帰巣本能
学校帰りに歩きながら、家のキーをもてあそんでいたら、不意にヒモが切れて、キーはあっという間に僕の手から落ちてしまった。
しかもその下には下水道が口を開いて、鉄でできたフタが置いてあるだけなのだ。
金網のような形のフタだからスキマがたくさんあり、小さなキーなど簡単に通り抜けてしまう。
本当の話、キーが下水へと落ちるのを僕は見送ることしかできなかった。
水の多い流れで、キーは一瞬で見えなくなった。一瞬で何百メートルも流されてしまっただろう。
大きなため息をつき、僕はとぼとぼと歩き始めるしかなかった。
居間のタンスの引き出しの中に予備キーがあることは知っていた。
だからキーをなくしたといって、母から強く叱られることはないだろう。
でも今日は母が留守だから、僕は家の中に入ることができない。
姉が学校から帰ってくるのを1時間も待たなくてはならない。
キーをなくしたというニュースを最初に打ち明ける相手が姉だということで、僕はさらに気が重かった。
姉はあきれて、鼻を鳴らすに違いない。
そうやって僕は家の前まで帰ってきたが、そこではちょっとした驚きが待っていた。
玄関のドアノブには小さな品物がヒモで引っかけられ、ぶら下がっていたのだ。
思わず駆け寄り、手にとって、僕はアッと小さな声を上げた。
それはなんと、ついさっき下水に落としたはずのキーだったのだ。
信じられないような気持ちで眺め、手の中で何度もひっくり返した。
全体がしっとりと濡れ、まだしずくまでたれている。
誰が届けてくれたのだろうと僕はキョロキョロしたが、何の姿も目に入らない。
植木や花壇が並ぶいつもの庭の風景が広がるばかりだった。
でもとにかく、僕はスムーズに家の中に入ることができた。
フンと鳴る姉の鼻の音を聞くことも、ぶうぶう言われながら予備キーを母に出してもらう必要もなかったわけだ。
自分の部屋にカバンを置き、漫画雑誌を机の上に広げたが、僕の目はコマもセリフも一つも追うことができなかった。
ぐるりとカーブを描いて飛ぶツバメのようにして、僕の思いはすぐに同じ場所へと戻ってきた。
「いったい誰があのキーを届けてくれたのだろう」
どこの誰なら下水の中からキーを拾い上げ、持ち主を探し出し、まっすぐ帰宅した僕よりも先にドアノブにかけておくことができるのか、さっぱり見当がつかなかったのだ。
考えれば考えるほど、僕の頭は混乱するばかりだった。
しばらくの間、頭を悩ませたが、どういう意味を持つ行為であれ、あれが親切の一種であるのは間違いないだろうという結論に達した。
ならば礼を言わなくてはならない。
でも、どうやって?
どこにいる誰ともわからない人に対して、どうすれば感謝を伝えることができるだろう。
いろいろ探して、母が使っている香水の小ビンがちょうどいいだろうと思えた。
うまい具合に中身を使いきったところだったので、簡単にもらい受けることができた。
この中に手紙を入れ、感謝状とすることにしたのだ。
『キーを届けてくれて本当にありがとう。
感謝しています。
こんなことができるなんて、あなたは下水の神様に違いないと思います。
僕がお礼にできることがあれば、いつでも言ってください。
かしこ』
この手紙を下水へ『投函』したのは翌朝のこと。
昨日よりも水は減っていたが、流れはやはり速く、ビンはさっと押し流され、どこかへ見えなくなってしまった。
これで一件落着と思えたが、『下水の神様』から返信が届いた時、僕がどれほど驚いたか。
学校を終え、誰もいない家に帰ってきた玄関のドアノブに、小さな紙切れがヒモで結びつけられていたのだ。
『ご丁寧な手紙をありがとう。
悩みや困りごとはありませんか。
何でも相談に乗ります。
下水の神』
数日後、僕は再び下水に手紙を投函した。
『先日、消しゴムがなくて、お姉ちゃんの机からちょっと借りたら、普通に使っただけなのに、消しゴムは2つに裂けて壊れてしまいました。
消しゴムを借りたことは、お姉ちゃんはまだ気づいていないようです。
でも僕が「ごめんなさい」を言ったら、きっと怒るに違いありません。
黙っていてもいいでしょうか』
二日もしないうちに、また返事があった。
以前と同じように、玄関のドアノブにぶら下げてあったのだ。
『優しいお姉さんだから、きっと黙っていてもいいと思いますよ。もしも気が済まないのなら言ってもいいけれど、お姉さんはきっと怒らないでしょう。
下水の神』
奇妙な文通はさらに続いた。
『実はもう一つ悩みがあります。お手紙を書いてもいいでしょうか?』
返信があり、
『もちろんです。どんなことでもおっしゃい』
『実はお姉ちゃんのことで困っています。
お姉ちゃんは本当は意地悪で、いつもわざと僕のそばに来ておならをします。
お尻を僕の顔のそばに持ってきて、プップと臭いです。
僕が怒っても、「出もの腫れもの、ところ嫌わず」とケロリとしています。
こらしめてやってください』
これに対する返信はなかなかなかった。
下水の神様はどうしたのだろうと楽しみにしていたのだが、ある日の午後、僕よりも少し遅れて帰宅するなり、ドタドタと聞いたこともないほど大きな足音を立てて、姉が階段を登ってきた。
「おやお姉ちゃん」
僕が迎えると、姉は大きな声を出した。
「私が、いつあんたの鼻先で屁をこいた?」
「消しゴム借りたよ」
「知っている!」
「あの日はキーを貸してくれて、ありがとうね。自分のキーをわざわざ水で濡らして、僕に先回りして家に帰って、ドアノブにかけた。きっと、たまたま僕のすぐ後ろを歩いていたんだね」
ここで姉の表情が変化した。少し不思議そうな顔をしたのだ。
「なぜ知っている?」
「そのあと、キーを一つ作ったんだね」
「なぜ知っている?」
「居間のタンスに入っていた予備のキー、しばらく姿がなかった。でも一昨日見たら、また入っていた。お店へ行って、コピーしたんでしょ?」
「あんたって、変なところに気が回るのね」
「僕の部屋のゴミ箱、あさるのは面白かった?」
今度こそ姉は、蹴飛ばされた猫のような顔をした。
「なぜ知っている?」
「下水の神様あてに僕がどういう手紙を書いたか、知る方法はそれしかないもん」
「そうよ、あんたの書き損じを見たの。下手くそな字で、読みにくいったらありゃしない。もっと字を練習しなさい」
「へへんだ」
「覚えてなさい。いつか仕返ししてやるからね」
「お姉ちゃんのほうが、僕よりも先に結婚するよ。結婚式でどんなスピーチをしてやろうかな」
何か気の利いたことを言い返してやろうと姉は口を開きかけたが、言葉は何も出てこなかった。
このとき玄関のドアが開き、人の気配があったのだ。
喧嘩は途中にして、僕と姉は駆けていった。
玄関には母がいた。パート仕事を終えて帰ってきたところなのだろう。
だが母はおかしな顔をしている。その手の中に何かをつまんでいるのだが、
「こんなものが、どうしてドアノブにかけてあるの? 玄関のキーよ」
次いで母は鼻をひくつかせ、
「まさかこれ、下水にでも落としたの? 変な匂いがついているわよ」
僕と姉は、互いに顔を見合わせるしかなかった……。
帰巣本能