相対的な魔女
相対的に見て……
T氏は木漏れ日の暖かさと野鳥のさえずりを感じながら、森の中を歩いていた。
趣味のバードウォッチングのために、T氏はこの森に何度も足を踏み入れており、まるで庭を歩くように奥へと進んでいく。
「おや、霧がでてきたか……」
この時期に珍しい、と思っていたのもつかの間、あたりは一瞬で白く染まり、前が見えないほどになってしまった。
なんとか目を細め、木にぶつからないよう手探りで歩いていると、うっすらと小さな小屋の影が見えた。
こんな森の中に、何の建物だろうか。しかし、助かったと、T氏はなんとかドアの前までたどり着き、コンコンと木製のドアを叩いた。
「もし、ごめんください」
「おや、誰かが訪ねてくるとは珍しい。開いてるよ」
小屋の中から、しわがれた女性の声が聞こえ、T氏はドアを開けた。
「お邪魔します。散策していたら、霧が深くなりまして……少しの間、休ませてはくれませんか」
「ええ、ええ、いいですとも」
部屋には一人の老婆が安楽椅子に座っていた。ほかにはテーブルとテレビ、それに大きな釜や動物の骨が入ったツボ、水晶玉など、なんともオカルトめいた物まで置かれており、少し不気味さを醸し出していた。
「それにしても、こんな森の中で何をしているのですか?」
「私はこの森に住んでる、相対的に良い魔女ですじゃ」
「魔女? それに、相対的とは?」
T氏は訝しみ、話半分で聞き始める。しかし、魔女はそれを意に介さず話を続けた。
「昔はいろんな国の人間に呪いを掛けたりしたものじゃ。しかし今は、テレビのニュースなんかを見ても、私より悪い奴らなんて”ごまん”といるじゃろ」
そう言って老婆は退屈そうにテレビを付けた。
よせばいいものを、T氏はこの老婆が哀れに思え、口を開いた。
「ふーむ、悪い魔女が本当にいるだなんて! 色んな絵本に載っている人に出会えたなんて、感動だなぁ」
少しわざとらしいが、その言葉に老婆の心は揺れたようで、椅子から立ち上がってT氏の両手を掴んだ。
「本当かい! いやあ、そんなことを言ってくれるなんて、あんたはいい人だよ。ん……?」
「どうかしましたか?」
「あんたがいい人なら、相対的に私は悪くなる。私は今から悪い魔女だよ!」
老婆が叫ぶように言うと、急に小屋の外からはゴウゴウと、まるで嵐も起こっているかのような音が轟いている。
「ヒッヒッヒ、さあ、まずはこの国の人間に呪いを掛けて、永遠の眠りにつかせてやるよ」
「ああ、まさか本当に魔女だったとは。そんなことはおやめなさい!」
T氏が止めに入るが、魔女はまったく意に介さない。
「残念だったね。善人のあんたのおかげで、私は悪い魔女に戻れたんだ。お礼にまず、あんたを呪ってやろうかね」
このままでは呪い殺されてしまうと、T氏は必死に考えた。その間にも外からは風の音のほかに、ガラガラと雷鳴まで響いてきた。
そんな中でT氏は、人の声が聞こえたような気がした。よく耳を澄ましてみると、その声の正体は、先ほど魔女がつけたテレビだった。
テレビからはニュース番組が流れており、アナウンサーが神妙な顔で原稿を読み上げている。これしかないと、T氏は一つ、魔女をペテンにかけることにした。
「すみませんがね魔女さん、私はそんなにいい人間ではないのです」
「はっ、いまさら何を言うかと思えば。なんのつもりだい」
「いやね、いまやってる殺人事件のニュース、犯人は私なんですよ」
「まさか、いい人のあんたが、人殺しだっていうのかい!?」
T氏は手ごたえを感じ、さらに言葉を畳みかけた。
「それだけじゃありません。ほら、次は誘拐事件です。この子供は今、私の家の地下室にいますよ。親御さんには気の毒ですが、一年はいてもらいます」
「な、なかなかの人でなしだねぇ……」
「いえいえ、それほどでも……あっ、A国が戦争を始めたようですよ。わたしがスパイとして活動して、国を混乱させたかいがあったなぁ。ああ、この事件も……」
T氏は、とにかく思いつく限りの悪行を言い続けた。すると外の轟音が小さくなり、魔女は安楽椅子にフラフラと座り込んでしまった。
「お前がそんなに悪い奴だったなんて、それじゃあやっぱり、私は相対的にいい魔女じゃないか」
「ええ、私に比べると、あなたはとてもいい人ですよ。さて、天気も良くなったようですし、このへんで私は失礼させていただきます」
すっかり意気消沈した魔女を置いて、T氏は小屋を飛び出し、森の中を駆けていった。
次の日、自宅でくつろぐT氏のもとへ来客があった。ピンポンとチャイムの音がした後、ドンドンと乱暴にドアを叩かれて、T氏は不審に思いながら玄関に向かった。
「はい、どちら様ですか?」
「警察だ! ある善良なご婦人から通報があった、お前の容疑は殺人と誘拐とスパイ行為と……」
相対的な魔女