アップデート
最近、宮部みゆきさんの「レベル7」と「模倣犯」を読みました。
姉が近々入院することになりそうで、読まなくなった本を欲しいと頼まれ、本棚を整理していた時に出てきた本です。どちらもすごく好きな本だった(記憶がある)ので惜しい気もしたのですが、何十年も本棚の肥やしにしかなっていなかったのも事実。断捨離も兼ねて、手放すことにしました。
ちなみに、私とは真逆な性格の姉は、滅多に本を読まない人でした。しかし、この数年、闘病生活が続いており、急に本を読むようになりました。
最初は、何を読んでいいのかも分からないと言うので、二十冊ぐらい、うちにあった本をランダムにチョイスして送ってあげたら、あっという間に全部読んでしまい、それから読書に目覚め(今更)、定期的に本をプレゼント(と言ってもうちで眠っている古本ですが)するようになりました。
今回も、その流れの延長で、入院中に読むからガッツリ長めのがいいとリクエストされ、選んでいたのです。他には、井上ひさしさんの『吉里吉里人』と京極夏彦さんの『ルー=ガルー」もあげることにしました。
でも、発送の前に、再読してみようと思い立ち、宮部みゆきさんの二冊を(数十年振りに)読んだのでした。(ついでに、井上ひさしさんの『吉里吉里人』も再読、めっちゃ面白かったです! 「ルー=ガルー」の再読はあきらめました)
宮部みゆきさんのこの二冊は、どちらも古き良きミステリとしてとても有名な作品です。でも、レビューの記事ではないのでストーリーについては触れませんが……古いミステリを読むと、やはり「時代」を感じてしまうのです。
本題はその話です。
当たり前ですが、両作ともスマホなんてものはない時代に書かれました。新しい方の「模倣犯」でも、発行が2001年だそうです。
携帯電話の普及が広まった時期が、1990年代と言われております。確かに、2002年の日韓ワールドカップぐらいの時には、携帯電話の所有が当たり前になりつつあり、「写メ」なんて言葉も普及していたような記憶があります。当時はメールの文字数も250文字までで、メル友なんて言葉も出始めていた時代ですね。よく「センター問い合わせ」をしていました。
「レベル7」は、更にその11年も前、1990年に発行されました。携帯電話はなく、ポケベル最盛期です。パソコンですら、持っている人の方が少ない時代で、まだ駅に伝言板がありました。あちこちに公衆電話があり、固定電話と手紙のコミュニケーションが一般的だったのです。
ミステリ小説ほど、時代背景に影響される文芸はないのでは? とよく思います。「レベル7」の時代には、GPSの位置情報を利用したトリックは書けません。トリックも条件設定も、昔の方が環境が「緩い」と言えるでしょう。現在の文明の利器を使うと、難なく解明するトリックも沢山あるかもしれません。
でも、それは同時に足枷にもなっているのです。科学技術が発展するほどに、ミステリでもあやふやに出来る領域が狭められ、条件の設定が困難になるのです。嵐で道も電話線も遮断され、陸の孤島と化した山荘なんて、今の時代、現実味がありません。誰でもスマホを持ち歩いていますから。
確かに、電波が届かない地域もまだあるでしょうけど、ほぼなくなったとも言われています。確か、今年度中になくす計画がある、という記事を目にしたことがあります。
その信憑性はともかく、いずれ国内何処にいても、スマホやモバイルの電波は受信出来るようになります。なので、今の時代にそんな地域を舞台にすると、あまりにも都合が良すぎて興醒めしてしまう面もあり、逆にミステリの舞台としては使い辛いと思います。
どちらが良いとかの話ではなく、読者も作者も時代に即した情報のアップデートが必要だと思う、というのが主旨です。社会環境や科学技術だけでなく、道徳観や法律さえ、昔と今では変わっています。いや、常に変化しているのです。
知識、情報、技術、価値観……何事も必ずしも「進化」とは断言出来ないにしろ、「変化」は止まりません。それら全てをリアルタイムで把握することは不可能に近いのでしょうけど、創作をするならば、作品に使う条件は調べ直した方が良いのかもしれません。当たり前と思っていたことが、知らない間に変わっていることも珍しくないのです。
例えば、拾得物の保管期間。
大金を拾って、警察に届けて、そのまま半年間、落とし主が現れないと自分のものになる……いまだにそう思い込んでいる人、結構いるかもしれません。
しかし、平成19年(なんと、15年以上も前です!)に法が改正され、警察での保管期間は三ヶ月になりました。そして、落とし主が現れず、所有権を得たければ、保管期間が終了してから二ヶ月以内に手続きをしないといけなくなりました。
実際にあった話としては、ある方が大金を拾い、警察に届け出たのですが、保管期間は半年と思い込んでおり、ろくに説明も聞かず、半年後に「落とし主は見つかったのか?」と警察に問い合わせた人がいます。
どうやら、落とし主は見つからなかったのですが、保管期間は三ヶ月、所有権を申請出来る期間はそこから二ヶ月なので、半年後だと、もう所有権の申請を手続き出来る期間も過ぎており、大金はゲット出来なかったのです。
要するに、何年も前に法律が変わっているのに、過去の知識のままアップデート出来ないでいると、残念なことになり兼ねないのです。
これを、保管期間は半年と思い込んだまま小説や漫画等に転用しちゃうと、「いつの時代の話やねん!」と、それだけで読者から勉強不足の作家とみなされかねないのです。
余談ですが、私の過去作に【La Pianista】という作品があります。今年の創作大賞にこの作品を出そうかと考えていたのですが、結局は迷った挙句、見送ることにしました。その理由が、まさにこれなんです。法やネットリテラシーが書いた当時と変わり過ぎていて、あまりにも現在の状況から掛け離れている部分があったのです。
法だけでなく、道徳の問題もあります。
大昔のアニメやドラマの中には、現在のコンプライアンスでは放送に相応しくない表現が溢れており、二度とテレビでは観れないものも沢山あります。
一例として、性の多様性、いわゆる「LGBTQ」の問題提起すらなかった時代、テレビでも普通に使われていた「ホモ、レズ、オカマ(この記事内では使います)」も、今では全て差別用語という認識が一般的になっています。
余談ですが、他サイトで「●おかま」という「おかまキャラ」を使って漫画の連載をされていた方がいました。ある日のこと、ある方に「差別用語では?」という批判を受け、逆ギレされていました。
正直なところ、擁護するつもりはありませんが、愛らしいキャラ設定で差別の意識はないとは思いました。ただ、所謂「おねぇキャラ」のテンプレートのようなキャラを反映させ、「おかま」という表現をキャラクタの名前に使うことは、悪意はなくても、とてもデリケートな問題です。
小説等の作中に使うことはあっても、やはり、キャラクタのネーミングには好ましくないでしょう。
2017年に、とんねるずさんの30年も続いた番組(厳密には、途中でリニューアルし、番組名も変わっています)で、記念特番が放送されたそうです。その際、番組が始まった頃のキャラクタが登場し話題になりました。石橋さんが扮する「保毛尾田保毛男(ほもおだほもお)」です。
このキャラは、明らかに「ホモ」を茶化し、揶揄したもので、木梨さんの「ホモなの?」という問い掛けに、「ホモではなくて、あくまでウワサなの」というお決まりのやり取りが、1990年前後には普通にゴールデンタイムに放送されていたのです。当時は、私も何度かテレビで観たことがあります。
その後、いつのまにか封印されるネタになったのですが、言うまでもなく「性の多様性」に関するコンプライアンスの変化によるものでしょう。
しかし、その30年も昔のキャラを特番で再現したのです。おそらく、批判覚悟でやったことでしょうが、案の定、放映後に大バッシングが起きたことは有名な話です。「懐かしいネタの再現」というスタンスであっても、もう世間は許してくれない時代になっていたのです。
多分ですが、「オカマキャラ」の作者さんは、昭和の価値観のまま、道徳観がアップデート出来ておらず、「オカマ」が差別用語だという認識もなかったのかもしれません。とんねるずさんのように、批判覚悟で「昔のキャラの再現」をしたのではなく、わざわざ今の時代に新設したキャラクタなので、尚更そう思ってしまうのです。
他にもこういう事象は沢山あります。さすがにやり過ぎ、気にし過ぎでは? と思うレベルのものもあります。
例えば、「優性遺伝」「劣性遺伝」って言葉、覚えていますでしょうか? 中学生の理科で学ぶ単語ですが、数年前からこの表記は差別につながるという提唱があり、数年掛けて「顕性遺伝」「潜性遺伝」へと変更されています。確かに、遺伝子の特性の違いであり、優劣を付けるものではありません……が、分かりやすい表現でもありますよね。
遺伝子の話をしますと、「遺伝子異常」という言葉も使わなくなってきています。決して、「異常」ではなく、一つの「特性」であり、「個性」を築くものですので、差別を誘発する表現は好ましくないとの考えから、医学界では何年も前から「バリアント(バリエーション)」という表現を使っています。
実は、私は女性では五百人に一人と言われている、先天性の色覚異常(後述しますが、この表現も問題ありです)があります。これも、遺伝子のバリアントを原因とする視覚特性です。
昔は「色盲」「色弱」という表現が一般的でした。ただ、「盲」や「弱」は差別を誘発する表現ですし、その原因も遺伝子の少数派バリアントによるもので、この色覚特性が差別を受ける理由なんてどこにもないのです。
なので、もう何年も前から「色盲」「色弱」という表現はなくなりつつあり、「色覚異常」に変わっていました。
しかし、「異常」という「正常」の対義語でもある単語に違和感が問われ、「色覚多様性」などの表現を使う方もいます。(当事者として、個人的にはそこまでは求めていないし、やり過ぎだと思っていますが……)
厳密には、専門家の間では、昔の「色盲」は「二色覚」、「色弱」は「異常三色覚」と呼ばれるようになりました。ここでの「異常」だけは、「正常三色覚(普通の色覚者)」との違いという意味で残されたようです。一般的には、疑問符付きながらも、「色覚異常」で落ち着いているように思います。
ただ、医学用語としての「色盲」はそのまま残っています。「痴呆症」が「認知症」になっても、「アルツハイマー型痴呆症」という医学用語が残っているのと同じ理屈でしょう。
しかし、そんなことは表面的な問題に過ぎません。もっと大切なことは、「表現」ではなく「精神」だと思うのです。差別用語を使っていなくても、マイノリティに対して見下したり、「蔑視」や「揶揄」のような扱いをすれば、それはもう差別に他ならないのです。
逆も然り。キャプチャーとしての状態を表す「単語」は差別を誘発する表現だとしても、扱いや接し方に問題がなければ、個人的には差別とは思いません。(あくまで私個人の考え方で、政界やスポーツ界など、言葉を使っただけでアウトなケースも珍しくありません)
以前に利用していたSNSでの話ですが、ある日のこと、吃音症を模倣して、笑い合っている人達がいました。たまたま見つけてしまいました。と言うのも、仲良くしていたフォロワーさんの投稿のコメント欄での出来事だったのです。書き込んでいる人のほとんども、仲良くしていたユーザーばかりでしたけど、私は呆れ果て、ブチ切れてしまいました。
「あ、あ、明日、な、何するよ、予定?w」「わ、わ、私は、し、渋谷に、い、行こうと🤣🤣🤣」「い、い、いいな!笑」って感じで「笑」や「w」を交えて、沢山の方がコメント欄で延々と吃音の真似をして遊んでいたのです。
余談ですが、こういった「吃り」の表現は、「驚き」や「戸惑い」「焦り」などを書く際にものすごく使い勝手がよくて、私も小説に限らずに頻繁に使っております。言わずもがな、でしょうが、それは全く問題ではありません。
でも、彼女たちのやっていることは別次元です。過剰に「吃り」を模倣して、「吃りごっこ」をネタにして笑い合い、キャッキャと楽しんでいたのです。
コメント欄を遡ると、どうやら「裸の大将」の話題から吃音の模倣が始まったようでした。それぐらいなら、まだジョークの範疇かもしれません。個人的にはアウトと思いますが、辛うじて、寛容に受け流せる範囲内です。
しかし、明らかに「裸の大将」から話題が外れ、普通の会話になっても吃音の真似が延々と続けられ、むしろ、吃音を真似ることが目的になっており、しかも、明らかにそれを無邪気に楽しんでいる状態だったのです。
「どもり」という差別用語こそ使っていなくても、笑いのネタにする蔑視と揶揄は、明確な差別意識からきているとしか思えないのです。
ちなみに、「吃る」という動詞の使用は問題ありません。吃音症の方を「吃り(どもり)」と呼ぶことが、「めくら」や「つんぼ」と同類の差別用語とされているのです。ただ、問題なのはその言葉を使うか否かだけではなく、そういう症状の人に対する差別意識の有無なのです。
それまでは皆んなと仲良くしていたのですけど、実は私自身が子どもの頃の数年間ですが、吃音症で苦しんでいた時期もありまして……彼女たちにとっては、吃音症の喋り方は笑いのネタなんだと知って急に悲しくなりました。そのまま即SNSを退会して、当時やっていたブログに全部ぶちまけて、全員と絶縁状態になりました。
結局、彼女たちと分かり合えることはないと判断しました。第三者を通して、数名から謝罪の意志は受け取りましたが、謝ってどうこうなる話ではありませんし、そもそも私に謝ることでもないですし、根底にそういう思想を持っていたことは変わらないのです。
要は、そういう人間だと分かっただけのこと。そして、そういう人間と分かった以上、私は今までと同じようにはお付き合い出来ません、ってだけの話です。
そういう症状や障がいの弄り、しかも、蔑視や揶揄を伴う形のネタなんて、やっちゃいけないことってぐらい、小学生でも理解しているのではないでしょうか? それを、指摘されるまで気付かない時点で、価値観や道徳観が数十年単位で追い付いていないのでしょう。
もしかすると、「保毛尾田保毛男」と一緒で、昭和なら……せめて平成の初期ぐらいなら、辛うじて許容された笑いなのかもしれません。
だとしても、気遣いや配慮も出来ない人種という証明にも繋がります。なぜなら、視力を失った視覚障害者を皆んなで真似て、それを茶化して笑い合って楽しいですか? という話なんです。
私の目の届かないところで、勝手に朽ちていけばいい……そう思って、一方的に彼女たちと絶縁しました。
そして、実はつい最近のことですが、「色盲」という言葉をそのまま使って、色覚異常者を揶揄するような話をnoteで目にしました。フィクションとはいえ、呆れ果てました。
その方も、前述の「オカマキャラ」の漫画家や、「吃りごっこ」で楽しむ人達と一緒で、昭和から常識や道徳観が止まったまま、アップデート出来ていない人なのでしょう。
時代に即した成長も出来ないままに、古い価値観にしがみつきながら、やはり、一人で朽ちていけばいいのです。
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