蒼月の隷下

蒼月の隷下

1.

 『…――』
 ウィンドチャイムが風に揺られている。きらり、きらり。光が輝き、瞬く。ころり、ころり。優しい音色が耳を擽る。瞼越しに暖かな日差し。幸せの色。
 『…――いずるちゃん』
 生暖かい風が睫毛を撫ぜる。
 もう朝が来たのだろうか?もう少し眠っていたい。不意に刺すような光にうなされて、ぎゅっと瞼に力を籠める。
 音色が遠ざかる。幸福の風船がしぼんでいく。瞼越しの世界は、突如として鈍色と化してしまったみたいに色彩を欠いていく。
 目を開けてごらん、と誰かが囁いた。その眼で夜明けの世界を確認してごらん、と。いやだ、と意識が反射的に拒む。なにか不吉なものを感じ取ったかのように。
けれど意志とは裏腹に、次第に瞼は持ち上げられていく。
 焦点のようやく適合した視界は、けれど闇に覆われていた。暖かくて重たい物の下敷きになっていることに気づく。体にかぶさるそれからどうにかしてどかそうとすると、生暖かい何かが溢れてきて、溺れそうになる。苦しさから逃れるように這い出すと、鈍色の空が視界一杯に広がった。絶望の深淵。その入り口の色。大きく開いた瞳から、大粒の涙が零れた。

 俯いた視線の先には、ぼやけて見える艶やかな赤。そっくりに並ぶ小さな(べに)葉が、二つ。


 突然の目覚めに、サクヤは目を瞬かせた。随分と嫌な夢を見ていたらしい。額から脂汗がにじみ出ていた。
 上半身だけ起き上がり、サクヤは俯き加減に両の手を見やった。何かがフラッシュバックするように意識が点滅して、しんと静まる。サクヤは眩暈のする頭を切り替えるように何度か瞬きを繰り返し、一度、ぎゅっと拳をつくった。
 華奢な掌が額の汗をぬぐう。大きくため息をつくと、隣で寝ていた男がふわりと目を開けた。
 「どうした。眠れないのか」
 「…いや」
 曖昧に、けれど故意に外された二人の視線。少年は虚空に、男は右肩から背中にかけて。焦点はそこに合わさっていた。
 目を合わせない見つめ合いは、しばらく続いた。
 「…もう、痛まない」
 サクヤが沈黙を破る。囁く程度のごく小さな声は、広くも狭くもない寝室にやけに大音量となってこだました。
 「ああ」
 男は相槌をうっても、その視線の先が変わることはなかった。
 彼が自分の何を見ているのか、サクヤは知っていた。同情だろうと思った時期もあった。けれどそれにしてはあまりにも深みのある眼差しが、サクヤには少し怖かった。
 サクヤは男に背を向け、ベッドを降りた。
 「もう少し寝てろ」
 男は諭すように呟くが、サクヤは聞かなかった。
 その様子にどういう感情を抱いたのか、男は更に続けた。
 「…仕事か」
 サクヤは緩慢な仕草で振り返り、再び前を向いた。
 「…いちいち詮索をするな。そういう約束だろう」
 華奢な背中には、右肩から斜め下へかけて続く大きな裂傷の跡が、まるで刺青のように刻まれていた。


 この世界に安寧などないと知った。
 だから復讐してやろうと思った。
 一人残さず殺して、残ったこれはなんだろうか。
 死の(あぎと)へ誘われるように、いつだって命を捨てるように生きてきた。鼓動はどくどくと早鐘を打ち、いつだって本能は一つ。殺す、殺したい。けれどそれは同時に、この世界で生きることを意味していた。
 疲れれば惰眠を貪り、腹が減ればそれを満たした。切り裂く肉の弾力を知り、飛び散る紅のぬくもりを知った。
 紅蓮の業火が燃え盛る心、それが導くままに殺し続けて、残った自分はなんだろうか。
 命を捨てるように、今日も生きる。



 
 蛍光灯が寒々しく古びた部屋を照らす。焼き切れる寸前まで酷使され続けている電球が、断末魔のように時折ちかちかと不規則に光を痙攣させている。
 白くもないが黒くもない壁は厚く、噂では防音設備がされているらしい。よく観察すると目につく両端から伸びるひび割れが、その噂の信憑性を物語っていた。
 ロッカーが壁の全面に備え付けられている部屋の中央には、小さなパイプ机と椅子が一つずつ置かれている。珍しいことに、酒のボトルが数本適当に並べられていた。
 入った瞬間に覚えるのは、薄汚れた部屋に対する不快感だ。無数にあるうちの一つとはいえ、ここも拠点である。傷ついて帰ってくる人間の血や吐しゃ物がいつまでも片づかないのでは困るのだと上がいう。そのような理由で、週に数回掃除係が拠点を出入りする。噂でしかないが、掃除係の人間は小石が転がるように変わるのだという。同じ掃除係を三回以上見たことがないという話も耳にする。
 斯くある事情のなかで、けれど掃除係がいてもこのありさまである。消えない汚れは、戦時から使われ続けた部屋のせめてもの反抗だろうか。それとも、かつてはここで幸福な人生を過ごしていた、今は亡き人々の悲しみが壁の染みとなって現れたのだろうか。
 その夜、妙にまぶしく殺風景な部屋を、赤いドレスが彩っていた。ロッカーの一つに背を預け、女はまるでこの世のものとは思えない艶やかさでもって微笑んでいた。
 「サクヤ」
 深紅の唇がしなやかに動いた。
 「(こと)姉さん」
 サクヤの引き締まった表情が少し柔和になる。女はテーブルを指さし、肩をすくめた。
 「クロノスが持ってきたらしいのよ。自由に飲んでいいらしいわ」
 テーブルに置かれたボトルは、栓すらあけられていないようだった。
 「あのひとのことだから絶対なにか裏があるって、みんな警戒しているの。実際、以前にクロノスの携帯食を嫌がらせのつもりで食べた仲間は、血泡を吹いてその場で死んでいったものだから、余計に、ね」
 「酒に細工するなんて、罰当たりですね」
 「そうよ、こんな高級なもの」
 かちん、と女は指先でボトルの先端をはじいた。
 サクヤはクロノスという男のことをあまりよく知らなかった。知るつもりもなかった。悪い噂は絶えなかったし、はたから見ていても殺しを快楽とする節があるようにうかがえた。携帯食にまで細工をするなど、常人からは考えられない行動である。
 戦中から食糧難になっていた国は、必要最低限のエネルギーを補給することのできる安定した食べ物を探していた。その技術が確立したのはごく最近のことで、それまでは点滴や注射による必要な養分の注入、または大金を出して固形物を食べることを人々は強いられてきた。
 人口栄養物の入った携帯食は大量生産ができ、安価で手にいれられるようになった。多くの人々はその小さなキューブでなんとか空腹をごまかして生きている。路上を歩けば、携帯食を購入するべく手押し車一杯の硬貨や札を手に交換場所を目指す人を見かけることもある。大戦以降、国の通貨の価値が暴落した結果だ。安価なキューブですら、この国の貨幣にとってはラグジュアリーなのである。
 斯くしてほとんどの人は外国の通貨を持ち歩き、これを使うことが定着した。信用性の高い大国の通貨のみ、交換所で認められたからである。自然淘汰により、老人のほとんどは死に絶えた。たとえ若くとも、心身ともに強くなければ虐げられ、憔悴して死んでいった。
 このような世界でも、自殺の話は聞いたことがない。それは、死を強烈に意識させられる環境下で生活しているからかもしれないとサクヤは思った。死ぬのは簡単で、自ら努力せずとも命は滅んでしまうことを知っているからだろう。つまり人は、この極限の状況のなか、命を燃やし、より良い人生を送ろうと、妄執的に、けれどある意味では前向きな生き方をしている。
 過去もなく、未来もない。刹那を生きる人々の生活は、捉え方を変えれば、健全な社会かもしれないとサクヤは思った。

 そのように生と死の瀬戸際をくぐりぬけて手にした貴重な食糧に細工を施すなど、とても不健全である。ある種病的なものを感ぜざるをえなかった。

 サクヤは指定されているロッカーを開けた。無造作に側面に張り付けてある幾枚かの紙を手に取る。
 恐らくは、組織を統べる男の伝言係が行っていることだろうが、仕事はこのようにして上層部から割り振られる。仮初の政府が立ち上がった際、電子機器を介した通信により大きな暴動が世間を揺るがした。以降、なけなしの権力を振りかざした政府による電波傍受が行われ、斯くして国は電波通信をいうものを失った。
 伝令は係による口頭のものか、こうしたペーパーベースのものの二種類が主流である。サクヤの手にした紙には、ターゲットの写真と行動パターン、名前や役職などか記載されていた。一度見た顔を忘れることのほうが難しいサクヤにとって、殺しのために名前や役職といった情報は必要ない。サクヤは情報にさっと目を通し、顔写真をじっくりと眺める。次の出勤日の記載がないあたり、伝書鳩直々の訪問を予感させた。給金は普段から伝言係によって無造作に渡される。決まった給料日というものはなく、また渡される額も出来高制である。無論、彼らから渡されるのは外国の貨幣だ。母国の通貨をいただいところで、世界的に価値を失った紙切れは何の足しにもならないからだ。
 サクヤの手元を見て女は表情を曇らせる。
 「随分な人数ね。…重宝されるのは悪いことではないけれど、なんだかこき使われている感じでいやね」
 「その分多くの金を頂戴するわけだから、お相子ですよ。重用されれば、その分もしものときにトカゲのしっぽはまぬかれる」
 少年は仮面の笑みを浮かべた。
 「…最近、だれかと同居しているそうじゃない」
 女は独り言のように言った。
 「あまり、入れ込みすぎないようにね。足をすくわれるかもしれない」
 少年は紙の束をライターで燃やし、灰皿に置く。白煙が舞い踊り、天井の隙間へ逃げていった。いよいよ出かけようというときに、女は小さく祈った。
 「…気を付けてね」
 サクヤは、この瞬間に人生で一番幸福に近いものを感じる不思議さを思案した。
 誰かの命を奪うべく歩き出す殺人者の背中。誰に命令されたでもない、殺しを仕事として選び自ら死の咢へ近寄ろうという場面に、いたわるような、心配するような言葉。これは矛盾なのではないか。或いは皮肉か。自分には必要のないぬくもりを、赤いドレスの女は与えようとする。抗えず、享受することもできず、女が求めているであろうものを何一つ返すことのできない自分が、少し腹立たしい。
 これは依存と呼ぶのだろうか。女は与えることによって、なにが満たされるのだろうか。そして、あえて抵抗しないことによって自分は一体なにを得ているのだろうか。けれどサクヤは、そんな女を嫌いにはなれなかった。
 「琴姉さんこそ、気を付けて」
 サクヤは緩やかに微笑んだ。華やかな顔立ちが一層咲き誇るように華やぐ。仮面の笑みではなく、偽らざる本音の表情である。
 「…同居人のことは気にしないでください。ほとんど顔を合わせないし、会話もないので」
 それでは、と会話を打ち切って、サクヤは黒いコートを羽織った。
 黒一色に身を包んだ少年は、今日も命を捨てるように生き続ける。寒空の下歩き出すべく扉を開け、地上へ続く階段を上る少年の後ろ姿を女は複雑そうに見つめた。
 「あなたは少し変わった。…あの男が来てから」
 女の顔に影がさした。嫉妬ともいえる表情だが、深くにじむ心配の色が、それを別のなにかに塗り替える。
 「…危なっかしいのよ、あなたは」
 その言葉は、寒々しい部屋の虚空に消えていった。



 「どうしてそうして笑うのかしら、あなたは」
 思わず出た言葉に、相手同様に目をみはる。
 「どうして?俺が笑っていてはいけませんか」
 虚を突かれた表情のあと、警戒した声で少年は言った。
 「いいえ。でも、なんだか不自然に笑うから」
 「そうですか」
 少年は肯定とも否定ともとれる返答をした。綺麗な子だった。少しだけ目じりの吊り上がった、アーモンドアイ。それをたたえるかのような、柔らかな質感を醸し出す薄茶の髪の毛。少女のような華奢なつくりをした体に、その白い肌に、黒いコートがよく映える。まるで闇を背負った天使のような、そんな神々しさえも感じさせた。
 ここで会ったからには、決して綺麗な人生を歩んではいないであろう。けれどどうしてか、琴にはその少年が無垢な赤子のように思えた。潔癖、とでもいうのだろうか。どこか達観して、冷めている。それでいて、心に決めた正義を貫いているような、そんな生き方をしている気がした。
 「見かけない顔だから、もしかすると初対面かしら。私は琴というの」
 少年は少しの反応も見せず、酒をあおった。容姿に似つかわしくない仕草にほろ苦い感情が生まれる。
 「…あなたのお名前は?」
 「サクヤ」
 「そう。とてもきれいな名前ね」
 琴は艶笑して、目を瞑った。
 「朔夜だから、一日の夜…きっと満月の浮かぶ、澄み渡った空ね。夜なのに、明るくて。けれど明るすぎなくて、心が落ち着く」
 「大げさですね」
 サクヤと名乗った少年は呆れたようにいった。
 「名前は大切よ。名は体を表すってね」
 「くだらない」
 少しも靡かない様子が、むしろ琴の歓心を買った。久々に心が解れる気がした。少年は驚くほどに、建前を並べたり媚びを売ったりすることをしなかった。案外とまともに相手と向き合って、自分の考えたところを述べていた。茶を濁すようなしゃべり方はせず、話し相手の言葉をきちんと聞いた。
 以降、琴はことあるごとに少年に話しかけた。少年は嫌がりもせず、かといって歓迎するでもなく、琴の相手をした。
 サクヤのこなす仕事の量は圧倒的だった。生き急ぐかのような有様が、琴には解せなかった。
 「サクヤ、あなた働きすぎよ。それでは、いつか失敗するときがくるわ」
 「…そうかもしれませんね」
 そのときの少年の、歪に嗤う瞳のなかに渦巻くおぞましい何かに琴は怖気づいた。少年は失敗することを望んでいる。ただ死にたいのであれば、自ら命を絶つことはたやすい。けれどそうしないことに、尋常ならざる執念を感じた。
 少年の心はまるで、崖から絶望の淵を眺め下すように深いと思った。そして、深い分だけ澄んでいる。
 彼の心は永久に閉ざされて、触れられない場所にあるのだとすぐに悟った。

 その日から、琴にとってサクヤは守るべき対象となった。
 いつからか、琴はサクヤに特別な感情を抱いていた。
 どこか頼りない華奢な体つきに、ある種の危うさが、色香となって少年から滲みでていた。しかしその色香に群がる蟻たちを、彼はいつまでも拒みつづけるであろうことも知っていた。事実、少年は言い寄るすべての人間を蹴散らしながら歩いた。
 サクヤは生きることを呪縛のように受け止めている。だからそれに付随する事象には目もくれず、ただ生を全うすることにだけに集中していた。
 それならば自分は、せめて少年の盾となろうと決意した。安心して帰ることのできる場所になろう。もしもの時に逃げ込める場所として。
 少年が壊れることのないようにと祈るあまり、琴は自分のなかに芽生えた感情を忘却した。
 自分の見つけた大切な宝石が、輝き続けることができるように。
 琴はただ、それだけを願って生きていた。

2.

 最後の大戦以来、国は燃えている。

 先進国による待遇がいけなかったのか、降伏したことがいけなかったのか、それとも、最初に戦の幕を切って落としたことがいけなかったのか。
 国は世界の覇者となるはずだった。覇道を進むことに多少の犠牲はつきものである。だから、あれほど残忍な所業を重ねたというのに。残されたものは、がれきの山と、飢える民と、蔑ろにされ続ける政府という名の形骸。そして、国にとっての世界は荒廃し腐敗した。
 国は未だに戦禍から復興できずにいた。死体が片付いても、建物は直ることはなかった。畑に豊穣は訪れなかった。一時北と南で分断され、それぞれが別々の先進国によって支配された。
 一時的にでも分裂され、互いを敵国として扱わされた国は、もはや再び一つになることはできなかった。たとえ先進国の冷戦の吹雪に春がこようとも。たとえ国が独自の統治権を認められ、南北に分かれた国が融合されたとしても。過去改変などを行えない限り、国は統一国家になどなりはしない。
 北と南で随分と生活に差があった。北は南よりも貧しく、そんな彼らは南の民を憎んだ。資産のある南の民は栄え、また暫定的な政府がつくられた際に大半の役人は南から選出された。政府を施行した先進国が、南を支配していた勢力だからだ。北の民は怒り、反乱を起こした。長きにわたる内紛の始まりだった。
 そして政府の力は衰え、反政府組織や闇組織が台頭した。暫定的な政府は統治力を取り戻すべく、必死の足掻きをみせた。財政の繁栄と技術の発展を成し遂げる世界から切り離されて、一国、国内にはびこる醜悪と闘っていた。外交能力など皆無な国は、海外支援を望む余地すらなかった。資源を搾取され、旨みを失った国は、もはや他国の誰からも興味を抱かれない。
 そんな現実で、それでも民は辛苦を重ねて生きていた。たくましくなどない、ただ、そうするほかの選択肢がないだけだ。
 大洋に浮かぶ島であるその国から、逃げる術などないだけだ。風の便りで耳にする異国の豊かな暮らしなど想像もつかないから、命を懸けてまで大海原を冒険しようという気が起こらないだけだ。
 世界はとても残酷なものであった。けれども、民はそれを理不尽だとは思わなかった。それが世界のあるべき姿なのだと信じていた。それ以外を知る由もないから。
 大戦以来、国は燃えている。


 ならば大戦以前の国とは、どのようなものだったのだろうか


 そのようなこと、考えたところで時間の無駄だとサクヤは思った。
 その日、三件の仕事を終了してサクヤは拠点に戻った。人の目を忍ぶように細道を幾度となく曲がり、壁と同化したような扉に鍵をさし、地下へ続く階段を下る。
 光の点滅する部屋は無人であった。
 
 少年は息をつき、上着を脱いだ。黒い服は血痕が目立たなくていい。組織の大抵の人間は仕事の際、黒を基調とした衣服を身に着けるようにしていた。
 静寂のなか、ちかちかと音を立てる電球だけがこだました。サクヤは耳をそば立てた。空気がかすかに揺れる。それは、誰かが入室した知らせだった。
 もしも部外者ならば、すぐに始末して上に報告しなければならない。無音で階段の壁に隠れる。サクヤは腰に括り付けてあるナイフに手をやり、臨戦態勢をとった。
 「おやおやあ?お姫様は大層ご立腹とみえる」
 飛び出す寸前、聞き覚えのある声に、サクヤは止まった。
 皮肉を携えた表情。膿のような、なにか汚いものを感じさせる笑みの張り付いた顔。クロノスは、痩躯から伸びる長い手足が印象的な男だった。誰に対してもその声音なのか、しかしサクヤはこの男の妙にわざとらしい猫なで声が心底不愉快でならなかった。
 「…こそこそと入ってくるあんたが悪い」
 「俺の気配をわからないなんて、胸が張り裂ける思いだね。俺とお前の中だってのに…」
 そう言って、クロノスはサクヤの頭からつま先までを視線で撫でまわした。
 サクヤは汚いものでもみるように眉根に皺を寄せた。同時に、どうした風の吹き回しだろうと頭の隅で考えた。この男とは、初対面に「お姫様」と軽口をたたかれて以来、ろくに口もきいていない。クロノスにとってサクヤとは、少し顔の目立つ、けれどどこにでもいるありふれた殺し屋であったはずだ。
 「あんたも仕事で来たんだろう。俺は帰る」
 荷物を拾い上げ、サクヤは階段を塞ぐように立つ長身の男を押しのけて出口を目指した。
 「――風の噂でしかないんだが」
 ことさら声を張り上げてクロノスは言った。

 「お前この頃、男と住み始めたんだって?」

 心底楽しいというような、鬱屈した笑いを含んだ声だった。それは、サクヤにとって急所となる話題だ。無情に歩いてきた人生のなかで、初めて心の揺らぎを覚えた相手について、(こと)にすら触れられたくないところである。それを、どうしてこの男が触れていいわけがあるだろうか。
 煮えたぎる頭のなかで、サクヤはそもそもの情報の出所を思案した。同居話を知る人間は限られている。まずは、琴。しかし彼女が無闇に秘密を暴露するとは考え難い。ならば彼女が情報を入手した先はどうだろうか。サクヤの身辺を探るために琴が情報屋を雇ったことは明らかである。その動きを嗅ぎ付けて、クロノスがやってきたとでもいうのだろうか。金さえ渡せば、情報屋の口は軽い。
 サクヤは氷冷に言った。
 「俺が誰と住もうが俺の勝手だろう」
 振り返ることをせず、サクヤは止まっていた足を動かした。
 「こりゃあ、驚いた。随分入れ込んでると見える」
 さして驚いた風でもなく、クロノスは続ける。
 「その男のこと、大して知りもしないんだろ?精々気をつけろってなぁ?猫だと思って拾ったものが、実は牙を隠した猛獣だったなんて、この世間じゃあよくある話なんだからサァ…」
 
 男のせりふの後半は、サクヤの想像である。クロノスの言葉を最後まで聞かずに少年は拠点の扉を閉めた。
 非常識な行動かもしれない。拠点を出入りする際には、大概細心の注意を払う。だが、情報屋のはびこる世の中で、秘密など存在しようかという諦念も人々の間にはあった。都合の悪い者に拠点を知られても、殺してから移せばいいだけなのだから。

 クロノスは殺し屋としては、目立つところのない人間であった。依頼の数も人並みにしかこなさなければ、愛用する刃渡りの長いナイフの腕前も並であると聞く。
 尤も、あの男が人前で披露する腕前は彼が見せたい夢幻の腕前でしかないというもっぱらの話であった。
 クロノスという男が脅威と目されるのは、その常軌を逸した行動の数々である。仕事とは関係なしに人を殺めることのある彼は、巧みに毒物を使用して拷問のような緩やかな死をただ傍観したり、言葉巧みにだまし込んだ殺し屋に特攻隊のような無謀な反逆を強いたりして遊ぶ。
 殺しを生業としていても、通常はそれなりのモラルというものが存在する。クロノスは、それらを完全に無視した無秩序な人間であった。そして荒唐な所業を難なく行動に移せるだけの様々なつてや能力が備わった人間であり、また実際の戦闘能力が未知数なだけに、手の出しづらい相手でもあった。
 「あれあれ、サクヤさんじゃないっスかー」
 サクヤははじかれたように振り返った。自分の思考に囚われすぎていたのか、気配に少しも気づかなかった。
 「なあんだ、兄貴が妙に楽しそうにしてたのはそのせいかー」
 大きな体に、まだあどけなさを感じさせる。無邪気そうに笑う青年は、最近クロノスが飼い始めた新しい犬だと、もっぱらの噂である。
 「おれのこと覚えてます?やだなー、サクヤさん。(べに)ですよ、紅。あ!でも実際に会ったのはこれで三回目だから、忘れられててもおかしくないですねー」
 へら、と更に笑みを大きくして紅は頭をかいた。
 実際に、サクヤは青年の名前までは覚えていなかった。過去に顔を合わせたことがあるか疑わしいというほどに記憶に残っていない。それでも一目でその青年が件の犬であることがわかったのは、地下室にあるクロノスの存在のほかに、紅につきまとう暗い陰のようなもののせいだった。そういえば、初めてちらりと見かけたときに、妙な気配のする青年だと感じたものだとサクヤは思い出した。感心するほどに記憶しづらい顔と印象。サクヤにとって、紅は瞳に宿す暗影でしか識別することのできない人間だった。
 「何しに来たんだって言いたそうな顔ですねー。えへへ、おれ、兄貴に頼まれごとしたんですよー。ほら、これ」
 これ、と言いながら青年は布袋を顔の高さまで掲げて見せた。掲げられたところで中身は見えないが、おそらく食料だろうとサクヤは思った。それよりもサクヤの目を引いたのは、布袋を見る紅の業火のような視線だった。熱を帯びた眼光がなにを意味しているのかまるでわからない。けれど、サクヤは今にでも破裂しそうな紅のなにかを垣間見た気がした。
 「おれ、偉いでしょー。えへへ――って、サクヤさんもう帰っちゃうんですかー?」
 さらにしゃべりだしそうな青年を嫌って、サクヤは踵を返した。一言も口を開くことのなかった年下の少年に対して、けれど紅は無邪気に「ばいばーい」と両手を大きく振り続けていた。

 
 
 微細な空気の揺れに、クロノスは背中越しに扉の方を見た。階段に腰かけた細面にはにたりとした笑みが張り付いていた。
 「紅か」
 「あれー、おれ気配消してたのに。兄貴にはすぐ気づかれちゃうんだよなー」
 ぽりぽりと頭をかきながら青年は階段を下り、クロノスの横を通って部屋の床を踏みしめる。
 「まだまだ詰めが甘い」
 クロノスは気だるげに片手を振りながら言う。
 飼い主よりも低い位置を陣取った紅は、布袋を笑顔で差し出した。
 「はい、いつもの通り、買ってきたっスよー。もー、兄貴もたまには贅沢して、生のフルーツなんか買っちゃえばいいのに」
 「俺がそんな無駄遣いするような人間に見えるか?食べ物は燃料に過ぎねえよ。食えりゃいいし、効率がいいに越したこたぁねえだろ」
 「そういわれると、反論のしようもないけど」
 むー、と青年は眉根を寄せた。
 「それにしたって紅、いつもいつも、食料のお使いにしちゃやけに時間かかってねえか」
 「えー。おれは魔法使いでもなんでもないんスよー?市場はいつも人で満杯だし、現地通貨使う人なんかのお金勘定でてんやわんやなんですから」
 クロノスはそれもそうか、とため息で返事をした。
 「食料の買い物にだけは死んでも行きたくねえ理由の一つだな」
 「そうやって自分だけは楽しようとするんだからー」
 青年はころころと笑った。

 紅は知っていた。クロノスは仕事でもなんでもなくこの拠点を訪れたことを。昨夜自分を早く帰らせて、調べものをしていたことも。そして適当にお使いなどを言いつけて自分を追いやり、サクヤと二人きりの空間を作り出したことすら。紅は綺麗な少年のことを思い返した。
 「サクヤさんって大人っぽい人っスねー。おれなんかとは全然違う」
 クロノスはふっと笑った。
 「そりゃあ、そうだな」
 「なんだか兄貴、すっごく楽しそう。きっとサクヤさんのおかげっスねー」
 紅は瞳をきらきらさせて言った。サクヤがどうなろうと、青年の知ったことではない。クロノスの思惑も、正直なことをいえばどうでもよかった。
けれどそのとき、痩躯の男はくつくつと押し殺した笑いを漏らした。ひときわ楽しそうな、とてつもなく屈折した声だった。
 「まアな」
 青年は驚いたというふうに両目を見開き、そして、目元を緩ませた。
 「それでこそ兄貴っス。おれ、たった今惚れ直しましたよー」
 紅は思った。自分は煌々と黒光りするような鬱屈したこの男の気概が奮起する瞬間がたまらなく好きなのだ。青年にとって、それを誘発する事象は憂慮するに足るものではなかった。
ほくほくとした気持ちで、紅は拠点を後にした。クロノスはなにやら計略を練っているようだった。邪魔をするまいと、青年は建物の影に控えていようと決めたのである。

 永遠などないとわかっていた。けれど今の時間だけは、ずっと続けばいいと紅は思った。

3.

 その夜、サクヤは仕事とは関係のない責務についていた。
 とある情報屋を探し出し、あとをつける。サクヤにとってそれは別段難しいことではなかった。昔から行ってきたことだった。
 人気のない路地までつけたところで、背後から男を襲った。男は悲鳴を上げることはない。騒げば、突きつけられたナイフが容赦なく喉を捌くことを知っているからだ。サクヤは男を顔ごと壁に押しつけ、凍えるような声で言った。
 「さぞ儲かったことだろうな」
 暗がりの中で、男は必死に目をぎょろつかせた。凝らした視界にぼやけて映り込む人影、その人相を見て、男は あっと小さく声をあげた。
 「す、すまなかった、あんたに迷惑をかけた…っ。か、金ならある、いくらでもやる、だから…――っ」
 ごふ、ともびしゃ、ともつかない音が漏れた。命乞いは途中で断ち切られた。男の首から噴き出した血が、落書きのように壁面に模様を描いていた。
 サクヤはナイフについた血を振り払う。どの道いつかは摘もうと思っていた芽だった。特に不都合はない。
 刃物を鞘に納め、少年は殺害現場を去った。
 ぽつぽつと水滴の零れ落ちる空の下。その瞳には、一点の曇りもなかった。
 

 宝物のような時間がある
 
 幼子の手が触れる。軽い体を高く持ち上げると、小さな顔がほころんだ。陽だまりのような幸福のなかで、穏やかな日々を過ごした。あの瞬間だけは、後ろ暗いすべてを忘れられた。
 その夜、物陰から見た少年をすぐに識別できた。
 優しい薄茶の髪の毛、大きなアーモンドアイ。でもあのころとは打って変わって、冷酷な表情。
 血の雨が降りしきる中、複数の敵の間を乱舞する姿は蝶が舞い踊っているかのようだった。
 頭から血をかぶり、人を殺めるその様子を、どうしようもなく綺麗だと思った。



 糠雨が本格的な土砂降りになり始めたころ、サクヤは大通りを歩いていた。今もなお戦禍の亡霊に祟られる街の中でも、この通りには破壊された建物が一際多く立ち並ぶ。かつては華々しい中心街として栄えていただけに、集中砲火を食らったのだという。
 散乱した瓦礫は撤去されて久しいが、屋根をこそぎ落とされた家々の修復は一向にはかどらない。これがこの街の恒久的な姿だと、誰もが諦観していた。
 それでも首都という形骸化した概念は、この街に留まり続けた。どこにあるかもわからない政府とやらがこの街のどこかに潜伏しているのかと思えば、いささか不愉快な気分になる。それは共感されるだろう思考であり、だからこそ政府という抜け殻は地下に潜った。電波を傍受することで反乱因子の融合を阻み、殺すことで国の治安を改善しようとする。雑草を排除するためには、根こそぎ引き抜かなくてはならない。そういう論理で政府は動いていた。
 正しい思考回路なのかもしれない。けれど雑草はきっと荒れた土地にはびこり続けるだろうとサクヤは思った。所詮は鼬ごっこである。

 人気のない通りを、黒塗りの車両が通った。大変珍しい光景である。車などを作る工場のない国で、普通の人間はそれを購入するだけの財力はおろか、そもそもお目にかかる機会というものがなかった。多くの場合、街で見かけるまばらな車たちは密入船によって持ち込まれたものであり、その違法性は確固たるものだった。
 けれどサクヤにはその車に見覚えがあった。やはり路肩に停車した様子を見て、少年は複雑な表情を浮かべた。
 のぞき込むと、車窓が静かに降下した。
 「乗れ」
 ぶっきらぼうに告げられた言葉は、轟きのような雨音に掻き消えることなく、サクヤの鼓膜を揺らした。



 濡れたコートのまま、サクヤは車に乗り込んだ。
 「どこか行きたいところがあるか。それとも、帰るか」
 帰る、という言葉はこの男が口にすると妙な響きだとサクヤは思った。すれ違うことの多い生活のなかで、住処を同じくしていることを強く実感させる一言だった。
 サクヤは改めて男について考えを巡らせた。名前は玖珂(くが)、少なくとも、そういうことになっていた。年齢は見たところでは30手前という印象。職業不詳。当然ながら、玖珂にまつわる情報は極めて少ない。確信できるのは、サクヤに対する強い執着心。理由は無論、不明。
 雨粒が水流となって窓からの視界を塞ぐ。シートの座り心地を確かめながら、サクヤはしばらく無言だった。
 車が動くには燃料が必要である。そして、この国の資源は枯渇している。密輸入された燃料は現実味を欠く値段で販売されると聞く。ならば玖珂は一体、どこからどうやってそれを入手し続けているのか。玖珂の正体、それについて考えようとするも、豪雨のくぐもった濁音のせいだろうか、頭が妙に飽和状態である。結局、その思考は断絶せざるをえなかった。
 「…海は荒れているだろうな」
 ぽつりとサクヤがつぶやくと、車は滑るように走り出した。

5.

 ジンはその晩も、余命のことを考えながら生きていた。死の裁きは、主の気まぐれで、いつでも起こりうる。そう思うと、この辛気臭い世界の裏路地に座る落ちぶれた自分の状況も、建物の隙間から顔をのぞかせる蒼い月も、割れた窓に映る不景気な顔も、妙に愛おしく感じられた。いずれ来る死を確認しながら、けれど自分はそれでも血の通った体のなかに強烈に息づく生を意識していた。これほど生きた心地がするのは、やはりあの断罪のおかげだろうと、ジンはいやに矛盾した考え方をした。

 とはいえ、主以外の人間に命を狙われる可能性も十分にある。自分は数多の仲間を売って命を繋いだわけで、逃げ延びた仲間などがいれば、即座に報復の魔の手が襲い掛かってくるだろう。けれどジンは、奇妙に主を信頼していた。主は狙った獲物を逃すほど詰めの甘い人間ではない。そして自分の仲間たちの居場所に関する情報は、一つも抜かりはなかった。
 要するに、ジンが脅威に思うべき人間は、主のほかに誰もいなかった。
 寝泊りする空き家の壁の外壁に背を凭れかけながら、ジンは大きく息を吐いた。主との約束で、自分はここから一歩たりとも移動してはならない。否、見たところ監視する人間はいないので、夜逃げしようと思えばいくらでもできる状態である。
 しかし主の実力と執念をもってしてならば、すぐに見つかり処分されてしまうだろうことは知れていた。動けないことで、多少の不安もあった。もし主が不用意に仲間たちとつながりのある人間にこの場所を喋ってしまえば、自分は確実にお陀仏である。けれどもジンはそういう面でも主を信頼していた。主の口は堅く、また主は相当に慎重な人間である。
 この世で誰よりも自分に恨みをもっている人間が主であることが、ジンにとっての最大の救いといえた。
 『ジン、だな』
 冷徹な眼差しに、地獄を這うような声。ジンは今でも忘れられずにいた。
 主がどうやって自分を探し出したのか、それは単純明快なことだった。情報屋とのつながりを持つ仲間は多いだろう。少し金を出せば、自分のような情報屋の口は軽い。他に稼ぎようのない自分たちは、裏切ることでその日の糧を得る。他人の命と自分の命。単純な計算である。
 そうして狙いをつけた仲間を脅し、或いは拷問をかけ、他の仲間の情報を手繰る。仲間たちは、意外にも密に連絡をとりあっていた。
 一度は同じ釜の飯を食べた間柄であるからだろうか。否、ただ不安で仕方がなかっただけだ。手綱を握られることに慣れきってしまった人間たちが、騎手の手を食いちぎったのである。これからどうするのか、互いに互いの様子が気になったというのも大いにあるだろう。
 ジンは、仲間たちの中でもひと際気が弱かったのかもしれない。臆病だったのかもしれない。仲間意識という概念が欠落しているのかもしれない。脅されるよりも拷問されるよりも早く、ジンは口火をきった。
 『情報ならある…。…だから、殺さないでくれ』
 あれからもうずいぶん経つのに、ジンは主のことを一目で思い出した。ひどく後悔した。同時に、ひどく安堵した。これがこの世界のあるべき正しい姿だと、秩序のようなものを感じたのだった。ジンは仲間の名前と居場所を一つずつ、回数をわけて主に提示した。そうすることで、余命は引き延ばされていった。
 仲間の命と、自分の命。究極の選択を迫られたとき、ジンが感じたのは、ただただ生きたいという渇望だった。だからジンは、自分の心に従った。
 『これで最後だ。俺は、これ以上誰の名前も居場所も知らない』
 死が訪れると覚悟したとき、ジンは頭をうなだれて言った。それは本当のことで、嘘でもあった。実際には、最後にもう一つだけ名前をもっていた。けれどその人物だけはどれほど探しても影すらつかめず、居場所も当然ながらわからない。それでは不十分な情報で、命を食つなぐことはできないとジンは踏んだ。
 足掻くよりも、いっそ潔く殺されたいと思った。
 『…なぜ、仲間を売った』
 主は抑揚のない声でジンに問うた。もう会話はないと踏んでいたジンは、大層驚いたものだった。
 なぜ、このタイミングでそのようなことを聞くのだろうか。仲間を売ることを、理不尽にも叱責されるとでもいうのだろうか。
 『俺は、生きたいと思った。…ただ、それだけだ』
 ジンは重たい口を開いて、言葉を絞り出した。裏切りに、特に深い考えなどなかった。
 そのとき主は、初めてジンの前で表情を崩した。少しだけ口元を歪め、瞳が悲しげに揺らいだ。
 主にも心があるということを、ジンは失念していた。向けられる怨恨と機械のように殺す所作ばかり見てきたせいか、ジンは自然と主を無機物のように思うようになっていたのだ。
 『そうか』
 主は短くつぶやき、右手にあったナイフを鞘に納めた。
 『お前はよくやった。余命をくれてやる。…ここを動くな。動いたら、必ず見つけ出してその場で殺す』
 くるりと向けられた背中に、ジンは神でも見たかのようにひれ伏して泣いた。
 『忘れるな。お前の命はこの手が握っている』
 その言葉は、言霊のようにジンの脳裏に反響し続けた。
 以来、主がここを訪れることはあまりない。定期的に、或いは気まぐれに、ジンの存在を確認しにくるだけだった。
 街はずれで闇市からも遠いこの場所には、基本的にだれも寄り付かない。なので、ここをわざわざ訪れる人間は、特に目立った評判のない情報屋のジンを尋ねにくる客か、主くらいのものだった。
 だからその晩、薄雲が月を覆い始めた頃の靴音が聞きなれないそれであっても、ジンは特に危機感を抱かなかった。主の足音とは異なるそれは、客か、行きずりの人間のものだろう。
 けれど確実に自分の方角に近づいてくる音を、その晩はなぜか不気味に思った。重みのある音、そしてわざと響かせるように歩いているようにもとれるそれはやけに怒りを帯びているようにも思えた。
 背筋を伸ばし、耳をそば立てて、ジンは靴音の近づいてくる方角を向いた。
 曲がり角から、男の体躯が褪せた月光を浴びて現れた。靴音の正体を視認した直後、ジンは胸倉をつかまれていた。足の速い男だ。ジンは妙に感心しながら、抵抗をする間も無く体ごと高く持ち上げられる。首が閉まり、言葉は泡となって口から噴き出した。

 月が本格的に陰り、先ほどまで明るかった景色も薄闇に包まれた。血の上って火照る頭に、ぽつりと水滴が滴った。
 男は一言も発しなかった。黒光りする拳銃をジンの体に押し当て、躊躇なく引き金を引く。銃声が響き終わる頃には、男は現場を去っていた。
 激痛を感じたのは一瞬で、それからは痛覚がショートしたように何も感じなくなった。ジンは腹に手を当てた。指先が痺れてしまっているのか、何も感じ取れない。それはせめてもの救いかと、ジンは自分の思わぬ幸運に苦笑した。ただ、倦怠感だけが募っていき、息が切れた。体から力がぬける。奇妙に悪寒がした。
 ジンは朦朧とする意識のなかで、主について考えていた。主は裏切ったのだろうか。
 自分の居場所を、誰かに告げ口したのだろうか。それならそれでもいいとジンは思った。生きるために裏切った自分が、他人に裏切るな、などと言えた口ではない。けれど不思議と、ジンは主のことを信頼し続けていた。主は無実である。あれほど人間的な表情を浮かべることのできる主が、そのような非情なことを行えたはずがない。
 矛盾したような思考を抱えたまま、ジンは意識を手放そうとしていた。脳裏には、最後まで主の顔が張り付いて離れなかった。

6.

 静寂の満ちた車内は、サクヤにとって居心地が良くもあり、悪くもあった。この男に根負けしたあの夜、最初に言いつけた約束事が自分について一切詮索をしないということだった。男はそれを快諾した。そしてこの沈黙は、約束を厳守していることの証だとサクヤは思っていた。けれど静けさの満ちる密閉空間では、どうしてか玖珂(くが)の存在を強烈に感知する自分に、少年は戸惑いを感じた。
 自分のなかに踏み込んでくるなと言ったあの日、サクヤは玖珂を詮索しないことを心の中で誓った。だから、サクヤもあえて沈黙を破ろうとはしなかった。そうでなければ不公平だと思った。尤も、この男はそのような不平を一言も口にしなかったが。
 雨粒の集中砲火を食らい続けるフロントガラスの上を、ワイパーが忙しなく動いている。拭ってもぬぐっても終わらない作業を、淡々と続けている。それでも何も感じることのない機械を、サクヤは少し羨んだ。
 ちらほらと灯りのついた建物群を抜け、車はやがて更地を走りはじめた。玖珂はぬかるんだ土の上を迷うことなく進み、ほどなくして眼前に大海原が広がった。
 そこは、街に寄り添うように広がる海沿いの崖、その中でもひと際張り出した部分だった。サクヤは無言で車を出た。玖珂もそれに続いた。
 生活排水の垂れ流しになっている海は、お世辞にも綺麗とは言えないものだった。大戦は国の豊かだった水道施設を壊滅させた。この街ではかろうじて下水道が使える状態だったため、とりあえずそれを利用して汚物は海に流すことが常習化していた。
 水の出る施設は貴重であり、例えばサクヤなどは組織の運営する建物や拠点を利用し、有料でシャワーを浴びている。唯一の救いは、国が決して過ごしにくい地理にはないというところである。気温は季節によって上下しようとも、耐えられないほどの極暑や極寒になることはまずなかった。厚着をする必要はなく、服の分だけ生活用品にかかる金が浮く。また、凍え死ぬことも、ひからびることも人々はまぬかれていた。穏やかな気候は虫たちにとっても快適で、だから困ることといえば、蚊による伝染病にかかりやすいことだった。とはいえ、金さえあれば予防薬はぼったくりの藪医者から入手することは容易い。上からの命令で、サクヤも自費での服用を強制されていた。
 広く河川が分布している国では水不足に苦しむことはない。尤も、内陸では川の水に汚物を流しているともっぱらの噂である。サクヤは外国の水を購入して飲み水にしていた。それが不法に輸入された水かどうかなど、どうでもよかった。
 結局、金と多少の判断力さえあれば、如何様にでも生き延びることの可能な世界だとサクヤは思った。
 そうして自分は、目的を達成して生きる意味すら見失った中でも、叫ぶ本能のままに生き続けている。浅ましいだろうか。傲慢だろうか。否、生を求めることが美しく映える瞬間はない。人々は平等にその卑しさを抱え持っている。それが罪だというのならば、神が自ら人々を断罪し殺しに来ればいい。早急に。圧倒的な力と正義でもって、この命を捻りとっていけばいい。ひょっとしたら自分はそれをこそ待ち望んでいるのではないかと少年は思った。

 風雨に打たれながら、サクヤは崖の淵まで歩いた。岸壁を打つ大波は黒々として、そして奇妙によく泡立っていた。

 「汚いな」
 眺め下した海を、サクヤはそう評した。玖珂はやはり三歩ほど後ろに佇んでいた。サクヤの気まぐれに気を悪くした風でもなく、玖珂はそうだな、と頷いた。
 「お前と初めてどこかへ出掛けた」
 玖珂は少しだけ柔らかな声音になった。サクヤはそれに気づいてしまう自分が不思議でならなかった。
 果てのない大海原はまるでがっぽりと開いた奈落の入り口のようで、希望はおろか、感傷すら湧き上がることはない。この境界線の先に別世界が存在することなど、誰に想像できるというのだろう。誰がそんな夢を抱く心の余裕を持てるというのだろう。人々はその日を生き延びるだけで手一杯だとサクヤは思った。
 「…俺たちの世界は孤立している。この海に阻まれて、どこにも行けない。生きてたって死んでたって同じで、もしかしたら生きるほうが苦しい世界で。それなのに、俺たちはどうしようもなく生きている」
 サクヤはおもむろに振り返った。疲れ果てた表情に、諦めの色が浮かんでいた。普段隙を見せることのないサクヤが、唯一、玖珂にだけは見せるようになった顔だった。
 「それでも俺たちは、生きていくしかないんだ」
 くしゃりと、小づくりの顔が歪んだ。大粒の雨が髪を濡らし、頬を伝う。
 玖珂は言葉もなくサクヤを抱きしめた。華奢な頭を胸に押しつけるようにして、玖珂はサクヤの柔らかな髪に唇を寄せた。
 「そうだな」
 低く響く優しい声が、サクヤの鼓膜を撫ぜた。
 「それでも生きていく。それのどこが悪い?」
 鉛色の空から、ひと際夥しい量の降雨が始まった。遠方で雷鳴が轟く。
 「俺はそれでいい。お前さえいれば」
 いつからこの男はそんな睦言を口にするようになったのか。最後の言葉は、迫りくる轟雷の音に紛れて聞こえないふりをサクヤはした。



 街はずれにある朽ち果てた薬局に華奢な影がうろついていた。ここは中心地から一番離れた場所に位置する交換所で、本当かどうかは疑わしいが、一応認可を受けているらしい。ここの最大の売りは、医薬品も取り扱っているというところである。少し値の張る、手に入りにくい痛み止めや抗生剤も置いてあり、人々は大概それらを目当てに立ち寄る。
 サクヤは多少の医薬品と携帯食料を購入して、手に下げた黒い鞄に詰めた。しゃがんだ際に視界に入るコートの裾のほつれを見て、そういえばそろそろ衣類も必要だな、などととりとめもなく思う。市に商品として出ている衣類品では、華奢な体に合うようなものはなく、サクヤは仕立て屋へ行くことを余儀なくされていた。
 しかし、今はそのときではない。水の容器が二つ入った少々重い鞄を手に下げ、サクヤは更に中心地から離れた場所へ向かった。
 目的はとあるぼろ家だった。適当に間隔をあけて、そのぼろ家の住人に生活必需品を届けるという、傍からみるとなんとも慈善的な行為をサクヤは行っていた。無論それは物事の表面的な部分に過ぎず、ことはそう単純でもなかった。
 サクヤは刈るべき命を刈り取らずに放置していた。それも、もうずいぶんと長いこと。それは、確信を持てないからだった。自分の復讐の旅はもう終わったのだろうか。存在意義というものを見失うことが怖くて、あれを永らえさせているのだろうとサクヤは思った。
 あれを見る限り、まだ秘密を隠していそうな気がしてならない。かといって、脅せば口に出すような人間でもないと思われた。だからサクヤは餌としてあれを利用することにした。仮にあれが殺されでもしようものなら、まだ自分にとっての敵は存在することになる。
 殺すことでしか生きられない自分にとって、殺すべき対象がいたほうが、理性的に考えれば良い。けれど心のどこかで、あれの無事を確認する度に安堵している自分をサクヤは知っていた。生きたいという願望が強く宿るあの目に、まだ光が灯っている事実に、ほっとする自分を。
 目的地に近づくにつれ、サクヤは違和感を覚えた。空き家の周辺がなんだか騒がしい。甲高い声がして、それが子供のものだと気づいた頃には、空き家は目の前まで来ていた。
 「…なにがあった」
 サクヤは見覚えのある女に声をかけた。状況は一目瞭然である。死体があったので、死体処理係の女、レイラが仲間を連れてやってきた。それだけのはずなのに、サクヤにはどうにも解せなかった。なぜあれが始末されることになったのか。一体、誰が手にかけたのか。
 「サクヤさんではありませんか」
 気の抜けるような間延びした声で、レイラは応対した。
 「おい!死体の場所を教えてやったんだから、対価をよこせよ!」
 そこで割って入ったのは、十歳ほどの子供だった。レイラはスーツの内ポケットから多少の外貨を出し、子供に差し出した。子供は紙きれをちぎらんばかりの勢いでそれを受け取って走り去った。
 「やられたのか」
 紙幣をもぎ取られた手を見つめ続けるレイラをよそに、サクヤはもう一度問うた。
 「ええ。推定三十五歳前後の男性が」
 レイラは次に懐から小さなノートを取り出し、情報の書き出しを行っていった。業務の報告用かなにかだろうとサクヤは踏んだ。
 「下腹部に弾丸三発。後頭部に軽い打撲。他に外傷なし。死因は失血死。死亡推定日は三日前。死後硬直が完全に解けている具合から、時間帯は三日前の深夜から早朝にかけてと思われる。男の身元は不明」
 すらすらと口にしながら、女はノートに書き入れていった。業務上の規定であっても、これほど馬鹿正直に規約を守って行動する人間も少ないだろうとサクヤは思った。ほとんど目も通されることもないだろう資料を作成することに、いったいどれほどの意味があるのか。
 「書くのは趣味です。様々な人の死因を特定して日記にすることが、私の喜びとなるところなのです」
 相手の心を読んだかのようにレイラは言った。
 「あれも市場に出すのか」
 「ええ、当然です。たとえ三日経った肉であろうとも、肉は肉です。涎を垂らして待ち望む市民は多いでしょう」
 レイラの所属する組織は、政府ともつながりのある、死体処理を請け負う業務を行っていた。確保した死体は部位ごとに切り捌き、闇市場で食用肉として売りに出す。牧畜といった技術や、そもそも牧畜を行うだけの秩序も資金もない国の民にとって、肉はどんなものであっても貴重であった。それで食中毒となり命を落とそうとも、それはむしろ本望とする人間も随分と多いことだろう。
 死体を運搬するには、力が必要である。そんな業界で女のレイラが生き延び続けている裏には、彼女のずば抜けた医学的知識と解剖技術があった。
 多くの女が商館やバーで勤めざるを得ないなか、これは大業である。あの(こと)でさえ、殺し屋といえども、自分の体を囮に使って獲物を仕留めることのほうが多かった。
 レイラの過去を知る人間など存在しないが、彼女はまず間違いなく外で医学の専門的な訓練を受けているに違いないというもっぱらの噂であった。無論、市場に出すために肉をさばくのも、レイラの仕事である。
 「周辺に薬莢は落ちていたか」
 「ええ。ちょうど三つ、転がっていました」
 サクヤは今しがた運ばれようとしている死体を見て、短くため息をついた。
 「悪いが、一つもらえないか」
 なんにせよ、賽は投げられた。あれの死を悼む理由もなければ、供養してやる義理もない。このことは一旦頭から排除しようとサクヤは決めた。
 「高くつきますよ」
 レイラは薄ら笑いを浮かべた。
 「払う」
 レイラはやはり内ポケットから一つ、小ぶりの薬莢と、恐らく体内から摘出したのであろう弾丸をサクヤの手に渡した。
 サクヤは生活必需品を買ったあとの持ち金をすべて支払いにまわした。あれにもう必要がなくなったのであれば、当面の生活品は手に下げた鞄の中身で事足りる。金などいくらでも住処に眠っている。
 仕事に戻るつもりなのか、レイラは運搬係の男たちの元へ戻っていく。死体に穴が開くほど視線を浴びせながら。
 ふと思いついて、サクヤはレイラに投げかけた。
 「外を…ここじゃないどこかを、想像したことはあるか」
 噂を全面的に信じているわけではない。けれどレイラはきっと、少年の知らない何かが見えている。そんな気がした。
 レイラは少しだけ睫毛を震わせて言った。
 「地獄は環境ではないのです。いつだって、それは私の中にあります」
 立ち止まり、まるで嗅覚など持ち合わせないかのように、死体の顔に鼻先を近づけたレイラは続けた。
 「どこへ行っても地獄なら、一番地獄らしい地獄に住みたいと願うのです」
 指示に従い、男たちはほかの死体ものせられた滑車を前後で挟むようにして動かし始めた。レイラはそれにつかず離れずの距離でついていく。
 サクヤはその姿を最後まで追わなかった。用は済んだ。これ以上レイラに関わる必要はなかった。
 
 腐敗して虫の群がる血だまりを見つめながら、サクヤはしばしあれについて思案した。あれは忠実に命令を守ったということになるのだろう。危険が迫っていると知りながら、ここに居続けたのだろうか。否、あれほど生に執着した目つきをしている彼ならば、勘が鋭く働くはずである。ならば、奇襲を受けたということだ。
 サクヤは手のひらにあるものを固く握りしめた。賭けは粘り勝ちに終わった。殺すべき人間は、まだ生きている。あれを餌として置いていただけの費用が一気に報われるというものである。
 それでも何かを払拭できずにいる自分の心を、サクヤはごまかした。重要なのは、新たな敵、死ななければならない人間がまだいたという事実である。今はそれだけを考えていればいい。
 「裏切り者には死を」
 
 サクヤはけれど弔うように、しばらくそこを動かなかった。

7.

 中心地からわずかにはずれたところは、いわゆるスラム街となっていた。もとは住宅街であっただろうものから屋根や壁の一部を排除し、それを傘やビニールシートで補強してあり、足を踏み入れると、腐った汗のにおいや住人たちが集めてきたゴミ類のにおいがたちこめた。
 現在国が使用している旧式の下水道はここでは機能していないが、川が近くを流れていることがせめてもの救いだった。それでも糞尿の異臭はぬぐえず、今しがた横を通って行った酔客が穴の空いた傘めがけて放尿していた。
 スラムの建物の多くが、地下室に飲み屋や風俗を隠し持っていた。隠し持つ、と表現するのは間違っているかもしれない。このことは、生きてさえいれば必ず知ることのできる事実である。政府も例外ではない。とはいえ、裏のルートならいくらでもあった。たとえ抜け殻の政府の手もとにあるなけなしの巡廻船をもってしても、より優れた馬力とレーダーをもつ外の違法船はいともたやすく潜り抜けてしまうだろう。端的に、黙認されている状態だ。
 サクヤは一つのバーに通じる階段を下るべく、道を右に曲がった。建物の間で多くの若者が煙に燻されている。大麻や覚せい剤といった類の薬物である。政府が禁止している多くの一つがやはり薬物であったが、大量に漂着してくる売人をせき止めるなど、到底できないであろうと思われた。
 薬物は殺し屋にとっては極上のおまじないみたいなものだった。恐怖が消え、アドレナリンの噴出とともに活力が湧き、力が倍くらいになった気分になる。実際、痛覚が消えるのか、多少の傷でひるまない、いつも以上に早く長く走れるようになる、などという話はよく聞くものだった。仕事をする上で覚せい剤を欠かせない殺し屋は多い。
 
 地下に通ずる、壁と一体化したように目立たない扉をわずかに開き、サクヤは滑るように中に入った。
 相変わらず汚いところだ、というのが第一印象だった。薄暗い空間には煙草の煙が立ち込め、内装は間に合わせのもので溢れていた。恐らく市で定期的に出品されるテーブルや椅子をとりあえず配置しているのだろう。家屋も多少は漁ったかもしれない。傷物の内装品は一つとして同じものはなく、人々が煽るグラスも、どれも欠け、或いは向う側が透き通って見えないくらいに汚れている。
 サクヤはバーカウンターもどきの長机に金を適当に放った。テーブル越しの大男がそれをかすめ取るように掴み、長机の下からグラスと酒を取り出した。良く見ると、長机には鉄製の板がはめ込まれており、サクヤの方から酒の置いてある机下はうかがえない様になっていた。
 差し出された薄汚れたグラスを受け取り、サクヤはちびちびとそれを飲み始めた。喉を伝い、胃にかけて火が灯ったような感覚に陥る。味わいも何もない、安い酒なのだろうとサクヤは思った。尤も、サクヤ自身もこのような酒しか口にしたことがないが。
 レイラと別れてから、サクヤは一度住処に戻った。驚くことに玖珂(くが)は在宅で、二人は特に会話もないままに寝た。短い眠りから目覚めると、隣にいたはずの玖珂は姿を消していた。恐らく仕事だろう。
 玖珂に続くように支度をして、サクヤも街にでかけた。とはいえ、特に行くあてもなかった。ただ、あの薄暗い部屋に一人で呆けているのも嫌だった。
 改めて考えると、随分とそっけない部屋である。装飾品はもちろんのこと、家具すらほとんどなく、唯一存在感を放つ物といえば睡眠のためのベッドだけだった。そのためだろうか、一人の居住スペースとしては広すぎる部屋は、サクヤには妙に肌寒く感じられた。
 玖珂と出逢う以前は、住処に籠ることのほうが多かったというのに。侵食されるように状況に馴らされていく自分が、サクヤは恐ろしかった。
 そうしてたどり着いたスラムの酒場にも、玖珂の影がちらつく。あの男と初めて出会った場所がここであるということに、サクヤは遅ればせながら気が付いた。丁度このように、一人酒を煽っているときだった。深層心理がこの場所へサクヤを導いたとでもいうのか。サクヤは心のなかで嗤った。そのようなことがあるはずがない。否、あってはならないことである。


 情報収集にはうってつけの場所として、その頃のサクヤはよくこの界隈の酒場を利用していた。それをどうして玖珂が聞きつけたのかは不明だが、個人情報など漏洩しまくる時代である。不思議はない。
 玖珂はことあるごとにサクヤを見つけだしては、話しかけに来た。サクヤがそれに応じてやる必要などどこにもなかった。だから、初めて声をかけられた時は適当にあしらっておけば良いと思った。
 けれど、玖珂の顔を一目見た瞬間、サクヤの決心は揺らいだ。古い記憶が疼き、思い出せない心の奥底の感情が帳を開けて溢れ出る感覚がした。
 幼い頃の記憶の多くが欠如していたが、その男は封印されたそれらをこじ開けてしまいそうなほど、強い既視感をサクヤに与えた。既視感ばかりではない。懐かしさと、暖かな何か。どれも必要のないものばかりである。
 玖珂はそれ以降も、サクヤが酒場を利用する際には必ずといっていいほど待機していて、しつこく話しかけてきた。初めて相対したときの抽象的で曖昧な感情は日に日に増し、どうにかしてそれを忘れようと努力した。サクヤにとって、思い出せもしない過去は存在しないも同然だった。
 この世に対する憎しみだけが強く心に残るのであれば、どうせ碌なものではない。かろうじて覚えている最も古い記憶ですら、ひどいものである。飼育環境ともいえたあのむごたらしい子供時代の風景が、自分の心に燻る怨恨の根源であると、当時は思っていた。だからサクヤは玖珂を拒み続けた。今で手一杯の状況にこれ以上の重荷をもたらすような存在は、遠ざけるべきである。
 けれどサクヤはついに玖珂を拒絶することはできなかった。酒の席を同じくするなかで、互いに無言ながらも居心地の良い距離ができてしまった。玖珂の気配も馴染みのものとなっていった。
 だからだろうか、あのようなことがあったのは。
 いつだったか、サクヤはやけに酔いの回った日に、玖珂に余計な情報を与えてしまったことがあった。

 その日、サクヤは街はずれの飼い犬に物資を届けに行っていた。相も変わらず約束を守り続ける忠犬に、複雑な思いを抱きながら。いつからか信頼の絆のようなものが二人を結んでいた。
 サクヤにはそれが薄々わかっていた。だからこそ、早く始末しなければならないと思った。けれどその晩も、犬を延命させるべくせっせと餌を運んだのであった。
 自分を制御できない苛立ちを抱えて帰ってきたサクヤは、珍しく深酒をした。玖珂が店を訪れたころには、すでに十杯目のグラスに突入していた。いくら水でかさ増しされた安っぽい酒でも、十杯ともなれば酔いも回る。
 二人はしばらく隣り合わせで言葉を交わさずに飲んだ。サクヤは十一杯目のグラスを注文した。
 「飲みすぎだ、サクヤ」
 顔には出ない体質のサクヤが泥酔していることを見破った男は、諭すように言った。
 「あんたには関係ない」
 サクヤは冷たく切って捨てた。
 玖珂はサクヤの顔を改めて観察した。サクヤの目尻はわずかに赤みを帯びていた。玖珂は何を思ったか、グラスを傾けながらしゃべり始めた。
 「俺も、お前にたどり着くためには色々な情報屋を当たっていてな。嫌でもお前が殺し屋をしていることは耳に入る。それも、かなりの腕前だと聞く」
 サクヤは相手の真意を測りかねるようにいぶかしげな表情を浮かべた。
 玖珂は構わずに続けた。
 「お前、殺しを初めて何年だ。…それほどの腕前だ。浅くはないんだろう」
 殺しに関わって何年、と聞かれれば恐らく十年ほどの歳月が過ぎた。しかし殺し屋を生業として始めたのはごく最近のことである。サクヤはけれど玖珂の質問に明確な回答を与える気はなかった。
 「こんな世の中だ。誰だって生き延びることに精一杯で、生き残るためならどんな努力だってするだろう。それに加えて、俺は幼い頃から躾けられているからな」
 皮肉を含んだ声音に、玖珂の表情がわずかに揺らいだ。それを意外に思いながら、サクヤは十一杯目のグラスを空けた。すかさず次のグラスを頼む。
 サクヤはもはや自分が何を悩んで飲み始めたのか忘れかけていた。普段ならば周囲を警戒してこれ以上の飲酒はしない。しかし玖珂の存在が、妙にサクヤを安心させた。そして何故か強烈な喉の渇きを覚えさせた。まるで体が緊張でもしているかのように。
 会話を頻繁に行わない二人は、こうしてひとしきり言葉を交わすとすぐにまた寡黙になることが常であった。ところが、その日のサクヤは饒舌だった。

 「気が付いた頃には、飼い殺しの生活だった。捨て駒のように使われて、命を落としていく子供も多かった。俺も、そう遠くないうちに同じ末路を辿っていただろう。…だが、そんな悪意に満ちた組織も、結局は殺し屋に壊滅させられた。因果応報というべきか」
 サクヤはそこで言葉を区切り、更に酒を喉に流し込んだ。
 「残された俺たちは、監視のいなくなった部屋から脱出して散り散りに逃げた。尤も、あの頃には人数もたった三人となっていたが」
 サクヤは、脱出時に拾った薬莢をいつの間にか指の間で転がしていた。それは肌身離さず持っているものだった。自由の身になった際、月光浴び凶器のように煌くそれが、その時やけに心に響いたのだ。サクヤにとって、独立して初めて見た物であり、まさしく自由の象徴のように映った。それ以来、癖のようにそれを持ち歩くようになっていた。
 らしくもなく懐旧譚を語っている自分に、アルコール漬けになった脳がようやく警告を発し始めた。
 この男はサクヤの警戒心の間を縫って自分を詮索している。何よりも、接していると自分が自分ではなくなるようで不気味だった。サクヤは復讐を生きがいとした機械でいたかった。それ以上のものはもはや抱えきれないことを自覚していた。
 サクヤはグラスに残った酒を一気に飲み干し、冷ややかな眼差しで玖珂の方を向いた。
 「昔話はこれまでだ。つまらないことを聞かせたな。…忘れてくれ」
 サクヤは立ち上がろうとして、急激な眩暈に襲われた。やはり飲みすぎたのだろう。宙に浮いたみたいに地面の感覚が掴めず、サクヤは思わずよろけた。玖珂はすかさずそれを支え、足元の覚束ない華奢な体を包み込むように抱え込んだ。
 「サクヤ」
 妙に気分を落ち着かせる声だと少年は思った。
 「一緒に住もう」
 麻痺した思考を乗っ取るように、忘れようとしていたあの懐旧の念が強烈に疼いた。
 有無を言わせない口ぶりの申し出は、出会いがしらから玖珂が言い続け、サクヤが拒みきれずに答えを引き延ばし続けているものだった。
 初対面から不定期に会い続けて随分と時間が流れた頃。
 玖珂の腕の中で、サクヤは僅かに頷いた。


 あてもなく飲んでいると、やがて馴染みのある気配が近づいてきた。
 「…神代(かみしろ)か」
 サクヤは肩越しに言った。
 「お世話になっております」
 神代は厳かに一礼した。普段と変わらず、仕立ての良いスーツを身に着け、整えられた頭髪は几帳面に後ろに撫でつけられていた。神代について、サクヤは多くのことを知らなかった。組織から時折寄越される伝令係、それも相当腕の立つ人間であることは確かだ。組織の上層部は三人の人間で仕切られており、神代はその秘書としても機能していた。

8.

 サクヤの組織は、実質三人の人間によって仕切られている。いずれも旧体制の頃のメンバーで、名を(きょう)奏椰(そうや)、カンナという。

 サクヤは彼らとはいずれも面識があった。飼い殺しの生活を抜け出して以降、サクヤはしばらくとある集団に身を寄せていた。
 喬たちがクーデターを起こす前夜、その集団は旧体制の上層部から彼らをせん滅する依頼を受けた。旧体制の組織は、すでに彼らの裏切りを感知しており、それに同調する人間の多いことも把握していた。下手に組織内で抗争を起こすよりも、部外者に一枚噛んでもらった方が、組織にとっては都合が良かった。彼らについて組織から多くの情報は得られなかったが、組織に加入した時期も同じであれば、行動を共にすることの多い三人であることは確かだと伝えられた。そして喬たちが住処にしている建物を教えられた。組織の予測通り、その晩も彼らは行動を共にしていた。恐らく、クーデターの打ち合わせでもしていたのだろう。
 人数の多い集団ではなかったので、当然サクヤも作戦に参加していた。いざ部屋に乗り込むと、十人余りの仲間たちが次々と血しぶきをあげて転がっていくのをサクヤは目の当たりにした。
 喬らにしても、上層部から狙われていることは百も承知であったのだろう。不意打ちのつもりが、逆に迎え撃たれてしまったのである。
 尤も、サクヤとしはこの迎撃には多少の疑問がないでもない。例え狙われているとわかっていても、いつ、どこで、何人ほどの刺客が現れるかなど、わかったものではない。この手の情報は錯そうしやすく、情報屋も必ずしもあてにはならない。そのような状況下にしては、喬たちの迎え撃ちようは完璧すぎた。侵入経路から作戦まで、まるで筒抜けであるかのようだった。
 サクヤは両手にナイフを構え、もはや味方の残っていない状況で必死に三人の猛攻を凌いだ。けれど途中から、サクヤは自分が遊ばれているような気がしてならなかった。三人は同時に攻撃などせず、多くても二人がかりで仕掛け、サクヤの動きを試しているかのようだった。さりげなく大きな隙を見せ、顔についた血をぬぐう素振りをすると、やはり奏椰とカンナがサクヤに飛びかかった。
 サクヤは受け流すのではなく攻撃を躱し、両手のナイフをそれぞれ二人に向かって放った。二人がそれを避ける間に、隠し持った二本のナイフを新たに握り、サクヤは喬の手をめがけて左手のナイフを投げた。喬が咄嗟に剣でそれをはじき返す隙に、サクヤは彼の背後に回り、右手のナイフを喬の首筋にあてた。
 「喬…!」
 カンナが思わずといった風に小さな叫び声を上げた。
 二人はぴたりと動きを止め、サクヤの動きを慎重に観察した。一体どれほどの時間を共にすれば、これほどまでに他人の命を慮れるようになるのだろうか。サクヤは三人の深い信頼関係に少々面食らいつつも、心のどこかで羨んだ。
 「まあ、心配すんなって」
 命の危機にさらされている当人は涼しい顔で言った。喬は右手の剣を手放し、両手を空に上げた。抵抗の意志を完全に捨てたのである。緊迫した静寂の中、金属が床にぶつかる音がやけに大きく響いた。
 「見たところ、俺らより随分年下とみえる。この集団では一番の年下だな。それに、その顔…。ひょっとしたらサクヤって、お前のことか」
 喬はちらりと横目でサクヤの風貌を確認した。今時情報など垂れ流し状態のご時世である。サクヤは別段驚いた風もなく頷いた。
 「なぜ、俺を殺さない?」
 「あんたを殺したところで、敵は二人残る。生き延びられる可能性は低い」
 サクヤは淡々と告げた。
 喬は尚も釈然としないような口ぶりで続けた。
 「まだ手の内ぜんぶ見せたわけじゃねぇんだろ」
 「武器はまだある。だがそれでも厳しいだろう。あんたら、本気を出してないみたいだったから」
 「…まあな」
 喬はくつくつと笑った。サクヤの予想は的中した。三人は集団の腕試しをしていたのだ。恐らくは、使える人員を引き込むつもりで。そして、お気に召さなかった仲間たちは次々と殺されていった。三人の連携のとれた動きと、適格な布陣は斯くして十六人ほどの集団をあっという間に始末したのである。
 「お前、いい腕してんな。俺らには叶わなくても、な。まあ、お前の過去を考えれば、それも当然かもしれないが…」
 サクヤはいぶかし気に眉をひそめた。
 「…どういう意味だ」
 「ま、そこんとこの話は追々な。…俺の話を受けてくれたら教えてやるよ」
 話とは、とサクヤが白々しく聞くと、喬は至って涼しい顔で、俺らの仲間になれよと言った。
 サクヤは一瞬ためらった。他の集団を丸ごと雇いあげるほどの財力のある組織であれば、それなりの規模のものだろう。
 この三人は組織内にも支持者が多いとは聞く。だが、実際の戦闘になれば、日和見に徹する者も、その中から出てくることは必至である。
 その次にサクヤが考えを巡らせたのは、この状況を脱出できる確率であった。喬を盾にとって退室まではできたとして、その後はどうするか。
 外に仲間がいる可能性、そして喬を離して逃げた後の追撃と、その後の追跡などを秤にかける。
 それで?と喬は片眉を上げて不適に笑んだ。
 「乗るか、乗らないか。お前の返事は」
 サクヤはふっと息を吐き、首筋にあてていたナイフをしまった。カンナと奏椰も武器を収め、部屋の切迫した空気は解けた。
 サクヤはもはや動かぬ肉塊と化した、味方だった人間たちを見まわした。床は血だらけになっていた。もはやここは住居に適した場所ではなくなっていた。
 「この状況で俺に拒否権はない」
 カンナと奏椰がそれぞれサクヤのナイフを拾ってきた。サクヤはそれを無言で受け取り、鞘に納めた。
 「決まりだな」
 最後のナイフは喬が拾った。彼はすぐにそれを渡さず、ナイフの尻でサクヤの顎を持ち上げ、視線を合わせた。
 「ところでお前、自分の過去についてどれくらい把握してんだ」
 「…昔の記憶はあまりない。恐らくあんたもご存じのとおり、特別な環境下で躾けられていた…その頃の記憶も曖昧なくらいだ」
 そうか、と喬は相槌を打ち、一歩離れ、ナイフを改めてサクヤに手渡した。
 「お前はなぜ殺す?」
 「生きるためだ」
 「なら、なぜ生きる」
 「生きることが、せめてもの復讐だからだ」
 いったい何の押し問答だ、とサクヤはうんざりとした。
 「なぜ復讐する必要がある?」
 しかし喬はまだ続けるつもりのようだった。
 それは、と口を開きかけて、サクヤは言葉に詰まった。それは、最古の記憶の劣悪な環境を憎んでいるからではないのか。ずっと前から、この世界が憎かった。復讐してやろうと思って生きてきた。けれど、いざ口を開いて答えようとすると、何かが違う気がした。サクヤにはそれがどうしてか、わからなかった。
 喬は何かを知っている素振りだった。問うように彼を見やると、喬は部屋の入り口に向かって声をかけた。
 「神代(かみしろ)、あとはお前に任せた」
 「はい」
 闇のなかで目を凝らすと、黒いスーツ姿の男が浮かび上がった。音も気配もなく、いつの間にかそこに男が佇んでいたことに、サクヤは多少の驚きを顔に浮かべた。
 「決行は明日だ。組織内にも俺たちの味方は多い。安心して俺たちに力を貸せ、サクヤ」
 喬はサクヤの華奢な肩を軽く叩いて言った。サクヤは喬の瞳に息づく力強さに気づいた。生命力そのものとでもいうような、強い強い光だった。それはきっと永遠に自分に宿ることのないものだとサクヤは思った。
 「お前の聞きたいことはわかる。すべて神代が知っているから、やつに聞け。話を聞いたうえで改めてお前がどうしたいか、明日、俺に報告しろ」
 そう言い残して、喬は部屋をあとにした。カンナと奏椰もそれに続いた。
 入れ替わるように、神代がサクヤのところまでやってきた。えらく長身の男だった。年でもなく、若くもなさそうな男であった。
 「死体処理の人間はすでに手配してあります。彼らの到着までの間は、ここで待機しておかなければなりません。失礼ですが、しばらくはここでの立ち話となってしまいます」
 「構わない」
 サクヤはその晩、初めて自分の過去の全容を知った。


 次の日、サクヤは約束通りに行動した。神代に教えられた指定場所に赴き、新しい味方とともに待機した。その中には(こと)の姿もあった。琴は相変わらずの暖かさでサクヤを迎えいれた。サクヤは複雑な気持ちでそれを受け流した。
 しばらくして、喬たちが姿を現した。サクヤは三人のところへ行き、挨拶をした。
 カンナと奏椰は別段言葉を発さず、けれどうっすらと笑みを浮かべてサクヤを見た。それを意外に思いつつも、サクヤは喬と向かい合った。
 「答えは出たか」
 喬は世間話でもするかのような口調で問うた。
 サクヤは頷いた。
 「一人残さず殺す。それが結論だ」
 喬は満足げ微笑み、それからサクヤに最初の足掛かりを与えた。

9.

 「要件のほうでございますが」
 サクヤの思考を引き戻すように、機械的な声が響いた。少年は返事の代わりに肩越しに神代(かみしろ)を見やった。
 「口頭での伝令となります。よろしければ、外へ」
 
 口頭での伝令の場合、神代か数名の側近のうちの一人が係として街を駆け回る。口頭ゆえに無用な人間に聞き耳をたてられることも常で、だから多くの場合は人気のない場所まで移動して、慎重に情報の伝達が行われる。尤も、それでも気配の消し方の上手い人間などには、聞かれてしまう危険性もあるのだが。
 サクヤはカウンターの上に大目の紙幣を放り、神代と店を出た。どこかしっくりこない二人組は、酒や薬に酔った人間たちの間をすり抜け、拠点のある方向へ歩き続けた。
 「…拠点でしか話せないというからには、よほどの事案とみえる」
 外に出た際、神代から小声で告げられたのは、近場にある組織の拠点のひとつでの伝令となるという説明だった。今までにあまり聞いたことのない、慎重に慎重を重ねた対応に、サクヤは胡散臭そうに眉をひそめた。
 「お手間を取らせてしまう形となること、謝罪いたします」
 上からの命令を忠実に実行する、それが神代という男のすべてだった。だから今回も、盲目的ともいえる忠心ぶりで(きょう)たちの命令に従っているのだろうとサクヤは思った。
 そういえば、とサクヤはふと考えた。
 「…喬の耳にはもう入っているかもしれないが。ジンがやられた」
 神代はそうですか、と相槌を打った。喬のことである。大方、この情報はすでに取得済みで、神代にも共有してあるのだろう。
 「お悔み申し上げます。とはいえ、あの方もすでに役目を果たされた様子。サクヤさんが気にされる必要はないかと」
 それは正論だった。サクヤは奥歯を食いしめた。胸の奥底にある判然としない感情が、サクヤの気をえらく逆なでした。
 「殺した人間について有力な情報はないか」
 それでもあきらめきれずに、サクヤは問うた。
 ジンは確かに裏切り者で、裏切りに裏切りを重ねる形で仲間の情報を売った。そしてもはや有用な情報を保持していない彼は、無用の人間のはずである。
 それでもジンは、生きたいと言った。嘘偽りのない瞳で、真っすぐに生きることへの執着を暴露した。それは、サクヤの生きる世界の縮図でありながら、けれど誰もなかなか認めようとしないことであった。
 ジンに偽りはなかった。偽善や欲を隠そうとする虚偽ばかりが横行する世の中で、彼は純粋すぎる心で生きることを望んだ。その正直さが、サクヤを安心させた。結局のところ、生きることしかできない自分を受け入れられないサクヤとは大きく違い、彼は一人の人間として正しく機能している気がしたのである。
 「ジンは確かにあれ以上の情報は持っていないと言った。だが、念のための口封じにやつを殺しにくる昔の仲間だっているだろう。…尤も、一人でも昔の連中が生き残っていればの話だが」
 サクヤは言葉を区切って神代の横顔を見やった。
 「俺はジンを餌として放置してきた。それに食いついた人間がいる。放っておけるはずもない」
 サクヤは言い訳がましくつらつらとしゃべった。神代はそうですか、と無感情に返答した。
 「おっしゃることはわからないではないのですが、残念ながら私共は目ぼしい情報を持ち合わせてはおりません。申し訳ありません」
 神代の言葉の真偽を測りかねるように、少年はしばらく黙り込んだ。喬ほどの人物であれば、なんらかのつてを通じて情報が入ってきている可能性は高い。神代が断ることの背景には、単独で判断を下すことを嫌う性質か、或いは無償の情報を与える必要性はないと喬が判断したのか。
 サクヤはそうか、と返事をして、二人の会話は途切れた。
 
 ほどなくしてサクヤたちは目的地の近くにやってきた。つけられていないことを確認して、二人は音もたてずに建物の隠し扉に入った。
 スラムからほど近い場所にある空きビルの側面に取り付けられた扉は、やはり階段が下に向かって伸びており、噂によればその昔は防空壕として使われていたそうである。組織が扉などを改修して拠点となったとサクヤは聞かされていた。
 「で、伝令の内容は」
 早速本題に入ると、神代は思いもよらぬ話を始めた。
 「ええ。それではお伝えいたします。本日より十日後の日暮れ後、こちらに集合してください。それまでは、個別の案件はこちらより差し控えさせていただきます。どうか、それまでに体調の方は万全になさいますよう」
 こちら、という言葉とともに、神代は少年に紙切れを手渡した。恐らく地図だろう。サクヤは閉じられた紙切れを開き、内容を確認した。
 
 集合ということは、人数の多い仕事だろう。サクヤは子供の頃を除いて、このような指令を受けたことがなかった。個別行動が基本のこの仕事に、どうしてわざわざ集団行動をとらせようとするのか。
 サクヤの胸の内を悟ったように、神代は言った。
 「競合する組織の解体作業を行います。暗殺を生業とするだけならば、我々も目くじらを立てたりはしないのですが。彼らは政府と繋がりをもち、恐らくは政府の意向を受けて、政府にとっての反乱因子を殺してきたようです。その中には、この組織の人間も含まれております」
 「人員を減らされた報復か」
 サクヤは皮肉を含んだ声で嗤った。
 「それは否めません」
 けれど神代は少しも動じたところもなく応答した。
 「同業者同士の諍い、確かにこれはどの業界にもあることなのかもしれません。ですが、件の組織は野放しにしておけば、後々面倒事が増えそうだとの上の判断です。なにせ政府が絡んでいるとなれば、話は深刻でしょう」
 「俺たちは反乱因子とみなされている。その組織が根っこまで政府に懐柔されれば、情報屋の持っている話どころではなく様々な情報が暴露されて、そこには、当然俺たちの情報も含まれる。憂いを晴らすには、芽を摘むのではなく、その根元から枯らすこと、か」
 その通りでございます、と神代は厳粛に頷いた。いかにも喬という男の考えそうなことだとサクヤは思った。
 喬は常により効率的に、かつリスクを少なくして稼げる方法を考えている。彼の根底にもまた、生きるということが深く刻まれているような気がした。
 それは、ジンとは少し違った趣向のものだとサクヤは思った。究極の自己愛を擁するジンとは対照的に、喬の生き方は利他的に近いものがあった。奏椰(そうや)とカンナ、ひいては組織に属するすべての人間を、彼はあたかも守ろうとしているかのように動いていた。
 喬は組織の人間たちを仲間と呼び、正当な報酬を与え、そして人間として扱った。それは、この社会においてとても珍しいことだった。時代遅れで生産性のないその行動を、けれどサクヤは嫌いにはなれなかった。
 神代は頭を下げた。
 「要件は以上です。それでは」
 言うなり、彼は森閑とした部屋の空気を乱すことなく退室した。相変わらず、底のしれない男だとサクヤは思った。喬が人間的ならば神代はどこまでも機械的な男だ。
 
 喬たちの出自を少年は深く考えたことはない。この時世、まともな過去を持つ人間など皆無に等しく、だから人々は自然に互いのプライバシーを尊重することを覚えた。
 おかしな話だとサクヤは思う。情報屋のはびこる社会で、どうしてそういったものが守られるものだろうか。尊重するふりをしているばかりで、人々は間接的に他人のプライベートをのぞき込むのである。
 それが必要に迫られるときも勿論あるだろう。それ以外の用途での情報収集は、ただの詮索だとサクヤは思った。だから少年は敢えて喬たちのことを知ろうとしなかった。利害が一致しているうちならば、そういった行動は不要だと思ったからだ。
 しばらくして、サクヤは神代に倣うように薄明りのついた部屋を後にした。
 薄闇の空気は湿っていて、消そうとしても消せない臭いが地面から立ち上る。空の境界線には薄明りが灯っていた。夜明けの近いことをサクヤは悟った。
 行く当てもなくふらつけるほど、街は快適な場所ではなかった。ひとまず帰宅しようと歩き出した矢先、細長い影がサクヤの行く手を塞いだ。

 「ご機嫌はいかがかなア?お姫様」
 ありとあらゆる鬱屈した感情をすりつぶして一つにまとめたような、相変わらずの不快な笑みを浮かべて、クロノスは少年に相対した。
 この日のクロノスはひときわ機嫌が良く、「お姫様」と口にしながら恭しく一礼をして見せるほどであった。サクヤは警戒しつつも、冷ややかな表情で男を見やった。
 「お前に用はない。そこをどけ」
 「俺に用がないだって?そりゃあ、大きな間違いだろう」
 クロノスはにやりと笑った。見る者の心を凍てつかせるようなおぞましい笑みであった。
「お前はまだわかっちゃいないだろうが、用事があるのはお前のほうであって、俺じゃあないのさ」
 ち、ち、ち、とクロノスは立てた人差し指を左右に揺らめかせながら言った。
 「なぞかけなら結構だ。俺は帰る」
 サクヤが問答無用でクロノスの横をすり抜けようとした刹那、威圧的な気配がぶわり長身の男から湧き起こった。それは、強烈な殺気の圧。サクヤはすぐさま飛びのき、クロノスと距離をとった。
 「まア、そう簡単に帰られちゃあ俺もつまんねえわけよ」
 くつくつと屈折した笑い声をあげながら、男はサクヤに向き直った。
 「お姫様は、情報屋の仇を探してるんだろぉ?まったく、優しくて泣けるねえ。たかだか一介の情報屋のために。…よほど親しい仲だったとみえる」
 サクヤは冷静だった。それくらいの情報ならば、誰でもその気になれば容易く入手できるものである。クロノスの目的はいつもの通りだとサクヤは思った。人の心理をひっかきまわして遊んでいるだけだ。退屈しのぎの相手に、たまたま自分が目をつけられただけのことである。
 「だったらどうした。別にあんたに不都合があるわけでもないだろう。それとも、なにかやましいことでもあるのか」
 サクヤは冷淡に応じた。
 クロノスは心底楽しいといったふうに笑い声をあげた。
 「やましいことがあるのは俺じゃあない。むしろお前のほうだろ?サクヤぁ」
 訝し気に眉をひそめる少年に向かって、クロノスは続けた。
 「仮にも殺し屋が、同業者じゃない人間と二人暮らしなんかするもんじゃあないぜ?どこから情報が洩れるかわかったもんじゃねえからなあ」
 再び玖珂(くが)のことを引き合いに出されて、サクヤは苛立った。
 「…なにが言いたい」
 「俺の推測じゃあ、お前ら、ただのお友達ってわけでもねえだろう。ってことはだ。…情に流されて、うっかり大事なことの一つや二つ、その男に口を滑らせちゃったんじゃねえのかなァ?」
 これはただごとじゃないな、と長身の男は大仰に慌てたふりをした。
 「お前ほどトップに気に入られてるやつなら、組織の大事な情報も山と知ってるってもんだ。それを愛する男に流されてつい口走ってしまわれちゃあ、俺らとしても困っちゃうなア。…いっそ、喋られちまう前にその男―…玖珂だったっけか?お前のためにも、俺が殺しといてやろうか?」
 クロノスが台詞を言い終えるより先に、サクヤの一撃が彼をめがけて放たれた。地面に落ちた小石を避けるようにそつなくそれを躱した男はニタニタと嗤っていた。
 「あんたがくだらない勘ぐりで勘違いを起こしているようだから、訂正してやる」
 ナイフを構えなおしながら、サクヤは氷のような声に怒りを響かせて言った。
 「俺が誰と同居していようが、それはあんたには毛ほども関係のない話だ。なぜなら、俺はあの男をなんとも思っていなければ、ましてや情に流されることもないからだ。あんたの危惧していることは絶対に起こり得ない」
 クロノスは片眉を吊り上げた。
 「なんとも思ってないだって?お前は、なんとも思っていない相手と闇雲に同居して、ましてや愛を交わせるほど器用な人間には見えねえどなア…?」
 サクヤの追撃を軽やかに交わしながら、長身の男は言った。言いながら、コートの中から刃渡りの大きなナイフを右手に構える。
 サクヤの心は確実にかき乱されていた。玖珂を疑われ、あまつさえ殺すと言われたときの憤怒、その感情の根源的な意味を、サクヤは知りたくなかった。薄々気がついっているその感情は、サクヤには必要のない、足かせとなるばかりの煩わしいものだ。そして、罪深い自分にとっての禁忌でもあった。
 サクヤは空虚でいたかった。生ける骸として、感じるところのない殺戮機械になれたら、いっそどれほど楽であろうか。
 しかし今はそのような感傷に浸るときではない。乱れる心音を落ち着かせ、サクヤは素早く思考を切り替えた。
 憂いを晴らすならば、根まで枯らすことが一番である。同業殺しの罪を着てでも、この男を生かしておくことのほうが、サクヤには恐ろしく思えた。玖珂のことを妙に勘ぐる男。心の奥底にある脆弱な感情を暴こうとするような言動の数々。そこにどのような理屈があろうとも、それはサクヤの知ったことではなかった。クロノスは必ず行く手を阻む存在だ。後顧の憂いを晴らすため、死んでもらうことがなによりに思われた。
 「わかった。あんたと話していても埒があかない」
 サクヤの瞳に殺気がこもる。クロノスはそれを嬉しそうに目を細めてつぶやいた。
 「そうこなくっちゃあねえ」
 斯くして、明星のもと二人は打ち合いを始めた。
 クロノスの腕前は人々の評判とは異なり、正確無比な攻撃を繰り出す高次元なものだった。
 それはサクヤの予想通りで、だから少年は別段驚きもせずにそれらを受け流した。予想以上だったのは、クロノスの素早く軽やかな身のこなしであった。彼はまるでサクヤの連撃をすり抜けるようにすべて躱し、その足の運びも迷いのないものだった。
 水たまりをばしゃばしゃと踏むサクヤとは対照的に、クロノスはまるで靴が濡れることを避けているかのように、水たまりに足を下ろすことはない。

 「どうしたぁ、お姫様。ダンスはお得意だろうに」
 挑発するようにクロノスは高らかに嗤い、大振りのナイフをサクヤめがけて振りぬく。
 サクヤは無言でその言葉を受け流し、煮えくり返る腸を理性で抑えた。クロノスの重い一撃は受け流すことは難しく、五回もナイフで受け止めたら腕が少し痺れるほどだった。少年はおとなしく身を引いて敵のナイフを躱した。
 大きな一撃の後は必ず隙ができる。サクヤは手にした二本のナイフを少しのためらいもなく男に投げつけ、追撃の体勢をとった。抜群の反射神経で、当然のことのように後ろへ飛びのき攻撃を躱したクロノスに迫り、サクヤはコートから取り出したナイフを両手に攻撃を重ねていく。
 「おっと、まだまだ」
 クロノスは不安定な姿勢からでも素早い攻撃に対応した。再び打ち合いが続いた。数分同じ相手とやりあえば、サクヤは敵の大体の攻撃のリズムを掴めた。そこからは攻撃の躱し合いとなり、手数の多いサクヤがひとたび攻めれば、その隙をついてクロノスの重い数撃が空を切る。
 これでは埒が開かない。少年はちらりと二人を取り巻く風景を見た。それから大きく踏み込み、ばしゃりと水たまりが跳ね上がる。サクヤは再び二本のナイフを敵に鋭く投げ、次に自分も男に向かって突進した。
 ナイフの勢いは凄まじいものだった。射られた矢のごとく、真っすぐと敵に向かっていく。さすがのクロノスも、思わず華奢な影から目を離して飛んでくるナイフに集中した。
 「二度も食らうかよ」
 しかしそれも一瞬。にやりとしたクロノスが再びナイフを躱して後方に下がり、追撃に備えて構える。男はそこで唖然とした。目の前にはもう少年の姿はなかった。
 次の瞬間、後頭部に重い衝撃を受け、クロノスは、自身の顔が水たまりに触れているのを感じた。サクヤは突進するように見せかけて、クロノスの背後の壁を利用し、クロノスの後頭部に強烈な蹴りを入れたのある。
 サクヤは男の襟首をつかみ上げ、うつ伏せの体勢をひっくり返した。
 「死ね」
 衝撃でまだ意識のはっきりとしない相手に、サクヤは冷ややかに告げた。ナイフを振り上げ、男の首を切ろうとした瞬間のことだった。
 
 華奢な右手は凍てついた。男の顔を見た矢先のことである。
 クロノスは安らかな顔を浮かべていた。どこか、まるで計略通りに事が運んだ安堵のような色とともに。
 サクヤは、はたと気が付いた。
 クロノスという男は、本当は殺されたがっているのではないか。
 そう考えた途端、サクヤの中の殺意はしぼんでいった。
 少年は静かに目を閉じ、翳したナイフをしまった。
 ようやく意識が戻ったのか、クロノスは空の右手を宙にあげて言った。
 「…なぜ、殺さない?」
 以前にも聞いた台詞である気がして、サクヤはすこしおかしくなった。
 自分は相当に甘い。その自覚はあったが、よもやこのような男まで生かすはめになろうとは、とても予想外である。クロノスは、きっと殺されたい願望があるのか。死ねないけれど死にたがっている自分の命を刈りとってもらうために、相手を挑発して焚き付けているのか。
 クロノスほど用心深い男が生きたいと願っていれば、さしでの勝負を持ちかけたりはしないだろう。少年は沸騰していた頭が急激に冷めていくのを感じた。クロノスの願いを叶えてやるのは不本意であった。たとえ、それがサクヤ自身の不利益に繋がろうとも。
 「死にたいのならば勝手に死ね。誰の迷惑にもならないところでな。俺はあんたを殺してやることはない。…どうやら、あんたは生きている方が苦痛のようだしな」
 ナイフを回収しながら、サクヤは淡々と語った。
 クロノスは顔から血を流しながら、恍惚とした表情を浮かべた。
 実に気味の悪いそれに、サクヤは顔をしかめた。死がこれほど近くにある街で、どうしてわざわざ自分に喧嘩を売ってまで殺されたいのか。少年にはまるでわからなかった。とはいえ、結局は自分も死に場所を求めて人を殺め続けていることを思えば、共感の余地が全くないわけでもないが。
 長身の男は、重たげな黒髪を頬に張り付かせたまま、少年の方角をわずかに向いた。
 「俺を生かしちまうなんて、勿体ねえことしちまったもんだなア。もうこんなチャンス、二度とねえぞ…?」
 返事もせずに去ろうとする少年を、クロノスはもう一度呼び止めた。
 「ジンを殺した人間を探してるんだろ?それなら、心当たりがある」
 クロノスの告げた情報屋の名前を、サクヤは鼓膜に刻み込んだ。
 行く当てが追加されたことを、果たして喜ぶべきだろうか。いずれにしても、日が暮れてからしか情報屋も根城から這い出てこないだろう。それまで一体どうして時間をつぶそうか。とりあえずシャワーの浴びられる施設へ赴くことをサクヤは決めた。それから、武器の整備やら食事やら睡眠やら、煩わしい作業をこなさなければなるまい。
 サクヤは一言も倒れた男にかけることなく、大股で路地を去った。

 少年の華奢な背中が完全に見えなくなってから、クロノスは水たまりの中で鬱屈とした笑い声をあげた。
 「…随分と甘いお姫様だ。精々後悔しないといいけどなァ…―さて、と」
 ようやく地面から上半身を起こし、クロノスはこきこきと首を鳴らした。
 「どっちでもいいと思ってたが、お姫様じきじきに殺してはくれないときた。…だったら、俺のやることは一つだろう?」
 屈折した愛情を抱え、長身の男はすっかり白けた空の下を鼻歌まじりに歩いて行った。

10.

 中心街にずらりと立ち並ぶやけに新しい建物たちは、戦後、政府が復興と称して公式に建築したものが多い。
 それらは政府とコネのある華族か、或いは公式の交換所を経営する経営者たちの所有物となっている。いくつかの建物はしかし、政府を脅かす存在、つまりは闇社会の組織に所有されている。海に面した街には、外からの非公式の物資、要するに処分に困った粗大ごみが次々と流れ込んでくる。
 政府は反政府勢力と闘うためと称して、外と非公式の取引を行い、銃や爆弾などといった武器類を輸入していた。尤も、公に反乱因子を殺戮していくわけにもいかないというのが、政府のジレンマだった。外の締め付けは苦しいほどで、内紛でも行おうものならば直ちに外から仲裁という名の侵略が始まるに違いないからである。それほど、国の戦犯は外にとって大きなものであった。
 外の望みは、このまま国が復興もせず、脅威にもならず、外に逃れてくる難民を生まず、ある種の平和を保ち続けることである。それくらい、国も十分認識していた。

 そんな国でも、昼間になると子供のはしゃぎ声が聞こえる。多くの子供は飢えを凌ぐべくゴミを漁るため、街を徘徊していた。ある子供は、見つけた死体を死体処理係に教えることで小遣いを稼ぐ。一握りの運のよかった子供たちは、同じ境遇の人間が個人で開く教室に通い、或いはホームスクーリングなどをして、極力家で過ごす生活を送っている。
 子供たちは基本的に日暮れとともに帰宅し、危険な時間帯は寝てやり過ごしていた。戦後の出生率をサクヤは知らないが、たとえ子供が生まれても、多くは大人になる前に死ぬだろうことは知っていた。
 華奢な人影は、なぜかその中心街をうろついていた。
 夜明けとともに戦端を切って捨てた相手を置き去りにしたあと、サクヤは近くの公衆シャワー室で身支度を整えた。恐らくは死体探しの子供の三日分の稼ぎに相当する額を支払えば、こういった公的な施設は誰にでも利用可能である。組織の息のかかっている施設の倍は払わねばならないが、国の疫病を防ぐ手立てとしてつくられた施設は、街中に点在しているので利用しやすい。
 尤も、多くの大人にとってもシャワー室の利用料金は相当な額に値するため、一体どれほど疫病の阻止に成功しているものか、わかったものではない。
 一部の華族や大金持ちともなれば、自宅に風呂が完備されている。彼らが公共のものは利用しないことを考えると、この施設をまともに利用するのは、皮肉なことに反政府勢力とみなされている人間に限られるだろう。
 サクヤは更にその公共施設の周辺を商いの場としている古着店で安物の服を購入していた。なんの変哲もない、白いシャツと綿のズボンである。華奢な四肢には少々余るようなサイズであったが、サクヤは気にせずに長い袖を捲って着た。武器の収められたコートは手に持ち、けれど先ほどまで着用していた黒の上下はゴミ箱に放った。十日後の仕事までには、やはり一着仕立てにいかなければならないようだと、サクヤはため息交じりに思った。
 更には武器の整備もしなければならないのだが、サクヤはどうしても住処へ帰る気にはなれなかった。
 クロノスの言ったとおり、玖珂(くが)を疑うことは実に合理的な発想である。サクヤは決して玖珂に口を滑らせるようなことはなかったが、別に直接情報を得なくとも、尾行するだの情報屋を使うだの、手段はいくらでもあった。
 そして、現在サクヤの行動時間や頻度を一番よく知っているのは、他でもない玖珂である。サクヤの尾行を最も容易に行えるのも玖珂だ。サクヤがえらく荷物を持って出かけるところを住処から追跡するくらいのことは、あの男にもできそうであった。

 しかし仮に玖珂がジンを殺したとして、動機はどこにあるのか。

 そこまで考えて、サクヤは思考を停止させた。そして、それ以上は考えまいとする自分を不思議に思った。今までならば、たとえ(こと)でも怪しんで、冷静に状況を把握していたはずである。こと理性において、サクヤは自分が脆い人間だと思ったことはなかった。
 けれどどうしてか、玖珂のこととなると少年は尋常な判断力を欠くようになっていた。否、理性的な思考を、感情が押しとどめてしまうのだ。
 いつから自分はこのように弱い人間になってしまったのだろう。
 サクヤは自問自答しながら、けれど胸中に渦巻く玖珂への感情に名前をつけることだけは、何としても避け続けた。
 住処に帰らない理由は、そこに起因する。気づいてほしくて仕方のない感情が叫び声をあげている中、玖珂に出くわすことを少年は恐れた。サクヤはそのままあてもなくふらふらと通りを徘徊した。
 豪奢な噴水が惜しみなく水を無駄に噴出している。これほどの水があれば、いったいどれほどの人間を養うことができるだろうか。
 サクヤは柄にもなくそのようなことを考えた。広場にはちらほらと裕福そうな人間たちの姿があり、遠くからは飢えている子供たちの叫び声が、野犬の遠吠えのように響いていた。
 しばらく呆然と立ち止まっている華奢な背中に、不意に柔らかな声が投げかけられた。
 「サクヤ?」
 聞きなれたその気配と声音に、サクヤは警戒を解いてゆっくりと振り返った。
 「どうしたのよ、こんなところで」
 琴は本当に驚いたというふうに目を丸くして、それから艶やかに微笑んだ。
 通りがかりの人間を思わずはっとさせるような、花の咲いたような美しさであった。

11.

 光を反射して眩いほどの白い帽子に、胸元の大きく空いたワンピースを着た女は、傍から見ると異国の女優を思わせた。その華美な装いの隣を、服装は凡庸ながら顔の造作は可憐な少年が歩んでいた。
 時折、ゆるく空いたシャツの襟が風にはためき、少年の華奢な鎖骨を露わにした。見るものの視線を思わず釘づけにしてしまうような危うい色香が、その度にちらりと顔をのぞかせる。
 (こと)とサクヤは、煌々とした太陽の灯りに照らされた、一見健全にも見える繁華街を歩行していた。日が暮れればたちまち無人となり、とってかわるように地下から這い出た汚い人間たちが不気味に飾る路地も、日中は活発な雰囲気を装っていた。
 「せっかくだから、ちょっとお茶していかない?」
 声をかけられたサクヤは、そう誘われて了承した。ちょうど、なにもすることがなくて困っていたところである。一人でいればどうしても思考は玖珂(くが)のことへ行ってしまう。琴と会話をするのは、ある意味では気が紛れていいのかもしれないとサクヤは思った。

 街の中心にある噴水から少しはずれ、華々しいビルたちの裏に佇むさっぱりとした飲食店街へ入り込む。
 異国から流れついてくる少ない情報をもとに、各店ができ得る限りの贅をつくして、異国情緒を客に提供しようとしている。このあたりを利用する客は、ほぼ華族や企業家、重役といった、中心街に居を構える人間である。そして同時に、これらの人間たちは命を刈られる恐怖と隣り合わせの日々を送っている。
 政府に靡き、他を蹴落とすようにのし上がってきた彼らは、自分たちが買っている恨みの深さをよくよく承知している。よって、彼らは用心深く、警護を雇い、夜は出かけず、昼間も中心街を出ないよう、心がけているの。そうは言っても、結局暗殺されてしまう者は後を絶たないが。
 対する飲食店の人間たちは、用は投資資金を持つ小金持ちで、コバンザメのように大金持ちに張り付いているのが実情である。小さな華族や、実業家の残った遺産を受け継いだ者たちが、羽振りのよい大物たち相手に、実入りのよい仕事を好んで行っているわけである。
 こちらは比較的敵は少なく、この入り組んだ社会で最も安穏と暮らしている中流層ともいえる。中には、継いだ事業を解散してまで飲食店に走った者までいるという。事業といっても、ほとんどが殺しに関わる仕事を請け負うものである。生産能力のほとんどないこの街では、最も効率的に事業を起こす手立てが、暗殺に関わることであった。大きな利を得て自らの命を危険に晒すより、平穏な中流の暮らしを手に入れた方がよほどましなことである、という論理であろう。
 「ここにしましょう」
 琴がきょろきょろと店を物色し、適当なものを選んだ。サクヤに異議はなかった。
 コーヒー一杯でも庶民の一週間分の賃金を要する高級店のひとつ、その暖簾を二人はくぐった。
 サクヤは食に対してことさらこだわりはなかった。食べられるものならば、飲んで大丈夫なものならば、それでよかった。このような店とはまるで縁がない。
 尤も、とサクヤは思う。己の出自を思えば、きっとこのような洒落た店の一つや二つ、幼い時分に行ったこともあるのかもしれないが。
 店の内装は偉く凝ったものだった。異国の椅子やテーブルが取り揃えられ、茶器すら、恐らく海を越えて取り寄せたものだろうと思われた。柔らかな異国の音楽が、背景にゆったりと流れていた。
 街はずれの荒んだ実情など存在しないかのような空間。唯一貧しさを感じさせるのは、何も飾りのない、むき出しの白壁だった。どれほど贅を尽くそうとも、貧国には限界があるということか。店にはいっそ不自然なほどに美術品というものが存在しなかった。
 店が異国情緒にこだわる理由を、サクヤは考えてみた。ただの客引きだろうか。それとも異国に対する憧憬の念だろうか。海の遥か彼方にある国々の、聞き伝えられる平穏や桃源郷のような印象が、もしかすると、日々見えない恐怖に晒される富裕層にとって、心の拠り所となっているのかもしれない。哀れな人間たちのささやかな逃避行として、異国風の飾りや音楽は必要なのかもしれない。
 隅の席を琴が選ぶと、やがて店の者が目隠しの衝立を運んできた。
 窓からは柔らかな光が差し込み、店内を暖かく灯している。サクヤの寝泊りしている住処と同じ街にあるとは思えないほどに、そこには柔らかで、穏やかな時間が流れていた。
 少年はその和やかな雰囲気に妙な既視感を覚えた。ごくたまに、夢のなかで味わう感覚に似ている。起きたときには、自分がいったいどんな夢を見ていたのか思い出せないけれど。心のなかに小さな灯がついたような温かさだけが胸にしばらく残る、あの夢。
 「どう?私もこの店は初めてだけれど、なかなかいい感じじゃない」
 琴はにこやかに言った。
 「いつかこの路地のすべての店をくまなく訪れてみたいのだけれど…なかなか難しいものね。べらぼうに高いんだもの」
 理不尽ね、と少しだけ表情を曇らせる琴の心情を、サクヤは測りかねていた。サクヤに探りを入れ、玖珂の存在を嗅ぎ付けた琴。そして、偶然のように中心街で声をかけ、この路地にサクヤを連れ立ってきた。
 情報源はつぶしておいたので、あれ以降彼女が玖珂のことを詮索したとは考え難い。琴としても、サクヤと無用な諍いを起こしたくはないだろう。雇いの情報屋が消えたことが無言の合図であったことを、機敏に感じ取ったはずである。
 だが、サクヤは密かに気が付いていた。琴が確実に、時折サクヤの後をつけるようになっていることを。ジンのところへ行く際などには必ず振り切ってきた気配と同じものが、明星から背後に張り付いていた。琴のものである。殺意のこもった気配ではないこと、そして放っておいたら、自分が立ち止まった直後に現れたことを鑑みれば、まず間違いはないだろう。

 ならば情報源はどこか。サクヤは記憶から逆算して、クロノスであるという可能性に行きあたった。
 クロノスは尾行の名人であると聞く。そして彼の実力からしても、そのクロノスに気配を完全に消されたら、恐らくサクヤは気づかないであろう。クロノスとは度々、彼の都合のいいように出くわしているが、そのどの対面もきっと後をつけられてのものだという推測がたつ。
 そしてクロノスのもう一つの強みが、(べに)である。電波通信の不可能となった街で、離れた人に情報を共有するには、その人に会って口で伝達するしかない。この際便利になるのは、伝令係の人間が個別にいることである。紅はクロノスの命令をよく聞く。あらかじめ琴と落ち合う場所を決めておけば、クロノスが尾行している際は、サクヤの居場所は筒抜けということになる。
 実際、クロノスと刃を交えた場に紅の気配はなかった。恐らく琴への伝令として出されていたのだろう。
 サクヤは苦虫を噛みしめた気分に陥った。琴までもが、クロノスと取引をしていようとは。やはりあの男はあの場で殺すべきだったか。
 帽子を脱ぎ、琴は優しい微笑みを浮かべた。
 「おなかは空いていない?私は朝からなにも食べてないから、少し食事も頼みたいと思うのだけれど。あなたはどうする?」
 「俺も何も食べていないから、なにかあるといいかな。注文は琴姉さんに任せます」
 そう、と琴は満足げに頷き、店の者に合図をした。客の美貌に鼻の下を伸ばしながら、店の者は恭しく注文を取る。琴はコーヒーとトーストと店員に伝える。
 このように華美な店でも、メニューは限られている。国に媚びへつらっていても、その貧しい国から与えられる生鮮食品は僅かで、かろうじて闇市で手に入る物はどれも悪質である。
 このような店でも、出せる品はもっぱら保存のしやすい芋料理や干し肉の煮込み料理で、琴の頼んだトーストなどは嗜好品であった。多くの場合、出回っているのはカビを防ぐために極力水分を減らした固いパンであるが、それらは焼いてしまうととてもではないが噛み砕けるものではなくなってしまう。
 よって、トーストやサンドウィッチに使われるパンは特別品として、高い相場で取引されていた。
 「本当はサンドウィッチか、ケーキにしたかったんだけど…。馬鹿みたいに高い上に、店によっては食あたりするって聞くから、初めて入った店では頼まないようにしているの」
 琴は以前、自分が高い頻度でこのような店に赴くという趣旨の話を、サクヤにしたことがある。
 「引き寄せられるように、どうしても行っちゃうの。お金のかかる趣味ね」

 趣味、と琴は口にするが、それは違うということをサクヤは知っていた。ただの趣味という言葉で語れるほど、琴のその行動は単純なものではなかった。

12.

 初めて(こと)と会ったのは、どこだかもうわからないほどにありふれた酒場だった。深(べに)のドレスを着た彼女は、サクヤの何が気に入ったのか、興味深そうにサクヤにあれこれと聞いたり、時には姉のようにサクヤのことを気遣ったりした。
 自分に言い寄ることをする者は多かれど、体調を心配するような人間は、琴が初めてであった。身内のように気遣い、けれど立ち入りすぎないというところが彼女の美点だった。
 玖珂(くが)と同居を始めるまでは、琴はサクヤをただ見守り続けた。サクヤはそれが甘えだと知りつつも、都合よく振舞ってくれる琴との距離に慣れ、居心地の良い相手として琴を認めた。サクヤは彼女に出会えば話を聞き、時には二人で酒場へ赴くほどの仲になっていった。
 琴は酔いがまわるほどに口数が増え、ちらほらと自分について語ることもあった。あまり酒に強い方ではないことを自覚している彼女は、高い酒をゆっくりと味わって飲むことに決めていた。けれどとある晩、琴は柄にもなく安酒を次々と煽っていた。それはちょうどサクヤが玖珂と何度か出くわしていた頃であった。
 普段は見かけない酒場で琴を見かけたサクヤが不審に思って声をかけると、彼女は顔をあげ、そして横に座るように促した。
 少年が隣に着席したことを確認する素振りも見せず、酒のわずかに残ったグラスを見つめたまま、琴は突然、滔々と昔話を始めた。

 
 琴はだれかもわからない貧しい両親の間に生まれ、そして物心ついた頃には一人だった。
 最貧困層の子供として、毎日ゴミを漁って食べられるものや換金できるものを探し、水たまりの水を飲んで喉の渇きを癒した。
 このような浮浪児童たちの間には特有のコミュニティや縄張りというものがあった。琴もそのなかの一つに属し、コミュニティの子供たちと毎夜体を温め合うように同じ空間に固まって雑魚寝をしていたという。
 これは子供たちの一種の防衛手段であった。夜になれば暗殺や暴力事件が横行し、とても子供では太刀打ちできない大人たちが徘徊を始める。事実、多くの浮浪児童が残忍な大人の餌食となっていた。夜は集団でいることは、万が一襲撃されても数の有利でどうにかなる場合もあることや、最悪の場合は、一人が暴行されている間に他の子供たちが散り散りになって逃げられることを考えてのことであった。
 琴は幼いころから絶世の美貌を宿しており、よって多くの大人に狙われた。
 コミュニティに属していても、結局は個の安全や利益が最優先される子供たちの社会で、琴は誰にも守られなかった。むしろ難を逃れるための恰好の時間稼ぎとしてさえ扱われた。
 琴は大人たちの嬲りものにされていく中で、抗えば抗うほどよりひどい仕打ちをされることに気が付いた。状況を拒絶するのではなく、現実として受け止め、それを受け流すことを彼女は覚えた。それは琴が八歳になる折の開眼であった。
 けれど一向に減らない暴行を受け流すたびに、心がすり減っていくように感じられた。
 心の中がすっかり空っぽになった頃、彼女はただ受け流していくのではなく、理不尽な仕打ちをどうにか利用できないものかと考えた。それは彼女にとってせめてもの反逆であった。
 どんな仕草をすれば、どのような言葉をかければ相手に気に入られるのか。琴はやがて男をたらしこむ術を身につけていった。
 十三歳を過ぎると、琴は複数の富裕層の男と愛人関係にあった。男たちは競うように琴に贅沢を教えた。礼儀作法や化粧、服の選び方、しゃべり方までも指導し、彼らは知らず知らずのうちにハニートラップの名手となる彼女の土台を築き上げていった。
 琴がすっかり子供から少女に育ちあがったとある日、一人のパトロンから小型の拳銃を渡された。他の男たちを殺して来い、という命令をとともに。
 琴は震え上がった。スラムで人が死ぬことは日常茶飯事であったが、自らの手で誰かを死に至らしめることなど、経験があるはずもなかった。恐ろしさに思わず拳銃を落とすと、男は琴が倒れこむほどの平手打ちを浴びせた。
 仕打ちを受け、琴は幼い時分の気づきを思い出した。現実を拒んではいけない。非力な者は、強者にひれ伏し、現実を受け入れなければ生きてはいけないのである。
 琴は虚ろな目で拳銃を拾った。男が満足そうに息を吐くと、少女に銃の扱い方を手ほどきした。琴の頬は赤黒く腫れ上がっていた。
 斯くして琴は命令されたとおりに他の男たちを一人ずつ殺していった。パトロンの誰もが琴の痛々しい頬を心配するでもなく、むしろせっかくの美貌に傷をつけるなと叱られた。そしてその誰もがすでにもはや物言わぬ肉塊と化していた。
 人を立て続けに撃ち殺した衝撃からか、琴は疲れ果てて立ち止まった。頭がぼうっとしていた。
 目元の近くまで痣のついた少女を、一人の店主が呼び止めた。どうやら店先で足を止めてしまっていたらしい。
 青年は心配そうに琴を見やり、傷の手当をと彼女を店のなかへ案内した。琴の警戒をよそに、青年はいたって真面目に手当を行った。そして何があったのかと優しく問われると、少女の大きな瞳からは大粒の涙が溢れた。
 彼こそが、琴の十五年の人生で初めて、ただ純粋に身を案じてくれた人であった。
 二人はほどなくして淡い恋に落ちた。琴はパトロンたちを殺して以来、ただ一人残った男の前から姿をくらませた。青年の元に留まる形で。華族であった祖父の後を継いだ父が開業した飲食店を、青年は譲り受ける形で所有しているという。彼は日向でのびのびと育てられた人間だった。
 琴にとってはあまりに眩しすぎる存在だが、それにも少しずつだが目が慣れていった。二人は一年ほど、そのような生活を続けた。琴はいつしか己の暗い過去を封印するように記憶の彼方に押しやり、青年と過ごす刹那で頭がいっぱいになっていた。
 しかしその穏やかな時間も長くは続かなかった。店じまいの支度をする夕暮れ時、人の気配はひっそりと影を薄める時分であった。青年は外に出しているテーブルを片づけていた。琴は椅子を一つずつ、丁寧に店内に運び込んでおり、青年から目を離している隙のことだった。
 青年がうめき声をあげて倒れた。店の外へ出て様子を見た琴は唖然とした。青年は腹を抑えて苦しそうに呼吸をしていた。琴が駆け寄るよりも先に、青年を見下ろす影が刃物を振りかざし、とどめを刺した。
 ぐったりとして動かなくなった青年の体を見て、琴は頭を殴られたような、奇妙な感覚を味わった。
 現実は変わらないのに、今度ばかりはそれを受け入れられそうになかった。
 刃物を持った男に見覚えがあり、琴は瞳に涙を溜めた。それは、殺しの命令を出した愛人の姿だった。どうして姿を消したんだ、と男は琴を詰った。一緒にいられないならば、もう殺すしかない。男はそのように呟いた。

 琴はこの時、殺されるのもいいかもしれないと思った。死の恐怖がなかったわけではない。
 ただ、青年なしで生きていくことが、同じくらい怖かったのだ。

 けれどその瞬間、一人の天使が現れた。

 優しい薄茶の髪、零れ落ちそうなほど大きなアーモンドアイ。壊れそうなほどに華奢で小さくて、とても綺麗な子供だった。
 その子共は紅葉のような小さな手に不釣り合いなほどのナイフを深々と男の背中に突き刺し、ためらいもなく引き抜いた。男が痛みに膝をつくと、途端にナイフはその首筋を鋭く切り上げていた。血しぶきを厭う様子もなく、子供は返り血を浴びながら男の生死を確認した。完了、と彼は小さく呟き、琴に一目もくれずに歩き去った。
 小さな体には大きすぎる黒いシャツ。生地が風に翻る姿が、まるで天使の羽のようだと琴は思った。
 琴はその子共の姿を目に焼き付けた。この度の事態は、すべては己の弱さが招いたものと思われた。あの男も始末しておけば。そもそも他のパトロンを殺せと言われた時点で断っておけば。
 琴はあの子供のような力が欲しいと思った。腕力のない琴は戦闘向きではなかった。
 だから琴は、ハニートラップを武器として選んだ。自分の取柄は、男好きのする顔と男を誘惑する手管しかなかった。
 青年がいないのならば、この世に自分の居場所はもうないのかもしれない。けれど琴はもう一度だけ、あの時の子供に会いたかった。琴にとってあの子共は命の恩人であり、希望の象徴でもあった。
 数年が過ぎ、琴は再び天使に出会った。随分背は伸びたが、可憐な容姿は変わっていなかった。恋い焦がれた天使の姿を見た瞬間、琴は自分のなかで時間が再び動き出すのを感じた。

 琴は語り終えると、サクヤを向いて言った。私はあなたに命を助けられたのよ、と。
 歩けない琴を背負って、少年は彼女を住処まで送り届けた。
 彼女をそっと板張りの床に下ろすと、サクヤは女が泣いていることに気が付いた。琴はサクヤの胸に顔を押し付けるようにして涙をこぼし続けた。
 指が白くなるまでシャツを強く握りしめる彼女を押し返すこともせず、少年はしばらくそこに佇んだ。
 布地が涙を吸って、生暖かい感触をサクヤの肌に伝えた。過去も未来もない、根無し草である感覚は、サクヤにもよく理解できた。そして彼女がただ共感だけを求めているわけではないこともわかっていた。けれどサクヤにはどうすることもできない。だからせめてもの償いとして、少年は女に寄り添い続けた。
 やがて琴は引きつれる息のなか、悲痛な声で囁いた。

 寂しい、と。

13.

 ほどなくして注文したものがテーブルに届く。
 
 砂糖の焼けた香ばしい匂いがふわりと鼻腔を刺激する。あとから運ばれてきたコーヒーは豊潤で高貴な香りを強烈に漂わせた。
 「まさしく贅沢ですね」
 サクヤは思わず苦笑した。携帯食以外を食べることなど一生許されない庶民を思えば、少々気の引けるほどの豪奢な食事である。
 「そうね、でも、たまにはいいものよ。贅沢も」
 弾むような声で(こと)は答えた。琴にとってこのような店を訪れるのは、たまに、くらいで済ませられる頻度ではないだろうとサクヤは心のなかで呟いた。けれどあえて口にはしなかった。
 店内に流れる空気は穏やかだった。サクヤはこの空間における自分のそぐわなさを感じ、当たり前かと納得した。
 殺伐とした生活を送るサクヤは、あまりに裏の事情に精通しすぎている。今更、このような穏やかな時間を信じられるほど夢見がちにはなれなかった。
 サクヤはちらりとカップを両手でそっと持ち上げる琴を見た。現実を知っているのは琴とて同じことである。彼女はどのような気分でここでの時間を過ごすのだろうか。
 トーストをかじると、柔らかな甘みと温かみが口伝いでわかった。おいしいけれど、優しすぎる味だとサクヤは思った。大事にしていても、いつかは壊れてしまう、繊細でどうしようもなく弱いもの。この味はそれだ。
 「ねえサクヤ」
 琴がおもむろに口を開く。
 「例の同居人とは、どう?うまくいっているかしら」
 「どうもなにも、最近はろくに顔すら合わせていません。お互い不規則な生活だから」
 サクヤはこともなげに言った。実際、ここしばらく玖珂(くが)とまともに言葉を交わしていない。
 「そう」
 琴はなにかを思案するように押し黙った。妖艶な美しさに陰りがさし、その表情に儚さが灯る。
 
 「ねえ。どうして、彼と住もうと思ったの?」

 色のない声に、サクヤはあえて顔を上げなかった。湯気越しの彼女の表情が、どうしようもなく女の顔をしている気がしたからだ。
 「…どうしてでしょうね。俺にもよくわかりません」
 それは紛れもない本心であった。発端に玖珂のしつこい勧誘があったとしても、最終的に同居を決めたのはサクヤ自身である。玖珂との馴れ初めはあまりにも目まぐるしくて、すべてが一瞬であった気もするし、それでも随分長い時間をかけてここまで来た気もする。
 そして、サクヤの胸に巣くう嵐のような感情のなかに、美しくも寂しい美女はまるで介在しない。琴の住む場所は、彼女の望まざるであろう、心の中心から外れたところにある。
 けれどサクヤは、きっとそのような瑣末なことには、彼女も無関心であることを知っていた。サクヤにとって琴が心の軸でないように、琴にとってもサクヤは中心から外れた存在なのである。琴が求めているものは、寂しさを紛らさせてくれる、まがい物の残像。
 そして、サクヤはそのように利用されることを拒み続けている。
 サクヤは穏やかに言った。
 「ここへ来るのは、故人を想ってのことでしょう?このような店を訪れるのも、たまに、程度の頻度じゃないはずだ」
 「…サクヤ」
 唐突な切り出しに、秀麗な様相に影りがさす。
 「俺はよく知りもしないけれど。その人は琴姉さんをなによりも大事に想っていたんだと思います。そして、姉さんは、未だにその人を忘れられないでいる」
 サクヤは豊潤な香りをまき散らす液体を見下ろした。
 燻る白は、熱量の放出。ならばこれは、命そのものを表しているのではないか。命を燃やし、その過程で雑多な感情なんかを放ち、けれど結局、蒸発して無に帰す。それは、至極当たり前のことのように思えた。

 けれど、琴の想い人は違った。
 命が尽き、体が存在しなくなっても、一人の心の中に存在し続けているのだから。それは、想い人の力であるのか、それとも琴が生かし続けた結果なのか。サクヤはそのような不確定な事実が、とてつもなく不気味だった。
 
 琴は無言のままにサクヤに、手を差し伸べた。
 そこまでわかっているのならば、あなたを唯一の心の拠り所に連れてくる本当の意味も知っているのだろう、と。
 琴の全身がはっきりとそう告げているのを少年は感じた。宙を泳ぐほっそりとした手を、サクヤはしっかりと握りしめた。
 「…琴姉さん」
 「いや…言わないで。このままでいいの、このまま…」
 淡い希望でも、儚い夢でも、抱いて見続けていたいと女は訴えた。
 そうはいかないとサクヤは首を振る。叶わぬ希望や夢など、そのうち昏い感情となって心に巣くう。
 この世界で夢など見てよいものではない。叶わないことが続くうちに、織のように精神に溜まってゆく鬱屈とした気持ち。そのような醜いものが彼女に宿ることを、少年は拒んだ。
 「琴姉さん。俺は、その人のかわりにはなれない」
 いつのまにか握りしめていた手は力を失い、するするとサクヤの掌を滑りぬけていった。

14.

 「薄ら蒼い月だなァ…」
 廃墟の屋上、そこに反り返るように立つ縦長の影。
 「こんなにいい夜は、お姫様の白い肌がよく映えることだろうよ」
 男はその光景を思い浮かべるように両目を瞑り、両腕を大きく広げてくるりと身をひるがえした。で、と開眼して見据えた先には、三つの人影が佇んでいる。
 「トップ様直々に、一体なんの用事かなぁ?」
 決して先手は打てないような間合い、それを絶妙に心得た立ち位置をいとわしくも面白く感じながら、クロノスは恭しく一礼をした。
 「まあ、用事ってほどの用事じゃねえよ」
 淡く笑んで、(きょう)はクロノスを見据えた。気の抜けた声とは裏腹に、その双眸は鋭い光を湛えていた。対する男はにやにやと口元を緩ませ、長刀の柄を掴んだり離したりして、側近たちの僅かに張り詰める気配を楽しんでいる。
 「相変わらずの忠犬ぶりだなァ?俺も欲しくなるくらいだ」
 羨ましい、と長身の男がうそぶく。
 「なあに、お前も飼ってんじゃねえかよ。忠犬というより、下僕に近い気もするけどな」
 「側近に比べたら、(べに)は奴隷か。トップ様は、随分とペットに思い入れがあるらしい…もしもお前が俺の獲物だったら、俺ァ真っすぐに愛らしい犬っころから始末しにかかってやるぜ?」
 鬱屈とした笑いを喉奥に転がし、クロノスは歪んだ表情をカンナと奏椰(そうや)に向けた。不気味なほどの殺気に気圧されたのか、二人は即座に武器を構える。
 「おやおやぁ?おしゃべり中にそんな物騒なもの出してきちゃって…随分と気性の荒い犬どもだなあ」
 やはりおかしそうにクロノスは嗤う。
 武器を収めるように合図をすると、喬は和やかに言った。
 「そりゃ、紅と比べられちゃあ二人が可哀想だろ。それに、俺は元来、カンナや奏椰を犬だなんて思っちゃいねえからな」
 「へえ」
 一段と低い声で男は相槌を打つ。
 「組織の人間はどんな経歴があろうと、仲間に入れたからには面倒を見てやるつもりでいる。特に、カンナや奏椰、神代(かみしろ)は家族も同然だ」
 尚も穏便な雰囲気を保ちつつ、喬は弧を描くようにゆったりと歩んだ。
 「仮に俺がお前のお眼鏡にかなったとして、そりゃお前のことだ、当然えげつねえことしてくるんだろ?お前ごときに負けるような人間は組織にゃいねえが…万が一、何かしでかしてみろ」
 何かの堰が切ったように、クロノスへ向けて強烈な殺気が向けられた。
 「ただじゃ済まさねえ」
 反発しあう磁石のように喬が移動したぶんだけの距離を反対方向に動きながら、クロノスは実につまらなさそうな顔をした。
 「トップ様は相変わらずだなァ。正直萎えるぜ、ちっとも興奮できやしねえ」
 「そりゃ助かる。お前に気に入られでもしたら大変だ」
 喬は肩をすくませた。
 それから彼は黒光りする双眸を眇めながらクロノスを見つめなおした。まるで何かを透かし見るような鋭い視線に、けれど長身の痩躯は揺らがない。
 「それはそうと…。お前、最近少しはめを外しすぎなんじゃねえのか」
 クロノスはにやにやしながら首を傾げてみせる。間合いの攻防は尚も続いており、右に左に、二人は少しずつ立ち位置をずらしながら相手の出方をうかがっている。
 「なんのことかなア?俺はトップ様直々のご命令を遂行するべく、日夜を問わず働いているだけなのにさァ…」
 細長い手が宙に掲げられ、クロノスは大げさな仕草でその手を上向いた顔の額に当てた。
 「疑われるなんて、とんだ報われ方だ」
 くつくつと喉奥に引っかかったような嗤いが森閑とした屋上に響き渡る。
 ひどく不気味な音に、カンナと奏椰は身構える。クロノスの中には、あまりにも危険な何かが蠢いている。二人は目で示し合い、いざとなれば喬の盾になることを確認し合った。
 けれど当の喬はひどく落ち着いた声音で言った。
 「クロノス、お前には正直感謝している。あのときお前の裏切りがなければ、俺たちのクーデターが成功していたかどうか、相当危ういところだと思う」
 クロノスは再び半目になり、つまらなそうに喬の言葉を聞いた。
 「だが、かと言ってお前のことを信用できるかといえば、そりゃ別問題だ。あのときお前と約束した期間が過ぎれば、俺は問答無用でお前を組織から追い出すつもりでいる」
 「あんたもひどい男だなァ?どうせ追い出される俺のことを、組織の仕事と銘打って利用するだけして…。それも、誰もがやりたがらないような、とんでもなく危険な汚れ仕事ときた」
 長身の男は歯をむき出しにして嗤った。
 「嫌いじゃあないぜ?あんたのそういうところ」
 強い風が二人の間を吹き抜けた。青かった景色が少しだけ陰り、おそらく頭上では強風に押し流された雲が蒼白な月を覆い隠そうとしている。
 顔に吹き付けられた前髪から覗く喬の瞳は、冷たい光と、何かを押し殺すような苦しみが同棲していた。
 「お前も、この仕事から相当な快楽を得ているはずだろ?お互い様だ」
 人の悪い顔を浮かべて、喬は言った。
 「けどな、あんま調子に乗られちゃ困る。俺は組織の人間は大切にしたい。お前がどんな小汚い、えげつねえやり方で片をつけようが構わねえ。だが、俺の大切な家族に手を出すような真似はよせ」
 話は終わったと言わんばかりに、喬はくるりと背を向け、颯爽と歩き出した。おいおい、とクロノスは表向きに呆れた顔をしつつも、その背中に牙をむくことはなかった。終始適切な間合いを取られたおかげで、手を出したくとも出せなかったのである。
 仕様がないのでクロノスはその減らず口を、武器の代わりに喬へ投げかけた。
 「トップ様は用心深いなァ。言われなくても、あんたの大切なお姫様の体には傷ひとつつけやしねえよ」
 喬の後方を守るように、奏椰は背後を警戒しながら最後に屋上を後にした。三人の客の姿が完全に消えてから、クロノスは双眸を三日月にして鬱屈した嗤いを喉奥にため込んだ。

 「お姫様の体には傷ひとつつけやしねえ、人間ってのは、体は案外丈夫にできてるからなあ?」
 その不気味な呟きは、誰に届くこともなかった。

15.

 住処へ戻ると、珍しいことに玖珂(くが)の気配がした。

 サクヤはざわめく心を押し殺しつつ、外套を脱ぎ捨てソファに腰かけた。まるで、玖珂の存在など少しも気にならないかのように。
 かすかに空気の流れが揺らぎ、玖珂の動作がサクヤに伝わる。
 暗闇の中、ぼんやりと灯るランプの暖かな明かりを見るともなく眺めていると、やがて扉の開閉音が響き、玖珂が姿を現した。風呂上りの男はタオルを頭にかぶせ、服をだらしなく着ていた。
 シャツなど腕を通しただけで、ボタンはひとつもかけられていない。それでも壮絶に絵になる男だとサクヤは思った。
 玖珂は何も言わず、当然のようにソファへ足を向け、サクヤの隣に座った。サクヤは全身の筋肉が緊張するのを感じた。まるで全神経が体の表面に露出したかのように、彼の存在を体が強烈に認識していた。むず痒いような、ぴりぴりするかのような感覚が肌の下を這いまわる。
 自分のことがわからないとサクヤは思った。なぜ、この男の前で自分は平静を保てないのだろう。どうして、この男だけがこうも自分の心をかき乱すのだろう。
 それは一体、なにを意味しているのだろう―。そこまで考えて、サクヤの哲学はいつも停止してしまう。
 心の奥深くに押し込めて封印したなにかが疼いて、ぞろりと這い出てきそうな気がして、意識下に感じる危険を察知した脳がサクヤを守ろうと思考を遮断する。
 髪をぬぐい終わった玖珂はタオルを床に放り、サクヤの腰に手をまわして手繰り寄せた。特に抗うわけでもなく、サクヤは玖珂に身を預けた。
 押し倒されるがまま、ソファに背をくっつけて、サクヤは月明りに照らされる男の顔を見つめた。
 「しばらく見ないうちに、少し痩せたか」
 囁くように玖珂は告げた。ひどくぶっきらぼうな声に、労りの音を見つけられる自分が不思議でならない。
 「知らない」
 囁き返してから、サクヤはぽつりと言った。
 「服を仕立てに行ったら、採寸の具合でわかるだろうか」
 「仕事用のものか」
 少年の華奢な体の線を撫で上げながら、玖珂は複雑な声音で呟いた。全身にちりちりとした感覚が、玖珂の掌の触れた部分から広がっていく。サクヤは背をそらし、けれど相手の表情をうかがう。なぜ、この男は自分が殺しに携わることをこうも厭うのか。
 「しばらく俺も暇だ。採寸に付き合おう。無論、金は俺が払う」
 サクヤは目を眇めた。支配下に置きたがるような玖珂の言葉に、苛立ちとともに妙な掻痒感を覚える。
「必要ない」
 サクヤは顔をそむけながら冷淡に言い放つ。その白い頬に手を添え、玖珂は少年の顔を引き戻して視線を絡ませた。
 意志の強い目だとサクヤは思った。玖珂はいつも無表情を崩さない。けれど、双眸はいつも煌々と輝き、芯の通った人間性を物語る。そして、その光がひと際自分に対して優しくなることを、少年は知っていた。玖珂の瞳が困惑と動揺を伝えるように少し曇った。そのごく僅かな感情の揺らぎを捉える自分は、一体、何なのだろうか。
 「…金ならある。あんたに支払われる義理はないだろう」
 言い訳がましく、サクヤは付け足した。それは、少年にできる精一杯の意思表示でもあった。
 「あとは…あんたの勝手だ」
 玖珂の目が眇められ、サクヤはそれだけでぐっと優しくなる男の表情に見入った。額に口づけを受けながら、少年はなぜかぽかぽかと温まる胸の裡を不思議に思った。


 翌日、サクヤは玖珂と連れ立って仕立て屋へ赴いた。闇市には大概の衣類がそろえられているものの華奢な少年に仕立てのあうものはなく、また仕事着という観点からも、サクヤは富裕区域に佇むれっきとした店を利用していた。
 一通りの手順を完了し、サクヤは奥の採寸部屋から退出した。既製服やその他の商品の展示されている狭い店内の中央に設置されたガラスケースの前に玖珂は佇んでいた。それを眺め下す男の、どこか柔らかい眼差しが気になったサクヤがどうしたと聞けば、玖珂はいいやと首をふった。
 「これが、どうにもお前に似合いそうだと思ってな」
 男の指さした方を見れば、大粒の深緑色の石のぶら下がった耳飾りが目に入った。
 いかにも高級そうな輝きを放つそれは、まるでこの国を取り巻く事象すべてを忘却するかのように、取り澄ました表情でもってベルベットの台座に鎮座していた。
 これほどまでに自分に似つかわしくない飾り物もないだろうとサクヤは呆れた。まさか購入する気などないだろうと思いはしたものの、一応断っておくべきだろうかと少年は多少困惑した。えらく上機嫌に耳飾りとサクヤを交互に見比べる玖珂を見ていると、けれど否定の言葉は喉に引っかかったようになかなか声にならなかった。心がくすぐられているかようなどことなく気恥ずかしい気持ちは、少年をいたたまれなくした。
 仕立ての準備を終えたのだろう店主が奥から現れ、穏やかに笑った。
 「お連れ様も良い目をお持ちのようだ。その耳飾りは純金の金具に翡翠を使ったもの。翡翠は魔除けとしても人気の高い石だ」
 店主の言葉に、少年は我に返ったように目をすがめた。
 魔除け、と心の中で嘲る。己が魔物そのものなのに、そんな者に魔除けを勧めるとはなんとも皮肉なことだ。
 サクヤは店主を見やった。幾度となく仕事着を仕立てさせたこの店主は、サクヤの職業を承知しているだろう。そのような人間と商売する店主はありがたい存在でもあり、けれど不思議な存在でもあった。
 富裕区域に店を構える人間からしてみれば、サクヤのような存在は不気味ではないのか。依頼人さえいれば、たとえ世話になっている人間であろうとあっさり殺してしまえる自分たちは、特に恨みを買いやすい富裕層からは恐れられているはずである。
 それを商売と割り切ることのできる人間は、そう多くはないとサクヤは思った。そして、けれど今すぐ殺せと(きょう)に言われれば躊躇もなくその無防備な喉を切り裂くことのできる自分は、どこかが欠落していることも知っていた。
 「光物は職業柄好ましくない」
 少年は玖珂に言った。それから店主に向き直り、服の仕上がりの時期や受取り日の調整を行った。

 店を出ると、午後の強い日差しが二人を襲った。馴染みのない紫外線の眩しさに目をしばたたせ、サクヤは眉間に皺を寄せながら玖珂を見やる。
 「どこか寄るところはないか」
 ひどくぎこちない声音で、少年は言った。玖珂は少し驚いた風に眉を跳ね上げ、それからわずかに目を細めて頷く。
 「せっかく外に出たんだ。市へ寄らせてくれ」
 「食料か」
 サクヤが相槌を打つと、そうだと玖珂は再び頷いた。
 「悪いが付き合ってくれ」
 別にいいとサクヤが頷くと、玖珂は妙に嬉しそうに笑んだ。笑んだ、とはいうものの、その表情の変化はごく僅かでどこまでもわかりづらいものだった。
 玖珂の喜怒哀楽をつぶさに理解してしまう自分を不思議に思うものの、少しも嫌な気がしないことに気づいたサクヤは、少し困った。

 二人は連れ立って市場へ向かった。無政府状態の現状で違法もなにもあったものではないが、国民の大半の利用している市場はいわゆる闇市といわれる類のものである。
 政府から一般人に配給される公的な食糧は微々たるもので、少しも足しにはならない。慈善団体からこの国に与えられる支援のほぼすべてが、華族などの政府と直接繋がりを持つ連中に譲渡される。
 そのため、民は試行錯誤して別のルートで日々の糧を得なければならず、怪しい外国の密輸船などから与えられる廃品や安物の品々を売り買いして生きている。今や一部の外国船と秘密裏に安定した取引を行うまでになった商人すらいるという。
 海外通貨を扱い、外国の密輸船が命綱で、政府や上流階級までもが海外支援で生活しているというありさまは、その昔世界帝国を夢見たこの国を想えば、とても皮肉でお似合いだとサクヤは思う。
 世界はこの国を忘却などしてはいない。時折餌を与え、武器を与え、そして思う方向に向かなければ容赦なく鞭をいれながら、まわりの強者たちは世界情勢をめぐって小競り合いをしており、一部の国にとってはきっと、この国が機能停止していたほうが好都合なのだろう。だからこそこの国は飢え死にもせず、立ち直りもせず、生殺し状態でだらだらと存続し続けていられるのだとサクヤは思った。
 市場には多くの店が立ち並んでおり、一重に食料といってもそれを取り扱う店は複数ある。競争することを避けるため、多くの商人は最安値を一定に保っており、値段があからさまに違うことは稀である。けれど、店によって入荷している数や一度に売れる数が異なるため、人によっては何軒か回ってから購入を決めるという。サクヤなどは構いもせずに適当な店に入って適当な数を仕入れる。どうやら玖珂もその類の人間のようで、市の通りに入ってすぐの店で大量の携帯食料を購入した。
 てっきりこれで帰るものと思っていたサクヤは、玖珂が通りのさらに奥へ向かう様子を見て多少驚いた。
 「どうせ暇だろう。帰る前に少し見て回ろう」
 どうやら浮かれているらしい男を意外に思いながら、サクヤは断る理由も思いつかず玖珂の後をついていった。
 やがて玖珂は小さな露店の前で立ち止まった。
 一体なにがあったのか、とサクヤは怪訝に思いながら店の商品を覗くと、色とりどりの石が黒い布の上に並べられていた。玖珂が立ち止まったのはちょうどその石たちの前で、どうやら露店には他にも商品が陳列してあるらしかった。店主は老年の男で、玖珂とサクヤをちらりと見やった後は顔をこちらに向けることはなかった。
 「これはどうだ」
 唐突に、玖珂がひとつの石を指さして言う。
 どういう意味だ、と少年は疑問を顔に出して男を仰ぎ見た。少しいたずらっぽく目を輝かせた玖珂は、光物は駄目なんだろう、と言った。
 「この色、先ほどの耳飾りの石に似ていると思わないか」
 玖珂の指し示すものは、多少は褪せているものの、確かに翡翠に似た深緑色の石である。サクヤはあきれ果てた。
 「どうしてそこまでその色に拘る」
 その声を無視するような形で、男は店主から許可を得てから緑の石をつまみ上げる。それをサクヤの顔の近くに翳して、やはり、とかすかに笑んだ。
 「お前の瞳の色だ」
 サクヤは目をみはった。急にこみ上げてくるこのくすぐったいような、ぽかぽかとした気持ちはなんなのだろう。顔に血液が集中したような気がして、サクヤは困惑した。
 そんなサクヤをよそに、玖珂は上機嫌に店主からその石を買い上げた。
 「持っていろ」
 差し出された石をただ茫然と眺めていると、玖珂は少し困った顔をして言葉を継いだ。
 「贈り物は嫌か。仕事の邪魔にならず、持ち運びやすい大きさかと思ったんだが」
 「…いや、」
 そうではない、とサクヤは首を振り、そうした己の行動を疑った。
 玖珂と少年の関係には、そのような物は必要がないと思っていたはずだった。そのような、甘い間柄とは存在を異にする関係だと。けれどもサクヤはわからなくなりつつあった。
 ならば一体、自分たちはどういった間柄なのだろうか。兄弟でも、友人でも、ましてや恋人などでもなく、けれども居を共にし、互いを憎からず想い、玖珂はサクヤに贈り物までしようとする。
 サクヤは躊躇いながら石に手を伸ばした。少しずつ変化していく自分の心情を不気味に感じるのは確かなのに、サクヤはその流れに抗う術を知らず、或いはその術を心が放棄していた。

 互いの指先がわずかに触れ、離れる。
 つるりとした石の感触を指の間で転がして、サクヤはポケットの中、そこに片時も離さずにしまってあるしぼり袋の中にそれを滑り込ませた。玖珂は無表情のなかにどこかほっとした表情をのぞかせながらその様子を見守り、一言、ありがとうと口にした。
 サクヤは目を丸くし、首を傾げた。
 「どうしてあんたが礼を言うんだ」
 それには答えず、玖珂は帰るか、と通りの出口へ向けて歩き出した。少年は特に気に留めることもなく、その背中を追った。
 暖かくくすぐったい胸の裡に、子供だったころの記憶がうずいた。もしかして自分は嬉しいのだろうかとサクヤは考え、罪の意識に苛まれた心がすぐにその思いつきを滅却した。

16.

 これは仕事とは関係なくて野暮用でありただのプライベートだと、サクヤは詭弁めいた建前を掲げ、暗い路地を歩いていた。
 (きょう)は恐らく、派手な行動や殺しを控えろという意図で神代(かみしろ)を伝令によこしたのだろうとサクヤは推察した。だからこれは全くの命令違反あり、言い訳のしようもない。けれど、ジンを殺した人間はサクヤの過去に深く関わる人物であるはずで、己の過去に関わる者たちを一人残らず殲滅する動機をサクヤに与えたのは、もとより喬のほうではないか。

 黎明の灯を空に見ながら、死にそびれた男が告げた名前。それは一人の情報屋のものだった。
 その情報屋を突き止めることにも情報屋を数人経由し、時間もだいぶ経過したが、サクヤは特に急ぐこともなく淡々と追跡を続けた。それは狩る者に必要不可欠な能力で、逆にいえば焦って行動を起こす者から失敗を犯し死んでいく。
 それは経験とともに備わるものなのか、先天性の強いスキルなのか、物心つく前に調教をされたサクヤには、正直なところ分からなかった。
 サクヤが唯一この長い過程を受けて考えていたのは、手持ちの通貨の残高だった。情報屋というのは読心術に長けた生き物で、客にとってどの情報が重要で、どの情報がさほど重要でないのかを的確に嗅ぎ分けてくる。
 同じ情報を与えるにしても客によって値段が変化し、客にとって重要であればあるほどその情報はうなぎのぼりに高級なものになっていく。それは当然のことで、単純に需要と供給の話である。
 商売とは、結局のところ消費側の弱みにつけこみ、優位を築いたものが勝ち残る仕組みになっている。それはサクヤたちの生きる世界となにが違うのか。否、商売は搾取する者を殺しはしないというところで差別されるだろう。
 搾取し続け、たとえそれに苦しむ者がいたとしても、商売という絡繰りは決してその苦しみを絶ってやることはしない。自分たちの世界よりも余程悪趣味な構図だとサクヤは思った。

 気配を消した少年の華奢な躯体は無音に、しなやかに路地を切り抜けていく。エメラルド色の双眸が月明りにかすかに煌き、柔らかな髪が風に従って揺れる。あたりを警戒しながら滑らかに歩く少年の姿は、まるで毛並みのいい野良猫のようだった。
 情報屋という言葉の皮を被ったハイエナたちは、そもそも金の匂いを感じさせない人間は相手にせず、値交渉には決して応じない。
 先払いが信条であり、情報に蛇足をつけさせれば容赦なく余分の報酬を要求する。取引において、主導権を握っているのは飽くまで彼らであることをハイエナたちは誇示し、それを尊重しない者は容赦なく顧客リストから削除される。サクヤはその方針に異論はなかった。自分では得られない何かを求めて取引を持ち掛けているのはこちら側であり、情報屋という職業はその需要に人々が応えた結果である。
 迷路のような狭い小道をいくつも抜け、すると急に開けた広場へたどり着いた。かつては健康な芝が一面を覆っていたのであろう地面はひび割れ、昔の姿を思い出したように草がその上をまばらに生えていた。中央には枯れた細木が、今にも倒れそうな容貌で立っていた。
 サクヤは迷わず枯れ木に向かった。目的は、壊れそうな幹に背を凭れかけて座っていた。近づくにつれ、貧相に見えていた古木が存外丈夫なつくりをしていることに気づく。二度と花をつけることはないにしろ、倒れかけてなお立ち続けるその木が重力に降伏する日は随分先の話かもしれない。
 「似合いの光景だな」
 サクヤはその老翁に言った。それは嫌味ではなく、少年の純粋な感想だった。
 朽ちかけた広場の老木に、まるで枯れかけの生命力を分け与えるように寄り掛かった老躯の手足は脱力しており、遠目からは死骸に見えなくもないその姿は、周辺と妙な一体感を生み出していた。
 「人間五十年とはよく言ったものだ…。下天の一日など、とうに過ぎ去ったもの。この老木と同じに、死に時を逃し続けておるのみ」
 なんのことかとサクヤが問い返す前に、老翁は再び口を開いた。
 「クロノスから大まかな指示は受けておってな。お前さんの知りたい情報を、確かに儂は有している」
 いくらだ、とサクヤが問うと、老翁は眩しそうに少年を見上げた。
 「儂のような死にかけにとって、金銭などという世俗的がものはどうにも落ち着かなくてな。端的に言えば、嫌いだな、金など。あまりにも生を醸し出しておっていかん」
 「ならば報酬はなんだ、食い物か」
 少し皮肉を含んだ声音でサクヤは問うた。現物をもらったところで、それは結局金で買われたもの。金と食料はいわゆる同一物であり、そのようなとこを拘ることはもはや無意味であり、サクヤにはその心理が皆目わからなかった。
 「そうだな、」
 しわがれた声が演技じみた勿体ぶり方をする。
 「お前さんの過去を、少しのぞかせてもらおうか」
 老翁の声音が、嘲りを含んでこだまする。サクヤは目を眇めた。
 「なぜそんなことを知りたい。それも、クロノスに言われてのことか」
 そう発言してから、それはないかと少年は思い直した。クロノスがサクヤの過去を知らないはずはなく、あのしつこさと圧倒的な力で詮索しつくしていることだろう。となれば、ただの嫌がらせの可能性もある。が、そのような子供じみたことをするほどまでに、クロノスという男はくだらない男ではないことをサクヤは知っていた。
 これは老翁の勝手な好奇心というやつだろうか。
 情報を入手する条件として、老翁が要求したものは相当に高価なものである。サクヤは躊躇った。
 知識と曖昧な記憶のないまぜになった己の過去。誰にも話してこなかった心の闇でもある情報に、果たして老翁の情報は見合うのだろうか。
「話したくなければそれでいい」
 老翁は対価を用意でいないのであれば去れとサクヤを促した。
 少年は踏みしめた地面を見つめた。最重要事項は、己を守ることではない。何を失うことがあるだろうかとサクヤは思った。
 しおれてもなお生き永らえようとする草が踏み潰されている足元を見つめ、少年は少しおかしくなった。所詮は弱肉強食の世界。弱かった自分を食い物にして何が悪いというのだ。これを逃しては、せっかくの餌代も報われずに終わってしまう。
 「俺の過去か。そう面白くもない話だと思うがな」
 サクヤは昏い笑みを浮かべ、静かに語りだした。

17.

 レイラはその夜も死体の処理に追われていた。
 死体の状況を書き写したノートはそろそろ二桁の冊数に達しようとしており、それらは住処に乱雑に散らばっていた。住処を移るときには、どれも忘却され置き去られる運命にある物たちである。
 レイラには過去という概念がなく、未来という希望がなく、刹那を享受するのみであった。
 死体を発見した少年に対価を支払いながら、ひったくられるように持っていかれるそれを彼女は物惜しそうに見つめた。レイラは収集家であり、情報や金などは特にため込むことに執着する。彼女にとって金を渡すことは、拾い集めたコレクションの一部を明け渡すようにひどく心を揺さぶられる事象であった。

 その理由は恐らく己の出自と関わりがあるのであろうと、彼女自身も解っている。

 レイラは違法輸出船に潜り込んで入国した、いわゆる流れ者であり、国外で培った技術で今の職を得た。
 彼女の人生は常にだれかに生かされている状況下にあった。貧しい家に生まれ、奨学金で通学し、学生として作った借金を払い戻すため、就職先を自由に選べなかった。
 彼女は解剖学や外科術を専門に学び、非常に優秀な人材であると称えられもした。そうして若くして行きついた先が、紛争地域を制圧する軍の専属医であった。熾烈な環境だった。毎日のように爆撃音や銃声を浴び、毎日のように誰かの体を切り開き、誰かの死を目の当たりにした。
 そのうちに、生きた人間と死んだ人間の区別がつかなくなっていった。レイラの診る患者はいつも横たわっており、血にまみれ、意識が飛んでいた。しゃべりもせず、致命的な傷を負い、ただ横たわっているだけの肉塊が、どうして生者に見えるだろうか。
 十分な睡眠をとれず、命の危機にさらされ続けた彼女は、ついに生と死の境目すら曖昧になっていった。
 レイラは日に日に現実の感覚が薄れていき、眠れない日が増え、そのくせ悪夢が増えた。暴力と血と死しか見ることのできなかった数年の間に、紛争はすっかり彼女の中に住み着いた。
 レイラは思った。周囲は地獄であるけれど、本当の地獄はもはや自分の心に巣くってしまったと。彼女は二度と正常に生きていけないことを悟った。そして、大国である母国の有力で安全な軍に守られた今の環境は、今の自分に似つかわしくないと思った。
 己の地獄を逃れることのできない人間ならば、地獄らしい地獄へ行きたいと、レイラは切望した。
 レイラはもはや、正常な感覚を失う前の記憶を思い出せなかった。すべてがぼんやりとしており、輪郭がはっきりとしない。ただ黄色い光に包まれており、それはきっと幸せの色なのだろうと彼女は思う。
 彼女は軍を逃亡した。紛争地域から出航する船にこっそりと乗り込み、自分の知る限り最も荒廃した国へ降り立った。そこは、レイラの想像した通りの、素敵な地獄だった。
 彼女の収集する執着心は貧しい出自から来たものなら、すべてを置き去り捨ててしまうのは、過去という概念を忘れてしまった後遺症のようなものだろうか。

 「よお、」
 レイラの物惜しそうな視線を遮ったのは、細長くて黒い影。
 「頼み事をしておきながら、随分と長いこと姿を見かけることのないものでした」
 彼女は友好的でも、特別冷たくもない声で応答した。
 クロノスは声を上げて嗤った。
 「悪い悪い、そう拗ねるなって。俺も何かと忙しい身でさァ…。用事の合間を縫って、こうしてようやくお前に会えたってわけよ」
 ほら、と男は麻袋を放った。
 手に着地した重みを感じて、レイラは満足そうに微笑した。
 対価としては十分すぎる金である。もっとも、レイラとしてはクロノスがよこしが額がいくらだろうと文句を言うつもりはなかったわけだが。
 彼女は飽くまで受動的に生きており、対価さえいただければ、その量や価値になど、あまり興味の湧かなかった。
 「それで、首尾はどうよ?」
 やたらとにやにやとしながら、クロノスは言った。
 それが勿論ただの世間話でないことを、レイラは承知していた。
 「上々、といったところですか。少なくとも、疑われている様子はありません」
 「なら、完璧だなア」
 にんまりと、今度はクロノスが満足気に笑んだ。そして、柄にもなく、続いてごく普通の質問を口にした。
 「死体の方はどうだ。商売ははかどってるか」
 「ええ、いつも通りです」
 レイラは涼し気に応えた。
 そうか、とクロノスは頷き、楽しそうに付け加えた。
 「近々、収益が倍々に増える日がくるぜ?楽しみに待っとけよ」




 サクヤの生まれは裕福であったという。
 詳しくは知らないが、恐らく大企業かなにかを経営する親のもとに生まれたのであろう。大企業といっても、昨今ならばただ政府とのコネで生かされている、ただの華族のようなものであったはずだ。かろうじて機能する国の生産を賄っている、その一つであったのだろうとサクヤは思っていた。
 その恵まれた環境が突如崩れた日は、サクヤがまだ幼子のころの秋だったという。
 例に零れず、サクヤの両親は殺害された。そしてサクヤは暗殺者らに嬲られ、売り飛ばされた。奴隷として買われた先は、暗殺を生業としながらも自らの手を汚すことを嫌う集団だった。
 彼らは安く買いたたいた奴隷の子供たちを道具に、殺しを実行した。サクヤは彼らの元、様々な暴力や訓練を受け、命令されるがままに人を殺めていったという。
 ぼんやりと記憶に残っているのは、多くの子供の死。最初の冬は、凍死が多かった。コンクリート張りの地下室は冬になると気温が下がり、十分な衣類を与えられていなかったサクヤたちは、次々と病にかかり、病死か凍死した。運のよいことに、翌年からは長袖の上着が与えられ、それ以降の凍死はあまりなかった。
 その次に多かったのが、暗殺の失敗による死であった。厳しい訓練を毎日のように課せられていたとはいえ、体力も腕力もない子供たちが実行することである、当然、多くの仕事が完璧にいくはずがなかった。目論見がばれでもすれば、大人と子供の対格差である、逃げる側が捕まることは目に見えている。
 あるいは訓練中に気まぐれに殺される子供もいた。弱音を吐いたり、泣き出したりする子供は特に目を付けられやすく、「失敗作」として殴り殺される現実をサクヤたちは毎日のように目の当たりにした。
 それらを理不尽だとは、誰も思わなかった。否、思いえなかった。
 子供たちにとってそれは当たり前の日常で、右も左もわからぬうちからそのような環境に放り込まれた自分たちには、何が悪で何が正義か、そんな当たり前のことすら知らずにいた。心に刻まれるの恐怖のみ、それが死に対するものなのか日々与えられる苦痛に対するものなのか、次第にわからなくなっていった。

 そんな生活が諾々と続くはずだった。サクヤたちを支配していた組織が潰された日までは。

 いつものように牢に閉じ込められていた子供たちは、その夕暮れ時が妙に騒がしいことが気になっていた。叫び声などが飛び交い、時折響く銃声が、不吉な未来を彼らに想像させた。やがて上階がしんとすると、いよいよ子供たちはすくみ上った。階段を下る靴音が重く空気を揺らし、彼らの住む暗闇の中へと、何者かが足を踏み入れた。
 サクヤは時折、どうしてあの時殺されなかったのかと思うときがある。
 のちの苦しみに比べれば、あの場での死はどれほど楽なものであっただろうか、と。
 けれども、あの晩サクヤたちに訪れたのは、すべてを解決してくれるような、真の解放とは程遠いものであった。
 牢の鍵があけられて、扉がわずかに内向きに開いた。そこにあった誰かの気配は立ち消え、子供たちはまだ息をしていた。
 それは、ただの閉鎖された空間からの解放。ここにいても、外に出でも、子供たちにとってはあまり関係のないことだったのかもしれない。
 どちらにしても立ち向かわなければいけない苦痛が消えることはなく、だから偽りの解決を、子供たちはどう受け止めていいのか困惑した。
 最初に牢を出た子供がサクヤだった。後ろに残していった子供たちの後のことは何も知らない。知りたくもなかった。
 サクヤはそのまま上階まで駆けだして、ばくばくと鳴る心拍音に耳を塞がれながら、忌々しい建造物の出口へ向かった。
 途中、なにか円柱状の物を踏んで転ぶと、少しだけ冷静さが戻ってきた気がした。転んだ原因の物体を拾い上げて、それが薬莢だと知る。今まで見たことのない種類で、だからこれはきっと敵方のものなのだろうとサクヤは思った。
 感謝の念など少しもわかないけれど、サクヤはその薬莢を持っていくことにした。それがなにかの戒めになる気がしたのかもしれない。己の出自を忘れないため、この怒りを永久に保ち続けるためのお守り。

 それから、サクヤは外の世界を知った。四年ぶりに自分の意志で外を歩いた、雨季のことである。

18.

 玖珂(くが)は苛立っていた。上は焦りを募らせるばかりで、その実動くことをいとわしく思うかのように、進捗は遅々としていた。
 仮初の政府は手をこまねき、自己保身に走るように地下へもぐり、そして実を結ばない議論の螺旋階段を上ったり下りたりしている。彼らはいつしか己に課せられた責務というものを見失った。
 大事なことはただひとつとなり、それは自らの命を長らえることにすり替わってしまっていた。
 カサブランカの噎せ返るような香りに顔をわずかに顰めながら、男は木目調の扉をくぐった。
 広い地下室の中央、そこに設置された巨大な円状のテーブル。それを囲んで座る老人たちの顔は一様にして暗く、まるで根腐れした木々の墓場のようだと玖珂は思った。
「近々、汚らわしい獣共が食い争うだろう、とのことだ」
 一人の老翁の声が、空間に響いた。誰もが微動だしない、布のこすれる音ひとつすら起こらない部屋では、その声の主は容易には判別できない。
 「お前には、その機に乗じて獣たちの頭を刈り取ってきてもらう」
 別の声が言う。
 「お前の功労には目を見張るものがある。そんなお前だからこそ、この重要な案件を託すことができる、というわけだ」
 特にこれといった感想も感情も、思考すら抱くこともなく、玖珂は機械的に頷いた。
 大げさに口を開いた白い植物たちの、まとわりつくような甘く、べたべたとした臭いは、どこか、腐り落ちる寸前の果実のそれを思わせた。



 ―――陶器のようさ、その肌は
       鋭利な冷たさ剥き出しに
          触れるものすべて切り裂いて
             君のその翡翠の瞳に映ってる
                    足元に群がる骸たち―――


 長身の痩躯はため息をつき、見せかけばかりの切なさをその蒼白い顔いっぱいに塗りたくった。
 「こうも月が蒼い夜は、どうにも歌いたくなっちまうなァ…」
 「兄貴、さっきの歌、サクヤさんのことっスね!」
 (べに)は犬らしく男に懐き、大仰な興奮で目を輝かせた。
 クロノスは満足気に目を細め、錆びた廃車のボンネットに軽く腰を下した。
 優雅に振舞う道化の顔からは、抑えきれない興奮と快楽がにじみ出ていた。十四日間という、永久にも思える活動停止期間は、残忍なほどの退屈さをクロノスに与え、そして血に飢えさせていた。男はくつくつとほの暗い声音で嗤い、鼻歌交じりに言った。
 「この蒼い蒼い月明りに照らされたお姫様は、さぞ、輝夜姫のように、儚く美しく咲誇ることだろうよ…」
 恍惚とした表情を浮かべる主人を、紅は意気揚々と、そして眩しそうに見つめた。
 そんな、まるで別世界を築き上げている二人を遠巻きに、しかし中心とするように、ぞろぞろと組織の人間たちが集まり始めた。
 組織内でのクロノスの評判は複雑なものだった。その腕を確かに目にした者は、彼の意図の読めない不気味な部分を煙がるとともに、ある種の尊敬を抱いていれば、彼とあまり関わりを持ったことのない者たちは、その忠誠心や能力を疑い、(きょう)が彼を組織に留めていることを不満に思っていた。
 しかし、クロノスという不思議な男は、やはり不思議な引力を内に秘めており、喬やその側近たちのいない場では、自然と統率の役割を担うようになっていた。
 そんな、人の輪とクロノスの間にできた空白の領域を、華奢なシルエットが唐突に破り、突き進んだ。
 
 「あんた、つくづくと読めない男だな」

 皮肉の含まれた言葉は、硬質で、それでいて凪いだ声音によって届けられた。
 紅が高々と手を上げ、左右に振った。
 「サクヤさん!」
 「相も変わらず、綺麗なお姫様なことだなァ…」
 屈折した笑みを称え、クロノスはサクヤを眺めた。舐めるような視線を不快そうに受け流し、少年は凍てついた笑みをクロノスに返した。
 「あんたでも、間違うときは間違うらしい。結局のところ人間にすぎないとわかって、安心したくらいだ」
 それはよかった、とクロノスは嗤い、そしてわざとらしい仕草で首を傾げた。
 「それにしても、おかしいなァ…俺は確かな情報だと思ってたんだが――あのジジイもついに頭をやられちまったのかねぇ?」
 サクヤは不服そうに鼻を鳴らした。
 「どうだか。俺は、てっきりあんたに遊ばれたとばかり考えていた」
 少年の勘が正しければ、クロノスはただ人を引っ掻き回すためだけのガセネタを吹き込んできた。或いは、彼自身の手では直に殺せない人間を消す代理の役を、うまいこと自分に宛がってきたか。
 老翁から得た情報を頼りに手繰り寄せた男は、頑なに口を割らなかった。
 いよいよサクヤも苛ついてきた頃に、逃走路を確保するためか、銃を構えた男の腕をサクヤは無慈悲に切り裂いた。大動脈まで達した傷から滝のように流れ出る血を前にしても、男は語ろうとせず、程なくして意識を手放した。どうにも解せない男の行動に苛立ちと困惑を覚えながら、せめて証拠を照合しようと、男の銃を取り上げ、少年は弾を確認した――が、それはレイラから入手したものとは異なるものだった。
 貧乏この上ない国で、複数の銃を扱う人間は稀である。ほとんどの人間は、弾のコストを考えて一丁のみ、大事に使う。特段コネがありそうでもない凡庸な男が、複数の銃を所持しているとは思えなかった。瀕死の状態でも自白をしなかったことと合わせて考えると、目の前の息絶えた男は、恐らく白だろうことが窺えた。
 「それにしても、どうして、ジジイが間違ったってわかったのかねぇ」
 珍しく質問の多い男に、サクヤは肩をすくめて、つまらなさげに言った。
 「死体処理から手に入れた薬莢が、例の男のものと一致しなかった。強情なほどの白の通しようからしても、そいつの仕業だったとは考えがたい」
 なるほど、と分析するようにサクヤを眺めながらクロノスは頷いた。その奇妙に疑り深い視線を怪訝に思い、少年は口を開いた。
 「あんた、なにを隠して――…」
 「珍しい取り合わせの二人が、随分と仲よさげにしてるじゃねぇか。俺も、家族の家長として、上手くやれてるってことかな?」
 サクヤの言葉を遮るように飛んできた声に、その場にいる人間のほとんどがぴしりと居住まいを正した。
 例に漏れたのは輪の中心にいる三人に限り、それぞれ三者三様の反応を示した。紅は無邪気に手を振り、クロノスは不気味な視線を流し目にやり、サクヤは普段と変わらず、温かくも冷たくもない態度で、彼らを迎えた。
 「トップ様とその犬っころたちじゃあないか…」
 クロノスが愉快そうに奏椰(そうや)とカンナに視線を移した。即座に武器に手をやる二人を、後ろから静かに神代(かみしろ)が諫めた。

 「相変わらずの重役出勤だな。あんたたちが来たってことは、そろそろ始める頃か」
 少年の言葉に、喬はそうだ、と頷いた。
 「今回はちょっとばかり骨の折れる仕事だが。正直、後味も悪そうだしな…」
 「背に腹は代えられないってやつだろう」
 冷ややかに言い放ったサクヤに、喬は心底愉快そうな笑顔を見せた。
 「まあ、俺たちにも色々と頭を抱えなきゃならんことがあるわけよ。何事も、政治となれば汚い面だってある」
 くしゃりと少年の柔らかな髪をかきまわしてから優しく叩き、喬は廃車の上に立った。遠巻きだった人垣の輪は一段と縮まり、すべての目が組織のリーダーに集中した。
 個人単位でないすべての物事はすなわち政治であると、昔、喬は言った。かき乱された髪をもとに戻しながら、サクヤはその言葉の真実味を味わっていた。

 「今回の仕事は、他でもない、同業者潰しだ―――…」
 喬が皆を鼓舞する演説を始め、ほとんどの組員の目は彼にくぎ付けになる。組織同士の政治―暗黙の了解やエチケットの存在する、微妙なバランス。組織内での政治―仲間同士の連携や、組織としての団結の維持、そしてそれぞれの組織内での立場や役割の確保。
 すべては絶妙に計られた天秤の上で成り立っており、そのバランスが崩れたときの始末は、いつだって、血でもって片づける。こうして喬が演説をするのも、政治的パフォーマンスと言えなくもないか、とサクヤは思った。なぜなら、彼はこうして組織上層部同士の不始末を組織員に拭わせることになった状況の正当化のための弁をたてているだけなのだから。
 「――…お前らは俺が見込んだ最高の家族だ。必ず皆が生きて帰ってくることを信じている」
 喬が言葉を区切り、場の空気が一段と冴え、殺し屋たちはぴりぴりとした殺気を纏い始めた。喬はあたりをぐるりと、まるで自身の「家族」の一人ひとりの顔を確認するかのように見回して、手を高々と掲げた。
 「行くぞ」
 声とともに鋭くその手は宙を裂き、それを狼煙とするかのように、組員たちは一斉に無音の進撃を始めた。目標は敵本部、歯向かうすべての敵は直ちに制圧し、すばやく敵の親玉を仕留める。それが、喬の下した命令だった。
 この争いは総力戦となるであろうことを、喬は予測していた。情報屋のはびこる時世で、このような大規模な作戦など、筒抜けも同然である。
 「俺の大事な家族に、情報を横流しするようなやつがいたら、俺的には大打撃だけどね」
 かつて喬は、後頭部をぽりぽりと掻きながら、困った笑顔で言った。サクヤはこの作戦について、なぜ敵の上層が逃亡などを考えないと断定できるのかと問うた。
 「ま、要は見栄ってやつだな。宣戦布告を受けてやすやすと退くような組織なんて、生き延びたところで誰にもまともに相手にされなくなっちまう。それよりも、総力を結集して籠城作戦、派手にドンパチしたあとに勝利すれば、むしろ相当株が上がるってもんだ。本陣での籠城ともなれば、建物の内部の形状なんかを熟知してるあちら様のが有利だろうしな」
 と、涼し気な顔で喬は応対した。
 不利だとわかっている状況に、よく大事な「家族」たちを放り込めるものだ、とサクヤは呆れたものだった。しかしのちに考え直した末、サクヤは、喬が二つのものを天秤にかけていることに気が付いた。一つの秤には、この戦争で失われる彼の「家族」の命。もう一つには、組織の評判。組員を守れない組織は、やがて信頼を失い、裏切りを呼ぶ。裏切りが組織の滅亡に繋がることを、喬は誰よりも知っているはずである。

 今日に失われる命と、明日に失われかねない多くの命。
 喬は秤にかけた二つのもののうち、未来に繋がるほうを選んだ。そういう憶測を立てながら、少年は、己はとことん政治などには向いていないと思った。
 自分は飽くまで道具であり、無感情な道具であり続け、そのように扱われていたいと、そう思った。

 サクヤは厳かな月光を全身に浴び、武器を構えながら敵陣に突き進んだ。
 

19.

 あれはもう、かなり昔のことだろう。
 
 武器を振りかざしてくるすべての人間を払い落とすように倒していきながら、クロノスはふと、そう思った。凪ぎ落した敵のとどめを刺すのは、後をついてくる(べに)。クロノスの「犬」は、代々それを役目として負ってきた。
 クロノスにとって、誰かの命を刈り取ることは、とても神聖な作業だった。
 自らの手を血に染めて、哀れにも肉体という鳥かごに囚われた誰かの魂を解放する――それは、まるで愛を現す行為ではないか。
 だからクロノスは、特別でない人間たちを自らの手で殺すことを忌避した。そして、いつか本当に特別な相手に自らを殺してもらえる耽美に憧れた。
 「兄貴ー、全部終わりましたよー」
 数歩離れた場所で、紅が手を大きく振った。その無邪気な笑顔の裏に隠れた狂気を、おくびにも出さずに。
 
 まだ、違う名前を名乗っていたころに愛した女の名を、クロノスはもはや思い出すこともできなかった。
 彼女は、その儚げな姿に似つかわしく、日々の悲嘆ばかりをする、心の弱い女であった。クリーム色の、緩くウェーブのかかった長い髪と、灰色の世界を虚ろに映す紺碧の瞳。薄い唇が、喘ぐため以外でその細い声を紡ぐのは、甘く香る死の幻想に耽溺するときだけ。それでも彼女は不思議な美貌と艶を宿し、それは麻薬のように客を惹きつけた。
 彼女の口癖は、確か、「自由になりたいものね」であったか――…。
 音一つ立てない足取りで前進しつつ、クロノスは僅かばかり、困ったような笑みを浮かべた。彼の脳裏が、床一面に広がった女の髪の残像を思い浮かべた。クリーム色が、裾のほうからじわりじわりと、赤黒く染まっていく。
 クロノスは嗤った。彼女の世話係を務めていたころの古い記憶が、未だ癒えきらない傷口のようにじくじくと疼いた。


 生れ落ちる前から忌まわしいものとして扱われ続けた男は、ごく自然に、愛情に飢えた。
 娼婦の忌み子として生れ落ちた者は、大抵、幼いころから商館で働かされる。
 クロノスも例に漏れず、物心ついたころには、娼婦たちの身の回りの世話をこなす日々に追われていた。
 母と呼べる存在はおらず、父親に最も近い存在は、幼い子供を役立たずのただ飯食らいだとなじる、商館の主。それでも毎日の食料をけちらず与えてもらえただけ、他の商館よりは幾分も好待遇であったと言えるだろう。
 早い時期から、自分のいる館がどういった場所であるかを理解し、そしてそこで行われている行為にも慣れ親しみ、クロノスはただ機械的に働く日々を送っていた。女たちにも、彼女らが売っているものにも、特段、興味はなかった。所詮は愛情の伴わないもの。愛の欠落した、形骸のような虚しい行為に、クロノスは落胆ばかりを覚えた。
 愛とはいったい、どこにあるのだろうか。どこへ行けば、愛というものの感触を知り、それに包まれることができるのだろうか。
 「―――自由になりたいものね。この理不尽な世界から、この拘束してくる体から…そうは思わない?」
 別の商館から買い付けられ、クロノスが日々世話を焼く「姐さん」たちに新しく加わった女は、少し変わり者だと、当時の彼は思った。
 世話のために訪れる度、彼女は自室の壁にへばりつくようにして、幼児の頭ほどの大きさの小窓から空を眺めていた。
 毎日まいにち、扉をあければ彼女はあの場所にいた。低い小窓に視界を合わせるために体を屈め、座るのと寝転ぶ姿勢の相中の、ひどく心地の悪そうな体勢をして。いつからそこにいたのかと問えば、
 「さあ、いつからかしら…。気が付けば、あそこにいるのよ、いつも」
 と、あしらわれたとも思えなくもない回答を寄越す女だった。
 それがからかいでもあしらいでもなく、ただの本心だとクロノスにはわかった。
 それほどまでに、彼女は壊れた生き物だった。飲食に興味がなく、身だしなみに興味がなく、ともすれば息をすることさえ忘れてしまいそうな女は、金になるだけに館の主の悩みの種となり、程なくして、クロノスは彼女の全面的な世話係に回された。
 食事の時間になれば手ずから食べさせ、体を洗い、睡眠をあの小窓の下ではなく布団の上でとらせる。面白いことに、女はクロノスの世話を嫌がるそぶりを見せず、少年がやってくると素直に窓辺から身を離した。
 時間を共有する中で次第に気づいたのは、女が別に自ら積極的に死のうとしているわけではないこと。自傷行為を働くわけでもなく、飲み食べをかたくなに断るわけでもなく、彼女はただ、生に付きまとうすべてのことが鬱陶しくなったかのように、生きるための作業を放棄していた。
 もしかすると彼女は、生に対するのと同じくらい、死にも執着がなかったのかもしれない。
 それでも口を開けば彼女は常に「解放されたいものね」と独白を始め、土にかえる瞬間、それをまるで奇跡的な神秘であるかのように、うっとりと瞼を閉じて夢想した。
 クロノスはそんな女を可愛く想った。なにせ、商館で唯一、彼女は小間使いの彼に心を許し、懐いた。地位や、金などの贈り物に操られることもない、無垢な彼女の心もまた、ひどくクロノスの庇護欲をそそった。
 彼女との出会いから一年ほど経った頃だっただろうか。商いへむけて備えを行っている際、女は言った。
 「私を殺してくれる人を探しているの
 けれど、と彼女はつづけた。
 「だけど、誰でもいいというわけでもないの。私が信頼を置けるくらい好きで、相手も私のことを好きでいてくれなきゃ。それじゃなきゃだめなの」
 どうして、とクロノスは彼女の長い髪を櫛ですきながら問うた。
 鏡越しに、二人の視線が絡まる。
 たれ目を縁取る長いまつげを震わせ、夢うつつの表情にかすかな憂いを含ませた女の姿は、月下で咲き誇る大輪の蜜花のように、クロノスの心をくすぐり、誘った。
 「どうして、かしら…。私にとって、私の一番欲しいものを与えてくれる人は、とても特別な人になるから。だから、その『特別』な人が、もともと大切な人なら、その人は格別に、私にとって『特別』な人になってくれる気がして…。だけど一方通行はいやなの」
 ぴしゃりと、最後に彼女は付け足した。
 「私が想うのと同じくらいに、相手も私のことを大切に思っていてくれないと。私が、その人にとっての『特別』だからこそ、私を殺してくれる…そして私もその人を『特別』に思っているからこそ、安心して命を差し出せるの」
 恍惚とした表情を浮かべ、女は身をひねり、鏡越しではなく、肉眼でクロノスを見上げた。
 「それって、至高の愛の形だと思うの」
 彼女が自殺をしたいのではなく、殺されたがっていることは、薄々クロノスも気が付いていた。それでも、女の、殺され方の哲学に至っては、このとき初めて知った。
 「だから…、ね…?」
 女の手が頬に優しく触れ、クロノスはその生暖かさを実感した。少しひんやりするくらいの温度しかないその手の平が、やけどを残すくらいに、じりじりと顔の皮膚をあぶるような、そんな感覚をクロノスに残した。
 彼女は、クロノスを愛していた。そして、クロノスもまた彼女を愛し、そのほっそりとした蒼白い喉を裂いた。
 女からあふれる紅い命は、あの夜感じた彼女の体よりもずっと熱く、ずっと激しかった。彼女はめでたく解放された。そして、その幸福を目の当たりにした少年は、いつしか、彼女の得たのと同じものを求め、さまようようになった。
 
 それが、クロノスの初めて触れた愛であり、唯一知る愛の形だった。

20.

 時間を惜しむように、それとも時間を捨てるように、少年は数多の敵の集団に身を投じ、間断なく喉を裂き続けた。
 組織同士の諍いが転じて全面戦争となり、それも結局は、ただの意地の張り合いでしかない。競合組織の面子をいくら潰したところで、収益になることはない。漁夫の利で掃除屋あたりが大儲かりすることには間違いないが。
 これは生産性や合理性を欠いた「仕事」。この無意味な茶番に興味はなかった。
 けれど、心に巣くう憎しみの鎮静剤―…命を刈り取る快楽と、相反すれど、自らの死への渇望が、そこには確かにある。そうである限り、少年は茶番だろうとなんだろうと、一つの駒として盤上を駆けずり回らずにはいられなかった。
 どうやら敵組織は、古い高層ビルの跡地を根城とし、籠城先に定めたそうだ。荒廃したビルは、過去の栄光の片鱗でも残そうと努めたかのように、外壁に、砕けながらもガラスをところどころに張り残していた。
 全面がガラス張りだったであろうこの建造物は、その昔、空襲を受けたとき、どのようにして瓦解しただろうか。雨のように降りしきる虹色のガラス破片、数多の宝石が床に弾ける音を想像して、サクヤは、このビルが散りゆく覚悟の敵に相応しい舞台だと、ふと思った。
 一つの集団を潰し、索敵、そしてまた集団を屠り、それを繰り返すうちに、自分が随分と敵陣に切り込んでいることに気づいた。
 高層ビルの麓までたどり着き、城の頂を仰ぎ見る。頂上といっても、ビルは高層階をほぼ失っており、ざっと見たところ、せいぜい八階分しか構造を保っていなかった。恐らく途中から床が抜け落ちている階もあるだろう。
 サクヤは大まかに、目の前の建築物が五階あると仮定した。大将はたいてい、戦場の最後方にいるものである。ならば最上階の五階に陣をとっていそうなものだが、やはりここは逃亡経路の確保を惜しんで、下層に潜んでいることのほうが現実的か。少年は壁に沿って歩き、やがて侵入経路に適した空洞を確認した。
 ここからは幾分か、警戒をしてかかったほうが良いだろう。
 サクヤは一度立ち止まり、息を整え、そして気配を押し殺した。耳の奥で、暴れる心臓の足踏みが鳴りやまない。視界が赤らみ、うなじの産毛が逆立つような、ぴりぴりとした感覚が全身を包む。いつの間にか噛みしめていた唇を緩やかに舐め、サクヤは頬に浴びた返り血を乱暴に拭った。

 ――狩りの始まりだ。
 全身の筋肉が張り詰める感覚に酔いながら、サクヤはしなやかな動きで外壁の穴に滑り込んだ。



 このようなことを数少ない猟犬にさせて、一体何となる。
 目の前の男を横殴りにけり上げながら、玖珂(くが)は虚ろに思った。
 組織同士がつぶし合いたいのであれば、思う存分に戦争をさせ、消耗してもらえばいい。わざわざ自分が出張ったところで、殺し屋たちの戦力を温存させてしまうだけだろうに。いったい、なぜ。
 ――…頭を悩ませ続ける組織が潰し合うことを喜んでいるのか。
 皮肉に唇を歪ませながら、玖珂は続けざまに別の男の首をへし折る。
 ――あるいは、顕示欲か。こちらの方が勝っているように見せかけたくて。
 くだらないと玖珂は弾丸を放つ。
 何よりもくだらないのは、そんな、矮小で無能で情けのない政府の駒として動いている、己自身。そして自分は、ただ癇癪をあげて苛立ち交じりの暴力を振りまいている――そうすることしかできないから。無力はどちらだと、玖珂は自分を嗤った。
 感慨一つ湧かないまま、ただ機械的に護衛を片づけて、男は最後の一人にとりかかった。
 


 建屋の中は期待を裏切らず、腐食と崩壊に満ちていた。
 灯り一つない、埃とカビの臭気を漂わせた空間。床にはさまざまなものの破片、残骸、そして真新しい死体が雑然と撒かれていた。
 瓦礫の散乱する廊下をすり抜けながら、しかしサクヤは妙な静けさに胸騒ぎを覚えた。先ほどから遭遇する敵はおらず、最後に片づけた者は最下層の雑魚の一軍で途絶えたままである。次の階層へ、昔エレベーターが使用していたであろう穴を伝ってたどり着いてから、少年の周囲はいやに閑散として、けれど右に左に散らばる人間の形をした肉塊を見るにつけ、確かに敵はここにいる――否、いたことを証明する。
 それでは己よりも先にたどり着いた者がいるのか。
 うぬぼれでも何でもなく、それは限りなく不可能であることをサクヤは知っていた。
 (きょう)ほどの実力者ならばともかく、だが、組織の長として指揮を執るため、本人が自ら前線にでることはない。クロノスの名前が脳裏をかすめたものの、あの鬱屈とした男がわざわざこのような茶番に本気を出して挑むとも思い難い。
 仲間割れ、といえば聞こえは良いが、平たく言えば内部抗争でも勃発したのだろう。どこの組織も似たようなものだと、サクヤは呆れ加減に目を伏せた。
 すでに喬の大義名分も果たされたのではないだろうか。敵を籠城に追いやり、最後はその敵が自ら自害を選択するという形で。どのような組織も国も世界も、終焉というのは存外と呆気なく訪れる。サクヤはそういうものを幾度となく見てきたような気がした。
 長居は不要か。索敵を諦め、武器をしまった頃合いに、かすかな空気の揺れを少年は察知した。
 体勢を低くかがめ、少年は気配のした方角へ向かった。神経を研ぎ澄ませた、慎重でなめらかな動きは、まるで獲物を狙う野生の獣のようだと、賛美なのかわからないような言葉を、その昔、喬に賜ったものである。
 ほどなくして出現した、少し開けた場所は壁の一面と天井を失った、月光に照らさた舞台のようなフロアであった。薄ら青い月明りの下、8人分の死体が散らばっていた。
 サクヤは一瞬にしてこれが内部抗争によるものではないことを悟った。確実に、彼らは敵の襲撃に遭い、応戦の末に敗れた。死体の配置から、つい先ほどまでは人であった八つの肉塊が同じ標的を仕留めるために共闘していたことが伺えた。となれば、彼らを狩った敵とやらは、単独であったのか。
 狩人の武器は、二丁のリボルバーだろうと、床に転がる銃弾の殻の種類と数からなんともなしに推測を立てながら、少年はさりげなくそのうちの一つを拾い上げ、そして目を瞠った。
 サクヤはコートの内ポケットに手を伸ばした。レイラの無感情な微笑が脳裏をよぎる。
 餌として生かしておいた男の死によって手にいれた、少年にとって最後の獲物となる敵の痕跡———…コートから取り出したその殻は、床に散乱するそれらと酷似していた。
 体中の毛穴がぶわりと開く感覚、全身の毛が逆立つ気配に、少年は自分が興奮していることを理解した。獲物はまだ、遠くへは行っていないはずだろうと、死体の放つ熱から推測できた。心臓の音がいやに耳もとで轟く。鼓動の力強さに自分の視界までもが引っ張られ、どくどくと脈打つようであった。
 視界をクリアに保とうと、サクヤは数秒間、両目を閉じて呼吸に集中した。行く当てなど、検討もつかない。けれど、標的は殲滅され、組織に課された責務は果たされた。ならば、サクヤのすることは一つである。
 両目を開けば、変わり映えのしない、薄汚れた世界がそこにあった。
 空に昇る薄青い月の灯りを頼りに、サクヤは索敵を始めた。

21.

 (きょう)は念入りな男である。
 すべての算段をつけ、踏むべき手順を完遂することこそが、目的を達成しうる唯一の手段であることを、彼はずいぶんと前から心得ていた。
 今度の作戦にしても、事前の準備や根回しに十四日間も費やして、おかげで『家族』たちの飢えも誘えたが、それ以上に失敗の可能性の新芽をことごどく摘みきることができた。喬は何も、分の悪い城攻めの真っ向勝負を大事な『家族』にさせるつもりは毛頭なかった。下準備でできる最善を尽くしたつもりだという自負と自信もあった。この抗争の勝敗など、突撃の号令をかける前から確信していた。

 今頃、サクヤあたりがすべてに決着をつけている頃だろう。廃車のボンネットに腰掛けたまま、喬は高層ビルの残骸を見上げた。
 愛おしい家族の顔を思い浮かべる喬の表情は多少の憂いを帯びていた。
 戦闘力において、サクヤの存在は組織の力を盤石にするほどに大きい。決して失うことができないほどに。そして何より、喬は少年のことが可愛かった。
 小さい体を丸ごと投げ出すようにして戦う姿勢、絶望の深淵を覗きつつも燃え尽きることのない業火の心、それでいて時折ちらつく幼さ。すべてが喬の庇護欲に触れた。家長として、そして兄として、鋼のように堅く、鋭く、けれど変調に対応する柔軟性を著しく欠いた弟分を、過保護に扱ってしまうのは致し方ないことではないだろうか。
 サクヤを危うくするすべてを取り除いてやりたいと、そう願い、動かずにはいられないこともまた、致し方のないことではないか。



 あの晩、神代(かみしろ)からすべてを教えられたサクヤが仲間になると誓ったときに、名を変えないのかと喬は聞いた。
 『なぜそのようなことを聞く』
 憮然とした表情で訝しむ少年を見て、いらぬ気をまわしてしまったと気づいたものであった。
 『悪い、俺が気を遣いすぎたみてえだ。神代の話を聞いたんなら、自分の本名ももう知ってんだろ?生みの親にもらった名前くらい、名乗りてえかと思っちまったんだ——…すまん』
 すると彼はくだらないとでも言いたげに短く息を吐いて、傾けた肩を壁に凭れさせた。ここではないどこかを見るように憂う目をしたのち、頭ごと壁に預け、表情の一切を柔らかな前髪に隠した。
 『知ったところで、その生みの親の顔すら記憶にない。名を換えたところで得るものもない。今の名前の方が、色々と融通かきくだろう』
 理屈だと、喬は直観した。筋は通っているが、そこに感情はない。けれどもしかすると、その強すぎるほどの自制心こそが、彼を生かしてきたものなのだろうか。そうであるならば、この少年のなんと孤独なことだろうと、喬は思った。
 『…お前が決めたんなら、理由に関係なく俺たちは支持するつもりだぜ』
 柔らかな猫毛を乱暴にかき混ぜると、それこそ背中の毛を逆立てる猫のように少年は飛び退く。それが心の(こと)線に触れたのか、喬は自分の口角が自然と吊り上がるのを感じた。
 『なんにせよ、お前、ちょっと髪が伸びすぎじゃねえか?戦闘中、目にかかったりしたら邪魔だし、それで集中力でも切れてみろ、危なくなるだろ。カンナに頼んで、ちょちょっと切ってもらえ』
 不服げに頷く少年に、思わず破顔した。
 彼の幼少期に犬として飼っていた組織は、使い捨ての道具たちにいちいち名を与えるような慈悲深い場所ではなかったはずである。ならば『サクヤ』という名は、脱出してから自ら考案したものか。それはそれで、思い入れの深いものかと、喬は納得した。自由になった日の夜空を見て、自らに『朔夜』、はじまりの夜という名を付けた、というところだろうか。
 『…あんたの考えそうなことだから、先に訂正しておく』
 そんな喬の考えを見透かしたように、少年はいやに冷たい声音で言った。
 『名前は自分でつけた。だが、どうにも皆がそれを一日の夜だとか、最初の夜などと解釈して、勝手に浪漫を語りだす』
 なにかとんでもない大罪を暴かれたような気さえして、喬はバツの悪い笑みを浮かべた。とはいえ、名前のことが持ち上がるほど、少年と会話を交わした人間がいるという事実のほうが、喬としては興味を惹かれた。
 『俺を飼う以上、あんたにまで誤解されたままじゃ気色が悪い。俺は「昨日の夜」という意味でつけた。前の夜、死ななかったからこそ、今日の俺は生きている。子供の時からずっとそうやって生き伸びてきた。…俺にとっての摂理だ』


 月の位置を確認して、右手に控えたカンナがそろそろ神代が偵察から戻ってくる頃合いだと喬に知らせる。
 「そういや、お前らに名前をつけた時、俺も考えまくったもんだな」
 思考が半ば思い出に引っ張られた状態の喬は唐突に言った。
 その話題を予想だにしていなかったとでも言いたげなカンナの固まり様に、自然と顔が綻ぶ。
 最初に出会ったのはカンナであったか。少しの肌寒さを感じるようになる頃、月の無い暗い夜であった。昔の暦で、そのような天候を秋と呼ぶことを喬は知っていた。そして秋は、神のいない季節と呼ばれていたことも、曖昧ながらに知っていた。出会った夜にあやかって、名のない彼女をカンナと名付けた。
 奏椰(そうや)に至ってはシンプルに、記憶にあった物語の主人公からとってつけたものだが、敢えてそれを伝える必要はないだろう。
 「…喬」
 夜目の効くカンナがいち早く、偵察の合流を通知した。
 ボンネットに腰掛ける喬の前で、長身のシルエットが恭しく膝をつく。
 「サクヤさんが上階へ到達しています。…ですが、早くに部外者の乱入があり、どうやらその者が敵の上層部を殲滅した模様です。サクヤさんが到達した時にはすでに全員、息絶えた状態だったかと」
 相変わらずのことであるが、神代の走力には感心せざる負えないと喬は思った。
 サクヤが上までたどり着いたということは、建物にいた敵はすでに殲滅済みということだろう。
 しかし、と喬は神代を見た。意図を鋭く察した神代が頷き、そして答えた。
 「サクヤさんの前に敵上層部を一掃した男…あなたの危惧した通りです、喬」
 なるほど、なかなか厄介な立場の奴らしい。納得せざる負えないが、なんと面倒くさいことか。
 「そっか、ありがとな。いつも使いっ走りさせてばっかで悪い。助かるぜ」
 へらっ、と笑んで、喬は両手を宙に高く上げて背中を伸ばした。自然と出るため息を素直に漏らす。仕方がないか、と喬は腹を括った。
 「いつまで物陰に隠れてるつもりだ?殺意が凄すぎて気配なんざ消しきれてねえよ」
 そんなんじゃあ、いつまで待ったって俺は殺れないぜ?と喬は緩く笑いながら戦闘態勢に入った。ボンネットから降りた長を見て、カンナや奏椰、神代も慌てて武器を構える。
 「まさかつけられていたとは……。気づきませんでした、私の不注意です」
 神代が顔を青くして喬に言う。が、喬は防ぎきれないことだった、と神代に返した。
 「俺だって、しばらくは気づかなったくらいだ。奴の隠れ方が相当えげつねえってことよ。…ま、どっちにしろ、ここに辿り着くことに苦労することはなかったと思うけどな」
 
 瓦礫の影から、かすかに硝煙の気配を漂わせた男が姿を現した。
 
 ゆったりとした動作に潜む凄みのような威圧感に、カンナと奏椰は即座に喬の周囲を固めた。
 相変わらず、出来すぎなほどの優秀な家族に、束の間、喬は感謝と憐憫を同じだけ感じた。
 生き抜くというのは、なんと苛烈で残酷なことだろうと思わなずにはいられない。喬は思った。仕方のないことだと、常に正解と最善を選択し続けてきた自覚はあれど、その業は重く肩にのしかかる。
 「実際、会うのは初めてだが、お前のことはそれなりに知ってるぜ」
 警戒と防衛は家族に任せて、喬は武器も構えず、男に語りかけた。
 「…最初は、ただ可愛い弟を守りたくて、色々、情報屋なんかを虱潰しにあたったんだけどな。あの猫みたいに気分屋で懐く気配のない弟を誑かした男がいるなんて、兄としちゃあ見逃せるはずないだろ?…けど、まさか、その悪い男が、更に政府の傀儡だったなんて、普通は誰だって信じたくなんかねえよ」
 貫くような鋭い視線で、喬は男を見据えた。
 神代の気配が消えたということは、喬の意図を察知していち早く離脱したということだろう。本当に、なんと優秀なことか。 
 「政府も手の内変えてきたんだな。あの老害どもも、ようやく情報屋を利用するようになったとみえる…。大方、組織の潰し合いのことを聞きつけて漁夫の利でもいただいて来いって、命令されてきたんだろ?」
 本当に厄介だ、と喬は心の中でぼやいた。地下に引きこもった政治家たちは、それこそ固く閉じた貝ように、地上との接触をあれほど嫌ったというのに。
 けれど奴らが情報屋を雇う可能性は、限りなく低くとも昔からあったものだ。
 だが、しかし、と喬は皮肉げに唇をゆがめた。何も今じゃなくてもいいじゃないか、と。

 眼前の男が政府の手先である事実は、なんとしてでも可愛い弟には隠し通さなければならない。せめて、計画が無事に遂行されるまでは。
 そして、そのためには、ここでの接触を食い止めなければならない。サクヤはきっと、報告のために戻るだろう。
 喬は、男が現れた事実よりもそのタイミングにただ焦燥していた。
 対峙したまま、対岸の男は言葉を返さない。数的不利の状況下、最も効果的な立ち回りを整然と計算している様子である。
 否、最も効率的に敵を仕留める立ち回りの計算か、と鋭利な眼光を見て喬は思い直した。

 魔法が解けたかのように、男はようやくリボルバーを握る右手を水平に持ち上げ、大きく息を吐いた。
 「あの地下室を見たことがあるか。熟れすぎた果実の腐臭が充満した、あの部屋を」
 銃口を向けられても尚、喬は構えなかった。傍らで、奏椰とカンナがいつでも身代わりになれるようにと、己の方へ体の重心をずらしたことも察知していた。そんな健気な家族を、喬はこの上なく愛おしいと思った。
 「知らないね、そんな甘い匂いのする部屋なんて…果物なんて高価なもの置いてやがるとは、老害どもも中々、贅沢癖が抜けてねえみてえだな」
 両肩を僅かに竦めて喬は男を煽った。政府の犬として飯にありついている人間が、主人をどう罵ったところで、その言葉に重みなどあるはずもない。

 「そのように、気に食わない物を遠ざけるしかできないお前たちでは、駄目だからだ」

 唸るような一言と同時に男は銃声を響かせる。狙いはただ一人、喬であった。雄叫びとともにカンナが弾道に身を投じ、左腕を犠牲にする。
 奏椰のほうはといえば、まるで事前に示し合わせたかのようにカンナとは逆の方向――銃を構える男の方へ突っ切った。
 可愛い家族たちの献身に背筋を震わせながら、喬は左腕の止血を試みるカンナに寄り添い、状況を確認した。
 「すまない、喬」
 腕を縛るために衣服を裂きながらカンナは詫びた。
 「もう少し、支障の出ない場所を打たせるつもりだった―…あいつ、私が飛び出るのを予知してたみたいに直前で銃の位置をずらした」
 喬は、心底悔しそうに反省する妹分の頭に手を置いた。なんと哀れで可愛い家族。他のリーダー格と互角に渡り合うために喬が身に付けた処世術、それによる犠牲を強いられても尚、彼らはなんと逞しく健気なことか。
 弾はどうやらカンナの上腕の内側を抉った様子だった。出血量からしても、決して楽観できる負傷ではなさそうだ。
 手のひらにカンナの剛直な髪の質感が伝わる。喬は愛おしい家族の頭を軽く撫ぜた。
 「あんま自分を責めんな、あんな見るからにやばそうな奴、そうそう簡単に攻略できなくて当然だ。お前はここで物見遊山の気分で待ってろ。俺は奏椰の援護に行ってくる。全部、大丈夫だ」
 ニッ、と歯を見せて、喬はカンナから離れた。そうだ、俺たち三人と神代がいて、大丈夫じゃなかったことなんて一度もなかっただろ、と自分に言い聞かせる。生き延びていくことは容易じゃなくて、だから束の間のありがとうも笑顔も次第に頻度が減って…最後に三人で笑い合ったのは、いつだっただろう。

 次第に喬たちは、生き延びるか死ぬかの岐路に立つ、一つの運命共同体になってしまっていた。
 それは喬にも自覚があったし、果たしてカンナと奏椰はどうか知らないが、神代はそもそもそれを望んで仲間になった。運命共同体として生存するため、互いに協力してひたすら最善を尽くすのみ。自分たちが機械的な役割に飲み込まれ始めていることを、喬は知っていた。

 それでも、と喬は思う。生き延びることが幸せと同義でないから、なんだというのか。

 走りこむ先で、奏椰が男との間合いを埋めようと躍動している。間合いは詰まらないが、奏椰の俊足が銃の狙いを狂わせている。
 死んでしまえば、幸せどころか何もかもが終わる。すべては、死なないことを前提としてから芽生えるものだ。幸福も愛情も喜楽も、生きることが当然でないから感知し得ないのである。
 それでも生きていたいと願ってしまうから、救えない。喬は自虐的に思った。そして生き延びるために、今日も戦っている。
 「よぉ、犬っころ…ッ!」
 奏椰が男を避けさせた方向にナイフを投げつける。それをいとも容易く弾き落とす男に、喬は皮肉な笑みを浮かべた。
 「そんだけの実力がありゃあ、政府にゴマ擦らなくたって十分生きていけると思うけどな?」
 男は奏椰を袖にしてすぐにこちらを意識した。薄々、予想はしていたが、男の狙いは何を差し置いてもまず喬のようだった。
 急速に接近しながら、男は無駄のない動きで銃を構えなおした。発砲が一発、二発。一つは土に深々と、二つ目の弾は喬の髪を数本攫って右側の空へ飛んで行った。後を追うように急接近した男が重たい拳を繰り出す。喬は後方に身をそらし、右に左にそれを避ける。
 「逃げるだけか」
 男は低い声で言った。
 喬は僅かに目を眇めた。早い。けれど、と喬は相手の武器を見た。リボルバーという、なんとも渋い物を使っている以上、一度に使える弾数に限りがある。そもそも男の身のこなしからは無駄が省かれていて、中々反撃の隙を許さないのである。
 「いやあ、俺にも順番を譲ってほしいもんだな…」
 三つ目の銃声が轟いて、廃車の脇腹に穴をあける。まるで喋るなとでも言いたげに、男は攻撃の手を緩めない。
 「喬…!」
 奏椰が必死の形相で男と喬の間に身を挟んだ。
 「お前の相手は、俺だ」
 迫力のある声で奏椰が吠える。威勢はいいものの、彼の消耗が激しいことに喬は気づいていた。間合いを詰めるべく駆け回っていた以上に、踏み込み過ぎた時に喰らった男の拳や蹴りによる直接的なダメージが大きい。
 息を浅くする奏椰を見やって、男は憐憫とも苦痛ともつかない表情を見せた。

 「頭が死なないために、脚は何本でも犠牲になるのだろう」

 素早く、そして残酷なほどの力で奏椰の喉を掴み上げ、男はそのまま、左手の握力を使った。右手の銃口は驚くほど冷静に喬を向けたまま。
 「だが、その犠牲に意味はあるのか。己の命を犠牲にして徳を積めるほど、世の中は甘くない」
 凍り付いた喬を見据えたまま、酸素を求めて藻掻く奏椰に言い聞かせるように男は続ける。
 「己の犠牲を当然とするお前の主は、民を犠牲にして領土を滅ぼした国家と何が違う。お前は守り守られているのか。その自己犠牲心に同じだけの見返りはあるのか」
 喬は、男の暗く沈む瞳の色に、溢れ出んばかりの憤怒を感じ取った。何よりも、自分の心の中を見透かされているような、それを赤裸々に言語化されてしまったような、そして男の燃え盛る怒りに呑まれるような感覚さえした。
 「終いだ」
 喬は男が引き金に力を入れる音が聞こえた錯覚をした。撃つのが先か、喉を握りつぶすのが先か。打ちひしがれているカンナをぼんやりと視界に写しながら、喬は待っていた。自身の業から解放される瞬間を。

 けれど想像していた音も痛みも熱も、いつまで待っても訪れなかった。

 代わりに男の鋭く息を飲む音と、奏椰の体が地面に鈍く頽れる歪な音が重なって、気が付けば男の姿は消えていた。
 まるで狐につままれたような気分だ、と唐突な運に喬は茫然とした。
 「…喬っ、…―無事か?」
 痛みなど捨てたような素早さでカンナが駆け寄る。
 その必死の形相にいくらかの安堵を覚えながら、喬は頷いて奏椰の方へ目配せした。
 「俺は平気だ、それより奏椰のが危ない。気絶してるだけかもしれねえけど…」
 カンナは未だ地面に伏した奏椰のほうへ駆け寄った。
 その後を追えずに、喬は地べたに腰を据えたまま、定まらない視線を泳がせた。
 ただ、疲れた。生きた心地がしないというのは、まさしくこのことを言うのであろう。
 ほどなくして神代が現れた。状況を確認した神代が己のいち早い離脱を悔いて、喬に頭を下げた。
 喬は首を振った。この状況を招いた人物がいるのだとしたら、それは自身に他ならないからだ。
 
 「何があった」
 打ちひしがれる喬をよそに、サクヤの冷たい声が敗残した者たちの弱弱しい空気を震わせた。
 この時点で、喬は事の流れの真相が腑に落ちた。
 「悪ぃ、サクヤ。ちょっとした油断だ。かっこ悪いとこ見せちまったな」
 「……また、銃か…」
 先ほど拾ったのだろう薬莢を月明りにかざすように持ち、サクヤは呟いた。
 月光にかかればいともたやすいもので、空を仰ぎ見るようなサクヤの姿は、まるで憂いを帯びた天使像を幻想させる。無論、本人は無自覚だろう。少年は、ただひたすら指の間に挟んだ鉄を眺めていた。まるで月に問えば何かがわかるとでもいうように。
 その視線が帯びる熱量に、喬は気づかないふりをした。
 「それで、任務の方はどうよ?」
サクヤは冷たく喬を一瞥した。
 「リボルバーを扱うやつに戦果が奪われた。神代がしつこく聞くので詳細はそっちに聞け。もたもたしていたら、銃声が三発聞こえたので駆け付けた。それだけだ」
 薬莢をポケットの中にしまい、用事は済んだとばかりに、サクヤは去って行った。取りこぼしたのだろうと、そう喬に言い残して。

22.

 薬莢を手の平で転がしながら、サクヤは苛立ちを鎮めるように深く息を吐いた。すっかり、獲物を捕まえ損なってしまった。
 だが、(きょう)をもってしてもあの始末。獲物もまた、相当な使い手ということだろう。願ってもいないことだ、とサクヤは唇を微かに吊り上げた。
 姿を目視していない以上、情報屋を当たっても掴みにくいだろうか――…喬などに確認しようとも、きっとはぐらかされるだろうとサクヤは直観した。なによりも、今回の任務の後味の悪さがサクヤの気を逆立てていた。

 政は結構である、上方どもが勝手にやればよい。けれど己はいつから、政治家どもの体裁を護る義理に賛同したというのか―…。
 あまつさえ、獲物は喬に危うくも狩りとられる展開にまで広がった。自分は獲物の姿すら目撃できていないというのに。餌を撒いた己の功績、餌の犠牲によって、ようやく尻尾を掴んだ獲物である。
 だが当の功労者を差し置いて対峙しようとは、裏切りであり屈辱だと、そう思わずにいられる者がいるとしたら、それは業の浅さ故にすでに命を散らした亡者しかあり得ない。
 この作戦における全ての事象が、ピンと張った糸をさらにキリキリと引きのばすように、不快感と搔痒をサクヤに覚えさせた。
 思案に意識を浸して歩く少年の姿は、月の青い照明と音一つ立てない少年の所作によって、妖艶な儚さを演出した。返り血で汚れ重たくなった衣類さえも、その存在を引き立てる材料と化す。
 考えを巡らせるサクヤにとって、けれどそれは頓着するところではない。
 やがて訪れた人の気配に現実へと引き戻され、サクヤは雑音に耳を立てた。気配からして複数人の男と、そして女が一人。馴染みのある音である。

 「…サクヤさんではありませんか」

 案の定、同じくこちらを認識した者が声をかけてくる。サクヤが来た方角へ向かうのか、物々しいほどの大きさの手押し車と人手を連れ立ったレイラが、対面の闇から姿を現した。
 心なしか、その表情に色が灯っていることにサクヤは気づいた。多少の意外性を感じつつ、少年は警戒を解いてレイラの元へ近づいた。
 「随分と大所帯だな」
 荷車に視線をやりつつサクヤは言った。
 相手の不審などお構いなしに、平時のおっとりとした空虚でもってレイラは応対した。
 「丁度、この頃合いに行けば良い、と。クロノスさんに教えてもらったものですから」
 クロノスの名前にぴくりとも表情を動かさないサクヤを幾拍か面白そうに眺め、けれどすぐにその興味も忘れたレイラは続けた。
 「報酬が倍、いいえ、倍々になる機会が、本日、この近辺であるとのこと。それを見逃すなど、商売に加担する人間としてあってはならないことですから」
 うっすらと虚ろな笑みを浮かべて語るレイラに、サクヤは納得だと頷いた。
 「その儲け話の正体は、俺たちの抗争で出た死体のことだろう。あんたの方が土地勘には詳しいだろうが、別の組織が本拠に使っていたビルだ」
 「理解しました。ありがとうございます」
 律儀に頭を下げるレイラに、サクヤはふと、思いついたように尋ねた。
 「以前に、俺の飼っていた情報屋の死体をあんたが処理していた時のことだが、死体の近くに落ちていた薬莢を、俺はあんたから買った」
 買った、という言葉にレイラの派手なくらいの二重目が少し持ち上がる。
 まったくもって、商売そのものを具現化したような女だとサクヤは思った。
 「その薬莢と同じ種類のものが、今回の作戦中、散乱していた。真新しい状態で、だ。あんたは、どう考える」
 「あの時の売買は、とても良いものでした…」
 レイラはその記憶を反芻しているのか、うっとりとして言った。
 「けれど…そう。あの薬莢は少し特殊でした。海外製、とりわけ先進国の技術で作られている型式です。そう易々とは、ここでお目にかかることはできないと思っていたのですが…」
 滔々と語っていたかと思えば、急に言葉が途絶える。
 「所持している人は多くないと思われます。…同じ人の所持品、という可能性も考慮できますね」
 レイラは曖昧な笑みを浮かべた。
 珍しくしおらしい表情をするものだと思いつつ、サクヤはそうかと相槌を打った。わざわざ聞くまでもないことをレイラに確認したのは、ジンを殺した人間と今回の人影が同一人物という推測を後押ししてくれる言葉が欲しかっただけだ。
 サクヤは苦虫を噛み締めたような始末の悪さに顔を顰めた。
 レイラの背後に控えた男たちから、緊張とも苛立ちともつかない気配がたちのぼる。身の置き場に困っているのだろう、無理もない。
 「…仕事の途中に呼び止めて悪かった」
 詫びだとばかりに小さな袋をレイラに放って、少年は足早に立ち去る。
 巾着の紐を緩めて中を覗き込んだレイラがそっと目を伏せて口元を綻ばせた。

 「いいえ、これも、対価をいただくために必要なことですから…」

 囁きは虚空に落ちて、レイラは集団を率いて死体の山へ向かった。

 その腹の中をサクヤが知る由もなければ、興味すら抱かない。
 指の間で薬莢を転がしながら、姿すらつかめずに易々と逃げられてしまった敵のことで、頭の中が埋め尽くされていた。

23.

 奏椰(そうや)の生存を確認して、(きょう)は改めて自分たちが命拾いしたことを痛感した。
 サクヤの気配だけで逃げてくれる相手と初めから知っていれば、わざわざ神代(かみしろ)を使って足止めなんてしなかったのにと、苦笑せざるを得ない。結果として、自分たちの首を絞めることになってしまった。
 「おやぁ?駄目じゃあねえか、トップ様ともあろうお方が、地べたに這いつくばってるなんてさァ…」
 神経を逆撫でする鬱屈とした声に、場の空気が一気に殺気立つ。
 案の定、長身の痩躯が嘲るように首を横に傾けて嗤っていた。
 車体に寄りかかる喬の真正面にある、崩れかかった石壁に背中を預けるクロノスは、唯一まともに動ける神代の間合いを把握しているようだった。ギリギリ届かない距離に立つその悪趣味さに、神代の眉がぴくりと動く。
 「…頼まれた仕事をいつまでも放置してる、誰かさんのおかげってやつだな」
 喬の砕けた口調に見え隠れする苛立ちの色に、クロノスが大袈裟にのけぞる仕草を見せる。
 「おおっと、トップ様がお怒りだ…まあ言いたいことはわかるさ、確かに俺がオシゴト終わらせてりゃあ、万事解決、めでたしめでたしだったもんなア?」
 ニタニタと笑顔を口元に貼り付けて、クロノスは「でもなあ、」と続ける。
 「そんな低ーい目線から凄まれちゃっても、俺ァ、一ミリだってやる気が起きねえのよ」
 くつくつと悪辣に嗤う男に、ついに神代が飛び掛かろうと足に力を入れた、その時、場違いに間延びした青年の声が割って入る。

 「兄貴〜ッ、移動するんだったら教えてくださいよ〜…」

 息切れ気味に吐かれる弱音が、張り詰めた空気を霧散させた。
 まるで気配を感じさせなかった(べに)の急な出現に、神代は虚を突かれて凍りついていた。喬はそんな神代を確認し、ほっと息を吐いた。
 確かに、クロノスの飼い犬の得体の知れなさは尋常ではない何かを感じさせる。だが今回ばかりはそれに感謝するしかないと喬は思った。自分が満足に動けない以上、他に神代を止める手段はなかったからだ。

 口ではヒィヒィ言いつつ、紅の息に乱れはない。唇に緩く弧を描くクロノスへの文句を終えると、キョロキョロとあたりを見回して「お疲れ様ですッ」と、再び場違いな挨拶をした。
 「あ!神代さん、俺、兄貴に言われてこれ取りに行ってたんっスよ。良ければ使ってください!」
 紅は神代に近づくと、折り目正しく頭を下げて腕に抱えていた箱を差し出した。
 再び身構える隙もなく間合いに入られた神代は、恐怖が交ざり始めた困惑を振り払いながら、無言でそれを受け取る。箱を開けると、消毒液や包帯などの医薬品がごったに入っていた。
 「随分とかかったなあ、紅」
 表情ひとつ動かさずにクロノスが暇そうに呟く。難色を浮かべて箱を持ってくる神代に視線を走らせてから、喬は「気の利くことで、」と、長身の男に皮肉を投げつけた。
 「だろォ?これでも俺なりに、トップ様を気遣ってるってことさ…毒なんざ入ってねえから、安心して使ってくれよ」
 くつくつと屈折した声で嗤いながら、クロノスは預けていた背中をビルから離した。
 「まァ、心配はいらねえよ。仕事ならちゃあんとやるからさ…。言っただろ、お姫様の体には傷ひとつ、付けさせやしねえってさア…」
 言いたいことは他にない、というより、会話に飽きたといった態度で、クロノスの細い影はするりと闇に消えていった。先ほどまで場違いに元気な声で喋っていた青年も、いつの間にかいなくなっている。
 その跡形のなさが、残った者たちの間に不気味な沈黙を落とす。


 「…何をしに来たのか、全く、意味不明な男ですね」
 耐えかねたように神代が独りごちた。奏揶の状態を確認する手元はしかし、変わらず的確に動いている。自身の怪我を手当したカンナが、消毒液とガーゼを持って喬の方へ向かった。
 「腑が煮えくりかえりそうだけど、正直、これは助かる」
 これ、と言ってカンナの持つビンを指先で小突きながら、喬は乾いた声で笑った。
 「大方、やつなりに悪いことをしたって、少なくともそういう誠意の形を見せに来たんだろ。今は、ありがたく使っておくとしようぜ」
 神妙な面持ちで頷くカンナの、可愛い家族の顔を眺めて、しかし喬の心には仄暗い影が澱み続けていた。

24.

 その晩、(こと)は一人、廃墟の酒場にいた。

 赤いドレスの大きく開いたスリットから組んだ太ももを覗かせ、バーカウンターに見立てた安物の板に肘をついたその手元には、同じく朱色の液体で満たされたカップが座っていた。その液面をただぼんやりと眺める女の白く繊細な指が、くるり、くるり、と不規則に、カップの縁を踊り続けている。
 物思いに囚われてもなお放たれる壮絶な色香に、その美貌に、まるで角砂糖を見つけた蟻のように、あらゆる客の視線が這わされる。
 無遠慮な目つきに慣れはしても好きにはなれない琴は、けれどその夜はそんなことも気にならないほどに塞ぎ込んでいた。

 
 組織ぐるみの作戦については、神代(かみしろ)ではなく、わざわざ(きょう)が自ら告げに来た。
 異例とも言えるイベントに少々面食らったが、それよりも、参加しないようにと通達された時の、ストンと落ちてくる感覚のほうが印象的だった。リーダーが直々に言いに来た理由はきっとこれだろうと、咄嗟に琴は思った。
 「神代だと、私が駄々を捏ねたときに対応しきれないかもしれないものね」
 少しの苛立ちが混ざった声で琴は言った。自覚はある。サクヤのことが絡むと、自分は度々、融通が効かなくなる。それを喬が知らないはずもない。
 「まあ、そう拗ねるなよ」
 否定せずに喬は歯を覗かせて言った。
 「何も意地悪で言ってるわけじゃない。城攻めみたいなことになっちまう以上、向き不向きがはっきり出る作戦だからな。俺としても、被害は最小限にとどめたいわけよ」
 わかっている。わかっているからこそ、琴の返事は鋭いため息にとどまった。
 誰よりも可愛くて大切な少年を、少しも守ることができない。弱くて不甲斐ないこの両手。それどころか、本人は守られる必要なんてないと煩わしい顔をして、どんな想いも助けも振り切ってしまうだろう。
 「…わかってるわよ、純粋な力勝負じゃ、私は戦力にはならない」
 降参よ、と琴は肩をすくめた。けれど、肘をついて頬杖をつく横顔は、ピリピリと張り詰めていた。
 その様子を、慈しむような柔らかい目で観察していた喬は、けれど、躊躇いなく琴の痛いところつく。
 「なーによ、不機嫌になって。さては、サクヤとなんかあったんだろ」
 琴の肩がわずかに揺れる。聞き流す素振りにちらつく動揺の色に、喬は目を細めて、それから女の隣の椅子に深々と腰掛けた。
 「何よ、図星?…意外だな。なんだかんだ言って、サクヤはお前に甘いところがあると思ってたんだけどな」
 「……おかしいと思ったのよ、わざわざあなた自身が連絡事項のために私に会いにくるなんて…」
 人好きする笑顔で覗き込んでくる喬に目もくれず、真(べに)の爪先を確認しながら、琴は鼻白んだ声で言った。
 「私がサクヤを大事に思っていることは周知の事実でしょうけれど。だからって、彼に関することであなたに協力するとは限らないんじゃないかしら」
 大方、何か探りを入れたくてやって来たのだろうと琴は思った。
 情報が欲しいなら最初からその体で切り込めばいいものを、なぜだかこの男は、そのような殺伐としたやり取りは心が荒むからと回避しようとする。
 けれど、もはや取引の介在しない関係性など成立しない環境で、迂回するように話を進める喬のやり方は、ただの非効率に映るとともに、琴の心を逆撫でするばかりだった。
 気遣いや労りに満ちた会話が成り立つのは表の世界だけだ。そのことを、琴は身を持って知っている。
 優しいまどろみに包まれた、儚くも奇跡のようだった恋人との時間は、喬に対するある種の免疫のようなものを育んでいた。
 「まあ、そんな身構えんなって。別にサクヤをどうこうしようと思ってるわけじゃねえよ」
 琴の感情の波を鋭く拾った喬がおどけて身を反らせた。
 「…ただ、最近のあいつの様子について少し知りたいだけなんだ。家族の事情は、なるべく把握しておきたい。組織のリーダーとしても、一応、な」
 眉を八の字にして語られる弁明に、さすがに巧みだと、琴は人ごとのように思った。この男は、こうした耳障りのいい話術で、珍しいほど結束力の高い組織を作り上げてきた。
 多くのメンバーはリーダーに心酔しているし、そうとまではいかなくとも、厚い信頼を置いている者がほとんどだ。彼らは果たして、ただ巧妙な戦略に踊らされるだけの愚か者なのだろうか。
 どこまでが喬の本心で、どこからが巧妙に練られた彼の策略なのだろうか。
 サクヤは、あの少年は、この食えない男にどこまで心を許しているのだろうか…―。
 「…彼は何も言ってくれないし、教えてくれない。だから、私が提供できることは何もないわ」
 意図せず寂しげな声が唇を漏れた。本当に、どうして喬がわざわざ自分に探りを入れにきたのか、まるでわからなかった。
 「……お前さ、サクヤをずっと尾けてただろ」
 喬の言葉に、琴は息を呑んだ。それから、抜け目のないこの男が気づかないはずがなかったのだとすぐに思い直した。
 自分も所詮は狭い鉢の中で飼われている、小さな魚に過ぎないのだ、と。
 だとしても、何か、大切にしまっていた宝箱を乱雑にこじ開けられたような、鈍く重たい衝撃が琴の心を打った。
 「それがどうかした……?」
 艶やかな唇が歪にしなり、自嘲気味な囁きを漏らす。いっそ重たげに見える長いまつ毛が、琴の頬に影を落とした。
すっかり萎れた花のような女を、けれど喬は慰めない。
 「別に、それを咎めに来たわけじゃない。そんなのは個人の自由だし、あくまでお前とサクヤの問題だと思ってるさ。ただ、尾行中にお前が見たサクヤの様子を教えて欲しいんだ。…例えば、誰かと接触してる時の、とかな」
 「…『誰か』って、具体的に誰のことを言っているのかしら」
 ぐっと堪えて気丈に振る舞う琴の姿に目を細め、種明かしするように喬は答えた。
 「端的に言うと、クロノスとの接触だな。それ以外だと、紅、それから例の同居人ってところか。実のところ、俺としちゃあ、サクヤには同居を解消して欲しいんだ。相手も色々とワケありな身の上のようだし、さすがに心配にもなる」
 肩をすくめて、喬は続けた。
 「サクヤはまだ知らないようだが、同居してる男の素性はかなりまずい。だから早めに引き離してしまいたい。ま、そんなこと言ったって、サクヤは頑固だろ?俺が何言ったって聞きやしねえのは明白。だから、どうしたらいいか考えるためにも、最近のサクヤの様子について、なんでもいいから情報が欲しいのよ」
 喬の弁を咀嚼しながら、ああ、まただと琴は頭の片隅で思った。
 この男は真実の半分だけを、耳障りのいい言葉選びで伝えてきている、と。選りすぐられた部分だけを、最も効果的な伝え方で、相手を味方につける。それこそがこの男の最大にして最悪の凶器なのだと、琴は思った。
 「そんで更に厄介なのが、クロノスが妙にサクヤに執着してるってところなんだよな。俺の勝手な憶測だが、クロノスもサクヤの同居人に関して嗅ぎ回ってる…。あいつが関わると絶対碌なことにならねえから、そういう芽は早めに摘んでおきてえのよ」
 頼むよ、と喬はバツが悪そうに笑って言った。その表情は、底の見えない男という印象を、琴に強烈に植え付けるものだった。
 一拍、息をついてから、琴は慎重に言葉を探った。
 「言いたいことはわかったわ。…確かに、サクヤがクロノスに絡まれているところと、例の男と一緒にいるところを目撃したことはある。だけどその前に、どうしてサクヤの同居しているその男が『かなりまずい』のか、教えてくれないかしら」
 琴と喬の視線は交差したまま、数秒、膠着した。
 やがて喬が短く「まあ、そうなるよな」とため息をつき、不本意といった表情で口を開いた。
 「…まだ全部を把握できてるわけじゃないけどな。恐らく、政府に飼われてる犬だってとこまでは、確証を得た」
 琴の表情に暗雲が差し掛かる様を見つめながら、喬は続ける。
 「名前は玖珂(くが)。見た目からして、年は二十代後半ってとこか。政府側にいるってんで、サクヤの素性も大方知ってるだろうに、なぜか何も行動を起こさない、不気味な男さ」
 そう、と琴は呟いた。
 そして、もはや瞼の裏に焼きついている少年の姿を思い浮かべる。彼は玖珂の正体を知っているのだろうか。知っていて、それでもあの男の隣を、どこかくすぐったそうな顔をして歩いていたのだろうか。琴には向けられたことがない、柔らかくてあどけない、あの表情で。
 焼けつく痛みを喉元に感じながら、凪いだ声音で琴は言った。
 「クロノスがサクヤを挑発して返り討ちに遭ってるところを一度、見かけたわ。かなり本気でやり合っていたみたいだけれど…」
 細身の男の、空を仰ぎ見て恍惚とする姿を思い出した琴の肩が震える。あれはまるで、殺されることに恋焦がれているかのようだった。サクヤが唐突に動きを止めて歩き去った様子を見るに、自分の勘はあながち外れていないのだろう。あの男はなぜ、ああもサクヤに執着するのだろうか。正確には、サクヤに殺されることに対する執着か。
 「返り討ちか。さすがだな」
 喬は口元を綻ばせて言った。心の底から愉快そうなその様子に、女の唇も吊られて弧を描く。
 「見ていて気持ちが良いくらいだった。…あとは、その玖珂って男と日中、連れ立って歩いている姿を見かけたけれど、こっちは、ただの買い物って感じね」
 露天の前で立ち止まる仲睦まじい姿と、サクヤを見下ろす男の眼差し。
 次第に目が据わっていく琴の様子に首を傾げつつ、けれど喬はその話題にはあまり興味をそそられない様子だった。
 「クロノスがサクヤとやり合ったってところは気がかりだな。本気だったんなら、それこそ一大事だ。……あんまり突拍子もないことばっかされると、さすがに俺も見過ごせなくなってくるからな」
 考え事をするように頬杖をつく喬の表情は冷たい。恐らく、少年が玖珂の素性を把握していないと睨んでいるのだろうと琴は思った。
 「教えてくれて助かった、サンキューな」
 口元だけで笑って、喬は椅子から腰をあげた。琴は彼をじっと見上げた。この男は、大事な事柄は一つも開示してくれないのだろう。それは、自分を信用できないと思うからだろうか。尤も、この男が全てを開示できるほどに心を許した人間が、果たして存在するかも怪しいが。
 「…クロノスに、何かさせているのね」
 挑発の言葉に、けれど喬の表情はぴくりともしない。
 「まあ、心配すんな」
 それじゃあな、と軽く手を振って男は店を後にした。彼のことだ、きっとサクヤの害になるようなことはしないはずー…そう琴は自分を納得させた。
 「それでも、寂しい人ね…」
 呟いた言葉は、果たして誰に向けたものなのだろうと思案しながら。


 「――…いくらだ?」
 下品な男の声が、琴の意識を一気に連れ戻す。
 指先から視線を上げると、口元を緩ませた赤ら顔の男が、不躾な目つきでこちらを見下ろしていた。まるで体の線をなぞるように、足元から徐々に登ってくる粘ついた視線に、いい加減に辟易すると、琴は心の中で嘆息した。
 煮えたぎる心のうちとは裏腹に、ああ、と思わせぶりな流し目で「このワイン、わりと気に入っているのよ」と答えてみせ、琴はくすりと妖艶に笑った。
 「安いとは言えない値段だけれど、その分、ちゃんと葡萄の味がする。ほら、安物のお酒って、アルコールの味しかしなくって、全然美味しくないじゃない?」
あからさまに袖にされた男が気色ばみ、瞬時にこちらに掴みかかろうとする。目を据わらせ、琴は隠し持ったナイフにそっと手を伸ばした。多少の血生臭さで大騒ぎになるような酒場でもないだろう。
 
男のお粗末な拳に身を逸らして、ナイフを素早く繰り出しながら、琴は、ただただ少年が恋しいと思った。

25.

 サクヤが住処にたどり着いたのは、空が白みを帯びた頃だった。
 息を潜めて扉の中に滑り込むと、部屋の暗がりから、微かに馴染みの気配を感じる。それだけで静かな水面に漣が立つようなざわめきを感じるようになったのは、果たしていつからだろうか。
 無意識に血の匂いが付着していないことを確認して、少年は寝室に踏み入れた。
 「…遅かったな」
 男はソファに座っていた。闇に慣れた目が、くっきりと玖珂(くが)の揺るがない双眸を捉えた。
 そこに心配の色を瞬時に見出す自分は、いよいよどうかしているとサクヤは思った。
 「約束をしているわけじゃない。早いも遅いも、別にないだろう」
 隣に座ると、微かな硝煙の残り香が鼻腔を掠める。
 瞬間、ぞわりと、重く冷たい衝撃がサクヤの鳩尾に落ちた。
 玖珂がこの匂いを漂わせるのは初めてのことではない。けれどいつもより強く鼻をつく火薬の匂いが、少年の心を酷くざわめかせた。
 「―…昨晩、銃を使ったのか」
 サクヤはゆっくりと目線を上げて、男に問うた。これほど間抜けな質問もないだろうと、冷えた頭ではそう思っても、すり抜けるように言葉が口をついて出た。そこに理由はあるはずだと、自覚があっても、知ることを恐れる心が、その答えを深い霧の中にしまい込んでしまう。
 それは己の弱さからくるものだと、サクヤは承知していた。
 少年に顔を覗き込まれた玖珂は、まるで正しい答えを探るように、その翡翠色の目を見つめ返していた。
 「…どうしたんだ、急に」
 男の乾いた指先がサクヤの瞳のふちを辿る。
 問いを問いで返されたことに気を悪くする余裕もなく、サクヤは目の前の男を通して、自身の心の深淵を覗き込んでいた。
 玖珂がどのような言葉を紡ごうと、それを額面通りに受け止められるほどの性根は、とうの昔に失っているというのに。
 言葉で確かめずにはいられない衝動はどこからくるのだろうか。頑なに閉じ込めた感情が意志を持って箱から這いずり出す気配に、サクヤの背筋が震えた。
 男が後ろ暗いことをしていることは当たり前だ。そうでなければ、銃も車も、そうそう所持できるものではない。
 けれどサクヤは、暗黙の了解として彼の素性について、何一つ詮索することはなかった。それを(きょう)に咎められようと、(こと)に心配されようと、それは気にかけるほどもない瑣末なことだと無関心を決め込んだ。否、そう自分に言い聞かせてきただけだと、少年はわかっていた。
 調べてしまえば、後には引けない何かが引きずり出てくる予感に、足がすくんでしまったのだ、と。相手を始末する自信がなかった。それが本音だろうと、自嘲する心が軋んだ。
 いつから自分は、こんなにも弱くなってしまったのだろうか。
 吐き気にも似た悍ましさを腹の中に感じて、サクヤは弾かれたように立ち上がった。
 「…今のは、忘れろ」
 玖珂を見ずにそう言い残して、逃げるように寝床へ向かう。
 生きている限り付き纏ってくる睡眠の煩わしさに、今日ばかりは助けられたと、少年は思った。



 自分が救世主たり得ないと、ずっと前から自覚はあった。 
 それでも後味の悪さを感じるのは、どこか淡い期待を捨てきれていないからなのだろう。
 カサブランカの臭いを充満させた部屋を後にする玖珂の顔には、疲労が色濃くこびりついていた。
 地下室にうずくまる老人らは、玖珂の報告に酷く喜び、手を叩いた。
 ――なに、共倒れとまでいかずとも、一つは壊滅。
 ――取りこぼした方も、随分と消耗させてくれたそうじゃないか。
 子供のように目を輝かせはしゃぐ老害どもは、褒美だと言って玖珂に年代物の酒を投げ与えた。
 捨て置くわけにもいかず、瓶の首を無造作に白く握りしめた手で拾う。拳の中で軋むガラスの気配に目もくれず、玖珂はただ無心に階段を登り続けた。
 ようやく見上げることの叶った空は、皮肉にも快晴の満月だった。
 空洞のような虚無感が胸を襲う刹那、「一体、何のために」という思いが去来する。
 自分の行いが、一体、何の役に立つというのだろうか。こうまで堕ちてしまった今をどうにかできると思うほど若くもなければ、自惚れてもいない。
 ならば何のために。何となると思って、自分は大切な人を欺き続けているのだろうか。罪滅ぼしにもならない、不毛ないたちごっこにばかり身を投じて。

 宝物だった。それは今でも変わらない。誰にも否定などさせはしない。
 ただただ、悔いるべきは己の力不足だと、玖珂は今でも信じていた。あの時、もっと力があれば防げたものはいくらでもある。少なくとも、大事に大事に守っていた宝物をあんな目に合わせることなどなかった。
 当時の立場でできる限りの手を尽くしたのは事実だ。そして、それが非情なほどに中途半端で残酷だったことも。
 だから自分は、あの少年に恨まれはされど、好かれることはあり得ないのだと、あってはならないのだと、言い聞かせてきたつもりだった。
 けれどあの夜、偶然にも酒場で見つけた華奢な後ろ姿が、すっかり刃物のように鋭利になってしまった翡翠色の眼光が、玖珂の決心を狂わせた。
 どうしても側に置きたいと、触れたいと願う欲に、遂に抗えなかった。それがどのような痛みと結末を招くとしても。彼を再び傷つけることになったとしても。
 「―……」
 月に照らされた玖珂の顔は、けれど暗い。薄々、辿るべき終焉には気がついている。それはきっとサクヤも同じだろうと思った。
 終わりを迎える前に、全てを知って欲しいと願うのは傲慢だろうか。ただの弁解にしか聞こえないであろう、後悔の記憶は、墓まで持っていくほかないのだろうか。
 迷いを祓うように、玖珂は乾いた声で短く嗤った。
 手にした酒を仰ぐ気にもならず、ただ静かに住処へ向かう。サクヤは帰っているだろうか。そんなことをぼんやりと考えつつ、思考が自然と過去を手繰り寄せる。玖珂はそれに抗わない。唯一、生きた心地のした記憶の反芻は、もはや日課になりつつあった。


 綺麗な子供だった。大きな瞳と、それを縁取る繊細な睫毛は、特に印象的だった。
 けれどそれ以上に強烈だったのは、その子供の純粋さ。
 生みの親など知らず、どこまで遡っても飢えを凌ぐためだけに生きてきた玖珂にとって、その子供はあまりに眩しかった。
 人は、天と地ほどの差異を自覚した時、羨望や嫉妬といった毒気はすっかり抜け落ちてしまうものらしい。
 玖珂はとにかくその子供が可愛かった。
 その愛情に応えるように、庭仕事の手伝いとして雇い入れられたただの使用人に、その子供はえらく懐いた。
 ことあるごとに庭に遊びにきては、腕いっぱいに抱えた絵本やおもちゃといった宝物を広げて、一つずつ見せてくれた。絵本を読む時は決まって膝の上。必要最低限の読み書きを身につけていたことに、この時ほど安堵したことはない。
 生まれつき色素の薄い髪の毛が、暖かな日差しで透けるような色味を帯びる。それを優しく撫ぜる風は暖かい。石鹸の香りのする彼の小さな両手。庭の片隅に咲いている蓮華草を一つずつ摘んで、小さなブーケを作る小さな体。こちらに気づいて振り返る、はにかんだような笑顔。駆け寄る足元は少し頼りない。心配してしゃがむと、紫色の花が勢いよく視界に飛び込んでくる。プレゼントだよ、とブーケの横から顔を出した彼の唇が動く。

 その時の愛着がどのような類のものだったのか、もはや思い出すことはできない。

 一緒に過ごした宝石のような日々は、期間にしてみれば非常に短いものだっただろう。
 その限られた時間の中で育まれた情は、けれどその子供の命だけでもどうにか救おうと抗えるほどに深かった。
 たとえ傷つけてでも、悪者になってでも、ただ生きていて欲しいと願った己の行動は、誰に認められることはないと、玖珂は知っている。そこにどのような理由があろうと、この手が彼を傷つけたことには変わりない。
 なればこそ、少しでも彼の生きる環境が、立ち込める翳りが晴れるように動く。それを唯一の選択肢と信じて、玖珂は胃もたれのする甘さに包まれた地下室へ辿り着いた。だが、それすらも、辟易するほどに何の成果をもたらさないことを、嫌というほど自覚している。
 けれど、だからといって他にどうすればいいのか。まるで答えの見つからないその問いにただただ途方に暮れる。
 「…―違うな」
 掠れた声が唇を漏れる。本当は理解しているのだ。
 それでも、絶妙な均衡で成り立っている今に終止符を打つことができないのは、己の弱さの象徴だろう。
 出口のない自問自答を繰り返しつつ、結局こうして、サクヤを待つために住処に戻ってしまうことが何よりの証拠だと玖珂は自嘲した。

26.

 薬や消毒液を詰め込んだ箱を神代(かみしろ)に預け終わったクロノスは、この上なく機嫌が良かった。
 久しぶりのお祭り騒ぎに加えて、想定外の遭遇。(きょう)の打ちひしがれた姿を思い出しては、薄い唇が歪にしなる。
 「兄貴〜、喬さんたち、あのまま置いてきちゃって良かったんですか?」
 決まって3歩後ろを歩く(べに)が、不思議そうに細い背中に問いかける。
 「そりゃあ、紅。俺たちがいた方がゆっくり手当なんざできねえだろ?」
 「それもそうっすね!さすが兄貴…!」
 ぽん、と心得たように手を叩いた紅が呑気に感動する。

 そんなことはどうでもいいと、クロノスは空を仰いでくつくつと喉を鳴らした。
 夜も更け、地平線がうっすらと白み出す気配の中、それでも頭上の月は未だ青く鈍く輝いていた。
 青白い月光下、脳裏に浮かぶのは決まって、頬を血で濡らした一人の少年の美しさ。握るナイフの煌めき、こちらを射抜くエメラルド色の瞳の鋭さを思い起こすたび、クロノスの背筋は耐え難いほどの愉悦に打ち震える。
 「紅ィ、お姫様のご様子はどうよ?」
 うっとりと目を細めて、痩身が後ろを向く。
 すかさず、「サクヤさんですね!」と紅が目を輝かせる。
 「いやもう、さすがの一言っスよー。建物の中にいた人たち全員、さくさくやっつけて行っちゃうんだから。まあ、最上階に着いた時にはあの有様だったわけで、不完全燃焼って感じはあったかなあ」
 記憶を辿るように首を傾けながら、紅は回想を続けた。
 「俺はあくまでサクヤさんを尾けてたから、その時の戦闘は見れてないっスけど、残骸見ただけでもかなり一方的な展開だったんだろうなって…いやあ、びっくりっスよ。玖珂(くが)さんって、めちゃくちゃ強いんすね、兄貴!」
 ノルマ程度に戦闘に参加した後、先陣切って敵の中に身を投じた少年の尾行を任せたのは、何も政府の犬の乱入を予期してのことではない。
 元はただの好奇心、作戦終了後に少し揺さぶりをかける程度の腹づもりはあったが、玖珂とサクヤが遭遇する可能性があった状況下、紅をつけていたのは正解だった。結果的に、その懸念も杞憂に終わったわけだが。
 クロノスの描くシナリオでは、あの場で二人が遭遇することは何としても避けたかった。飼い犬は、それをきっと理解していない。
 「でも兄貴、喬さんたちがサクヤさんを足止めした理由はわかるんすけど、なんで兄貴も二人が出くわすのを止めたかったのか、よくわかんないっていうか…。あのまま遭遇させちゃっても、十分、殺し合いに発展しそうな感じだったじゃないっスかー」
 期待を裏切らない忠犬に、クロノスは鬱屈と嗤う。
 「わかってねえなぁ、紅。俺ぁ、何も殺し合いが見たいわけじゃねえのよ…俺が見たいのは、もっとずっと綺麗で、意味のあるフィナーレだ。…―なんてったって、これはお姫様へのプレゼントってやつだしなァ」
 恭しく腰を折る真似事をしながら、痩躯の男は、自身に宿る屈折した感情に酔いしれた。
 それを見つめる青年は、飼い主の独白を肯定も否定もせず、ただ燦々と目を輝かせる。

 「―…それはそうと、紅。一つ、面白い昔話を教えてやろうか」
 「はい、兄貴!」
 条件反射の小気味よさに目を細めつつ、クロノスは再び歩き出す。
 すかさず、影のように一定の距離を保ったまま飼い犬がそれに続く。
 「こんな廃れた世の中でも、食うに困らず、それどころか桁外れに裕福な暮らしをしてる連中ってのがいるわけだが、そういう奴らは、地下の引きこもりどもと昔からオトモダチの仲って構図だ。…ま、俺たちににとっちゃ、美味いカモで、大事なお客サマってところだが」
 実際、この国で暗殺稼業が成り立つ所以は、そのごく一部の富裕層による依頼が存在するためだ。
 「別にその構図自体は重要じゃねえが…ただ、今回のお話の主役は、その富裕層に生まれてきた、それはそれは天使のように可愛らしい男の子だったってわけよ」
 実際にこの目で見たわけではない。ただの又聞きの情報だが、瞼の裏に鮮明なほどに浮かび上がる愛らしい子供の姿は、妄想と片付けるにはあまりに生々しかった。
 たまらないと言わんばかりの吐息が、ニタリと歪む唇から漏れる。
 「ところが、この話、主役はもう一人いてな。どちらかといえば、こっちの登場人物のがメインってところか…身寄りのない一人の少年が、その裕福な家に使用人として雇い入れられた。富裕層の連中が大好きな、ありきたりな慈善活動ってやつだろうなぁ」
 皮肉を語るクロノスの目に感情はない。実際、よくありすぎてつまらない程の出来事だ。
 聞いた話だと、玖珂の出自は曖昧なものの、大方、犯罪組織の人間同士の間に生まれた可能性が最も有力だろう。それを、どういうわけかサクヤの両親が拾った。無論、それが偶然なはずがなかった。
 「ミイラ取りがミイラにってさ。…身寄りのない少年は、そんな大金持ちの自己満足につけ込むために用意された餌。かなりのセキュリティに守られてるその裕福なお家に潜り込ませるために、とある組織がわざと痛めつけて、その家の目に留まるよう放り出した、傀儡のお人形ってなわけよ」
 くつくつと、男の痩せた喉が鳴る。
 「わざわざそんなモン拾って世話してやって、金持ちのやるこたぁちっとも理解できねえよなア。とまあ、送り込まれた少年はセキュリティ体制の把握と内部工作の任務を任されたわけだ。組織の目的は当然、夫婦の暗殺と、ついでに一家の財産の簒奪。準備は筒がなく進み、程なくして作戦は決行され、暗殺も財産の奪取も普通に成功した」

 ここまでは、何も珍しいことはない日常的な営みの一環である。貴族は討たれ、誰かの恨みが晴れる。そして、それを生業とする底辺の者たちが食い繋ぐ。

 「ただし、少年はなんと潜入期間にその綺麗な子供と必要以上の関わりを持っちまった。ただの操り人形が意思を持って、その子供のことを守ろうとしてしまう程度には。こりゃきっと組織としちゃあ誤算だったろうな」
 まだ幼かったはずのサクヤは、けれどその愛らしさとは裏腹に意外な胆力を発揮した。目の前で両親を殺された彼は、どこからか拾ったナイフを振り翳して『敵』の足を切りつけたという。当初の計画で定められていた彼の処遇は不明だが、この瞬間にそれが瓦解したことは容易に想像できる。逆上した組織の人間がその場で目障りな子供を始末するのは当然だ。
 「子供が手にかけられる直前、傀儡が動いた。少年は咄嗟に間に入ると、子供の背中に躊躇なく深手を負わせた。痛みに悲鳴をあげる子供を尻目に、少年は、こう提案する…『こいつは生かした方が得だ。こんな綺麗な見た目なんだから、まだ金になるだろう』ってな。組織の大人はそれに乗った。こうして、子供はなんとか一命を取り留めて、適当に売り飛ばされた」
 クロノスはひらひらと片手を宙にそよがせながら言った。その口元を皮肉な笑みに歪ませて。
 それが果たして『守った』ことになるのかは、甚だ疑問な話だ。それでもクロノスにとってみれば、この時の玖珂の選択は僥倖以外のなにものでもない。
 辿り着いた廃ビルの階段を登る主の背中を観察し続ける紅が、「切ない話っスねー」と少しの感情もこもらない声音で相槌を打つ。
 「ああ、切ねえなあ」
 仄暗い笑みでクロノスは言った。
 「組織での立場が弱かったからとはいえ、生かすために一生消えない怪我を負わせて、しかも碌でもねえ場所に売り飛ばすなんて、一体、どんな気分だったんだろうなア…?」
 とはいえ、本当の苦悩の始まりはそこからだっただろう。戦利品の売り先など、組織の下っ端までわざわざ通達が行くとは思えない。探し出すまでにかなりの労力を費やしたことだろう。まさしく、執念のなせる業だ。

 「…少年は大切に想っていた子供を裏切り、組織を裏切り、今度は政府側に回ってこの社会を裏切っている。仕舞いには、騙すような真似してまでサクヤの隣にいるんだもんなァ。世の中、わからねえもんだ」
 天井が崩壊したビルの最上階で、クロノスは明るみを増した空の片隅に目を眇めた。この街は闇の中でこそ、真の美しさを発現するというのに。
 変わらず3歩後ろに控えた紅が、呑気に大きく伸びをしている。
 そのまま盛大な欠伸をして、「次は何するんスか〜?」とのんびりとした口調で言った。
 大して興味があるのかないのかわからない飼い犬を振り向いて、じきに登る太陽を避けるように痩躯は階段の方へ戻る。
 鼻歌まじりに階層を下りながら、クロノスは次の行動について思案した。残された選択肢は限られている。
 「いよいよ、佳境に入ってきたか―…」
 自覚した途端に広がる、ぶわりと全身の毛穴が開く感覚に高揚し、歪んだ愛情を抱えた男は膿んだ狂笑を廃ビルの階段に響かせた。

27.

 ―…ウィンドチャイムの音色がきらきらと耳を打つ。
 庭の百日(べに)の木に吊るされたそれは、確か自分がその場所がいいと言い張ったものだった。両手いっぱいの宝石が床を転げるようなその音を、当時はとても気に入っていたように思う。
 昼下がりの木陰、本の読み聞かせをしてもらう時間が何よりの楽しみだった。
 全体重を預けるようにして甘えていた相手の顔は、黒く塗りつぶされていて原型を留めない。
 あれは誰だったのだろう―…当時の記憶が粉々になっている今、それを思い出す手立ては、きっともうない。


 
 浮上した意識の先に映る剥き出しのコンクリート壁に、なんともなしに息が漏れる。
サクヤは音もなく体を起こした。玖珂(くが)の気配はない。そのことにいささかの安堵を覚えつつ、少年は喉に水を流し込む。
 癖で手を差し入れた上着のポケットの中、指先に当たる金属物の感触に、一気に頭が冷える思いがした。
 小さな円筒型を指の間に転がしていると、心の中が徐々に混線していく気配を感じる。このままではいけないと、頭の奥深くが鈍く警鐘を鳴らしている。それを霧の底に押し沈めてしまうことは容易い。けれどどうしてか、この日はそうすることがためらわれた。

 昨日の任務後、追って通達が来るまで待機するよう、神代(かみしろ)に指示を受けた。組織の被害状況の確認と立て直しのためだろうと。被害が軽微だとは考え難い乱戦だった。
 昼下がりの明るさの中で部屋の中をじっくりと見渡すのは初めてのことかもしれないとサクヤは思った。とはいえ、特筆すべきものは何もない―…寝床とソファと、携帯食料や予備の仕事道具が無造作に投げ込まれた箱が、一つ。
 ふと、部屋の隅にもう一つ、古びた棚が置いてあることに少年は気づいた。
 見たことがないように思うのは、おそらく、自分には用事のない物だからだろう。となると、玖珂の私物に違いなかった。
 視界に入った途端、三段の引き出しのついた木製のそれが、嫌に存在感を醸し出す。
 その圧迫感に耐えかねた少年は、慎重な足取りで棚に近づいた。
 やけに重厚な作りをしたそれは、年代物を思わせる深い色味と黒い金属製の取手がついていた。一目で重量感を感じさせる棚だ。移動にはかなり苦労するだろう。
 木板を撫でた指先は、次第に下へ降りていき、冷たく光る取手に辿りつく。
 もはや、玖珂に興味がないなどという嘘を貫き通せないことに、サクヤは気づいている。
 自分は、あの男に興味がないのではない。興味があるからこそ、知ることを恐れて目を背け続けているだけなのだ。
 それでも、少年は息を呑んで黒光りする金属を掴んだ。それは、知ることを恐れる心と同じくらい、本当のことを教えて欲しいと願っているからだろうか。
 サクヤ自身、もはやその答えはわからなくなっていた。
一段目には、携帯食料、水、そして大量の酒瓶が整列していた。並んでいる酒はどれも高級そうな代物だが、開けた形跡がない。少年は無意識にほっと息をつき、二段目に取り掛かった。かなり軽い感触の棚の中身は、綺麗に畳まれ並べられた予備の服。いちいち几帳面な男だとサクヤは思った。
 最後の棚の取手に指をかけた瞬間、サクヤは、他の二段とは異なる、ずしりとした重さを感じた。その気配に吐き気を覚えつつ、けれど、嫌な予感を振り切るように、その冷たい取手を強引に引いた。
 「――…っ」
 中には黒いケースと、小箱に整然と揃えられた二種類の弾。少年の首の毛が一気に逆立つ感覚がした。サクヤは瞬きすら忘れて小型のケースを開き、中に収められた銃を食い入るように見つめた。震える手が、恐る恐る、二種類の弾を拾い上げる。
 見間違えるはずがない。わざわざ取り出して比較せずとも、一目瞭然だった。
 吐息の下、サクヤの唇がわずかに動き、どうして、と呟いた。
 どうして、お前が持っている、と。
 自由を得たいつかの日のお守りと、ジンを殺した銃弾。二種類の弾は、それらと同一のものだった。
 
 
 少年はしばらく呆然と佇んでいた。周辺の気配が遠ざかっていく感覚は、まるで自らの生命活動が止まっていくかのようだった。そのまま跡形もなく消滅することができたなら、どれほど良かっただろうか。
住処の入り口を徘徊する気配が、束の間の現実逃避に終止符を打った。敢えて居場所を隠さないこの感じは、確かめるまでもなくあの男だろうとサクヤは思った。
 滑るように向かえば、案の定、痩せ細った長躯がそこにあった。
 
「随分、遅い出迎えだなァ…さては、おめかしに時間がかかっちまったか?」

 待ち侘びたと言わんばかりの笑みを浮かべ、クロノスは少年の顔を覗き込むように前へ屈む。粘り気のある視線を疎ましく受け流したサクヤの目は、もはや殺気と呼べるほどの剣呑さを放っていた。
 「随分はこっちの台詞だろう。組織に与する人間が、人の根城を荒らすことの意味すら理解していないのか」
 まるで一歩も先へ行かせないと立ちはだかる姿勢に、クロノスの双眸が愉悦に歪む。
 昏い眼球の奥で、生暖かい泥のような執着心がゆらゆらと揺蕩う。
 クロノスという男は、きっとただの快楽主義者なのだとサクヤは見切りをつけていた。瞬間的な悦のためなら何だってするし、そこには後も先も関係ない。(きょう)が引き入れたことが不思議なほどに、組織というものに適合しない人間だ。
このご時世、先々まで考える余裕も希望もない中、目先を追う生き方は皆同じだろう。けれど、これほどまでに非合理で突発的な人間は他にない。生き延びることを大前提とした場合に取るべき選択肢を、この男は平気で捨てる。その瞬間の悦びのためだけに。たとえ、その次の瞬間には息絶えたとしても。
 とどめを刺そうとした時の、クロノスの顔一面に広がった狂喜を思い出した少年の肩が微かに震えた。
 理解できないものは何であれ不気味だ。けれど、目の前の黒く歪んだ男は殊更に不気味で、それだけに切迫した危機感をサクヤに抱かせた。
 「…さっさと消えろ」
 凍てついた声が人気のない回廊を響く。底冷えするような声音には、すぐにでも切りかかりそうなほどの苛立ちが混ざっていた。
 それを歯牙にもかけないクロノスが、痩躯を震わせて嘲笑した。
 「今日のお姫様は、随分、ご機嫌ナナメとみえる…どうしてかなア?なんでだろうなァ…」
 わざとらしい仕草で首を傾げて、男は欲が煮え凝ったような声で続けた。
 「――まさか、遂に愛しい同居人の秘密に辿り着いちゃったのかなァ…?」
 哄笑に浸された言葉が脳の中で処理される前に、サクヤの体は動いた。しなやかな体が地面を蹴り、目前の男の顎を目掛けて拳が突き出される。
 直情のままに繰り出される攻撃を難なく見切ったクロノスが、「おっと、危ない」と嘯いて軽やかにそれを躱す。追撃の蹴りもあっさりといなしてから、男はするりとサクヤの背後をとった。
 「駄目だろぉ…?急に暴れるなんざ、お姫様らしくもねえ」
 言葉とは裏腹に、クロノスの声はいっそ嬉々と弾んでいた。
 すぐさま少年を羽交い締めにした男は、その華奢な肩の感触にうっとりと目を細めた。

 痩躯からは想像し難いほどの腕力に、サクヤは内心舌打ちをする。丸腰の今、打てる手は少ない。つくづく、自分らしからぬ行動が続いていると少年は歯噛みした。
 心の裡を占めるのは、己の迂闊への苛立ち。なぜ丸腰でこの男を出迎えたのか、なぜ、安い挑発に我を忘れてしまったのか。
 答えは、もはや眼前に佇んでいる。
 それでも、一直線に覗き込んでくるそれから、サクヤは頑なに目を逸らし続けることをやめられない。

 「認めなくない気持ちも分かるけどよォ…」
 生ぬるい吐息が耳にかかる。諭すような口調には、けれど抑えの効かない興奮が滲み出ていた。
 「不都合な事実を否定するなんて現実逃避、お姫様には似合わねえぜ?…大事に飼ってた情報屋を殺した挙句、俺らのオシゴトの邪魔をするような男なら、尚更なア」
 いちいち癇に障る言い方だと、サクヤは妙に凪いだ頭で思った。
 敢えて動揺を誘うようなやり方には、すでにある程度の耐性がついていた。ジンを殺した男を特定していたことは嘘ではなかったというわけか、と少年は心の中で嘆息した。その上でわざと偽の情報を掴ませた理由は検討もつかないが、この男の成すことにいちいち動機などあろうものか。
それよりも疎ましいのは、耳元に当たる感触と、肩を撫でさするように抱く骨ばった両手。
 背後の男に殺気はない。壊れかけの玩具を突いて遊ぶ趣向の男だ。大方、人の葛藤を嗤いにきただけなのだろう。
 辺りが水を打ったように静かになった気がした。世界と膜を隔てた場所にいるような、それでいて頭が冴え渡るような感覚に包まれる。少年は浅く息を吐いて、クロノスに視線を投げた。
 「…やるべきことは解っている。心配される謂れはない」
 口に出して、ようやく腹が定まったような気がした。何も悩む余地などない。世界には常に二色しかなくて、生か死か、強いか弱いか、敵か味方かで片付いてしまうのだから。
 サクヤの言葉の鋭利な響きに、クロノスの痩躯が喜悦に揺れた。鬱陶しいほどの距離に置いていた唇を少々名残惜しげに少年の顔から引き離し、「分かってんじゃねえか」と拘束を解いた。
 顔を顰めて耳を拭う様子に目を細めつつ、クロノスは鬱屈とした嗤いを喉に溜め込んだ。
 「今の言葉、忘れんなよ?俺ァ、期待してんだからさあ…」
 怪訝に思ったサクヤが聞き返す隙も与えず、長身の黒い影は手をひらひらとさせながらするりと回廊の角を曲がって消えていった。

 一体、何を期待しているというのか。

 妙な胸騒ぎがするのは、きっとクロノスの無遠慮な介入があったせいだろう。そう自分を納得させたサクヤは、胸中に渦巻く靄を振り切るように身を翻し、出かける準備をするため住処へ戻る。

 「……あんたに期待される謂れもない」

不意にクロノスの耳障りな嘲笑が脳裏を掠めて、鼻に皺を寄せた少年は、苛立ち交じりに吐き捨てた。

28.

 昼日中から辺りを徘徊するのは、えらく久しぶりに思えた。
 鈍色の光に曝け出された街は、不都合を覆い隠す暗闇を失って、夜の何倍も薄汚れて見えた。

 靴音に驚いたネズミが、傍の瓦礫の隙間を駆け足で飛び出して行く。そのでっぷりとした体躯を目の端に映しながら、サクヤは夢遊病のような足取りで歩き続きた。
 何かが胸につかえたような、心が塞がった息苦しさをなんともなしに感じながら、少年はただ浅い呼吸を繰り返して、思考を停止させた。出がけに玖珂(くが)の私物から掴み出した酒瓶は、依然として少年の右手からぶら下がっていた。
 素面を嫌って咄嗟に持ち出したものの呷る気にすらなれず、結果、ただの荷物になってしまった。
 目的地などあるはずもない。満足げにしていた様子から、クロノスはしばらく形を潜めるだろう。(こと)の尾行も最近はずっとない。ふと、黒い液面から立ち上る香ばしさが鼻を掠めた気がして、少年の瞳が僅かに陰る。
 頭上をかたく覆う石灰色の雲が、後の大雨を予感させた。大気の重さに耐えかねたように、排泄物や腐敗や血や吐瀉物がごったに混ざり合った臭いが、路地の端々から見えない煙のように立ちのぼる。
 鼻の奥を突くような悪臭を、けれど人々はどうすることもできない。弱者は与えられた環境を拒めない。世界から忘却された弱者の国の、更にその中で搾取され続けるほかない弱者たちに、変革のため自ら行動しろというのは、少々、酷なことではないだろうかとサクヤは思った。
 琴の好む表通りの賑わいと交わる気になれず、そのまま迷路のような路地を進む。
 半壊状態の建物や瓦礫の山と、その影で息を潜める人間たちの視線や気配をやり過ごすと、次第にまばらな人影が見えてくる。
 外壁に凭れたり、地面に横たわっていたりするそれらは、体や情報を売り買いする者がほとんどだろう。闇市と飲み屋街が近づいてきた証拠だ。

 露天の幌が視界に入ってきた頃、不意にけたたましい足音が近づいてきたかと思えば、すぐに怒号と悲鳴に打って変わった。
 視界の奥で、地面にうずくまる子供が男に殴られているようだった。背中を上から踏みつけられる格好の子供に、酷く興奮した様子の男が罵倒を浴びせている姿を、触らぬ神に祟りなしと周囲は自分たちの景色から切り離している様子だった。無理からぬことだ。
 「この…ッ、クソガキ、盗んだモンさっさと返せッ…!」
 なるほど、子供は盗み出した商品を腹に抱えて隠しているらしい。
 さっさと渡してしまえばいいものを、とサクヤは冷ややかに思った。大人と子供の体格差では、あのまま蹴り殺されるのも時間の問題だろう。とはいえ、相手の腹の虫の居どころ次第では、商品を返したところで結末は変わらないかもしれないが。
 うるさいのはごめんだと、少年は次の角を曲がろうとなんともなしに決めた。
 そのまま歩き去ろうとしたところで、地面に伏せていた子供が少しだけ顔を上げた。腫れあがった顔に生理的な涙を溢す目が、けれど真っ直ぐに頭上の男を見据えている姿が、サクヤの視界の端を掴んだ。憎悪と憤りに焼けた視線が、射るような鋭さを讃えている。光るようなその目つきが、妙に鮮明に映った。
 「…―おい、いくらだ」
 声をかけられた男は、一拍遅れてサクヤに目線を投げた。
 少しも苛立ちの治らない勢いのまま、男は少年を踏みつける足を止めない。
 「こいつがッ、うちの商品…ごっそり抱えて…ッ、逃げやがったんだよ!」
 「だから、いくらだと聞いている」
 ふと正気を取り戻した男はようやく言葉の意味を理解したように、動きを止めて怪訝そうにサクヤと対峙する。
 暴力から解放された子供は、どうやら逃げ出す体力も残っていないらしい。絶好の機会だというのに、身動き一つ見せない。
 「まさか、このガキの仲間ってんじゃねえだろうな?」
 「…いい加減、俺の質問に答えろ」
 一段と冷たくなった少年の声音に、咄嗟に危機感を覚えたのか、男が慌てて言葉を継ぎ足す。
 「いくらって、ガキが盗んだ商品のことかよ。持ってけるだけ抱え込んでんだ、高いに決まってんだろ。外貨四枚かそれと同じくらい価値のあるモンじゃないと釣り合わねえよ」
 最後は吐き捨てるように言った男は、次第に無遠慮な目つきで目の前に佇む少年の容姿を眺め始める。
 外貨四枚というのは、紙幣を四枚ということだろう。ぼったくりもいいところだとサクヤは乾いた笑いを堪える。
 表通りの贅沢品と同額になるほどの商品の数が、子供の両腕に収まるはずもない。
 「なんだよ、代わりに払ってくれるってか?そうだな……嬢ちゃんが相手してくれるってんなら、特別に見逃してやってもいいぜ」
 法外な額を支払う余地もないと確信した男が、下卑た笑いを上げる。ぴりりと走った怒気を封じ込め、サクヤは僅かに口角を釣り上げて言った。
 「当然、払う。ただし、これでは割が合わないと思うがな」
 眼前で軽く揺らされる瓶を捉えた男が青ざめる様を確かめてから、サクヤは言葉を続けた。
 「ありったけの食料と水を持ってこい。それでやっと釣り合いが取れる程度だろう」


 「…生きているか」
 隙間だらけの木箱いっぱいの水と携帯食料を受け取り、サクヤは未だ地面にうずくまる子供に声をかけた。程なくして、地べたから胡乱な視線が返事の代わりに投げ返される。その太々しさに、サクヤは思わず口元を緩ませた。
 「足は無事だな、なら立て。住処まで案内しろ。これを運び込むついでに、手当をしてやる」
 一目で孤児とわかる風貌の子供は、骨に申し分程度の肉をつけた細腕に、数本の水と携帯食料をきつく抱きしめて立ち上がる。目つきこそ反抗的だが、どうやら直感的にサクヤを敵でないと認識したらしい。死と隣り合わせの者ほど、こうした勘はよく働くのだろう。

 孤児がたった一人で生活しているとは考え難い。
 仲間のいる住処まで案内する決断には、相当な覚悟が必要なことだろう。それでも、子供はよたよたとした足取りでサクヤを先導した。剥き出しの脹脛は打撲痕に覆われていて、古いものからつい先ほど負っただろうもので、もはや元の肌色がわからない様相だ。
 その怪我でよく歩けるものだと、少年は特に感慨もなく思った。
 歩行に合わせて、抱え上げた木箱が不甲斐なげに軋みを上げる。いい加減、目的地につかないものかと、その耳障りな音にうんざりしながらも、サクヤはおぼつかない足取りの子供に続いた。
 市場からしばらく遠ざかった頃、屋根の有無が疑わしい建物の前で子供は動きを止めた。元はかなりの階層を有していたであろう長方形の建造物は、まるで鎌にさっぱり刈り取られたかのように、構造のほとんどを失っていた。それでも、かろうじて上階の一部が残っているのだろう、ぽっかりと空いた入口の向こう側は薄闇だった。息を殺して外を伺う複数の気配は、きっと子供の仲間だろうとサクヤは思った。

 警戒心を剥き出しのまま、子供は横目に視線だけ寄越した後、言葉もなく建物の影に入って行った。何も、ここまで連れてきて問題がないと踏んだわけではないだろう。それでも逆らわずに道案内したのは、逃げようとしても抗おうとしても絶対に勝ち目がないことを悟っているからだ。
 洋酒の瓶などという高級品を手に、気まぐれに命を救ってくるような者を、どうして信用できるというのか。
 血の匂いなどさせずとも、サクヤが碌な人間でないことを子供はわかっている。それでも、瞬間的な決断を迫られた時、少しでも生きながらえる確率が高いほうを選んだ。
 女の次に弱い立場にある孤児たちは、自然とそういう打算が上手くなっていく。それはサクヤ自身にも、身に覚えのあることだった。
 周囲に素早く視線を巡らせてから、子供の後を追った。入口のすぐ先に、立ち塞がるような巨壁が真正面に横たわっている。恐らく、倒壊した上階の壁の残骸だろう。一見すると行き止まりだが、闇に慣れた目を凝らせば、端の方に抜け穴がある。なるほど、根城にするには申し分ないつくりだとサクヤは思った。
 少々跼まねば通れない大きさも、万が一敵が入ってきた時の時間稼ぎになる。そんなことを考えながら、けれど木箱を抱えた状態で中腰になったサクヤは、その不便さに小さく舌打ちした。

 抜け穴の先は、打って変わって随分と開けていた。思ったよりも明るい室内だと仰ぎ見れば、天井の三分の一ほどが欠けており、今にも落ちてきそうな鈍色の雲がのぞいていた。
 「…荷物を置いたらさっさと帰れ」
 緊張の滲む声に振り返れば、先ほどの子供が、数人の仲間と共にこちらを睨んでいた。
 それぞれが細い鉄パイプや錆びたナイフを握り締め、固唾を飲んで部外者を見張っている。
 彼らが背にした壁にも、どうやら小さな抜け穴があるようだった。残りの仲間はその先にいるのだろう。子供たちの本当の住処は、この開けた空間ではなくあの穴の向こうにあるのかもしれない。その方がしっくりくるとサクヤは思った。
 「最低限の手当はしてやると言っただろう。そのために消毒液や包帯も店主からもらってきたんだがな」
 少年は肩をすくめて言った。子供たちからしたら、自分はとんだ不審者であることは百も承知だ。無理を通してまで手を施してやるほどの頓着もない。腕の中でいちいち軋む木箱を床に下ろし、このまま大人しく出ていく意思表示として、サクヤは両手を宙に上げた。
 子供たちは依然として武器の矛先を逸さなかった。相手が出て行くところを見届けるまで、そのままなのだろう。それは正しい判断だと少年は思った。

 「ねえ、ちょっと酷すぎるんじゃない?」

 逼迫した空気を破るように、柔らかな声が壁の向こう側から響いた。凛としていても、それは紛れもなく女の声だった。
 「バカっ、お前は隠れてろって言っただろ!」
 サクヤを連れてきた子供が慌てた様子で後ろを振り向いた。壁に開いた穴のそばに立っていた数人が武器を捨てて、どうやら出てこようとしている仲間を留めようとしている。
 しばらく押し問答をした後、彼らは渋々といった仕草で中の人物に手を差し伸べた。仲間の手を借りて出てきた少女は、気遣わしく足場の確認をする子供たちよりも、幾つか大人びて見えた。
 テントの幌を纏ったような出立ちでも、大ぶりの二重目と白い肌が目を引く。それは、孤児としてはとても不憫なことだろうとサクヤは思った。
 ごわついた布地越しでも、少女の腹の膨らみは一目瞭然だった。
 「命の恩人なんでしょ?そんな人を敵扱いしちゃダメ。手当だって、あたしたちじゃ満足にできないのに、どうして断るの」
 少女は腰に手を当てて、凛と通る声で言った。それは、まるで弟の間違いを叱るような、ぬくもりを感じさせる口調だった。
 「この子を助けてくれてありがとう。それなのに、失礼な態度をとってごめんなさい。できれば、手当もお願いしたいんだけど…」
 罰が悪そうに口籠る仲間を優しく見やってから、少女はサクヤに声をかけた。実の家族のようなその素振りに、違和感を覚えた翡翠色の瞳が揺らぐ。
 少女を守るように周囲を固めた子供たちが警戒を解くことはない。その判断の正常さに、サクヤはほっと息をついた。
 「もとより、荷物を運ぶついでに怪我をみてやるつもりだった。だが、望まれないなら無理強いをするつもりもない」
 手当と言っても、たいしたことはできない。露天では簡易的な物しか手に入らないし、殴られた時の打撲はどうしようもないだろう。
 サクヤは淡々と木箱の中身を漁り、消毒液と軟膏、そして包帯代わりの布を取り出した。子供に扱えない道具ではないだろうと、サクヤは黙り込む子供に視線を投げかけた。
 「…お前の仲間は正しい。気まぐれに命を救う人間は、気まぐれに人を殺める。信用に足りない者はなるべく遠ざけておけ。…二人分の命を背負っているなら、尚のこと」
 少年の最後の言葉に、子供たちが一斉に気色ばむ。思っていた反応が返ってくる安堵に口元を緩ませ、サクヤは今度こそ立ち去るべく、出口の方向を向いた。来た道を戻る最中、腫れ上がった目で必死に睨みを効かせようとする子供の姿が、やけに鮮明に映る。
 建物の影の下、いっそ光を発しているようなその眼球に、生きたいという剥き出しの欲望をみた。それこそが自分の気まぐれの正体かと、サクヤはようやく腑に落ちた。

 「生き延びたいなら、もっと上手くやれ。仲間のためにも。…それから、大事なものは簡単に人目に晒すな」
 「うるさい、わかってんだよ…!」
 子供は心底、悔しげに吐き捨てた。幼い頃の自分に、この激情のひとかけらでもあったなら、今とは違う未来になっていたのだろうか。ふと考えて、それは違うと思い直した。これほど真っ直ぐな心を持っていたら、とうの昔に死んでいた。
 不意に、ころころと場違いな笑い声が廃墟を反響して、少女が朗らかに「あんた、いい人ね」と言い放った。サクヤは振り返らずに抜け穴を潜った。何であれ、理解できないものはただ不気味だった。
 



 空がいよいよ鉛の色合いを帯びてきた。
 飲屋街の方向へ歩きながら、サクヤは先刻の孤児たちについて滔々と考えていた。少女の体は出産に耐え得るのだろうか。それ以前に、その時を生きて迎えることができるだろうか。
 孤児の女は、最も危険に晒される立場にある。少しでも目を引く要素があれば、尚のこと。先の少女も、望んで子を胎に抱えているわけではないだろう。
 往々にして、孤児たちは仲間の女を時間稼ぎや囮として扱うきらいがある。仲間の慰み者にされることもしばしばと聞く。いっそ娼館に囲われたほうが安全なほどに、彼女たちを取り巻く環境は残酷である。とはいえ、あの少女にはもはやその道も残されてはいるまい。赤子付きの商品を受け入れる娼館があるとは思えない。
 だというのに、後ろ暗さを感じさせない少女と、それを荷物として扱わず守る対象とした他の孤児たちは、特異点のような存在だとサクヤは思った。その異様さを思い起こせば、ぶるりと背筋が震えた。

 纏わりつくような湿度にあてられて、飲み屋の並ぶ路地は、一際、悪臭を放っていた。影がさしたような曇天の下、さらなる暗がりに密集した人間たちが、少しでも日光に触れれば焼き死ぬとでもいうように、細い路地裏に身を寄せ合い紫煙に燻されている。
 その少し先に進んだ袋小路に、壁を一面無くした家屋がある。ビニールの繋ぎ合わせを暖簾がわりにしたそこは、今日もひっそりと安酒を売っている。

 「―…サクヤさんではありませんか」

 暖簾の向こう側から出てきた顔見知りに、珍しいこともあるものだとサクヤは思った。
 感情を丸ごとどこかに忘れてきたような声で、レイラは僅かに首を傾げて言った。
 「驚きました。本日は、随分と早い時間から外出しているのですね」
 全体的に色素の薄い造形は、路地の薄暗さと相まって、まるで死者のように白く冷たく映る。滅多に表情の動かない彼女は、けれど心なしか浮き足立っている様子だった。視線を下ろすと、質量を感じさせる麻袋を右手に掴んでいる。
 「酒場でも商売があるとは、なかなか手広いな」
 サクヤがぽつりと呟くと、途端にレイラの瞳が踊る。
 「ええ、とても良い取引でした…」
 反芻するように目を細め、うっとりとした口調で答えた後、彼女はさらに言葉を続けた。相変わらず、金儲けに関しては饒舌な女である。
 「こちらで死体が出たとのことでしたので、引き取った後、肉にしたものを先ほどお届けした次第です。干し肉に、という依頼のため、少々手間がかかりましたが…商品に満足いただけたようで、何よりでした」
 大方、客同士の揉め事か何かだったのだろう。死人が出るほどの騒動は、頻繁でないにしろ、珍しいことでもない。それよりも、雨季の中、よく干し肉など作れるものだとサクヤは何気なく空を見やった。
 「…市場に卸す肉も、ある程度は乾燥させたものなのです」
 レイラが先回りするように口を開いた。ぼんやりとした佇まいとは裏腹に、人を読む能力が群を抜いて高い。以前、それに言及した折、商売には必要なことですからと、彼女がうっすらと笑みを浮かべて答えたことを、サクヤはふと思い出した。
 「なので、設備はあるのです。ただ、完全な干し肉にするには、いつもより多くの時間と手間がかかります」
 設備、という言葉に合わせて、レイラの細い指先がそっと地面を指した。

 レイラが所属する組織は、肉の加工に地下空洞を利用していると聞く。国の遺物の一つで、僅かに残る線路の痕跡から、電車を走らせるための洞窟だとわかるらしい。
 大戦時の空襲で大部分は潰されているものの、穴のような残骸が不規則に残っていて、これが案外、隠れ家や商品の保管場所としての使い勝手がいい。ついでに線路の断片や電車の車体も見つかれば、大した儲けである。とはいえ、金になる物は大方、すでに持ち去れているのが関の山だろう。
 「…よければ、見にこられますか?」
 口元にうっすらと笑みを湛えて、レイラは首を少しだけ傾けた。
 「人間の解体を鑑賞する趣味はない」
 サクヤはにべもなく断った。実際のところ、あまりいい噂は聞かない。干渉する物をみだりに増やすことも合理性に欠ける。一人で抱えきれる荷物は、たかが知れているのだと少年は思った。
 「残念です、せっかく、商品をたくさん仕入れたばかりなのに…」
 特に肩を落とす様子もなく、レイラはそっと目を伏せた。大方、前夜の抗争で出た死体の山のことを言っているのだろう。サクヤは、肩を竦めて皮肉ともつかない相槌を打った。
 「昨晩の成果は上々だったようだな」
 「ええ。おかげさまで」
 レイラの薄い唇がふわりと弧を描き、すぐに元の位置に戻る。不意に物思いに耽るように固まった後、彼女はじっと地面を見つめたまま、口早に言葉を紡いだ。

 「……クロノスさんをあまり信用なさらないほうが良いかと」

 レイラにしては随分と低く硬い声音に、少年の双眸が細まる。
 けれど発言した当人は僅かに目を見開いたのも束の間、すぐに平常心を取り戻したように、サクヤに向き直って事務的に会釈した。
 「クロノスさんから、新たな死体の処理を依頼されているのです。痩せた老体ということで、商品にはなりませんが…死体の処理も仕事なので、仕方がありません」
 少し眉根を下げた様子から、肉として売れないことを心底残念がっていることが伺えた。それでは、とすぐさま立ち去ろうとするレイラの前を、サクヤは遮るように立ちはだかった。
 「なぜ、あんたがクロノスの忠告をする」
 レイラの言葉には掴みどころがないが、先ほどは明らかに異常である。何事にも執着できない彼女が、突如ここにはいない人間の名前を思い出して引き合いに出すというのは、いくらなんでもきな臭いと少年は思った。
 「―……忠告、ですか」
 けれど、当の本人は心当たりなど皆無とばかりに目を瞬かせ、ぼんやりと宙を見つめて首をかしげた。
 「クロノスさんが、枯れ木の前で倒れている死体を発見したから、片付けて欲しい、と…けれど、老いた死体なので肉になる部分はあまりないだろうと言っていました。死体を見つけていただいた対価は払わなければなりません。けれど、今回の死体は商品にはなりません」
 レイラは少しだけ肩を落としながら、相変わらず虚空を見つめて説明した。噛み合わない会話に苛立ちを覚えたサクヤは、もういいとばかりに鋭く息を吐き、路地の端に寄った。
 「…引き止めて悪かった。さっさと行け」
 「それでは、失礼します」
 再び律儀に会釈をして、レイラは幽霊じみた足取りで路地から消えた。その夢現な後ろ姿を見送るでもなく視界の隅で眺めていたサクヤは、ふと、レイラの言っていた死体に既視感を覚えた。
 ―…枯れ木の前で倒れている死体。
 老木と一体化したように寄りかかる老翁の姿が脳裏を掠める。
 老翁は死にたがっていた。或いは、ようやく願いが叶えられたのかもしれないとサクヤは思った。


 あの時、情報の対価として過去の話を要求した老翁に、サクヤは知る限りの素性話を提供した。語り出せば案外、時間がかかるもので、乾いた喉が貼りつくような感覚に少年は目を眇めた。
 「これだけ喋れば十分だろう。さっさと情報を寄越せ」
 老翁の僅かに開いた口から、隙間風のような笑いが上がる。
 「それは、お前の決めるところではないな」
 ゆらりと立ち上る殺気を押し殺した少年を愉快げに眺めつつ、老翁は曲がった小枝のような指で手招きした。
 「…人間の記憶ほどあてにならないものはない。意図的だろうがそうでなかろうが、記憶にはどうしたって脚色が入る。不都合な過去のない人間なぞ、この世におるはずもない」
 サクヤが慎重な足取りで距離を詰める間も、老翁は独り言のように呟き続けていた。よく喋る情報屋だと、半ば呆れつつも少年は老木の根元にしゃがんだ。
 目線を合わせるサクヤの顔をまじまじと見つめた老翁は、皺の奥に埋もれた目を燦々と輝かせて言った。
 
 「ただし、お前は恣意的に隠したな」

 黒光りする眼球の脂っこさに、サクヤの口の端が自然と吊り上がる。誰が死に時を逃し続けているものか。これほど欲に濡れた眼光をした人間が、命に興味を失っているはずがない、と。
 「…ごたくはいい。全てを話せとは言われていない。違反はないはずだ」
 それもそうだなと老翁はおざなりに相槌を打って、幾分も褪せた藍色の羽織から紙片を取り出した。
二つ折りにされたそれを、今にも折れそうな指先から受け取る。少年はすぐさま内容を確認し、紙を焼却した。鼻の奥をつく香ばしさとともに、ライターの火を移された紙片が黒く染まって崩れ散る。薄闇に灯りがともったのはほんの一瞬だった。
 「……難儀なものだ」
 慣れた手つきで情報の確認と処理を行う少年を見て、いささかの憐憫を匂わせる声音で老翁はつぶやいた。
 「お前が隠しているものは、遠からずお前を滅ぼす。だが、頭でわかっていても感情が判断を鈍らせることもまた、人間の本質であろう」
 結構じゃないか、と老翁は薄い唇を湿らせて笑んだ。
 玖珂のことを言っているのだろうと、サクヤはうんざりとした眼差しを向けた。
 「あんたといい、クロノスといい、揃いも揃ってとんだ出歯亀だな」
 否定はしないと老翁は僅かに肩をすくめた。体が許すなら、すぐにでも大声をあげて笑い出しそうなほど、上機嫌な様子である。
 「その男を殺すのか」
 「無論だ」
 即答する少年を見上げる双眸が愉快げに細められる。
 「ほう…それは、なぜだ」
 試すような質問に、少年はますます嫌気がさした。押し問答は(きょう)だけで十分である。用は済んだと身を翻すサクヤの背中に、けれど老翁は追いかけるように言葉を投げかけた。
 「人生に後悔はつきものだ、それは仕方がない。だが、時には、より後悔の少ない選択肢もあるものだ。そのための猶予を与える程度なら、儂にもできよう」
 矢継ぎ早に喋る様子を不審に思い、少年は最後に一度だけ振り返った。今にも老木の養分として取り込まれそうな体の、一体どこにこれだけの声量を出す力が残っているのか。距離を取れば生きているのか死んでいるのかも識別できないような老体は、けれどサクヤが足を止めたことに確かに満足している様子だった。
 「様々な人間を見てきた。欺瞞と解釈で塗り替えられた記憶に現れる人間性が、儂の一番の糧であった」
 サクヤは冷笑した。
 「…それだけ悪趣味な業があるなら、当面は生きながらえるだろう」
 「いいや、死ぬ」
 確信したような口ぶりで老翁は言った。
 「儂はもうすぐ死ぬ。ようやく死に時が見つかったようだ。僥倖なことだよ」

 その安らかな口調に、少年の心がざわりと揺れた。己の命にかたがついたその様子が、とてつもなく羨ましかった。


 あの時に渡された情報は間違っていた。けれど、それが偶発的だったのか、或いは意図的だったのかは、どうにも判断し難い。
 着慣れているはずのコートが嫌に重く感じるのは、下げている武器のせいではないだろう。この際、老翁のことはいい。けれど、本当に考えなければならない人物を思い浮かべただけで、途端に頭の中に靄がかかり出す。
 おかしな話だとサクヤは思った。世界は常に二色で成り立っているはずである。生か死か、強いか弱いか、敵か味方か。何事も、それに当てはめて考えればいい。対象が玖珂になったところで、それは変わらないはずだ。

 そうだろう、と。混濁する思考の中、サクヤは自分に問いかけた。

29.

 (きょう)がクーデターまがいの行為で今の組織を立ち上げる幾分も前から、(こと)は前身の組織に与していた。
 喬は当時から注目を集める存在だった。
 専門が別で、滅多に顔を合わせる機会のなかった琴ですら、彼のことは少なからず耳にしていた。それだけ組織の中で噂になっていたという証明だろう。

 喬はいやに人好きする笑みを浮かべる。初対面に感じた強烈な印象はそれだった。
 けれど、その笑顔の下に様々なものが蠢いている気がしてならなかった琴は、つかず離れずの距離感を保つにとどめた。
 信用できなかったからではない。信用できないという点では、同じ稼業の人間はもれなく該当する。当たり前のことだ。
 けれど、喬は同業者を仲間と呼び、信頼し合うことを是とした。殺伐とした環境しか知らない人間にとっては、甘い毒のような言葉だったのかもしれない。喬は瞬く間に求心力をつけていった。
 簡単に言ってしまえば、琴は喬が嫌いだった。
 現実と乖離した甘言で絡めとって、忠心を尽くさせる。その詐欺まがいな行為の本質は、搾取である。それは、かつて男たちが琴に強いてきたことと何一つ変わらない。
 その思いもあって、喬が仕掛けた組織の乗っ取りも傍観に専念した。尤も、参加したところで、あまり戦力にならなかったのも事実だ。
 喬がサクヤを引き入れたことは嬉しい誤算だった。多少の疑問や不満など、サクヤとの繋がりを前にすれば、大したことではなかった。
 サクヤさえ無事でいてくれれば、あとのことはどうでもよかった。
 「――喬はどこ」
 勢い任せに開けたドアの先、警戒を露わに武器を構える喬の側近たちに目もくれず、琴は室内をぐるりと見渡した。
 喬とは長い付き合いだが、彼の根城に足を踏み入れるのは初めてことだった。
 前身の組織の頃から、喬の住処は変わっていない。組織の乗っ取りを成功させた後、彼は『家族』と称した組織のメンバーにこの場所を自ら開示した。異常なことである。
 大事な家族が何かあった時に助けを求めにこられる場所として、ということらしいが、その言葉を聞いた琴は、ただ怖気がしたのを覚えている。
 「…なんだ、珍しい客だな」
 奥の一室から姿を現した喬が、側近の二人に目配せしながら琴を出迎える。すぐさま武器を収めた二人は、音もなく奥の部屋へ移動した。
 その間、喬が片時も自分から気を逸らさない。そういうところが心底不愉快だと、琴は眉根を寄せた。
 「せっかく来てくれたんだ、とりあえず座ってくれよ」
 相変わらず、人好きする笑みを浮かべながら、喬が手招く。部屋の中央付近には、向かい合わせのソファが二脚、低いテーブルを挟んで配置されていた。
奥のソファに腰掛ける喬を見つめる琴は、立ったままで結構だと、首を横に振る。
 「随分と、いい物ばかり置いているのね」
 部屋の装飾に気づいた琴が眉を顰めて言った。床には色鮮やかなカーペットが敷かれ、調度品は同じ木目調のもので揃えられている。壁際に佇む大きな棚には、多種多様な食器類と酒の瓶が詰め込まれている。
 「そりゃあ、俺だけの場所じゃねえしな。家族が遊びにきた時、なんもない部屋じゃあ、味気ないだろ」
 喬は涼しげに肩をすくめ、「案外、みんな来てくれるんだぜ?」とからりと笑いながら付け足す。その貼り付いたような笑顔の違和感に、琴は背筋が寒くなるのを感じた。

 「クロノスに何かさせているのは、前から気づいていた。それが、サクヤが同居し出した男に関係していることも」
 琴の赤い唇から、硬く上擦った声が出る。サクヤのことになるとまるで冷静でいられない、そんな自分に内心で苦笑する。
 「…あなたのことだから、きっとサクヤを傷つけるようなことはしない。そう思って、だから黙って見ていたの。クロノスが危険な男でも、あなたのことを信用していなくても、サクヤが傷つかないのなら、私はそれだけでよかった」
 喋りながら、腹の奥底から熱いものが沸々と湧き起こってくる感覚を覚えた。
 灼熱の塊は徐々に登っていき、胸いっぱいに広がって、やがて喉元で詰まる。それに連動するように、琴の声は低く震えていく。
 「けれど、サクヤを傷つける計画なら話は別。今すぐクロノスを止めて。あなたたちが怪我で動けないっていうのなら、居場所を教えて。私が止めに行く」
 喬の表情が崩れたのは、怪我のことに触れられた一瞬だけだった。それ以外は、いっそ慈愛に満ちた穏やかな顔で、怒りに震える琴を眺めていた。
 「行き違いがあるみたいだから、少し説明させてくれ」
 バツが悪そうに眉尻を少し下げた喬は、前のめりの体勢で琴を真っ直ぐ見据えた。
 「クロノスには、確かにサクヤの同居人のことを頼んである。けど、サクヤを傷つけるようなことは何も計画してない。飽くまでも、サクヤを守るための依頼だ」
 説得するように熱のこもった声音に、嘘はない。琴はそれが尚更、許せなかった。
 「――なら、どうしてクロノスはサクヤを泳がせているの」
 華奢な肩が怒りをためて震える。
 自分がサクヤの身を案じる立場にないことはわかっている。むしろ余計なお世話だろう、自己満足であろうことも承知である。けれど、放っておけるはずもなかった。
 クロノスは何かを企んでいる。そうでなければ、玖珂(くが)が未だに生きているはずがない。
 玖珂をただ始末するならそれでよかった。けれど、サクヤを巻き込むような大ごとになるならば、止めなければならない。やるなら、サクヤの預かり知らぬところでやってくれればいいものをと、琴は憤慨した。
 「サクヤには餌みたいにヒントをばら撒いて、でもクロノス自身はちっともあの玖珂って男に接触しないじゃない。クロノスの性格を考えれば簡単にわかることよ。あの男は、自分では手を下さない。その役目をサクヤにやらせようとしている」
 琴の言葉に、喬の目が僅かに揺れる。その揺らぎの中に見え隠れする苦さを見た琴は、掻痒にも似た苛立ちに、鋭いため息を吐く。

 「あなたは、それでもいいというの?」

 吐き捨てるような問いは、自分の祈りだと琴は思った。
 どうか否定して、サクヤを助けてという、喬への祈り。
 目の前の男が、そんなものに応えるはずがないと知りつつも、それでも口に出さずにはいられなかった。
 「…それでも、結果的に、サクヤが守られて、組織が守られることに変わりはない」
 膝の上で両手を握り込んだ喬は、やや俯き加減に言った。
 平らな声で紡がれた言葉は、あまりにも自分の願いを蔑ろにした、問いの答えにもならない不誠実な返答だと、赤く染まっていく視界の中で琴は思った。
 「―…あなたのそういうところ、本当に虫唾が走る」
 腹の底から吹きこぼれた憤りに身を任せ、琴は後も先もなく喬に掴みかかった。
 憎しみとも違う、このやり場のない怒りの正体は何なのだろうと、小さな疑問が頭の隅で首をもたげる。戦闘が本職ではない女の力など高が知れているはずなのに、喬はいなすでも反撃するでもなく、至近距離にある琴の血走った目を見つめていた。
 即座に奥の部屋から臨戦態勢で飛び出てきた側近たちも、合図があったのか、警戒心を剥き出しに、けれど一歩も動く気配がない。
 それは、なぜか琴の心を余計に逆撫でた。
 「家族だなんだって、都合のいい時だけ耳に心地いいことばかり言って、でも結局は、本質は他の碌でもない男たちと何一つ変わらない。下を搾取して、駒として利用することが前提で、どこまでも打算的で卑怯。本当の家族のように愛している相手を、そんな風に扱えるわけないでしょう」
 乾ききった大地が強かに雨に打たれた時のように、投げられた言葉が沁みこむまで、しばらくの間があった。
喬の目の揺らぎが徐々に大きくなり、ガラス玉のような光沢を見せる。
 それでも琴は、相手の胸元を掴んだままの手を強く握りしめた。どうしてか、手を放した途端に逃げられてしまう気がしてならなかった。

 「何の打算もない愛情が存在できるのは、生きることが確約された環境だからだ。まずは生き延びることから考えなきゃならねえ俺たちに、そんなの、できるわけないだろ…」

 とても彼らしくない、弱く掠れた声で喬は言った。
 自嘲とやるせなさを隠すでもないその言葉に、琴ははじめて、目の前の男の本音に触れた気がした。
 「ええ、無理よ。裏表のない労りや愛情は、もっとずっと明るくて、とても脆い場所にしか存在しないの」
 幾分か溜飲を下げた琴は、苛立ち混じりのため息をついた。膝の上で拳を白く握り込んだまま、光を溜め込んだ目で見つめ返す男は、けれど、この苛烈な怒りが消えたわけではないことをきっと気に病むのだろう。
 そうでなくては困ると琴は思った。長い年月の間、水面下で蓄積された不信感や嫌悪は根が深い。
 いい加減、痛みを訴える手から力を抜いて、琴は喬から身を離した。
 その動きと連動するように、奥で構える二人の緊張も解けていく。正直なところ、琴は二人のことが苦手だった。名前も、顔すらもうろ覚えである。献身的な彼らの姿は、あまりにも痛々しくて直視できなかった。
 ここには用はないと、琴は出口に向かった。早くクロノスを探さなくては。それでも、制御できない憤りが、追撃するように口をついて出た。
 「あなたがやっているのは、空っぽな模倣よ。それでも、夢を見てしまう人は多い。それを都合のいいように利用している姿には、正直、反吐が出る」
 喬は顔を真っ白にしたまま、何も言わなかった。

 堰を切ったように彼の元へ駆け寄る側近たちの姿は、まるで迷子が唯一の拠り所に縋るような必死さを感じさせた。
 見ていられなくなった琴は、すぐさま身を翻して部屋を後にした。

30.

 (こと)の刃物のような言葉が耳の奥で何度も再生され続けている。

 駆け寄って心配そうに覗き込む奏椰(そうや)とカンナをぼんやりとした頭で眺めつつ、(きょう)はいつもの癖でカンナの硬い髪を撫でるために手を伸ばした。
 指先に伝わる馴染み深い感触に、喉元できつく絡まった感情が解けていく気がして、ほっと息が漏れる。それに気づいたカンナと目が合えば、顔が自動的に安心させるための笑みを浮かべる。
 それに騙されてくれる健気な二人を可愛く思いつつも、喬の中には何ともし難い苦さが広がった。
 初対面の時から、琴が不信感を抱いていたことには気づいていた。
 常に一定の距離感を持って、どこか冷めた態度で接してくるところも、それが彼女の個性だと思えば愛おしかった。
 今の組織を起こす時も、飽くまで傍観者を決め込む彼女を、それでも家族の一員として連れて行きたいと思うほどには、喬は琴のことを大事に想っていた。愛情を持って接していれば、時間がかかったとしても、いずれは信頼関係を築くことができると信じてきた。
 事実、今まで出会ったほとんどの人間はその例に漏れなかった。

 今更ながら、喬は自身の無関心さに気がついた。否、琴の鈍器のような言葉に、そのことを突きつけられた。
 自分は、相手の胸中に全くといっていいほど興味がなかった。
 だから、琴特有の俯瞰した態度を愛ではしても、その真相を理解しようとはしなかった。その発想すらなかった。その事実は、天地がひっくり返るほどの衝撃を喬に与えた。
 「――…喬?」
 ぼんやりとしすぎていたのか、カンナが不安げな声を上げる。
 再び取り繕うように「大丈夫だよ」と笑いかける視界の端に、腕に巻かれた包帯が映り込む。不意に、薬品の匂いが部屋いっぱいに充満した気がした。
 「…駒としてが前提、か」
 低い声が、弱々しく言葉を紡ぐ。幾分か聡い奏椰が、敢えて口を挟まず、ただ心配そうに喬の様子を見守っている。
 放っておけば、琴は一晩中でもクロノスを探し回るだろう。サクヤのためならば、きっと危険を犯すことすら厭わない。
 しばらくの逡巡の後、喬は覚悟を決めたように深く息を吐いた。
 「神代(かみしろ)、クロノスのいそうな場所の検討はつくか?」
 すぐさま姿を見せた神代が、迷いなく頷く。
 「心当たりはいくつかあります。どれが確実かまでは、難しいですが…」
 それで十分だと、喬はからりと笑った。
 「なら、悪いが、琴にそれを伝えてくれるか。まだそう遠くまでは行ってねえだろ」
 「……よろしいのですか」
 珍しく食い下がる神代の様子に、流石に勘がいいと喬は内心で苦笑した。
 「ああ、頼むよ。賛成できなくたって、可愛い家族の必死なお願いだ。できる限り手を貸してやるのも、家長の役目ってもんだろ?」
 何を思ったか、神代は納得した様子で出口に向かう。
 「――…喬さん、これだけは言わせてください」
 去り際に、一片の曇りもない目で、神代は喬を見て言った。

 「あなたは間違っていない。だから、迷わないでください。絶対に」

31.

 分厚い雲の重みにいよいよ耐えかねた空が、糠雨をこぼしはじめた。

 微かに頬を刺す程度の雨粒は、後に控える嵐の前座のようなものだろうと、サクヤは頭上の暗雲を見やった。
 崖の向こうでは、かき混ぜられた黒い海が白く泡立っている。
 玖珂(くが)とここを訪れたのが、随分と昔のことのように思えた。あの夜も土砂降りの雨だった。尤も、月明かりのない暗がりと崖に打ちつける高波のほうが、かえって自分たちには似合いだろう。
 中心街から随分と離れると、人の汚れと汚物の腐臭が、湿った土と磯の匂いに幾分か誤魔化される。
 日も完全に落ちたのだろう、薄闇の灰色が一気に濃さを増す。サクヤはそのまま、高波が打ち寄せては引いていく轟音に耳を傾けた。耳を塞ぐような雑音は、絡まり切った思考をかえって宥めてくれる気がした。

 針のような小雨が、徐々に密度を増し、粒度を増していく。崖の向こうで雷音が轟くと、それを狼煙とするように、一挙に雨足が激しくなった。
 頬に張り付く髪の感触や水を蓄えた服の重みを鬱陶しく思う反面、少年はそこから動けずにいた。
 誰かを待っているのだろうと、蓋をした心の奥底から声がする。住処の異変に気づいて、慌てて追いかけてきてくれる、誰かを。

 翡翠色の目が、暗がりの中で大きく揺れる。
 喉元に留まり続けるわだかまりが、まるで栓のように正常な呼吸の邪魔をする。
 胸を刺すような痛みが、目頭を熱くさせ、思考を鈍らせ、呼吸すら奪おうとしている。その錯覚を振り切るように吐き出した息は、荒波の音にたちまちかき消えた。
 きっと、最後まで揺らぐのだろうと、サクヤは半ば諦観していた。
 冷静と激情の間を振り子のように行き来しながら、みっともなく声を荒げて対峙するのだろう。それでもと、少年は唇を固く引き結んだ。自由を得てからひた走ってきた足を止める術など、持ち合わせているはずもなかった。
 大粒の雨に強打され続けて、すっかり濡れそぼった頃、排ガスの鋭い臭いが鼻の奥をつく。ほぼ同時に、少年の前で黒い自動車が乱暴に停止した。

 その瞬間、心臓が大きく跳ねるのをサクヤは感じた。ぞわりと腹の底から這い出た悪寒のような気持ち悪さが、一挙に喉元まで襲ってくる。
 慌てた様子で車から出てきた男の姿を見た途端、世界が止まった。前髪や服の乱れから、かなりの焦りが伺える。
 サクヤを見つけたことに、安堵とともに、後悔にも似た戸惑いを感じていることも、手に取るようにわかった。

 「―…サクヤ」

 ぎこちない距離を保ったまま、雷に打たれたように立ち尽くす少年に、玖珂が呼びかける。
 静かなはずの声が、やけに強かに耳を打つ。
 その直後、少年は豪雨の音やむせかえるほどの土砂の臭いに引き戻された。降りしきる雨に溺れたように、潤んだ大粒の双眸が心許なく泳ぐ。

 何かを言いたげに口を開いた男は、けれど言葉が見つからなかったのか、すぐに口をつぐむ。それでも、意を決したように少年の方へ踏み出そうとした。
 「―やめろ…ッ」
 サクヤは弾かれたように威嚇した。いつものように触れられてしまえば、正常な判断を根こそぎ奪われると、頭の中で警鐘が鳴り響く。
 玖珂はぴたりと足を止めた。
 雨煙越しでも、憂いと情を深く湛えた顔がはっきりとわかってしまうことに、サクヤは心が軋むほどの苛立ちを覚えた。知りたくない感情、知るべきではない感情が、心に巣食って消えてくれない。それどころか日に日に自分を侵食してくる気配に、ずっと怯えて目を逸らしていた。
 迷いを振り切るみたいに、サクヤは下げていた銃を玖珂の方へ放った。それは、住処の箪笥から出てきた物だった。
 「…あんたは、誰なんだ」
 詰問するはずの言葉は、嫌に弱々しく震えた。
 「俺が子供の頃に飼われていたクソみたいな組織を、たまたま気まぐれに潰しただけの男か。命じられるがまま組織を潰して回る政府の犬か。…それとも、復讐すべき組織の、最後の生き残りか」
 足元に転がった銃を拾う男の動作が、サクヤの最後の言葉に反応して、僅かに緩慢になる。それを見逃せない少年は、途方に暮れたように目を伏せた。
 「今さら、取り繕うこともできないだろう」
 玖珂が、酷く苦しそうにこぼした。
 「どのような理由があっても、お前を騙していたことに違いはない」
 サクヤは鼻で嗤った。
 「遠い昔に俺を売り飛ばした挙句、ジンを殺して何食わぬ顔で側にいたことを、『騙した』の一言で片づけるか」
 「ジンを殺した…?それは間違いだ」
 思わずといった様子で口を挟んだ男は、自分に向けられた冷ややかな視線を前に、言葉を失う。
 その様子に、その通りだとサクヤは思った。全ては今さらである。
 事実に多少の齟齬があったとして、それが終焉を覆すことはない。堰を切った流れは勢いを増すばかりで、食い止める術があるとは思えなかった。止めたいとも思えなかった。
 すべてがようやく壊れて、元に戻ることができないところまで来てしまった。
 ならば、塵一つ残らぬよう、最後まで破壊するしかないだろう。サクヤの唇が緩やかな弧を描き、酷く疲れた笑みを形作った。

 雷の閃光と轟が絶えず曇天のあちこちを駆け回る。滝のような雨が髪を伝って目に流れ込み、視界を濁す。余計な水分を取り除くために瞬けば、生ぬるくなった雨水が目尻から溢れて、重力のままに頬を辿って落ちていく。
 「……もう、終わりにしよう」
 サクヤの口から出た言葉は、まるで懇願のような響きを帯びていた。
 精巧につくられた人形のような造形が、くしゃりと幼く崩れる。
 玖珂は弾かれたように息を飲み、何かに耐えるように、きつく奥歯を食い締めた。
 まるで祈りを捧げるように投げよこされた古い銃をじっと見つめ、遺恨を断つかのように地面に投げ捨てる。
 冷たい鉄の塊が、嫌に粘着質な音をあげてふやけた土のぬかるみを打つ。
 そうだな、と玖珂は呟いた。
 「終わりだ」
 言うや否や、玖珂は素早く武器を抜いた。
 銃口を視認するよりも先に、サクヤの体が動く。体中の血が煮えたぎり、腹の奥底に渦巻く烈火のような業が一挙に燃え上がる。
 ――すべてを破壊したい、殺したい、殺されたい。
 生きていたいとは到底思えない環境の中、身を焦がすこの衝動がサクヤを生かし続けている。
 業火に包まれ、心臓が早鐘を打っている間だけは、自分が生きていることを深く実感できた。
 乾いた音が辺りに響き、雨飛沫の中、微かな硝煙の匂いが漂う。

 このまますべてが消えてなくなってしまえばいいのにと、胸の内に密やかにこぼれ落ちた弱音は、炎に捕まり跡形もなく焼き消えた。

32.

 「ようやく、最後のダンスの始まりだァ…」
 舌なめずりをしながら海辺の崖を見下ろすクロノスの背中を、(べに)は嬉しそうに見つめていた。
 サクヤのこととなると、飼い主はこれでもかというほど高揚する。それが殺気みたいにぶわりと辺りに漏れ出す様が、紅はたまらなく好きだった。

 紅という名は、クロノスが付けてくれたものだった。
 初めて名前を貰った時、ぼんやりとしていた自分の輪郭がやっと定まったような気がした。
 紅は昔から気配を気付かれにくい体質だった。孤児としては、それはとても有利に働いた。盗みは大概成功したし、大人に捕まったり目を付けられたりすることもない。他の孤児との衝突もなかった。誰もが、紅の存在を覚えていられなかったからだ。
 紅の孤児としての生活は異常なほど単調だった。まるで実際の世界から透明な膜か何かで隔てられているみたいに、毎日が静かで安定していた。しばらくして、透明な膜があるわけじゃなくて、透けているのは自分自身だと気がついた。
 その時、特に感情が動いたかどうかは定かではない。それでも、なんだか永遠に世界から仲間外れにされているような気がして、つまらないと独りごちたことは記憶に残っている。
そんな退屈から掬い出してくれたのがクロノスだった。
 警戒もせず、特に身を隠すでもなく路地に佇む紅を真っ直ぐに見据えて、ニタリと嗤った彼は、「次にぴったりだな」と話しかけてくれた。クロノスは初めて紅を見つけてくれた人であり、紅を認知し続けることができる唯一の人である。
 「紅ィ、そんなとこからじゃあ見えねえだろ?」
 クロノスが痩躯をよじり、背後の紅に緩く手招きする。
「…せっかくの舞踏会なんだ、お前も見届けてやれ」
 「はい、兄貴!」
 黒光りするような屈折した笑みを浮かべるクロノスを眩しく思いながら、紅はほくほくとと即答した。
 足を踏み出す寸前、僅かな空気の揺れに反応した体がぴたりと止まる。随分とあからさまな気配に、相手はむしろ隠れる気がないのだと悟る。
 「あれれ、(こと)さんじゃないっスかー」
 階段に繋がる廊下を覗き込んで、紅は暗がりに呼びかけた。
 程なくして、薄闇に映える真紅を纏った女が階段を上り切り、紅の前を通る。
 珍しく丈の短いドレスを着ていると思った矢先、裾のほつれが目についた。どこかに引っかかって破けてしまったのだろうかと紅は首を傾げた。
 琴はどこか危機迫った様子でクロノスのいる方へ突き進んだ。紅が彼女の視界にうまく映り込めないのは今に始まったことでもない。先ほどまでの黒く鋭い凄みが幾分か削がれてしまったクロノスの背中を寂しく思いつつ、大人しく待つことを最善と判断した紅は、小雨に湿った床に腰を下ろした。

 「…今、いいところなんだよなア…無粋な真似はするもんじゃねえよ?」
 振り返る素振りも見せないクロノスは、凪いだ声で言った。普段の煮え凝った嗤いを取り払うと、随分と冷たい響きを帯びる。
 何を思ったのか、琴は弾かれたようにクロノスの眺める方向を確認しに行く。白い脚を震わせて、琴は憎悪を湛えた目で男を見下ろした。
 「―…許さない」
 汚いものを見るような目つきに、クロノスの口元が綻ぶ。いつもそうだと紅は思った。
 理解者を得て愛する人に殺されることを切望する一方で、負の感情を向けられることに喜ぶ。どこまでも難解で矛盾している飼い主を、けれど紅は何の陰りもなく愛していた。
 「おおっと、おっかねえ」
 琴の殺気に、横目で視線を投げたクロノスが嘯く。
 「けど、いいのかァ…?俺に構ってる間に、お姫様の舞踏会が終わっちまうぜ?」
 目を三日月の形に歪ませて薄ら笑う男を睨みつけた琴は、唇を噛み締めて階段の方へ駆け出した。
 サクヤのいる場所へ向かうのだろう。
 闇に映える白い脚が大きく開いて床を蹴る様を見て、丈が長いと走りにくいのだと、紅は今さらのように気がついた。

 やれやれ、とクロノスがため息交じりに喉奥で嗤いを転がした。
 「とんだ邪魔が入ったなア、紅?」
 声をかけられた紅は、待ってましたと言わんばかりに立ち上がり飼い主の方へ駆け寄った。
 「でも、なんで琴さんあんなに怒ってたんスか?」
 普段の癖でクロノスの半歩後ろにしゃがんだ紅は、心底わからないと首を傾げた。
 急に来てすぐに帰って行ったから、自分たちが何かしたわけでもなさそうに思えた。けれど、琴はずっと怖い顔をしていて、去っていく間際の顔はもっと険しくなっていた。
 クロノスはくつくつと喉を震わせた。どうやらおかしなことを言ってしまったらしい。
 「…それはそうと、今日は随分と天気が荒れそうだなァ、紅」
 「そうっスねー、雨もさっきより降ってるっぽいし。兄貴、風邪ひかないように気を付けないと」
 ちらりと見やった空は、日が暮れたことも関係してか、ついさっきよりもずっと黒くなっていた。
 クロノスの色だと、紅の口角が持ち上がる。
 「ああ?誰に言ってんだ。俺の体が頑丈なのはお前も知ってるだろ」
 軽口を叩く飼い主は、やはりかなりの上機嫌だ。
 出会った頃と比べて随分と肉を失った痩躯を眺めて、紅は小さく笑う。体が丈夫なのは、きっとクロノスにとっては嬉しくないことなのだと紅は理解していた。
 クロノスは強い。でも、強すぎるから、ずっと死ねずにいる。
 名前を付けてくれた日、クロノスは一つの目的を紅に与えた。
 それは、どんなに強くて完璧な飼い主でも、人に頼らなければ成就できないものだった。サクヤの代わりでも、紅は頼ってもらえたことがただ嬉しかった。
 それでも、大好きな飼い主の本当の願いが叶うように、できる限りの手を尽くした。サクヤと対峙する機会に恵まれた時のために、少しでも体を弱らせておかなければと、紅は随分と前から奮闘してきた。
 努力が功を奏したと思った刹那、けれど彼はクロノスを殺すことを拒んだ。サクヤはどうしてとどめを刺してくれなかったのか、紅にはさっぱりわからなかった。ただ、クロノスの本当の願いが叶わなくなってしまったことがやるせなかった。口元に笑みを浮かべつつも、気落ちしている主の様子を見て、いよいよ役目が回ってきたのだと強く自覚した。
 自分を見つけ続けてくれる大切な人を手にかけることに悲観はない。むしろ、大役を任されたことが誇らしい。
 本降りの空の下、視線の先で二つの人影が対峙している。それを食い入るように眺めるクロノスの瞳の輝きを、紅は目に焼き付けた。

 飼い主の薄い唇から、声にならない感嘆が漏れる。
 その恍惚とした吐息に、紅は高揚した気持ちで破顔した。いよいよだ、と飼い主が酔いしれるように目を細める。
 遠くで乾いた音が響いて、クロノスの全神経をさらう。
 若干前のめりに傾いたその背中に、紅は深々とナイフを突き刺した。
 刃を横向きした凶器は、抵抗もなく肋骨の間に深々と滑り込む。
 クロノスは驚くでもなく、痛がるでもなく、ただ静かに脱力した。顔から頽れるところを紅が抱き止めて背後から抱え込む。肺を貫通したのだろう、クロノスの口からは血と混ざりあった呼気がコポコポとした音をあげている。
 「ごめん、兄貴。ほんとはもっとゆっくりサクヤさんたちを見ててもらいたかったんスけど、この時以外、チャンスがないなって思っちゃって…」
 兄貴、隙がないからなあ、と紅はへらりと笑った。
 「―…上出来だ。さすが…優秀な犬だなァ、紅」
 息継ぎの度に濁った音を立てながら、クロノスは満足そうに目を細めた。
 すっかり色を失った顔に、鮮血の朱がいっそ毒々しいほどに映える。ああ、なんて綺麗な光景だろうと紅は息を漏らした。
 「…俺ね、兄貴には眠るような顔で死んでほしいなってずっと思ってたんスよ。だから、痛覚もなるべく麻痺するようにって。ほんと、頑張ってよかったなあ」
 はにかんだ笑みでのんびりと喋る紅を見上げて、クロノスが薄い唇を歪める。やれやれと、半ば呆れたような表情に、紅は一層幸せそうに笑った。
 「―紅…」
 弱々しく伸ばされる飼い主の手に、紅は自ら頬を擦り寄せた。すっかり石のように冷たくなった細い指の感触に、うっとりと目を細める。
 自分の血に溺れながら、泡のような言葉を残して、クロノスの命は終わった。
 ついさっきまで飼い主だった肉塊の重みを放り投げることもできず、紅はしばらく雨に打たれ続けた。
 「―…相変わらず嘘つきっスね、兄貴は」
 骨の間から慎重にナイフを引き抜きつつ、紅は屈託もなく主の最後の言葉を否定した。
 「兄貴が愛してるのは、昔も今も、サクヤさんだけでしょ?俺は知ってるっスよー」
 ふふ、と青年は優しく微笑み、まだ熱を放出する亡骸の頬をいとおし気に撫でた。
 抱え込んだ肉からは、絶えず温かな液体が溢れ出し、紅の周りを囲うように滲み広がる。

 クロノスはサクヤを愛していた。
 紅にとってそれは正しいことだった。サクヤという一人の少年に乱れ狂ってこその主で、その夢中になっている姿を見ることが、何よりの楽しみだった。
 クロノスは確かに殺されたがっていた。そのために犬を飼い続けた。だけど、本当はずっと、愛した一人の少年に殺してもらえることを待っていたのだ。
 「見て、兄貴。兄貴ってば、最後まで完璧な仕事振りなんだから。マジ尊敬っスよ…」
 紅の見つめる先で、玖珂(くが)は見事にクロノスが焦がれてやまなかったものを手に入れていた。
 相思相愛の模様に、紅は初めて、サクヤのことを少し羨ましいと思った。
 

33.

 微かに漂う硫黄の臭いの中、サクヤは呆然と地面に膝をついた。
 打たれ続けて飽和しきった土が、容赦のない雨粒に叩かれては泥飛沫をあげる。
 「―…なぜ」
 膝元に横たわる男は、喉を裂かれたというのに、妙に安いだ顔で微笑んでいる。投げ出した腕の先に転がる銃に、弾が残っていないはずがなかった。

 玖珂(くが)が引き金に指をかけた瞬間、サクヤの意識は赤く塗りつぶされた。ただ殺すためだけに体が動く。その時だけは、思考をすべて捨て去ることができる。今までもそうやって生き延びてきた。
 男はそれを見透かしたように虚空を撃った。サクヤに掠りもしない方向だった。けれど、そんなことはどうでもいいと、衝動のままに体は駆動し、大した抵抗も見せない相手の喉元を深く抉った。
 玖珂の体が傾いてから、もやの向こうに隠れていた意識がようやく戻り、得体の知れない感情が鳩尾で暴れ出す。
 これは何だろうとサクヤは思った。理解できないものはただ気持ちが悪い。吐き気にも似た胸のつかえと熱も持ち始める目頭を持て余し、少年は体を深く折って慟哭した。
 雷号が、ぬかるみを弾く雨が、風に煽られた波音が、すべてがうるさくて、耳鳴りのする頭を抱え込む。
 きつく目を瞑れば、耳の奥で、男が最後に呟いた言葉がこだまする。

 ――…愛している。

 握り込んだ指の隙間で、絡みついた濡れ髪が軋む。

 ああ、喉が痛いなと、頭の片隅で思った矢先、温かな何かに肩を包まれる。
 よく知る声が「サクヤ」と名前を呼ぶ。まるで気配に気づけなかったことに、ざわりと体の中を警鐘が駆け巡る。それでも、まるで何かから守るように覆い被さる温もりを払いのけることはできなかった。
 「ごめんなさい…、ごめんなさい、何もしてあげることができなかった…!ごめんさない」
 泣いているのだろうか、(こと)の声は震えていた。
 何を謝ることがあるのだろうと、サクヤは小さく首を振る。
 すべてを終わらせることを選んだのは自分だ。選択した結果なら、悔いも恨みもない。
 「…大丈夫ですよ、琴姉さん」
 琴を見上げてそう告げれば、彼女はなぜか余計に顔を歪ませた。
 しがみつくように抱きしめる細い腕の中、サクヤは世界が緩やかに平常に戻っていく感覚がした。
 なりを潜めた業火は、未だ体の深層で燻っている。
 凍えて色をなくした指先を腹に当て、少年は諦念の笑みをひっそりと浮かべた。どうしたって続くしかないのだろう、と。
 心に巣食う衝動が消えない限り。それとも、この凶悪な炎がすべてを焼き尽くし、灰に返してくれるまで。


 少しも弱まる気配のない豪雨の下、サクヤと琴は冷たい体をしばらく寄せ合った。
 足元に転がる死体も、明日には回収され市場に出されるだろう。心の隅に疼痛が走り、けれどその正体は掴めない。
 あれほど気づいて欲しいとうるさく眼前に佇んでいた感情も、すっかり箱の中で眠りについている。

 眼球に雨が溜まるのも厭わず、サクヤは暗闇の空を見上げた。

 このまま幕を引けたならどれほど良かっただろうと、凪いだ頭が、ふと、そんなことを考えた。

蒼月の隷下

中学生の頃に書くことに興味を持ち、15歳で初めて書いた長めの小説のリメイクです。
書き直す構想はずっとありつつも、随分と長い時間がかかってしまいました。年をとったぶんだけ、原型と比べて勢いやテンポは削がれてしまいましたが、その分、一人ひとりの人物を見つめることができるようになったのかなと自分なりの気づきもありました。

蒼月の隷下

大戦後、崩壊した国土は世界に取り残されたまま、人はそれでも生きていく。 置き去りにされた荒廃の中、救われない人たちが紡ぐ「愛」の物語。

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • アクション
  • 青年向け
更新日
登録日
2023-12-23

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