思考障害の陰鬱なる宿命
暗鬱なる宿命
僕は一度、死んだ。夕闇が迫った山の中で首を吊った。その時は、絶望なんてなかった。あったのは無気力とこの世の切なさだけ。あの時から今を生きているが、この瞬間までも、僕は死んでいる。きっと全力で生きすぎたからだと思う。
僕は哲学が好きだった。そう、好きだったのだ。過去において。今は興味があるが、もう、あの頃の好奇心、思春期に訪れる知的好奇心を埋めたい願望はもうなくなった。人生は二度生まれるらしいが、僕もその言葉に深い共感を抱く。あの激情があった頃は生きるために哲学をしていたのだ。しかし、今はこの世の波に流されて、ただ生きている。新しい刺激も求めずに。ただ惰性で。
人はなんのために生きるのだろうか。自我を持つ知的が成熟な個体は誰しも考える宿命である。なんのために? 答えは自分で探す? 自分探しの旅? 人はなんのために生きるのか? それは他者のため、そして神を敬う為である。私はこの年齢になってそう答えを出した。狩猟採集から農耕文明が、次に工業文明があり、今の人類は生を繋いできた。人類が集団になって社会を組織してきた結果が、神を生み出した。神は社会が要請した結果の産物なのか? いや、神はただそこに「ある」のだ。私たちは、神を見つけ出して、まだ日が浅い生命体の人類。天才と言われる人物は、神は「ある」の存在に召命体験を見出し、そして活動した。僕も天才になりたかった。天才として生き、そして死ぬ。そんな空想をした。そして、僕は天才には勿論なれなかった。廃人になっていった。自我を檻の中に閉じ込め、本来は自由闊達に生きる事を天命としている悟った人は過去の書物で見た。自由という言葉はこんなに重い言葉としてあるのに、僕はその重さに負けた。重力の秘密を隠し通してしまった。悟ったら秘密主義はいけない。全てを明からさまにするべきなのだ。悟っている人間には分かるだろう。その経過を分かる僕は、その点を自負して言える。
人間が仕事をできる時間は短い。ひらめきと継続する力があってこそ初めて仕事を残せる。
思考障害の陰鬱なる宿命