某文芸投稿サイトにて
ほんの数ヶ月前まで、ヘビーに利用していた某文芸投稿サイトへ久しぶりにログインしました。すると……なかなかのカオス状態になっており、唖然としました。
諸事情により、私はこのサイトと距離を取るようになり、投稿した作品もこちらへコツコツと移植しているのですが、だからと言って、このサイトのことを嫌いになったわけではありません。
また、サイトを通じて知り合ったたくさんの作家さまのことも、一ファンとして、これからもひっそりと作品をフォローしていこうと思っていますし、当面私は利用することはないにしても、サイトは楽しく盛り上がっていて欲しいなぁと思っていたのです。
なんと言うのか、母校のような存在かもしれません。もっとも、私は「卒業」したのではなく、「自主退学(停学?)」になるのでしょうけど。
なのに……なかなか強烈な個性の方が、しかも複数の方が跋扈し、カオスを引き起こしているように見受けられました。その中の一人が、沢山の方の作品に感想を一方的に送り付けておりましたが、これがまた、なかなか強烈なのです。
内容はあえて伏せますが、一点だけ、とても気になってしまった表現がありましたので、ここではそのことを取り上げてみようと思います。
「私は◯◯人なので、おせいじは一切書きません」
えぇと……このお言葉には、ツッコミどころが二箇所あります。
まず、「AなのでBはしない」という表現の裏には、Aという条件を満たす人がBという行動をしないことが、定説や定義になっているという共通認識が必要になります。
つまり、ここでは◯◯人(◯◯にはある都道府県名が入ります)は、「おせいじ」を一切書かない、ということになるのですが、果たして、このことはどの程度認知されているのか? という前提となるべき条件に、懐疑的なのです。いや、早い話、そんなこと聞いたことないよ、という疑問です。
と言うか……その前に、一つ言わせてください。
「おせいじ」って何やねん!
まぁ、多分「お世辞」のことなのでしょうが、念のため、調べてみました。すると、予想通り、地域によっては確かに「お世辞」のことを「おせいじ」と発音する人もいらっしゃるそうです。恥ずかしながら、私は存じ上げておりませんでした。
しかし、これはあくまで「話し言葉」だけのことでして、「お世辞」は「世辞(せじ)」の丁寧語ですから、読み方は「おせじ」しかありません。
余談ですが、私が生まれ育った大阪の下町では、「拾う」のことを「ひらう」という人もいます。「拾った」は「ひらった」です。
だからといって、テストで「拾う」の読みを問われて「ひらう」と書くと、×になるでしょう。当たり前のことです。
なので、コメントや感想などで「拾う」という言葉を使う際は、(漢字を使えばいいだけのことですし)わざわざ平仮名で「ひらう」と書くことはありません。条件によっては、小説内では使うこともあるでしょうけど。
さてさて、話は戻りますが、「おせいじ」が「お世辞」だとします。「はじめまして」の人への感想やコメントで、漢字の「お世辞」ではなく、平仮名で口語体の「おせいじ」を使うのも……百歩譲ってアリとします。
しかし、大きな問題がまだ残っているのです。それは、「AなのでBはしない」の問題、つまり、◯◯人がお世辞を言わないことは認知されているのか? ということです。少なくとも、私は初めて聞いたのです。
例えば、「粋な江戸っ子」「京都の人は遠回しに嫌味を言う」「名古屋の人は見栄っ張り」などと同様に、「◯◯人はお世辞を言わない」ことは、真偽はともかく、一般的にステレオタイプとして認知されていることなのでしょうか?
逆に問いますと、「粋でいなせな」と言えば「江戸っ子」、「腹黒い県民性」と言えば「京都」、「見栄っ張り」と言えば「名古屋」のように、お世辞を言わない県民性と聞いて、特定の都道府県を連想する方はいらっしゃいますか?
その辺り、調べてみましたけど、そういった言い回しや風習、県民性など、どれだけ調べてもヒットしませんでした。つまり、この人が勝手に言っているだけの可能性が高いと思うのです。
(※調べてみたところ、強いて言えば、茨城県民がお世辞を使わず、無愛想で飾らないストレートな言い回しを好むと言われているそうです。私は数年間、茨城県に住んでいたことがありますが、確かに無愛想でストレートな言い回しを好む人が多かったかも、と思いました。でも、お世辞を言わない県民性という認識はありません。聞いたこともありません。あと、この方は茨城県の方ではありません)
もっとも、この方が沢山の方に送り付けた感想の内容も、独りよがりの上から目線の非常識な内容です。なので、「◯◯人なのでおせいじは書かない」なんて根拠のない発言をする程度にはヤバそうな人なのかな? ということは、私も大阪生まれなので、「ふいんき」で伝わりました。
某文芸投稿サイトにて