腐華
1
「お財布、ハンカチ、ティッシュ・・・その他諸々。全部入ってる!?あと薬も!」
「わかってるよお母さん。ちゃんと入ってる」
心配症の母。わたしが出かける前には必ず持ち物を確認する。
それはもう慣れたし心配してくれることには変わりはないので別に気にならなかった。
けれど自分は1人暮らしを始める身。そろそろ母離れ、そして、お母さんも娘離れしなければいけない。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい。気を付けてね」
玄関を出る。
「ああ、また言えなかったなぁ・・・」
お母さん離れするから、お母さんも娘離れして、と言いたかった。
1人暮らしが決まってから言いたかった言葉。
それでもわたしはまだ言えないでいる。
「・・・お母さんにそんな事言ったら泣かれちゃうかな」
わたしが病気を持ってからお母さんは異常に過保護になり始めた。別に今まで放ったらかしにされた訳でもないし、かと言ってそこまで過保護でもない、普通の家族だった。
それなのにわたしが病気を持ち初めてお母さんは変わってしまった。
高校にも休むと言い出したりほんの少しの体調不良でも病院に行ったり、多少イライラしている時に言動がキツくなると泣き出したり・・・と、お母さんの豹変具合の方が異常だった。
その生活にも最初は慣れない息苦しさを感じたが数年経つと人間は慣れるものだった。
わたしは通っていた高校に通い始めた。幸い友達は多い方で、病院に入院した時も毎日来てくれた子だっていた。休みの時にも手紙を書いてくれる子もいたし、友達は授業中のくせにスマートフォンでLINEで相談やらした子だっていたからさほど不安でもなかった。案の定高校に通い始めるとたくさんの友達が待っててくれた。
体育の時間だって普通にみんなと混じってできた。あまり無理はしないが見学ばかり行うと変な目で見られることも想像できたので一緒にバスケだってバレーだってなんだってした。
わたしの病気のことを知っているのはクラス、あるいは学年くらいだろう。
けれど、全員が全員わたしの病気を理解してくれるわけでもなし、理解しなくてもいいと思っていた。
ただクラスの人達にはきちんと説明をしたかった。高校はクラスが変わることなく、仲のいい友達も増えたので理解してくれると思ったからだ。そして説明をした。わたしがどういう理由でどんな病気になったか・・・。ありとあらゆること全部。最初は驚いた人もいたし、なかなか信じてくれる人も多くはなかった。けれど時が経つと意外にすんなり受け入れられるようだった。諦めた?とでも言うのだろうか。細かいところまで理解できなくても大雑把なところを把握してくれたようで、学校に通い始めると普通に接してくれた。わたしだって普通に生活していれば何の問題もない。だから逆に遠慮されるのも困る、というのもクラス全員に言った。元々遠慮するクラスでもないと思ったが高校生。案外大人なんだなと思った。そんな風にわたしは恵まれてきた。高校3年間はとても楽しかった。中学のことを思い出したら吐き気がする。
「馬鹿がいるクラス、嫌い」
わたしの病気の原因。
あんな中学生時代思い出したくない。
わたしはいつの間にか考え事をしてたようだ。目の前にはお向かいの坂田さんがいた。
「う、うわ!すいません・・・」
坂田さんは一言、「いえ、大丈夫です」と言って家に入ってしまった。
「わたし、ずっと家の前で考え事してたの・・・!?」
少しぼーっとしすぎだ。わたしは急いで駅に向かおうと思った。すると、前からトラックが走り出してきた。
トラックは引越し業者だったようで、ちょうど坂田さんの家の前で止まった。引越し業者の人は坂田さんの家のインターホンを押した。中からは坂田さん・・・いや、さっき会った坂田比呂さんが出てきた。坂田さんは何やら業者の人にお願いをしているようだった。そして業者の人が家に入っていく。わたしはそれを遠目で見ていた。すると何やら視線に気付いたらしい坂田さんがわたしの方へと近付いて来た。
「何ですか?」
「あ・・・えと、引っ越すんですか?」
と聞くと、坂田さんはこくりと頷いた。
「寂しくなりますね・・・と言ってもわたしも引っ越すんですけどね!どこに引っ越すんですか?」
あ、これはプライバシーの侵害だったのかな?ストーカーと思われたら嫌だな、なんてことを思っていると、坂田さんは普通に答えてくれた。
「新しくできたマンションに行こうと思いまして、結構安い値段だし、近くにはなんでもあるのでそこに引っ越すことにしたんです」
新しくできたマンション?・・・気のせいだよね。マンションなんて今のご時世いつでも建てられるし。
「そうですか・・・。わたしもマンションに引っ越すんですよ!」
「へぇ、そうなんですか。近所付きあいも大変なんで同じだったら嬉しいですよね」
「ですねー」
などと平和に話していると業者の人が段ボールをトラックに積み込んだらしく、坂田さんに話しかけてきた。どうやらもう引っ越すようだ。
「それじゃあ俺も準備あるんで、失礼します」
「あ、すいません引き止めちゃって!じゃあさようなら!」
お互いに礼をし、違う方向に歩き出す。わたしは少し寂しさを感じた。坂田さん・・・坂田家はわたしが病気でパニックなったり、お母さんがノイローゼ気味になっても一生懸命支えてくれた人達だった。その比呂さんが引っ越すのは寂しかった。自分も引っ越すのだが、実家に帰ったときお向かいの坂田比呂さんがいない、という時にどうしようもない気持ちになるのは嫌だな、と思った。
あの時一緒のマンションだといいですね、の言葉、叶うといいな。
「何言ってんだろ。わたしも」
わたしは今はやるべきことがあると思い駅に向かった。
2
中学校に行くのが辛かった。
辛い、何回言っても足りないくらい辛かった。
辛い、苦しい、悲しい、悔しい、どうしようもない負の感情がこみ上げる。
中学校のことを思い出すと心臓の鼓動が速くなる。
緊張しているのだ。明日何をされるのか、不安なのだ。
毎日学校が終わるとベッドにうずくまった。こうしている間にも時間は過ぎ、夜になってしまう。
それでも1人になりたかった。
他に誰が信用できるのだ。
お母さんに言おうとした。言えると思えばいつでも言えるのに何故か言えなかった。
教師にチクったとバレればそのことでまた何か言われるだろう。
怖いんじゃない、悔しいのだ。
怒られても自分が悪いとは思わない、馬鹿。
わたしはそんな人達が嫌いだった。それでも上手に付き合ってきたつもりだった。
それでも馬鹿には通じないんだな、言葉も、全部。
弁解なんてしようとも思わない、ただ事実を言いたいだけなのに全部無視をする。
聞いたとしてもわたしが悪い。
いや、とにかくわたしを悪くしないと気が済まないのだろう。
馬鹿馬鹿しい。こんなことしたって後で必ずバチが当たる。
「みんな、消えちゃえばいいのに」
口癖はそんな言葉だった。
3
「隣に引っ越してきた津田と申します。これ、つまらない物ですが・・・」
「ああ、はいどうも。あたしは宮川。ここら辺のことでわからないことがあったら言ってね」
「ありがとうございます!よろしくお願いします!」
わたしは隣の宮川さんに挨拶をしに行った。
このマンションは新しくできたばかりで、若い人達が多かった。わたしと同い年くらいの人達がたくさんいた。あの後駅でこのマンションの下見に行った。母も行きたがっていたが生憎仕事があるためわたし1人で行ったのだ。日当たりもいいしコンビニもスーパーも本屋もビデオ屋さんも近所には様々な店があったし、家賃も安かったので即決してしまった。母には怒られたがわたしは後悔はしていない。その後わたしは早く住みたくて急ピッチで引越し業者に依頼をし、荷物をまとめ実家を出ることになった。心配性で過保護な母は週1回のペースで電話をしろと何度もしつこく責まってきた。わたしは家にそんな遠くない、と言いなんとか電話は免れた。それでも母は心配して家に来るかもしれないが。それでも1人で過ごせる時間が増えるのは確かだ。わたしは内心大喜びだ。病気のこともきっかけがなければ再発することはない。まさか再発することはないだろう・・・。
隣の宮川さんは見た目25歳くらいだろうか。とても綺麗な顔立ちをしていた。金髪に染めているがギャルっぽく見えず、それすらも味方につける人だった。結構性格はスッキリしてそうだから、これから上手くやっていけるかもしれない、と思っていた。
「さて、次のお隣さんにも・・・」
インターホンを鳴らす。少し待った時、扉が開いた。それはよく知っている顔だった。
「あ・・・坂田、比呂さん?」
「どうも、偶然・・・です、ね」
驚いた。まさか隣が坂田さんだとは、なんたる不意打ち。
運命などと言う大きい言葉を頭に浮かべるも、そんな馬鹿なこと言ってられなかった。
「えと、これつまらない物ですが受け取ってください。えと、じゃあこれからよろしくお願いします・・・」
「あ、ご丁寧にありがとうございます。こちらこそ、改めてよろしく」
扉が閉まる。
これは・・・すごいキセキじゃないのか?
坂田さんは結構世話焼きで最後まで責任をもってくれる人だった。
わたしが病気になり、精神が不安定の時でも坂田さんはいつもどおり接してくれた。
余所余所しい態度を母ですらとったが、坂田さんは多少の気遣いはあるものの普通に接してくれた。
今もそうだ。いつもの坂田さんだ。
「よかった・・・」
わたしは自分の部屋に戻る。思わず安心してへたり込んでしまった。
隣はいい人に見える宮川さんに坂田さん。
「これから頑張れそう」
わたしはまた改めて気を引き締める思いになったのだ。
そして、まだ残っている段ボールの整理に取り掛かった。
4
ああ、お母さん。わたしあのスーパーに行きたくない。
わがまま言ってごめんなさい。でもいるの。
大吾はいつもあのスーパーの近くで遊んでいるんだよ。
お母さん、悲しそうな顔しないで。
本当に、本当に違うんだよ。
わたし、お母さんのこと大好きだよ?
5
「・・・げ、寝過ごした」
昨日遅くまで段ボール整理に取り掛かったからだろう、気付かないうちに眠っていたらしい。現在の時刻は昼11時。完璧に寝坊してしまった。
「勿体無い・・・。日曜日が消えちゃったよ」
わたしは溜息をつきながら床からむくりと起きた。すると体は食べ物を求める合図をする。お腹が減ったわたしは近くのコンビニで済ますことにし、身支度を整え盗まれたら困るものだけ持って部屋を出た。
最近のわたしはどうしたのだろう。
坂田運でもあるんじゃないのか。
「あれ、津田さん」
目の前にはやはりと言うべきだろうか、坂田さんがいた。今日は日曜日でお昼時。コンビニにいてもおかしくはない。
「段ボールとか家に一杯あって帰りたくないですよね」
「ふふ。わかります」
たわいもない話。坂田さんは低音の声でゆっくりしゃべる。歳はわたしより5つ上と聞いたことがある。ということは25歳だ。しかも坂田さんは独身。結構外見も素敵で、無表情なので無愛想に見えるかもしれないが本当は優しいことをわたしは知っている。
わたしはお弁当とお茶、パンなどを適当に買い、コンビニを出た。ついでに坂田さんと一緒に帰ることにした。
よく坂田さんと交際をしているのか、と聞かれる。
違う。そんなんじゃない。
わたしの病気のことがなければ坂田さんとは喋ることもなかったかもしれない。
そのくらいわたし達は縁がなかった。
皮肉にも中学でいじめられなければ坂田さんとこんなふうに喋ることもなかったのだ。
複雑な気持ちだが、別に今更どうこう言う必要はない。
わたしは今、幸せなのだから。
コンビニからマンションまで徒歩3分。
マンションについたわたし達はエレベーターに乗りで8階のボタンを押した。
とくに話すこともないので黙っていると、5階でエレベーターは停止した。
「誰か乗るんでしょうね」
坂田さんはそうポツリと呟いた。5階から?不自然だ。わたし達は上に向かう。普通なら下に向かうのに。
エレベーターのドアが開く。
その人物は、わたしの病気の‘‘原因’’だった。
「あ・・・」
「!」
わたしは後ろにたじろいでしまった。
なんで、いるの?
坂田さんは「降りましょう」と言ったが、足がすくんで動かない。緊張して全身が怖ばって震える。坂田さんが支えてくれているが、その人物はわたし達の方を見て笑う。
やっぱりな、お前ここに引っ越したんだってな?
俺のこと覚えてるよな?勝俣大吾。覚えてないわけねえよなぁ?津田杏(きょう)さんよ
瞬間、目の前が真っ暗になった。聞こえるのは坂田さんと大吾の喧嘩のような言い争いだった。
「お前・・・なに?杏のストーカーまだやってたの?」
「君に言われたくないな。・・・何故津田さんが住んでるとわかったのか」
「だ~か~ら~。偶然だよ偶然!最近引っ越してきた奴らなんてすぐわかるだろ」
「まだ執着しているのか?」
「もう治ってると思ったんだよ。あいつの病気。けどまだこんなザマなのか」
「君の・・・せいだろう!」
坂田さん、怒らないで。
悪いのはわたしなの。
ごめんなさい。迷惑かけてごめんなさい。
伝えたいのに、伝えられない。
また、声がでなくなるの・・・?
「坂田さんよぉ、お前杏とまだヤってないってマジ!?結構付き合い長いくせしてウケるわ!!ははははは!!俺ならソッコーヤってるぜ。こいつ顔悪くねえのに酷いよな。体触るだけでもアウトなんだぜ」
わたしは震える坂田さんの服の袖を残りの力を出して掴んだ。坂田さんがこっちを見た。
「・・・大丈夫ですよ。俺は大人なんで」
わたしに聞こえるくらいの優しい声で言い聞かせた。
ああ、さすがだ。あの時もこうだった。
だからわたし、いつもあなたに頼っちゃうんですよ。
「すまないが、今日は帰ってくれないか。津田さんもこの通りだ」
大吾の舌打ちする音が聞こえる。相変わらず変わってない舌打ちの音。
それを聞くだけでもわたしは泣きたくなる。
「わかったよ。じゃあな。・・・杏」
何故わたしの名前を呼ぶの?
もう嫌。来ないで。話したくない、見たくもない。
エレベーターは止まった。大吾がエレベーターから出るのがわかる。
「もう大丈夫ですよ、津田さん。・・・津田さんの荷物漁るのも悪いんでとりあえず俺の部屋まで運びますね。・・・お姫様抱っこになりそうだな・・・。もう中学生じゃないんだから・・・。いやでも・・・。しょうがない。すいません津田さん」
抱き方なんて適当でいいのに。
でも大吾はいないのか。そうか。よかった・・・。
そして、わたしはいつの間にか眠りに入ったようだ。
この抱きかかえる腕の感触は、昔と何一つ変わらない、あたたかいぬくもりだった。
腐華
この話はもう少し続けたいです。