ハイリ ハイリホ(23)(24)

一―十二 パパ・二―十二 僕

一―十二 パパ

 子供もちゃんと、分かっていてくれる。親が失敗しても、失敗だとあからさまには言わない。常に、前向きに、次の善処策を考えていてくれる。ありがたいことだ。少しぐらいなら、疑問もいい。疑問のないところに、解決策はない。発展はない。ほら、あの道路の石ころにだって存在理由がある。ただ、その存在も、時には、庭石にだって利用したり、邪魔だと言ってどこかに捨てられたり、人間の勝手な振る舞い、ひとりよがりの思いに翻弄されるのだ。石は石なのに、意思はないのか。あるのは、人間の御都合だけだ。転がれ、石よ。怒れよ、石よ。
 ぐぐぐぐぐ。再び、背筋が伸びる音だ。神社とも、巨木とも、お別れの手を振る間もなく、蝉からは離別のお土産をもらって、俺は、電波塔と兄弟になった。ここまで、背が高くなると、今までと、ものの見方が変わってくる。もはや蝉になんか関心はもたない。すべてが見えることは、すべてを支配、管理している気持ちになる。いい気分だ。
 出張に行くと、必ず、その街の一番高いシンボルタワーやお城に登りたくなる。デパートでもいい。時には、何時間も歩いて山に登ったりもする。そこに山があるから山に登るのではない。人は、何かがなくても高い所を目指すのだ。高いところがなければ、高いものを無理やり作り出す、産み出す。空間的にも、組織的にも。競争のように、見えない階段を一歩一歩と登り続け、頂上を目指す。ここが、最高地点かと感無量の声をあげた瞬間、誰かに(犯人はわかっている。俺の後ろを一緒に登ってきていた仲間のあいつだ。敵は本能のままに動く)階段をはずされ転落する。裸の階段。それは、お前の心にある。
 ふと気になり、背中の後ろを振り返ると、普段、竜介とキャッチボールの練習をよくする、通称「お山の公園」では、アリ粒みたいな子供たちが、野球をしている。いや、まて、それが、野球なのか、ドッジボールなのか、サッカーなのか、卓球なのかどうかも分からない。そう、どうでもよくなるのかも知れない。
 アリが、冬支度に備えて、自分たちよりも巨大な蝉の死体を運んでいるのを見かけても、それ、がんばれと声をかける人間なんていやしない。いや、実は、俺、ふと瞬間、道端にうずくまり、アリを応援することがたまにある。しまった、衝撃的な告白だ。自分で、自分の行動を十分に管理ができていない証拠だ。だが、所詮は、掛け声のみ。巣穴にまで、魂の抜け殻の蝉を運んでやることはしない。
 また、アリに向かって、頑張れ、頑張れと応援している姿を、近所の人にはあまり見られたくない。噂なんて、水面に投じた小石のように、あっという間に広がり、俺を襲う大波となる。本当の事実だけが広がるのならばいいが(本当の事実なんてあるのか、俺が解釈して欲しい事実ならたくさんある。)、アリと戯れる男なんて、たわぶれもいいところだ。
 ぐぐぐぐぐぐ。また、また視野が広がる。先程までと違って、うれしい悲鳴がこの音には込められている。だが、たまには、音よ、ちょきもパーも使え。ぐーとぱーならぱーの勝ち、ぱーとちょきならちょきの勝ち、ちょきとぐーならぐーの勝ち。じゃんけんは微秒な関系性の上で成り立っている。誰もが誰かに勝つことができるが、誰もが誰かに負けることになる。圧倒的優位性と圧倒的不利性。互いが互いに三竦みの中にいる。いばらず、恐れず、そして、いつまでも仲良く。誰かに勝つことを考えるのではなく、傷つけあうことなく引き分ける。常に、私以外の誰かがいるのだから、その人と一緒に生きることを考えなさい。これが、じゃんけんの教えだ。じゃんけんよ、永遠に人間関係のシンボルとなれ。
 そう思う間もなく、とうとう、雲のまにまにまで顔が突き出た。童話にあるように、昔の人たちは、世界各地で、人種を問わず、また、時代を超えて、空高く、自分たちが見えない所にも、必ず、生き物がいると信じていたのだ。その生物は、人間とは異なる力を持った恐ろしい存在であり、時には、崇拝の対象者。雷さま、ジャックと豆の木の鬼など例をあげればきりがない。
 ただし、残念ながら、俺の視線の先には、太鼓もお城もない。この二つの目が証人だ。俺は、豆の木を使わずに、それを確認できた。豆の恩返しを受けずにだ。だが、俺の頭の隅のどこかには、金の卵を産むガチョウが飛んできてくれないか、俺の荒んだ心を癒してくれる金のハーブの音色が聞こえてこないかという期待で、脳の皺が震度五並みに揺れている。もうすぐ爆発しそうだ。
 いや、まて。爆発は脳じゃなく、俺の身長だ。何故、俺は、こんなに背が伸びているのだろうか。これといっていままでいいことをした覚えはない。まあ、たいてい、自分がいいことをしていると思ってやっていることなんて、所詮、底が知れている。それは、善意より、うわっぱりの名誉欲なのだろう。人のためじゃなく、自分のためにやっていることが誰にでも目にわかる。だから、その恩恵も長持ちはせず、すぐに登りつめた所から落ちるのだろう。その落ちるときのスピードの速いの速くないの、つまり速いということだ。もう二度と上を見ることができないほどにまで落ち込んでしまう。ほの暗い水底で、後の一生を何年も、何十年も過ごさなければならない。物理的な時間の長さよりも、精神的に感じる時間の長さの方がもっと心を打ちひしがせる。もう、誰にも相手にされない哀しみ。
 人がひとっ子一人いない島で、ひとりでいるのは寂しいかも知れないが、人で溢れ返る街のなかで誰も話をする相手がいない一人は地獄だ。なんだか、早口言葉みたいで、舌を噛みそうだ。もう一度繰り返してもいいが、あまりぶつぶつ言い出すと、満員電車の中でも、俺の回り一メートルは、ぽっかりと空間が開きそうだ。 だが、こんな俺にも、ひょっとしたら、ザイルか、紐か、ビニールテープか、毛糸か、刺繍糸かなにかが下りてきて、この状況から抜け出す最後のチャンスが与えられるかもしれない。その時には、周りを見渡し、俺以外の誰もこの穴蔵にいないこと確認し、おそるおそる手を伸ばす。その頼りなき紐を途中まで登った時に、ひょっと万が一誰かが登ってきたとしても、俺は、あの太陽がくれた微笑を決して絶やすことなく、一緒に登りましょうと声を掛けてやるだろう。
 そして、相手の腕力が落ち、紐からすべり落ちそうになったら手を差し出して、助けてやるかもしれない。もちろん、天上から神様が見ていることを意識しているからだ。学習効果は抜群だ。龍之介ありがとう。それでも、思いもかけず紐が鞭に変わり、俺を再度奈落の底に突き落としたところで、俺はかまわない。残りの人生をもう一人の奴と一緒にいられることがわかったのだから。
 うーん、やはり、人は一人で生きられないということか。愛すべき人だろうが、憎むべき奴だろうが、相対的に自分を認識できる誰かが欲しいということか。誰かがいるから自分なのだ。宇宙の暗闇の中で自分一人がいるとしたら、その自分とは一体何なのだ。生きているのか、死んでいるのか。このことを考えている意識さえも本当に存在するのか。
 意識ついでに、思い出したぞ。俺がこんなに背が伸びているのも、昨日の夜食べた納豆が原因かも知れない。(話が飛びすぎだ。宇宙まで行っちゃっているぞ)俺の胃袋で芽を出した豆が、脊髄に入り、ここまで背を伸ばしているのじゃないだろうか。そうなると、俺の背が伸びるのもここまでか。
 俺の体を見る。今のところ、葉っぱが出ている様子はない。皮膚が緑色にも変化していない。どちらかと言えば、太陽を身近に受けて真っ黒だ。まだ、豆人間に変身した訳ではない。ほっと、安堵。だが、おてんとうさまがいやにあったかく感じる。太陽の恵みに感謝するものの、今までと異なる感覚に一抹の不安。太陽に雲がかかる。心の底から、理由なき怒りが巻き起こる。
 おーい雲よ、さっさとどけよ。どかないのなら、綿菓子にして食べちゃうぞ。雲を巻き取るため、神社の枯れ枝に手を伸ばそうとする。それより、待てよ。今の俺の姿を見て、昔、寝る前に読み聞かせた絵本の話のように、竜介が、俺の体を登ってくるんじゃないだろうか。何だか、足がちくちくするぞ。首を曲げて足元を見る。思ったとおりだ。すね毛を掴んで、竜介が、ロッククライミングのように、俺の体を登ってきている。まだ、全体の一合目程度だ。足元では、危険を知らせてか、それとも、応援しているのか、羽の生えていないジョンが吠え続けている。
「おーい、竜介、危ないから、登って来るのはやめなさい」

二―十二 僕

 セカンドステージに入った。次の展開はどうしたらいいだろう。こちらのリアクションを待たずして、パパは既に臨戦態勢だ。できる限りパパの望む方向に話を進めたいのはやまやまだ。僕は孝行息子だから。それぐらいしか、子供の僕にはできないのも事実だけど。とにかく、何か言葉を発しないと、パパは永遠に自分の殻の中に閉じこもってしまう。開けゴマ。次なる合言葉は。
「パパ、パパ、何か面白いことが見えているの。僕もパパと一緒に見てみたいよ」

ハイリ ハイリホ(23)(24)

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パパと僕の言葉を交わさない会話の物語。僕一―十二 パパ・二―十二 僕

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-01-14

Copyrighted
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