常識。
もう直視なんて出来ない。出来ない、出来ないの!!!!!!
そう叫び、全てが爆発し、黒く焼き焦げる様を、妄想。
本質直観という体の再確認、反復。
本質直観という体の否認、抹殺。
本質直観という体の停滞、内界への逃避。
必要なのは見直しや俯瞰ではなく、衝動、情動に身を任せた無謀な"行動"であり、たとえどこの私が何を言おうが、その内容が"行動"以外であるならば、それは間違いなく罪に勘定されるものである。
例えば、中途半端さ、曖昧さに対して、私は、それが現実での行動において齎す副次効果、事後結果からそれらを忌避し、憎み、"悪"と判じ、それを言葉で明確に否定、否認する。けれどその否定、否認には自己愛や自尊心や自意識などという、直視に耐えられない為に深慮したことがない物々が、確実に点在、内包されており、知覚出来ない領域から思考を妨害し、視線を曲げる。本当はそんなこと思っていないという自尊心ありきの演じられた自虐(否定、否認)しか出来なくて、言葉にする度に浅ましさばかりが露見していく。それが詭道の正体。
―――思考を分類するのを已めよう。
嘘という前提のもと否定が連鎖し、そうやって至った結論がたとえ嘘だとわかっていても、疲弊と盲目を得ている私の頭では思考力が不足し、原点を忘れてしまう。結果、否定の否定を否定したことによって本質だと違えたものの本質直観がその後何度か行われ、嘘だとわかっていたはずのものの正体を忘れ、間違えた場所で嘘だったはずの"悪"の確実性ばかりが強まっていき、現状は何も回復しない。ただ歪んでいくばかりだ。いや、回復は望んでいなかった。けれどそれすら信用にならない。本質直観という行為を間違えた結果、副次効果により、自らへの徹底的な不信が強固なものとなる。
反芻を已めれば良い。不断を已めれば良い。思考を分類することを已めれば良い。その副次効果、事後結果を恨み避けようとするのではなく、"悪"だと判じられるものは、それそのものを断てば良いのだ。一般的な好悪の価値観は、有難いことに染み付いているのだから。私は一般性に対して含蓄がある。何故なら昔は正常だったからだ。私の病的な現状は、自らが望み、自らが開拓してきたものであり、自然体に昇格してしまった"悪"の演技だったのだから。勿論、中途半端さそのものを已めるという行動は空想的だから、恐らくそれも何かが齎した副次効果、事後結果なのだろうと、多くはそうして連鎖しており、かつ複雑に多元的に絡み合っているのだろうと、そしてそれが際限なく続いているのならば、私の脆い思考の糸は簡単に切れて拡散してしまうだろうと、全てわかっている。それにそもそもそれが出来るのならあさい寝床は存在していなかった。
ここは、ただの不信が齎した結果である。
清潔でいたいという姿勢は、観測してくれる誰かがいなければ酷く無用なものになってしまうというのが私の価値観であるはずなのに、その、人に好かれたいという欲に支配され、盲目になり、もうここには誰もいないということを差し置いて、自らに向けて、架空の誰かに向けて、過去の誰かに向けて、清潔さアピールをしようと躍起になっている。表層に浮いて来た汚い油を沈め直して、自覚した醜さを必死に罰しようとして、卑怯に軽薄にその場しのぎを使って目標を目指すそのやり方が、"清潔"という本来目指していた姿勢から更に乖離していっていることを嘆く。そしていつものようにそれを自嘲する。卑下せずに思考を続ける方法をお前は知らない。瞬間的に(瞬間的でなくとも)自らに従うには、私にはどうしても清潔さが必要で、そしてどうしようもなく、それを得る方法を知らなかった。清潔でない自らを、自ら清潔にする術などあるわけがなかった。率直な素直な、健康な見方に著しく欠けた中で、それがなければ感じ取れないもの求めることの無為。つまり、清潔に"なる"ことは出来ず、機会を失った私はそれを遠くから眺めながら、嫉むように模し続けるしかないのだ。
私は生涯、清潔な振りをし続けなければならない。自らの醜悪の露出に怯えていることを自覚するより、淡々とそうでない演技に酔っていた方が、ただ楽だという理由で。そうしなければ気が保たれないとでも言うように、逃げ続けているのだ。それが、自尊心や自己愛を頑なに否定したがる理由で、二度と変わることのない、癒えることのない部分だ。
自己愛に屈して窃盗をしたこと、自尊心を優先して偽ったこと、防衛本能から盲目になり、身勝手に逃げたこと、それらを許さなかったところで忘れる以外の選択肢が現れるわけではないが、もしそれらが生きることに必要だというのなら、私は一刻も早く生存を放棄したいと強く思う。
どう辿り直したところで自死以外の結末が見えたことはない。現在から過去に干渉することは出来ないのだから。
何を思うか、思わないか。思えるか、思えないか。そんなことにばかり目が行ってしまい、客観という体の"主観の客観"が肥えていき、見境なく何に対しても何かを見出さないと気が済まなくなり、その内に「過去の自分の動機に対する非が確定している推察」などという題名で作文を書き始めるような、無為と幻想と物語性を抱き締める人間になる。果てにはそこに、強い呪いが影響した報いやシンクロニシティの増産と集束、過去との因果ある完結などを求め出し、それは本来あり得ないことなのだと無意識下で気付くや否や、意識と意志を以て自ら確立しようと躍起になる。意味は見出されるものであり、罪は見出すものであり、理由はただ見出すだけものであると、ちゃんと思えているのかわからないことが問題だ。
私は今、殺意を抱いた同じ人物が他人を殺害しないことより、他人を殺害することの方が正常で健康なのではないか、などと考え始めているがしかし、表には縦横に項目があることを忘れたわけではなく、ただ少し、分類化の為の好悪が減り、それを感じ取る感受性も失われてきていたが故の誤った思考だったと即座に自覚出来る。自覚した段階で打ち止める。初心を思い出そう。「行動が全て」。それが私の確信ある信条だ。殺人が齎す結果は悪であり、行為自体もまた悪である。価値観を使役し、最低限適切だと思える例を挙げるのならば、「強い殺意を抱きながらもその他人の救済に成功したならば、そこにあった殺意は有無を問われなくなる」が好いだろう。
それを踏まえた上で、殺人を行おうと計画を推し進めてきた自らを分類し考察よう。ここで問題になるのは、(残念ながら全く問題にならないのは、)私は「殺人が救済」だった場合の例外を、例外だと思えないということだ。よって、思考は停止し、問いは白紙に戻る。これ以上の思考はあまりに億劫で、非常に無為だった。その思考の先に動機など置いてあるわけがないとわかったのだから。
理性は一方的な暴力に対して無力だけれど、一度も体感したことのない私がそれを言うことは出来ない。そう思っているくせに、今、言葉にした。そういう、忌避を忌避と思えていない態度が心底気に入らない。
恵まれていた私は、痛みを共感したいと願った。そこには、"異常"への憧れに近い好奇心が、間違いなくあったと憶えている。そして、それを求めて演じたのは離別後だったという、間違うことすらどうしようもなく手遅れてきた生涯だったから、言葉に回された思考で理性が煮詰まるのは必然だった。煮詰めた理性に能動的な力、エネルギーがあればいいのにと思うけれど、それがないものが理性なのだとわかっている。行動に行き着けるまで、何度理性を通しているのだろう。行動を続けることには、きっと大して思考を割けられていないというのに。それは本当に許可制なのだろうか。そう言って、何か別の、もっと醜く、汚く、バレてしまったらきっと耐えられないような何かを庇おうとしているのではないのか?と、今のその思考自体が、お前が"理性"だと表すものは、感情に絡め捕られて濁った、偽のそれだと証明してくれた。
行動を伴わせるという最低限の現実(或いは生産性)がないから思考が終わらない。作文が終わらない。
―――思考を分類するのを已めよう。そうすれば少なくとも過多はなくなる。
それなのに思考は続かなくなり、また別の日に一からやり直す羽目になる。たとえ書き留めていても、丁寧に音読し、丁寧に咀嚼をしなければ、言葉と意味を理解して思考を進めることが出来ず、故に負債を返し切る日は永遠に来ない。思考は迂遠に回り続けるけれど、先に進むことは殆どない。あったとしても、それは新鮮さに騙されているか、言葉と意味をこねくり回して上手いことを言ったつもりになって自尊心に餌を与えているか、前提からして偽であることを忘れているか、間違っていることを直感出来ていないかのどれかであり、それを先に進んだと表すことは間違いだろう。
そう。どうにもならないことをわかっている。
叫喚は呟きに抑えて、確信された終わりへ向けて歩こう。
常識。