荒原の井戸
荒原の井戸
ひとりぼっち、風に吹かれながら、どこか遠くに、鳥獣の鳴き声を聴きながら、
私は井戸を掘る。この荒原に、水をもたらそうと、努める。
人は皆、喉が渇いている、心も渇いている。
赦す心は枯渇して、人を愛するための、余白さえもが砂漠と化す。
人々は、奪い合うことでしか、生きられなくなる。
だからこそ、私は井戸を掘る。
水さえあれば、皆が、皆が、救われる。救われるに違いない、そうでしょう、神様。
井戸ひとつがあるだけで、一体どれほどの命が、魂が救われるだろう。
その、尊く甘美な希望を胸に、私は井戸を掘る。
血が滲む両手、額には脂汗。
自身の喉さえも、潤せぬままに。
いいじゃないか、私一人分の苦しみで、皆が満たされる、皆が幸せになる。
いいじゃないか、私の苦しみには、きっと意味がある。必ず意義がある。
喜んで、身を捧げよう。喜んで、一心に祈ろう。
この辛苦は、この渇きは、賛美の歌である。献身の魂をこそ、神は愛するのだ。
だが、私は決して、神に愛されたいわけではない。
救われたい訳でもなければ、誰かに褒めてもらったり、認めてもらいたい訳でもない。
ただ、皆に争いをやめてほしい。皆の苦しみを取り除きたい。
ただの真水だ。ただの井戸の水だ。それで、それだけで、救われると信じている。
もはや、この水に乏しい暮らしでは、人間の心に安寧は訪れない。
荒野に転がる、渇ききった獣の亡骸を横目に、
誰かを殴り、誰かを殺めて、水を奪い合う、灼熱地獄。
私は井戸を掘る者。救世主ではない。
私は井戸を掘り続ける者。善人ではない。
当たり前のことを、当たり前に行っていると、信念を持っている。
ああ、湧いた、茶色く濁った水が、湧いた。
掘り続けた地の底から、水が湧いてくれた。
神様、神様、あなたの大慈悲に感謝いたします。
「おい、お前、そこをどけ。井戸を掘っているそうじゃないか。俺たちに譲りな」
足音と怒声に振り向くと、粗末な武器を手にした男達がいた。
「喉が渇いているのか。もちろん、喜んで水を与えよう。だが、もう少し待ってくれ」
頭領らしき人物が、私の顔を殴った。
「お前、何か勘違いしているんじゃないか。俺たちは、井戸をよこせと言っているんだ」
「待て、この井戸はまだ浅すぎる。今水を汲んでも、すぐに枯れてしまうんだ。皆のために、もう少し時間をくれ、頼む」
すると、彼らはゲラゲラと笑い、私をぶちのめした。
「こいつ、頭がおかしいや。皆のために井戸を掘るとか、ほざいてやがる」
全身が、生傷だらけだ。
殴られすぎて、頭がぐらぐらする。
男達は、未完成の井戸が枯れるまで、水を飲み干して、どこかへと立ち去った。
ここで井戸を掘り続ければ、あの暴漢達は、再び姿を現すだろう。
「……構うものか。井戸が完成したら、もう誰も、渇きに苦しまずに済むのだ。
あのような悪人が世に蔓延るのも、水が無いのが、原因だ。
充分な水さえあれば、皆、心も満たされる、改心するに違いない。
私が井戸を掘る事には、きっと意味がある。きっと、誰かの助けになる。負けないぞ」
一体、誰に負けないと、言うのだろうか。
私は、常に、自身と闘っているのだろう。
自己保存、利己心、自我我欲。
その様なものは、蛆虫にでもくれてやれ。
私は、井戸を掘るのだ。
誰のためでもないんだ。
自らの善心に報いるためではないか。
その様な強がりを、虚無であると罵られようとも、
私の苦しみの意義は、誰にも奪えやしない。絶対に。
「あの……おじちゃん、すみません」
弱弱しい声に振り向くと、小さな男の子がいた。
ボロを纏って、手も足も、擦り傷だらけ。
「ぼく、お水が欲しくて、土を掘ろうと、頑張りました、でも、でも、
痛くて、血が出てきて、とても、掘れなくて、水が飲みたくても、できなくて……」
私は、胸が張り裂けそうな想いになった。
こんなにも、幼い子供ですら、渇きによって、自ら傷を負わなくてはならない。
それほどに苦労しても、水の一滴も手に入らない。
神よ、神よ。
私のための水など、要らない。私のための雨など、要らぬ。
だが、何故あなたは、小さな命を救おうと、手を差し伸べないのか。
苦しみの無い世界から、苦しみに満ちた地上を見下ろし、弱い者達の渇きに眼を瞑る。
ならば、ならば、せめて私の肉体に力を授けるのだ。
その力を以てして、私があなたの代わりに、井戸を掘り進める。
どうだ、悪い話ではないだろう。
「ああ、良いんだよ、私が君に水をあげるから、少しだけ、辛抱していなさい。
すぐに、この井戸から水が湧く。おじさんが約束しよう。ね、良い子だ。もう少し、待っていなさい」
幼子は、私の眼を見つめ、ありがとう、と言った。
私の気のせいでなければ、その子が涙を流しているように見えた。
いや、そんなはずはないだろう。
涙を流すための水が、体に残っていたら……。何度その様に苦心したことか。
私は無我夢中に、子供のために井戸を掘り続けた。
大地は私に応えてくれた。滾滾と、真水が湧いてくれた。
自分が先に飲もうなどと、これっぽっちも頭に浮かばなかった。
ただ、少年に腹いっぱい、この水を飲んでほしかった。
「み、水が、湧いたよ。さあ、好きなだけ飲みなさい……」
少年は、私の傍で仰向けになったまま、動かなかった。
疲れて眠っているのか、と思った。
それほどに、安らかな寝顔に見えたから。
「……。どうして、命は、満たされる喜びを待たず、終わるのか」
この子は、報われて良いはずだった。
人から水を奪おうともせず、水を飲ませてほしい、と素直にお願いができる子だ。
自らの手を傷だらけにして、自身の力で水を得ようと、努力できる子だった。
それが、一滴の水も、飲み込むことなく、
自らの頬を涙で濡らして、最期を迎えるなど。
神よ、あなたは、人間を、なんだと思っている。
日は暮れて、夜半の月が、私を笑っている。
私は、疲れ切ってしまった。水は、まだ口に含む気にもなれなかった。
その様なことは、この、少年の魂に申し訳が立たなかった。
名も知らぬ、息絶えたばかりの子供と一緒に、仰向けに寝る。
見上げた空の輝きは、降って落ちるかのような、光の粒。
苦しみと、悲しみと、言葉に成らぬ嘆きのあまり、
眦を決して、流れ落ちる、涙の粒。
泣いたせいだろうか、急に、生きる事が、嫌になった。
だが、私が死んだら、井戸を掘る者は、いなくなる。
それでは駄目だから、仕方がないのだ、と自らに言い聞かせて、
澄んだ真水を両手ですくい取り、喉を鳴らして飲み込んだ。
明日もきっと、井戸を掘る。
荒原の井戸