人食い母親
ある日、弟が夢遊病の症状を見せた。
真夜中の2時か3時、ゴソゴソと起き出す気配に気づき、トイレかと思って待ってみたが帰ってこない。
自宅を遠く離れた親戚の家という慣れない場所で、何か困っているのかもしれない、と私も布団を出て、探しに行くことにした。
このあたり、年の離れた姉というのも気苦労が多いもので、この家にやってきているのは私と弟だけで、事情があって両親は数日遅れて顔を見せることになっていた。
であれば、その間に起こることはすべて私の責任になってしまう。
実は私にも、気になることがないわけではなかった。
ここは伯父の家で、悪い人ではないのだが、数年に一度しか会わないから、弟にとってはほとんど他人のようなものだし、しかも今日の昼間、昼食の時に変な話を始めたのだ。
伯父にしてみれば、親戚の子らを歓迎してのことだったのかもしれないが、よりによってこの家で何十年か前に起こった神隠しの怪談話だったのだ。
私のような年齢であれば、フンと鼻を鳴らすようなことだが、まだ小学生の弟には何かしら影響を与えたかもしれない。
伯父の怪談は、こんなふうに始まった。
中年をとうに過ぎ、体力も下り坂に差し掛かった祖父が浮かぬ顔で帰宅したとき、伯父は話しかけたのだそうだ。
「父ちゃん、どうしたね?」
すると意外な答えが返ってきた。
「いま役場の課長に言われた。飛行機を飛ばす燃料にするから、うちの庭の松の根を掘り出せとさ」
「あの切り株かい?」
確かにこの家の庭には、かつて古い松の切り株があったそうだ。
伯父の子供時代にはまだ青く茂っており、何度か木登りをしたらしい。
分厚い木の皮で、ひざをすりむいたこともある。
だが10年ほど前の台風で折れ、切り倒して、このころでは切り株だけが残っていた。
「なあ親父、松の根の油で本当にゼロ戦が飛ぶのかい?」
「古い松の根を掘り出して細切れにし、釜に入れて熱するんだと。それで油が取れる。松根油というそうだ」
「本当にエンジンが回るのかい?」
「知らんよ。しかし日本には、もう石油がほとんどないんだと。アメリカに勝つには、そういうこともやるしかない」
お国のためとあれば仕方がない。
暑い夏の日のことなので、まさか日中から体を動かす気にはならなかった。
松の根を掘り出す作業は、日が落ちてからにすると決めた。
「親父よ、信子はどうしたね?」
「隣村で豪勢な宴会があって、その手伝いに呼ばれて行っとる」
「三太もか?」
「小さな子供を母親から引き離すわけにはいかんからな。一緒に連れて行った」
木の根を掘り出すとは力の要る仕事だが、手順は単純だ。
まず根のまわりをスコップで深く掘る。
ロープをつけて穴から根を引き出すのは、牛の力を借りることにした。
しかし松の根は無事に掘り出され、翌朝、牛の背に乗せて、役場まで運んで行かれた。
伯父と祖父の二人がかりで朝から出かけたのだが、夕方になって帰宅してみると、信子叔母が姿を見せていた。
信子叔母というのは伯父の妹で、ある人と結婚して三太という子供が生まれたのだが、何かの病気で亭主に早死にされ、このころは三太と一緒にこの家に戻ってきていた。
だから三太も、まるでこの家の子供のようにして育てられていた。
役場から戻ってきた伯父と祖父の顔を見るなり、信子叔母は言ったそうだ。
「お国のためだから松の根を掘り出すのも仕方がないけど、その後の穴をほっぽっておくのは感心しないねえ。三太が落っこちでもしたらどうするのさ」
「…」
「まあいいよ。そんなことになる前に、私が穴を埋めておいたからね。後で上を歩いて、トントンと土を踏み固めておいてよ」
見ると言葉通り、根のあった跡はきちんと埋め戻され、平らになっていた。
「三太はどこへ行った?」
「知らないよ。一緒に連れ戻って、私が穴を埋めている間に、どこかへ遊びに行ったかねえ」
ところがそれ以降、三太が戻ってくることも、姿を見せることもなかったのだ。
夕方になっても、夜になっても、翌朝になっても。
それどころか1週間、1か月が過ぎても姿を見せない。
文字通り、三太は地上から消えてしまったのだ。
もちろん村人を集めて大規模な捜索が行われた。それでも何の手がかりもなかったのだ。
宴会があったという隣村の屋敷から伯父の家まで三太が帰ってきたことは、道中に何人かの目撃者がいたし、信子叔母自身も証言している。
信子叔母が根っこの穴を埋める作業で忙しくしているすきに、三太は姿を消してしまったのだ。
結局「三太は神隠しにあったのだ」という噂だけが残る結果となり、事件はうやむやのままで終わってしまった。
子を失った信子叔母の悲嘆は見ておれないほどのものだったらしいが、それでも半年後には良縁を得た。
例の隣村の屋敷に縁続きの男と再婚し、祖父の家を離れたそうだ。
そういう話を昼食時に聞かされ、そのまま夕方から夜になり、私たちは床についたのだ。
そこへ弟の夢遊病だ。
縁側へ出て家の正面にまわり、玄関の戸を開けると、私は弟をすぐに見つけることができた。
懐中電灯の光で気づいたのだ。
弟は庭に出て、どこから探してきたのかスコップを手に、地面に穴を掘ろうとしていた。
場所は、かつてあの松の切り株があったところだ。
地面に置かれた懐中電灯の黄色い光が弟の姿を浮かび上がらせた時、私は悲鳴を上げそうになった。
地面にはすでに浅い穴が開きかけ、寝間着を着たままで弟は、手も足も泥だらけなのだ。
それでも全く無表情に手足を動かし続けている。
大人の人たちを起こさないように小さな声で私は名を呼んだが、もちろん反応はなかった。
ザッザッ。
弟は、穴掘り作業をひたすら続けている。
もっとも小学生のことだから、はかどっているわけではない。
本か何かで読んだのだが、こういう状態になった人を起こそうとしてはならないと私は知っていた。
夢遊状態の人はそれにあらがい、思わぬ強い暴力で反撃を受けることがある。
もちろんかすれ、もしかしたら私の声は裏返っていたかもしれないが、私は声をかけた。
「洋一…」
私の気配に気づいたのか、今度は顔を上げ、弟は答えた。
「お姉ちゃん、三太君をここから掘り出してあげないと、かわいそうだよ」
私は体中を電気が流れたような、あるいは雷に打たれたような気がした。
私と弟は常に仲が良いというのではないが、彼が非常に感じやすく、察しの良い人物であることは私もよく知っている。
私はこの時になってやっと気づいたに過ぎないが、弟は昼食の時点で、すでに真相を理解していたのだろう。
あれは神隠しなどではない。
人を殺すと口で言うのは簡単だが、現実はそうではない。
死体の始末がいつも問題になる。
つまり信子叔母にとっては、すべてが偶然の好都合だったことになる。
おそらく信子叔母には、再婚したい相手がいたのだろう。
事実半年後、信子叔母はその男のもとへ嫁いでいる。
信子叔母は以前からそうしたかったのだが、それには三太の存在が邪魔になった。
「未亡人なのはともかく、子供つきではね…」
と相手方も躊躇したかもしれない。
しかしある日、帰宅してみると都合よく地面には大穴。しかも祖父も伯父も出かけ、家の中に目撃者もなかった…
この後、実は書くべきことはあまりない。
目覚めないように何とかなだめすかして、私は弟を部屋へ連れ戻った。
汚れた手足は途中で洗ってやらなくてはならなかった。
「穴掘りの続きは、また明日にしようね」
と私は弟を再び布団の中に入れることに成功したのだ。
そのあとスコップを片付け、弟が掘りかけた穴も埋めてしまった。
朝になっても、誰も何も気づかなかった。
翌日の夜も気を付けていたが、弟はもう夢遊病を起こすこともなかった。
あれからもう1年たつが、弟の様子に変わったところはない。
そして今日、伯父の家からちょっとした知らせを受け取った。
一通の封筒で、開けてみると新聞の切り抜きが入っていた。
親戚ということで教えてくれたのだろう。変な噂が立つ前に、と配慮してくれたのだろう。
私は弟に話してやるつもりはない。弟の精神をひっかきまわしても意味はない。
伯父の家はこのほど、全面的な改築が計画され、まず解体工事が済んだところだそうだ。
新築される家は、前よりも少し大きくなるのだそうで、基礎工事をするための掘り返し作業が、庭にまではみ出る形で行われた。
それがちょうど昔、松の木が立っていたあたりで、そこから子供の古い人骨が発見されたという記事だった。
人食い母親