたか。それなら、先生が好きな指輪を買いに行きましょう。いいですよ、どれでも好きなものを選んでもらって。頑張ってたくさん稼ぎます。愛してもらえるように……」


「自殺なわけありません……牧村くんが自殺なわけ……」
 それは自己暗示ではなかった。己に言い聞かせているのではなく、抗議であった。
「では事故だと?」
 牧村は殺されたのだ。突き落とされたのだ。しかし雪は首を振れなかった。
「あの生徒は日頃からベランダの手摺りに腰掛けていたというじゃありませんか」
 別の先生が言った。雪の言葉を擁護するかのようであった。しかし違う!彼女が言いたいのは、事故ではない。
 それでは、事故でしょうね。
 空気はそうなっていった。これは殺人であると、雪は言えなかった。鏑木がどう、牧村をベランダの手摺に乗せたというのだ。牧村は鏑木より背は低かったが、特別小柄ではなかったし、身長こそ牧村のほうが小さくとも、彼は華奢な鏑木とは違って筋肉質であった。何の騒動もなく手摺の向こうに押しやることは難しい。何よりも鏑木は負傷していた。跛行(はこう)していたはずだ。つまり鏑木が牧村を突き落とすことは、そう簡単にはいかなかった。
 事故なのだろうか。自分が誤解しているのだろうか。何が何でも鏑木を犯人にしたいだけなのだろうか。雪は迷った。
 しかし。
 精神的に傷を負った鏑木は、保健室登校であった。そこにクラス担任ではない雪が呼び出される。あの場にいた雪にしか、「今は心を開けない」とそう口にしたそうである。職員室中から白い目で見られている気がした。後ろ指を指されているような。良からぬ噂は一体どこまで広まっているのか。
 鏑木くんは一生徒です。
 だから立場を弁えよ、という意味なのか、それとも、だから徹底したケアをするべきだと続くのか、雪には分からなかった。クラス担任の西谷の目も怖かったが、実際のところは、教科担任でしかない雪を頼られている件について自体を特に気にしているふうではなかった。
 雪は、行きたくなかった。だが職務のひとつであった。事件を解決しなければならない。だが殺人を事故にされるくらいなら、解決或いは決着などしないほうがいいのではなかろうか。 
 牧村は2日間、生きていた。意識もなく、管を通され、包帯を巻かれ。その心臓が止まったと知らされたとき、雪は安堵した。一生徒とその教師に過ぎない赤の他人として、安堵してしまった。元の生活には戻れない。牧村は牧村として、もう生きられない。息をさせられ、心臓は鼓動するけれど、笑わない。喋ることもない。家族にとって、牧村は息子であり、弟であり、甥であり、孫であったろう。だが雪には、怪我の状態からして意識を取り戻したところで、それは牧村ではなかった。牧村の顔をした誰かだった。
 そしてこの考えに、雪は己を軽蔑した。生きてさえいればそれでいい。教師ならば、外連味(けれんみ)のない、無難で、模範的な解答を持っておくべきだ。
 雪は保健室のドアを開けた。養護教諭とテーブルを挟んで鏑木がいる。頭の包帯は取れたようだ。鏑木は目で養護教諭を追い出した。
「先生」
 雪は目を合わさなかった。黙って、まだ養護教諭の温もりが残る椅子に腰を下ろす。
「先生。牧村のことは……」
「そうね」 
 冷たく吐き捨てた。
「いいやつでした」
「本当に、いい子だった。明るくて、優しくて、いつも助かってた。とても頼もしい生徒だった」
 鏑木の胸元の、あまり反射のない、凹凸の質感が荒いテーブルを凝らしていた。
「……ですが、あまり、成績はよくなかったですよね」
 やっと、雪は鏑木を睨んだ。
「成績が何?確かに大事なことだけれど、他人の競争より、自分のベストを出せればそれで十分。牧村くんはそれができた。他と比べて成績が良くなかったから何?牧村くんを貶める理由にはならない」
「それでは負けるじゃありませんか。テストも受験も競争です。席の数は決まっています」
 鏑木の声が微かに低くなった。眉の動きにも雪は気付いた。
「自分のベストが出せたから何だというのです。それで赤点を取っても補習はあります。親からは怒られます。志望校に落ちたら、将来も危ぶまれる。教師は生徒にそう言うしかありませんが、生徒は現実問題、そうも言っていられません。先生だって、それは分かっているはずなんですから、茶番です」
 そこでやっと、視線を長いこと搗ち合わせていた。
 牧村は自分のせいで死んだのかも知れない。殺されたのかもしれない。
 涙が溢れ出てきた。牧村が哀れで仕方がない。何を思い、遠のく空を眺めていたのだろう。何を感じ、アスファルトに寝そべっていたのだろう。
「そうかもね。けれど、成績の上がっていく様子は、わたしには嬉しかった」
「……俺等は?牧村の成績が上がっていたのはすぐに見て分かったでしょうね。俺たちは?少し下がれば何か言われる俺たちは?自己のベストって何ですか。嫌でも競走馬にしてくるくせに」
 聞かせる溜息が吐かれる。
「そうね。そのとおり」
「俺たちに課されているのは競争です。スタート地点もゴール地点も人それぞれのようですが」
 鏑木は見上げるような、下から睥睨(へいげい)するような目を向けた。雪が見返せば、不気味な笑みへ切り替える。
「先生と話せて嬉しいです」
「そう。じゃあもっと話せるわ。牧村くんと何があったの」
 双眸が澱んでいく。薄い唇が弧を描く。
「手、出してくれませんか」
 雪はネイリストに差し出すみたいに、テーブルへ左手を置いた。鏑木の手がそこに重なる。もし目を瞑っていれば、女のものと紛う滑らかさであるが、触れる面積や硬さからすればやはり男のものか。
「ありがとうございます。嬉しいです」
 冷たい熱に四指を握り締められる。程良くハンドクリームを塗ったような、摩擦の少ない感触だった。
「牧村って、休み時間、たまにあそこに座るんですよ。コンクリートの平らな部分じゃなくて、あの手摺部分に」
 天端(てんば)ではなく、そこから生えた鉄棒じみた手摺りのことだ。すでに塗装が剥げ、赤銅色が曝け出されていた。
「自業自得なんです。少し怖いもの知らずなんだと思います。危機管理ができないから、余程の楽天家なんじゃないですか」
 そこには強い侮蔑が現れた。牧村はばかなのだと言いたげであった。
「跳び上がる感覚を誤って、落ちるのは、時間の問題だと思いました。でもこう言うと、どうして注意しなかった、って怒るのでしょう?事が起こってから、急に落ち度の話に遡る。その注意は正しいです。けれど、正しさの裏には事情もある。先生……そういう注意って野暮なんです。教師になったら忘れてしまうかも知れませんが、競争相手です。互いの監視に責任なんか負えません。落ちちゃうよ、危ないよ、なんて言えません。男女であったなら、言えたかもしれません。けれど男同士こそ、まさに競争です。動物の世界でいえば、リスクを取れるオスこそが優秀なんです。それが日常生活でも出てしまったのでしょうね。異性がいなくても、そういうのって無意識で起こるんです。それに同性の前では、優位を示せますし。牧村は人間の理性よりも、動物的な勘の鋭いやつでしたから……」
 つまり牧村は知能が低く、危険予測のできない個体であると、彼は言いたいらしかった。
「そう。男の世界は、わたしには分からないけれど」
「先生」 
 指を握る力が強まる。
「目の前で牧村が落ちて、俺だって怖かったんですよ。でも、"雪"先生には包み隠さず、すべてを打ち明けたかったから……」
「西谷先生に話すべきことでしょう」
「先生……俺は"雪"先生に話したかったんです。なんだかんだいっても牧村は目立つやつです。学校生活に嫌でも割り込んでくるわけです。そんなやつがいなくなって、俺だって寂しいんです……先生、これ、録音されているんですか」
「している、と言ったら?」
 長く濃い睫毛の囲いから放たれる眼光が、雪の身体を這い回る。
「傷付きます。好きな人に疑われて」
「同時に、あなたの潔白を晴らすためでもあるでしょう。わたしが有る事無い事を証言したら?」
 鏑木は握り締めた手を引っ張った。
「疑ってるのは雪先生なんですね」
「うん。わたしは鏑木くんを疑ってる」
「酷いです、先生。誰でもない雪先生に疑われるなんて。クラスメイトが目の前で落ちたんですよ。牧村がアスファルトに叩き付けられる音を聞いているんです。耳から離れないんです。先生……」
「そう。お気の毒」
 掴まれている指が痛くなった。
「先生のこと好きです……先生が好きなんです……だからすべて話したくて………」
「それなら、これがすべてということね。分かった。話してくれてありがとう。でもわたしは鏑木くんを疑っているし、きっと何を言われても納得しない。だから西谷先生に話して」
 話を終わらせるつもりだった。立ち上がる。しかし左手は握られたまま。
「誰に言っても俺が疑われますよ、きっと」
「わたしだけ。鏑木くんを疑ってるのはわたしだけ。だから西谷先生は、味方になってくれると思う」
 鏑木は手を放さなかった。引っ張られる。しかし2人の間にはテーブルがあった。離れようとする雪を赦さない。
「鏑木く……」
 テーブルの脇にあるアルミサッシへと引き摺られ、雪は背中をぶつけた。怪我人とは思えない力であった。年下といえども高校生となれば男は年長者の女のほとんどよりも圧倒的な膂力を持つ。敵うはずはなかった。何故、牧村は雪の抱える荷物を持ちたがったのか。鏑木はあの男子生徒を侮っているけれど、心の優しい子であった。
 視界が滲む。だがそれでよかった。焦点の定まらないほど至近距離に鏑木が迫った。唇が生温かいものにぶつかる。


「先生?」
 酸素不足に陥り、雪の身体は折り畳まれるように崩れて落ちていく。唇から液糸を垂らし、彼女は宙に揺蕩うようであった。倒れるところを、支えられる。そして半開きの口に、鏑木は何か摘んでいるらしい指を捩じ込んだ。口腔に染み入っていく甘さに鉄錆臭い甘さが混じっていたが、そこに確かな強い甘味がすべてを掻っ攫っていく。それは舌の上で溶けている。鏑木はまた彼女の唇を塞いだ。かろうじて固形物だったものは侵入した体温に薙ぎ倒されて液状化した。
 雪は鏑木の胸の間に肘を突き入れた。
「ん……っぅん………」
 嚥下を忘れた彼女の溢流を、鏑木は美味そうに啜った。怯えている舌ごと喰む。アイスクリームを食う所作で、その音は果汁を吸っている。
 絡まされた舌に自由意思はもうなかった。
「ぁ………ァ、」
 呼吸も奪われている。何も考えられない。恐怖も浚われた。自分が何をしているのか、誰かいるのか、それは何者なのかも、もう判断がつかない。
「先生……誓いのキスをしてしまったから、もう結婚するしかないですよ」
 無防備に投げ出された左手を取り、暗い中でも銀色に輝く指輪を突き入れる。第二関節に当たる。雪の節榑だった長い指は、その細さに合わせて作ると関節でぶつかった。しかし関節に合わせて作れば、第二関節と第三関節の間を泳いでしまう。ならば外さなければよいとでも思っているのだろう。鏑木は雪の薄皮を削り取るがごとく、力尽くで指輪を嵌めた。
「先生……元教え子とじゃ、結婚式は挙げられませんが、新婚旅行は盛大にしましょう」
「や、め………て」
 雪は眼前まで近付く鏑木を突き離す。
「先生は俺と結婚する運命でした。俺は先生の一部になる宿命なんです。アンコウの夫婦みたいに」
 布が降ってきた。口と鼻を覆われる。妙な匂いがした。押し当てられ、息ができない。
「先生は俺と結婚するんです。俺のお嫁さんになるんです。先生……耳、かわいいですね。ずっと、齧りたいなった思ってました。ピアス開けましょう。指輪と揃えて……贈ります」
 ガーゼを押し当てたまま、鏑木は雪の耳に口元を寄せる。そして耳朶を噛んだ。
「先生の耳、美味しい」
 耳殻を巻き込み、歯が柔肌を揉み拉(しだ)く。痛いはずだった。だが意識が薄らいでいく。痛覚は、彼女を引き留めはしない。
「先生……綺麗だ」
 味蕾の凹凸が皮膚の質感を犯していく。唾液の塗られていく音を鼓膜のすぐ傍で聞かなければならなかった。
「ふ………うぅ………」
 呼吸はできた。アルコールを摂取したときのような異臭が鼻奥に谺(こだま)するようだ。抗いがたい眠気に襲われ、雪は目蓋を閉じた。


 口腔に差し込まれたぬるりとしたものに、雪は牙を立てた。鉄錆臭い、独特の甘さが広がっていく。だが彼女に痛みはなかった。
 噛まれるくらいのことは想定していたのだろう。肉体が反射的に痛みに怖気(おじけ)付きはしたけれど、鏑木は怯まない。接吻を続行しようとする男子生徒のしっかりした身体を押す。相手は骨折していた。患部に響いたらしい。
「何、するの……」
 身を剥がした鏑木の唇には赤い汚れが付いている。照りつけたピンクは、雪から奪った色だ。
「血の味って嫌いです」
 もし鏑木が、恐ろしい教え子でなければ。我が校の生徒でなければ。たとえばアイドルや俳優であったなら、その唇を拭う様に艶(なまめ)かしさを感じられたかもしれない。
「謝らないからね」
 リップカラーが落ちるのも構わず、彼女は汚そうに口元を拭う。
「先生とのキス、甘かったから……遺伝子上の相性は良いですよ、きっと」
「血の味じゃないの」
「嫌いな味と、先生の味を、間違うはずはありませんよ」
 鏑木は、徐ろに方向転換してテーブルのほうへ戻った。そして勢いよく顔面を叩きつける。雪はこの奇行に頭が真っ白くなった。ふ……っと息が聞こえ、オフホワイトのテーブルに赤いものが飛び散った。牧村がアスファルトに広げていたものと同じであるはずなのに、違って見えた。
「何……して…………」
「酷いな、先生。どうして俺を殴るんですか」
 鼻血を垂れ流した鏑木は頭を上げた。シャツにも容赦なく、赤い汚れがつく。
 頭がおかしくなったのかと思った。だが知性の輝きを宿した双眸には計算が見え隠れしている。
「脅すつもり?」
「脅されてくれますか」
「条件だけ、聞いておきましょう」
 雪は焦った様子もなかった。とても脅されている自覚のある人間ではなかった。
「好きって言ってください。俺のこと、好きって……」
 溜息が漏れる。子供だと思った。幼い。幼稚だ。どの口で牧村を卑しめたのだろう。
「来なさい」
 雪は鏑木の二の腕の辺りの制服を摘んだ。跛行しているのも慮らない。行き着く先は職員室。
「先生」
 だが雪は無視して、職員室へ鏑木を引き摺り込む。学年主任はデスクにいた。
「生徒を殴りました」
「先生……」


 仕事を辞めたと最初に伝えた相手は弟の霰(あられ)だった。
 年頃の男子の心理など、女の身に生まれた雪に分かるはずもない。
『ま、年上の女の人の憧れってやつだよな。あれくらいのときの同年代の女子って、やっぱキーキーうるさいし』
 姉弟仲は良かった。遊び相手で、相談相手であった。
 病院のベッドに管を繋がれ眠る弟を見下ろした。亡くなった元教え子の姿と重なる。小難しそうな機械が重低音を鳴らして弟を生かしている。
 霰が何をしたというのだ。切り付けられたというときから、大事にすべきだった。警察沙汰にするべきだった。立派な犯罪である。何故、放置してしまったのだろう。
 弟が何をしたというのだ。半年、同じ問いを繰り返している。解き明かす気もなく。

「姉ちゃん、結婚すんの?」
 弟とは頻繁に連絡を取っていた。特に仕事を辞めてからは、気を遣っているようであった。だが、交際相手や結婚の話をした覚えはない。そしてそれを勧めるような弟でもなかった。
「しないけど。どうして?した方がいい?」
 父と弟以外の、男という生き物がもう分からなかった。あの男子生徒が異常なだけだ。それは分かっているけれど。
 自分はあの男子生徒を誑かしたのだろうか。誘惑したのだろうか?
「いや……そうじゃないんだけど。姉ちゃん、おふくろのところにカニ送った?」
「送ってないけど、何の話?」
 カニとは何なのか。脳裏を閃いた甲殻類のことでいいのだろうか。しかし雪にはまったく要領を得ない。
「でも、姉ちゃんの名前でカニ届いてるんだけど。ちょっと待って。中に手紙が入っててさ」
「送ってないけど」
「トウマ」
「え?」
 それを聞いた途端、胸が重くなる。どす黒い靄を呑み込んだ気分だった。
「トウマってカレシが送ってくれたんじゃないのか?」
 トウマ……聞き覚えがある。どこかで聞いた。そしてそれは良い記憶ではない。
「漢字は?」
「兎に馬って書く」
 雪の顔から血の気が失せていく。
「名前だけ……?」
 弟は電話の奥で黙ってしまった。無音のなかに電子音の蠢きがある。わずかな静寂に耐えられない。
「名前だけ」
 内容を読み上げさせたこと。「私、兎馬は」「雪さん」と結婚すること、交際を報告しなかった詫びと両親への挨拶が記されているのだそうだ。
「霰ちゃん。気を付けて。お願い。この前切り付けられたでしょ?あれ、ただの偶然じゃない」
「何、姉ちゃん。急にどうした?」
「おねがい、霰。今から言うことをしっかり聞いて」
 彼は不服そうに頷いた。
「戸締りをしっかりして。カーテンも。ごみ捨ては回収時間のぎりぎりにできる?」
「もしかして……ストーカー……?」
 雪はその単語を認めたくなかった。ここ最近、おかしなことが起こっていた。覚えのない配達、夜中に鳴るインターホン、窓の外の点滅。ポストの内側についた粘着剤の痕。
 家族に心配はかけられない。仕事を辞め、ただでさえひとつ、悩みの種を作っている。しかし実家に荷物が届いてしまった。住所を知られている。家族に危害が加わるのではあるまいか。
「それなら警察に行こう」


 警察がやれることは、巡回を強めることだけだった。足繁く様子を見に来る弟は滅多刺しにされた。両親も実家を売り払い、引っ越すほかなくなった。地元を捨てた。生まれ育った家を捨てさせなければ、両親まで失うことになる。
 何も知らずに弟は眠っている。当たり前の帰る場所はもうない。
「ごめんね……」
 赦されることはないだろう。
「……ごめんなさい」
 弟の手を握る。2年経っても、結局目を覚まさない。



 雪はベッドの上に寝かされていた。服を脱がされ、純白のドレスを着せられている。畳まれていたためか、皺が目立つ。彼女は気を失い、ぐったりしていた。
「先生……」
 鏑木の手が、雪の頬を撫でる。何往復かさせてから、両手で彼女の左手を拾うと銀色の光芒を発する輪に唇を落とす。それから手の甲で軽やかなリップ音を奏でる。
 細い息が、空間を劈(つんざ)く。掠れている。
「先生……俺だけの先生…………」
 不気味な美貌が歪む。爛々とした眼は、雪の毛穴でも数えているようであった。だが思案していたのかもしれない。胸元に置いた彼女の左手と投げ捨てられた右手の指に自身の指を絡めた。鏑木の上半身はまたもや伏せられていく。微動だにしない唇に唇を重ねる。すぐに離れた。
「ああ……」
 感嘆の声を漏らし、恍惚の目が宙を彷徨っている。
 鏑木は雪に背を向けた。そして傍に一切れのショートケーキを乗せた皿を持ってくる。花嫁にバターナイフを握らせる。
「先生、ケーキ入刀ですよ」
 ケーキが拉(ひし)げ、頂のいちごが転げ落ちる。
「きっと牧村もお祝いしてくれます……ははは……」
 乾いた笑いが消えていく。

TL【眼差しより鋒をくれ】

TL【眼差しより鋒をくれ】

女教師と美少年のヤンデレを書いてみむとす。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 成人向け
  • 強い暴力的表現
  • 強い性的表現
  • 強い反社会的表現
更新日
登録日
2024-01-20

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 1
  2. 2
  3. 3