ゼロビート
ゼロビートと聞いて、あぁアレね、とピンとくる方はごく少数派だと思います。おそらくは、音響学や波動光学を専門的に学んだ方か、オーディオや無線に通じてる方でしょう。しかし、私自身、それらのどれにも当てはまりません。
私にとってのゼロビートとは、「唸りのない状態」の音のことです。そして、これはピアノ調律師が使う意味でもあります。
二つの音を同時に鳴らした時、それぞれの周波数が異なると音が唸るのですが、これは周期的な音の起伏(波)として捉えることが出来ます。また、周波数の差が、一秒間に唸る回数となります。例えば、二音の周波数差が1hz(ヘルツ)なら一秒に一回、5hzなら一秒に五回の周期で唸りが発生するのです。
ただ、二音の周波数差が大き過ぎると、唸りは超高速となる為、唸りとして認識出来なくなります。おそらくですが、音域にもよりますが、30hz以上も差があると、完全に別の二音として認識しますので、唸りなんて聞き取れません。聞こえたとしても、唸りとして捉えられません。
逆に、周波数が近過ぎる時、例えば周波数差が0.1hzだと、十秒で一周期の唸りとなるので、これを唸りと捉える為には相応の訓練が必要でしょう。
では、唸りは、同音が微妙にズレてる時にだけ発生するのか? といえば、必ずしもそういうわけではありません。倍音同士が干渉し合って発生することもあるのです……が、少し専門的な話になるので、またの機会(あればですが)に持ち越します。
ちなみに、今更になりましたが、この「唸り」のことを英語で「beat(ビート)」といいます。音楽用語でビートといえば、8ビートや16ビートなどと使われているように、「拍子」という意味が一般的ですが、本来は「連打する」という意味の動詞なのです。
他にも、(連続して)「叩く」「打つ」という意味もありますが、まさにリズムを刻む動作もこれに当てはまります。いつしか、「拍子」という名詞でも使われるようになったのは必然のようにも思います。
唸りも、連続してリズムを打つ感じは、まさに「拍子」であり、「beat」と言えるでしょう。最も、唸りのことをビートと呼ぶ人は、ほとんどが調律師ではないかと思いますが。
というわけでして、ピアノ調律師の世界での「ゼロビート」とは、「唸りのない」和声のことを意味します。
調律師は、ピアノの音を綺麗に整える仕事だと思われているでしょう。若しくは、調律という作業が、音を綺麗にすることと換言しても構いません。
しかし、これは半分正解で半分は間違いです。ピアノの調律は「12平均律」が採用されているのですが、これは「1オクターブを12等分する」という意味なのです。
だから何? と思われるかもしれませんが、実は、1オクターブを12等分しますと、綺麗な和声はオクターブだけなのです。有名なドミソの和音も、ドファラもシレソも、もっと言えばドソだけの和音も、全て濁っているのです。何故なら、単純な話でして、オクターブは12で割り切れないからです。割り切れないということは、「余り」がでるのです。平均律は、この「余り」を平均化してバラけさせ、どの半音も同じ比率の周波数になるように並べ、「万遍なく均一に濁らせる」調律と言えるでしょう。
また、「唯一綺麗な和音」と前述したオクターブも、ピアノの場合は「インハーモニシティ」という物理現象により、完璧なゼロビートにはならないのです。
要するに、ピアノの和声には、純度の高い「ゼロビート」のハーモニーは存在しないのです。
ピアノの調律は、狂った音律を整えるという意味では、音を綺麗にする作業ですが、本当に綺麗な音を作っているわけでもないのです。
また、ピアノは一つの音に三本の弦が張られてあり、この三本を同じ音に合わす必要があります。
(注:低音部は1〜3本です)
これは、元は音量を増す為の工夫として発展してきた結果ですが、今となっては、豊かな響きを得る為にも必須の構造なのです。調律では、この三本の弦を同じ音(ユニゾンと言います)に合わせるのですが、実はこれも物理的に全く同じ周波数にしているわけではありません。微妙なズレを意図的に作ることにより、音色に違いが生まれるのです。調律師によって音が違うのも、大半はユニゾンの違いによるものです。
実は、ユニゾンを合わせる作業は、調律師が一番最初に習得する作業なのですが、いつまで経っても完成を見つけられない奥の深い工程でもあります。調律師の個性が顕著に現れますし、調律の仕上がりにも影響が大きく、最も難しい工程なのです。
半音の1/100の音程のことを1セントと呼ぶのですが、調律師がユニゾンを合わせる時は、0.5セント以下の精度で音を聞き分け、揃えるのです。そこまで近似した周波数の差異だと、あからさまにはビートは現れません。数十秒で一周期の唸りですから、音の減衰の方が早いかもしれませんし、唸りと認識されることもないでしょう。
しかし、大切なのは、ゼロビートではないことです。おそらく、ユニゾンで物理的に完璧なゼロビートは、人間には作れません。もし、たまたま作れたとしても、保持は出来ないですから、ユニゾンにもゼロビートは存在しないのです。
では、ゼロビートの調律が出来たとすると?
実は、古典調律には、平均律でないものが沢山あります。特定の和音を純正律に合わせることにより、調によっては濁りのない、澄んだ響きが得られます。バロック以前の音楽には、古典調律の方が適していると提唱する音楽家も沢山います。一理あるでしょう。実際に、古典調律を推奨する演奏家も沢山いらっしゃいます。
反面、純正和音を多用することにより生まれた歪みは、平均律の何倍もの濁りとなって、あまり使わない音に皺寄せとなって押し付けられ、犠牲となります。つまり、綺麗な響きが得られる調性は限定的ですし、曲中での転調や移調にも不向きなのです。
どの調でも、どの和音でも濁りのない調律はないのか?……これは、ピアノでは物理的に不可能なのです。
なので、架空と想像の世界での話になりますが、ゼロビートのピアノがあったとすると……個人的には、何とも味気ないものになる気がしてなりません。どんなにピュアな演奏でも、ほんの少しの個性がアクセントとなるように、全く濁りのない純正な響きは、真っ白なキャンパスのように、単なる無個性へ収束すると思うのです。
最近読んだ小説に書いてあった話ですが、完璧な美人には、個性も魅力もないそうです。しかし、そこにほんの少しの「揺らぎ」があると、個性が生まれ、魅力にもなるのです。つまり、完璧は退屈なのです。おそらくは、完璧を目指す事が出来ないから。
何事も、完璧ではないからこそ、完璧になる為の試行錯誤があり、努力や工夫の跡が見受けられるのです。あの手この手で完璧に近付けようとするからこそ、個性が宿り、魅力へと育まれるのかもしれません。
音の世界もきっとそうなのだろうと思います。平均律には、ゼロビートはありません。でも、純正の響きを求め、可能な限りゼロビートへ近付けようとした試行錯誤の結晶が平均律だとすれば、不完全のままで正解なのだと思います。
そんな話を旦那にしたら、「確かにパンツ丸見えよりパンチラの方がドキッとする」と言ってました。多分、意味が伝わってないと思います。
ゼロビート