ポップ・ワールド・イン・サマー
で、次の標的はどこの誰?
あたしはそう問いかけてみる。
あたしは壊さなければならない、世界を。
少しずつ、けれど確実に。
必ず、あたしが、壊す。
そう、誓う。
(この話はフィクションです。実際の地名・及び人名とは一切関係ありません。)
真夏とアクアリウム、それから殺し屋の一瞬
1
アイスクリームが溶けていく。
舗装もなおざりに放置されたビルの残骸の中に、あたしは佇んでいる。
最上階の、コンクリートでできた広い空間。全体がしん、と冷たいグレーに沈んだフロア。
電気の配線が中途半端なせいで、天井からコードやケーブルが垂れている。剥き出しになった錆びた鉄骨、ガラスのない窓。残ったアルミ製のサッシに、業務用テープでブルーシートが張り付けられている。はがれかけの、テープ。
それで。留められただけの、薄っぺらなブルーが、揺れる。
サッシの向こうから流れ込む、粘っこくて熱い、夏の空気に。
煽られて、はためく。
うだるような夏の摩天楼の熱気をはらんだ壁面は、蜘蛛の巣の糸みたいな亀裂の、その筋の間からじゅわりと熱を零す。
廃屋の中に満ち満ちて、たっぷりと溢れた暑さが、だからあたしの手の中にあるアイスクリームを溶かす。とろり、と垂れたバニラ・フレーバーが、一条の線を描いて床に落ちる。罅割れたコンクリートの上に、音もなくひとつ、ダークグレーの染みが弾けた。
厚く砂塵をかぶった床の上、そのところどころに、それは開いている。大きいものも、小さいものも、たくさん。それは、4ヶ月と25日前の、爆破の痕跡だ。まるでモグラ叩きの穴みたいに、ぽこぽこ、点在している。
点々と、歪んだ、その跡が在る。
あたしはそのうちのひとつの淵をなぞるように回る。大口を開けた穴から下を覗くと、横倒しになったままのロッカー、キャスター付きの椅子、旧式のデスクトップパソコン、足の折れた事務机が重なっているのが見える。どれもまだ、片づけられることなんてなく、ただそこに取り残されている。
すべてが塵と埃の中に煙ったまま、放置されていた。
完全にこのビルの中だけが、時間の中で凍り付いている。その息の根を止めている。
残骸の、廃屋の、ビル。
そこに。
夏と一緒に、不思議なほどの静けさだけが、漂流していた。
繋がっている外の世界、それはまるで針のむしろのような高層ビルの群れがある空間で、確かにその風景は、あの壊れた窓から差し込んでいるの に。時折鳴る甲高いクラクション、車のブレーキ音と重なる雑踏、表通りに流れるポップ・ミュージックも、すぐとなりにあるはずなのに。
そのノイズたちは、色鮮やかな喧噪と都会の息遣いは、ここに在(あ)る。
聞こえている。あたしの耳にも。
だけど、決定的に届かない。
この廃墟の内側には、外界のすべては繋がらない。地図上で見ればここはただの廃ビルで、街の日陰に存在するただの建物だ。でもここは、そんな場所じゃない。
世界の隅、都会のビルの海に浮かぶ、絶海の孤島。
孤高の廃墟が、このビルだ。
あたしはそれを知っている。
だから、ここに、いる。
この完全に、完璧に隔離されたこの場所にしか、ないのだ。
あたしのすべては。
ここでしかあたしは希望を見出せない。ここにしかあたしの望むものはない。ここにしかあたしの望みは叶えられない。
ここでしか、あたしは生きられない。
そして。
ここからしか、あたしのやりたいことは始まらない。
そうだよね?師匠。マイ・シスター。
アイスクリームを舐めながら、この死んだフロアを横断する。給湯室らしい小部屋、それから半ばシェルターと化した、改造された仮眠室を通り抜けて、その上にある場所を目指す。
赤茶色の錆がこびりついた鉄のドア、そこに付属していたプラスチックのプレートは足元に落ちている。打ち捨てられたように、転がっている。
立入禁止、の文字を踏み潰して、ドアを開ける。
建物の外壁に沿って、屋上まで続く非常階段。
それを、昇る。上へ、上へ。屋上に向かって。
はき潰したローファーの踵で、熱い階段を蹴りつけてみる。かん、かん、とコンクリートを叩く、シャープな音。それを、鳴らす。
まるで狂人だ。狂気じみた、軽い足取りで、あたしは上を目指す。
直線的に伸びたコンクリート製の階段は、ビルの中と同じように、じりっ、と焦げそうな熱を帯びていて、それが首筋をつたって立ちのぼる。夏の熱気。吹き上げられたビル風が、すべてを真白に塗りつぶしてしまいそうな日差しと絡み合って、顔を叩く。頬にこびりつく熱気、そして、落ちる夏の光。瞳を、網膜の奥を灼く、その、白。
ビルの狭間で、あたしは夏に眩む。
屋上まで上りきって、残ったスティックのバニラアイスを口の中に放り込んだ。
アイスの柄を舌で弄びながら、貯水槽と電気の管理設備の裏側にできた薄暗い日陰に入る。気休めだけど、日向よりはマシだ。たぶん。
管理設備の壁にもたれかかって、制服のポケットから携帯端末を引きずり出す。
生憎、このビルの中では電波は届かない。最新式のスマートフォン、機種はもちろんアップル社製のiPhoneを操作して、電波を飛ばす。
隔絶された、廃墟の弧城から、外へ向けて。
この回線と電波だけが、あたしのいるここと外界を、繋げる。
数回のコール音の後、外と、その会話の相手と接続される音がする。
あたしは幾つか、質問をして、そして同じように返事をする。それはあたしがあたしであることの確認で、仕事の問い合わせだ。身分を照会するための応答。必要最低限の確認作業。
1、2分でそれは済んで、だから話題は移る。本題に。仕事の受注に。
あたしの頭上に、その上空に、雲は無い。グラスに入ったたっぷりの水に、透明水彩のインクを溶かしたみたいな色だけが、在(あ)る。綺麗で、それに透明。どこまでも透ける、澄んだ薄青の。
真夏の色をした世界で、あたしは外の世界に問う。
問いかける。あたしの、その声で。
「で、次の標的はどこの誰?」
その場所は名古屋にある。
名古屋市東区東桜1丁目。
名古屋市営地下鉄:栄駅のほんのすぐ傍に、ある。
まるでプレーリードッグの巣穴みたいに、いくつもの階層に分かれて広がる地下鉄の駅から、直通の連絡通路で繋がれた巨大な複合雑居施設。
1、2階は商業店舗が軒を連ねるエリアで、けれどその上にある場所は、まったく違う作りの、そこ。
そこは。
ターコイズ・ブルーの天蓋の下に、浮かぶ透明なオブジェ。
楕円を描いた一面ガラス張りの床に、もうふた回りほど小さい、楕円の形をした厚みのない貯水槽。
魚のいない、外へと解放された巨大なアクアリウム。
水をたっぷりと、溢れんばかりに湛えたプール。
遊泳禁止の貯水スペースが、柱で支えられた屋上に浮かんでいる。
夏の日差しがまばらに反射して、薄いプールの中を小さな光の鱗がちらつく。凪いだ水槽に映り込む透明な青が、ゆらゆらと底に透けていた。
空が水の中を泳ぐ、その用途不明のアクアリウムが、最上階にある。
そこが、オアシス21と名付けられた、栄のシンボルスポットのひとつ、中空に浮かぶ宇宙船のような巨大な建造物で、そこに、その最上層に、ガラスの貯水槽の縁に、あたしはいる。
ここが、はじまりの場所だ。
そして。
あたしは、そこにいる。
不意に携帯端末が鳴り始める。少し前に買い替えたばかりのiPhoneが、着信設定したメロディを奏でる。アドレス帳の登録人数分ある着信のうちの、ひとつを。それは、山下達郎の曲だ。某大ヒット映画の主題歌の、その曲が。サマーウォーズの主題歌が。
僕らの夏の夢が、あたしの手元で鳴っている。
途端。
あたしは何かを直観する。
言葉では言い表せないけれど、確かに今、何かが起きようとしている。
その予兆だって、一瞬で悟って、だから。
ふ、ふわっと、まるでアルコールでも飲んだみたいに、気分が高揚する。ガラスを掴んでいるはずの足裏が、急に落ちた。下へ。狂ったように、けれど体は軽い。その瞬間に、プールに飛び込む幻覚を見る。きらきら光る、塩素の匂いのする水面に、あたしは背中から、プールサイドを離れて落ちる。ざぶん、と、水に落ちる音が聞こえる。それから、水の上にぷかぷか、漂流しているような気になる。
そう錯覚する。
冷たい、ターコイズ・ブルーの鮮明な青が翻って見えて、でも、それは幻覚じゃない。
あたしはアクアリウムの傍で、真夏の空を見上げている。
そして、意識は、飛ぶ。
空から、その外へ。真っ暗な、無意識の向こう側に。
まるで夜のハイウェイみたいだ。
脳裏に瞬いた一瞬の、フェードアウトしかかった直観の、その言葉の残像を追いかけて、駆ける。
ふっ、と、まるで夜の街に灯る光みたいに、浮かび上がる言葉と言葉を、たちまち、光の糸が絡め取って、あたしを直観で答えに導く。あたしの悟った、答えに。
言葉が、文章に。その答えに、変わる。
閉じた瞳の裏側に、何も見えない暗闇の視界に、風景は広がる。それはあたしの内側に広がって、いま、言葉になる。
いま紡がれている、この、言葉に。
この夏の、とびきり真夏の昼間。青空。白い日差し。透き通る水面。雑踏。泳ぐ空。
それから、僕らの夏の夢。
これ、全部、完璧すぎて涙が出そう。
だって、絶対何かあるって、あたしは、すぐに分かったのだ。
偶然なんかじゃない。これは偶然なんかじゃない。あたしはそれを知っている。
気が付いている。
あ、もしかして。これって、今日に、何かありそう、この感覚って。いま、この瞬間から。何かが、起きるかもしれない。この、いまのあたしに何か、起きる……それって。もしかして、あれ?サマーウォーズみたいな、ああいう?夏戦争、とか。疾走感のある、あれ。ほら、流れてる着信音、これでしょ?これだって。僕らの夏の夢、山下達郎の。自分で言ってなんだけど、夏戦争、サマーウォーズって、でもこれ、やっぱりいい単語だから。
言葉の音が、なんか、いい感じだな、とあたしは思う。
サマーウォーズ、じゃなくて。
夏戦争。
これってネット用語だったっけ?たぶん、自信はないけど、でも違うはず。そして、そう、夏戦争のことを。あたしは、いま理解した。だから。あたしは断言する。心の中で、完璧に言い切る。
興奮した頭で、でもはっきりと。
今日が、夏戦争がはじまる、その時だ。
きっと。じゃなくて、絶対に、起きる、夏戦争は。ビッグイベントは、必ず。
来るよ、あたし。
素晴らしい、なんて幸運なんだろう、って、あたしは思わず笑ってしまう。だってこんな機会(チャンス)滅多にない。あたしの願いを叶えるための、絶好の機会は。あたしの全霊、あたしのすべて。
あたしの何もかも、賭けたっていい。
壊してやる、世界ごと。
この世界ごと、全部、あたしが壊す。
その機会が、いま、ここにある。夏戦争は、もうそこまで、来てるんだから。あたしの目の前に。
それが、今日だ。
着信は既に止まっている。
あたしはアクアリウムの縁を離れる。
真夏の空が不規則に波打つ水面の上を滑って、上空から振り撒かれる白い粒子がガラスの反対側の水際で、小さく細かな泡になってしゅわり、とちりぢりに溶ける。日向に置いたサイダーのペットボトルの中に湧く、つやつやした輝くガラス玉みたいな気泡に似ていた。
いかにも夏っぽい、その水色のアクアリウムを背後に、あたしはiPhoneを取り出す。
ホーム画面から電話のアプリを起動して、着信履歴を一瞥する。さっき掛かってきた電話の相手の名前を確認して、折返しの電話を入れる。
仕事の電話を無視するのは、さすがにあたしだってまずい。
コール音がいくつかと、数秒の空白、そして回線が繋がる。
「なに無視してくれてんの、ちょっと」
相手の言葉に、あたしはくくっ、と喉を鳴らす。笑んでしまう。
だって。
「夏戦争が始まるから」
あたしはほとんど反射的に答えて、相手は訝しむ。それから、電話口で、ちっ、とひとつ、舌打ちが転がる。まるで味の無いガムを吐き捨てるみたいに、乱暴な口ぶりだった。
「……あんた、頭どっかで打った?暑さに脳味噌やられたんじゃないの?」
「そうかもね。でも、あたしは分かってるから」
あたしには、すべて、分かっているから。
直観で。
相手が「はぁ?」と呟く。それから、何かを考えるように押し黙る。いまにもちぎれそうな細い糸を、ぴん、と、慎重に伸ばすみたいな。回線越しに、緊張は流れる。
何秒かたって、彼女が言う。
鮮烈な声。生々しい、生彩に濡れた声。しとどに、鮮やかに。
彼女が、言う。
「……すぐ行くから。そこの前の広場に来て」
それを最後に、電話は途切れる。
アプリを起動したついでに、ここ2日分の通話履歴に目を通すと、いくつかの記録を消去した。
今の会話も、抹消した。抹消して、抹殺して、完全に削除する。
この会話の情報は、いまのあたしにとって、いらないものだから。
いらないものは棄てる。本当に大切なものと、引き換えに。
それはあたしの信条だ。昔の、あたしから学んだこと。
そうしないと、あたしはきっと死ぬ。
もう一度。
前みたいに、ずっと世界の隅で、ずっとひとりで死に続けてた、あのときのあたし、みたいに。
憎悪と諦観。衝動とか、それに願望。この世界が嫌いだって、生きていけないって、分かっていた。知っていた、分かっていたのに。でも、そういう感情を、感覚をすべて。殺してきた、あたしは。
大切なもの、あたしの全部を、あたしは殺してきた。
昔のあたしは。
きっと本当は、もっとたくさん、あるんだろう。あたしがいままで廃棄してきたそれ。見捨てられて、放置されてきた……だから、壊れたいろんな、感情は。数えきれないくらいに、無数に、在って。
でも、その日常に、その世界に、疲れた。もういいや、って、思った。
だってあたしは、もう一度死んでいる。十二分に、死んでいる。
あたしのすべてを、喪失して。
だから、もう、そんな過失は犯さない。抹消して、抹殺して、完全に削除する。
死ね、いらないもの。
あたしの過去。
iPhoneをブラウスの胸ポケットにしまって、歩きはじめる。
指定された場所に向かう進路は、必然的に下へ向かう。アクアリウムの階下けれど建物の内部には、降りない。商業フロアに繋がる階段の、螺旋状のそれは使うけれど。ひとつ下のフロアに降りるのに使って、螺旋階段から離れる。
それから、あたしは白塗りの階段を降りる。緩やかなウェーブを描いた階段は、商業ビルが割拠する地上側に接続されていて、そこに開けたスペースに出た。
まるでスポットライトが当たっているみたいに、強い光が舗装された地面に跳ね返って、休憩スペースを照らす。ビルの隙間、宇宙船の周囲に広がる、ぽっかりと白い空間。光の狭間。等間隔を空けて植えられた木々の足元に、ぽつ、ぽつ、と黒い日陰がインクの染みのように落ちている。
木々の周りに設置された円形のベンチには、幾つか、人影も、ある。
やけに大きいヘッドホンをした中学生の少女、携帯端末でたぶん通話中のサラリーマン、スターバックスのカップを片手にレポートを眺める私服の青年が、そこにいる。
ただの日常。
どこまでも普通で、平凡な、ほんの日常。
あたしの嫌いなもの。
その光景を見つめながら、額に浮かんだ汗を手の甲で拭う。額にへばりついた前髪はじっとりと濡れて、つう、とこめかみから耳の裏へ汗が一粒垂れた。カタツムリが這うみたいにゆっくりと、塩っぽい雫が肌の上を舐めていく。栄という商業地区に噴き溜まった熱気が、路地にどろりと氾濫して、街中に流れ込んでいた。アスファルトの上に煙るように、乱立したビルや店舗から湧き出した熱を含んで、緩慢に空気は漂う。
広場にあるいくつかのベンチのうちのひとつに、あたしは腰を下ろした。
ふ、と右の手首にした時計を見る。
時間はまだ12時46分だ。
今日が終わるまで、時間はまだたっぷりとある。
夏戦争が始まるまで。そのイベントが、起きるまで。十分に、時間はある。
だから、始まりの合図がやってくる、その瞬間を待ってみよう、と思う。輝くガラス製のアクアリウム、水色の真夏、真昼の下、鳴り響く着信音。あのとき鳴った、僕らの夏の夢みたいに。日常の隙間にふっと、その合図はやってくるから。きっとあたしのところに、訪れてくれるから。
そして、声はする。
いま、ここで、この瞬間、この一瞬の間に。
運命の出会いではないけれど、でも、その声は確かにあたしを起こす。
あたしを、呼ぶ。
「さっきぶり。そういえばまだ、名前はないんだっけ?」
「名前は、まだ、無い」
振り向きざまにそう返すと、女が薄く笑う。
ショートカットの白っぽい金髪、斜めに分けた前髪にはビーズ製の、飴細工みたいなアメリカピン。ストライプの入った七分袖のシャツ、蝋人形みたいに白くて細い腕、シルバーのチェーン・ブレスレット。細身のパンツから伸びた長い足、エスニック風の革のサンダル。
ちぐはぐな、女。
モデルみたいにすらっとした長身の女が、仁王立ちで立っている。日本人の顔立ちで、けれど美人の部類には入る顔の。ナチュラルなメイクを施した、その口元には、薄いローズピンクのグロス。人の悪い笑み。それから、まるでタバコを喫うみたいに、白いプラスチックの棒を咥えている。
女がにやにや、と、不気味に笑んでいる。
「夏目漱石か、それ。吾輩は猫である、名前はまだ無い、だっけ?まぁ、あんたの場合はちょっと違うか」
ひとりでぶつぶつ呟きながら、アイスを舐め続けているこの女を、あたしは知っている。ちょうど半年前、仕事先を訪問した時に、知り合っただけの間柄だ。仕事の同僚、に近い。だから。
知っているのは、ふざけたニックネームと、その職業だけだ。
「私は殺し屋である、名前はまだ無い」
そっと、吐息のように漏れた声は、淡雪みたいに溶けて、都会の喧騒の隙間にまぎれてしまう。アリスに出てくるチェシャ猫みたいに、ふわふわと不安定な。まるで聞こえない、透明な囁き声で。
そう囁いて、彼女は笑う。
あたしにだけ聞こえる、微かな声量で囁いた言葉に、少しだけ嬉しくなる。この女はあんまり好きじゃない、けれど。
でも。
ほんの少しだけ、嬉しい。
だってあたしはもう、昔の、過去のあたしじゃないって、肯定してくれるから。
いまのあたしは、殺し屋だ。昔の死んだ、死んでいたあたしじゃない。
あたしは、生きている。
いま、ここに。
だからあたしは頷く。この女の言葉に。
「それ、正解」
「そう言うだろうと思った。……それで、そう、3回目の忠告なんだけど。あんた、いい加減名前、付けたら?仕事しにくいし」
「そうだろうね、あんたにとっては」
「ふうん、あっそ。で?付けないわけ?」
あたしの、新しい、名前。それは。
「まだ、見つけられないから、いいかなって」
「あ、じゃああたしが名付け親になってあげようか?いいじゃん、なんか変な名前つけてやるよ」
アイスクリームの棒を取り出しながら、女が笑う。けらけら笑いながら、器用にアイスの残りを舐める。
舌先の熱で、アイスはほとんど溶けていく。とろ、と溶ける。それから、ストロベリー・フレーバーが滴る。ビーズみたいに、転がって。シャツの上に、ぱっ、と、飛沫く。淡い桜色が、咲く。
それから、唐突に。彼女は呟く。
「これでどう?アイスのフレーバー、いま舐めてるやつがさ、いちごミルクだから。それで」
いちごミルクって名前の、殺し屋?
さすがは変態だ、とあたしは心のうちで感心する。あたしだってたいてい末期だけれど、こいつにはかなわない。かなう奴なんか、いない。だって、いちごミルクのアイスを食べてたから、それを名前にしようなんて。全然普通じゃない、っていうか、そもそも。
やっぱり、こいつ、頭がおかしい。腐乱してる?
それに。
適当につける名前なら、いらないのだ。あたしには。だってこれは、あたしがいまここに生きている、その証拠としての名前だ。殺し屋として、生まれ変わったあたしの、存在証明としての、名前だ。
大切なもの。
だから、こんな馬鹿馬鹿しい名前は、いらない。
たぶん。
ひとこと、悪い夢に魘されるみたいに、陰鬱に呟く。
「それは却下で」
「なんでよ、いいじゃん。これ。いちごミルクさん。ああさすがは私だわ!ジュリエッタが命名、大型新人、狙った獲物は逃さないいちごミルクさん、あたしの相棒(バディ)です、素晴らしい!」
言いながら、けれど当の本人はプラスチックの棒を右手に、抱腹絶倒している。
この女が。
あたしの、これが相棒だ。
殺し屋専門のマネージャー、ジュリエッタ。
あたしが知っているのはこれだけだ。本名も年齢も生年月日も住所も、なにひとつ知らない。そんな情報は必要じゃない。あたしには、あたしたちには、不必要だ。
そんなものが無くても、ここにジュリエッタがいることは、変わらない。
ここに。
憎くて、でも頼りになるあたしの相棒、ジュリエッタがいることは。
そして、それは、あたしも同じだ。
あたしは殺し屋である、名前はまだ無い。
名前の無いあたしは、それでも、ちゃんと。いま、ここに殺し屋として存在している。
生まれ変わって、ここにいるから。
「ああ、それで、今日の伝達だけど」
ジュリエッタが、まるで死刑を宣告する裁判官みたいな、そんな厳粛な口調で続ける。
「今夜19:00分、こちらの手配した車で現場付近へ移動。23時30分、牧野ヶ池緑地周辺、梅森坂バス停北東の善光寺付近にて標的に接近、のち確保。所定の位置にて殺害。マニュアルの項目3以下は、すべて私が始末するわ」
あたしはその伝令を、すぐに理解する。
諒解する。
「了解では指示通りに。仕事の受注は完了って、ことで」
上空で鳥が羽搏く。
すっ、と、あたしたちの上に影が差して、横断していく。日差しは、鳥の、その躰に弾かれる。白い羽搏き。それが黒い影を落として、過ぎる。水色の空に、張り巡らされた電線が、びぃん、と弾かれる。五線譜みたいに伸びた、黒くて細いシルエットが、震える。ほんの僅かに、けれど確かに。
震えて、そしてそれは余韻だ。鳥たちの、羽搏きの。
飛び立った鳥の、鴉の群れの、余韻。
一瞬の、都会のなかの空白。音の介在しない沈黙に、それが響いて。けれど、もう、聞こえない。
じゅわっ、と熱したフライパンにバターを落としたみたいに、雑音は溢れる。
街角に、大通に、路地裏に。あるいは建物と建物との、その隙間に。
溢れかえった雑音たちは、街の背後に流れる。巨大な騒音として、喧噪として、雑踏として。
バック・グラウンド・ミュージックに、変わる。
あたしたちの会話は、それに、紛れた。
それじゃあ、また。次に会うときまで。
さよなら。
ジュリエッタは白いプラスチックの棒を片手に、久屋大通へと姿を消す。その傍らの歩道に。ちぐはぐでキテレツな背中は人混みの中に、たちまちに埋没する。
これで、終わりだった。あたしの仕事の、いわば最終確認は。仕事の受注は。
だからあたしは、ここを去ろう、と思う。
こんな暑いところ、たまったもんじゃないし。
あたしはどこか涼しい場所を目指して、広場を出る。
オアシス21でもよかったし、実際、すぐ近くにある。けれど、でも。なにか、違う。どこかが。決定的に、違う。そこじゃない、とあたしは感じる。
どこだろう?あたしが行きたい場所。雑踏のなか。超高層ビル。人混み。
名古屋駅?
あたしは茫然と思って、それから断言する。
名古屋だな。
あたしは栄駅を目指して歩きはじめる。
もう一度、アクアリウムの傍を、通過する。透明な水は、真夏の濃い日差しに、ゆらゆらと揺れている。時折、ちかっ、と砂場に潜んだガラス片みたいに、水面に白い光の群れが瞬く。
夏だ、とあたしは思う。
アクアリウムの脇を通り過ぎて、1階の吹き抜けに繋がる螺旋階段を降りる。サーティーワンアイスクリームとドトールコーヒーを傍目に、あたしはその商業エリアの中を渡る。楕円の中心の吹き抜けを、まっすぐ、横断する。
地下街をひたすら、直進して。
栄駅に到着する、5分後に。
栄駅には市営地下鉄:東山線と名城線が乗り入れていて、だから一瞬、躊躇する。名古屋駅は、どっちだったっけ?あたしは路線図を見て、それから数える。名古屋駅までの、駅数を、その路線を。
東山線の、2駅目。
確認して、東山線のホームに降りる。
既に電車は停まっていた。
13:06発、高畑行き。
それに、乗り込む。
冷房の効きすぎた車内の、ドアの傍に立つ。ラックにほとんど荷物はない。地下鉄の路線図はドアの上部に貼られていて、中吊りの広告記事は3流の週刊誌と、最近発売された新製品の宣伝写真。両側のドアには、注意喚起のステッカー。飛び込み乗車は危険です、とか。そういう類の。
ステッカーをあたしは眺めて、それから女の子を見つける。
まだ幼稚園くらいの、小さな子供。
両手で、大きな紙袋、栄にあるバレエショップのロゴの入ったそれを、抱えている。いかにも大事そうに抱いたまま、そっ、と何かを囁く。
にこにこ、とまるで邪気のない笑顔。ホワイト・チョコレートみたいに甘ったるい声。
それで、囁く。
「あのね、これ、ずっと欲しかったの。おばあちゃん、ありがと」
「いいのよ、だって、誕生日だもの、ね」
不意に。
あたしは吐き気がして、右手で口元をおさえる。胃の底から、あたしの心の奥底から、いろんなものが。強烈な酸味、そして苦い、どろどろとした何か、塊のようなもの。それが、喉の奥まで駆け上がってくる。背中と額に、じわっ、と冷たい水滴が浮く。真冬の水道水みたいに、やけに冷たくて嫌な汗が、静かに皮膚の上を滑る。
言葉が、感情が。
溢れる。
気持ちが悪い気持ちが悪い気持ちが悪い気持ちが悪い。
気持ちが、悪い。
昔を思い出してしまう。過去の、だから詳細な記憶を、あたしは振り返る。
引き戻される、昔に。
死んだあたしに。あの過去に。
お誕生日、おめでとう。
何が、いったい、おめでたいんだろう?あたし、いまも、なにもかも、全然、嬉しくなんかない。生きてて、楽しくなんかない。全部、否定して生きてる。あんたたち、だって。全部。なのに、なんで、そんなに嬉しそうな顔、するの?あたしが、実の娘が、こんなに苦しんでるのに?
意味が、分からない。気持ちが、悪い。
気持ちが悪い。
あの女の子、は、幸運だ。あの婆さんも。そして、あたしは、お前たちが嫌いだ。
死ねばいいのに。
電車が名古屋駅に着く。
片側のドアが開いて、どっ、と乗客が排出される。あたしはホームに転がり出る。
薄いグレーの色彩の中に沈んだホーム。
そこに。
埃をかぶった蛍光灯の鈍い光が、タイル張りの床を照らしている。あるいは、このホームを。地下の、重たくて陰鬱な匂いに満ち満ちている、ここを。塗装の剥げかけたベンチを、置き去りにされたコーヒーの空き缶を。翳りのある光が、けれど柔らかく、平等にあたしたちを、照らす。
あたしは、そして線路を見る。
トンネルの先、宇宙みたいな黒の先へ向かう、線路。
仄暗い地下鉄のホームを眺めながら、そこに同化するように、あたしは何分か、そこに佇んでいる。
佇んで、そして呟く。
なにもかも、忘れろ、と。念じる、ただ、ひたすらに。
忘れて。捨ててしまえ。昔のあたし。忌々しい記憶。憎悪も嫌悪も、あの時の殺意すら、全部。
思い出すな、すべて。消して、抹消して。
記憶は、回顧された、させられたそれを。抹消して。過去を、あたしを抹殺して。
そうして、抹消して、抹殺して、完全に削除する。
いまのことは、すべて。
あたしは忘却して、歩きはじめる。
別のことを考えないと。今から、何をしよう、とか。そういうことを。名古屋駅まで出てきたのに、何も考えてなかった。何がしたい?勿論、ランチだ。少し遅めのランチ。じゃあ、何を食べよう?
あたしは、これから。
なんだって、できる。
どこにだって、どこへだって、行ける。
あたしは、自由だ。
桜通口から地上へ出る。
ねぇ、あたし。腹が減っては、戦はできない。できない、だから夏戦争、だって。
名古屋駅の待ち合わせスポット、金の時計広場を左に向かって横切る。完全に左折して、構内に併合されているタワーズ通りに抜ける。
世界なんて、壊せない。
タワーズ通りを、ただ前に、前に向かって、歩く。
だから、あたし、何が食べたいの?
世界を壊すために。
あたしはそれを問いかける、あたし自身に。だってあたしは自由だ。
そして、即答する。
インスピレーションで。あたしの直観で、選びたいから。
だったら、お店は、たくさんあるほうがいい。選びやすいほうがいい。だから、ここしか、ない。あのビルの12階の、レストラン街。イタリアン、創作和食、そのほかもろもろの料理店が40店舗も擁されているあのフロアなら、絶対、ある。
あたしの食べたいものは、たぶん。
JRセントラルタワーズを、目指す。
名古屋駅と同じ敷地にある、52階建のビル。東急ハンズと、三省堂書店と、新星堂、JR名古屋タカシマヤ、おまけに名古屋マリオットアソシアホテルまで、共棲している、そこ。世界一高い駅ビルとしてギネス・ワールド・レコーズに認定されている、超高層ビル。
そのエントランスの、前に、立つ。
JRセントラルタワーズと地上を接続する、エレベーターの、前に。
スカイシャトル。
12基が運転されているうちの、ひとつに。
あたしは、乗る。
12階を目指す。
ホームページのフロアガイドから正式名称を引用するなら、タワーズプラザ。
そこに、エレベーターは停まる。
あたしは目的地に降り立って、その広大なフロアを物色し始める。野生のベンガルトラが、獲物を探索するみたいに。聴覚と、視覚、嗅覚を駆使して、レストランを観察して渡り歩く。品定めを、する。
それから、第六感も、使って。
インスピレーション、これが一番大事なのだ。脳の奥で、悟ることが、大切で。
フランス料理とイタリアン、老舗の洋食屋とか、そういう店構えを眺めながら、ひととおりフロアを回ってしまって、立ち止まる。ふわっ、と鼻に抜ける、食欲をそそるいい匂いが、する。どこかでいま、作られている一皿の、鮮やかな香り。それに湯気とか、熱気。バターを溶かすような、ニンニクを炒めるような、そういう香ばしい匂い。
間違いじゃないな、と、あたしは思う。
ここを選んだのは、間違いじゃない。でも、違う。
このフロアじゃない。
エスカレーターに乗って、13階に上がる。もうひとつ上の階層(かい)に。
すぐに、感じる。
ここだ。ここに、ある。あたしの食べたいもの。
それを理解して、だからあたしは。
歩き出す。気の向くままに、開けたこのフロアに躍り出る。ローファーの踵が弾む、このあたしの靴音を引き連れて、歩く。
あたし、いま、何が食べたいんだっけ?
ふらっ、と散策して、そこで。
かん。
突然、小さな音はする。
数メートル先の店の前で。微弱な落下音、そして、何かが落ちている。
小型の、黒いそれ。携帯電話に見えて、でも、違う。スタンガンだ。それも日本国内では流通していない仕様の。
あ、と思う。
これは、この音は。
そう、夏戦争の合図だって。
あたしは瞬時に悟る。
これが、合図で。だから、あたしは。
こんな絶好の機会、もう二度とない。
だから。
この合図を、見逃すわけには。
夏戦争の合図を、手放すわけには。
この運命的な出会いを利用しないわけには、いかない。
あたしは、スタンガンの持ち主を見る。その人影を識別する。
青いワイシャツに、グレーのスラックス、黒の革靴。中肉中背の、普通のサラリーマンに見えて、でもどこか瞳は暗い。鬱蒼とした、夜の山みたいな。暗澹とした、瞳。普通じゃないな、と思う。この人、このおっさん……おじさん、普通じゃない。
まるで世界を恨んでいそうな。
あたしは思って、それから足元を見る。
おじさんの、足元。
小型のスタンガンが、落ちている。それに気が付いて、おじさんが、拾う。
前に、あたしが、それを。
拾っている。
黒いスタンガン。あたしの使い慣れた、仕事道具の一つ。
差し出しながら、あたしは悟っている。
だから、そっと、囁く。
「おじさん、世界、壊しちゃおうか」
ポップ・ワールド・イン・サマー
読んでくださり、ありがとうございました。最後まで読んでいただけるとは、感謝感激です。本当にありがとうございました。またお会いできれば、嬉しいです。
それでは。