弟が書いた手紙を盗み読んだら、とんでもないことが書いてあった
洋一がその奇妙な出来事を経験したのは、ある雨の日のことだった。
学校帰りに道を歩きながら、家のキーをもてあそんでいたのだが、不意にヒモが切れて、キーはあっという間に洋一の手から落ちたのだ。
だがその下はコンクリートでも石畳でもなく、なんと下水道の入口が口を開いており、鉄でできたフタが置いてあるだけだった。
金網のような形のフタだからスキマがたくさんあり、小さなキーなど簡単に通り抜けることができる。
本当の話、キーが下水へと落ちていくのを洋一は見送ることしかできなかった。
雨のせいで流量が増え、水がごうごうと流れている。
その中へ落ち、キーは一瞬で見えなくなったのだ。
下水へ下りてキーを探すことなど問題外だった。
深く水かさがあり、洋一の小さな体など一瞬で押し流してしまうほど流れも強い。
キーはもう何百メートルも流されているだろう。
それに第一、洋一の力では鉄のフタを持ち上げることだってできそうにない。
大きなため息をつき、洋一はとぼとぼと歩き始めるしかなかった。
居間のタンスの引き出しの中に予備のキーがあることは知っていた。
だからキーをなくしたといって、母親から強く叱られることはない。
でも今日は母親が留守だから、洋一は家の中に入ることができないのだ。
この雨の中、姉が学校から帰ってくるのを1時間も待たなくてはならない。
キーをなくしたというニュースを最初に打ち明けるべき相手が姉だということで、洋一はさらに気が重くなった。
姉とは少し年が離れ、優しくなくはないが、なんでもかんでもカッチリこなす性格の人で、洋一の話を聞いてあきれて、鼻を鳴らすに違いない。
それでも洋一は、家に向かって歩き続けなくてはならなかった。
こんな日には、どこにも行くところがない。
玄関の軒下で1時間、雨の音を聞きながらぼんやりとすごすことを覚悟して、洋一は家の前まで帰ってきたが、そこではちょっとした驚きが待っていた。
玄関のドアノブには小さな品物がヒモで引っかけられ、ぶら下がっていたのだ。
思わず駆け寄り、手にとって、洋一はアッと小さな声を上げた。
それはなんと、ついさっき下水に落としてしまったはずのキーだったのだ。
信じられないような気持ちで眺め、手の中で何度もひっくり返した。
水中から引き上げられたものであることは間違いなく、全体がしっとりとぬれ、まだしずくまでたれている。
誰が届けてくれたのだろうと洋一はキョロキョロしたが、何の姿も目に入らない。
しとしと降る雨の中、植木や花壇が並ぶいつもの庭の風景が広がるばかりだったのだ。
でもとにかく、洋一はスムーズに家の中に入ることができた。
フンと鳴る姉の鼻の音を聞くことも、ぶうぶう言われながら予備キーを母に出してもらうこともなかったわけだ。
自分の部屋にカバンを置いてから台所へ行き、戸棚の中にあったビスケットをかたわらに漫画雑誌を机の上に広げたが、洋一の目は、コマもセリフも一つも追うことができなかった。
ぐるりとカーブを描いて飛ぶツバメのようにして、洋一の思いは、すぐに同じ場所へと戻ってきた。
「いったい誰があのキーを届けてくれたのだろう」
どこのどういう人物なら下水の中でキーを見つけ出し、持ち主を探し出し、まっすぐ帰宅した洋一よりも先にドアノブにかけておくことができるのか、さっぱり見当がつかなかったのだ。
考えれば考えるほど、洋一の頭は混乱するばかりだった。
しばらくの間、頭を悩ませ続けたが、あれがどういう意味を持つ行為であれ、親切の一種であるのは間違いないだろうという結論に達した。
ならばお礼を言わなくてはならない。
でも、どうやって?
どこにいる誰ともわからない人に対して、どうすれば感謝を伝えることができるだろう。
いろいろ探して、母親が使っている香水の小ビンがちょうどいいだろうと思えた。
しかも、うまい具合に中身を使いきったところだったので、簡単にもらい受けることができた。
この中に手紙を入れ、感謝状とすることにしたのだ。
『キーを届けてくれて本当にありがとう。
感謝しています。
こんなことができるなんて、あなたは下水の神様に違いないと思います。
僕がお礼にできることがあれば、いつでも言ってください。
かしこ』
この手紙が下水へ『投函』されたのは、翌朝のこと。
雨はやんで水かさは減っていたが、下水の流れはやはり速く、ビンはさっと押し流され、どこかへ見えなくなってしまった。
これで一件落着と思えたが、『下水の神様』から返信が届いた時、洋一がどれほど驚いたか。
学校を終え、誰もいない家に帰ってきた玄関のドアノブに、小さな紙切れがヒモで結びつけられていたのだ。
『ご丁寧な手紙をありがとう。
洋一君には何か悩みや困りごとはありませんか。
何でも相談に乗ります。
下水の神』
洋一の表情はパアッと輝き、微笑みが顔いっぱいに広がった。
数日後、洋一は再び下水に手紙を投函した。
『実は困ったことがあるのです。先日、消しゴムがなくて、お姉ちゃんの机からちょっと借りて使ったら、普通に使っただけなのに、消しゴムが勝手に2つに裂けて壊れてしまいました。
消しゴムを借りたことは、お姉ちゃんはまだ気づいていないようです。
でも僕が「ごめんなさい」を言ったら、きっと怒るに違いありません。
黙っていてもいいでしょうか』
すると二日もしないうちに、また返事があった。
以前と同じように、玄関のドアノブにぶら下げてあったのだ。
『優しいお姉さんだから、きっと黙っていてもいいと思いますよ。もしも気持ちが済まないのなら言ってもいいけれど、お姉さんはきっと怒らないでしょう。
下水の神』
奇妙な文通はさらに続いた。
『実はもう一つ悩みがあります。お手紙を書いてもいいでしょうか?
洋一』
返信があり、
『もちろんです。どんなことでもおっしゃい』
『実はお姉ちゃんのことで困っています。
お姉ちゃんは本当は意地悪で、あんなにおとなしい顔をしているのに、いつもわざと僕のそばに来ておならをします。
お尻を僕の顔のそばに持ってきて、プップと臭いです。
僕が怒っても、「出もの腫れもの、ところ嫌わず」とケロリとしています。
こらしめてやってください』
ところが、これに対する返信はなかなかなかった。
下水の神様はどうしたのだろうと洋一は楽しみにしていたのだが、ある日の午後、洋一はすでに帰宅して自分の部屋にいたが、少し遅れて中学から帰宅するなり、ドタドタと聞いたこともないほど大きな足音を立てて姉が階段を登ってきたのだ。
「おやお姉ちゃん」
ガラリとドアを開けて入ってきた姉を、洋一は迎えた。
「洋一、私がいつあんたの鼻先で屁をこいた?」
『屁』などという言葉は絶対に使わないお嬢様学校に通っているのだが、今日の姉の頭には2本の角が生えているかのようだ。
「消しゴム借りたよ」
「知っている!」
「あの日はキーを貸してくれて、ありがとうね。自分のキーをわざわざ水で濡らして、僕に先回りして走って家に帰ってきて、ドアノブにかけた。きっと、たまたま僕のすぐ背後を歩いていたんだね」
ここで姉の表情が変化した。少し不思議そうな顔をしたのだ。
「なぜ知っている?」
「そのあと、キーを一つ作ったんだね」
「なぜ知っている?」
「居間のタンスに入っていた予備のキー、しばらく姿がなかった。でも一昨日見たら、また入っていた。お店へ行って、コピーしたんでしょ?」
「あんたって、変なところに気が回るのね」
「僕の部屋のゴミ箱、あさるのは面白かった?」
今度こそ姉は、蹴飛ばされた猫のような顔をした。
「なぜ知っている?」
「下水の神様に僕がどういう内容の手紙を書いたか、知る方法はそれしかないもん」
「そうよ、あんたの書き損じを見たの。下手くそな字で、読みにくいったらありゃしない。もっと字を練習しなさい」
「へへんだ」
「覚えてなさい。いつか仕返ししてやるからね」
「お姉ちゃんのほうが、僕よりも先に結婚するよ。結婚式でどんなスピーチをしてやろうかな」
何か気の利いたことを言い返してやろうと姉は口を開きかけたが、言葉は何も出なかった。
このとき玄関のドアが開き、人の気配があったのだ。
喧嘩は途中にして、洋一と姉は駆けていった。
玄関には母親がいた。パート仕事を終えて帰ってきたところなのだろう。
だが母親はおかしな顔をしている。
その手の中に何かをつまんでいるのだが、
「こんなものが、どうしてドアノブにかけてあるの? 玄関のキーよ」
次いで母親は鼻をひくつかせ、
「まさかこれ下水にでも落としたの? 変な匂いがついているわよ」
洋一と姉は、互いに顔を見合わせるしかなかった…。
弟が書いた手紙を盗み読んだら、とんでもないことが書いてあった