AIトマソン画集 Thomassonal Solitude

AIトマソン画集 Thomassonal Solitude

孤独は都市生活の特徴のひとつである。
―『オックスフォード英語辞典』

トマソンはトマソンでありトマソンでありトマソンである。
―画家・江戸和戸歩羽

プロローグ(あるいはあるのっぴきらない理由でもたらされた数奇な邂逅)

 まず初めに、この画集に収められている見事な作品群はすべて、私の友人であり画家の江戸和戸歩羽(えどわどほっぱ)氏によるものである。
 歩羽氏は、まさに不世出の巨匠ヘンリー・ダーガーのように、誰にも知られずにたった一人で、狭苦しいアパートの一室で作品を生み出し続けていた。そんな彼と私が邂逅(かいこう)を果たしたのは、—人生においてもたらされる数奇な運命が往々にしてそうであるように— ほんのささいな偶然からだった。
 私は二十代の頃に、あるのっぴきらない理由で引越したのだが、奇妙なことにその街には、昇った先に何もない階段やどこへも通じていない扉など、ほとんど芸術的なまでに無意味な建築物が至る所にあふれていた。
 しかしひょっとするとそれらが見えているのは私だけなのかもしれないと錯覚してしまうほど、街を行き交う人々は眼前に広がる奇怪な風景にはなぜかまったく関心のない様子で、私は何かの手違いで不思議の国のアリスのようにあべこべな世界に迷い込んでしまったのだと、引越した初日はシェイクスピアの悲劇にも引けをとらないほど気が滅入っていた。
 そんな時に逃げるように入った純喫茶で出逢ったのが、江戸和戸歩羽氏だった。歩羽氏はカウンターの奥の席でほとんど味のしないコーヒーを啜りながら、天井棚の上のブラウン管で相撲中継を眺めていた。店内にはマスターと歩羽氏と私の三人だけだった。憔悴しきっていた若者を哀れに思ったのか、歩羽氏は私に歩み寄り、この街に存在している奇妙な建築物は「トマソン」と呼ばれており、街がなぜそうなっているのかは誰にもわかっていないがそのうちに慣れてくる、と深く老成した声で語りかけてくれたのだ。
 それから私は毎日のように歩羽氏の口から語られる奇想天外な話を聞きに喫茶店へ通うようになった。歩羽氏と私の語らう姿は、まわりからは祖父と孫のように見えたであろう。けれども、奇妙なトマソンタウンに迷い込むようにして移り住んだ私にとって、歩羽氏は孤独な心を支えてくれる唯一の友人であり、私の知らない多くの物事を教え諭してくれるかけがえのない師でもあった。
 しかし、穏やかな春の季節が口惜しいほどに短いというこの世の理とちょうど同じように、私の人生における最良の日々も長くは続かなかった。
 彼が病床に臥した時、私は初めて彼の住む、ほとんど骨董品のような古びた木造アパートへ見舞いに行った。布団に横たわる彼が生気の失せた声で、「君が最初で最後の客人だ」と力なく照れながら言っていたその表情は、今でも昨日のことのように思い出される。そしてそこで私はようやく部屋中の壁に貼られたおびただしい数の彼の作品を目の当たりにしたのだ。驚いたことに(あるいは当然と言うべきか)、そんな作品のことはこれまで一度も聞かされていなかった。
 身寄りのない歩羽氏は亡くなる直前に部屋にあったすべての作品を私に託した。そして今こうして私は一つの画集“Thomassonal Solitude”(トマソン・この孤独なるもの)としてここに彼の生きた証を残そうと思う。トマソンだらけの奇妙な街における孤独を描き続けた故・江戸和戸歩羽氏にあらん限りの敬意を表して。

1 | 森と街角 | Woods and Streets | 2004

2 | 窓辺の男 | Man at the Window | 2006

3 | 午後のカフェテリア | Cafeteria in the Afternoon | 2009

4 | 階段の少年 | Boy on the Stairs | 2004

5 | 独りで座る女 | Woman Sitting Alone | 2011

6 | 散歩する男 | Man Taking a Walk | 2007

7 | 昼下りのベランダ | Balcony in the Afternoon | 2009

8 | 誰かを待つ女 | Woman Waiting for Someone | 2008

9 | 誰かに去られた男 | Man Left by Someone | 2008

10 | 誰もいない寝室 | Empty Bedroom | 2007

【トマソンコラム】トマソンについて語るときに江戸和戸歩羽の語ること

 そもそも「トマソン」とはいったい何なのか、というのが目下読者諸氏の多くが抱いている大きな疑問のひとつだろう。しかし、正直に言うと、私自身もあまりその意味や概念をきちんと把握できているのかと問われれば、簡単にイエスとは答えられない。申し訳ない。だがしかし、トマソンとはおそらくそういうものなのだ。有象無象の人間がひと所に密集している「都市」というコンクリート砂漠でふいに立ちのぼる蜃気楼のような存在は、不確実で捉えどころのない都市の余白部分へといざない、我々をすっぽりと ―ちょうどピノキオの巨大なマッコウクジラのように― 飲み込んでしまう。一度その中に入り込んでしまった者は、もう元の世界には戻れない。それが、私がトマソンに対して抱く、超自然的なものへの畏敬のような感情だ。
 しかし、このように闇雲に抽象的な言葉を羅列させたところで、トマソンの輪郭を余計にぼやけさせてしまうだけなので、ここでは、行きつけの喫茶店で江戸和戸歩羽氏が私に語ってくれたことを書き残しておこうと思う。味のしないコーヒーを啜りながら、歩羽氏はよくこんなふうに話してくれた。

 “トマソンというのは、どこにでもある。どこにでもあるのだが、誰にでも見つけられるわけではない。そこがトマソンのおもしろいところだ。
 トマソンという言葉は、わたしが作ったものではない。赤瀬川原平という、風変わりな男が生み出したものだ。よくこの店で一緒にコーヒーを飲んで語らい合っていた、わたしの古い友人だ。
 ある日、ゲンちゃんは —それが彼の愛称だったんだが— いつものように同じ時間に同じ座席へやって来て、「ヘウレーカ!」と言わんばかりに少年のような無邪気な笑顔で、今日から街にあふれているあの不思議で魅力的な建築物たちのことをトマソンと呼ぶのだ!と高らかに宣言したんだ。ゲンちゃんはいつもそんな調子で、とにかく愉快な男だった。
 それで、ゲンちゃんの言う不思議な建築物というのは、たとえば、上って下りるだけの純粋な階段、開けて閉めるだけの純粋なドア、そういう何のために存在しているのかわからない、まったく世の中の役にも立っていないのにもかかわらず取り壊されずにどういうわけかそのまま存在しつづけているもの。それがトマソンだ。まさに無用の長物というわけだ。
 意外かもしれんが、トマソンという言葉自体は、ゲーリー・トマソンという野球選手の名前からきている。これもゲンちゃんなりのユーモアだと思うが、ゲーリー・トマソンは空振りばかりの四番バッターだった。打席に立てば三振が増えていく一方なのだが、それでもゲーリー・トマソンはチームに在籍しつづけた。つまり彼はチームにとって無用の長物であり、この街に存在する役に立たない階段やドアと本質的には同じなのだ。ゲーリー・トマソンには気の毒かもしれんが、ゲンちゃんが妙に言い得ているのも事実だ。これは皮肉などではなく、いたって真面目な話で、本当にそうなのだから仕方がないのだ。”

 歩羽氏は普段はあまり口数の多い方ではなかったのだが、トマソンの話となると、人が変わったようにとめどなく饒舌に語り出すのだ。いささかおかしな言い回しかも知れないが、私にとって歩羽氏は、無数の不思議な物語を夜毎に語りかけてくれるシェエラザードような存在であったのかもしれない。

11 | ケープの女 | Woman in Cape | 2013

12 | 老人と犬 | Old Man and His Dog | 2015

13 | 坂の上の家 | House on the Hill | 2013

14 | 風に揺れるカーテン | Waving in the Wind | 2009

15 | 白昼の女 | Woman in Daylight |2012

16 | 二人の独身男 | Two Single Men | 2009

17 | ゴルフ場 | Golf Course | 2017

18 | 小さな鉢植 | Small Pot Plant | 2011

19 | 劇場 | Theater | 2008

20 | 川辺の夕暮れ | Riverside Sunset | 2017

【トマソンコラム】私は如何にして心配するのを止めてトマソンを愛するようになったか

 「トマソンとは沈黙の存在である」そう言ったのは赤瀬川原平氏だったそうだ。歩羽氏はこの言葉を妙に気に入っていたようで、会話を始める前にいつも枕詞のように言っていた。
 「時を得た沈黙は叡智であり、いかなる雄弁にもまさる」という言葉を残したのはプルタルコスだが、トマソンも沈黙を通して実に多くのことを我々に語りかけてくる。
 目的地のない階段の先にはもともと何があったのか、どのような事情でその目的地は取り壊されてしまったのか、その目的地に向かって階段を昇り降りしていた人たちはいったいどれくらいいて、その人たちはいったいどのような暮らしを営んでいたのか、そしてそれらのすべてが諸行無常の流れの中で消え去った後になぜ階段だけが残影のようにして取り残されることとなったのか。
 そうやってあれやこれやと考え始めると疑問が尽きることはない。つまりそこには無数の記憶の断片が含まれており、トマソンはそれらの物語を内包し保存し続ける琥珀玉のような存在なのだ。
 街の中で行き先のない階段を見つけたら、昇ってみるといい。あるいは行き先のない扉を見つけたら、開けてみるといい。そこには何もないのだが、その「不在」の空間に、何か予感めいたものが漂っているのをかすかに感じ取れるだろう。「昔ここには何かがあった」という古の大海のように長い沈黙を経た不在の中に我々は静かに佇んで、内側から琥珀玉のかすかな輝きを目にするのだ。トマソンを通して我々は世界の裏側を、あるいは忘れかけていた世界の記憶の深層を垣間見ることになるのだ。
 そしてその時に初めて、トマソンは他者ではないと実感する。トマソンは我々の心の内側にも存在する。多かれ少なかれ、定義づけのできない無数の曖昧な何かを抱え込みながら我々は生きている。そのことにトマソンは気づかせてくれる。
 人はいつも理解の及ばない物事を恐れる。だがもはやトマソンを恐れる必要はない。自らの存在の揺らぎに不安を感じる必要もない。その揺らぎは大地を打ち砕く天変地異ではなく、大いなる母の腕の中で眠る赤子が感じ取るあの安らかな揺れなのだ。
 心のトマソンを自らの内側に認めた時、街角にいたトマソンたちが、古い友人のように、優しく語りかけてくる。彼らは深く長い沈黙の中でいつも声なき声を発していたのだ、森の奥で屹立する大木のように、あるいは母とはぐれ立ちすくむ迷子のように。
 そうして私はトマソンを愛するようになった。

21 | 階段の少女 | Girl on the Stairs | 2015

22 | 郊外の夜 | Suburban Night | 2015

23 | 日曜日 | Sunday |2007

24 | 屋上の女 | Woman on the Roof | 2014

25 | 庭の犬 | Dog at the Yard | 2015

26 | 午後3時 | Three PM | 2008

27 | 秘書 | Secretary| 2010

28 | 紳士 | Gentleman | 2018

29 | 赤い風船と海 | Red Balloon and the Sea| 2019

30 | 行き先のない階段 | Stairs without Destination | 2012

エピローグ(あるいは芸術という名のカニバリズム)

 江戸和戸歩羽氏の残した膨大な作品の中から30点を厳選するという作業は、正直に言うと、私にとってあまり心地の良いものではなかった。
 なぜなら私には到底、彼の全体像を把握することもできなければ、ましてやそれを過不足なく他者に提示するなどということは、頼りないちっぽけな脚立に登って巨大なナスカの地上絵を端から端まで完璧に模写しようとするのと同じくらい愚かで不可能なことだからだ。
 そこで私は仕方なく、彼の総体を、家畜の屠殺人のように中華包丁で細切れにして、精肉店の綺麗に磨かれたガラス棚に陳列させ、美しくも儚い彼の断片を少しずつ客に切り売りするしかないのだ。牛を放牧しているだけでは、その旨さを味わうことは決してできない。いつかどこかの時点で“誰か”がやらなければならず、そして今回その“誰か”という役目を引き受けることになったのが、たまたま私だったというだけのことなのだ。誤解をしてほしくはないのだが、これは貧乏くじを引いたということではない。多かれ少なかれ、残虐な行為を通過することでしか、もたらすことのできないものがある、ということだ。
 私は芸術評論家でもなければキュレーターでもないが、歩羽氏の友人の一人として言わせてもらうと、「厳選する」という行為はつまり、ある種のカニバリズムなのだ。彼を知ってもらうためには、屠殺し、切り刻み、調理し、それを他者が咀嚼し、享受し、やがて彼らの血となり肉となる。
 要するに、歩羽氏の作品や、それに付随する記憶を、確実にそして半永久的に残すには、彼を食べさせるしかないのだ。ひょっとするとそれが芸術という営みの本質なのかもしれない。
 あるいは単純に、私は彼の作品を、彼との時間を、そして彼自身を深く愛しすぎたのかもしれない。読者諸氏にとって、このような文言は聞くに耐えないほどのクリシェだということは重々承知しているのだが、このあまりにも普遍的な感情が私をして唯一無二の画集を完成させたのは紛れもない事実なのだ。
 この画集に収めされた作品は、全体のほんのごく一部にすぎない。したがって、私の屠殺人としての役目はこれで終わらず、むしろここからが始まりだと言える。私のこの試みは、まさにトマソンそのもののように、実用性を追求する資本主義社会においては、まったくの無意味だと言えるかもしれない。けれども時に、目的性も娯楽性も装飾性も何もない、何の役にも立たないような無用の長物が、一人の人間の様相をすっかり変えてしまうこともあるのだ、ちょうど私自身がそうであったように。
 読者諸氏の中で、この画集に目を通す以前と以後で、少しばかり自身の立っている位置なり地点なりが変わっているのであれば、私のささやかな試みは、そして江戸和戸歩羽氏の数奇な人生は、決して無駄ではなかったと言えるであろう。あるいは貴方もようやく行き先のない階段を登り始めたのかもしれない。

AIトマソン画集 Thomassonal Solitude

【参考文献】
赤瀬川原平『超芸術トマソン』筑摩書房(1987)
赤瀬川原平. 藤森照信. 南伸坊『路上觀察學入門』筑摩書房(1993)
青木保『エドワード・ホッパー 静寂と距離』青土社(2019)
江崎聡子『エドワード・ホッパー作品集』東京美術(2022)

AIトマソン画集 Thomassonal Solitude

トマソンだらけの奇妙な街“トマソン・タウン”で暮らしながら、誰にも見せることなくトマソン風景画を描き続けた孤高の老画家・江戸和戸歩羽(えどわどほっぱ)による初の画集。彼の残した膨大な数の作品は亡くなる直前に発見され、その静謐なタッチで描かれたトマソン風景画は、視る者を〈どこかで見たような、しかしまったく見たことのない〉日常に潜む幻想の世界へといざなう。※画像はすべて生成AIによるものです。

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2024-01-05

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  12. 【トマソンコラム】トマソンについて語るときに江戸和戸歩羽の語ること
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  23. 【トマソンコラム】私は如何にして心配するのを止めてトマソンを愛するようになったか
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  34. エピローグ(あるいは芸術という名のカニバリズム)