たそがれどきの紺青色は
下校時間ぎりぎりまで図書室に残っていたのは僕だけだったみたいだ。慌てて勉強道具を片付けて昇降口へ向かう。途中、廊下で萩谷と一緒になった。写真部は月に数回しか決まった活動がないと言っていたけれど、こんな時間まで作業があったのだろうか。
「年末の掃除始まる前に私物持ち帰っとくか、って思って」
ほら、と手提げを掲げてみせる。みっちりと入っているのは恐らく、アルバムと写真関連の雑誌だろう。
「小鷹は勉強? すごいな、いつも」
「全然。皆が家でやってることを学校でやってるだけだよ」
どうして家でやらないのか、までは萩谷は聞いてこない。意識的にというよりかは、勉強という単語に惹かれないからだろう。僕としてはありがたいけれど。
帰る方角は正反対だったので、校門からは一人だ。アスファルトの歩道は所々が黒く光っている。凍っているんだ。雪は降っていないけれど、明日の朝もそれなりに冷え込むのだろう。マフラーをよりきつく巻いて、転ばないよう慎重に歩く。革靴じゃなくてブーツにすれば良かった。気を抜くと、かかとがずるっと前に滑る。一歩一歩、踏みしめるように歩くので、いつもより帰るのは時間がかかりそうだ。
「……なんだろう」
普段通りに歩いていたら―もしくは、自転車に乗っていたら聞こえなかっただろう音が聞こえた。誰かが歌っている、細い声だ。声は前から聞こえてくる。
「…………こごえた砂利に、湯気をはき…………」
たそがれどきのぼんやりした明るさではよく見えないものの、一人の影がぽつぽつと、水滴みたいな足取りで歩いているようだった。僕と同じくらいの背格好で、学校でよく見かけるタイプのリュックサックを背負っている。
知っている人だったら声をかけようかどうしようか、と思っているうちに、その人に追いついてしまった。ゆっくり歩いているとはいえ、立ち止まりながら僕の三倍くらいゆっくりゆっくり歩いている人にはそりゃあ追いついてしまうだろう。
追い越そうとしたけれど、気配を察してかその人はさっと振り向いた。元から色素が薄そうな頬が寒さで赤くなっている。髪とひとみは、夜空に溶けていきそうなくらい真っ黒だ。まばたきと共に紺色の火花が散った、そんな錯覚をする。
名前が思い出せない。けれど校内で顔を見たことがあるのは確かだ。
「も、もしかして、聞こえてた?」
記憶を探っている僕に、彼女は震える声で尋ねる。頷くと顔と耳をより赤くして、蚊の鳴くような声で「忘れてくれる……?」と両手をぱたぱたと動かしながら頼んできた。
「その、星があんまり綺麗でね、歌いたくなっちゃって、皆から教えてもらったのを思い出しちゃって」
「忘れる努力はしてみるよ。……だけど本当に綺麗だね、空が」
彼女のことばに釣られて僕も空を見上げた。日が落ちてまだ早いのに、空には一等星が輝いていた。おおぐま座、こぐま座、それからあれは、
「少し上の方にあるのがアルデバラン。それから、星が三つ並んでるの、見える?」
「ええと、赤いのと?」
僕はあまり視力が良くない。眉を寄せて見ていると、彼女が体当たりをするように身を寄せてきた。シンプルな黒い手袋の人差し指が、僕の視線を導く。……なるほど、それっぽく光っているのが見える。上の方に赤い星が、下には青い星がと言うと、僕から離れた彼女は嬉しそうに大きく頷いた。
「星が好きなんだね。天文部?」
「ううん、部活には入ってないの。独学で、あとは……知り合いに教えてもらってる」
彼女も僕のジャケットについている校章に気付いたらしい。もしかして、と名前を呟かれたものだから僕は驚いてしまった。そんなに目立つことをした覚えはないのに。
「成績優秀者で、テストのたびに名前が貼り出されてるじゃない。有名人だよ」
口ぶりからして同学年なのは間違いなさそうだ。相変わらず名前を思い出せずに視線を泳がせる僕を見、彼女はいたずらっぽく笑う。
「そんな成績優秀な小鷹くんに、突然ですがクイズです。……クイズというか、うーん、アンケートかなぁ」
「な、何?」
「小鷹くんは、雪のひとかけが玉髄や水晶をけずって出来てるって聞いたら―嘘だって思う?」
「……嘘では、ないんじゃない、かな」
いきなりの質問に戸惑いながら、僕はそう答える。なぞなぞなのか心理テストなのか、暗号のたぐいなのか。
だけど揶揄っているというには彼女のひとみは真剣な色をしていて、僕は少したじろいだ。
きらきらと。ひとみの中で、あおい炎が燃えている。
なぜだか分からないなりに。ここが分岐点だと、直感的に思う。
「―……科学的な説明に基づくなら嘘になるんだろうね。雪や雨と宝石は一般的には別物。だけど、君が求めている側面……物事をどの側面から捉えようとしているか、それが僕にはまだ分かっていないから、嘘じゃないんだとも思う。それに」
彼女は笑ったまま僕を見ている。続けて良いんだな、と了解して、
「そんな世界があっても面白いよね。街なかのイルミネーションが霞むくらい綺麗な景色が、雪が降るたびに見られるってことだから」
「……わたしもそう思うよ。ていうか、そういう場所があるのを知ってるの」
「……え?」
冗談なのか事実なのか、咄嗟に判断できないことを呟いて、彼女は僕から一、二歩離れた。
「名前! わたしの名前が分かったら教えたげるよ。わたしが知ってる世界のこと!」
僕の前を、今度はスキップしそうな足取りで進んでいく。僕はこのまま別れるのが、ひどく惜しく感じて―自分でも意外なことに、彼女に声を投げた。
「今じゃ駄目かい? きみの世界を、今知りたい」
*****
と、まぁ、僕が縹と友達になったお話はこれでおしまいだ。
けれど。僕たちの物語は、まだまだ、ここから始まっていく。
たそがれどきの紺青色は