『被膜虚実』展(再掲)
2023年4月9日にアップした記事を再掲したものです。
一
恣意的に引かれるボーダーラインは京極堂シリーズの第二弾、『魍魎の匣』でも取り上げられる程に得体が知れず、しかも一度引かれるとそれを抹消し又は修正することが難しくなる。なぜなら、こちらとあちらという素朴な対象指示が可能となった状態によって自然と果たされる理解はその人が生きる世界の基本線となる。そうして分たれた後の世界の其処彼処で見つけられる「こちら」と「あちら」の領域をその人生において何度も出入りすればその身を通して覚える実感となって、ついには取り外し不可能な色眼鏡として私たちの世界に傾きを生む。
かかる状態を問題視して色眼鏡を正そうと思えば、見ているもの又は考えている事の偏りを他人に指摘してもらう方法はあり、あるいは自分自身を客観視する間主観的な立場から論理的なメスを握って誠心誠意、自己批判を行う方法が考えられる。それまでの見方に縋ろうとする肌感覚が総毛だって警鐘を鳴らす中で自分自身と向き合い、懇々と行う論理的説得によって窓枠は組み替えられて、世界の景色が様変わりするであろうことを思えば、後者のほうが人格陶冶の観点から見て妥当と評価することもできる。
と記す度に筆者の頭に浮かぶ疑問の一つとして、境界に関わる政治的又は社会的諸問題をテーマに取り上げる作品表現の難しさはある。すなわち一目見て知れる体験型の問題提起によって強いインパクトを引き起こし、話題性を売りとする表現手法が刺激的である程にその鑑賞体験は一夜限りのアトラクションとして片付けられ、記憶の海に沈みやすいといつも感じる。強烈なパンチを繰り出して鑑賞者の色眼鏡のレンズやフレームに何らかの傷を残せたのだとしても、それが何の傷だったのかを思い出してさえ貰えないのだとしたら作品表現の目論見が成功したとは言えないのでないか。
そもそもバイアスと言い換えても構わない色眼鏡なのだ。筆者も含めておよその人が色眼鏡を掛けていると思わずに過ごす日常の頑なさを前提に行う作品表現というべきだろう。いやそんな指摘はされる前から百も承知、だからこそ様々な工夫を試みて、色眼鏡を掛けているという事実に気付ける問題意識をこそ植え付けようとしている。どこかから聞こえてきそうなそんな抗弁に対して、けれどもその成功水準をどう想定しているのか。さきの自己批判の場合だって日常感覚に眩暈を覚えさせる「驚き」を伴ってこそ初めて哲学的に機能するだから、作品表現が与えようとする「驚き」もただ見る人の意表をつくだけでは圧倒的に足りない。ものとして形にしたなどと語れる事実的な力では役不足も甚だしいとする厳しい評価を美術史的な観点から離れてでも行えている、そういえる自信を持てているかどうか。
二
ここで取り上げるコレクション展、『被膜虚実』は東京都現代美術館で開催中である。
題名にある『被膜』は三上晴子(敬称略)が1990年代頃にその表現活動に用いていたキーワードである。内外の区別をつける薄い膜が果たす機能、すなわち外からの侵入を防ぐ防壁になると同時に内側の状態を覆い隠すヴェールにもなる点に着目し、ボーダーラインとしての被膜が生み出す『虚実』を暴く作品表現を三上晴子がジャンクな素材を積極的に用いて行ってきた。
その特徴をよく知れるインスタレーション、「被膜世界:廃棄物処理容器」は側面部分が透明のビニールで覆われたスーツケースの中に医療用又は工業用の防護服、あるいは液体用の保存容器をぎゅうぎゅうに敷き詰め、空港で見かける手荷物搬送用のターンテーブルに乗せてからその異様さを360度鑑賞できる様に並べられている。
文字にする以上に窮屈そうで、息苦しそうな中身の印象はまた丸見えの容器に書かれた注意書き又はあちこちに貼られたラベルが伝える警告で倍増され、さらにはプライバシーの保護に優先して選択されたであろうスーツケースの中身に対する安全性の過度なアピールによって近づきたくない、関わりたくない忌避感を生む。ここに国家の主権が及ぶ範囲としての国境線を持ち込み、そのラインを超えて運搬されるスーツケースなのだという想定を加えれば、放射能や疫病といった事態に対処するための上記荷物群が管理運用される社会的営みの不自然さが一挙に把握できてしまい、総毛立つ瞬間が無事に訪れる。安全という情報そのものが運ばれている様な、あるいはこうしたから大丈夫、こうなるから問題ないという判断の裏に潜む政治的意図又は優先されるべき経済的合理性が傾ける天秤の姿に疑問を覚えることすらいつしか出来なくなるのでないかという予感が展示会場の床を滑らかに這っていく。
だからといって、このヴェールを今度は一転して過剰な衛生管理に向けてしまうのなら実際にある物として床に設置された体重計と、真正面の高い壁に並べられた無数のシャワーヘッドから成る《Scale》が数ミリ単位の体重管理及び数時間単位の清潔さを求めて人間管理を開始する。自然という名の外界と接する体表面という境界線は強く意識されてそこに付着する不衛生なものと、その内側に堆積する不摂生のダブルパンチを忌み嫌う感覚はいつしか汚れなき自意識となって肥大化し、不老不死の夢を現実のものとして求めさせる。
三
先にも進めず、後にも引けない。三上晴子の作品表現が明らかにする恣意的な境界線の力場を名和晃平(敬称略)の表現作品、《PixCell−Deer#17》及び《PixCell−Bambi#10》を通じてさらに洗い出せば、それは人の身体という死んでも直せない偏見となって深淵なる笑みを浮かべるだろう。
仕留めた獲物として室内に飾られる剥製にはその中身がない。つまり剥製のリアリティは死体から丁寧に剥ぎ取られた表皮だけで保たれている。この事実を大小様々な透明の球体で覆い、向こう側に透けて見える鹿又は子鹿の剥製を捉えようとする意識を光の反射で阻んでは、意地になって近づく者の視界を球体の連なりが埋める。こうして鑑賞する誰もが鹿又は子鹿の剥製をそのままの見ることができない《PixCell−Deer#17》及び《PixCell−Bambi#10》に対して、言える文句が人間にはない。なぜなら鹿又は子鹿の剥製をありのままに見れない原因は、光の反射や球体の物性を正しく認識してしまう身体機能にあるから。それが人というものの見方で可能となる世界の「客観」であり、嘘と本当の狭間で転がる「現実」だから、その色眼鏡をこそ人は死ぬまで外せない。かかる事実を真摯に受け止めて感じられるある種の絶望は、加藤美佳(敬称略)の《カナリヤ》と伊庭靖子(敬称略)の《Untitled 2009—02》へ足を向ける原動力となる。
四
睫毛や髪の毛の一本にまでリアルが宿る《カナリヤ》のモデルは雑誌から切り抜いた無数の顔を融合させて作り上げられた人形であり、その表現を角度を変えた写真として重ね、複合的にイメージ化してからその油絵は制作されたという。《Untitled 2009—02》もほぼ同じで、元になった写真イメージを絵具の淡い重なりとして作り上げられている。両作品の制作過程において共通する、写真を介したイメージの重複が教える虚実の軽みは統覚作用を支える情報処理に深く関わる。《カナリヤ》を鑑賞して抱く絵画としての第一印象は仔細に見れば見る程に粒だった現実としてひっくり返る。その隣に展示されている《Untitled 2009—02》の、こちらは写真でないかと見間違うぐらいにリアルな描写が鑑賞に掛けた時間と共にイメージとしての絵画の、手が届きそうで届かないあの柔らかな嘘へと変化する。その仕上がり具合は真逆と言えるぐらいに異なるのに、どちらの作品も最後にはその表現こそが人が知れる現実だと信じさせる。
なんていい加減な認識作用なんだ、と嘆息混じりに呆れる一方で妙な希望も感じ取れるのはそれらの作品が論理的には見えない形で孕んでいるものを想像的に引き出し、その有り様を至極真っ当に表現することで外せない色眼鏡を、しかし適切に誤魔化せる激しい瞬きを鑑賞者に繰り返させる。それが正しく問題意識の芽生えとなって、想像が果たす仮定によって論理的な畳み掛けが重要な意味を持つ状態は生まれる。そう直観させてくれるからだと筆者は考える。
四
上記した鑑賞体験を行える『被膜虚実』の展示と比べると以前、森美術館で開催された『Chim↑Pom展』に対して筆者が覚えた違和感を以下のように言葉にできる。
すなわちChim↑Pomというアーティスト集団が行うのは事実に則し過ぎている、そこには想像力が孕むものが一切ない。故に各作品表現が指摘するものを余す所なく言語化できるのだが、ならそれらの主張を論文にして発表して貰った方がこちらとしても議論し易いし、また議論できる多くの人々を集められもするだろう。社会運動の側面も狙いとするのならその方が建設的であり、また長期的な活動だってきっと目論める。なのにそうしない、それは何故なのだろう。この疑問が終始付き纏って殆どの作品鑑賞を楽しめなかった。これが違和感の正体であったと筆者は思う。
一方で上記した展示会場で見応えがあると思えた《The Grounds》はメキシコ側の国境沿いにアメリカ側に向かって穴を掘るというもので、トランプ前大統領の移民政策に意を唱えるワールドワイドな表現活動となっており、想像力を刺激する事実活動の大きさを感じられた。しかしながらこれも類似の活動を続けていけば、前述したアトラクション的な表現活動に内在する問題点がここで顔を出し、それが当たり前のものとなっていつしか自然と飽きられる。作品の強度という点で、筆者はChim↑Pomというアーティスト集団を高く評価できない。現時点では素直にそう思ってしまう。
五
生まれてから死ぬまでの人生で出会す種々様々な場面に応じて色々と使い熟せる色眼鏡なのだとすれば、これから先の人生に向けて探究に励もうとする好奇心は湧く。それを論理的にでも、感覚的にでも表現していけば世界の果てにだって辿り着ける、そういう綺麗事の残酷な所在を『被膜虚実』展が証明する。極めて強度の高い作品表現の力の数々を是非、その目で味わって欲しい。
『被膜虚実』展(再掲)