恐れと畏れ
恐れと畏れ
昔々ある所に、人々が恐れて近寄らない森林がありました。
その森はいつからか『黒い森』と呼ばれていました。
その奥深くへ踏み込んだ者は、一人もいません。ですから、その深い深い森の奥に何が潜んでいるのか、答えを知る者はいません。
それなのに、村人も、町の役人も、軍隊も、王様も、誰もが恐れて近寄らないのです。
ならば、森を手前から切り開いてはどうか。
いやいや、いっそのこと森を焼き払ってはどうだろうか。
誰もが一度は思い浮かべた事でしょう。
しかし、誰もがそれを愚行であると直感的に気付いていたのです。
人が足を踏み入れない、陽の光が届かぬ場所。その様な場所は、決まって魔の巣窟という言い伝えがあります。
つまり、この黒い森が存在するからこそ、人間が暮らす世界に多くの魔物が溢れかえることなく、大人しく自分達の巣窟で暮らしているのだ、と人々は考えていたのです。
黒い森に面した村の外れに小屋がありました。そこには、村の皆から馬鹿にされてきた大男が暮らしていました。
彼は生まれつき学習に困難を抱えており、村の中での決め事や約束事を頻繁に忘れてしまいました。彼は、生前の父や母から繰り返し教わったことがあります。
『絶対に、黒い森に入ってはいけないよ。あそこには魔物の世界が広がっているんだよ』
しかし、大男は薪割の報酬でもらった蜂蜜酒を飲みすぎて酔ってしまい、ついつい楽しい気分で歩き回っていると、いつのまにか暗い森の奥深くへと入ってしまったのです。
大男には幼い頃から、あの森を怖いものだという考えがありませんでした。
彼から見れば、ただ背の高い木が沢山あって、多くの鳥や獣が暮らしていて、村よりも静かな場所だ、という印象だったのです。
ですから、彼はお酒に酔った事による気分の高揚と、元から恐れを抱いていなかったという自らの考えもあって、一人で森の奥へと入ったのでした。
村人達が異変に気付きました。どこにも、あの大男がいないのです。
「おい、もしかしたらあの馬鹿、森へと入ったんじゃねえか」
「ああ。もう助からねえなあ」
村の人々が口々に諦めを呟いていると、どこからともなく鼻歌が聴こえてきます。
楽しそうに大手を振って、森の奥から姿を現した大男。村人達が一斉に群がり、質問を重ねました。
大男は見てきたものを正直に語りました。
「森の奥に、悪魔とか怖いものなんて、何もいなかったよぉ。ただ綺麗な川や野イチゴ。それと多くの鳥達が楽しそうに歌っていただけだよぉ。ああ、あと小さな動物もいたよぉ」
そして次のように付け加えました。
「あれは神様の国だぁ。間違いねえ、おらには分かるんだぁ」
その話を聴いた人々は「黒い森は魔物の巣窟ではない。人間にとって豊かな物資に満ちた区域なのだ」と一斉に開拓の準備を始めました。
ですが、大男は必死になって止めました。
森を傷つけたら駄目だ、あそこは神様が暮らしている場所なんだよ、と。
しかし、物欲に目がくらんだ人々はそんな忠告に耳を貸す筈も無く、黒い森は短い期間であっという間に跡形も無くなりました。
人々が森で仕留めた獲物の肉や木の実や山菜等で御馳走を作り、大きな宴が始まりました。
しかし、大男はその宴を無視して、かつて森があった場所へと向かい、独りで跪きました。彼は祈り方も知らないのですが、ガタガタと震える両手を握りしめ、涙声で懸命に祈りを捧げているのです。
「神様、森の神様、どうか、皆の事を赦してあげてください。森の神様が暮らしている楽園を、皆が壊してしまったことを、どうか、神様の愛で赦してあげてください。黒い森が本当は怖くないという事を、皆に教えてしまったおらを、どうか、どうか、赦してください」
彼の祈りは静かでした。それはまるで、在りし日の黒い森の、息吹の様でした。
恐れと畏れ