封筒と心
封筒と心
お母さんは、私が幼いころに亡くなった。
熱病に苦しむ母は、何度も水を求めた。
まだ小さかった私は「お母さんが死んじゃうんじゃないか」という、
どうしようもない底なしの恐怖に駆られていた。
お母さんが死んだら、どうしよう、どうしよう。
涙ながらに、私は水道水をコップに注ぎ、お母さんに手渡した。
その度、母は「ありがとう」と言いながら、水を飲みこんだ。
私は、きっと元気になるよね、大丈夫だよね、と何度も訊いた。
母は、すぐに眠りに落ちた。
お母さんが病魔と闘い始めて、三日目の朝だった。
あの人は、息をしていなかった。
私は、恐怖というものすら、失っていた。
悲しみという心は、不思議と湧いてこなかった。
当時、父は都会に出稼ぎに行っていた。
母の葬儀の時に、やっと、あの男は帰ってきた。
お母さんの死という、何かの欠如は、私に怒りを抱かせたのだ。
実の父に対する、八つ当たりである。
お母さんが苦しんでいる間、お前は一体、どういうつもりだったのだ。
私は、地獄の鬼の如く、精神的に父を裁いていた。
今なら、分かる。
お父さんも、家族が餓える事の無いように、汗水流して働いていたんだ。
そんな父を、どうして責められよう。
それなのに、私は悲しみを、孤独を、怒りに変えて、逃げていた。
私は医者を志し、学問の道に進んだ。
学費を稼ぐために、私自身も働いていたが、とても足りなかった。
毎月、父から届く封筒が、生活の頼り。
中に入っているのは、あの人が一生懸命に働いて稼いだお金だ。
幼少期の私が、あれほど酷い仕打ちをしたというのに、父は優しかった。
私は大学の近くにある寮に住んでいる。
机の上には、父と、母と、幼い私の三人が抱きしめ合っている写真を、飾っている。
家族か。
父も、私の親なんだよな。
母がそうであったように、父は、今もなお私を愛してくれているのだ。
この写真で、三人が結ばれているように、私達は全員で家族だ。
いつの間にか、それほどに大切なことを、忘れてしまっていた。
次の金曜日、実家に帰る約束がある。
お父さんに、謝ろう。
父は親としての役目を全うしてくれたのだから、
私も、息子として、あの人も親である事実を、認めよう。
実家の時間は、母が亡くなったあの日から、止まっていた。
病魔が家庭を壊したのではない。
私が、家庭を壊す魔になるところであった。
その後ろめたさ故か、父から受け取った封筒は全て、大切にしまっている。
封筒と心