少年と海の神様

少年と海の神様

 潮騒の音で目を覚まし、蝋燭の火が消えた薄暗い小屋のなかで瞬きをする。
 隙間から入り込む、噎せ返るほどの磯の香り。
 僕は今日も、朝食を用意するため鉈を手に取り、浜に出かける。


 大きな椰子の木がぶら下げている実を、慌てて取る必要は無い。木の下に落ちている実をひとつ、胸にとって抱きしめる。流木と椰子の葉で作った日よけの下に腰掛けると、僕は嬉しいことに今日もご飯にありつける。
 鉈で実の堅い部分を割り、中から溢れる水分を、喉を鳴らして飲む。胃袋に貯まる微かな甘みが、いつもの味ながらも美味しいと思わずにいられなかった。
 その後は、実の内側の白い塊も食して、これで今日も一日、僕は働けるのだ。


 島の中央にある岩の座に向かう途中、豊かな色の花を幾つも見かける。花を手折って、束を作り、また手折って束を作り……。この繰り返しの内に、僕の両手いっぱいに花束が出来上がる。
 猫のような鳴き声の白い鳥達が空を飛び交い、僕は彼らに励まされて、やっと岩の座に辿り着いた。ここは、島の中でも一番高い位置にある。
「さあ、神様にお会いする前に服装を正さなきゃ。きちんとお香を焚かないと」
 僕は両手に抱えていた花束をひとつずつ、岩の座の前に並べた。花弁の向きは、きちんと太陽が沈む方角へと向けて揃えた。
 ローブをしっかりと着直して、お香を焚いて邪気を払う。
 祈りを始める前に、幼いころから教わり続けてきた戒めを音読する。


 海に生かされていること。海が人々に生きるための恩恵を与えていること。
 海には神様が暮らしていること。海の神様は怒ると怖いということ。
 それでも海の神様は慈悲深いこと。いつの世も人々がそれを忘れてしまうこと。
 海の彼方にある大罪の国の穢れを、僕が代わりに清めていること。
 そのためには孤独にも耐えなくてはならないこと。
 そして、全てに感謝すること。


 音読を終えて海の神様への祈りを始める。
 十分、ニ十分、三十分……。たった一人でも、孤独に想うことは無い。
 僕がこの島で祈るという事は、神様と一体になるということだから。
 すると、不思議なことに目の前の花束がひとつ、宙に浮かんだ。
 僕は祈りを続けたまま、その花束をよく見ると、少しずつ神様の姿が目に映るのが分かった。
「坊や、もう良いんだよ。今はお祈りを止めてよろしい。私と話をしよう」
「は、はい。神様、僕に何か御用でしょうか」
 神様は花束の美しさに喜び、ひとつ訪ねた。
「うむ、美しい。君には良い花を見極める目がある。この小さな島を離れ、大勢の人間達と関わりながら生きれば、花を売り、人々を花の香りや美しさで幸せにするお仕事ができることだろう。だが、君の今の立場は分かるね」
 僕は迷わず応えた。
「はい、海の神様のために、人々の穢れを清めることです」
 海の神様は優しい笑顔で応じてくださった。
「良いのだよ。君も人の子、即ち天の子だ。この私、人々から海の神と呼ばれる存在に生涯仕えるためにこの島に残されたかもしれないが、人生の舵取りは君が行うべきなのだ。さあ、選ぶが良い。もうやがて、君のご両親が乗った船がこの島にやってくる。君のことを恋しく思って、ここに一人残したことを後悔して、家族一緒に暮らそうと、その夢のために迎えに来てくれるのだ」
 僕は思わず息を飲んだ。物心ついてから、僕はこの島での信仰に基づいた暮らししか知らない。そんな僕が外の世界に出て良いのだろうか。
 でも、お母さんやお父さんに会いたい。その願いは今まで消えたためしがなかった。
「さあ、桟橋へ向かいなさい。大丈夫。君はもう充分に、私のために尽くしてくれたね。ありがとう、本当にありがとう。心からお礼を言うよ。君のような心優しい子供が、世界をよりすばらしい姿へと変えてくれるのだろうね」
 僕は深々とお辞儀をして、お礼を述べた。
「神様、海の神様、ありがとうございました。今までお世話になりました。僕は家族の下へ向かいます」


 そこから先のことは全く覚えていない。桟橋に辿り着いたら僕の両親がいて、僕の名前を読んでくれて、力いっぱい抱きしめてくれたことが鮮明に焼き付いた。
 僕がこの島で学んだことは、なんだったのかと問われれば。
 それは神様を敬う心と、自らが世界に生かされているという自覚だろう。
 しかし、父にも母にも、海の神様の話をしたけれど、これっぽっちも信じてはくれなかった。

少年と海の神様

少年と海の神様

  • 小説
  • 掌編
  • 青年向け
更新日
登録日
2023-12-28

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