哲学的な告白方法
コンビニで買った冷たい缶コーヒーが沸騰するような夏空の日、僕は入道雲の空の下でエミール・シオランの崩壊概論を読んでいた。
「ねぇ、君って神を信じてる?」
そう言われた時に、外の景色が僕には昼間の太陽のような眩しさを感じた。と、同時に、僕の心は夕闇の前に始まる暗黒さの不気味さを感じさせた。僕は確かに感じたんだ。君の美しさを宿した瞳を。
「あぁ、僕はね、神を信じているだ。だって、そう考えないと神を信じた人たちに申し訳が立たないだろう。いや、それだけではないけど、頭の知識だけの衒学趣味野郎にはうんざりしていてね。あいつらは書物を背負っているロバに過ぎないだろう。人間の心を大切にしたいんだ、僕は」
透き通った声で寒男は言った。寒男の声はなぜか泣きそうな声でもあった。神の質問をしたユミとは会社の同僚であって、会社のサークル活動でよく哲学の話題で盛り上がっていた。ユミは、寒男の考えを知ると微笑みながら言った。
「でもさ、変に宗教を盲信して理性が働いていない大人には困り者よね。私は理性を限界まで押し進めてさ、ニーチェのキリスト教圏が腐敗しそれを告発した勇気と知性、それに全てを疑う力を崇拝したいわけ。まっ、デカルトじゃないけどさ。カントやウィトゲンシュタインも理解してさ、数学の素養もある人間と会話したいな。私、バカは嫌いだから」
寒男はギクっとした目つきで、あたりを見回しながらユミに言った。その様子はまるで自分の無知さを気付かれた小学校の先生のようだった。
「あなたは、大卒でこの会社に入ったよね?皆が皆、数学の素養があって、カントも他の哲学者も理解している人なんて、滅多にいないよ? 大学の教授は、ギリシア語もできてドイツ語、英語が出来る人もいるかもしれないけど、僕の読書量だけの判断で考えるとさ、思考が偏っているというか、哲学書紹介者であって、今の時代に本物の哲学者っていないと思うんだよね。どこに君の望む人物がいるのかな? 君の考えを全人類に適用すると君と会話できる人はこの世界にいないよ?」
「ん? いるでしょ目の前に……。寒男君だけだよ、私の話を聞いてくれて理解してくれるの」
「いやー僕は高卒でバカだよ? 理性のりの字もない男だからな。この会社に入ったのは技術職だし、ユミさんの総合職とは天と地の差だよ」
「高卒でそこまで勉強して凄いよ。まるで令和のエリックホッファーみたいだよ?」
「エリックホッファーは学校行ってないでしょ。僕は高校までは出てるから」
ユミは照れ隠しをしながら笑った。
「そうだった。エリックホッファーは正規の教育受けてないのよね」
「ついでにユミさんに言っとくけど、僕は失明もしてないよ?」
「でも、寒男君の心は失明したでしょ?いつも私だけ見つめて、そんなに私の事好き?」
「えっ、そ、そ、それは誤解だよ」
顔を赤くした寒男はユミに言った。
「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」
「ウィトゲンシュタインのつもり? 寒男くんは相手に好意を持たれたらそうやって逃げるの? ソクラテスみたいに相手が心から望む言葉を投げかけないの?」
「僕はソクラテスみたいになれないから」
ユミが不敵な笑みを浮かべながら言った。
「寒男くんの事、偶然駅で見かけたけど、何分も佇んでいるかと思ったら、駅で人に絡んでいるの見たよ? あれはなんなの? まるでソクラテスじゃない。しかも前に寒男くんはダイモーンの声が聞こえるって言ってたよね?」
「そ、そ、それは。確かに僕には声が聞こえるんだ。下手に公にすると精神病棟に入れられるから言わないけど」
「今、その声はなんて言っているの? 寒男くん」
「告白してはならないって言っているよ。ダイモーンはすべてを否定するからね」
またしても、ユミが不敵な笑みを浮かべて言った。
「寒男くんは、最終的には死刑を望むのね?」
ユミがそう言うと、手元にあったユミが飲みかけのコーヒーを寒男に無理矢理飲ませた。
「グボボボボボ」と寒男の口からコーヒーが溢れて気管に入ったコーヒーで寒男は窒息死してしまった。
後日、寒男の葬式でユミは呟いた。
「寒男くん、本当に語り得ぬものについては沈黙しなければならないのね」
哲学的な告白方法