アニマルセラピー

 ある青年が、町のちっぽけな精神病院の待合室で、ここに来る患者が皆そうであるように俯きながら順番を待っていた。
 彼は元の心穏やかで優しい性格から、初めてできたヒステリックな彼女からの口撃を一身に受けてしまって、次第に鬱々と心を病んで、ここ最近は全く眠れない日々を過ごしている。
 そんな不幸な彼に割り振られた番号が、カーナビほどのちっぽけな受付のモニターに映されて、青年はその重い腰を上げた。

 防音のためか、金庫のようなバカに重厚な扉を引いてみれば、白壁の診察室には感じの良さそうな初老の男が一人腰かけている。
「どうも、さあ、お掛けになって」
 医師の男は落ち着いた声色で青年を座らせると、ほんの少し微笑んだ。
「今日はどうされました」
 青年は睡眠不足で暈けた脳を無理に起こして、社交辞令的言い分を医師へ伝えた。
「すみません、最近ちょっとよく眠れなくて、睡眠薬かなにか処方して頂けるとありがたいのですが」
 医師は職業柄顔にへばりついた微笑みを崩さず、青年に向かって優しく語りかける。
「勿論良いですよ。眠れないこと、それってとても辛いことです。すぐに処方箋をお出ししますよ」ただね、と医師は続けた。「けれどそれってなにが原因なのかっておわかりになりますか? 眠れなくなってしまった原因です」
「原因?」
「そう原因。薬を出して眠れるようになることは喜ばしいことです。その為に作られたものですから。ただね、なぜ眠れなくなってしまったのか、そういう原因から解決しないとまた何度も通院を繰り返すみたいなことになるんです。そうしてそのうち薬がないと眠れないことが当然みたいになってしまう。目的が逆転しちゃうんですよ。眠れないから通院したはずが、通院しなきゃ眠れないになってしまう」
「原因ですか……」
 彼にとって、原因なんてものはわかりきったことだった。寝不足に伴う頭痛に合いの手を入れるように、あのヒステリックな彼女の甲高い声が鼓膜の裡で鳴り響いていたから。
 ただ、そういった個人の弱みを今日初めて会った医師に話すことが、彼にとってはなんだか少し恥ずかしいものに感じられた。それと同時に、初めてできたガールフレンドを、まるで病原菌のようにこの場で愚痴として貶めることをひどく躊躇った。
 そうした優しさに似たある種の意気地の無さや心の性質が、青年にとって自覚の無いもうひとつの原因でもあるのだけれど。
 寝不足も相まって、口ごもりながら暗く沈んでいく青年の相貌に、医師は見かねて優しく声をかけた。
「ああ、いいんですよ無理をしなくて。なかなか人に言いにくいことってありますよね」
 それから医師は少し考えた様子で、ポツリと青年にある提案をした。
「ひとつ、睡眠薬と一緒に別の薬もお出ししましょう」
「別のですか?」
 医師は微笑みながら青年の瞳をジッと見つめて言った。
「なんというか、自分の心の内をうまく整理できるようにするための薬です。今のあなたのように悩みはあるけれど、人に言いにくい、なんだか説明が出来ないという方にぴったりな薬です」
 青年は首を傾げて医師へ訊ねた。
「それってどんな薬なんでしょう?」
 医師は微笑みとは少し違う悪戯な笑顔で言った。
「眠ってみれば自然とわかります」


 夜、青年は二錠の薬を口に含んで、冷たい水でそれを胃に流した。
 それから横になって、天井を見つめながら彼は昼の医師の言葉と、また明日会う彼女のことをグルグルと考えていた。ただ、いつもは考えれば考えるほど遠退いていく眠気が、なんだか今日はやけに居座って、そのまま次第に微睡みにのまれた。

 思考できるほどに意識を持ったとき、彼は昼間の診察室の前にいた。
 自然とドアに手が伸びて、また金庫のような分厚い扉を引いてみれば、中には一匹の白衣を着た猿が、小さな丸いテーブルを挟んで座っていた。白と黒の毛がハッキリ別れている綺麗なオマキザルだ。
「さ、どうぞ」
 猿はそう言って、彼にも座るよう促した。
 彼は昼間の老医師の言葉を思い出していた。眠ってみれば自然とわかりますなんて言葉を。
「そうです」猿は答えた。青年はなにも訊いてはなかったけれど。
「ここは人に言えないようなことや、整理のついて無い物事を、私のような動物で練習をする場なんです。なんというか、ある種のアニマルセラピーですね」
「アニマルセラピー?」
「そう、アニマルセラピー。動物介在療法って言うよりはわかりやすいでしょう?」
 青年はゆっくりと椅子へ腰かけて、猿の顔をジッと見つめてみる。
 彼は猿が喋っていること、それどころか会話が成立していることに殆ど疑問や不安を感じることはなかった。突拍子の無い出来事でも、自然と受け入れることが出来る明晰夢のようなもので。
「どうです?」猿は言った。「私みたいな猿にならあなたが眠れない原因も遠慮無く言えるんじゃないですかね」
「そういうものかな?」
 青年は相変わらず猿の顔をまじまじと見つめながら、少しずつ探るみたいに話し始めた。
 初めて出来た彼女のこと、それからその彼女に彼がどんな言葉を浴びせられてきたか、どう接せられてきたのかを。
 青年は話すとき必ず、なにか言い訳みたいに自らを貶めてから話しているようだった。「そもそも僕が悪いんだけれど」や、「彼女にそうさせてしまっている」みたいな言葉が何処かしらにくっついていたから。
 そうして話しているうちに、彼はきっと自己嫌悪に陥ってしまって、また何処か鬱々と重い空気を身体から漂わせ始めている。
「ねえ、少し落ち着きましょう」猿はそんな青年の告白を遠慮がちに遮った。「少しあなたのことがわかってきました。あなたはちょっと考えすぎなんです。彼女さんのことを話していた筈なのに、話しているうちに自分がいかに愚かな人間かなんて話題に移り変わっている」
 白衣を着たオマキザルは自らの顎を撫でて、いかにも考えている様子で青年につらつらと提案をした。
「ある作家が、もう一方の心を病んだ作家に言ったことがあります。そういった思い悩みのような心の疾患は、健康的で活動的な運動によって大半は癒されるってね」それにと、猿は付け加えた。「あなたには自己肯定感がどこか欠落しているように思えるんです。初めてのガールフレンド、それってとても素敵なことです。ただその初めての出来事であなたは思い悩んでいる。何事もそうで、出鼻を挫かれるっていうことは、人を陰気にさせるものです。そういう物事を解決するには、普通は長い時間をかけて成功体験を積み重ねていくしかないのですが、良くも悪くもあなたは若い。老成とは対極にいます」
「そんなこと言われてもなぁ」青年は頭を掻いて言った。「じゃあどうしたらいいんだろう?」
「少し運動をしましょう」
 猿がそう言うと、辺りの景色は広い牧場に変わって、彼らが向かい合っていたテーブルは切り株になった。
 青年がそんな切り株の年輪を呆けてグルグル見つめているうちに、何処からともなく大きな灰色熊がやってきて、猿の隣に腰かける。
「腕相撲でもどうですか?」
 猿がそう言うと、熊は大きな腕をグイと切り株に出して構えた。
「ねえ、こんなの無茶だよ。腕の太さが5倍はあるもの、勝てっこないよ」
 青年はなんだか泣きそうな情けない声で猿に訴えた。それでも猿はただいいからいいからと、青年を促して、大きすぎて握れない熊の掌に青年の掌を無理に合わせた。
 猿の掛け声が聞こえると同時に、青年は目を瞑って、思い切り腕に力を加えながら心の中でブツブツと恨み言を吐き捨てていた。なぜ自分がこんな目に遭わないといけないのか、彼女に暴言を吐かれて、自省をしたら猿に説教をされ、運動しろなんてそこらの安いフィットネスジムの謳い文句みたいな文言で勝ち目のない勝負をしなくてはいけないのか、なんて。
 青年の目には少し涙が溜まっていた。理不尽に憤る情けない悔し涙なのだけれど、恥じて拭うよりも先ず、その怒りが熊の肉球を握る腕に力を入れた。
 そうして青年の腕はブルブルと小さく震えながらゆっくりと倒れて、気がついてみれば彼の腕は、切り株に横たわる大きな熊の掌の上にあった。
 端的に言えば、彼はこの勝負に勝ったわけだけれど、両手を上げて喜ぶわけでも、勝利の雄叫びもなく、さっきまで紅潮していた彼の顔は色が引いて、どこかスッキリとした顔をしている。
 猿はそんな青年の顔を見て、少し頷くと「次は走りましょうか?」と青年に訊ねた。

 それから青年は雪原でユキヒョウと100m走をして圧倒的な差を着けて勝つと、サバンナでアフリカゾウと綱引きをして、彼よりも遥かに巨大な象を引きずり倒した。
 太平洋でザトウクジラと遠泳をしたとき、彼はクジラより深く潜ることができた。カモシカとロッククライミングをしてみれば、躊躇いなく岩の窪みからまた他の窪みへ飛び移ることができたし、彼は平地でピューマより高く跳んだ。
 渓谷での彼の声はどんな鳥よりも鮮明で綺麗に通って、猿の群れから飛び抜けて、彼は樹上を駆け抜けた。
 目まぐるしく変わる風景の中で、青年の肉体は彼のイメージに沿って躍動しながら、全ての生物に触れ合って、そうしてそれらを凌駕し続けた。
 
 少し切れた息を整えていると、辺りは見慣れた診察室だった。それから同じく見慣れたオマキザルの医師がにっこり笑って彼に語り掛ける。
「今日のところはこのくらいで」
 青年はどこか吹っ切れたような爽やかな面持ちで、深く息を吸いながら白い天井を眺めていた。そうして彼は今日、この場に自分がいる理由と、明日また会う彼女のことを思い返しているのだけれど、当初のような陰鬱とした気配はもう感じられない。
「また来ることはできるかな?」青年は訊いた。
「ええ、勿論。ただね、何事も執着はいけないものです。これはあくまで治療ですから。辛くなったらまた程々にいらしてください」それにと、猿は付け加えた。「人が人らしくあるのは、持論ですけれど、その発達した脳で行われる複雑な思慮と思索にあると私は思います。考えること、考えすぎることは決して悪いことではないと思うんです。ただね、いくら考えたところで、何事も起こる前からわかる結果なんてものはないんです。だからね、もしまたなにか思い悩んで、それでその思慮思索でもって、悪い結末を想像してしまったら、そのときはまたここにいらしてくださいね」
「ありがとう」青年は笑顔で言った。

 
 青年が目を覚ましたとき、陽が昇りきっていないのか辺りはまだ薄暗かった。ただそんな暈けた風景に反して、彼の意識は晴々と久しぶりの快眠の喜びに浸っている。
 青年の記憶には、彼が今日見た夢の出来事なんてものは殆ど残っていない。身に覚えのない妙な快感を、彼は全て睡眠のおかげだと思い込んでいる。
 そうして愉快な気持ちのまま、彼は問題のガールフレンドに会うために支度をする。いつもは気が重いそんな時間も、なんだか青年は鼻唄交じりで、彼女の普段の言動をもう気にしている様子もない。
 事実、彼は彼女のヒステリックな言動はもうどうでもいいことのように思えていて、そんなことよりも、彼女の細い首筋や、白い肌に写る青い血管を流れるその血潮を想像しながら、今から会う愛しの彼女に思いを馳せている。

アニマルセラピー

アニマルセラピー

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-12-26

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