TL【雨蜜スピンオフ】飴と否と蜜と罰

執筆中/姉ガチ恋アイドル義弟美青年/差別的表現/虐待描写/

1


―光り輝いたもの 手放すな 火傷しそうでも 
―痛みすら 幸せに変えろ 後悔する前に
―いずれにしろ暗い未来 どれくらい耐えようが お前のいない世界と引き換えなら



 雫恋(かれん)の頭の中に、自身の所属するアイドルグループの曲が延々と流れ、巡っていた。
 所詮は用意された、大量生産、大量消費の、その時代どころかその年、或いはその季節をやり過ごす、くだらない歌である。どういう歌詞か、どういう曲調かで売れるのではない。誰が歌っているかで売れ、何度も聞かせて洗脳し売れさせる、さもしい使い捨ての曲に過ぎない。
 だが、雫恋は姉の姿を捉え、何度もそのフレーズを繰り返した。手放すな。
 愚兄の霙恋(えれん)は手放した。自らをコンクリートに叩きつけて。
 飛び交う羽虫を狙うネコよろしく、ホテルの一部屋で逃げ惑う姉の姿を視線によって追っていた。純白の尾鰭が揺蕩っている。


 手放すな。
 手放すな。
 手放すな!!!


 雫恋は姉を帰さないことにした。遅かれ早かれ共に暮らすのだ。それが今日になるだけの話である。
 甘やかな目眩に襲われる。



 姉は手に入った。新しく部屋を借りたのは間違いではなかった。何かの兆しがあったのが。否、こうなる運命に気付いていた。ベッドひとつのために部屋があり、そこが姉の部屋でもある。
 雫恋は感心して、ベッドに寝そべる姉を見ていた。大きな首輪が、姉の小顔をさらに小さく見せる。男物のシャツは、裾も袖も長いが、胸元はきついらしかった。下着を透かしている。レースの微細な凹凸を透かし、色も見える。雫恋は己の見立てに悦に入っていた。乳頭部分にだけ布がないデザインのブラジャーで、ぷつと白い繊維を押し上げているのが、またよかった。ブラジャーと揃いのショーツは、クラッチ部分だけ真珠が列(つら)なっている。姉の清らかに成熟した花肉を隠しもすれば、張りのあるそこを転がし潰しもするのだろう。
 晒された姉の素肌を眺めていると、雫恋の身体はむくむくと熱を持ちはじめた。全身に勢いよく血が巡っていくというのに、一点目掛けて駆けていくようだった。
「姉貴、姉貴」
 姉の匂いを嗅がずにはいられなくなった。柔肌に触れずには。雫恋は姉の可愛がっているペットを真似をした。可憐なふりをして、幼稚で、迂愚でなければならない。
「姉貴」
 暴れ疲れて眠っている姉の匂いを嗅いだ。男には持ち得ない、しかし女が全員持っているとは限らない甘い香りがする。番いに成り得る女だけが纏わせている魅惑的な甘い匂いだ。姉はそうだったのだ。番いとして適した牝だ。雫恋にとって、成熟した女だ。見れば滾(たぎ)り、嗅げば酩酊してしまう。
 彼は早まって動きそうになる腰を抑えていた。目にしただけで交合する気になり、早々と活塞(かっそく)する様はあまりにも滑稽である。だが、そういう女が、番いの牝が、現れてしまえば交接することになるのだ。交尾するのだ。陽根を陰花に挿入するしかなくなるのだ。遅かれ早かれ、抽送する。腰が動いてしまうのも無理はない。
 姉の耳にふんわりとかかる毛が、荒い息遣いによってそよいだ。雫恋は姉の髪の匂いを嗅いだ。目眩がする。姉とのセックスのことしか考えられなくなってしまった。脚の間のものは、すでに姉と繋がることを夢想し、渇望し、布2枚を押し上げている。
「姉貴……、姉貴………」
 雫恋は己の掠れて震えた声と、荒い息遣いの気持ち悪さにも興奮した。気持ち悪い男に姉が穢されるのは腹が立つ。だがそれが自身であるのだ。姉を己の垢で汚すことに、身震いするような悦びが駆け巡り、そう悪くはない寒気がした。
「ぅ………ん」
 寝ていながら、姉は違和感を覚えたらしい。寝返りをうつ。首輪の鎖がちゃりちゃりと鳴った。白い繊維の下に、姉の背中に巻きついたブラジャーのホックが透けている。姉の肉感に生唾を呑んだ。薄く冷たい布を隔て、彼は姉の身体を摩った。その柔らかさ!その細さ!血潮が沸騰する。
 雫恋は寝ていることも構わず、姉を仰向けに引っ張り転がした。睫毛が持ち上がる。その前に、彼は唇に噛みついた。触れる寸前で、顔を背けられた。
「ああ!やめて、霙恋(えれん)ちゃん……!」
 長くなった袖ごと縛った両腕が、ベッド柵を軋ませる。
「姉貴、今、俺のこと拒絶しようとしてる?」
 雫恋は上擦って喋った。子供っぽく装っていた。姉の腰に跨ると、両つの膨らみの奥に怯えきった顔が見える。
「あと、俺、雫恋ね。可憐な、雫恋ちゃん」
 細い腰の上で、彼は驕り高ぶって図々しいものを寛げた。姉は青褪め、躊躇いもなく牡の醜部に視線を注ぐ。
「ここは可憐じゃないけどね」
 形の良い姉の臍へ、グロテスクな太ミミズの頭を擦り付ける。腰を前後に動かす様は、男女逆転した騎乗位のようであった。
「姉貴を気持ち良くしてるちんぽ、見て。姉貴のこと考えてたら、セックスしたい、セックスしたいって、こんなかちかちになっちゃったの。姉貴のおまんこぐぽぐぽ突いて、中に出したいって、ちんぽがかちかちになっちゃった。俺のがちがちの勃起ちんぽ見て」
 焼け爛れた龍の死骸みたいな棒肉を幾度か扱く。姉はゆるゆると首を横に振る。
「だ……だめ、だめだよ………」
「ダメじゃないよ、姉貴。姉貴の所為なんだから。俺が姉貴の上で、腰ヘコつかせて恥ずかしいオナニーするの見てて。あ、そうだ。姉貴の中に出たいって、きんたまドクつかせてるところ見せてあげる」
 雫恋は一度腰を上げた。下半身を裸にして、また姉の上に跨った。
「雫恋ちゃん!そんなことしちゃ……」
「いいんだよ。姉貴にだけ見せてあげる。姉貴のおっぱいオカズにしながらオナニーするね」
 姉の胸を覆うシャツを取り払った。乳頭だけ露わになった卑猥なブラジャーに、下着としての意義はなかった。
「ぃや……!」
 実粒はつんと勃ち上がっている。そこを捏ね繰り回せば、小憎らしい喉からどれだけ甘い音が漏れ出るのかを知っている。
「姉貴のおっぱい……」
 レースに覆われた乳房と、そこに聳(そそ)り勃つ色付きを見詰め、雫恋は必死に焼死したような龍の頭を扱いた。乳飲み児みたいに、乳頭を吸いたかった。舌で転がしてしまいたい。そして濡れた姉の中に入りたい。姉の中に子種を注ぎたい。
「気持ちい………姉貴、あっ、あっ、ちんぽ擦るの、止まんない………っ」
 舌ったらずに彼は艶声を上げた。丸焼きになって外皮を失った気持ち悪い大蛇みたいなのは、残像に包まれている。
「やめて、雫恋ちゃん……やめて、あっちに行って………」
「姉貴のお臍に精子出したい……」
 雫恋は双珠を姉の腹に押し付けた。内部で軋んでいる。番いの牝を孕ませようと、努めて質の良い種を送り出すつもりなのだ。そういう鼓動を感じる。
「離れて……!退(ど)いて、よ!」
 ベッド柵が激しく喚いた。姉は暴れている。雫恋は体重を加減していたが、もう容赦しないことにした。長身と筋肉によって軽くはない重みが、華奢な腰に加わるのだった。逃げることは叶わないのだ。
「離れないよ、姉貴……俺のちんぽの孔、見てて。見ててね、すごいから。見てて!」
 求めずとも、姉はそこを凝視していた。手淫が止まらない。男の神秘を見せて、姉を驚かせたかった。アイドルになど、なる必要はなかったかもしれない。こうすれば姉は見てくれるのだ。
 雫恋は姉のプリンやゼリーのように弾力に於いて蠱惑的な揺れへ燃え滾る視線を送ってペニスを扱くことに没頭した。だらしなく垂れた袋が張り詰め、楕円球体は軋みながら陰茎の根元へと持ち上がって、その輪郭を強くした。姉の体内を目指し、それを期待し、望んでいるようだが、それは叶わない。だが留まることもできない。発射のために手筒が忙しなく上下運動をしている。姉の肉襞には遠く及ばない狭い筒の中で、姉の肉襞なのだと錯覚させられながら、雫恋は込み上げてくる欲熱を排出の方向へ促した。
「あッ、お姉ちゃん、イく、イく、お姉ちゃァんっ」
 自慰の最中の内心での呼び方が発現してしまっていた。彼はオナニーに励むとき、自身を実際よりも年少者にして、姉に甘えていた。姉を成熟した大人の女に仕立て上げ、己を小学生くらいの純真無垢な児童として描像していた。秘めていた。しかしその必要はもうない。現実となる。現実にさせる。
 グランスから生臭い白い粘液が噴き出た。姉の腹を汚す。華奢だというのに骨張ってはいない、肥えているのとはまた違う肉感の上に黄味を帯びた牡特有の欲垢汁が地図みたいに飛び散っている。雫恋は脈動しながら半固体の汚らしい汁を垂らす穢れ棒の先端が姉の臍を狙うように努めた。しかし尻と嚢を擦り付けるように揺れてしまう。
「あ………ああ、…………もう、いいでしょう………?」
 姉は女だ。女の身では射精はできまい。姉は射精だけすれば満足すると思っているらしかった。射精の快感を味わえば、その後は張り糸を切るように男が満足すると思っているらしかった。雫恋はまだ精を出しきれていなかった。粘り気の強い子種汁が幾度かに分かれてあちらこちらに飛び、やがて滴り落ちる。最後には白い紐を作って、姉のなめらかな腹で撓(たわ)む。恍惚としたつらを晒して、彼は白濁色を筆肉で突ついた。そして水溜りを形の良い窪みへ導く。そうしているうちに、ふたたびむくむくと、気持ちの悪いミミズみたいなペニスは膨張し直した。
「お姉ちゃん……」
 どきゅきゅ……と姉に注ぐための絆汁が過剰に分泌されているかのような軋みを薄い皮に包まれた珠腑に感じた。
「放して……」
 外方を向く横顔が憎たらしい!雫恋は下半身を露出したまま立ち上がった。枕元に寄っていき、彼女の髪を掴んだ。
「よそ見したら、赦さないよ」

『―よそ見は赦さない 俺たち輝く in to the night.
 子供騙しは終わり 熱くなってきただろう 沈みゆけ マティーニの奥底へ』




 雫恋は車を走らせていた。行き先は土屋東高校。母校ではなかったし、知り合いがいるわけでもない。だが、姉の可愛いがっているペットが要る。
 雫(しずく)漣(れん)の兄弟がいるとは噂になっていることだろう。或いは本人が、雫漣の弟だと言い触らしているに違いない。
 門を入ってすぐ左の駐車場に車を停めると、前に停まっている車から若い男が降りる。大学生を思わせる身形は、生徒の兄か。陰気で野暮ったく、背が高いだけ暗い面積が増えているような人物だった。見覚えがなくはない。だがこうして見ると亡霊のようだった。雫恋は職員兼来客用玄関へと向かった。受付で名前を告げる。
「久城(くじょう)嵐恋(あれん)の兄なんですが。久城雫恋と申します」
 名前を言う必要はなかった。伝えるべきは生徒の名前である。ピンク色の不織布マスクを外し、黒縁眼鏡を外し、ストレートキャップを外す。必要以上に愛想を浮かべた。人気アイドル雫漣の素顔が現れるが、特にそれに気付かれた素振りはない。
 受け付けた中年後期の男性は、名簿を確かめているらしく、俯きながら相槌をうった。ページを繰っている。
「兄?」
「はい、兄です」
「……えーっと………」
 対応を渋るような響きがあった。雫恋のなかで、或る可能性が閃く。
「家族構成に書かれてませんか?俺、芸能活動やってるんで……もしかしたら迷惑かけないように書いてないかもしれないです。本当は兄が2人いるんですよ。姉は久城加霞で母親の名前は―……」
 徹底的に長弟と次弟を虐げ、疎むつもりであるらしい姉に、雫恋は胸の内で炎が揺らめくのを感じた。怒りの火であろうか。否、嗜虐の焔である。この厄介な手続きはよい燃料であった。ゆえに煩わしいとは思わなかった。さらに怪しまれたくさえあった。それだけ、姉を甚振ることができる。謝らせ、赦しを乞わせる。姉のすべてがほしい!
「姉のほうに確認とってもらってもいいんですけどぉ~」
 そのとき、玄関で靴を脱いでいる、職業不詳の冴えない大学生みたいなのが受付へやってきた。
「久城の保護者の方ですか」
 容喙(ようかい)してきた生白い陰気な若い男は、受け付けと二言三言話し合っていた。
「別居中の兄がいるとは本人から聞いたことありますし、僕が立ち会いますから」
「今、校内放送で呼び出します」
 すると受付の者は、すぐ脇から生えたマイクに移動した。冴えない大学生みたいなのは雫恋へ振り返る。近くで顔を見ることができた。やはり、姉に色目を遣う変態教師だ。
 校内放送を告げるチャイムが鳴った。そして堅い口調で生徒を呼び出している。
「すみません。不審者対策で……万が一何かあれば、大事ですから」
 近くでみると、なかなかに端整な面構えをしていた。青白い顔にそばかすが浮かんでいる。だが手入れもせず油気も失せた癖のある髪が長く伸び、流行の遅れた形の眼鏡が悪くない男振りを黴臭くしている。鈍臭く、野暮ったくしている。これで、姉の周りをほっつき歩けるのだから、恥を知らない。
「謝らないでください。弟のためにそこまでやってくれるなんてありがたいことですよ!」
 雫恋は雫漣を装っていた。必要以上に人懐こい人物になりきっていた。
「申し遅れました。2年C組担任の、生天目(なばため)です」
 言われずとも知っていた。だが姉のペットについては何年何組なのか、雫恋は知らなかった。しかしこの身形で姉の周りをうろつく恥知らずが2年C組の担任ということや話の流れからして姉のペットは2年C組なのだろう。聞き返し、確かめようとはしなかった。面倒であった。無関心な兄だと言っているようなものだ。自分は姉に可愛い愛玩犬(おとうと)を誘拐され、取り上げられているのだから。
「はあ。嵐恋の兄です」
「お兄様はお二人いらっしゃるとか……?」
「双子なんですよ」
 おそらく、もう1人の兄のほうも家族として書類には載っていないのだろう。
「姉も見分けのつかないくらい同じ顔をしているので、1人みたいなものですが」
 生天目とかいう貧困苦学生みたいな教師は聞いているのか聞いていないのか分からない、曖昧な態度だった。。冷静沈着であることと陰気で人見知り、ぶっきらぼうであることを履き違えた、教室の隅、集団の外の自意識過剰な中高生みたいだ。
 暫くすると、姉のペットはのこのこと職員兼来客用玄関へ現れた。無邪気な子鹿のような出立ちが愚かで哀れだった。
「久城」
 教師と生徒というよりも、親しげに生天目は姉のペットを呼んだ。そして実の兄よりも先に、その傍へ寄っていった。我が愛犬とばかりである。雫恋は薄ら寒くなりながらそれを見ていた。
「よぉ、嵐恋」
 姉のペットは一度引き攣った顔をしていた。生天目の走ってくるような視線と搗(か)ち合う。すでに姉から虚実交々(きょじつこもごも)ほぼ虚言を吹き込まれたに違いなかった。姉に媚び入りたいあまり、騎士でも気取るつもりなのだろう。自意識の増大した地味で陰気な中高生にありがちだ。まだその精神性でいるのだろう。
「あ……えっと、雫恋くん………」
 その目にはありありと怯えが見えた。この姉のペットはよく理解している。誰が主導のもと"可愛がって"いたのか。
「この間ぶり?元気してた?姉貴がちょっと大変でさ、迎えに来たんだよ」
 雫恋は姉のペットよりも、その担任の教師のほうへ目を光らせた。だが動揺は見つけられない。
「姉ちゃん、どうしたの?」
 姉のペットは目を丸くしていた。雫恋はマスクの下でほくそ笑む。
「まぁ、命に関わることじゃないから、それは安心してくれよ」
 束の間の硬直が和らいだ。張った肩が萎むように落ちていく。それでもまだ緊張の面持ちであった。
「お姉さんに、連絡するか」
 生天目が口を挟んだ。それは迎えにきた兄への不信感だったのか。兄を慮ることもない提案であった。しかし当の雫恋に焦りはない。姉のペットはまた別の手段で捕まえればよい。その術(すべ)はまだある。そしてそのときに、ペナルティとして加算されるに過ぎないのだ。ところが姉のペットは思いのほか、利口であった。首を振っている。
「じゃあ、おで、帰ります」
「忘れ物に気を付けて」
 姉のペットは職員兼来客用玄関から出ていった。生天目も立ち退くかと思っていた。
「仲が良いんですね、羨ましいです」
 それは嫌味らしかった。姉のペットを捕まえた。アイドル活動にも未練はない。雫漣でいる必要はなくなった。愛想と愛嬌の武器はもう要らない。武装する必要がない。鼻で嗤う。
「別に一般的(フツー)だと思いますケドねぇ?」
 雫恋もまた嫌味たらしく語尾で遊ぶ。すると蔑むような眼差しを向けられる。生徒の保護者に対するものではなかった。この教師も半人前である。未熟だ。
「姉におかしなことを吹き込まれましたか。困ったものです、姉には。嵐恋(アレ)を母親から奪って誘拐して、俺たちの所為だなんて嘯(うそぶ)いて、頑張ってる自分ってやつに酔い痴れているんです。何を言われたのやら……信じないでください。それとも、何か信じたくなる個人的な"事情"でも?」
 教師などという清く正しく未成熟で無責任の半人を導かなければならない立場で、生徒の保護者に色目を遣っているのだ。頭の中では淫蕩にも、姉を犯し辱め、陰茎を擦っているに違いない。都合の良い設定、シチュエーションを切り抜き、それに至るまでの労力など払いもしないで、爆誕した関係の快楽だけを夜な夜な、朝な夕な浴びているに決まっている。油気のない癖毛の下には、どのような姉の裸身が描き出されているのだ。好き勝手に、人の姉の裸体を弄んでいるに違いない。手淫のために、姉の素肌を好き放題想像しているのだ。事実とは異なる肌触り、色味、匂いを作り上げ、無理なポージングを愉しみ、己の好みを押し付けて、存在しない快感をなすりつける。
「久城さんは、そういう人には見えません」
「教師と保護者でしょう。そんな付き合いで、見えません、って一体何を見たんです?それとも見えるに足る関係があるんですか?教師と保護者の付き合いで?コンビニ店員に笑顔向けられて釣り銭のときに手を添えてもらったら、自分に好意があると思っちゃうタイプっぽいですね。キモ」
 生天目は何も返さなかった。無言のまま、そこから離れない。
「もしかして、姉じゃなくて生徒(アレ)狙い?将を射んと欲すれば先ず馬を射よ、って先人のご立派なフレーズがありますからね。ペドなんたらってやつ?好きにしたらいいよ。どうせ同年代の女にはモテないだろうし、ああいうのは―……」
 雫恋は喋っている口を開いたまま固まった。内心で自問自答の間があった。
「―……ああ、ダメだ。キズモノにされると困るんだった。せんせ~がロリペドの変態かどうかは分かんないですケド、アレに手を出すのはやめてくださいね」
 やっと生天目は不快を示す。その眉根に。
「当然です。久城に対して何てことを言うんですか。等しく、誰であろうと、そういう被害に遭ってはなりませんし、そういう性質の人間が教師になるべきではありません」
 雫恋は手を打ち鳴らす。
「素晴らしいよ。でも多分、ほとんどの教師は、女子高生AVでヌいてるし、あわよくば女子高生とセックスしたいと思ってるよ。調べてみろよ、ここの高校を。盗撮カメラのひとつやふたつ見つかるんじゃね。サイアクだよ。女子小学生だってイケるんじゃないか。ま、ガキなら男女問わないド変態もいるんだろうが。恐ろしいなぁ。そんなよろしくないところにかわいい弟は通わせてられないわな」
「教師も人間で、理性というものがあります」
「理性があってもちんぽは勃つ。夜になったら一心不乱に扱いてるクセに。人間だから。そうだろ?姉貴か、弟か?どっちだ?生臭教師が」
 雫恋はいつまで経っても中学生気分みたいな教師の顔を覗き込む。
「それはセクハラです。兄と教師ではまったく事の大きさが違いますが、私にとって久城は大切な教え子です。それを蔑ろにしないでください」
 生天目は棒立ちのまま、語気を荒げるでもなく、淡々としていた。つまらない男だ。ゆえに焦る。姉の男選びの趣味の悪さに。姉は細長く生白い、一見誠実そうで草ばかり食っていそうな、こういう華もなければつまらない男ばかり好むのである。体格のいい、華も愛嬌もある男を傍に置いておきながら、まるでそれを間男のように扱って、結局はこういううさぎみたいなのを選ぶ。だが姉は気付かないのだ。うさぎの繁殖欲を。
「男が男にセクハラ?恥ずかしくねぇの?考えるコトがキモいよ。ガン萎え。はあ~、セクハラされた気分だわ」
 雫恋は棒付きキャンディのビニールを剥いた。そこに姉のペットがやって来る。姉のペットは真っ先に教師を見遣った。まだ担任の教師がそこにいることに安堵したのか戸惑ったのか。
「久城。気を付けて帰れ」
「はい、さよなら……」
 姉のペットは萎縮していた。保護者に愛想のひとつも寄越さない教師から離れたくないようだった。雫恋は姉のペットの頭を肘置きにして、無理矢理出入り口を向かせる。
「遅ぇよ。行くぞ」
 姉のペットは震えている。捕獲したまま、駐車場まで歩かせた。どこからどうみても、仲睦まじい兄弟だ。羨望の的に違いなかった。
「お前、アイドルになれよ」
 怖がっている顔が、眩しい人気アイドルを見上げようとする。

2


 クーラーは点けていないというのに、助手席で姉の可愛いペットはぶるぶる震えていた。姉との子供だと言って、気の狂った片割れが持ってきた生まれたての猫も、掌に乗せるとバイブレーターを抱かせたようにぶるぶる震えていたものだ。
「あの教師、やべぇよ。ロリコンっぽいな。あんま近付くなよ」
 鼻で嗤って、運転席の窓を開けた。風が吹き込む。
「か、雫恋(かれん)くん………そ、その……ア、アイドル………って………」
 教師の話を振ったというのに、返ってきたのはまったく違う話題である。
「ああ、なれよ。どうすんだよ、お前。今はガキだから姉貴が世話してくれるケド、お前もデカくなりゃ、ただのキモい男だぜ。姉貴もお前なんか見放して、いい男見つけてすぐ結婚するさ。美人だし、料理上手だしな。蜂須賀(はちすか)だってお前さえいなけりゃ今頃プロポーズしてただろうよ。そこで、弟想いの俺が一肌脱いでやろうって言ってんだよ。才能も取り柄も何もかもがないお前に、人気アイドルの俺が直々にアイドルにしてやるって言ってんの。雫(しずく)漣(れん)の弟なら忽(たちま)ち人気になるぜ。貧しいパンピーじゃ手に入らないような美人とセックスし放題だよ。悪い話じゃねぇだろ」
 露骨な単語を出せば、姉に過保護に、情報操作され、清く可憐な行儀のいい人形として育てられたペットは顔を赤くした。
 雫恋は信号が青になると、一気に右へハンドルを切った。遠心力によって身体が浮く。姉の可愛いペットもシートから身体が浮いたのだろう。
「わ、わ、ぁ」
「どうしてぇかって訊いてんだよ、グズ」
「姉ちゃんに、訊いて……みないと、……」
「クソするときも姉貴のご意向をお訊ねアソバシてるのか?訊いてどうする?"うん"なんて言うワケねぇだろ。お前みたいなのを芸能界にほっぽり出すってのは、姨捨(おばすて)山ならぬガキ捨て山だよ。グズ捨て山さ。今ならまだ、雫漣の弟ってバリューがあんだよ、分かるか?価値が。このまま姉貴におんぶにだっこする気か?姉貴の人生を搾取して、消費する気かよ?最近のアイドルってのはお前みたいなちょっと崩れてるのがいいんだよ、親近感があってな。今時テレビ観てるバカな層は、媚びてるような下手(したで)に出てるような弱そうなチビでバカそうでまぁまぁ見るに耐えれる程度にブスってのが好きなんだから。お前なんかぴったりだよ。いいか、この話は今しかない。お前だけじゃなく、姉貴の将来も左右する。考えてみろよ、お前には何がある?バカでノロマでブスで、何があるんだ?え?」
 前方にある信号が黄色に変わる。後続車はいない。雫恋はブレーキを一気に踏んだ。シートから尻が浮き、大きく前のめりになった身体がシートベルトに押し付けられる。
「わ、あ!」
「シートベルトがなかったらフロントガラスを突き破って、外に転がってたんじゃね?どうする?姉貴に見放されるのを待つか?それは今みたいに、多分急に来るぜ。姉貴の人生の邪魔しながら生きていくワケか?無能なお前が、美人な姉貴の足引っ張って?俺の話蹴って?お前みたいなのはチャンスを嗅ぎ分ける能力もない。ああ、もったいねぇなぁ?」
 雫恋は危険運転を続けた。姉の可愛いペットはドアポケットにしがみつき、酷く怯えていた。
「こんな弟じゃ不安だよ、俺は!心中するしかねぇなぁ?あの電信柱にぶつけてやるよ!」
 車は急加速する。
「あ、ああ……ああ………」
 だが雫恋はふと、姉の可愛いペットがたいへん臆病な小心者の怯み屋であることを思い出した。急加速が治まる。
「漏らすなよ」
 チャイルドロックがかかる。雫恋の運転する車は、久城宅には向かわなかった。
「ど、どこ………行くの………?」
「ん~?お前はアイドルになるんだよ。いいか?能無し。俺の威を借るアイドルになれ」
 語尾にハートマークをつけるかのようだった。助手席では姉の可愛いペットがマナーモードになっている。
「死んだほうがいい!あのトラックに轢かれて、死んだほうがいい!逝くぞ、嵐恋!アイドルにならないなら!姉貴が悲しんでも、姉貴に恨まれても、姉貴のために、俺は無能のお前を処分しなきゃなんねーの!」
 車を急発進させる。
「な、なるよ…………なる、から……」
 ピンク色の紙マスクの下で、雫恋はにんまりと嗤った。カメラの前では見せられない。だがもう隠す必要はない。


 事務所に向かうと、メンバーの2人がすでに集合していた。巴(ともえ)陽(ひなた)こと宮崎 巴月(はるな)と実(みのり)咲(さき)こと増山 未早紀(みさき)であった。
「ちゃ~す」
「雫恋ちゃんさぁ、社長(しゃっちょ)に何か言った?」
 巴月はスマートフォンで映画でも観ているようだった。大して興味もなさそうである。
「ん~、ま、推し活ってやつ?」
「ふ~ん。誰と共演すんの?そんなんいたっけ?」
 推しがいると言う巴月に合わせた言葉を使ったが、やはり興味はなさそうであった。あくまで牽制であろう。内容の問題ではない。メンバーに相談なく、社長に直談判したことに問題がある。
「平井ちゃん?」
 未早紀がイヤーマフめいたヘッドフォンを外した。音漏れがじゃかじゃか聞こえる。週刊誌に出された熱愛報道は真実ではない。
「パンピー」
「は?パンピー出すの?」
 すでに巴月は横倒しのスマートフォンに集中していた。じゃかじゃかしゃんしゃん鳴っていたワイヤレスのヘッドホンが静かになった。未早紀は雫恋の話に興味を持ったらしい。
「出さねぇよ。でも、それ関係?」
「鯉絵(りえ)りえに訊こ」
 だが雫恋は、社長に告げたのみで、マネージャーには報告していない。しかし当の彼女が、ドアを蹴破って入ってきた。ところが驚きはない。パンプスがたんたんと廊下に鳴り響いていたのだから。
「ちょっと、久城くん。どういうこと」
 青と白の太幅のボーダーカットソーに、青い紐の社員証。茶髪をポニーテールにした女は、彼等のマネージャーだった。姉と同い年で、背格好も服の趣味も似ている。雫恋は時折、ぎくりとする。未早紀がすばやく反応した。雫恋は未早紀にだけは姉を見せたくなかった。
「ヤバいっすよ、コイツ。なんかパンピーを出すとかって」
 未早紀は興奮気味になって、身体はマネージャーに、指先だけ雫恋へ向けた。
「出さねぇって言っただろ」
「そうね、増山くん。久城くん。どういうつもりなの。弟さんをデビューさせるって」
 スマートフォンの画面を凝らしていた巴月も雫恋を見遣った。
「あ~、引退したいんだよ、俺は。とっととお前等とは縁切って、田舎で女と暮らしてぇわけ。その後釜に弟が座れば、文句ねぇだろ。久城家二毛作。な?」
「お前のよく知らん弟と組めって?」
 未早紀はマネージャーの隣を陣取って、雫恋への敵対を示す。
「メンバーには入れねぇよ。そういうヤツじゃない。箸にも棒にもかからないウスノロのグズなんだから。奴隷契約でもさせておきゃいいんだ、あんなのは」
「ひっでぇアニキだな」
 未早紀は隣のマネージャーの顔色を窺った。
「弟さんは、なんて」
「やりたいって言ってるからここまでついて来たんだろうがよ」
 マネージャーが踏み出そうとするたび、未早紀も同じだけ前に出ようとする。
「未成年よ。保護者の方の同意は」
「大丈夫じゃね。自分が芸能人で、倅(せがれ)がアイドルじゃ嫌なんてこたぁねぇだろ」
 雫恋は母親を思い浮かべて鼻で嗤った。
「うっわ」
 スマートフォンの画面にしか興味のない巴月がうんざりしたような声を上げた。
「何」
 眉間に皺を寄せるマネージャーの横で、番犬やガーゴイルのごとく立っている未早紀が睨む。
「たわしちゃんが"見つかっ"ちまう」
 そして巴月は溜息を吐いた。
「たわしちゃんって、あのけばけばのモルモット?」
 呆れたようにマネージャーが訊ねる。
「来週番組で特集されるって!たわしちゃんが他の奴等のモノになっちゃう!どうしよう!おリのたわしちゃんが!かわいいからみんな好きになっちゃう!イヤだ!おリのたわしちゃんが!」
 雫恋は一瞬、くだらないと思った。同時に嫌な予感が胸の辺りを過ぎていく。だが、杞憂であろう。無能で鈍間、大した美形でもない姉の可愛いペットが、売れるわけはない。後腐れなくこの事務所を飛び立つにはこうするのがいい。姉が可愛いペットから離れるには。
「マジでショック。本当にヤだ!うわあああんッ」
 巴月はスマートフォンをばたりとテーブルに放り投げ、突っ伏してしまった。
「今日のラジオ休む!ムリ!ム~リ~ぃぃぃジャンボキャベツ送ったのおリなのに………うぇ、うぇ………」
「ダメよ、そんな理由でキャンセルなんて。宮崎くん、いいわね、やれるわね?」
 マネージャーが言うと、未早紀も巴月のほうへ向き、威嚇する。
「じゃ、俺が代打で出るわ。引退はまだ公表しないけど、それとなくそんな雰囲気を匂わせて。あとでそれ聞いて落ち込んでたって言や、仲良しアピールできるっしょ」
「仕事は仕事よ、宮崎くん。アイドルになるからには、貴方の身体や精神は貴方だけのものじゃなくなるの。そういう商売よ。身内の死に目には会えないし、冠婚葬祭には出られないと思って。最初に言ったでしょう」
「そうだ、そうだ」
 だがマネージャーは、きっぱり言った直後に気拙げな視線をくれた。別個体でありながら同年同月同日に同じ腹からひり出されたコピーアンドペーストの模倣品みたいなのが"転落事故"に遭ったことを、マネージャーは知っている。
「へ!」
 雫恋は吠え、大袈裟に肩を竦めた。
「お前もやめちまえば?もうたんまり稼いだろ。"推され"活からはとっとととんずらこいて、推し活しようぜ」
 巴月は考えているふうであった。
「俺たちは随分、オルゴール人形をやってきたぜ。矛盾ばかり歌ってきた。英歌詞の意味さえろくに知らずにな…………―」
 マネージャーの不審の眼差しに、雫恋も挑戦的な目を搗(か)ち合わせる。
「―な~んて、真面目に、俺はアイドル論を語るつもりはねぇよ。考えたこともねぇ。言われたとおりに喋る。リハ通りに。台本どおりに。思ってもないことを言える。それに抵抗がない。何故なら、アイドルだから。それができるからアイドルなんだ。己(てめぇ)の封殺を、厭わない。アイドルだから。だろ?」
 未早紀はマネージャーの意見に従うだけの、否、媚びに媚びるだけの男だ。同調はしない。巴月はたじろいでいた。彼もまた、アイドルという自身の職業に大した執着はないのだろう。
「お、おリも、アイドル―」
 マネージャーは怕(こわ)い顔をした。そして女物の華奢な腕時計を見た。
「時間よ」
 雫恋も彼女の奥の壁掛けを見遣る。確かに時間であった。巴月の意思を遮ったわけではないようだった。



 自宅に帰ると姉が待っていた。ベッドの上で寝ている。
「お待た~?姉貴。ただいま」
 雫恋は乱雑に手を洗うと、すぐに姉の元に寄って、素肌を嗅いだ。姉の濃厚な他人の匂いがする。
「おうちに帰して……」
 掠れた声が消え入っていく。今日も散々暴れたのだろう。拘束した腕に赤みが差している。
「嵐恋のコトなら平気だよ。嵐恋は事務所で寮を充てるからさ。これからは自由だよ」
 がち、がち、と鎖が鳴った。
「外してほしい?そしたら明日チェーンソー買ってきて、姉貴のことダルマにする!それなら鎖外してもいいよ。逃げられないからね」
 雫恋は姉の乗っているベッドを組み立てたときに余った金具とゴムハンマーを見せびらかした。
「膝の骨、割るか」
 姉は首を振った。現実として捉えていないようである。尖った金具を膝頭に当て、ゴムハンマーを添える。
「1回だけ、打ってみてもいい?」
 ゴムハンマーの先が柄(え)尻から斜めに持ち上がる。
「姉貴が歩けなくなっても、俺が一生世話するからさ。嵐恋もきっと、恩返ししてくれるよ。割ろうよ。ねぇ、姉貴。膝、割ろう」
 爛々とした瞳で、彼は姉に迫り、揺さぶった。
「ごめ………ごめんなさい。それだけは、お願い………やめ、て………ください」
「……どうして?」
「怖い……怖い…………」
「じゃあ言うこときく?逃げようとしない?俺のところに居てくれる?」
 食い気味の返事があるはずだった。だがなかった。姉は躊躇っている。雫恋は青白い顔を冷ややかに見下ろした。
「磔刑(たっけい)にする!姉貴のこと磔刑に!手に打たせて。磔だからね、姉貴なんか!」
 姉は左右纏められた手を握って拳を作った。雫恋は笑ってしまう。その防御の仕草が可愛らしく思えたのだった。彼はベッドに乗り上げ、ゆっくりと添い寝の姿勢を取りながら、女体の上に被さった。
「姉貴、かわいい………」
 金具もゴムハンマーも放り投げる。すべて脅しであった。どういう受け答えがあったとしても、膝の骨を粉砕したり、掌に金具を打つなどということをするつもりはなかった。
 2つの固いものが床に叩きつけられる。派手な音に姉の躯体がぴくりと跳ねた。それがまた愛らしく感じられた。雫恋は女の太腿の側面へ、股間を擦り付けた。
「姉貴………おちんちん勃っちゃった。腰ヘコして精子お漏らしするところ、見てて」
 雫恋は性行為初心者のような拙(つたな)くぎこちない腰遣いで、姉の柔肌へ硬い繊維を擦り付けた。彼女のその箇所は明日、肌荒れを起こし、気触(かぶ)れてしまうのだろう。
「姉貴……」
 姉は顔を背け震えている。無防備なその頸に顔を寄せ、匂いを吸い込む。
「ちんちんの先、擦れてきもちぃいよ………」
「う………うう………」
「お姉ちゃん、好き」
 耳に口付ける。姉からの反応はない。そして姉への不満は、牡鮭のごとく放精した後に訪れるのである。陰茎が噴き出す濁り汁より、その双眸は昏く濁る。



「姉貴はな、病気なんだよ、嵐恋。男とスケベしないと、生きていけなくなっちまったんだよ。治療費がかさむんだ。学費は無理だと思う。だから高校辞めてくれ。でもお前みたいなのが、中卒で働けるとは思えない。だからアイドルで稼げよ。この話は誰にも言っちゃいけない。姉貴が可哀想だから。秘密にしておかなきゃならないんだ。嫁入り前のお姉ちゃんだぞ、可哀想だろ。蜂須賀にフられたらどうする。同じ男なら、清楚で誰の手垢もついてない女がいいに決まってる。好きなやつくらいいるだろ?お前にも。だからこれは秘密にしておかなきゃいけないし、父ちゃん母ちゃんにもナイショだ。もちろん、霙恋の兄ちゃんにもな。幸い、俺と姉貴は血が繋がってない。姉貴の苦痛を楽にして、秘密を守って将来的には蜂須賀との幸せも守るのだとしたら、俺が姉貴のスケベの相手をしなきゃなんねぇの。分かるよな」
 雫恋はプロジェクターに映し出した姉の淫惨な有様を、ソファーに座る、姉の可愛いペットへ説明した。姉の可愛いペットは口をガムテープで塞がれ、両手を後ろに縛られていた。まるで人質であったし、実際に人質であった。
「分かるよな」
 コップ一杯60℃前後の湯がかけられる。アイドルにする人間だ。顔にかけないようにするのが雫恋には厄介だった。
「ぐ……う、うん」
 涙と鼻水で、ガムテープが外れそうである。
「分かるよな?言え。雫恋くん、お姉ちゃんとスケベしてくださいって、言え」
「う……ぐぅ………」
「言え、グズ」
 ガムテープを剥がす。唇の薄皮が剥けたらしかった。
「姉ちゃんと………」
 姉の可愛いペットは真っ赤にした目からまた滂沱として涙を垂らす。
「姉ちゃんと?」
「うう………」
 駄馬だか駄犬か知らないが、可愛がられたなりの恩義というものが、下等生物の小さい脳にも刻まれているらしい。飼主を売ろうとしなかった。
「はっ!何のためにその口があんだよ」
 雫恋はパーティーグッズとして押し付けられたとても辛いソースの瓶を開けた。味も辛さも知らない。栓を抜き、怯えている口に捩じ込んだ。姉の可愛いペットは「ひっ」と声を漏らし、突然、吃逆がはじまる。
「美味いか?そんなはしゃぐなよ。そんな美味しいなら、姉貴の下の口にも食わしてやりてぇわな」
 ひゃ、ひゃ、と姉の可愛がっているペットは目から火花でも出しそうであった。その横隔膜の痙攣は身体が跳ね、ソファーが小さく軋んだ。口から心臓を吐きそうであった。唇は腫れ、顔は赤く染まり、汗で湿っている。
 雫恋はひゃっひゃっ、ひゃっひゃっと喋れることもできなくなっている吃逆が治まるのを待っていた。その片手には縫針。もう片方の手にはライターが握られている。
「嵐恋のくせに気に入らねぇよ」
 手慰みに火を点ける。縫針が緋色にかぎろう。
 プロジェクターには、目隠しをされ、ベルトによって大股を開き、あられもなく秘部を曝す姉が映っている。淫具を胎内に埋め込み、獣のような尻尾を生やしていた。下着のクロッチのように花園秘裂を隠す毒々しいショッキングピンクのアーチが、動いた。
『う、うんんんんっ、んんっ』
 姉の白い肩が振動する。獣の尾の付け根の黒いシリコンがわずかに見え隠れし、ショッキンピンクの物体も前後に蠢く。姉は果てた。
「お前の答えるのが遅いから、道具でイっちまって可哀想だな。姉貴苦しめて楽しい?」
 まだ呑気に吃逆を繰り返すペットに、そろそろ冷めたであろう白湯をぶちまけてやった。
「ぐふ………っ、ぅう………姉ちゃんは、本当に、」
「あ?何。疑ってんの?今イってるの見ただろうがよ。女は嫌ならイかねぇの。分かる?童貞くん。嫌ならイかない」
 頭を小突くと、その首にはバネでも仕込んであるかのごとく、大きく揺れた。
「クズ。ノロマ」
 背中に針を刺す。
「痛ッ、痛いっ!」
 吃逆は治まったらしいが、今度は前後へと身体を跳ねさせ、背を伸び縮みさせている。雫恋はぷすりぷすり、背中を刺した。
「『姉ちゃんとスケベしてください、姉ちゃんを助けてください』だろ、このザコ」
「痛い、痛っ、ごめんなさ、………雫恋くん、赦してッ、痛いっ」
「お前が口にしていいのはひとつだよ、ノロマ。『姉ちゃんとスケベしてください』だ、バカ。『姉ちゃんとおまんこして、気持ち良くしてあげてください』だろうがよ、クズ」
 雫恋はそこにあったポットを雑に鷲掴むと、姉の可愛がっているペットに中身を放り投げた。
「あ゛熱いっ!熱いぃ!」
 姉の可愛がっているペットはソファーから転がり落ちた。毛足の長いラグへと、エビよろしく身体を伸縮させている。
「被害者ぶんな、ブス」
 馬乗りになって、一撃入れてしまった。顔にである。失敗した。感情に任せてしまった。この顔は美貌とまではいわなくとも、売り物になるのである。ここに価値をつけるのである。
「カスが」
 惨めなエビに唾を吐き捨てると、携帯電話が鳴った。マネージャーからである。
「久城ですが?」
『もしもし、久城くん。弟さんに用があるのだけど、今、一緒?』
 雫恋は蹲(うずくま)っているペットの顔に足を乗せた。
「一緒ぉ」
『社長がプロデューサーをつけてくださるそうよ。今度はいつ来られる?』
「今からでもいいですケドね」
 だが一瞥した哀れなエビの顔には傷ができてしまっていた。
『そう。じゃあ社長にお伺いしてみるわ。ところで久城くん』
「はあ」
 爪先でペットの頭を転がして傷を確認した。特に新しい傷はない。
『宮崎くんが連絡先を知りたいんだって。教えてもいいかしら』
「なんであいつが俺に用あるの?」
『推しがどうのって……歌詞を作るので悩んでいるみたい。力になってあげて』
「仕事でしょうが。給料出んの?」
『焼肉くらいは奢ってくれるんじゃない?』
「おっぱい揉ませろよ」
 通話は切れた。大した要求ではない。以前は飢えていたが、今では姉がいる。帰れば腱鞘炎になるほど揉み拉(しだ)くことができる。ただの様式であった。
「おい、カス。いつまで寝てんだ。仕事だ、起きろ」
 姉にあれこれ世話を焼いてもらって生きてきたペットは自力では何もできないらしかった。雫恋は悠長に寝転がっている怠惰な生き物を叩き起こす。
「おうちに、帰して………」
「ふざけんな。働け。仕事しろよ」
「うぅ………姉ちゃんに、会わせて…………」
 ぬるま湯に浸かりながら、蝶よ花よと育てられたペットは、啜り泣きはじめた。
「あ?そこに映ってるだろうが。あれがお前の姉貴だよ」
 頑丈で遮光性にこだわった本格的なシリコンの目隠しは大きく、姉の小さな顔のほとんどを覆っていた。ペットは姉の肉体を知らないのであろう。プロジェクターに映っている淫蕩な女を替え玉だとでも思っているらしい。
「姉ちゃんに会わせてください………」
 嗚咽に消え入る懇願が、雫恋に届くはずもない。
「いいぜ、クズ。会わせてやるよ。アイドルとして売れたらな。姉貴から会いてぇって言うさ。金食い虫の穀潰し、足手纏いの手枷足枷の今のお前には会いたくねぇんだとよ、ゴミが」
 弱い生き物は声を荒げて泣き出した。
「泣くんじゃねえよ」
「姉ちゃんに会いたい………うっう………うぅ…………」
「俺だって姉貴といたかったのに、てめぇだけ独り占めして、なんだそのザマは。ザコが。アイドルになれ。俺の亡霊になるんだ、お前は」
 また後先考えず、雫恋は大切にしなければならないサンドバッグを殴ってしまった。

3


 待ち合わせは自然公園だった。大きな池があり、スワンボートに乗れるらしいが、巴月(はるな)は乗る気なのだろうか。
 カメラやマイクの前の巴(ともえ)陽(ひなた)は凛としてクールであったが、その素顔は小心者のマイペースで、かわいいもの好きのしがない男である。SNSでは恋人を自称したり、そういう女を見たという話を聞くが、すべて嘘か勘違いであろう。彼は生身の女を怖がっているのだ。彼が好きなのは二次元の美少女か、小型動物である。マネージャーの本多(ほんだ)鯉絵(りえ)とも、目を合わせて喋れないのである。
 大量に入浴剤を流し込んだようなグリーンの水面を、雫恋(かれん)は覗き込んでいた。良い天気である。スワンボートが2隻ほど、穏やかな曳き波を作っている。池面には青空と斑らな雲模様、周囲に茂る雑木林が映り込んでいた。
「おお~ん、雫恋ちゃんっ!」
 おまけに巴月という男は、着せられるには随分な男振りを発揮するが、彼自身にはまるでセンスがなかった。よれよれのグレーの前開けのフード付き上着に、下は黒のシャツである。ベージュのカーゴパンツに、草臥れたカバンを肩から提げている。深々とかぶったキャップも子供っぽい。不織布マスクに黒斑の大きな眼鏡で素顔を隠す。まるで背が高い中学生だ。おまけに猫背であった。その布の中にトップアイドルが包まれているとは思われない。
「ンで?」
「あっち行こう。うさちゃん触れるから……」
 鞄のストラップを握ってもじもじしている様は、やはり巴陽には思われなかった。
「取っ捕まえて捌いて食っていいの?」
「だ、だめ……あ、あと、マネさんがおリの連絡先知ってること、未早紀(みさき)ちゃんには言わないで……」
「言わねぇよ」
 未早紀というのは人一倍、独占欲が強かった。マネージャーに対してもそれを発揮する。
 メディア向けには、メンバー間の仲は良いことになっている。月一で食事を共にし、家に出入りし、互いの家族とも顔見知りで、テーマパークや買い足しも3人で……ということになっている。だが嘘である。互いの家も知らなければ、家族構成も知らず、グループのスケジュールは把握しているが、個人用の連絡先は知らない。事務所の方針ではなかったし、マネージャーやプロデューサーの意向でもない。
「雫恋ちゃんにも、"推し"がいるの?」
「"推し"の歌詞書かなきゃなんだろ」
「雫恋ちゃんは?」
「俺は書かせた」
 ソロの楽曲が次のアルバムに収録される。巴月はそのために作詞するらしい。雫恋はライターに依頼した。
「テーマ、何にしたの」
「"禁断の恋"」
「ホモ?」
「今時、同性愛を"禁断の恋"なんて言うと炎上するぜ。他にもあるだろ。近親相姦とか、ははは……まだ相手が人間なんだから変態さが足らないね」
 巴月は弱気な男だった。鞄の紐を掴んで、雫恋の後ろをついて歩く。やはりそこに、トップアイドルがいるとは思われない。
「雫恋ちゃんは、"禁断の恋"したことある?」
「……あるってここで簡単に、しかもお前に言っちまったら、それって"禁断"じゃなくね」
 うさぎやあひると触れ合える広場が池の向こう側に見えてくる。
「"推し"って何なんだろうね」
 数日前に、巴陽ファンを名乗る女子高生がSNSで自殺配信をした。マネージャーから連絡を受け、あまり刺激するなと釘を刺されている。巴陽はアイドルであるが、その礎(いしずえ)である巴月はアイドルに向いた精神性ではなかった。理由は定かでなかったが、一方的に熱心に知られている人物が自殺という方法で生涯を終えたという事実は、繊細で幼稚な彼に影を落としているらしい。
「何者にもなれなかった奴等が、それでマウントとって、課金して、何者かになれた気になれるんだろうさ」
「おリがたわしちゃん好きなのも?」
「知らね」
「でも雫恋ちゃんも"推し"が居るんでしょ?」
 雫恋は考えてみることにした。だが訊ねた巴月はすれ違った柴犬に夢中になって、人に話を振ったことも忘れている様子である。
 姉は"推し"ではない。誰に推薦しろというのだ。何に推挙し、どこに推奨しろというのだ。閉じ込めておくべきだ。逃げ出さないように、監禁しておかなければならない。
「ばいばい、ラブちゃん」
 こんがり焼けたパンみたいな色をした犬が尻尾を振って、巴月が手を振るのに応えている。
「俺のは厳密には"推し"じゃない」
「じゃあ何?パンピなんでしょ?おっぱいがすごく大きいって聞いた」
 雫恋は眉根に皺を寄せる。姉の胸が豊満であることを誰かに告げたであろうか。いいや、それよりもまず、その相手が姉であることを誰かに告げたであろうか。
「誰に聞いた」
「未早紀ちゃん」
「自分が巨乳好きだからって、俺を一緒にするなよ。"セクハラ"だよ、"セクハラ"」
 姉の可愛がっているペットの担任の教師が、機転を利かせたように使った単語を雫恋も使ってみたくなった。 
「マネさんのこと?」
「未早紀ちゃんは"片想い"にするんだって、テーマ」
「"推し"の歌なんてやめとけ。地元愛とかにしておけよ。くだらねぇ。あいつ等は自我がねぇんだよ。好きな色も他人任せなんだぜ。人気に肖(あやか)って右倣えをして、その中でアイデンティティってやつを確立しようとしやがる。自我がねぇんだ。お前もそうだよ、巴月。たわしちゃんにいくら課金したかで達成感を得ようとするのはやめろ、くだらねぇ。手前の送った野菜が動画に使われたからって、どれほど偉いって言うんだ。いいか、金は使ってなんぼ、金を払ってファンを名乗るのは大前提なんだ。いくら使ったから偉いなんてことはねぇよ、バカ。ピラミッドは2段構えだ。俺と、奴等。ま、課金してくれりゃ、そんな都合の良い話はねぇやな。商売なんでね」
「お金払ってくれなきゃ、ヤだよ」
 巴月はまた鞄のストラップを握ってよちよち後ろをついてくる。
「金払いがいいのはいい。ただ仲間内でデカいカオしてるのが寒ぃんだよ。俺は奴等の人生のメインディッシュなわけ。出汁じゃねんだわ。俺だけ見てろ。横の繋がりなんか見てんなってこと」
「あ、雫恋ちゃんの熱苦しいアイドル論だ。でもね、雫恋ちゃん。サービスが欲しかったらお金払わなきゃだよ。家が貧乏か金持ちかなんて、おリ等にはそれこそ関係ないよ。ちゅきちゅきな人いるなら自分を磨くでしょ。それと同じ。お金積んでもらわなきゃだよ。じゃなきゃ、アイドルできないでしょ。金かけてくれなきゃ、おリ等は輝かないよ」
 マネージャーの心配は無駄であった。巴月は彼女が思うより狡猾であった。女子高生が金銭目的の淫行によって精神を病み、自殺に及んだことなど、おそらく歯牙にもかけなかろう。
「地元愛にしておけ。他人に依存して、他人軸の生き方なんかカスだ。奴等は俺等の愚かさを好きになっちゃくれねぇんだからな」
「弟くんは、そこのマインド、受け継いでるの?」
「今度連れてくるから会ってみれば。肉親だっていうのも恥ずかしいウスノロだけどな」
 言ってから、雫恋は小首を捻った。ばからしくなった。人間に惹かれているのだから、"禁断"ということはあるまい。血は繋がっていない。血が繋がっているからといってなんだというのだ。相手は人間で、成人である。法的に問題はない。合意、不合意を口にできる。不合意であって、訴えられたなら性犯罪であろうけれど、それならば訴えに出させなければいいのだ。姉はあの部屋から出さない。
「巴月」
「うん~?」
 ふれあい広場が近付いてきていた。巴月はきょときょとしながら柵の向こうの白い毛玉に目を奪われていた。
「姉ちゃんが好きなんだよ。俺は近親相姦が大好きなんだ。毎日姉ちゃんをレイプするのが夢だった」
 彼は気が違っていた。気が狂っていた。正気を喪っていたのだ。ただ正気というものを知っていた。雫(しずく)漣(れん)という染みついて離れず、魂に食い込んだ姿が、正気を補っているに過ぎない。
「おリの弟、ママとの子だから同じだね」
 そのような欲求はまったく些細なこととばかりに、巴月は言った。狂人の戯言よりも、目の前にある白い毛尨(けむく)に興味があるらしかった。



 雫恋は姉に会いたくなって、ふれあい広場に巴月を放って帰ってきた。
 姉は拘束を解かれたというのにベッドの上から動かない。正座で雫恋を睨んでいる。オーバーサイズの黒いフード付きスウェットシャツに身を包み、下は下着のみであるが、もこもことしたレッグウォーマーを穿かせていた。露出した太腿と膝小僧が強調されている。舐め回すようにそれを眺めた。かわいい。
「あーくんに変なこと吹き込まないで」
 高校を辞めることに、姉は反対意見を抱いている。
「変なことって?」
 室内温度を確かめてから、雫恋は姉のいるベッドの傍に椅子を出して座った。この部屋はすべて白を基調としていた。黒い服が際立って見える。もっふぁりとしたシルエットの服が華奢な躯体をさらに細く嫋やかに魅せる。
「高校を辞めさせるだなんて、どういうつもり。中卒じゃこの先、働く口が減ってしまうでしょう」
「中卒がおかしいのか、中卒じゃ出世できない世間がおかしいのか?」
「あーくんを唆すのはやめてよ。本当に本人の意思なの?」
 姉の目付きは鋭く、雫恋はへらへら笑った。
「当たり前じゃん。本人がやりたくないのにアイドルが務まるかっての。姉貴、アイドルってのは感情のサンドバッグなんだぜ。悲喜交々、悩める奴等の情動ってやつを受け止めて、浄化してやらなきゃな。そんなもん、手前でやりたがらなきゃ務まらねぇよ。姉貴のところではいい子ぶりっ子してるみたいだけど、アレも姉貴のところじゃ承認欲求が満たされなくて、自己顕示欲ばかりが育っちまったんだろうさ。母ちゃんも賛成してくれたんだし、別にいいだよ。担任の……」
「お、お継母さんが……」
 思わぬところで姉が反応した。動揺が見てとれる。
「そ!母ちゃんが」
「お継母さんは……なんて………?」
 躊躇いがちな声に、怯えがある。
「成績下がってんだって?もう加霞ちゃんには任せておけないってさ」
 姉の目が大きく見開かれた。
「……………そう」
 彼女は硬直していた。そして燃殻みたいに空虚であった。監禁された悲哀もない。自身が誰に何をされているのかも分かっていない様子であった。飯を買いに少し目を離すと、彼女はベッドに横になって蹲っていた。かり……かり……と軽快な音がする。雫恋には丸まった背中しか見えなかった。彼は部屋中を見回したが、その音は姉から発している。
「姉貴、どしたの」
 覗き込むと、姉は指を咥えていた。子供のようにか。否、爪を齧っていた。五指の爪を噛み千切り、血が滲んでいる指もある。
「姉貴?」
「か、帰らせて………帰らせて…………帰らないと、お継母さんに怒られちゃう……」
「は?」
 帰ったところで、姉と母は別居している。
「お継母さんがあーくんのこと見にきたら、怒られちゃうから、お願い………お願い、お願いだから………何でもするから、お願い……」
 姉は途中から咽せいだかと思うと、本降りの雨みたいに泣き噦(じゃく)りはじめた。
「どしたん、姉貴」
 尋常の様子ではなかった。姉から手を伸ばし、彼女は雫恋の腕に縋りつく。姉の肉感、皮膚の肌理細やかさ、素肌の疾患など、そろそろ飽きても無理はないほど知っているが、救いの手を求めて咄嗟にしがみつくその力加減は知らなかった。
「怒られちゃうから!あーくんのお世話ちゃんとしないと怒られちゃうから………お願い、なんでもしますから、お願いします!お願いします………」
 泣き濡れた瞳が照り輝く。雫恋はぎくりとした。
「何してくれるの」
「お願い……帰らせて。お継母さんに謝らなきゃいけないの……」
 ふと、共に過ごしていた頃の記憶が甦った。食卓に姉だけが出てこなかった。新しい家族に馴染めないものとばかり思っていた。
『姉ちゃん、お腹空いてるの?』
『大丈夫よ。飴舐めてるし』
 印象に残っている会話も、ふと耳の裏で再生された。だが考え過ぎであろう。
『加霞はシャイだからな』
『もう大きいんだし、お腹が空けば自分で食べるでしょう』
 継父と母の言葉も妙に記憶に残っている。破棄されず、染みついている。
『お前ン宅(ち)の姉ちゃん、この前公園でパン食ってた!家まで送ってもらったんだッ』
 近所の校友がふと口にしていた。
 直感が記憶の点と点を結びつかせたがっている。だが3点あれば、三角形は作れるのだ。
「じゃあ、何してもらおうかな」
 雫恋は冷ややかに、懇願する姉を見下ろしていた。
「お願い……お継母さんに会わせて………」
 姉は縋りついた腕を抱き枕のようにしてしがみついた。柔らかな胸が当たる。あざとい。
「俺とセックスする?」
 ろくに要求など聞いていないのだろう。彼女は頷いてしまった。
「いい子。分かった。マッマのところ連れていってあげる」


 乾いた音が病室に谺(こだま)した。雫恋も時が止まったように思った。母が姉の頬を打った。
 久々に見た兄は意識を取り戻し、相変わらず泰然としていた。だが姉が来た途端に前のめりになって、赦しを乞うた。媚びに媚びた声が、雫恋には薄気味悪かった。声質は似ていたが、実際に発する声は違っていた。自身の声を聞いてる気分にはならなかった。兄のほうが抑揚が少なく、低く、ぶっきらぼうであった。高い声を出す必要がなかった。客に対してどうなのかは知らないけれど。
 兄が赦しを乞い、矢継ぎ早に謝罪の弁を並べたて、詫びに詫びる。これは事情の知らない母を前にするべきではなかった。
「加霞ちゃん!弟たちのことは頼んだってわたし、口酸っぱく言ったでしょ?なのに何なの、この有様は。嵐恋は赤点だらけだっていうし、霙恋(えれん)ちゃんに酷いことをして!パパのこと奪ったから、わたしが憎いの?」
 雫恋は姉を見遣った。頬に手を当て、呆然としている。
「母さん……」
 兄も驚いていた。
「恥ずかしいからやめてよ、母さん」
 雫恋は母の肩を掴んで、姉から引き離そうとした。
「雫恋ちゃんは黙ってなさい。若い女の子だからって騙されてるんでしょ!加霞ちゃんも、自分は若い女の子だからって、赦されると思ってるんでしょ。あーくんのお世話、ちゃんとしてって言ったよね。それなのに雫恋ちゃんに手間かけさせて。お姉ちゃんなんだよ。いつまで一人っ子気分でいるつもりなの」
 息子の制止は届かなかった。
「ご、………めんなさい…………」
「息子たちに何かあったら赦さないんだからね」
「ごめんなさい……」
 姉は震えながら頭を下げた。
「わたしが悪者みたいじゃない。これも計算のうちだったってわけ?確かにここで会おうって言ったのはわたしだけど……ほら、加霞ちゃんのせいで、ママが悪者みたいになっちゃったじゃない。はいはい、ぜんぶママが悪いんでしょ?加霞ちゃんの思うつぼね」
「よしてくれ、母さん」
 兄は鋭い眼差しを母にくれた。
「だってそうじゃない。ママが悪いって言いたいんでしょ?そうだよね、加霞ちゃん。口先だけでは謝ってるけど何回目なの。お姉ちゃんなんだから、弟のことはちゃんとしないと」
「母ちゃんは母親だよね」
 母は狼狽え、しかし瞋恚の炎を燃やしながら姉を見遣った。
「ママを責めないで!ママは忙しいの」
「姉貴は忙しくないって?」
「やめて、雫恋ちゃん…………ごめんなさい、お継母さん。赦してください、ごめんなさい。嵐恋くんのことはちゃんとしますから……!頑張りますから、お願いします……赦してください」
 姉は病室の白い床に両手をついた。水滴が落ちていく。
「ちょっと、やだ!やめてよ、加霞ちゃん!そうやってわたしを悪者にするんだから」
「赦してください……赦してください………ごめんなさい…………」
 とうとう姉は額を擦り付けた。彼女はおかしくなっていた。泣き喚いているかのようだった。
「えぇ?息子たちのこと心配してるママがおかしいの?ママがおかしいのかしら?母親として、わたしちっともおかしいだなんて思わないんだけど、おかしいなぁ、わたしがおかしいの?」
 母は姉から身体を背け、小首を捻った。
「どっか行けよ、ババア。土下座してる人に何言ってんだよ」
 雫恋は母がこの時ほど疎ましいことはなかった。姉が何故、弟にばかり構うのか、そして兄弟に対して警戒にせよ大した関心を寄せないのか、分かってしまった。兄と自身は脅威ではなかった。それより恐ろしく強大に姉のなかを蝕む存在があったのだ。
「雫恋ちゃん!なんてことを言うの」
 母が金切り声をあげた。
「わたしが悪いんです!わたしがお姉ちゃんなのにしっかりしてないからいけないんです。お継母さんは悪くないんです!ごめんなさい……」
 雫恋は母を見遣った。嗜虐的な笑みを発見したとき、彼は己の醜悪さを見詰めなければならなかった。
「母さん、帰ってくれ。母さんにとって、姉さんは邪魔なんだろう?だが俺にとっては大切な姉なんだ。大切な人なんだ。愛しているんだ。愛しているんだ!帰ってくれ!姉さんに会わせてくれたことには感謝している!母さん!けれどそれが俺たちの地獄のはじまりだったんだよ、母さん。堕落という天国のような地獄だよ、母さん!姉さんをありがとう!姉さん!姉さん、姉さん!」
 兄は発狂した。胸元を掻き毟った。癲狂病みは父方の遺伝であろう。
「ナースコールを押して、雫恋ちゃん!ナースコールを押しなさい!」
 母が怒鳴った。
「ヤバけりゃ手前で押すだろ」
「姉さん!俺を愛してくれ!俺を愛してくれ!姉さん!」
 だが姉は床に平れ伏せたままであった。羽化を待つ蛹になっていた。
「姉さん、赦して!俺を愛して!」
 兄は花瓶を手に取ると、頭から花と水を浴びた。雫恋は溜息を吐きながらナースコールを押す。その間に、散々叫んだ兄は包帯や寝間着を濡らして、ぐったりとリクライニングのベッドへ凭れかかってしまった。
 程なくして看護師たちがやって来た。雫恋は姉は抱え起こす。オーバーサイズの黒いフード付きスウェットシャツに、真鍮色の糸で縫ったインディゴのストレートジーンズは2、3回裾を折らねばならず、きつく締めたベルトによってウエストは窄んでいた。踵の余りに余った大きなシャワーサンダルも、母の印象としては良くなかったらしい。病室の前のベンチに座る継娘の服装を、母は険しい眼差しで観察している。
「そんなかっこうでお見舞いだなんて……」
「俺の服なんだけど?」
 母の険しい顔がさらに顰められる。雫恋は楽しくなってしまった。
「どうして加霞ちゃんが、雫恋ちゃんの服を着ているの?」
「愛し合ってるからさ」
 彼はけらけら笑った。みるみるうちに母の顔が歪んでいく。姉はまた目にいっぱいの涙を湛え、雫恋のほうへ躍りかかる。
「やめて、やめて……!」
「加霞ちゃん……!あんたねぇ………!」
「はあ?家族なんだから愛してんの別にフツーぢゃね?俺はマッマのことも嵐恋のこともパッパのことだって愛してるんだが?ああ、オニイチャンのことも。そこに漏れずに姉貴のこともアイシテるんだが、なんか変?」
 雫恋は肩を竦めた。姉はその腕を掴み、ゆるゆる首を振る。
「雫恋ちゃんに近寄らないでちょうだい、気持ち悪い……」
「なんで?仲良くしてね、って言ってただろうが。仲良くなったんだよ、俺たちは。なあ、姉貴。なあ?」
 姉の腰を抱き寄せる。下着以外は借り物に身を包んでいる女が、いつにも増して可愛らしく思えた。
「気持ち悪い!やめなさい、雫恋!あなたたちは姉弟(きょうだい)なの!」
「義理の、な。義理の、だから、母ちゃんは加霞のこと、家政婦にできたんだろ?」
『雫恋!雫恋!嫌だっ、放せ!姉さんが!雫恋!姉さんは俺のだ!放せっ!』
 病室から叫び声が聞こえた。兄はすぐに意識を取り戻したらしい。看護師たちが宥めている。
『姉さん、赦して!浮気じゃないんだ、赦して、赦して!俺と嵐恋と3人で暮らそう。愛してるんだ。姉さん、愛してる!ああ、姉さん……?違う、姉さん!』
 咆哮は廊下に反響した。母は凍りついている。
「俺たちはマッマの理想のムチュコタンなんだよ、母ちゃん。だから仲良くシたよ?褒めてよ、ママ。褒めろよ、クソババア!」
 雫恋は気が狂っていた。兄も、頭を打ったために気が狂(ふ)れたのではないのだろう。日下部(くさかべ)の家系であろう。父親の遺伝に違いない。父にもそういうところがあった。母に独占欲を見せ、息子たちの接近すら赦さない。
「褒めろ、クソババア!仲良くシてやったぞ。姉貴と結婚するんだ。パッパと別れてくれよ。ATMと別れろよ。俺がババア養ってやるからさ!孫も見せてやるよ。ガキ生まれたら日下部の長男長女レイプさせてガキこさえて、大団円!家族になろうよ。元の家族に戻ろう!ぎゃはは……クソが!」
 雫恋は哄笑し、壁を殴る。母は顔を青白くしていたし、姉は目元を真っ赤にしていた。

4


 姉は、秘事を暴露されたのがそうとうショックであったらしい。だが雫恋(かれん)には、秘めておくほどのことではなかった。病院中に、姉と恋仲にあることを言い触らしたかった。しかし立場がある。雫(しずく)漣(れん)としての立場ではない。姉の可愛いペットを脱け出し、自立していく雷夢(らいん)の立場がある。デビュー前に家族が不祥事を起こすわけにはいかなかった。
 雫恋は弟想いなのである!
『嵐恋(あれん)ちゃんのことも誘惑したんじゃないの?あなたって人は本当に!ああ!悍ましい!姉弟(きょうだい)で!』
『違います、違います!あーくんは……!』
『何が"あーくん"よ、白々しい!この色気違い!獣(メス)女!』
 そのときの姉の顔を何度も思い返す。もし動画であったなら、何度も繰り返し、シークバーを合わせていたことだろう。そこだけを切り抜き、事あるごとに何度も何度もリピートしていた。
「ああ………お姉ちゃん…………ッ」
 不貞腐れたように寝ている姉のベッドの下で、雫恋はベッドの側面に背を凭せかかながら、必死にペニスを扱いていた。母に悪罵され、尊厳を傷付けられたときの姉の顔!そのまま強姦し、追い詰めてしまいたい。
「お姉ちゃ………は、は、………イく、イくイく、出る………!」
 激しい上下運動が、射精すると緩慢な手付きになる。ローションは使わなかった。掌で膣は再現できないが、かといってシリコン筒を使う気にもならなかった。自慰に快楽を求めていることは否定できないが、それだけが目的ではなかった。姉を費った快感がほしいのだ。射精後に残るのが肉体の気怠さだけでは物足りなくなってしまった。
 びちち……ぷりゅりゅ……
 射精孔が拉げるほど、塊のような粘液が排出される。それはあまり飛ばず、にゅるにゅると長い虫のように這い出てきた。
「お姉ちゃんの顔に出したかったな……」
 雫恋の回想には現実ではない妄想が繋がっていた。継母に罵倒され、硬直するほど傷付いた姉を牢屋に放り込んで凌辱するのだ。ショックのあまり茫然自失の姉を好き放題手籠にする。
「お姉ちゃん……」
 ベッドを上り、蹲っている姉にしがみつく。歔欷(きょき)を終えて、燃えかすみたいであった。小指で突つくだけで、形を失ってしまうような。
「わたし、これから………どうしたらいいの?」
 海外にいる姉の父、雫恋にとっては継父にも、母はこの話をするらしかった。姉の世間的な、尊厳的な余命はあと数時間だ。
「俺と暮らせばいいじゃん。俺と暮らそ……?」
 姉の頬に接吻する。反応はない。彼女はかりかりぱきぱきと軽快な音を鳴らした。爪を噛んでいる。
「俺と暮らそうよ」
 雫恋は蛇と化した。蜿り蜿り、巻きついて、鬱陶しいほど絡みつく。
「俺と暮らそ……ね?俺と暮らそう……」
 柔らかな肌に頬擦りした。目元を細める。べっとりと粘液のついたペニスを姉の身体に当てる。すでにジーンズパンツは脱いでいた。女の脚の魅力に、彼は最近気付いたのだった。
「おうちに帰して……」
「お姉ちゃんはもうおうち帰れないよ?お姉ちゃんは俺と暮らすしかないの。可哀想なお姉ちゃん」
 疲れ果てたのか、姉は重そうに目蓋を開閉した。雫恋は相手がぐったりしているのをいいことに、唇を吸った。ちゅぴ、ちゅぷっ、と音を残す。このままセックスする気になった。太くはないというのにもっちりとした腿を開くよう誘導していると、スマートフォンが振動した。電話である。マネージャーからだ。
「ンだよ!」
 雫恋は吠えた。
『もしもし、久城くん?』
「何」
 間の悪い男である。没収していた姉のスマートフォンも鳴り始めた。こちらは土屋東高校だ。
「はーい、久城です」
『ちょっと、何?』
『土屋東高校の生天目(なばため)です。久城さんの番号でお間違いないでしょうか』
「うん」
『久城くん?誰かといるの?』
 マネージャーと高校教師は同時に喋った。
「うん。あのウスノロの先公」
『何?なんて?』
『すみません、もう一度おっしゃっていただけますでしょうか』
 彼は面倒臭くなった。
「姉貴、電話」
 マネージャーの話を聞きながら、脱殻みたいな姉に携帯電話を渡した。萎れた花のようである。
「はい……久城です。お世話になっております…………」
 彼女は身体に鉛を巻き付けられてでもいるらしい。ゆっくりと起き上がる。
「いいえ、いいえ。少し風邪気味で……そんな……聞き苦しくて申し訳ないです」
 雫恋は電子板を耳に当ててはいたが、マネージャーの話などろくに聞いてはいなかった。
「きちんとわたしからも事前にお電話して、わたしの口から申し上げるべきお話でした。申し訳ありません」
 小さく頭を下げる姿を眺めた。電話相手には見えない表情も作ってある。萎れていた花が水を吸ったようだった。
「いいえ……いいえ、生天目先生にはたいへんお世話になりました。あとのことは父と母に任せることになりますけれど、本当にありがとうございました。残りわずかですが、嵐恋をどうぞよろしくお願いいたします」
 向けられることのない笑みである。繕われているが、華がある。雫恋はその横顔から目を離さなかった。姉の顔面の毛穴を数えるつもりなのだろうか。
『久城くん?聞いているの?デビュー前にCMに少しだけ出てもらおうんですって』
「マジでプロデューサーに一任するから、俺に許可取らなくていいよ。保護者の同意ならマッマが簡単に印鑑押してくれるだろうし」
 雫恋は通話を切ってしまった。そして姉の手から黒光りする板を毟り取った。
「あ……!」
「もしもし、お電話変わりました。嵐恋の兄の雫恋です」
『はあ』
「はあ、じゃなくて。何?暇潰しに電話かけてきたんじゃないでしょ?」
 横から奪い返そうとする伸びてくる腕を押しやった。
『久城くんの……嵐恋くんの転出の件でお電話しました』
「テンシュツ?退学じゃなくて?」
『先程のお電話では、ご両親は、転校を希望されていましたが……』 
 彼は、まだ板状携帯電話を奪おうとする姉を一瞥した。怯えが走る。彼女の手は、今度はつるりとした小型の機械ではなく、弟の口元に伸びた。雫恋は、姉に遊んでもらえて嬉しかった。
「ああ、ねえ、ながたけ先生」
『生天目です』
「ああ、そう、なめたけ先生。禁断の恋ってあるでしょう」
『は、はあ……それが?」
「それがじゃないですよ、なばちゃん。何を想像した?やっぱり生徒と先生?」
「やめてっ!」
 彼はにんまりと口元を綻ばせた。マイクに姉の声が入っただろう。
『久城さん……?どうなったんです?大丈夫ですか?』
「まぁ、俺以外は大体、男なんてのはロリコンペドの女子高生フェチだろ?俺も女子高生は好きなんだけどさ~。ねえ、先生」
「いや!やめてっ!返してっ!」
 萎れていた花が、生花に戻ることは可能だったのだ!雫恋は満面の笑みを浮かべた。
『久城さん……?大丈夫なんですか?』
「大丈夫、大丈夫。猫がうるさくってな。猫が……ははは。先生、密かに姉貴を狙うのはやめたほうがいい。姉貴にはかっこいいカレシがいるんだよ。あんたみたいな芋臭い公僕じゃ、全然釣り合わないような、イケメンでマッチョで金持ちなカレシがね。結婚したいとも思ってる」
「生天目先生……!違います……!」
「まあつまり……姉貴は俺と禁断の恋仲にあるんだよ。だから親父とお袋がドン引きしちゃってさ。嵐恋は姉貴と引き離されるんだよ。そんなことのために。可哀想だな?」
 姉の顔は悲哀に満ちていた。雫恋は正面からその面構えを堪能する。大粒の涙を溢すかと思ったが、俯き、眉根を寄せ、目を閉じて耐え忍んでいる。
『久城さんに変わってくれませんか』
「断る」
 終話ボタンを押す。
「恥ずかしいね、姉貴。俺は自慢して回りたいくらいだけど。まだ誰に言ってない?蜂須賀(はちすか)?宝生(ほうしょう)は?足利(あしかが)尊由起(たかゆき)は?自分のファンが俺とパコってたってヤバいよ。まだパパ活ジジイのちんぽしゃぶって金落としてくれたほうがいいね」
 姉は脱殻に戻っていった。再び横になる。
「ねえ、姉貴、もう実家の援助打ち切られてるんでしょ。どう生きていくの。今の収入じゃどこも姉貴の行くところなんてないよ」
 紫黒光りの板が光った。うんざりした。マネージャーだろう。今度はテキストメッセージアプリであった。しかし目をやれば母親である。
「あ、ババアからだ」
 姉はぴくりと身震いして首だけ向けた。
「はっはっは。姉貴、マッマのことババアだと思ってるんだ。言いつけてやろ」
 ひっ、と彼女は吃逆に似た発作を起こす。
「ごめんなさい……ごめんなさい、言わないでっ、!違うの、違うんです……そんなこと思ってない……っ」
 久々に姉と遊んだ。姉と戯れ合った。まだ姉が陰険な態度を示す前の頃に戻れたのだ!
 スマートフォンを捥(も)ぎ取ろうとするしなやかな腕を躱す。姉の匂いと嗅ぎ慣れた柔軟剤の香りが漂う。
「言わないで……お継母さんに言わないで……っ」
 姉は子供みたいだった。ペットの飼主としての威厳は持っていたようだが、それが消え失せた途端、自我のない、脆い、どうしようもないろくでなしの女なのだろう。成人して数年経っているとは思えない顔をして涙を滲ませる。
「言わないであげよっか」
 彼女は目元を拭って頷いた。悪寒に似た興奮が背筋を駆けた。
「いいよ。言わないであげるから、おっぱい見せて」
 姉は逡巡した。だが眉間に皺を寄せ、眇められた目に雨粒を輝かせる。彼女は胸を見せた。左右の白い撓(たわ)みが露わになる。わずかに萎んだ気がした。全体的に痩せてしまっている。先端の甘げなデコレーションごと垂れている気がした。
「姉貴って本当に、飯炊いて掃除して洗濯物畳んでセックスさせるくらいしか能がないんだね」
 ぽとりと一滴、涙が落ちる。
「だって姉貴、俺といたら家事要らないよ?セックスするしかもうすることないじゃない。どうする?何もできない孤独な姉貴はこのまま色町に堕ちていくの?それとも俺のオナホになる?」
 雫恋は何度も捏ね回し、吸い尽くしたことのある姉の乳頭を見つめていた。その眼差しこそ彼女にとっては愛撫に等しかったのかもしれない。脂肪が減ってしまったなりに豊かな胸の上で、小さなものが張り詰めていく。連動していた。それは彼の脚の間のものと連動していた。出したばかりだというのに垂れ下がった砲嚢が脈拍を持っている。
「姉貴、どうするの?決めてよ。蜂須賀のところ行くの?弟のちんぽしゃぶった口で、蜂須賀にコクる?あんまりに急じゃ可哀想だよね。じゃあ先に俺が、蜂須賀に言っといたげる!」
 雫恋はスマートフォンの画面を点けた。
「や……!やめて………!」
 アプリケーションを開く。掴みかかってくる姉を押しやる。
[雫恋ちゃんもあんな女とは縁を切りなさい。お母さんは許しませんよ]
 スタンプを選ぶ。「はあ?」とウサギのキャラクターが鼻を穿る絵柄を送信する。
[あのミイラ男にもそう言ってやったの?]
[ババアのマンカス息子の整形費用出してやれよ。ブスに産んだ責任とれ。高齢ジジイと交尾なんかするからバカでブスの奇形が産まれたんだし償ってやれよ]
 雫恋は送信してから一瞬中を見上げた。再び、画面に指を駆け巡らせる。
[目頭切開とね。あと肌が汚い]
 そして画面を閉じた。
「これで蜂須賀もドン引きだね」
 しかし彼はまた遠い目をした。血は繋がっていないのである。いうほど、世の輩は、この関係に嫌悪を催すのであろうか。巴月(はるな)の告白にさえ、驚きはなかった。アダルトコンテンツをみてみよ。インモラルな作風が溢れている。そして虚構と現実の区別もつかず、役と演者の境界も理解せず、彼等は熱狂し、揶揄し、冷笑するではないか。コンテンツに関わらない輩に対しても同じ態度をとるではないか。世間の奴等は潔癖性の外套を身に着けている。本心ではないのだ。奴等は!義弟と交わる姉を描像し、股間を滾らせ、知性を捨てるのみならず良心も忘れ、己の性器の快楽を貪るに違いなかった。
 強い怒りと衝動に襲われた。
「生天目にかけろ!生天目に電話をかけろ!」
 忽如として吠えた次弟に、彼女は怯んだ。そしてスマートフォンを守ろうとした。
「生天目に電話をしろ!」
「嫌です、嫌です!赦してください!何でもします、なんでもしますから……!赦して、赦して、赦して……!」
「あの野郎は!あの野郎は俺が姉貴とセックスするところを想像してシコるつもりなんだ!オナニーする気だ!俺に圧(の)しかかられて、腰振られて!ちんぽにまんこシゴかれてるところを想像してるに決まってるんだ!電話寄越せよ。学校に突っ込むぞ!轢き殺してやる。ハンバーグにして食わしてやるよ、姉貴!赦せねぇよ!」
 スマートフォンを守る姉の身体を揺さぶった。乱暴なその行動はさらに彼女を恐怖の底へ突き落とす。顔を真っ赤にして、目元を泣き腫らし、耳障りなほど甲高い声をあげて首を振る。
「貸せ!」
「生天目先生はそんなことしない、しない……!」
「するに決まってるだろ!するに決まってるんだ!じゃなきゃロリコンだ!トイレに篭って、姉貴の声を思い出しながら、俺にファックされてるところを想像して、オナニーしてんだよ!ちんぽシコってんだよ!殺してやる!」
 泣き濡れに泣き濡れ、しとどに白い光を湛えた眼が雫恋を凝らしていた。罅割れた唇が戦慄く。
「雫恋ちゃん………おかしい………おかしい!気が狂ってる!」
 窮鼠猫を噛むとばかりに彼女は喚いた。
「狂ってるよ!狂ってるんだ、俺は!……いいや?狂ってない。乳のでかい他人の女と暮らしてたら、ちんぽが勃つに決まってるだろ。そうだろうがよ?だから俺に犯されてまんこびしょつかせてるんだろうが?感じまくって、イきまくってただろ?狂ってない!狂ってるのは、俺と姉貴がセックスしてることを、表面上ではインモラルだ禁忌だ気持ち悪いだ言って、世間の味方を多く得られるほうの反応を示して正しさを振り翳しているのに、俺がちんぽを姉貴のまんこに突き挿れて腰を振るところ想像して、びん勃ちのちんぽをシゴいてるんだ!姉と弟でそんなことしちゃいけないって口で言っておきながら!オカズにしてんだ!姉貴がイくときの声と顔を想像して、精子出してんだよ!俺は狂ってない!俺は正論を言ってるだけなんだ!事実を!姉貴?姉貴?そうだろうがよ?狂ってるのは生天目だろうが!電話してやる、貸せ!姉貴でオナニーするな!俺を気持ち悪い汚いデブのハゲに置き換えて、姉貴がレイプされてイきまくってるところ想像してんだ!殺してやる!轢き殺してやる!轢き殺してくる!」
 彼は姉のスマートフォンに執着するのをやめてしまった。あっさりと身体から力を抜き、今度は彼女に背を向けた。だが服を掴まれてしまう。
「しないで、しないで………生天目先生はそんなことしないから……しないから……」
 腹に腕を回し、背中に姉がしがみついている。
「言うんじゃなかった!クソ!俺が姉貴とセックスしてるなんて言うんじゃなかった!あのクソガキ!」
 雫恋は他に、もう1人、この関係を知っている人物に思い当たった。巴月ではない。巴月など取るに足らない。
 彼は姉を一瞥した。



 姉のペットは浮腫んだように目元を腫らしていた。殴ったわけでない。
 事務所と提携した寮に半ば軟禁されているも同然である。
「雫恋くん、こんにちは」
 強盗みたいに中へ押し入る。殺風景な部屋だった。後から、女が入ってくる。ピンクのワンピースに、ちゃらちゃらとキーホルダーをぶら下げたピンクのリュック。黒い髪のツインテール。そういうファッションの型があるらしい。衣服や装飾品、髪型や持ち物だけでなく、腕にカッターナイフで創ったらしき傷を刻んでおくのも必要らしい。よく見れば顔立ちは違い、背丈も違うが、複製に複製を重ねたようなのが繁華街に跋扈していた。一律だ。制服なのだ。個性も許されぬ。その場所は、或いはその生涯や生い立ちが彼女たちの監獄なのだろう。
 姉のペットは雫恋と女を不安げに見る。
「嵐恋。この女とセックスしろ」
「えっ……?」
「セックスしろ。こいつのまんこにちんぽ挿れろっていってんだよ。金は俺が払ってやるから、早くセックスしろ」
 姉のペットは首を竦め、雫恋を見上げ、ぶるぶる震える。
「童貞にアイドルなんてできねぇんだよ。いつまで姉ちゃんの裸でシコってるつもりだ?」
「えー、なんか今の、零愛(れいら)くんっぽい」
「てめぇは黙ってろクソアマ」
 女は怒られたのも分かっていないようだった。銀色の疣(いぼ)を刺した口元は笑っている。
「い、嫌だよ……」
「嫌だ、じゃねえの。やるんだよ。この女とセックスしろ」
 姉のペットは躊躇いがちに首を振る。
「やれって言ったらやれ。いつまで姉ちゃんオカズにしてるつもりなんだよ。金は俺が出してやるって言ってんだよ。お前みたいなバカでブスのコインハゲが自分で女とセックスの取り決めができるとは思えない。姉ちゃんが!姉ちゃんが"あーくんの筆下ろししてあげる"って言うまで、待ってるつもりか?カスがよ。負犬ザコのお前を、姉ちゃんが相手するワケねーだろ。ババアがおっかないからお前のクソの処理までしてただけだよ。ババアがおっかないから!ババアが飯も作らない、洗濯もしない、風呂も入らしてくれねーから!お前が生まれちまったから姉貴はババアの奴隷になったんだよ。お前なんかを可愛がってるワケねーだろ!ババアが怖いんだよ。あの色狂いババアが!マッマが怖すぎて、仕方なく、天秤にかけた結果、消去法で、脅されて、お前にエサ作ってたの。分かるか?ザコが。その女とセックスしろ!」
 女はにやにや笑っている。姉のペットは首を2回1セット、横に振るばかりである。
「ね、姉ちゃんが、そんなこと言うわけ……」
 雫恋は壁を殴った。
「言ったんだよ、カス。あの薄汚いブス犬なんて本当は世話したくない。毎日心をレイプされてる気分だ、一刻も早く出て行って欲しいってな!お前みたいなザコオスに言うわけねーだろ。思い上がるな、このタコ。女は信用してる男にしか本音言わねンだわ。お前が経験することはねぇんだろうけどよ。その女とセックスしろ!お前も脱げ、バカ売女(ばいた)」
「はあ~?」
「録画しておいたほうがいいぜ。そいつが売れた頃にタレコめよ。レイプされましたってな!カスが。売れるまで待てよ。それまでは味方できない。セックスするまで出てくるなよ!セックスするまで出てくるな!」
 雫恋は出ていった。玄関前に屈み、煙草を吸う。まだ気に入らない。女を知ったからといって、頭の悪い姉のペットがすぐさま飼主を忘れるとは思えなかった。
 暑くなった身体が冷えていく。
 スマートフォンを見遣れば、母から返信があった。
[お母さんにむかってなんてこと言うの]
[あの女に洗脳されてるの?]
 ぷは~と吐き出した紫煙が画面に吹き付ける。
[まんこにちんぽ汁注がれてガキひり出しただけやんけ]
 送信する。そして煙を吐く。
[俺は姉貴を愛してるんだよ]
[親なら理解できるよね?]
[後悔しろよ]
 腹が立ってきた。雫恋はテキストアプリ経由で架電ボタンを押した。母からの返信の時間的に、すでにスマートフォンからは離れているかもしれなかった。案の定、繋がらない。アプリケーションを閉じ、基本機能から架電ボタンを押す。しかしやはり繋がらない。留守電話に悪態をつき、また身体を熱くした。
 姉は従順になった。望んだことだ。しかし満たされない。母を使って脅し続ければいい。ペットを使って脅し続ければ。そうすれば、枯れた花のようになった姉は自ら裸体を晒すのだ。それの何が不満だというのだろう。
 人工的に白くした不自然で、幽霊みたいな歯が黄ばんでいくように、呼出煙が彼の目に纏わりついたらしい。その眼はどんよりと濁っていた。
 姉の身体が得られれば、それが一番の望みだったのであろうか。では姉を犯した日から幾度もそれは叶っていたはずだ。だが満たされない。
 白い紙棒が短くなっていく。床に擦り付けた。灰が砕け、先端が拉げる。渋い匂いが惜しい。
 姉のペットの檻へ引き返す。ひーひー、ひゃーひゃー声が聞こえる。姉のペットはベッドに腰掛け、股ぐらに女を屈ませている。雫恋はスマートフォンを構えた。眼球で見たものとほぼ同じ図が、その小さな長方形に映される。
「う、うう……こんなの、ダメだよ………こんなの、………」
「お前未成年だから、誰かに言い付けたらその子、犯罪者になるんだけど?お前の所為で。親にも恵まれない、親族にも恵まれない、父親の愛情を求めた男は手前の母親の愛情を求めてきて、上っ面でもやっと受け入れてくれた男のためにおっさんのちんぽをしゃぶる。姉貴のいなかったお前だよ!俺等のいなかったお前だよ!それなのにお前は姉貴を苦しめて、俺に苦労をかける!ふざけるなよ」

5


 病室に入ると、寝ていた兄が目を覚ました。双子だというのに、他の兄弟と比べてしまえば同時に腹から出てきた弟を、兄は身内として判断していないらしかった。警戒を要する外敵なのだ。足音を殺したというのに、機敏に反応した。
「よぉ」
 兄は雫恋(かれん)だと分かると、目をしょぼつかせた。
「姉さんのことか」
「それ以外に用ねぇもん」
 ベッドサイドチェストの花瓶に、花が挿さっている。オレンジ色のガーベラが、色の少ない室内によく映えている。この根暗で陰気、人嫌いの兄に、そのような花を贈る人間がいるとは思えない。
「誰か来た?痛客?お前の客にあんな花くれる女いるわけないよな」
「嵐恋(あれん)」
「は?」
「マネージャーの女と来ていた」
 マネージャー。嵐恋。雫恋はぼんやりと兄の仏頂面を見ていた。
「マネージャーって、おっぱいがデッカい、ポニーテールの?」
「よく見ていなかったが、背格好は姉さんと似ていたな」
 それでは雫恋の知るマネージャーで間違いないだろう。
「で、用件は?すぐに済ませて、早く帰ってもらいたい」
「ああ、嫉妬してんだ。自殺芸なんてくだらない真似するからだろ」
「用件は」
「母ちゃんって姉貴のこといじめてた?」
 自身よりもわずかに冷淡な雰囲気をした、よく似た顔が、これまた冷淡な目付きをして雫恋を見上げる。
「気付いてなかったのか?」
「ムカつく」
「継母と連れ子の娘が上手くいくわけないだろう。童話にだっていくつも例がある」
 雫恋は胡散臭げに兄を見遣った。後出しではあるまいか。結果論ではあるまいか。嫉妬のために知識に於いて一矢報いようとしてはいまいか。
「気付いてたならなんで庇ってやんなかったの。最悪だな、お前」
「虐げられる姉さんは何よりも美しかった」
「最悪だよ。それでよく姉貴に赦してだの愛してるだの言えたよな。恥を知れよ、破廉恥野郎」
「あれくらいの子供に何ができる?俺が姉さんを庇ったとして、母さんは俺と姉さん、どちらにきつく当たると思うんだ。女というのはそういうものさ。浮気されたとき、浮気した夫ではなく、むしろ夫の浮気など忘れて、夫を無罪だと信じて疑わず、浮気相手の女を恨むものさ。それと変わらない。母さんの怒りの矛先はどこに向かうと思う?楯突いた俺か?そうじゃないだろう。姉さんだ」
 兄は溜息を吐いた。
「お前もアイドルなら身に覚えがあるんじゃないか。熱愛が報道されたとき、ファンは露見させてしまったアイドルではなく、相手の女性を攻撃する」
「でもさ、そのせいで、俺たちは二の次、三の次なんだよ。俺たちにレイプされて、なんで姉貴があんなぴんぴんしてたかっていえば、一番怖かったのは母ちゃんだったんだよ。母ちゃんが怖くて嵐恋の世話してたんだよ。俺たちにレイプされたからって大したことじゃなかったんだ」
「そのことに、いつ気付いたんだ?」
 声がわずかに低くなっていた。呆れていた。兄は普段よりも強く、軽蔑の色を示している。
「この前」
 返事も反応もない。兄はただ鼻先を背けた。
「おい」
「姉さんの番になると風呂場の栓が抜かれているということがあった。もちろん、姉さんが最後のときは。夕食も、姉さんのだけ異様に少ないとか、洗濯も、姉さんのだけは脱衣籠に山積みになっていたとか……姉さんだけやたらと早く家を出ていたのは、朝飯を作ってもらっていなかったからだぞ。気付かなかったのか、本当に?姉さんが八神に溶け込もうとしなかったんじゃない。溶け込めなかったんだ。自分が惨めなのもあるだろうが、その場の空気を壊すからというのもあったんだろう。クリスマスも誕生日も、継父さんとお前等は余程能天気にやっていたんだな。幸せな奴等め。けれど俺は感謝しているんだ、意地の悪い狡猾な母さんに。恐ろしく鈍感なおめでたい継父さんに。俺はあの耐え忍ぶ健気な姉さんを見つけることができたんだからな。哀れな姉さんさ。どうして幸せにしたいと考えないでいられるんだ」
 その美貌に、不穏な歪みが認められた。
「だから姉さんは、俺と在るべきなんだ。姉さんは俺と結婚するべきなんだ。姉さんは俺に愛されるのが一番の幸せなんだ。姉さんはどうした?連れてきているんだろう?どうして姉さんは病室(ここ)まで来てくれないんだ?姉さんを出してくれ。俺は姉さんを愛しているんだ。俺は姉さんを幸せにしたいんだ。俺は姉さんと幸せになる。雫恋、姉さんはどこにいる?何故いない?いるんだろう?ここに連れてきたんだろう?姉さんに会わせてくれ。母さんも来ているのか?母さんと姉さんを2人きりにしちゃだめだろう。お前は母さんの底意地の悪さを知らないんだ。あの母親(ひと)は若い女の批評家なんだ。自分が一番美しく、自分が一番若く、自分が一番男から持て囃されていないと気が済まないのだから、そもそも若くて綺麗で可愛い姉さんと上手くいくはずがなかったんだ。お前はマザコンだから気が付かなかったのかも知れないが、母さんは俺たちの親であることよりもオンナであることを選んだんだ。そんな人の傍に、清廉で綺麗で健気で可愛らしい姉さんを置いてみろ。忽(たちま)ち、理論武装された嫉妬の槍に突かれてしまうよ。百本突きされてしまうに決まっているだろう。眉目秀麗な俺たちを産んだことを誇りに思っていて、最高のアクセサリーを姉さんが掻っ攫っていったと思っているのだから、その怒りもあるはずだ。雫恋、あの母(ひと)は俺たちが思うほど親的な親じゃないんだ。金は出してくれたし殴ったり蹴ったり暴言を吐いたりはしなかったが、寄り添ってはくれなかっただろう。友達でしかなかった。いいや、パトロンでしかなかった。覚えていないのか。欲しいものは羨望なんだ、分かるか。マウントが趣味なんだ。優越感を常に覚えていなければ死んでしまう病気なんだ。だから見た目も知能も劣っている嵐恋を自分の手で育てやしなかった。全部姉さんに丸投げした。まだ自分のことも自分ではやりきれない子供の姉さんに。それでいて嵐恋が少しは見られるように育ったら今度は自分等で引き取ると、そういう具合なのだろうよ。それはそれとしても、姉さんはどこだ?姉さんも一緒に来ているんだろう!姉さん!」
 人型のシリコンを与えられた人工知能が喋っているような不気味な静物のように語ったかと思うと、ぎらついた眼光が出入り口の辺りを探る。
「姉貴は連れてきてない」
「何故。具合が悪いのか?」
「家で寝てるよ」
 兄は損をしたとばかりに布団を掛け直し目を閉じた。
「姉貴の前で母ちゃんのこと言うとヒスるんだよ。だから連れてこなかった。お前に見せてやりたかったよ。もう姉貴は俺に心も股も開いてんだ」
「どうせ継父さんのことや嵐恋をダシに脅したんだろう。昔からお前のやり口は変わらない」
「俺に乗っからなきゃ何もできなかったクセに、よく言うよ。シラミみたいなやつだな」
「だから今、作戦変更を考えている。ホストを辞めて、嵐恋にすべて充ててやる。そうじゃなきゃ姉さんは赦してくれないだろ!」
 雫恋は、兄の頬に稲妻が閃くのを認めると同時に乾いた笑みを浮かべた。
 寝に戻りかけていた手が花を掴む。兄は正面の壁へそれを投げつけた。母は打算的で、計算したヒステリックを演じるが、実父の日下部(くさかべ)はそうではなかった。双子であるくせに、雫恋から見て、兄は父のこの性癖を色濃く受け継いでいる。
 足元に、ガーベラの花束が飛び散った。花瓶も倒れてしまう。水が流れ落ちていく。
「ホスト辞めたってムダっしょ。女騙くらかして稼いだ金じゃん。これからあいつも女騙くらかして金稼ぐんだしさ、同じ穴の狢になるわけ。そんなもんに、姉貴がころっと心変わりなんかするかよ」
 爛々とした眼は花に殴られた壁を凝らしていた。懐かしい父の眼差しがそこにある。望郷の感慨はない。
「金は金さ。後ろめたいところはない。姉さんじゃない女に、お前みたいな薄っぺらい笑顔を作って、お前みたいに思ってもいないことを無理矢理に捻り出した。その対価だ。何等(なんら)問題はない」
「お前みたいな金魚のフン野郎が億プレイヤーになれたのは、雫蓮(オレ)に似てるからだろ?何言ってんだ。くだんね。あと、お前の最太客(エース)とかいうんだっけ?あのコ、嵐恋にくれたから」
「ピンクのよく分からん女か?」
「そう」
 兄の目は遠くをみて、何やら考え込んでいるようだった。だがあまり幸せな話題ではないようである。
「エースじゃない。本数エースだ。援助交際の女だぞ。性病を持っていたらどうする?姉さんに感染ったら?もしものことがある。絶対はない。もし世話好きな姉さんが、嵐恋の―……」
「今一緒に住んでない。あいつは豚舎に入ったよ。あとは出荷待ちさ。で、豚テキにされた辺りで、あのイカ焼き女をレイプしたって売り込めばいい」
「姉さんはそれで大丈夫なのか」
「それで姉貴も、可愛い弟くんに愛想尽かすさ」
 兄はふと、その双眸に理知的な光を灯した。
「ピークに売るのが一見良さそうだが、大体信憑性に欠く。この時期にやるのは悪意があるだの、金目当てだのいわれて、大して話題にもならず、真摯に受け止められないのがオチさ。映像で残してあるのか?」
「あ~、あるけどレイプしてるようには見えないかもな。見たくねぇケド、見る?」
「やめろ。目が腐る」
 画面を見せた雫恋はけらけら笑う。
「姉貴なんか泣いちゃってさ」
「撮ったのか」
「まさか」
 兄の神経質げな眉根に皺が寄る。溜息が聞こえた。
「撮るべきものを誤るな」
「姉貴の泣き顔撮ってどこに売るんだよ。お前か。でも金には困ってねぇんでね」
 否、これから困るかもしれない。雫(しずく)蓮(れん)を辞めるのならば。
 雫恋は将来を有望視されている兄を一瞥した。
「俺に売れば。その金で姉さんに美味しいものでも食わせてやってくれ。母さんたちと暮らしていたときの話は胸糞が悪い。お前がまったく気付いてなかったことも胸糞が悪い」
「気付いてて何もしないお前のほうが罪深いよ。それを楽しんでたお前のほうがね。怠惰の罪だよ。そこでぐーたら寝てることより怠惰だね。怠惰的な怠惰だよ」
「その罪で言うのなら、俺の罪は嫉妬だ。俺は姉さんのあの美しさに激しく嫉妬していたんだ。俺は姉さんの、あの健気さに!いじらしさにな。俺は激しく、身を焦がすほどに嫉妬したんだ。姉さんに。姉さんの魂に!姉さんの肉体に!或いは姉さんを形作るものに!」
 相手は頭を打って入院している、情緒不安定な男である。双子だ。遺伝子情報はほぼほぼ同じらしいけれども、話が通じないことなど多々ある。自ら頭を打ちつけたコンクリートが悪いのであろうか。
 雫恋は足元に散らばり落ちているガーベラを1本拾うと病室を出ていった。


 姉と暮らすマンションに帰ると、良い匂いがした。料理を作っている。
「ただいま、姉貴」
 キッチンに姉が立っている。色濃い隈が、彼女を数歳老けさせて見えた。肌は毳(けば)立ち、捲られた袖から伸びる手首には骨が強く透けている。
「おかえりなさい……」
「姉貴にお土産」
 オレンジ色のガーベラを突き出すと、彼女は虚な目をしてそれを受け取った。
「お花……」
「うん。嵐恋が姉貴にってさ!今までありがとうだって。それがたった1輪の花だよ、姉貴。酷いね。そういうやつなんだよ。昨日の動画といい、女を何とも思ってないんだ」
 姉は昼飯の匂いに包まれながら潸然(さんぜん)としていた。
「本当に、あーくんから?」
 ガーベラを握り締める様に疑心は無い。それは確認であった。
「そうだよ。姉貴から離れた途端、垢抜けちゃってさ」
「元気にしてる?」
「は?」
 目にしているはずだ。姉はペットの醜悪な交尾を見ているはずなのだ。
「元気にしてるの観てただろ。アッチもコッチも元気だよ。姉貴がいなくなったからね」
「そう。元気ならそれで……」
 姉はガーベラの長い茎を、調理用シザーで短くすると、グラスに水を注いで挿しておいた。
「ふざけんなよ」
 飾られようとするオレンジ色の花を鷲掴み、床に投げ捨てる。兄に似ているのかもしれない。
「え……?」
 踏み潰す。円形に咲いた花が拉げた。姉は屈んだ。
「どうして……」
 花を庇おうとする。雫恋は踏み続けた。やがて、彼女はその足の下に手を入れた。花の柔らかな感触ではないものを踏みつける。骨張った手が、スリッパの下に潰れた。躙(にじ)る。
「姉貴……もう嵐恋はマッマのなの。嵐恋はもう姉貴のコトどうでもいいの。姉貴のコト憎んでるの!姉貴が嵐恋にできるコトは、デビューしたとき推してあげるコトだけ。迷惑だよ、姉貴」
 俯いた姉の表情は見えなかった。
「お姉ちゃんが自分を構い過ぎるから虐められるんだってうんざりしてたよ。お姉ちゃんは俺を可愛がればいいの。俺だってお姉ちゃんのこと可愛がってあげるよ。愛されたいからってあんなガキに愛すの愛されるのなんて分かるもんか。お姉ちゃんのコト愛してくれないの。でもお姉ちゃん、俺なら返してあげられるよ。愛してくれたらね。俺からの愛なんて本当は有料なの!お姉ちゃん!どうして受け取ってくれないんだよ。どうしてはこっちだよ。お姉ちゃんと俺の血が繋がってないから?お母さんがお姉ちゃんにしてきたみたいに?」
 青褪めた顔が徐々に持ち上がる。その反応に雫恋は急いた。
「代わりに復讐しようとしてる?お母さんがお姉ちゃんにしてきたみたいに。血が繋がってる嵐恋だけ可愛がるの?お母さんみたいに?」
「そんな………そんなつもりは………そんなつもりはなくて…………」
 姉は目を白黒させている。
「自分だけ可哀想な被害者だと思ってる?俺は?俺には霙恋(えれん)が要るから?俺にはイデンシジョーホーほぼ同じの霙恋がいるから、嵐恋は奪(と)ってもいいと思ったんだ?俺等が嵐恋と昔遊んであげられなかった分、今余裕ができたから応援しようって気持ち、お姉ちゃん、全部邪魔する気なの?」
 彼女は戦慄きながら首を振った。
「わた………わたし、………そんなつもりじゃ…………」
「ま、俺等はいいよ。仕方ないよ。姉貴のコトいじめてたマッマと血が繋がってるし、俺には霙恋もいたし。でも嵐恋は?割りを食ったの誰?みんなとチガツナガッテるのにこんなことになって可哀想だ」
 姉の目が濡れていく。そしてぽとり、ぽとり、一滴二滴垂らした。
「最悪な姉ちゃんだよ」
「ごめんなさい………」
「償いなよ。復讐心なんかで、家族団欒をぶち壊したこと。もう戻らないんだよ?どうしてお母さんがあんなに怒ってたのか、本当は理解してないでしょ」
「ユルシテクダサイ」
 病室で見た謝罪であった。片手を踏まれたまま、犬猫みたいに座り、頭を下げる。
「いいよ、赦してあげる。姉貴もマッマに虐められたんだもんね?」
 雫恋は彼女の後頭部を見下ろしながら、愉快げに笑む。足を退け、踏み締めた手を拾い上げる。
「だからこんなのは捨てちゃいなよ。捨てるべきなんだ。それが義理だよ。"正しさ"じゃない?」
 姉は拉げたガーベラを掬い上げる。まだ躊躇がある。
「捨てなさい」
「……はい」
 悄然として、彼女はゴミ箱に花を捨てた。
「姉貴、いい子。愛してあげる。全部俺が愛してあげるよ。もう独りなんだから、姉貴は。可哀想な姉貴」
 小さくなったような気がしないでもない姉の躯体を腕の中に収める。
「わたしはこれからどうしたら……」
「俺のお姉ちゃんになればいいんだよ?」
 耳や首筋を啄ばむ。姉の匂いに眩暈がした。柔らかく鼻腔を通り、脳髄をくすぐっている。
「赦して……」
「赦すよ」
 キッチンに漂う匂いは焦げ臭くなっている。煮え繰り返り、吹きこぼれてもいる。雫恋は火を止めてしまった。
「愛(ゆる)してあげる。腕上げて」
 姉は従順だった。裾から手を入れる。冷えた指と掌に、華奢な身体が逃げようとする。
「姉貴、俺がずっと愛してあげる。ずーっとだよ。喜びなよ、姉貴」
 膨らみのうえからブラジャーの地合いを撫でる。レースとリボンとフリルがふんだんに使われた下着は、乳房を支えはしたが、肝心なところには布がなかった。乳頭の部分だけ、聖人が海を割ったときのように露出していた。剥き出しの左右一点を突つく。
「ふぅう………」
「擦れて痒くなっちゃうね?」
 ニワトリが弱い個体を虐げるように小突き回した。だがそこは萎れることなく、勃ち上がり続ける。
「ぅ、う………」
 姉は肉体の反応とは裏腹に、座りたくなっているらしかった。膝と膝を擦り合わせ、普段以上に内股になっている。彼女の尻に腰を押し付ける。胸の突起を激しく捏ねる。
「んぁ……あ、あ……!」
 揺れる尻を膨らんだ前で摩る。
「姉貴の乳首シコるたびに、俺のちんぽピクついてるの、分かる?」
 硬い布の中で、甘い声に呼応する屹立が姉を叩いている。
「分か………んな、………っ」
「姉貴のおっぱいくりくりすると、俺のちんぽ、ぴくんぴくんって、姉貴のナカ入りたいなぁって跳ねてるの。俺と姉貴がひとつになっちゃったみたい」
 左右の肉粒を撚(よ)る。姉の淫らな吐息と婀娜な戦慄を感じる。雫恋は自身の性感帯にはどこも触れていなかったというのに、安堵に似た恍惚と、淡くも倦むくことのない陶酔を覚えた。すぐに素肌を晒し、肌理(きめ)を重ね、粘膜を削りつけ合う行為に何の意味があるのだろう。彼は悔いた。悔悟(かいご)した。粗末にしていた。姉とのセックスの機会は今まで何度もあった。それをすべて無碍(むげ)にしていた。
「姉貴……」
 肺いっぱいに姉の纏う空気を吸う。洗剤の香りに埋もれた、まだ他人の家の匂いがした。胸の先端を虐めて困らせることも忘れ、さらに姉へと密着した。姉の背中にファスナーさえあれば、雫恋は己より小さなその中に潜り込むつもりらしかった。だが姉を着ぐるみにすることはできなかった。大きな服に包まれた背中を覆い、突きつけた尻を振る。芒(すすき)のような尻尾が生えそうだった。ぴくついていた肉体の変貌など、今はどうでもよかった。そこで得る鋭く確かな刹那の快楽よりも、他にも行くべきところがある。
「姉貴、姉貴」
 へっ、へっ、と息を弾ませ、間に挟まる布地が邪魔だった。姉の肌で己の垢を刮(こそ)げ落としたい。柔軟剤の効いた衣類が心地良い。
「好き好き」
 彼は自身を子供のように思った。可愛がられるべき、無垢で無力な児童に思えた。
「お姉ちゃん」
 逞しくはない、頼れもしない狭い背中に寄りかかる。辞められる。それは意地でも宣言でもなく、雫恋の意識のなかに染み渡っていく。アイドルを辞められる。辞めようというのではなかった。辞めたいのではなかった。辞められると思った。雫蓮という悍(おぞ)ましい自我が剥がれ落ちていくのが分かった。アイドルというものに対する自論を容易に放り投げられる。もはや他人事だ。知ったことではない。
 彼は姉の背中にしがみつき、そのまま蛹を作るつもりらしかった。殻のなかでどろどろとクリームになり、雫蓮などという仮の姿を喰らい尽くし、これからは日下部雫恋から八神雫恋を経て、久城雫恋に生まれ変わるのだ。真っ当な久城雫恋になるのだ。
 姉の心臓の鼓動が伝わる。姉は生きている。生き物なのだ。姉は生き物だったのだ。彼は感動した。不思議な気分になった。疑問と確信を同時に抱いた。姉は生きていて、その心臓を止めてしまえば死んでしまう脆さを実感する。愛しさが込み上がる。このまま腕の力を強め、締め殺したくなった。それは殺意であったし、悪意でもあったのだろう。ただ怒りも恨みもないのだった。むしろ愛おしかった。放したくないのだった。
「う………ぅ、赦して……」
 その声は苦しげであった。けれど雫恋は圧迫をやめられなかった。姉と癒着してしまえばいい。だが各々、輪郭と境界、隔たりをしっかり持ったままである。
「お姉ちゃん」
 彼女は首を振った。
「赦して………苦し………」
 雫恋の爛々とした双眸は姉の潺湲(せんかん)とした髪を眺めていた。艶を失っても尚、胸の辺りを摘んで、甘酸っぱく疼かせる。
「う………ぅぅ………」
「お姉ちゃん好き。お姉ちゃんと遊びたい。お姉ちゃん………お姉ちゃん」
 力を緩める。姉が息を焦る。だが雫恋はまた抱き締め直し、身体を揺らした。彼は自身を小綺麗な大型犬のように思った。撫でられ、褒められ、可愛がられて然るものに思えた。
「赦して、くださ………」
 雫恋は180cmと少しある大柄な男だった。しかし小さな頭と長い四肢によって、比較対象がなければとてもそのようには見えなかった。彼自身も、己の痩身長躯に自覚が足らないようである。彼は姉の前面に頭を潜り込ませた。まるで助走のないタックルであった。姉は上手く立ち回れず、バランスを崩す。
「お姉ちゃん」
 姉の身体を引き寄せながら、共に床に倒れた。まだ新しいマンションだ。そう汚れてはいない。それよりも彼には、姉との間にわずかな空間を作るほうが大問題のように思えた。
「赦して……」
 彼は自身を人間だと思っていなかった。姉に頬擦りする。股間が痛いほど張り詰めている。だが陰茎を扱いているときでは味わえない幸福に、まだ浸っていたいのだった。

6


 雫(しずく)蓮(れん)と遜色ない少年が立っている。成長と共にどうにかなったかもしれないが待てなかった。厚みのあった目蓋が失せ、二重目蓋が綺麗に乗っている。目頭も露出し、目の印象が変わった。歪みのあった鼻梁も左右から見て差がなくなった。
「イケメンになれて嬉しいだろ?」
 土産とばかりのカラーコンタクトレンズの箱を押し付けると、美少年はそれを胸で受け止めて、鼻を鳴らした。そして啜り泣きはじめる。
「喜べよ。蜂須賀(はちすか)に会えるんだぞ。仲良くしてもらったんだろ」
 少年は涙を拭いた。
 雫恋(かれん)は少しだけこの美少年が可哀想になった。姉の好きな面構えではない。姉は整い過ぎた顔が好きではないのだ。派手な顔面をしたこの少年を、姉が振り向くことはもうないに違いない。
「ちゃんと化粧しろよな。肌汚ねぇし。せっかくイケメンにしてやったのに……可愛がられるには努力が要んのよ」
「新しい学校、上手くいかないの」
 それは父母に相談することだ。この少年は、父親とも母親とも血が繋がっているはずだ。久城家には似ていないようだし、八神の血脈にしては落ちこぼれているけれど、血の繋がった父母が揃っているのだ。義理の親というものを知らない。肩身の狭い思いなどしたことがないだろう。何故、両親に言わないのか。
 雫恋は対して、継父との関わり合いに苦労した覚えはなかった。だが姉は違った。腹が立ってきた。姉は継母と上手くいっていなかったのだ。
 この子供は甘えきっている。
「あ、そ」
 車に乗せ、待ち合わせの場所へ向かう。霏室(ひむろ)雷夢(らいん)のデビューについて、反対の意見があるらしい。蜂須賀(はちすか)舞夏(まなつ)が事務所の方針を決められるほどの力を握っていたとは、雫恋も思っていなかった。出世したものだ。いいや、すべて計算のうちだったのか。
「デビューさせてくれってお前からも頼み込むんだぞ。自分の意思だってな。嵐恋(あれん)。お前じゃ絶対に覗けるはずもない世界なんだ。誰からも愛されないお前が、アイドルって皮を被ってやっと愛されるんだよ。尻尾振って、ケツ振って、何者にもなれやしない奴等の"推し"になって、何かした気にさせてやれ。何か役に立ってるつもりにさせてやれ。お前はアイドルだけでなく、救世主にもなれるんだ。当たり障りのないことを言って、誰も傷付けない歌歌って、何しようがおめでたい花畑脳どもが擁護してくれるさ」
 事務所を紹介し、美容整形手術を施しても、強欲で意地汚い少年は満足していないらしかった。髪型を整える気も、化粧する気も、肌のケアをする気もないようなのだ。他力本願なのである。至れり尽せり、蝶よ花よ、目に入れても痛くないと甘やかしてきた姉の負の影響であろうか。
「笑え」
 雫恋は辛気臭い助手席を一瞥した。
「笑え」
 だが欲深い少年は涙を滲ませ、鼻を啜るばかりである。何が不満だというのだろう。
「う……うぅ……」
「笑え!何が不満なんだ!おい!何が不満なんだよ。何のために口があるんだお前は!何のためにお前には口がある?ママのおっぱいを吸うためか?ママのおっぱいを吸うためか!まんこを舐めるためか?また魚臭いまんこ舐めさせてやるよ。性病まんこを!ジジイのちんぽ生ハメした臭いまんカス舐め取ってろよ!」
 美少年は口元に手を当て、前屈みになった。
「吐くなよ。飲み込め。降ろすぞ」
 窓を開ける。風が入り込んだ。雫恋も気持ち悪くなってきた。色事が好きなわけではなかった。姉の面影を求めただけである。女陰とはグロテスクなものである。姉が相手でないのなら、到底舐めようとは思わない。何故、人類は姉の陰所ではないというのに、女陰を舐めようなどと発想したのだろう。煙草に火を点ける。女の生臭さが燻されていく。レントゲン写真に浮き出たような純白の歯が黄ばんでいくのだろう。だがもう、カメラの前で笑うことはない。撮影はすべて済んだ。あとは引退をメディアが公開するのみである。
 溜息とともに紫煙を吐き出す。
「上手くやれよ」
 待ち合わせはファミリーレストランだった。目を惹くような顔をしている少年へキャスケットを被せる。つばを掴んで、頭ごと一気に下げた。
「うぅ、」
「テープレコーダーもな。ここに飲み物溢すなよ、ヘボ」
 べち、と裏手で胸元を叩く。
「雫恋くんは、」
「行かねぇよ。一人じゃ何にもできねぇのな。姉貴に翅を毟られたってか」
「……」
 眉を下げ、睫毛を伏せる。傷付いた、沈んでいる、という主張が、飼い主によく似ている。
「大社長息子に乞食すんなよ」
 1万円札を2枚、指で弾いた。そして小型レコーダーの入った胸ポケットに捩じ込んだ。
「うん……」
 姉のペットは車を降りて行った。店に入っていくところを見てから帰った。


 事務所に寄ると、駐車場からミィミィか細い鳴き声が聞こえた。花壇に乗った垣根から白い毛玉が現れ、べちゃりと地面に落ちた。ネズミかと思ったが、それは雫恋に向かって駆け寄ってきた。ミィミィ、人間の中でも大柄な雫恋を見上げ、懸命に泣いている。喉が嗄れそうなほど鳴き喚く。
 ほぼ同じ顔をした男ならば、抱き上げて、姉との子供だと言って育てるのだろう。
「は? キモ……」
 雫恋は、懐かれるのが嫌いだった。靴の先に小さな足を乗せる毛玉を鷲掴む。温かく、柔らかく、ごりごりとした質感が毛皮の奥にある。ミィミィ鳴き叫ぶ生き物は地面から切り離されても、同じ調子であった。彼は毛玉を掲げ、アスファルトを狙った。
 懐かれるのが嫌いだった。気持ちが悪い。辱められた気分になった。侮られた気分である。
 ミー!ミー!ミィ!ミィ、ミィ……
 その腕を振り下ろそうとしたとき、妙案が浮かんだ。姉の前でするべきだ。どうして何の見返りもなく、肉片だの内臓だのが飛び散るリスクを負わなければならないのだろう。彼は心臓の鼓動している毛玉を地面に叩きつけるのをやめた。そして鷲掴んだまま事務所へ入っていく。
 霏室(ひむろ)雷夢(らいん)のプロデューサーとすれ違う。彼は無視しようとしたが、霏室雷夢という商品を売り出してもらわなければ困る。雫蓮の残滓を呼び起こし、満面の笑みを張り付けた。
 猫が鳴く。プロデューサーが笑った。雫恋は雫蓮であった。インタビュイーになり、適当にあしらった。いいや、しかし何故、裏方にそんな真似をしたのか、別れてから腹を立て始めた。
 会議は円滑に進んだが、猫は構わず鳴き叫んだ。ダンボールだの猫缶だのを渡される。彼等彼女等はこの毛玉を雫恋が飼うものと思っているらしい。マネージャーもそうだった。会議後に震える毛玉のため、飲みもしない温かなミルクティーのペットボトルを買ってきて箱に入れ。だが用はそれだけではないらしかった。
「蜂須賀さんとの交渉、嵐恋くんに一人で行かせたわね?」
「一人で十分でしょうが。ガキじゃねえんだ」
 マネージャーと雫恋が2人きりになることを、未早紀(みさき)は赦さなかった。マネージャーの傍に所在なく突っ立っている。夫婦で買い物に来て、財布を開くでも荷物を持つでもない夫みたいな挙措である。
「何言ってるの。嵐恋くんは子供よ」
 だが雫恋はそうは思わなかった。右も左も分かる年頃のはずである。手前の意思決定をするだけの自我も知性もあるはずだ。
「じゃあお襁褓(しめ)も取り替えてやらなきゃあなあ?」
「兄弟でしょう。どうしてそんな冷たいの」
「兄弟? 母親が勝手に男連れてきて、それが継父(ままちち)。そのときにはもうボテ腹。あの人たちは俺に一言も、ゴム無し生ハメ子作りセックスしていいですか、なんて言わなかった。弟か妹作っていいですか、なんて一切な。それで俺が、"いいですよ、是非作ってください"、"俺に妹弟をください"と答えていたのなら、その質問にそれなりの答えを持ち合わせていたかもな。ンでも俺は、訊かれてないし言ってない」
 マネージャーに卑猥な単語を投げかけると、未早紀が進み出てきた。だがマネージャーに押し戻される。何かしらのモンスターバトルのようだ。
「それでも家族でしょう。情はあるはず」
「罰金をありがたがって払うやつあるか? あのウスノロが生まれる前の俺は、そんな罪深かったと?ま、罰金ってのは払えばそのあとは何してもいいんだ」
 ミィミィ、ダンボールのなかの生き物がうるさかった。雫恋は乾いた笑みを浮かべて自宅へ帰る。


「ただいま、姉貴」
 マンションの玄関扉を開けた。
「おかえりなさい」
 姉は良妻だ。玄関先まで出迎える。
 ミィミィ! ミィミィ!
 鷲掴むんだ毛玉が鳴いた。掌の中に澎湃(ほうはい)を感じる。姉の声を聞き、顔を見た途端、彼は何故この生臭い毛玉を連れ帰り、わざわざ握っているのか忘れてしまった。この三和土(たたき)に叩きつけ、骨を砕き、血反吐を吐かせるのではなかったか。
「かわいい……」
 姉は雫恋の手ごと、毛玉を握った。
「姉貴、寂しいかと思って」
 姉はかつお節臭い、醤油を溢したような白毛玉を胸に抱いた。それから何度か小さな頭を撫で、エプロンのポケットに入れてしまった。
「姉貴?」
 靴を放り脱いで、姉を追う。彼女はキッチンで湯を沸かしていた。その背中に張り付く。
「危ないから……」
 兄は、姉は猫が嫌いだと言っていたではないか!
「なんで俺には構ってくれないの」
 鍋に入った水は底に気泡を沈めている。ポケットから顔を出している臭い生き物を、そこに放り込んでやりたくなった。何故、玄関先で肉塊にしなかったのだろう。姉の恐怖に慄く顔を遠ざけたのだろう。後悔した。厚くなっていく湯を凝らす。
「分かった、血が繋がってないからだ。どうでもいいんだろ、俺のことなんか。どうでもいいんだ」
 包丁がそこにあった。ざふ、と手首を刺した。皮膚が裂け、白刃を咥えたところから赤い筋が盛り上がっていく。


 兄は興味なさそうに目線だけくれた。それも視界の中に動くものがあるからに過ぎなかった。
「ここはカフェじゃないのだが」
 壁際のソファーに座ると、兄から口を開く。
「カフェでババアのヒス話聞かされるなんてそれこそやめてくれや」
 花瓶のガーベラは萎れかけていた。
「姉さんは」
「ババア来るのになんで姉貴連れてくるんだよ。ああ、お前はババアに虐められてる姉貴をズリネタにしてるんだもんな」
「うん」
「確かに分かるよ。俺も姉貴とセックスしてることババアにゲロったときの顔にぶっかけて、そのままババアの前でちんぽ挿れたかったし、その妄想して抜いてるから」
 兄は冷ややかに雫恋を見遣った。兄の前で己の性の話をするときに限って、彼はクリエイターであった。官能小説家になりたくなった。そのときばかりは創作意欲が刺激されるのであった。
「母さんの前で姉さんとセックスしたら、母さんはまた発狂するのだろうな。息子が同性愛者でも嫌がれば、女と交尾することさえ嫌がる。それでいて早く結婚しろ、とは……まあ、そんなことはいい。姉さんが来ないなら帰れ。お前と母さんに今は用はない」
「でも姉貴の話だから」
 そうしているうちに、母がやってきた。とにかく忙しいという有様である。
「電話じゃダメだった? 雫恋ちゃん
 母は兄を一瞥してからまた目を戻す。
「手、怪我したの?」
「うん。姉貴と喧嘩しちゃってさ」
 雫恋は包帯の巻かれた手首を見せびらかした。母の表情が嫌悪に染まっていくのを彼は確かめていた。
「ほんっとうに、加霞(かすみ)ちゃんって人は………!」
「ママからも言っておいてくれる? 酷いことするなって。母ちゃんの言うとおり、姉貴は酷いよ。でも俺が面倒看なきゃじゃん? 家族なんだし」
「俺が面倒看よう。俺は姉さんを一人の女性として愛している。姉さんと結婚しようと思っている。結婚資金も貯めてある。挙式費用もな。子供は2人ほしい。家は3階建てで……」
「よして、霙恋! 穢らわしいっ!」
 母が耳を塞ぐ素振りをして金切り声を上げた。
「よせだと?姉さんとの将来の計画を語るなというのな?俺は母さんが何と言おうと姉さんと結婚する! 姉さんと結婚できないなら去勢する。俺は去勢する! パイプカットして、去勢する! 断種してやる! 姉さんと結婚できないのなら!姉さんがこの世にいて、惨めにオナニーするだけの人生に何の価値がある! 姉さんと結婚できないなら死ぬ! 殺せ! 姉さんと子作りをしないのに、何故この身体は精液を作り続ける? 心臓の鼓動をやめない? 姉さんとセックスしないのに、何故ちんぽが必要なんだ? ペニスが、必要なんだ、母さん! 邪悪なだけのファルスが! どうして? 俺のちんぽは、姉さんとセックスするために生えているのに、どうしてなんだ? 姉さんの働きアリになれないのに、何故俺は生きている? 姉さんの奴隷になれないのに! 俺を姉さんのATMにさせてくれないのか?」
 兄は叫んだ。そして点滴を勝手に外し、裸足のまま駆け出した。
「死ぬ! 姉さんと結婚できないなら死ぬ!」
 彼は病院の屋上庭園からまた飛び降りでもするのだろう。雫恋は母を見たが、気にするでもなかった。あれは見殺したほうがいいのだ。本人のためなのだ。世のため人のためなのだ!否、屋上庭園といわず、階段から飛び降りる気なのだろう。そのほうが被害も少ない。
「霙恋って父さんに似てるよね。久城さんのほうじゃなくてさ、日下部(くさかべ)のほうに」
「しっ!」
 母は露骨に嫌な顔した。唇を波打たせ、引き結ぶ。雫恋は陰湿に口元を綻ばせる。
 直後、廊下からは騒ぎが聞こえた。兄は本当に飛び降りたらしい。母が駆けつけた。懐かしい家の匂いを残していく。幼少期の光景がふと甦った。
「殺せ! 殺せ! 死なせてくれ! 俺は飛び降りるんだ!」
 院内に狂犬でも迷い込んだらしい。兄が何をしても雫恋の知ったことではないが、ひとつ迷惑があるとするならば、同じ顔ということである。髪色、髪型、服装の好み、表情は違えど、造形は同じなのである。
「俺は飛び降りるんだ! 来世では姉さんと結婚する! 姉さんの飼猫になるんだ! 姉さんの奴隷になるんだああああ!」
 絶叫が谺(こだま)していた。



 マンションのインターホンが鳴ったとき、雫恋は笑みを隠すのに苦労した。出ようとする姉を後ろに引く。
「俺が出るよ」
 誰が訪問したのか、彼は知っていた。玄関扉が開く。姉の顔は見逃せない。その一瞬を脳裏に焼き付け、一生愉しむつもりだった。
「お邪魔します、雫恋ちゃん」
 母だ。姉にとっての継母だ。雫恋は硬直し、顔面蒼白にしている姉を観察した。毛先の一本〃まで目蓋の裏に模写する。
「……と、加霞ちゃん」
「こ、こんにちは………」
「今日はね、雫恋のことで話があったの」
 姉は佇立(ちょりつ)したままで、雫恋は姉を見遣ってにやにややっていた。母は厳しい眼差しを継娘に向けている。
「せっかく母親が遥々来たっていうのに、中に上げてもくれないのね?」
 ここは雫恋のマンションである。姉に来客を選ぶ権限などない。知ってか知らずか、母は姉に対してもてなしを求めた。
「す、すみません……」
 人が来ることを想定していないこの家に、スリッパなどという気の利いたものはなかった。ここは住居ではない。巣であった。
「スリッパは?」
「すみません……」
「ないの?」
「はい」
「だらしのない」
 ここは姉の家ではない。雫恋の家である。だが母は息子ではなく継娘を叱りつけた。
「雫恋ちゃん? いい? 結婚するのなら、常識のある女の子となさい。スリッパのひとつ、ふたつ、用意する気遣いのある子をね。そんな娘に育ててしまって、悲しい! ごめんなさいね、加霞ちゃん。お母さんもっと、加霞ちゃんの躾に口を出すべきだった!」
 姉は頭を下げ続ける。
「しょーがないだろ、姉貴は天然さんなんだから」
 ふざけた口調で母の背を押してリビングへ促す。
「獣臭いわねぇ」
「猫を飼い始めまして……」
 ダイニングテーブルセットに座りながら、母の顔がしんねりと姉を捉える。
「猫の匂いじゃなくって……猫の匂いじゃなくて、獣臭いの」
 姉は顔を真っ赤にして、キッチンへ回る。雫恋は姉の隣、母の斜めの椅子に腰を掛ける。
「こっわ」
「雫恋ちゃん。あなたも。ケダモノと同じにはならないで。ねぇ、可愛くて若い子、いっぱいお友達にいるでしょう? それともお母さんの劇団の後輩の子たちを紹介しましょうか? 雫恋ちゃん、聞いてるの?」
 雫恋は聞いていなかった。中途半端に立ち上がり、首を伸ばしてキッチンの姉を眺めた。脱いでいないし下半身を曝してもいなかったが、それはまさに視姦。好奇心と淫情によって姉を眼球で犯していた。彼女は視線で舐め尽くされ、咥えしゃぶられていることにも気付かず、下を向いて湯を沸かしている。出す菓子もない。
「ババアの話なんか聞きたくねーよ。ちょっと菓子買ってくるわ。姉貴、マッマをよろしくな」
 姉の怯えた目が見開かれる。
「………はい」
 嫌なのだろう。だが頷くことしかできないのだ。姉はそういう人間だった。縋ればいい。だが弟に頼るのは嫌らしい。
「じゃあ、姉貴。マッマの言うことしっかり聞いて、ちゃんと反省するんだよ? 姉貴はイケナイ親不孝者だからね」
 乾いた吐息が聞こえた。
「じゃあマッマ、姉貴とナカヨクね。俺いじめるのやめてって、怒っといて」
 出掛けようとしたとき、母から呼び止められた。サイドチェストの上にある物を手にしたときだった。
「タバコはダメよ、雫恋。タバコを吸うなんて人間のクズなんだから。百害あって一利なし」
「うるせぇババア。一利が欲しいなら自殺しろ」
「加霞ちゃんは何も言わないの? 弟がタバコ吸ってるのに」
 矛先が継娘に向かったことに、雫恋は面白くなってしまった。
「前言撤回するよ、ママ。長生きしてくれ。それで俺を肺癌にしてさっさと殺したい姉貴のこと、ご指導ご鞭撻してくれ。きっと嵐恋にも塩分油分増し増しで飯作ってんだろうさ。怖いな~」
 姉は真っ青な顔して「ひっ」と華奢な身体をさらに細くして縮んだ。
「お姉ちゃんなのよ、しっかりして」
「は……はい………」
「姉貴と引き離してから嵐恋、痩せたもんな。マッマも見たでしょ?」
 母が継娘を睨んでいるうちに彼はタバコをしまった。
「霙恋もおかしくなったし、霙恋にも何かしたの?」
 雫恋は後姿で母の甲高い大喝を聞いた。そして玄関へ向かう。
 外を出て数歩、タバコを咥えて火を点けた直後、電話がかかってくる。メッセージアプリを経由した着信である。
「ンだよ」
 相手は巴月(はるな)だった。
『ねえ、ねえ、締めのワンフレーズが思い浮かばないよぉ』
 おそらく作詞のことについてだろう。
「まだやってたのか」
『推しの歌じゃなくって!聞いてない?もう1曲担当することになったの。どうしよ、おリ、作詞の才能あるのかな?』
 とんだ思い上がりである。ほとんどの案は雫恋とマネージャーが出した。作詞は「宮崎巴月」でクレジットされるのだろうが実際は合作だ。
「自慢話なら切るけど」
『あのさ~、狂愛みたいなやつ書いてて。でも明るい曲調ね! 好きすぎて殺したい!みたいなやつ』
 雫恋は首を傾げた。好きすぎて死ぬ騒ぎを起こし、入院中のところから最終警告を受けている者なら知っている。
「そもそもそれを俺に訊いてんのが間違いで。好きすぎて殺すってのがよく分からねンだわ。死んだ後、どうすんの? 何を糧に生きていけばいいんだ? そこが分からず殺っちまうなら頭悪いから、恋愛やってねぇで病院行け」
『雫恋ちゃん夢ないね』
「うるせぇ」
『霏室(ひむろ)雷夢(らいん)のデビュー曲のB面になるんだって』
「はあ?なんでそれをお前が作詞すんの」
 事務所は同じだが、プロデューサーもマネージャーも違う。霏室雷夢はソロでデビューする話であったし、アイドルグループとしても関わるつもりはないはずだ。
『霏室雷夢って雫恋ちゃんの弟じゃん。で、おリと雫恋ちゃんってホモ売りしてたじゃん。なんだっけ、Bなんとかってやつ。だからおリが歌詞書くの、エモいんじゃない?』
 確かに、雫蓮と巴(ともえ)陽(ひなた)は擬似同性愛的な組み合わせで売っていた。
「は?キモ……」
『そういうのがウケるんでしょ。しょーがないよ』
 白煙が嘔吐のように吹き出された。
「"あの子が死んだしオレも死ぬ"みたいな感じでいいだろ。最近の若い奴等なんて死にたがって自殺しときゃエモいだのチルいだの言ってんだから」
『ん~、やっぱ書き直そうかな?』
「"君が死んで退屈~"みたいな感じで締めとけ。君、君、Give me ,Give me言っておけばラブソングなっちまうんだから、くだらねぇ」
 コンビニエンスストアが見えてくる。指を広げると、短くなったタバコが重力に従った。側溝に転がり、爪先で手掛け穴へ落とす。彼の足元で生き物が死んでいくのだろう。
『う~ん。あ、そうだ。ラブソングといえばさ、マネさんの好きな人わかったんだけど知りたくない?』
「知りたくない。未早紀(みさき)に教えてやれ。じゃあな」
 通話を切った。姉の好きな菓子は知っている。紫色のパッケージの、すぐ砕けて散らかる葉巻みたいなクッキーだ。

7

 マンションに帰ると、母は帰っていたのが靴で分かった。だがちょうどいいと思った。姉の好きな砕けやすく散らかりやすい、腹にも溜まらないシナモンスティックみたいな菓子と、割れると凶器みたいなジャガイモ棒、値上げで急に2回り小さくなった湿気を含んだクッキーみたいなのしか買っていない。それらは姉が好んで食っていたもので、母の好きなものは忘れていた。年のいった女などは羊羹と煎餅を煎茶を啜りながら食えばいいのだ。だが栗羊羹は高いためにブラウニーを買ってきたが雫恋は手前で食いたくなってきていた。
「ただいま、姉貴。ババア帰ったの?」
 リビングに入ると、カップが転がり、色の付いた水溜りがそこにあった。彼は嫌味たらしく天井を睨めつける。
「嫌だなぁ、ここ新築なんだけど。雨漏りしてんの?」
 それが雨漏りでないことは見れば分かるのだった。姉は雨漏りを前にして膝をつき、俯いて、手を押さえていた。
「姉貴、お漏らししたの?」
 だとすれば、色味からいってあまり健康的な様子とはいえない。しかしそれはやはり失禁の跡でもなかった。
 雫恋は指で液面を掬って舐めた。
「姉貴のお漏らし甘ッ。病院行ったら?」
 姉は脳天ばかり見せていた。外の道を車が通り過ぎ、風を切る走行音の後に歔欷(きょき)の風味を残す。
「何泣いてんの?怒られて泣いてんだ? 泣くなんて反省が足らないよ。姉貴、ほら、お菓子買ってきたよ」
 テーブルにビニール袋を置いた。姉はまた膝をついて啜り泣いている。押さえている手の赤みに気付く。一旦座った雫恋は大袈裟に立ち上がって、姉の手を奪い取った。
「火傷したの、姉貴。冷やさなきゃダメじゃん。火傷の痕にして被害者ぶって、マッマ相手に優位性(アドバン)とろうと思った? 女は被害者ぶるの大好きだからな。それで優位に立てると思っちゃうんだから」
 彼女を引っ張り水道へ連れていく。水が赤みを帯びた手を打つ。
「それとも俺にこうされたかったの? いっつもあのバター犬にやってたから、たまには過保護にされたかったんだ? 可愛いね。そんな俺に可愛がって欲しかったなら言えばいいのに。めそめそ泣いてないでさ。俺、そんな信用ないの? 一日中不眠不休でお姉ちゃんのおまんこ舐めてあげてたじゃない。お姉ちゃんを可愛がるなんてことは、朝飯前なんだよ。朝便所前なの。朝シコり前なの」
 雫恋は水を垂らす手を拭きもせずに引っ張っていって、顔を拭くための柔らかなタオルで水滴を拭った。もう美容に気を遣う必要はないのだから、このタオルを手を拭き、身体を拭くものになっても構わない。
 火傷した手に保湿クリームを塗りつけ、包帯を巻く。姉はされるがまま雫恋に手を預け、もう片方の手で涙を拭う。母が興奮の赴くままに姉を叱り飛ばし、責め咎め、怒鳴り散らす場面を見れなかったのは惜しかった。
「なんでマッマと仲良くできないの」
「ごめんなさい……」
「俺は姉貴のパッパと上手くやってるのにズルくない? 俺たちには合わせさせるクセに、自分は我を通そうとするなんて」
「……お継母さんはわたしのこと、好きじゃないみたいで…………」
 雫恋は一瞬きょとんとした。そしてすぐにいやらしい笑みを浮かべた。姉が素直にその事情を打ち明けるとは思わなかった。かなり参っている。
「ははは、出たよ。女特有の被害者ぶりっこ。それはお姉ちゃんがワルイコだからだよ」
 治まった氾濫がまた起こる。手よりも赤みの差した目元から一滴、二滴、落ちた。
「ごめんなさい」
 もう踏み込んでくるな、とばかりの音吐(おんと)であった。
「マッマ、悪者にされて可哀想」
 雫恋はモスキート音を聞いた気がした。だがそれはそう曖昧なものではなかった。段々と明確になっていく。彼女は声を上げて泣きはじめた。子供みたいに号泣する。
「泣きたいのはあのババアなんじゃない?」
 手を拭いたそこそこ値の張るタオルを、雨漏り、或いは姉の失禁跡に放り投げる。そして雑に拭いた。フローリングには小魚の鱗みたいに水粒が残ったが、すぎに乾くだろう。カップも拾い上げ、テーブルに置く。雫恋は買い物袋を漁った。ブラウニーを取り出す。泣いて咽ぶ姉を肴に、彼は甘苦いケーキを齧った。濃厚なチョコレートの味が広がる。泣いている姉を眺めながら食うと美味しさが増したようだ。
 口をもぐもぐしながら彼はまたすっくと立ち上がって姉の傍に寄ってきた。嗚咽する口を塞いだ。甘過ぎないチョコレートの味に塩気が混ざる。咀嚼して形を失ったケーキが、姉の口腔に詰め込まれた。だが彼女はそれを飲み込めただろうか。飲み込めなかった。ブラウンの液体とも個体とも判断のつかないものが、服を汚し、床へ落ちる。
「あ~あ、俺の服、汚れちゃった。落ちるかな?」
 しかしブランドから送られてきたもので、大した愛着はなかった。自ら吐き出したというのに、姉は戸惑っていた。雫恋は一口、またブラウニーを齧ると今度は咀嚼もせずに彼女の口に押し入れる。静かに涙を溢しながら、彼女はそれを受け入れた。それが、つらく当たった八神家への償いだと改め直したのだろうか。
 黒に近い茶色の塊はろくに彼の腹へは入らなかった。ほとんど、姉の腹に入っていった。彼の口を経由して。
「可愛いよ、姉貴。可愛い」
 姉は勘違いしているのだ。姉の好きな男に対するアプローチも間違っている。人は尽くされるより、己が尽くした人間を好くものなのだ。だというのに姉は尽くそうとする。だから愛されないのだ。雫恋は親鳥になって実感した。雛鳥の姉がいっそう可愛らしく見える。
「壊れちゃいなよ、姉貴。壊れろよ」
 嫌がる彼女を力任せに両腕の中で閉じ込める。




 雫恋(かれん)はすっかり落ち込んでしまった姉のために袋麺を茹でてやった。自身が食うためならば鍋から直接箸をつけていたが、彼は姉のために丼ぶりにあけた。身を固くして座っていた姉はぼんやりとそれを見詰めて、割り箸を割ろうともしない。泣き腫らした目が、また涙に潤むのである。
「何、姉貴。好き嫌いすんの? この国でラーメン嫌いとか人権ないんだけど」
 聞いているのかいないのか、姉は透過性のある褐色の汁を凝然と見下ろしていた。
「俺が作った飯は食えないって? クソババアの食ったもので育って、クソババアの魚臭いまんこからひり出されたオスガキの茹でたラーメンなんか? ちんぽ扱いて手マンした手で作ったものなんか?」
 だが姉は聞いていないようだった。茫として、その虚ろな目は現在の時間軸にはいない。
 雫恋は丼ぶりに架けられた割り箸を奪い取り、八つ当たりのごとく力任せに引き裂いた。乾いた音をたてて割れる。あまり綺麗な割れ方ではなかった。
「食えよ」
 膝の上で組まれ、戦慄いている手を捥(も)ぐ。そして箸を握らせた。 
「あの煮干し臭い猫、チャーシューにしてやろうか?」
「ごめんなさい……」
 姉の首も顎も錆びついたブリキだった。ぎこちなく雫恋を見遣った。頬は窶れ、肌は毳(けば)立ち、唇は罅割れている。
「いただきます……」
 雫恋は姉の食事風景を眺めていた。箸は鈍い。食欲がないのか、将又(はたまた)、好き嫌いがあるのか。しかし彼には、袋麺であろうともラーメンを嫌う国民がいることが信じられなかった。アレルギーもなかったはずだ。だが考えてみると、姉の好きな菓子は知っているが、それ以外はあまり知らない。乳頭を刺激しながらの後背位か、容赦のない騎乗位が好きなことくらいしか。

 雫恋は兄のいる病室を訪れた。取れたはずの頭部の包帯が増えている。なかったはずの三角巾が左腕を吊るしていた。
「だっさ」
「姉さんはどこにいる?」
「空中庭園」
 話は終わったとばかりに兄はベッドから降りようとした。
「姉貴ってラーメン嫌いだって知ってた?」
 しかし本当に嫌いなのかは定かではなかった。
「マウントか? 知っているに決まっているだろう。逆に訊きたい。今知ったのか。お前に姉さんは相応しくない」
「ラーメン嫌いって非国民じゃん。アレルギーあったっけ?」
「俺と姉さんは国際恋愛というわけだな。お前はこの小さい島国に閉じこもって、炭水化物と脂をたらふく啜っていればいい。俺は姉さんとのグローバルコミュニケーションで忙しい」
 便所サンダルを履くのも大変なようであった。
「毎食ラーメンにしてやろうかな」
「姉さんがカップ麺を食べようとしたときに、母さんが用事を言い付けたんだ。嵐恋(あれん)のことで。それ自体はすぐに済んだが、母さんがその後にあれが気に入らないこれが気に入らないと長々と説教していた。冷えて伸び切ったカップ麺を食べていた。あの姉さんのいじらしさ健気さ……ああ、姉さん……姉さんの使った割り箸に、醤油の味が沁み込んでいた…………姉さん…………俺はあの味が忘れられない! 姉さんの味が! 俺もラーメンが嫌いだよ。特に醤油がな。姉さんの味がしないじゃないか!」
「姉貴の涎、そんな強烈な味じゃないだろ。それはお前のこだわりじゃね。フツーに味変わらんけど」
 それは実際に雫恋も試したことである。姉の使った割り箸をそのまま使った。しかし兄の言い分は理解できない。
「バカ舌なほうが幸せだぞ」
 兄は跛行(はこう)しながら病室を出ていった。雫恋も追い抜いていった。付き添う義理はなかった。彼にとっては。
 屋上庭園は屋上といっても最上階ではなかった。南向きに作られ、街が見渡せる。車椅子の患者や松葉杖の患者が目立つ。花壇の縁に設けられた座面に姉は座っていた。見舞いにきたはずの彼女も、患者のひとりのようだった。けれどもこの屋上庭園にいるどの患者よりも活気がなかった。風に吹かれて舞い込んだ枯葉のようだった。或いは亡霊のようだった。とはいえども病によって没した魂とはまた異質の亡者に思えた。
 萎びた髪が風に靡いている。
「姉貴。中、入ろう。風邪ひくぜ」
 一拍二拍ほど遅れて姉は雫恋を捉えた。そして捉えた後もまた一拍二拍ほどの間があった。
「お見舞いは……」
 兄の見舞いだと言うと彼女は泣きはじめる。継母もいると信じているのだろう。今日は友人の見舞いだと言った。
「もう済んだ」
 また一拍二拍、反応が遅れる。
「チョコでも食えよ」
 雫恋はキャンディチョコレートのフィルムを剥いて、彼女の罅割れた唇の狭間へ捩じ込んだ。弾力はあるが、ざらりとしている。ささくれた薄皮が指の肌理(きめ)に引っ掛かる。
 ゆっくりと姉の顎が動いた。彼は構わず、小さく波打つ砂漠にリップクリームを突き立てる。
「姉貴は俺のお姫様だからね」
 甘い匂いがする。壊れかけてきた姉がまた違った側面を持って愛しい。
「晩飯、何食おう?」
 姉の唇にクリームを塗ると、雫恋はそのまま自身の唇にもリップクリームを引いた。
「……」
 姉にはラーメンしか食わせていなかった。兄には、あたかもこれからするのであって、まだしていないかのように言っていたが、すでに毎食同じものであった。袋麺、カップ麺、フードデリバリー、生麺、等々。炭水化物と脂に添物の野菜やタンパク質がある程度だが、姉は痩せていく。
「わたしが作ります……」
「どうしたの姉貴。急に」
「オムライスでよければ……」
「ダメだよ、姉貴。好き嫌いは治さないと。俺が姉貴のラーメン嫌いを治してあげる。好き嫌いあるなんて大人として恥ずかしくないの?」
 彼女だけ別の時間が流れているらしい。ぼうっと聞いている。
「ごめんなさい……」
「いいよ。赦してあげる」
 遅れて兄もやって来た。姉のほうが、防衛本能というのか危機意識というのか、見つけるのが早かった。そして弟を盾にした。彼女はその背へ隠れた。
 雫恋も姉のその行動で、兄が来ていることを思い出した。
「姉貴、酷いよなぁ。あの薄鈍とだったら、絶対自分が隠れたりしなかったんだろ?」
 言っていて腹が立った。その辺をうろつくよく知らない野郎どもを盾にするのなら是非そうして身を守ってもらいたい。しかしいざ自身を盾にされると、それ自体について反感はないが、比較対象のことがちらついた。末弟のことも盾にすべきである。だが姉はそうしないのだろう。
「ムカつく」
「姉さん、こんにちは」
 兄は片足を引き摺りながら、雫恋を隔てて姉と対峙する。弟のことなど見えていないようだ。
「母さんはいない。安心してくれ」
 雫恋は真後ろの姉が、はっと息を呑むのが聞こえた。
「は[~?俺のマッマがいたら隠れるつもりだったのかよ。サイテー」
 はっ、はっ、と姉は短く浅い呼吸を繰り返した。
「よせ、雫恋。可哀想に……怖い思いをしたんだな」
 兄は姉の隣に腰を下ろした。そして雫恋の背中にしがみつく身体を抱き寄せた。
「奪るなよ」
「随分痩せてしまった。ろくに食べさせてもらってないんじゃないか」
「毎食食わせてるけど? フツーにデブるはず」
「歯を見せてくれ、姉さん」
 彼女は首を振った。兄は歯に性的興奮を覚える性質であったか。
「歯科医希望だっけ?」
「手は?」
 兄は答えず、骨の浮かんだ彼女の手を眺めた。手の甲に何か探している。
「吐いているわけではない?」
 姉は首肯する。
「デブれよ、姉貴。俺、ガリガリよりはデブのほうが好きだし」
「俺はそのままの姉さんが好きだが、こう痩せてしまうと心配にもなる。雫恋の管理が悪い。姉さんは悪くない」
「俺をダシに好感度上げにきたわけ?」
 兄は姉の額や頬に唇を落とした。病院の敷地内でやることとして相応しくない。
「姉さんとセックスしたかったが、この様子ではやめておいたほうがいいな。またの機会にしよう。姉さんと入院セックスしたかった……姉さん!」
 怪我人だというのに、右腕がより強く姉に巻きつく。
「入院長引かせたのお前じゃん。自業自得だよ。次やったら病院出禁だろ?」
「病室に来てくれ……姉さんでヌきたい」
「どうする? 姉貴が決めていいよ」
 姉は昏い眼で雫恋を見詰め、やはり聞いているのかいないのか表面上では分からなかった。
「姉さん……」
 風に乱された髪を、手櫛が梳(す)いていく。
 姉の手が、彼女にとっての長弟に縋りついた。それが答えであった。



 姉をソファーに座らせ、兄は彼女を眺めながら自涜に耽る。小さな衣擦れの音を雫恋も聞いていた。ほぼ同じ顔をした兄のその姿はすでに見慣れている。初めて見たときから義姉を肴にしていることについて何の疑問も抱かなかった。むしろそれを当然のことだと思った。葛藤も躊躇もなかった。しかし違うのは、兄は姉のその何気ない姿だけで事を為せる点だった。姉はただ座っているだけだった。雫恋の貸した大きなフード付きスウェットにインヂゴの寸胴なデニムパンツの姿で、露出は首から上と、長い袖から覗く第二関節から先の指くらいなものだった。それを兄は当たり前に淫らなものとして陰茎を扱く。
「姉さん……! かわいい……! エッチだ……」
 痛いほど張り詰め、脈を浮かせた剛のものが磨かれていく。
「姉さん……!」
 姉はきゅっと身を縮め、目を泳がせた。寄せられた眉根に色気が籠もる。雫恋は納得した。しかし気に入らない。
「おっぱい見せてやれよ」
 鼻を鳴らした。姉は従順だった。袖からわずかに出た指先で裾を捲り上げる。痩せても肉感のある腹が曝され、次にはふたつの膨らみが露わになる。キャミソールもブラジャーもなかった。絆創膏を貼って突起を誤魔化した撓(たわ)わな乳房のすべてが明らかになる。
「……う、」
 兄は露骨なのも好きだったらしい。黄味を帯びた白濁液が噴き出した。激しく摩られていたものが忙しなく収縮している。
「姉貴、そんなにラーメン食うの嫌なら、霙恋(えれん)のザーメン食えよ」
 ソファーに座っていた姉はふらふらと立ち上がって、彼女にとっての長弟の手を取った。射精に活力を費やしてしまった彼は大きく胸を浮沈させ、彼女を目で追った。
 姉は兄の手に纏わりつく粘液におずおずと舌を伸ばした。
「……姉さん」
 平生(へいぜい)は冷静沈着に構え、無愛想に対応する兄も、この姉の姿には、その氷の美貌を瀞(とろ)つかせる。
「姉さん、愛してる」
 オスたるもの、交尾の後こそ無防備にはしていられないはずなのだ。番(つが)ったメスに睦言(むつごと)を吐き、改めて愛撫を施し抱擁している間はない。注いだ種を母体ごと守らねばならないはずなのだ。それがまだ野生を捨てきれず、理性を持つには歴史の浅い男性の生存戦略のはずなのだ。しかし兄の情けなさ、生き延びる気力のなさは何なのだ。
 姉は色濃い白濁を舐め取ると、今度は散々磨り上げられた肉茎に口元を寄せた。
「ああ……姉さん」
 兄は小さく身を波打たせた。出した粘液を舐め拭うだけのはずだった。けれども萎れていくはずの若い太幹はふたたび天を衝く。新たに屈強な蔓を巻き、活気に震える。
「おやつの時間だからさ、よかったね?」
 何度も指導すれば、姉の口淫の技術も日に日に上がってくる。
「姉さん……待ってくれ。今、手を拭くから……」
 姉の動きが止まる。徐ろに彼女は頭を上げた。唇が糸を紡いでしまっている。
 彼はベッドサイドからアルコールティッシュを取った。そして吊るされた左手も利用して手を拭いた。
「姉さん」
 アルバイトの接客業でもやらない甘たるい声音を溢し、彼は姉の髪を撫でた。長い指が毛並みを分けていく。
「姉さん……かわいい」
 声は掠れきっていた。
 雫恋は姉と兄の淫行を観察していた。ちゅぼ、ちゅぼ、と音がする。彼が姉に舐めさせるときよりもまろく聞こえた。そして学ぶのだ。兄が甘い言葉をかけると、姉は抽送を速める。
「ふ……んっんっ」
「気持ちいいよ、姉さん」
 耳の裏を撫でられ、頬に掌を添えられるのが余程心地良いとみえる。よく懐いた猫のように姉は兄の手のほうへ頭を傾ける。
「雫恋ではなく、俺のところへ来るか?」
 ちゅぽ、と吸っていた李(すもも)を彼女は口から出した。自身の義理の長弟を見上げ、何の躊躇いもなく頷いた。
「は? 姉貴、何?」
 まるで次弟を忘れたかのような華麗な流れであった。
「ごめ……なさ、」
「無責任に甘やかしてくれる霙恋がよくなっちゃったんだ? サイッテー。もう姉貴のコトなんか知~らね。帰ってくんなよ。そいつ入院中だから、姉貴帰れないし、おうち入れないね。外で寝泊りしろよ。そんな野良オンナ、俺もマッマも知らないかんね」
 姉の目が見開かれる。涙が滲み、よく光っていた。
「ごめんなさい、ゴメンナサイ、ユルシテ……」
「雫恋。意地悪するな。姉さん、気にしなくていい。俺が養う」
 兄はベッドサイドチェストからポーチを取り出した。
「通帳と印鑑だ。姉さんが好きに使っていい。姉さんのために貯めたんだ。姉さんのために俺ももっと稼ぐから……ああ、姉さん!」
 彼は恍惚に身震いした。一体何に対して改めて劣情を催したのか、常人には皆目見当もつかない。
「俺の口座を姉さんに漁ってほしい! 姉さんのために働いたんだ。姉さんのためじゃないのに、どうして働かなきゃいけない? 姉さんのための労働は気持ちがいい! 姉さんのために納税しているのに、姉さんの居場所がないだと? 俺は姉さんのATMだから、ぽちぽちしてくれ」
「金には困らせねぇって」
「それでも姉さんに受け取ってほしい。結婚しよう。嵐恋も呼んで、3人で暮らそう」
 姉は、油の切れたぜんまい仕掛けの人形みたいに、彼女にとっての長弟の顔を見上げた。ぼうっと凝らし、静かに涙を溢す。
「あーくん……」
 蚊の鳴くような音吐であった。
「泣かないでくれ、姉さん」
「やめてやれよ。まだ姉ちゃんに世話係押し付ける気か」
「そろそろ自立するんじゃないか」
「姉ちゃんがいたらぐずぐずの甘えたになるんだよ。あいつはそういうやつだよ」
 姉は顔を覆って啜り泣く。
「俺がそんなことさせない」
「"俺"がさせなくても、姉貴はやるさ。それが習慣(アイデンティティ)なんだから」
「愛しい……愛しいな、姉さん。俺と暮らそう? 嵐恋なんて要らない。姉さんの重荷になるのなら、俺があいつを世話(アイ)してやる義理なんてない。二人で暮らそう。そこのモラハラと畜生腹と種付け男のことなんか忘れて、どこか遠いところで……」
 雫恋は冷淡な眼差しを姉に向ける。そして後ろから前髪を鷲掴んだ。
「姉貴、さっき霙恋のこと選んだの、俺まだ赦してないよ?」
「やめろ、雫恋! 姉さんから手を離せ!」
 痛めつけるつもりはなかった。ただ威しが必要であった。そのためだけの行動で、姉を殴打に属するような暴力によって服従させる気はない。姉が屈伏するときは、甘美な悲鳴が伴わなければ気に入らない。膂力による暴行ならば、男なら誰でもできる。凡百の有象無象の雑兵だ。
「ゴメンナサイユルシテ……」
 雫恋は兄の要求に応えるのは癪であったが姉を放した。
「ほら、姉貴。晩ごはん、ラーメンになるの嫌なんでしょ? 霙恋におやつのザーメン飲まさせてもらいなよ」
 姉はやはり従順に口淫を再開した。彼女の服を剥いていく。

8


 激しい痙攣をして倒れ込む姉を薄ら笑い、雫恋(かれん)はティッシュを取ってそこに射精する。言われるがままの傀儡(くぐつ)と化した姉は、花弁の脇の窄まりまで許すようになっていた。そうなると雫恋は好んでそこを弄ぶ。姉も姉ですぐに染まった。
「姉さんを壊すなよ」
「賢者タイム?」
 3発も姉に粘液を飲ませておきながら、あたかも常識を持ち合わせたかのような口振りの兄を嘲る。
「それは持っていけ。くれぐれも、姉さんに貧しい思いはさせるなよ」
「させるかよ、だらしのねぇ」
 姉は蕾でも快感を拾えるようではあるが、まだ絶頂には至らない。雫恋は手慰みに淫核に触れた。女壺の手淫で果てたばかりの姉は、また子猫よろしくきゃんきゃん鳴き喚いた。
「4箇所 絶頂(リレー)しようか、姉貴」
 兄の枕が貸されていた。そこに押し付けた顔が横に揺れる。
「俺の匂い、するか? 姉さん」
 雫恋は兄を一瞥した。蕩けた顔で姉を眺めている。ただの善意で兄が動くはずはなかった。そこにはしっかりと下心がある。
「は? じゃあ姉貴、霙恋(えれん)の匂いで4箇所全部イくの決定だから。よかったな、霙恋の匂いオカズにできて。霙恋でイけよ」
 乳搾りのように小さなクリトリスを摘んで下方向へ引っ張った。
「あ、あんっ」
「姉さんをいじめるな」
「喜べよ、霙恋。お前の匂いでイってやるってさ。時間もったいねえから乳首捏ねてやって」
「だ、め…………も、だめ、」
 泣きそうな声を出して姉は首を振る。髪が頬や口元に張り付いている。彼女にとっての長弟が、毛束をひとつひとつ戻し、頬だの顎だのを撫で摩った。
「姉さん、可愛いな。肌もすべすべだ」
 長い指が彼女の唇を捲る。
「ふ、あ、あ、あ、」
 雫恋は姉と兄の薄ら寒い光景を鼻で嗤って、淫らな芽を扱く。




 動画の虜、インターネットの廃人と化した姉は横たわり、動かなくなった。家事もしなくなった。鳥のような脚を放り出し、ぼう、と関心すら持たず映像を凝らしている。
 雫恋は静かに近付いて、画面を覗き込んだ。最初のとおり動物園の生放送ならばまだよかった。だが違った。水族館の定点カメラでもない。霏室(ひむろ)雷夢(らいん)を密着取材した映像である。
「変なもの観るなよ」
「あ……」
 後ろから前から端末を取り上げる。動画サイトの検索欄に「ペンギンショー」 と打ち込んで、出てきた動画を見せた。
「アイドルなんてよせよ。姉貴には俺がいるじゃん。浮気すんなって」
「…………ゴメンナサイ」
 猫の世話もしなくなってしまった。自分自身の世話もしなくなってしまった。雫恋は餌皿にキャットフードを開けた。軽快な音を聞いて、地面に叩きつけられるはずだった毛尨(けむく)の生き物が駆けつける。
「あのウスノロと違って可愛いな、お前は。あいつ今、何してるんだろうな。転校先の高校でいじめられてるんだろうな」
 姉はもう弟のこともどうでも良くなったらしい。張り合いが失くなった。彼女は魂も肉体も明け渡すことにしたのだ。それが最も体力を温存することに気付いたのだろう。いずれにしても手籠めにされ、手酷く犯され、嘲笑われるのだ。意地を張るだけ無駄であり、プライドなど守るだけ疲れるのだ。そのことを理解したのだ。けれどもそれではつまらないことに雫恋もまた気付いた。
 インターホンが鳴る。
「あ、ママだ」
 デバイスを供えられた地蔵のようだった姉が身動(みじろ)ぐ
「姉貴も出なよ。母ちゃんだよ。しらばっくれる気だった? いくらなんでも失礼じゃない?」
 姉は首を振った。何度も首を振った。まだ何も言っていないというのに、何か言われたかのように首を振る。
「姉貴。ほら。サイテー」
 口の端が吊り上がる。カメラの前で見せたこともない表情であった。外観こそ美麗だが、どこか醜悪な色が滲んでいる。
 姉の骨張った肩を掴んで揺らす。
「赦して……赦して……」
 彼女は痩せ細った首を圧(へ)し折るほど首を振り続け、やがて啜り泣きはじめた。振り乱した髪が顔に張り付く。
 ぺち、と音がする。雫恋の掌と、姉の頬がぶつかる音だった。彼は振り切らなかった。音の割に痛みは弱いはずである。
「霙恋にたっくさん甘やかされたもんね、姉貴。霙恋のトコに逃げればマッマにはもう会わなくていいと思ったんだ? 酷(ひっど)い女。家族なのに! 霙恋のちんぽしゃぶって、姉貴まんこで食って
もぐもぐしてやれば助けてもらえると思っちゃったんだ? おめでた~い。かわいいね、姉貴。俺から逃げたいって思っちゃったの? 俺から逃げられるなら霙恋のオナホになるほうがいいって思っちゃったんだ? 売女だよ、売女。姉貴。そんなのは、売女だよ。姉貴? いつからそんな女になっちゃったの。姉貴、俺から逃げようとしちゃダメ。ほら、マッマに挨拶しよ。姉貴は俺と結婚するんだよ。ここで一緒に暮らすんだよ、一生。嘘だったら小指食い千切っていいよ! ちんぽを切り取って剥製にしてディルドにしたっていいんだから。だってもう俺のカタチになってるでしょ、姉貴のおまんこは。あの高校教師の短小粗ちんぽでも蜂須賀(はちすか)の早漏ドリチンでも、姉貴はもう満足しないでしょ? 姉貴? ほら、ババアに会わなきゃ。ごほうびにアナルファックしてあげるからさ。姉貴、おまんこよりハマっちゃったでしょ? いっぱいケツアクメしよ?」
 引っ張ると、姉はベッドに爪を立てていた。
「姉貴?」
「お継母さんに会いたくない……」
「うっわ、サイテー。録音しちゃった」
 嘘である。しかし雫恋は冗談だと仄めかすこともなく、本当に録音したかのように見せかけた。
「あ………あああ…………!」
 彼女は唸ると、乾燥しきって傷んだ髪を掻き毟った。軋みが見える。噛みすぎて血の滲んだ爪が百舌鳥(もず)の巣を作る。肉体はまだかろうじて健康な状態であったかもしれないが、以前の彼女を知っている者ならば精神に於いては到底健康な状態であるとは言い難いだろう。
「マッマに聞かせてあげよ」
 インターホンがまた鳴った。
「言い訳考えておきなよ。まったく短気なババアだな」
「赦して…………赦して……………」
「ど~しよっかな~]」
 姉は泣き腫らした顔で雫恋を引き止めた。ポリエステルのボトムスのファスナーを下ろしにかかる。
「ババアが来るんだから、フェラはいいよ。キスして、姉貴」
 寄り掛かって背伸びする四つ足歩行の動物みたいに、姉は彼の服を握って顔を近付けようとする。
「かわいいね、姉貴。もっと早くこうすればよかったんだ」
 ざらついた唇が、彼の瑞々しい唇に触れた。水分を持っていくようである。逆剥けが鑢(やすり)を思わせた。
「じゃあ寝てなよ。でも姉貴がいないんじゃ、うっかり言っちゃうかもね。でも仕方ないよな。姉貴いないんだもん。うっかり、気が抜けて、さっき姉貴が言ったこと言っちゃうかもな~。俺は守秘義務以外は守れないかんな。めちゃくちゃ口軽いし」
「ゆ、赦して……雫恋ちゃん、赦して……言わないで、言わないで………」
 しがみつく姉を抱き竦める。
「俺だって言いたくないよ? 俺だって言いたくないけど、この口はどうしちゃうか分からない。姉貴が傍にいてくれたらなぁ? 俺はずっとお姉ちゃんのことで頭がいっぱいになって、ババアのことなんて忘れちゃうのになぁ?」
 痩せ細った躯体は腕で2周はできそうなのである。
 インターホンがまた鳴った。
「好きにしてたら、姉貴」
 姉を突き放した。来訪者に急いたわけではない。彼女のことなど何でもない、とばかりに軽く突き放し、今の頼み事などまったく些事ですぐに忘れるとばかりであった。姉は飄々と部屋を出ていった雫恋を追う。淑やかだった足取りはもうない。力任せな足音に、下の階を慮る余裕はなかった。
 これ以上の幸せはない!
 上機嫌で母を迎える。玄関扉を開けた。 「遅いじゃない。いつまで待たせるの」
 雫恋はむくれ面の母に含みのある微笑を見せた。母は玄関口を塞ぐ息子を中へ押しやり、勝手に家へ上がった。
「加霞(かすみ)ちゃん! 何してるの?」
 ヒステリックな声が谺(こだま)する。雫恋も遅れてリビングへ。母は姉と鉢合わせたようだった。
「はっはっは。お手柔らかに頼むよ、母ちゃん。姉弟(きょうだい)仲が良くて、よかったろ? おまけにカラダの相性もいいんだぜ。マッマ。ひとつ礼を言うとしたら、霙恋も言ってたけど、姉貴と逢わせてくれてありがとう、だよ。このカスでゴミクズみたいな世界に生み堕としやがったことも、それでチャラにしてあげる」
「気持ちの悪い! 気持ちの悪い! 気持ちの悪い! 育ててあげたって言うのに、その口の利き方は何? 加霞ちゃんも、あなたがそんな女だったって知ってたら、あの人と一緒になんてならなかったのに!」
「嘘だね、マッマ。俺たちが娘(おんな)で、パッパが継娘(おれ)たちに発情(コーフン)する変態ロリコン野郎だったとしても、きっと見ないふりして結婚したさ。嘘はやめろよ。そういうアバズレでしょうが、マッマは?」
「母さんにそんなことを言うのはよして」
 雫恋は鼻を鳴らした。
「白々しい!」
 しかし母が叱りつけたのは姉のことであった。
「……ごめんなさい」
「俺の女傷付けるのやめてくんない?」
「雫恋。加霞ちゃんはお姉ちゃんなの。分かる? お姉ちゃん。そういうことをしていい相手じゃないの」
「知ってる、知ってる。でも姉貴は、マッマのまんこ通ってきてないよ。マッマのまんこも、日下部(くさかべ)のちんぽも通ってきてないのに、どうして俺の女にしちゃいけないんだ?」
 母は彼女にとっての継子を睨んだ。
「アバズレっていうのは、加霞ちゃんみたいな子のことを言うの。おとなしい顔をして恐ろしい子! 弟と関係しているだなんて……」
「うん。嵐恋(あれん)の高校の先生ともセックスしてたみたいだし、ハニービーエイトの社長ムスッコともパコパコよろしくやってたみたいだしさ。アバズレは否定できないよねぇ。俺の後輩分も家に招き入れてたし。姉貴のおまんこは自動ドアで、何でもウェルカムなんだよ。でもそれはすごいことじゃね? 差別主義者じゃないってことなんだよ」
「やめて……やめて……」
 母は継子のあまりの無軌道ぶりにとうとう冷静になったらしかった。綺麗に細く描かれた眉が顰められる。
「何か病気をもらってるんじゃない……?」
「あっちでパコパコ、こっちでパコパコしてる母ちゃんには言われたくないな。日下部(パッパ)の前にも男いたでしょ。ちゃんとゴムしてる?」
「雫恋ちゃん! やめて……」
「人の息子に馴れ馴れしい!」
 雫恋は両手を後頭部に押し当て、脚を左右に振り、暇げであった。唇を尖らせる。
「姉弟(きょうだい)って言ったり馴れ馴れしいって言ったりなんなんだよ。俺はババアのまんカスまみれになって生まれてきたのにもうそれを忘れたし、今から思い出すのも気色悪いけど、姉貴のおまんこならよく知ってる。姉貴のおまんこ以外は汚くて臭いことも知ってる。姉貴のは"お"まんこなんだ。まんこじゃない。御まんこなの。ババアより深い関係ってわけ。種付けプレスをして、深いところに入ってぶちまける。ぶりゅりゅりゅって濃厚なザーメンが出るんだよ。雑魚イきキメたんじゃない。丁寧イきしたんだよ。丁寧に姉貴のおまんこに締め付けられて、丁寧にイったんだ」
「これ以上おかしなことを言うのはやめて! 雫恋ちゃん、お母さんね、妊娠したの。弟か妹ができるの。そんなんじゃ困ります」
 沈黙。息遣い。どこかの部屋で水道を使っている。遠くで車の走り抜ける音もした。
「は? その年で?」
「この子が二十歳(はたち)のとき、雫恋ちゃんたちはおじさんね」
「ババアは還暦じゃん。やめとけよ。高齢出産は虐待だっつの。おい、孕み袋。堕ろせよ。それが"愛"だって。考え直せ。いいか? 父ちゃん母ちゃんが"おじいさん"、"おばあさん"かはガキには大事なコト………五体不満足で身体が不自由でもなけりゃ、嫌なら自分(てまえ)で死ねばいいんだ。自殺なんて誰でもできる。いや、身体が自由ならな。誰でもできる。身体が自由なら。身体が自由なら、人間に与えられた特権さ。ウスノロバカはそれを行使しなかったが……身体が自由なのに! まあ、いっか、そんなことは。俺の知ったこっちゃない。でもどうすんだよ、孕みババア。娘で、俺のコト好きになっちまったら? またバカ息子生んで、俺たちみたいに姉貴をファックしたら」
 雫恋は姉を一瞥した。落ち窪んだ目を剥いて固まっている。
「今度はママの赤ちゃん奪らないでね」
 母の顔を見遣る。目だけで継子を捉え、唇は歪み、親指と擦った人差し指に威圧的な色がある気がした。複数人の若い女と飲みに行ったとき、たまに見たことのある、同族抗争のような、それでいて男の前には一枚壁を張ってしまうかのような公開されていながら内密にされている無言の威嚇が見えた。
「………はい」
 姉は目を見開いたまま雫恋の部屋のほうへ歩いていってしまった。萎んだ風船に似ていた。萎んだ風船が空を泳ぐことも赦されず、地に落ち着くことも赦されず、ただ在るがまま、そこに存在しなければならない退廃的な空気を漂わせている。
「姉貴」
 しかし呼んでも反応はなかった。
「一生コキ使ってあげるんだから」
 たまたま漏れた一言か、将又(はたまた)息子に聞かせるつもりがあったのか。彼は何の考えがあるわけでもなく母の顔を向いた。すると母は顔を背けた。
「もう帰れよ。ここで産気付かれて、ババアのまんこ臭い羊水ぶちまけられてもキモいから」
「この前妊娠が分かったばっかなんだけど」
「キモ」
 自らが呼び出した母をリビングに置いて、雫恋もまた奥の部屋に下がってしまった。



 花瓶が額を打った。視界が白く爆ぜ、瞳孔から流れ星を放(ひ)り出すようである。
「二度とそのツラを見せるな!」
 兄が吠えた。病室に怒声が谺(こだま)する。
 殴られた挙げ句に花瓶がぶつかった顔はあまりにも熱く、水をかぶったところですぐ蒸発したのではあるまいか。
「だって、」
「お前は暇なんだ。すべてを手に入れた気になって暇をしている! 金も女も名誉も得た気になって、満足に飽きたんだろう! 暇なら自殺しろ! 寿司皿のひとつでも舐めて、日常から脱することだな! できないならまたお遊戯会に戻れ!」
 兄に暴行を受け、怒りを向けられるのは、思えば初めてだった。同じ日に同じ腹から同じ遺伝子と同じ顔をして生まれた別個体が、本当に他人のようであった。
「霙恋……」
「姉さんを守れないお前に価値はない」
 雫恋の美貌に理知的な光と聡明な爽やかさを織り交ぜた面構えに、ふと影が過った。
「ああ……姉さん…………何も俺の真似なんてしなくても……」
 兄は両手で顔を覆った。
「俺だってこうなるとは、思わな―」
「失せろ。お前は画面の向こうで変態乱痴気騒ぎをしているのがお似合いなんだ。お前なんか……暇人め。二度と姉さんには会わせない。恥を知れ……恥を知れ!」
 散らかった花を拾い、兄は雫恋へ投げ付けた。
「餞別代わりに教えてやる。所詮俺もお前も、あの女と日下部の子供。まともな世間じゃ生きられない異常者だ。坊主になるか、あのはりぼて社会に閉じ籠もって、サル山の大将なりに尻を掻いて満足していろ……」



 菓子を買いに行った帰りだった。姉の好きな菓子に新商品が出ていた。エントランスを抜け、エレベーターに乗り、廊下を歩いていたとき、部屋の玄関扉が開いていることに気付いた。閉めていったはずである。鍵もかけた。家には猫がいる。姉が開いたのだろうか。何のために。姉に行くところはない。住んでいた場所も仕事も、彼女からすべて奪った。とすれば、出掛けていった弟を追ったのかもしれない。もしくは掃除に勤しんでいるのかもしれない。或いは、ゴキブリと鉢合わせた可能性もある。しかし不用心だ。猫が出ていってしまう。
 雫恋は玄関に辿り着いた。サンダルの片方が、廊下に放り出されている。彼は中を覗いた。猫は行儀よく上がり框(かまち)に座って、家主を待ち構えている。三和土(多)は荒れていた。ブーツは倒れ、サンダルの片方が蹴り飛ばされている。
「お姉ちゃん……?」
 外に出ているサンダルを拾った。ふと、嫌な発想をしてしまった。雫恋は一瞬、思考が停止していた。幼い顔をして、彼は手摺り壁へ吸い寄せられていく。下を覗いた。ピンク色のカーディガンが落ちている。姉が着ていたものだった。姉が落ちていた。四肢を投げ出し、片脚は可動域に反した方向へ曲がっている。防音対策のなされたこの素敵な上流高級マンションでは、姉の骨が砕ける音など聞こえはしなかったのだろう。野次馬はひとりもいなかった。目撃者もいないようであった。
 雫恋は空間転移したかのように気付くと姉の躯体の傍にいた。真後ろに息の荒い人物がいるかのように、呼吸音が耳に入る。



 シューティングスター 

 夜空を見上げれば きっと大丈夫さ 

 ちっぽけでも輝ける世界 きっと作るから

 傍にいてよ そっと ずっと


 夢じゃないスターライン 

 出逢えた奇跡 消えはしない運命(ほし)の軌跡 


 閃いていて

 狂おしく……



 か細い歌声を耳が拾った。蛇蝎のごとく嫌った中身のない歌詞だ。それらしい煌めいてキャッチー、気の利いたふうな単語を乱雑に並べ、大量製作大量消費。音楽などは歌手を売るために存在し、楽曲のために感動するのではなく、歌手のために感動する。雫恋の大嫌いな類いの歌であった。霏室雷夢のデビュー曲だ。まだサビしか公開されていないはずである。
 しかし腹を立てている場合ではなかった。目の前には耐えがたい現実が広がっているのだ。
 彼はこういうときに何をするべきなのか忘れてしまった。この場で舌を噛み切るなり、首を掻き切るなりして追腹(おいばら)するべきではなかったか。切るのは腹ではないけれど。殉ずるべきではなかったか。否、姉は生きている。忌々しい歌を口遊(くちずさ)んでいる。
 スマートフォンを取り出した。霏室雷夢のプロデューサーと長話をしたためにバッテリーは、警告のイエローに染まっている。それはすでにオレンジに近かった。もうすぐでレッドへ変わるのだ。
 救急車を呼んだが、雫恋は自身が何を喋ったのか覚えていなかった。その双眸は姉を捉えていた。歌声は消え、代わりに血反吐を屡吹(しぶ)かせる咳嗽(がいそう)が聞えた。兄が行った狂言自殺とは違った。
「姉ちゃん……」
 髪を局所的にどす黒く濡らした姉の傍に寄った。
「霏室くん……」
 弟の父親が、姉の父だと雫恋は思っていなかった。兄もそうだろう。しかし母は間違いなく同じであった。弟だけは醜怪とまでいかずとも美貌を持ち合わせることはできなかった。ところが整形によって部分ヽを直してみれば、そこにいるのは兄たちと遜色ない美男子に仕上がった。そして兄たちの面影もあるのだった。
 長年放置された鏡面めいた瞳がそこに居ない人物を見てしまうのは無理からぬことだったのかもしれない。
「いつも……ネトホリ観てます…………」
 "デビューへの軌跡"という男性アイドルオーディション番組が、インターネットホリデーとかいう有料配信サービスサイトで視聴することができる。オーディション番組で一般公募であるが、すでに合格者は決まっている。番狂わせがあるとすれば、番組を観た別の事務所が引き抜いたときだ。霏室雷夢が合格する。"出来レース"であった。
「応援してま…………す」
 触ろうとした手を彼女は勘違いしたらしい。掌を上に向けたまま動かない手を伸ばした。手首の骨が折れている。皮膚も振り向けて肉が露出していた。
「あ………ああ……………ごめんなさ…………」
 握手のできない自身の手の有様に彼女は気付いたのだ。
「姉ちゃん………」
「アイドルに…………なってね、」
 一ファンのような口振りから、親しい相手と接するようなものへ変わる。樹皮のような頬に涙が落ちていく。損傷していたなりの指が萎れていく。


 姉が墜落してしまった。このことを真っ先に告げに行ったのは兄であった。目を剥いて、相槌も返事もなく殴打が雫恋の顔面を襲った。兄はよろめきながら立ち上がり、よろめいた弟へもう一撃食らわせた。
「お前が追い詰めた! 転落事故だと? よくもまぁぬけぬけと言えたもんだな! どのツラ下げてここに来た」
 ベッドサイドにあったペットボトルを、兄は容赦なく床に叩きつけた。容器は拉(ひし)げて転がった。
「お前も同じところから飛び降りて、死んで詫びろ。できないなら―……」
 兄の手が、ガーベラの束を挿した花瓶を手にする。物に当たるのは日下部の血だ。

TL【雨蜜スピンオフ】飴と否と蜜と罰

TL【雨蜜スピンオフ】飴と否と蜜と罰

【雨と無知と蜜と罰と】スピンオフ。雫恋編。

  • 小説
  • 中編
  • 成人向け
  • 強い暴力的表現
  • 強い性的表現
  • 強い反社会的表現
  • 強い言語・思想的表現
更新日
登録日
2024-01-02

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