雑種化け物譚❖Cry/A. -蒼い獣-

雑種化け物譚❖Cry/A. -蒼い獣-

宝箱たる世界「宝界」の太古、「神暦」の世では、「神」や天使が地上に跋扈し、純血の化け物を従え雑種や人間と対立していた。
数多にはびこる化け物の中でも、最強の一端と言われる獣が飛竜。その血をひくリーザは手背に「Z」を刻む化け物の国に生まれ、ある事情で旅に生きる身の上だった。
いつものように故郷に帰った夜、隣人の女性が不審に出歩く姿を見つけ、追いかけた先で彼は運命の「赤」に出会う。

▼『蒼い獣』:雑種化け物譚A主人公の双子(弟)メイン
▼『赤の鼓動』:「千里眼」メイン
update:2023.12.13 Cry/シリーズzeroA 前日譚
※『蒼い獣』、『赤の鼓動』共に、エブリスタでは特典にのみ掲載しています

❖蒼い獣❖

 
「見られたからには――殺す」
「――!?」
 うちの村外れの聖域――故郷にある教会の、すぐそばの森でのことだった。
 「神」なんて気にせず、自由に生きると決めた化け物のオレは、まるでその罰とばかりに土の上に強く打ち倒された。
 しかもそれは、オレより遥かに非力な奴によって。
「人、間……!?」

 突然出くわした、赤い鎧を着ける同年代の女。
 人間では有り得ない濃い青の目と、青みを帯びた灰色の髪。その姿は酷く、無情な白い月光に映えた。
「っ――……!?」
 オレはただ、無茶ばかりする姐貴分を追いかけて来ただけなのに。その女は俺を殺すのだという。
 この身は本来、存在しない生き物なのに――

 アホだな、と。オレはただ、それだけ笑った。


Czero Cry per A.-angere- 前日譚
『蒼い獣』

1:存在しない獣

 
 オレの初恋は、多分、近所の人間の姐貴分だった。
 多分っつーのは、自覚する前に諦めたからだ。
 目前でオレそっくりな双子のアニキがフラれた上に、二人がしばらく気まずそうにしてたもんだから、オレはずっと、エア・レインを姐貴と呼ぶんだ、と知らない間に心に決めたのだ。

 エアの姐貴。アニキは昔から、レインさんと呼ぶ。アイツめ、それだけガキの頃から異性として意識してやがったな。
 とりあえず姐貴は銀髪赤眼で、人間の中では滅茶苦茶な美人だ。なのに髪は肩で切り揃え、女らしい格好もさっぱりしない。オレと似た襟のある上着に、手足をぴったり覆う無地の上下と、エアの姐貴の生足をオレは見たことがない。

 姐貴のつまんねー服装にはワケがある。肌も白い姐貴は、いわゆる白化種というやつで、動物とかでもたまに見かけるが、普通個体より体が弱いらしい。特に太陽の光が天敵で肌を隠し、大体姐貴は家にこもり、外では暗い道を好む。
 そんな姐貴が、最近度々、夜更けに外に出ることに気が付いちまった。こんな山奥で、人里をうっかり離れたら魔物だって横行する時間に――だ。
 妙に気になって、こっそり追っかけてきてみれば、外れの森で謎の賊の女に出くわす始末だった。
「見られたからには――殺す」
「――!?」

 不思議な光が森にちらつき、姐貴の姿を見失い、やばいと思っていた矢先のことだ。散りゆく花のような白い光の先に、大きな外套に身を隠す人間の女。そいつは弱い人間のくせに、意味の分からない存在感を放っていた。
「人、間……!?」

 ここ「ゾレン」は、オレのような化け物と人間が半々くらいで住んでいる。「力」ある化け物も「力」なき人間も、共存しようってのが建国理念らしい。
 ところがどっこい、違う生き物って奴は結局、互いを忌むんだよなー。オレやアニキみたいな、化け物と人間の混血でもない限りは。
「っ――……!?」

 けれどオレは、突然長棍で足払いしてきやがった人間の女を全く知らねーし、恨まれる筋合いもない。
 はっきり言ってブチ切れた。出会い頭から突然、殺すってどーいう了見だ。他所はともかく、ここは一応法治国家ゾレンだぞ?

 年中旅する化け物のオレ、故郷で気が抜けてたとしか思えない。何と人間の女相手に、初手で馬乗りになられて、あまりの怒りで呆然としてしまった。
 長棍を振るっていた女が、瞬時に短剣へ持ち替え、その手捌きは見事なものだ。人間は大体化け物より器用だけど、こいつの動きは人間の域を軽く超えた素早さで、化け物の反射神経でも咄嗟に声が出ない。
 杭みたいに細い短剣が勢い良く掲げられ、月の光がきらりと尖端に重なる。それでもオレは動けず、母さん譲りの灰色の目をバカみたいに見開いていた。

 見失ったエアの姐貴のことが、ふと頭をよぎった。

――ごめんなさい……! 私、サラム様を……!

 生来物静かな姐貴は、自分の両親が死んだ時にも泣かなかった。それなのに、オレ達の母さんが死に、後を追うように同じ病で親父が死んだ時には、親父の葬儀で初めて号泣する姿を見た。
 その涙にアニキがころっと落ち、告ってふられたのは言うまでもない。って、いや、こんな時に何を考えてるんだ俺は?

 やばい、走馬灯が回りかけた。我に返ったオレが首を傾げた瞬間、鋭い痛みが左頬に走る。
 って、左耳の真上で短剣が地面に刺さった! こいつ、確実に殺せる眼窩を真っ先に狙ってきやがったな!
「――」
 刃が滑りそうな銀髪を避けて、目からオレの脳を貫こうとした女に、やっと腰に下げる武器を取り出したオレ。地面を突いた短剣を捨てて、再び棍を手にした女が、長物を持つオレから即座に距離を取った。

 最初に奇襲を受けた時、女が着る外套をばさりと目隠しに投げられ、オレはあっさり女の長棍で強打された。人間相手という油断もあったが、女の行動は判断が速く、相当に戦闘慣れしている。この迷いのなさはただごとじゃない。
 東西ゾレンも黙る最強の獣、そんなオレが言うんだから、間違いねぇし。

 瞬時に起き上がったオレは、女と正面から対峙してやっと、銀色頭は冷静に女の全身像を認識し始めてくれた。
 弱っちい素体の人間のくせに、息一つ乱していない女の体は、何やら全身、赤い小手や黒玉の填まる胸当て……一揃いの珍しい赤い鎧で覆われている。

「……抵抗するの?」
 何か、喋った。幽霊みたいな青い目をしながら、全身の緊迫を一筋も崩さず、鋭く高めの声を出しやがった。
「たりめーだろ! 何様のつもりだ、てめーはいったい!」
 言いながら、ヤバイ、こいつ本気だ、と改めて悟る。
 何か知らねーが、この人間の女には化け物並みの筋力と速さがある。そして人間でも達人の域にある、武技の持ち主と見える。
「人間のくせに、殺し合いなんてしてんじゃねぇよ!」
 何よりまずいことは、オレを殺そうって空気に全く迷いが見えない。そして俺は、ここで殺されても誰も文句を言えない、「存在しない獣」なのだ――

 人間が化け物に殺された話は、むかつくけどよく耳にする。混血のオレは、人間を守れ、と親父に叩き込まれて育ってきた。でもこの状況は全く逆だ。
 戸惑う化け物のオレの叫びに、人間の女は失笑の雰囲気すらも見せない。
「何とか言えよ、てめえ!」
「…………」

 多分、殺し方と、襲いかかる隙を窺うだけの沈黙。
 オレも長棍使いなので間合いは大差なく、どちらも一歩も動けない短距離。オレがそれなりの使い手であるのを、まだろくに動いてねーのに、向こうには気取られている。それだけでも正直、相手が上手そうで久々に身震いする。
 まじかよ、本気で、この状況……ただの人間の女を相手に、化け物のオレが気圧されてるって? 女の灰色のつんとした髪――短い一つ括りと、闇に拙く光る青い目が、何でこうもオレの体を竦ませるんだ?

 とにかく心臓が、滅多にない動悸で煩かった。
 何つーか、もう、痛い。牽制し合いとは言え、ただ向き合うだけで何でこうも爆速で鳴るのか。けど幸い、相手は人間、さすがに魔力の存在までは感じない。ってことは、「力」ある化け物の常套手段、「魔術」は使えないはずで――

 魔杖としても使えるオレの長棍は、普段は半分以下の長さで持ち歩ける便利ものだ。打ち合いの時にはよほど魔力をこめないと強度が保てないが、構えをとる動きが詠唱代わりになり、簡単な魔術なら発動できる優れものでもある。
「くぉらてめー、最強の獣の俺に恐れ入ったか!」
 だから大声を出すのは、発動に気付かせないため。アホみたいって言うな、オレだって恥ずかしいんだ。普通、魔術の発動には詠唱を必要とする。天使や悪魔レベルになると、また違うけど。

 傍目にはやたらに棍を振り回して、バカを言ってるオレの裏で、拘束魔術が発動したことに女は確かに気が付いてなかった。
 よし、と距離をつめるための力を足に込める。人間を傷付けるの、趣味じゃねーから。そこはそれ、混血だからってことで、拘束くらいで勘弁してほしい。
 目前の女、見られたから殺すっつーてたけど、オレだって本当は見られてはいけない「存在しない獣」だ。何とか女の動きを封じ、記憶を操作する魔術をかけないといけない。
 「最強の獣」も色々あんだよ。大人しく捕まってくれ、女……と思う間に、四方八方から拘束魔術が女に降りかかる。風のような「力」が確実に女の身を捉え、そこでやっと女はオレの魔術に気が付いたようだった。
 これで解決。オレがそう、気を緩めかけた瞬間……。

「――は?」
 そんなの、アリ? 思う間もなく、また油断したオレの隙に、女は一跳びで瞬時に猛攻をかけてきた。
「って、オイ――!」
 拘束魔術、さっぱり効いてねぇ。
 何つうか、女の体に触れた瞬間に、かき消されたと言っていい無効具合だ。何それ、ずるくねぇ? 人間にそんな魔術耐性があってたまるか?

 下段から激しい打ち合いが始まる。出遅れたオレが防御に回るしかない。
 問題はそれだけじゃなくて、オレの棍が明らかに軋んでる。打撃を跳ね返す魔力はしっかりこめてるはずなのに、一撃ごとにごっそりと力を削られる。
 拘束魔術を無効化した謎の効果然り、この女には、魔力をこめた攻防さえも効かない反則……!
「嘘だろ……!?」
 つまりオレは、化け物の体力と純粋な武技で対抗するしかない。鍛えてきたオレだから良いものの、そこらの「力」頼りな化け物の場合、絶対こいつには勝てないだろう。
 やっと状況わかってきたが、つれーな、オイ!

 オレはともかく、先に魔棍がやられる、やばい。女もそれに気付いてやがる。だからこの打ち合いをやめない。なのにオレには対抗策がない。
 こんな相手に、素手とかまず無理だっての。万一そうなると、オレがとれる手段はたった一つ――でもそれですらも、拘束に留めたい甘ちゃん方針でいくと、さくっと殺される予感しかない。

 わかってんだよ。最悪、化け物としての俺の全力を解放するしかない。
 それでも勝てるかわからないっつー。それほどこいつは、殺しでもしないと止まってくれないような気がしてならない。
 女の先刻の声が、やっとオレにその真意を伝える。
――……抵抗するの?
 殺るか殺られる。その覚悟はできたのか、と女は俺に訊いていたのだ――


 もう後数撃で、オレの魔棍も折れようかという、まさにその時のことだった。
「――やめて! ピア!」
 思わぬ知った声にオレが動揺する。互いにだけ集中して攻防していた後ろ、声の主は今度はオレの名前を呼んだ。
「リーザも、もうやめて! お願い!」
「って……姐貴……!」

 オレが追いかけてきたはずの、エアの姐貴。
 うん、ごめん、姐貴。タイミングとしては激悪過ぎたぜ。
 姐貴の声に意識が逸れた瞬間、それを見逃さじと女の棍が、オレの後頭部を背後から強打した。
 (うめ)く暇すらもなかった。やばい、超痛い。今まで生きてきて、一番凄まじい一撃な確信がある。最初の短剣でもそうだったけど、俺の頑丈な生肌に切り傷つけられるバカだったし、そう言えばこいつ。

 ゆっくりと、引っくり返りながら薄れる意識の中、エアの姐貴が駆けてきたところまでは覚えている。
 ダメだ、姐貴。それじゃ姐貴まで、殺されちまう。どうすればいい、この、魔術も効かない反則の女を、オレはどうやって止めればいいんだ。
 そう思った瞬間、オレの意識は暗転し――

 目の前が真っ暗な俺は、倒れる体勢から後転する荒業をかました。そのまま女に体当たりしてやった。
 最初とは逆に、俺が女に馬乗りになり、細い首を両手で絞め上げる。
 ――思った通り。そう確信が満ちた時のことだった。

 あっけなく短い瞬間。またしてもガツンと、俺の脳天を背後から強打された。
 凶器の重い鞘付き剣を、涼やかに納めた新手がそこで現れていた。
「貸しにしておきますよ。ピア・ユーク」
 不甲斐なくも、さすがに気を失ってしまった俺。女にかぶさるように倒れてしまったのは、オレのせいじゃないというのは大いに言いたい。

 そして最後の一時、俺は、自分の存在が詰む音を確かに耳にしていた。

「おやおや……これはこれは……ライザ、くん?」

 それはここで、最も知られてはいけない、双子のアニキの名前。
 「存在する獣」という、「存在しない俺」の、全ての弱みの発端だった。


+++++


 見知らぬ人間の女を、首を折る勢いで一息に殺しかけた俺。
 化け物の親父と、人間の母さんの願いに反した暴挙の罰を受けるように……冷たく暗い場所で、オレは重く目を閉じて眠り続けていた。

 脳裏には、お人好しで人間好きな化け物の、アニキの静かな声が響いてきていた。

――レインさん……俺達と、一緒に暮らそう。

 俺の双子で、姐貴ともずっと近くで生きてきたアニキ。「存在する獣」。
 オレは違う。魔力が零のアニキに対して、とても強い魔力を持って生まれたオレは、普段はこの国のある大陸を離れ、北の小島で魔術と武技を習っていた。
 度々家には帰されたし、十歳を過ぎてから後は里にいる時間が多くなったが……でもこの里ではオレは、いてはいけない化け物だった。

 オレとアニキに、エアの姐貴。偶然銀色の髪が同じご近所は、全員が早くに親を亡くしてしまった。
――これからもみんなで、助け合っていこう。俺は、レインさんを……ずっと、守りたいんだ。
 親父の葬儀の時も、オレはアニキの手で隠されていた。そうして、アニキが姐貴に告るのを、見守るしかできなかったわけで。姐貴がそれを拒んだ時も、何一つも言うことができなかった。
――ごめんなさい、ライザ……私は、一人がいいの。

 とにかく体が弱い姐貴は、生活必需品はほぼ全て、周囲の化け物から援助を受けていた。その筆頭がアニキでもある。
 その分細かい手仕事を引き受けたり、更には姐貴独自のある能力で、姐貴も周囲に助けを返した。
 それはとても危なっかしい、独り立ちだったけど……危ない環境って点では、オレとアニキも、結局は同じだった。

――この、赤い獣……悪魔の息子が……!

 「力」ある化け物は、ときにその「力」に呑まれて、我を忘れて暴走する獣となる。「力」なき人間は、そうなったときの化け物を悪魔や魔縁と呼んでいる。
 母さんを流行り病で亡くしたすぐ後に、同じ病にかかっていたうちの親父は、「悪魔」化をやらかしちまう。姐貴はその兆候に気付いていたらしく、だから親父の葬儀で、親父を止められなかったと泣いた。
 暴走した親父を恐れた人間が、アニキのことまで討伐しにきたもんだから、姐貴の自責は余計だったんだろう。そんなの、人間の姐貴にできるわけがないことだったのに。

 オレはその時から決めたのだ。オレ達を守ってくれない「神」なんて、もう言うことはきかないと。
 オレのように、魔力の強い化け物の主力は魔術。その力の元は「魔道」で、魔道の源は「神の威信」――「世の理」だから、それに従うべきだとしても。

 そんなオレに、魔術を教えた師。北の孤島に住む魔道研究者は、苦々しげに言ったものだった。
――それは、オマエにはお勧めしないがな、リーザ。
 親父の旧知らしい寡黙な女が、珍しく長く話してくれたこと。オレはむしろ、「神」を味方にした方がいい、とその場で滔滔と説教されてしまった。
――オマエは元々、悪魔の資質を備え過ぎている。それに呑まれるな。堕ちる時は、おそらく容易い。
 妙な話だった。魔術なんて使う化け物はそもそも、多かれ少なかれ悪魔よりだっていうのに。
――オマエ自身は悪魔に向いていない。オマエにとって『魔道』は、オマエの理性を体現したもの。『魔道』を扱えなくなった時が、オマエの最後だろう。

 女の足下では、俺によく懐いていた飼い猫まで、そうだと言うように鳴いてオレの足に爪を立てる。
 そんな説教は、そいつらが「神」だから言いたいだけだろうと、オレは気にしちゃいなかったのだが……。


 きっと、オレがずっと寝こけてた場所が、「神」の拠点の一つだからだろう。そんな古い夢を見たオレがやっと起きた時に、目の前にはいかにも、「神」の手先が、胡散臭い笑顔でオレを見下ろしていた。
「おや、お目覚めですか? ……ライザくん」
 そこがうちの里の外れの教会で、ソイツがつい最近赴任した若い祭祀、というのはすぐにわかったオレだった。
 何せ、動き難そうな祭儀衣でにこにこしてる男の後ろには、無数の骨壺が治まる石棚……何つー不吉な場所だ、と真っ先に思うぜ、そりゃ。

 こんなに薄暗い納骨堂があるのは、一般的にも教会だけだ。「神」の教え――「世界の法理」を管轄する聖なる場所でありながら、地下にはこうして「力」ある者の遺骨を納める教会は、「魔道」の管理者でもあるってことだ。つまりはオレも、死んだらここに入る可能性が高い、長居はしたくない場所なのだ。

 とりあえず、この状況は、とてつもなくまずい。
 確かオレは、不審な人間の女と突然戦闘になって、殺されかけていたはずだ。その後、教会にいる理由があるとすれば、「法」を司る者の手配のはずで……となると、オレの身元を調べられてしまう。
 見られたから殺すとか何とか言ってた人間の女も、それはまずいはずだが、もしもコイツらがグルだとすれば……とりあえずオレだけ、大ピンチかよ?

 体を起こし、黙りこくるオレに、若祭祀も何故か腰を下ろしてオレと視線を合わせてくる。
「ライザくん? いつも以上に無愛想ですが、お腹でも痛いんですか?」
「…………」
 ずっと、双子のアニキの名前でオレを呼ぶ若祭祀。
 それはそうだ。そもそもこの山奥の人里に、オレ……リーザという弟なんて、存在していないのだから。

 オレをアニキの名で呼ぶ若祭祀のことを、当のアニキは、「薀蓄をたれるのが大好きな怪しい祭祀」と言っていた。最近来たばかりの若祭祀は、あまり里に馴染んでいないらしく、里の中では目立つアニキによく声をかけてくるらしい。
 何せ、アニキ、無愛想だけどお人好しだし。この手の胡散臭い奴には絶好のカモっぽいし。
「もう、駄目じゃないですか、ライザくん。混血たる君が人間と問題を起こすなんて、他の化け物達に示しがつかないでしょう?」
「……」
「かよわい人間の首を締めるなんて、君らしくない。あれから彼女がどれだけ、眠っていたと思いますか?」
 何でか知らねーが、人間の女も手負いらしいな。あれ、オレ、最後らへんは負けてなかったっけな?

 何でもいいけど、とりあえずオレは黙るしかない。
 それと言うのも、この若祭祀の奴、本当に食えない顔付きというか……――
「人間の女性に手を上げるなんて、穏やかなライザくんらしくありませんが。……それとも――」
 やっぱり……コイツ、わかってて言ってやがる。
「私の知るライザくんは、今日もいつも通り釣りに向かっていましたが。それならどうして、君は、こんな所にいるんでしょうねぇ?」
「……――」

 ここにいる、アニキそっくりのオレ。それでも、オレはアニキじゃない……コイツはとっくにそれに気付きながら、誘導的に話しているのだ。
 それは当然だった。アニキとオレとは、そもそも「気配」が違う。
 化け物は普通、互いを顔でなく気配で認識するもんなのだ。オレはずっと気配を隠しているけど、眠りこけてる間に、さすがにその魔術も解けてしまったっぽい。

 「教会」とは、この国――ゾレンにだけあるものでなく、世界中に散らばる魔道組織だ。世の秩序を守らんとする、世界で一番大きな勢力と言っていい。
 だからゾレンでも、ある程度権限を持たされているはずの祭祀たる化け物は、オレに不躾な尋問をしてきたわけだった。
「ライザくん。『通行証』を、見せて下さい」
「…………」
「君はどうやら、その手の印を見るに、ゾレン人のようですが……それならば通行証をお持ちのはずでしょう?」

 生まれた時からオレの手背に刻まれている「Z」の印。アニキも同じように刻まれているこの印は、ゾレンに生まれた住民の証で、この国にいる者はこれがないと怪しまれる。
 とはいえ、印くらい誰でも刻める。でも「通行証」――各々の名を刻まれた結界石は、戸籍一人につき一つしか与えられない、最大の身分証明書になる。

 通行証を誰かに譲ったり、失くしても死罪という、とても厳しい法がゾレンにはある。だから通行証はゾレン人の命、なんて言われる所以だ。
 それだけこの国は、国の者と異端者の管理に煩い。外国の奴には大体軍部が一時的な通行証を発行するが、それは期限があらかじめ刻まれている。国民の通行証に期限はないが、死んだら回収されてしまう。犯罪者や不審者は通行証で身分を確認され、裁かれる法治国家なのだ。
 だからもしも、「Z」の印を持つオレが、この場で自らの通行証。存在の証を持っていなければ――わかりやすく言えば、死あるのみ、だ。

「お? おやおや……なーんだ、ちゃんと、持っているんじゃないですか?」
 黙ってその結界石のペンダントを懐から出して渡したオレに、祭祀はかなり驚いているようだった。
 そうしてそのまま、若祭祀は当然のことを尋ねる。
「RIZAR・DOLD。これは君の名前ですか?」

 結界石……国の境界にかけられた魔術の一部たる通行証は、持ち主の照合も魔術を使える者が通常行う。
 魔術の礎たる魔道は、「言葉」や「概念」を基盤に大体は構築されるもので、言葉にしても概念にしても、それらを構成するのは「文字」だ。
 つまりオレという存在と、その通行証に刻まれた「文字」が合っていれば、魔術での照合は成立するもの。それが、オレとアニキにほとんど同じ読みの名……ライザとリーザと、名付けられた理由だった。

 魔道審問として名を尋ねられ、黙って頷いたオレに、若祭祀は呆れたような笑みを浮かべやがった。
「おやまあ。確かにこの通行証は、君を持ち主として認めていますね」
 オレとアニキは、二人で一つの通行証を使っている。普段はこうして、外に出る機会――身分を問われる可能性が多いオレが、それを持たされていた。

 照合が難無く済んで、オレの身元を確認した若祭祀だったが、それで無事に話が終わるわけもなかった。
「それなら今、山川で釣りをしているあの青年は、いったい誰なんでしょう?」
「……」
「私はてっきり、彼こそがライザくんだと思ってましたが……それでは彼にも、身元の確認が必要ですね?」
 コイツ――まじで、性格わりぃっつーの。
 あくまでオレから、言わせようとしてやがる。
 オレが通行証を持ってる時は、アニキは手ぶらだ。その未所持がわかれば、今度はアニキが危なくなってしまう。

 存在しない獣。オレとアニキは二人で一人として育てられた。主に隠されたのはオレで、この故郷でオレの存在を知るのは、本当に僅かな奴らだけだ。
 通行証の共有のため、オレはちょくちょく里に帰っている。無いとわかればアニキが死罪にされるからだ。
 けれどこうなってしまうと、最早この場で若祭祀を殺して逃げるか、真実を話すか、まさにオレは選択を迫られているわけで……。

 不意に、扉の方から、聞き慣れた玲瓏な声がかかった。
「……やめてちょうだい。取引をするつもりなら、リーザでなく私が乗るわ」
 暗く不吉な納骨堂に、一筋の光明をさすように、そこには何故か――エアの姐貴が立っていたのだった。
「って――姐貴……!?」
 オレはそういや、この人を追いかけてきたはずだった。でも、こんな場面に現れられるのは想定外で、今の謎の荒事に姐貴を巻き込んでいいわけがない。
「何でここにいんだよ! って、姐貴までコイツらに捕まったのか!?」
 動揺したオレに、姐貴はいいえ、といつも通りの赤い眼でキレイに笑う。

 そしてそのまま、有り得ない言葉を続ける姐貴だった。
「巻き込んで本当にごめんなさい、リーザ……彼は、私のお客なの」
「……って、――は……?」
 唖然とするオレに笑いかける。それから姐貴は若祭祀の方を向き、一転して見たことのない厳しい顔になった。
「それにしても不甲斐ないわ。リーザがついてきているのはわかってたのに、まくこと一つできなくて……いったい何のための『千里眼』なのかしらね」
「――なるほど。彼は、リーザくんというのですね? エア・レイン」
 オレの代わりに何故かオレの素性を喋る姐貴は、齢十九にはとても見えない大人びた顔付きで、ただ、胡散臭いばかりの若祭祀を、静かに見据えていた。


 そうして姐貴が言い出した話に、オレは断固、反対の声を上げることになる。
「ざけんな、姐貴に何かしたら許さねーからな!」
 全てはここから。この「神」の聖域から、思いもしない赤い運命が始まる。

2:子供攫い

 
 ようやく解放されて外に出ると、辺りは明るく、太陽が南に来つつあった。掴まった夜から、オレはどうやら丸一日、納骨堂で眠っていたらしい。
「本当、昔からリーザは、よく眠る子よね?」
 魔術というやつは、当然頭を使う。特にオレは、常に気配隠しだの何だのをしているので、少しでも暇があるとすぐに眠くなってしまう。
 くすくすと笑うエアの姐貴を連れながら、オレ達は二人で、人目につかない林道の薄暗い家路についていた。

 外れにある教会から家に帰る道すがら。姐貴が色々と、現状を話してくれた。
「まあ、いわゆる『子供攫い』なの。リーザが戦った、あの時の彼女は」
 「子供攫い」。オレも名称だけは知っていたが、あまりに唐突な存在の集団。
 息を呑んで黙り込むオレに、姐貴は苦笑いながら、落ち着いて話を続ける。
「私とちょっと、相談があったから、彼女――ピアはうちで休んでもらってる。詳しいことは、そっちから聞いてほしいけど……」

 何と、オレを殺そうとした人間の女を、エアの姐貴は家に泊めているという。それだけでも驚きなんだが……。
 続いて姐貴から出てきた単語に、若祭祀と既に取引をした後とはいえ、オレはひたすら顔を歪めずにいられなかった。
「私は少し前から、『子供攫い』の手伝いをしていたの。あの若祭祀は、別口の特命で私達を見張るというか、支援するというか、が目的で来ているみたい。祭祀自身は別に、『子供攫い』の一員ではないのよね」
「……」
「今、『子供攫い』には元々の魔道担当がいなくなって、気配隠しをしてくれる人員が必要なのよ。今日の夜に、多分また仕事があるはずで……今回は祭祀が、その役割で同伴すると思うわ」

 淡々と話す姐貴は、その「子供攫い」……ゾレンがはっきり国賊と指定する集団に協力している。そのことを全く、疑問に思っていないみたいだった。

 近所の姐貴の家についてしまった。オレは先に、自分の家によることにする。
 帰ってすぐ姐貴の家にいったら、アニキが多分不審に思うだろう。どれだけ気配を隠していても、アニキは双子故か、俺が近くにいると気が付くのだ。
「それじゃ、後でうちに来てね、リーザ」
 くそう、あちこち気になることだらけ、事情はまだ全然掴めていない。色々消化できない思いを抱えつつ、エアの姐貴の笑顔には黙って頷くしかなかった。

 現在、こうして無事に若祭祀の魔の手から解放されたのも、姐貴のはからいがあってのことだ。
――取引をするつもりなら、私が乗るわ。
 オレに誘導尋問をかけていたアイツは、要するにオレを裁くのでなく、利用したかったらしい。それで何かと、オレの弱味を握ろうとしていたのだ。
 存在しない獣である俺には、そういう意味では、見られてしまった以上は弱味しかない。あの場を切り抜ける方法は何も思い付けなかった。


 入口が森側を向いているから、出入りが人目につきにくい家にオレが帰ると、大体毎朝釣りに出るアニキが抜群のタイミングで戻ってきていた。
「リーザ、帰ってたのか。ちょうど良かった。これ、レインさんに会う時に、持っていってくれ」
 動き易い袖なしの黒衣で、魚を串に刺している無愛想な銀髪のアニキ。軒下からオレを見た途端、オレと同じ灰色の目を細めて、ほのかに嬉しそうに笑った。

 穏やかなアニキについ、オレはツッコミを入れてしまう。
「あのなぁ。こんなに明るい内から、オレに堂々と出歩けってのかよ?」
「わかってる、後でいいって。リーザがいるなら、俺もまた、家畜の肉を交換して貰ってくるから」
 自分は食べない鶏肉や牛肉を、オレが帰るとアニキはもらいに行ってくれる。オレに何があったか知る由もないアニキは、身内には見せる穏やかな笑顔で、いつもこうしてオレの無事を喜んでくれる。元が結構な恐持て顔だから、その喜色の度合いは、並々じゃないわけだった。

 存在を隠し続けるオレと、通行証を常備できないリスクのあるアニキ。
 オレ達がそんな境遇に甘んじる理由は、ひとえに……この化け物と人間の国ゾレンが、隣の人間の国ディレステアと、長く紛争を続けているからだった。


 食卓に座った。そこから釣った魚を捌くアニキの後ろ姿を見ると、ついまたオレはツッコミたくなってしまう。
「アニキ、まだ第六峠に釣りに行ってんのか? いい加減、危なくねえのか」
「そうだな、でもあの近くが一番よく釣れるからな。最近じゃ『五色』の活動もあるし、情報収集がてら、むしろ進んで行けとマザーに急かされるよ」
 第六峠は、ディレステアとの紛争の最前線だ。「五色のケモノ」とは、アニキがうちの親父から継いだ反戦組織で、実質リーダーであるマザー……この里の長に、アニキはこき使われているわけだった。
「信じらんねー。オレなら絶対行かねぇし。あの辺嫌いだろ、アニキだって」

 オレ達にはそこは、親父が暴走した曰くのある土地だ。そんな所に今も行くアニキのお人好しさは、時々はたき倒したくなってしまう。
 アニキも苦笑しつつ二人分の茶を淹れ、やっと食卓に向かい合って落ち着く。
「『子供狩り』の、旧王都に行くよりはマシだよ。それはさすがに、他の奴らがやってくれるし」
「ざけんなよ、里から出されるだけでも文句言えよ。いつ通行証見せろって、軍部に言われるかもわかんねーのに」

 二人で一つしかないオレ達の通行証。親父にそもそも、オレ達を一人として育てるように勧めたのはマザーだっつーに、ったくよ。
 このゾレンでは、隣国との争いが長くなっているせいで、親父達の世代から徴兵制度ができたらしい。それが、二人以上子供のある家から、第一子を必ずゾレン西部の軍――旧王都の「子供狩り」に差出す、子供の人身御供だった。

 旧王城で訓練される子供は、その後どこに配備されるとも知れない。大体は未熟な内から第六峠の増員になり、ほとんどが早くに死んでいくらしい。差し出した以上は国のものだ、と行方すら教えてくれない苛烈な制度だ。
「でも、ずっと里にいるわけにもいかない。今まで通行証を出せって言われたこともないし、俺がよほど、不審なことをしなければ大丈夫だと思う」
 茶をすすりながら無表情に言うアニキは、親父が死んでから、第五峠やこの近隣あちこちに手伝いに駆り出されるようになった。ある意味有名人なので、あえて身元を確認されないっぽいのはある。
 それが元々、「最強の獣」だった親父の息子所以。オレもだから、気配隠しに加えて、顔をぼかす魔術を常に使って旅をしている。
 そんなオレを、俺として見つけられるのは、双子であるアニキと「千里眼」の姐貴くらいだろう。

 「子供狩り」に子供を渡したくなければ、子供は一人にしておくしかない。けれど、双子で生まれてしまったオレ達の場合は、どちらかを隠すしか抵抗のしようがなかったのだ。
 それでなくとも親父達は反戦集団だし。紛争を続けるための「子供狩り」なんざ、死んでも子供を渡したくなかったんだろう。

 胸が悪くなったオレは、アニキを責めるつもりはないが、誤解される言葉を吐いてしまった。
「ったくよ。何で早く、戦いが終わらねーんだよ?」
「言うなよ。俺達も色々、考えてるんだ」
「いや……『五色』の責任じゃねーだろ、別に。人間の国と戦いなんて続けて、何の得がこの国にあるんだよ?」
「さぁな……それは、第六峠の奴らにでも、いつかきいてくれ」

 アニキは正直、反戦活動にそう積極的じゃない。オレ達は基本、目立っちゃ命取りなわけだし。オレもアニキも混血だから、人間は嫌いじゃないが、人間の方はオレ達化け物を嫌ってることもままあるわけだし。エアの姐貴みたく、化け物と進んで協力しながら生計を立てるのは、珍しいタイプの人間だった。

 しかしそのせいで、困ったことに、「五色のケモノ」の活動時、エアの姐貴はこき使われている。
 姐貴の珍しい「千里眼」……本来「力」など無い人間には、稀に、化け物にも少ない特殊感覚を持つ者が生まれることがある。姐貴のその特殊感覚は使い勝手が良く、そして姐貴には大きな消耗を強いてしまう。

「俺があまり動くと、レインさんの負担が増えるから……俺は今のペースで、穏便にやっていきたいんだけど」
「わかってるっつーの。マザーの小言なんて流しとけよ。今はやっと、遷都も終わって、国王も変わったばっかじゃねーか。下手に動くとすぐに睨まれるぞ」
「それは……まあ、大丈夫だとは思うんだけど」

 何が大丈夫だか、このアニキには、ツッコミを入れ出すときりがない。
 始末が悪いのは、こうして穏やかに見えつつ、一度意固地になると梃子でも動かない奴なことだ。オレはその度、危なっかしくてハラハラさせられる。


 とりあえず、やっぱりアニキは、「五色のケモノ」で精一杯だろう。この上にオレや姐貴が、妙な奴らに巻き込まれたなんて心配はかけられそうにない。
 エアの姐貴にも口止めされたが、オレ自身、アニキに心労をかけたくはない。
「くっそー……言えねー、ぜってー言えねー……」
 頭が痛い。もしもアニキに知られたら、果てしなく怒るだろうな、これ……。そうなる前に、何とかオレが、エアの姐貴を更生させとかねーと……。

 エアの姐貴は、正式に「子供攫い」とやらの一員ではないはずなのに、教会で若祭祀に言い切ってしまった。
――リーザに危害を加える必要はないでしょ? もしリーザに手を出すなら、私はもう手伝わないし……リーザを見逃してくれるなら、このまま力を貸すわ。

 これから何とかしないといけない。姐貴が「子供攫い」なんて物騒過ぎる。「子供攫い」とは早い話、徴兵制度「子供狩り」の対抗勢力な国賊集団だ。
 もう数十年続く「子供狩り」とは違い、「子供攫い」はわりと最近に出てきた組織で、その詳細は一切闇に包まれている。だから多分、女の姿を見たオレを、すぐさま殺すなんて言ってきやがったのだ。
 あくまで噂では、「子供攫い」は旧王城に闇夜に紛れて侵入して、徴兵された子供を攫い出すらしい。それから先に、子供がどうなるのかは誰も知らない。
 義賊という噂もあるし、目撃者に容赦しないという噂は、この間に真実だとしっかりわかった。そりゃあもう、生々し過ぎる実体験で。


 旅がちのオレは、家に帰ると必ず姐貴宅にも顔を出す。だからアニキの魚を持って、夕方になってから不審なく家を出る。
 そうして姐貴宅に行ったオレを待っていたのは、改めて姿をはっきりと見た、あの夜の人間の女……戦った時のように赤い鎧は着ていない、何の変哲もない、普通に弱く柔らかそうな生き物だった。

 なんだ、こいつ。姐貴の寝巻を着てるもんだから、余計に弱々しく見えた。
 なのでつい、オレは、開口一番に茫然と口にする。
「あんたが……『子供攫い』、だって?」

 その女に出くわした時の、暗い光を宿す青の目という、冷酷な雰囲気はそのままなんだが……弱過ぎて気配も感じない人間の女は、今は下ろしている灰色の髪を鎖骨の上で軽く揺らして、オレを不服そうに見据えたのだった。
「……そうよ。改めて、よろしく――……『リーザ』」
 オレの情報は、最低限しか伝えてないと姐貴は言っていた。それでも最初に名前を呼ばれるとは、不覚にも想定外だったオレは、思わず固まってしまった。

 ……って、何やってんだ、オレはいったい?
 存在しないオレのこと――その名前を知る奴が、一人二人増えただけだろ。しかも今後、その弱味を握られかねない最悪な形じゃねぇの、この状況は。
 魚の串を肩にかけたまま、土間で立ち尽くすオレに、姐貴宅の台所前にいる人間の女はつまらなそうに、床の薄い絨毯の上で背中を向けたのだった。

 入口からすぐの台所と、右隣の寝室しかない姐貴宅で、姐貴は普段、台所で繕い物をしているか、部屋で横になっていることが多い。今も休んでいるから、代わりに滞在中の人間の女がオレを出迎えたのだ。いや、姐貴も人間だから、この言い方だと誰が誰だかややこしいけど。
 「子供攫い」らしい人間――人間らしからぬ青い目の女は、ピアと名乗った。
「って、何で名乗んだよ。いやまあ、もうエアの姐貴からきいてはいるけどさ」

 こいつ、自分が正体不明の国賊集団、「子供攫い」って自覚あんのか? 名前なんて相当、知られちゃダメな最たる組織情報にならねぇ?
 しかしピアは、つんとした顔で、「子供攫い」目撃者のオレに冷たく振り返る。
「アナタが少しでもおかしな動きをすれば、殺すのはどの道同じだもの」
 つまり今更、名前を知られたところで、オレへの警戒度は変わらないらしい。
 くっそー……これ、エアの姐貴、こんな奴に関わってて本当大丈夫なのか?

 姐貴宅に立つ異物を睨み、黙り込んだオレに、もう一度ピアは背中を向けた。
 そして、冷たい声のまま、きかれてもいない答をそこで言い放っていた。
「エアだけは殺さない。エアを殺すくらいなら、『子供攫い』が終わる時よ」
「――って……え?」
「アナタはそれが聴きたくて来たんでしょ。違う?」
 オレを見ないで、感情のない声で言うピア。姐貴を追いかけた先で出会った、おそらく何人も殺している国賊の女が、まるでオレを見透かしているようで。

 それでいて何故かオレは、違うし。と、自分でも不思議な程にすぐに思った。
 姐貴の安全は確かに、オレが今一番、解決しておくべき問題だったのに。

 姐貴だけは殺さない。その言葉に在る意味が全くわからず、オレは噛みつく。
「何言ってんだ、てめぇ。姐貴を妙なことに巻き込みやがって」
「そう? 信じないのは、アナタの勝手だけど。多分アナタにだって、エアはいつも、半分も本音を言っていないわ」
「――」

 女の声があまりに辛辣だったせいだろうか。それともそれが、オレも感じていた不安のど真ん中だったせいだろうか。咄嗟に二の句が次げなかった。
 隣の部屋で、何も深い事情を話さないまま、疲れて眠ってるだろう姐貴。それはオレも、多分アニキも、最早救えないものだと言うかのように――


+++++


 オレがエアの姐貴宅に行く前に、日中に姐貴は「千里眼」を使い過ぎ、疲労状態らしい。起こすには忍びなく、結局その夜にオレは、「子供攫い」の女の仕事についていく羽目になってしまった。
 若祭祀がわざわざ、ピアを呼びに来たのだ。あの夜の赤い鎧は教会に置いてるらしく、若祭祀の同伴準備も整ったところで、日中に休息を取ったという寝巻の女は半袖短パンの薄い活動着に戻っていた。

 いやさ。ピアは別に、オレのことなぞ全く興味なさそうにしてたんだけど、若祭祀の野郎が早速脅しにかかってきやがったんだよ。
「リーザくん。このことをご家族にチクられたくなければ、今夜は是非私達を手伝って下さい」
 エアの姐貴との取引で、オレが致命的なことになる機関への密告を若祭祀はしない。そのはずだけど、「アニキに言う」は命に関わらず、それでいてオレの最大の弱点になる。
 オレの身元を知ってる若祭祀は、ピアにはオレが姐貴のすぐ隣人とは教えてない。だからオレの周囲に危険が及ぶことは、約束通りしてない祭祀だけど、こうもあっさり弱味を利用されて、ひたすらむかつくことは必至だ。

 さらにむかつくことには、ピアの奴がとても嫌そうにしていることだ。くそ、オレだって行きたくて行くわけじゃないっつーに。
「彼をついてこさせてどうする気なの。今日からは確かに、これまでとは違うやり方になるだろうけど、うちの仕事を乱すのがアナタの狙い?」
「そうです、私が同伴させてもらうのも今回だけですよね。だからこそ少々のイレギュラーは許してもらえるでしょう?」
 祭祀が既に気配を隠す魔道を使い、森の夜道をひっそり教会まで行く。
 「子供攫い」でないっつー祭祀は、いなくなった魔道担当の代わりに今夜は動員されている。祭祀も一度は、ピア達の実際のところを確認したいらしい。そこに何でオレまで連れてかれるのか、この祭祀が何を考えてるのか、オレもピアにも不信しかない時間が今から始まる。


 教会につくと、裏口を開けながら祭祀がにこにこ振り返った。
「あまり騒がしくしないで下さいね。大事な客人が滞在されてますので」
 客人? 中には全然ヒトの気配を感じないから、人間の要人でも匿ってるんだろうか。っても頼まれたって会話なんかする気になんねーよ、この状況で。

 けれどピアは顔をしかめて、鎧を置いてある祭祀の私室に入る。
「一度会わせて、って、この間頼んだわよね?」
「それがですね、『アンタ達の都合で動く気はない、俺に関わるな』、ですって。まあ、子供攫いへの助力の代償にこちらも引き受けた客人ですし、ヘルシャ氏からもできれば丁重に、とのことです。相当扱いの難しい御仁ですよ」
「そう。騎士団とのパイプになるかと思ったけど、それなら仕方ないわ」
 おい、結局てめーらが喋りまくってんじゃねぇか、これ。その客人とやらに、わざと聞かせるように話してねーか?

 ちなみに「騎士団」っつーのは、第五峠という医療施設が多い港町を守る、大陸中から集められたならず者の奴らだ。
「騎士団ねぇ、そうですよねぇ、私も困ってるんです。第五峠に行く気はない、医学なんて興味もない、ですって。ヘルシャ氏が嘆きますねえ」
 話からすると、子供攫い協力者から、第五峠に留学生をよこしてきた流れに見える。
 でも当の本人が、誰がそんなとこ行くか。って駄々をこねて、教会に留まってるってわけか。何かつくづく、ややこしい奴らの集まりだな、これ。

 しかしさっきから、「子供攫い」でないはずの若祭祀は、妙にピアと気安い節がある。というか他のメンバーはどこにいんだよ、まさかこの三人だけで行くとかそんなわけないだろ? 仮にも国賊集団「子供攫い」だぞ?

 ピアが鎧を身に着ける横、きょろきょろしてるオレに対して、若祭祀は多分剣を仕込んだ祭杖を手に取りながら、少し困ったように笑いかけてきた。
「他の二人は、子供を旧王城から連れ出した後のための待機中です。なので、このまま三人で乗り込みますよ。私もさすがに、少しは緊張しちゃいますね」
「――は?」
「だから私一人でいいと言ってるのに。邪魔になれば殺すからね、アナタ達」

 何それ。無理やり連れてかれるオレが、鬼畜の堅固さを持つ旧王城に今夜は乗り込まされて、下手を打ったら味方側から殺されるっての?
 何つー無茶苦茶な。もうツッコミすら出ねえよ、これ。今まで気ままに旅をしてきたオレだが、こんな無法世界はそうそうなかったけどな。
 ごめんアニキ、オレ、通行証持ったまま死んだらアニキが困るな……全力を尽くすしかないってことだろ、こうして巻き込まれてしまった以上。

 不謹慎な話、実はオレも、まるっきり嫌々同伴というわけじゃなかった。
 まじでアレなら逃げ出してるし。さすがにオレも、そのくらいの力はある。
 旧王城――「子供狩り」で徴兵された子供の行き場は、嫌いな場所だが興味はあった。一人じゃ到底行けない敵地で、本当にこの人間の女が、あの強大な化け物の巣窟から、子供を攫い出すなんてできるものなのかと。

 「子供攫い」のことを、少なくともオレは、「子供狩り」より元々気になっていた。
 何せ、敵の敵だろ。義賊って噂もあるし、あんまり悪い感情はなかった。まあそれも、自分が殺されかけると話は別だけどさ。

 山奥のオレ達の里から、旧王都はあまり遠くない。化け物の速度で行けば、下山に半時間、砂利の街道を二時間半ってとこだ。その無茶な強行旅に、息も乱さず赤い鎧の人間はついてきていた。危なげ一つなく華麗に崖を下りる脅威の運動神経は、さながら優雅な猫を見てるようで、魔術の師匠の所にいる白い飼い猫が頭をよぎった。そういや元気にしてるのかな、あいつ。


 町の中央のでかい城以外、市場と民宿ばかりの旧王都につくと、ピアの顔が目に見えて殺気立っていった。オレも嫌いだ、ここの空気は。
 そんな中、唯一にこやかな若祭祀が、城の裏手の森で最終確認をしていた。
「さて、気配隠しですが、本当に貴女の分は不要なんですか? ピア・ユーク」
「一人で行けるって、さっきも言ったでしょ。私みたいな弱小の人間の気配、化け物達はいつも気付いたことはないわ」
 あからさまに冷たい声は、若祭祀への警戒心に満ちている。何故だかオレは、少しほっとして、今夜の仕事がピア一人なのも納得がいった。

 気配の弱い人間であるピアはともかく、化け物の仲間がいれば、ソイツらの分は祭祀の気配隠しの力を借りないといけない。
 だからこの女は今夜、一人で仕事に来たんだろう。今まではきっと仲間とやってたんだろうが、気配隠しが化け物達相手にいかに重要かはオレにもわかる。ちなみにオレは、俺の気配は自分で隠せる。

 頭巾付きの外套で全身を覆い、問答無用でピアが城壁まで進む。変に確信に満ちた足取りに、首を傾げるオレに祭祀がわざわざ説明を加えた。
「これがエア・レインの助力の結果ですよ。何処からであれば侵入が容易か、あらかじめ彼女に視ておいてもらうんですよ」

 日中に「千里眼」を使い過ぎたという姐貴。そういうことか、とオレは舌を打つしかない。鉤縄を壁にひっかけて登り始めた女に続き、警備の薄いらしい一画を、同じように外套に隠れるオレと祭祀も注意して上がる。
「っても、昼と夜じゃ兵士の配置が変わってる所もあんだろ」
「仰る通りです。まあその結果は、これからすぐわかりますよ」
 苦笑した祭祀の言う通りだった。城郭から狭い中庭に降り立ったオレ達の前で、赤い鎧の人間の女は、すぐさま思わぬ武器を取り出していた。

「――!」
 止める暇は全くなかった。宵闇の中、女は物陰から兵士を遠目に見つけた。人間の国でしか見たことのない、野太い矢じりを持つ凶器を背中から取り出す。引き金をひくだけで放たれた矢は、容赦なく兵士の横顔を撃ち抜いていった。
「てめっ……!」

 声を殺しつつも叫んでしまう。だってここは、旧王城だろ――見回り程度の弱小の兵士は、強化された武器とはいえ、矢一本で死ぬ程度の化け物だろう?
「今殺した奴だって、元は子供だったはずだろ!?」
「――」
 女は冷ややかな青い目でオレを一瞥しただけで、何も応えず行動を開始した。
 オレもさすがにそれ以上は騒げず、くそ、と呻きながら後に続く。

 まるでそれは、勝手知ったる場所のようだった。ピアの動きには無駄がなく、的確に城内の物陰を渡っていく。
 どうしても邪魔な位置にいる兵士には、さっきの飛び道具を向ける。待て、とオレは必死に魔術を使い、ピアが殺す前に兵士を素早く眠らせることになる。
 何となくだが。若祭祀がここに、オレを連れてきた意味がわかった気がした。
 いやもう、今となっては果てしなく、迷惑な巻き込まれ状態だけども。

 外周だけとはいえ、城のかなりの部分を回り切ったところで。
 これ、若祭祀、いらねーんじゃないの? オレがそう思いかけた時、ついに祭祀の出番が来ることになった。
「――お願い」
 ピアの一言に祭祀も頷く。目の前には小さな花壇があり、一人で雑草を抜く子供の姿があった。何でこんな夜ふけに、と不審に思ったオレだけど、それは実は、「子供攫い」に連れていってほしい子供達の暗黙の合図らしい。この城で繰り返された誘拐の意味は、狩られた子供の間に密かに浸透しているのだ。

 そう。あくまで「子供攫い」は、「子供狩り」から子供を助けに行っている。前王が定めた国策だから、ゾレンの住民は表立って反抗はできない。それでも、正直どうでもいい隣の人間の国と戦うために我が子を奪われる親達も、兵士にされる子供達も、納得してる者ばかりじゃないのだ。
 たとえそれで、存在を隠されることになったオレのように、今後はゾレンにいられなくなるだろう選択であっても。


 近付くピアの姿に気付いた子供が、一瞬で泣きそうな顔を浮かべた。黙ってそれを抱き留めたピアは、辺りを見回してから一息に言った。
「出るわ。リーザは最初の侵入路で、祭祀はこの子を連れて裏口に向かって。今から私が兵士を表に集める」
「――って」

 待て、それってつまり、こいつは囮になるつもりってことか?
 化け物である子供を連れていくには、子供の気配を隠しつつ、子供も通れる出口を使い城を出ないといけない。この子供を連れて素早く城壁を登れるかはわからないから、とにかく突破口を開かないといけないのはわかる。

 オレが反論できる隙もなく、ピアは次の瞬間にはもう一つの、人間としては最大の武器を取り出していた。
「私はそのまま正門から出る。後はファザー達の待機場所で」
 外套をばさっと(ひるがえ)し、手元にはさっきの飛び道具よりも小さな、それでいて殺傷力は高い、弱い人間用の特殊な武器があった。
 ゾレンの化け物が人間相手に苦戦する理由。銃という反則の古代兵器だ。

 そりゃこいつ、人間の女だから使っても不思議はないけど、ここでわざわざ取り出したのは殺傷力目的じゃなかった。
 止める間もなく、城壁の出っ張りをいくつも足場に郭上に跳び上がったピアは、風にはためく外套から片手を暗い空に向け、あいつがそこにいることを大きな銃声で城中に告げたのだった。

「――何者だ!? 子供攫いか!」
 白い月を背にして、前開きの外套の間から、赤い鎧が衆目に晒されている。
 顔は外套の頭巾を被ったままだが、細くしなやかな体つきからは、その賊が女であるのは誰の目にもわかることだった。
「打ち取れ! 敵は一人だ、絶対に逃がすな!」
 化け物は単細胞が多い。ピアの思惑通りに、目立つ標的に兵が集まってくる。

 そして、国賊たる赤い女を目指して群がる、甲冑の雑魚の兵士達と同様に。
 オレもどうしてか、月の下で泰然と立つピアから、しばらく目が離せなかった。
「リーザくん、もう、私は行きますからね? 合流場所、わかりますっけ?」
「――」
 って、そんなん知るわけないだろーが。大体裏口に回った後は、祭祀と子供が無事にどっかの門を通れるように、今度はオレが援護するのが肝心だろう。
「っせーな、行くっつーの。てめーはともかく、子供は何も罪はねーからな」
「それは頼もしいです。やっぱりリーザくんに来てもらって正解でしたね」

 くそ、この若祭祀はいったい、どれだけオレのことを知ってるんだろう。
 俺はアニキを、「子供狩り」から守るための「存在しない獣」だ。もしもオレが隠されずに生きていたなら、ここにいた子供はアニキかもしれない。だから逃げたがってる奴なら、連れてってやるしか選択肢はない。

 そうしてオレと祭祀は、十歳前後の化け物の子供を連れて、裏門にいた兵をオレの魔術で眠らせて監視対策用に暗影を出した後、子供と祭祀を外に出して城門を閉めた。
 オレはピアの指示通りに、城壁をもう一度登って城から脱出し、子供が裏門から出た形跡を消すことにもきちんと成功したのだった。

3:千里眼

 
 若祭祀がオレと化け物の子供を連れて、城を出てから向かった「合流場所」は、泥が大量に投げつけられた壁のある民家だった。
 旧王都の中でこんな扱いをされてるのは、同じゾレン人でも化け物ではなく、人間の住む家だろう。背の低い木の柵の内側にまでも、獣の臓物といった酷いごみが打ち捨てられていた。

 軽く顔をしかめた若祭祀が、人目を忍んで裏側から敷地に入る。
「こんな陰湿な排斥運動は、化け物の隅にも置けませんねぇ。西部の皆さんは、優雅さというものを欠片も持っていないんですから」
 人間の隣国と紛争を続けるゾレンは、国内の人間にも隣国に出ていけという圧力をかけてきている。そもそもは人間と共存するはずの国だったらしいのに、役立たずの人間は目障りだというのが昨今の風潮でもある。

 木造の民家ではピアが先に、赤い鎧を脱いでオレ達を待ち受けていた。
 あれだけ派手に王城で立ち回りながら、危なげなく逃げてこられたらしい。その途中にどれだけ化け物を殺したのかは、もうききたくもない話だった。

 ピアを寝台に座らせ、子供を後ろで寝かせた家の主は初老の人間の男だ。
「今日は随分、いつもと違う顔ぶればかりじゃのう、ピア?」
 家にはもう一人、通称「ファザー」という、子供攫いの一員がいた。眼鏡をかけた穏やかな中年男で、後一人新入りがいるらしいが、そちらは攫ってきた子供の親がわかったので、連絡を取りに行っているとのことだった。

 初老の男を見つめるピアの顔に、オレは正直面食らった。そこにいたのは、今までからは考えられないくらい、柔らかな雰囲気で微笑む人間の女で。
「すみません、師匠。グライダーが抜けて、『サライ』はこれから、今までよりペースが落ちるのは避けられそうになくて」
「そうか……ファザーからもきいたが、これからは、ザインに行くのも一苦労じゃのう。なるべく国内で、親がすぐに見つかる子供だと良いんじゃが……」

 何を話してるのか、さっぱり事情がわからないオレに、若祭祀がこっそりと耳打ちをしてきた。
「今までは前にいた魔道士が、攫った子供を迅速に北の地、ザインの隠れ場に送る飛行を担当してたんですよ。それも教会の客人の人脈でして、中立地帯のザインで魔道を習ったのが『グライダー』でね」
 さらには、この家の老人は、隣の人間の国ディレステアに親戚のいる人間の古学者らしい。ピアとは古い知り合い、という雰囲気は何となくわかる。

「こんな時に、わしも最早ディレステアへ引き上げなければならんとは、本当に不甲斐ないのう。すまん、ピア……」
「そんな、師匠。師匠は十分、あたしを助けてくれましたから。体も良くないし、軍部にも目をつけられ始めてるし、早くディレステアで療養して下さい」
「でもここがなくなれば、今後はいったい、どこで攫った子供を匿うのかの?」

 心から心配そうな老人は、よりによって旧王都の中で堂々と、こうして国賊に力を貸していたものと見える。何つーか、子供攫い……「サライ」の連中、本当ローカルな、素朴な有志の集まりなのが実情っぽいなぁ……。
「大丈夫です、心配しないで。見ての通り、新しい仲間も増えましたから」
「そうかのう。しかしファザーは、新しい二人、特にそちらのいけめんは信用できない、とぼやいておったよ?」

 コホン、と水場の前にいる中年男が咳払いをする。そりゃそーだ、何かオレ勝手に新しい仲間って言われてるけど、ピアが老人を安心させたいだけだろ。仲間でも何でもない闖入者を、他の奴が信用するわけがない。
 ってーか、奥にいる「ファザー」と後もう一人、完全に新入りしかいないなら、普通に存続の危機なんじゃねぇの? それって。

 オレの懸念を裏付けるように、ファザーたる仲間がそこで口火をきっていた。
「リーダー、今からでも遅くはありません。グライダーを連れ戻してはどうか」
「ファザー。それはもう何度も説明したはず。グライダーの方針は今のサライには無理な話よ。確かに彼は優秀な魔道士だけど、思い上がっているわ」
「そうかのう、ピア……自信家な青二才じゃが、お前さんの言うことであればきくのではないかのう?」

 隅にいるオレや祭祀を、そっちのけで始まる「サライ」のミーティング。
 何となく若祭祀と目を合わせて、黙って壁にもたれて座ったオレ達だった。

「それが駄目なの。グライダーの許嫁が、あたし達の正体に気付きかけてる。グライダーはともかく、彼女は彼に危険を冒させたくないはずなの。旧王城に彼が、兵士として潜入するなんて無謀過ぎる」

 それは確かに物騒な話だった。昨夜は必死に、強い気配を避け回ってたから無事脱出できた城だけど、あそこに配備された化け物は城の中枢にいくほど、ゾレンのトップレベルの化け物が揃ってるはずだ。「最強の獣」たる俺だって、命をかけても奴らを複数なんて相手はできない。

 結局は他人事なので、発言権なしという顔で聞き流していたオレだったが。
「困ったことだのう……全ては、グライダーがお前さんに惚れてしまったのが、間違いの元かのう……」

 はああ……と大きな溜め息をついた老人。何故か妙に、そこからの会話が、オレの無関係な耳についた。
「師匠、それは違うの、グライダーは焦ってるだけよ。サライを始めた頃とは違って、城の警備がどんどん増員されてきているから……」
「残った初期メンバーもグライダーだけですしね。その彼をここで切るとは、私には正直、リーダーの発想が理解できない」

 初期メンバー。ってつまり、「子供攫い」を始めた張本人の一人か。
 ピアも人間の女のくせ、リーダーだときた。しかも多分、話的には最初からずっと。
 対してエアの姐貴は、初期メンバーじゃないっぽいな。まあ、それはそうだろうと思う。姐貴は普通にオレ達の里で、人間として生きてきたんだし。

 グライダー。「子供攫い」の初期メンバー。何故かその通称がオレの頭を回る。
 ピアはファザーに対しては、老人とは違う冷たい顔を向けた。
「グライダーは必死なだけだけど、その周囲は、裏切らないとは限らないの。隠し事を通せないくらいに、グライダーは功を急いでしまってる。あたしは、一番の仲間だった彼の許嫁を殺す末路は、さすがに御免なのよ」

 ……何だかそれは、聴いてるだけだと、老人の言が正しい気がしてきた。
 ソイツ、誰だかしんねーけど、ピアにいいカッコしたいんじゃねぇの。んで、許嫁とやらは、旦那の目が余所を向いてるのが気になってんじゃねぇの。
 一番の仲間……お前、そんなことを、化け物の男に平然と言ったのかよ?

 人間の基準じゃどうか知らね―けどさ。それ、戦いに生きるのが性の大体の化け物男には、結構な殺し文句だからな?
「リーザくん。何さっきから、不機嫌そうな顔をしてるんですか?」
 にやにやと、祭祀が急に話しかけてきた。意味わかんねぇな、コイツも。
「最初から思ってましたけど、リーザくんって、敏いですよね。それなのに、自分の機嫌には恐るべきほど鈍感ですね。私も見習いたいです」
「はぁぁ?」
 含みある笑顔に、何となく凄んだオレ。
 本物の「子供攫い」たる場の面々に、一斉に不審の目で見られることになったのだった。

 一通りの話し合いが終わると、次の「子供攫い」からはもう使えないという、人間の民家を足早に出た。攫った子供はそのまま残し、親が迎えにくるはずという話だった。
 ファザーとピアは、すっかり一般ゾレン人の風貌に戻り、若祭祀とはここで協定が終了という雰囲気に見えた。
「それじゃ、これで今回の仕事は終わりですね。私は教会に戻りますが、また何かあれば助力致しますよ」

 きけばサライは、今夜も旧王城に忍び込むらしい。昨日の今日で、さすがに性急過ぎるとオレも思うんだけどよ?
「今だと一回につき、一人攫うのがやっとですからねぇ。グライダーがいた頃でも、頑張って二人を運ぶのが関の山そうでしたけどね」
「いくら攫っても、安全に運べなきゃ意味がないでしょ。ザインは遠いわ――大体の子供は、ザインに隠すしか守る方法がないんだから」
 ……何となく、胸が痛くなった。こいつらは本当に、大きな力はない人間と化け物で、こんな国賊活動を必死に続けているのがわかってしまう。

「まぁ、気を落さないで下さい。人手で良ければ、いつでも派遣しますからね」
 ちょっとマテ。その「人手」はまさか、オレのことか?
「アナタはエアをちゃんと見てて。そのために近くに住んでるんでしょ」
 ちょっとマテ、どういうことだよ。そう言えばどうして若祭祀は、サライの手伝いと言いながらサライではなく、中心メンバーでない姐貴の傍で、姐貴の「千里眼」を使ってるんだ。いったいどういう立ち位置なんだよ、コイツ?


 何故かそれから、オレは里まで祭祀と一緒に帰ることになった。
 気になることは色々あり過ぎる。でも単純にきいただけじゃ、大事なことを言ってくれるわけはない。山道を登りがてら、軽口のように言う。
「あのさ。『千里眼』って、そんなに珍しい能力なのかよ?」
 エアの姐貴と取引をするコイツ。稀少価値があるとすれば、そこなんだけど。
「そうですけど? 見張ってないと、今にも死んでしまいそうでしょう、彼女」
「――」

 素朴な答は、多分そのまま、真実だった。
 コイツは、何かの理由で、姐貴を守るために近くにいるのだ。口調より凛としている、灰色の目には嘘がない。
 里について祭祀と別れ、姐貴宅に行ったオレは、それを思い知ることになる。


 昨日は会えなかったから、まっすぐ隣に向かったオレの背筋が凍った。
 エアの姐貴の気配が、普段以上に酷く拙い。ひょっとして昨夜、オレが同行したサライの仕事を、ずっと視ていたのだろうか。姐貴ならやりかねない。
 呼び鈴にも出られないほどなら、オレが立ち往生してる理由はなかった。

 扉にかかった簡単な鍵を、音がしないよう些少な魔術でこっそり破壊する。
 故郷で自分の姿を隠すって、本当面倒だ。
 一番親しいご近所の仲とはいえ、人間の女の一人暮らしに侵入するのは気がひける。でもアニキなら迷わずに、扉を蹴り開けて乗り込んでいただろう。

「……――!」
 土間に繋がる台所の、木造の壁一枚をへだてて。隣の部屋でエアの姐貴は、親の形見の地図を広げた床に、横向きに倒れ込んでいた。
「あ……リー、ザ……?」
 その手元は血まみれで、思わずオレは声を呑み込む。やばいこれ、姐貴の目も空ろだし、オレを見る傍から咳込んで真っ赤な血が流れていく。
「って――オイ、今すぐ医者行くぞ、姐貴……!」

 がばっと駆け寄って、オレは膝をつく。姐貴の体に手を回して抱き上げようとしたが、姐貴はまた強く咳込みながら、オレの腕を掴んでそれを拒絶した。
「いやっ……こんなの、いつもの、こと……」
「言ってる場合か! 我が侭言うなら、ライザも呼んで無理やり連れてくぞ!」

 エアの姐貴は、もう本当に、医者嫌いだ。
 というよりは、医者のいる第五峠に行く道が嫌なのだ。昔、両親が死んだ辺りだから。見られてはいけないオレには、抵抗する姐貴を連れ出すことは難しい。
 アニキの名前を出したオレに、姐貴はさらに強くオレの腕を掴む。懇願するようにオレを見上げて、血の絡む喉から泣き出しそうな声を振り絞った。
「だめ――ライザには、言わないで……!」
 本当は鋭い赤の眼が、強く歪んで滲む……何故かこんな場面で、子供攫いのバカ女の言葉が、オレの頭を急によぎった。

――エアはいつも、半分も本音を言っていないわ。

「ライザ、悲しむでしょ、何もできないのに……! お願いだから言わないで、もういいから、私のことは放っておいて……!」
 気丈で気さくな姐貴の、いつになく激しく、重い……涙混じりの声。
 バカ女の言うことが確かなら、多分こっちが、エアの姐貴の本音なんだろう。
 姐貴の言う通り……アニキに知らせても、無理やり医者に連れていっても、どの道アニキは苦しむ。こんな姿を見れば、誰より心配するのがアニキだ。
「大丈夫――大丈夫、だから……」

 姐貴はずっと、アニキに心配をかけないように、気丈に振舞っているのだ。その陰でこうして多分、何度も体の不調を隠しながら。
 それが姐貴をここまで支えてきた、気力の源でもあるんだろう。儚い人間の妻を亡くし、失意の中で「悪魔」化した、オレ達の親父を知っているから。
 姐貴はきっと、アニキにだけは、それをさせたくないのだ。

 くそう全く、何でこの二人くっつかないって、オレのイライラはともかく!
 どうすればいい、とにかく今の姐貴には、何かの治療が必要なはずだ。朦朧(もうろう)としてても意識はあるし、姐貴が納得する選択をとらないと、何処にも穏便に連れてはいけない。
「――わーったよ! 医者が嫌なら、教会に行く! 若祭祀なら少しくらい、治療系の魔術も知ってんだろ!」
 咄嗟に思い付いたのはその程度だ。しかし姐貴は、存外に納得したらしい。ほっとした顔付きで、笑って頷くと……途端に、意識を失ってしまった。

「ってオイ……! ああもう、どうせ眠るなら姐貴、もう少し早く眠れよ!」
 約束してしまった以上は、医者ではなくて、教会にまず連れて行かないと。
 初めから意識がなかったら、遠慮なく第五峠に連れてったのに……! 姐貴は本当頑固だから、ここで信頼を失うわけにはいかない。

 実際は祭祀の魔術なんて、オレより多分当てにできない。オレは攻撃魔術を主に習って、後は通信とか気配を殺すとかの初歩魔術ばかりで、人体への介入となると記憶操作くらいだ。オレがもしも、解毒や治癒といった高度な魔術を使えるとしたら、双子であるアニキ相手にくらいだろう。
「あの祭祀野郎、オレより魔力少ねーし……! 多分剣バカだし……!」
 エアの姐貴を寝台にあった毛布でくるみ、横抱きにして夜の森を駆ける。
 若祭祀に期待はしてないが、とにかく誰かに相談をしたかった。
 加えてだ、若祭祀が姐貴を医者に連れていけば、オレも約束を破らずに済むし!

 本当に難儀だ、畜生、と思いながら、ようやく外れの教会に駆け込むと。
 祭祀はおやおや、と、とてもむかつく余裕の顔で、オレ達を出迎えたのだった。


+++++


 困りましたね、と。全然困ったようには見えないいつもの笑顔で、若祭祀はあっさり言い放った。
「これは多分、第五峠に運べるまでもちませんね」
 私室の寝台に姐貴を寝かせ、オレが睨む前で無難な観察を終えた若祭祀が、にこにこと続ける。
「運ばれるだけでも、体力って消費するんですよ、リーザくん。それこそ安静に横たわったままで、ほとんど揺れの無い移動手段でない限りね」
 ……コイツが何を、言わんとしているのか。
 アニキを知ってるコイツは、オレ達の素性をあらかたわかっているはずだ。オレはさすがに、もう正体を隠すことは難しいのだと悟る。

 そうなるとやっぱり、俺が姐貴を運ぶしかない。たとえそれで、姐貴に嫌われたとしても。
 一刻の猶予もないはずだった。それじゃあ、とすぐ、姐貴を抱き起こそうとしたオレに、若祭祀は笑い――突然、意外なことを言い出してきた。
「リーザくん。ちょっとばかり、席を外して下さい」
「――は?」
「エア・レインの治療は、先日からうちに滞在している客人に頼んでみます。おそらくその方が早く、彼女への負担も少なくて済みます」
「……え?」

 そう言えば、何か、いたっけ。本当なら、第五峠へと派遣されるはずだった、子供攫い協力者からの留学生だ。
――アンタ達の都合で動く気はない。俺に関わるな。
 ソイツはどうやら、高名な魔道の家系らしい。確かに今もいるはずなのに、完全に気配を隠せるくらい上手だから、オレもすっかり忘れ去っていた。

「でもソイツ……信用できるのかよ?」
 だって確か、医学なんて興味もないって、はっきり言ってた奴なんだろう?
「まあまあ、私に任せて下さい。『千里眼』エア・レインは私にとって、かなりの優先事項ですからね」
「…………」

 ひたすら胡散臭いコイツだが、その言自体は本当のはずだ。何しろずっと、「千里眼」を利用してきてやがるんだし。
「心配なら君も、今みたいに気配を消したまま、隣で待っていて下さい。壁が薄いので声も聞こえますし、気に入らないことがあれば君の身上を犠牲にして、飛び出してきてもらっても構いませんよ」
 ……う、ぐう……。畜生、コイツ……「存在しない」オレの弱味を、本当に的確についてきやがる……。
 かなり慌ててここまで来たオレの気配を、高名な魔道家の客人が気が付いていないのか、それも怪しい気はするが……いらぬトラブルを呼ぶことはない。
 黙ってオレは、静かに隣室に引っ込むことにした。


 隣の雑務部屋にオレが陣取ってから、数分程で若祭祀は客人を連れて戻ってきていた。
 廊下の方からいつも明るい、クセモノの若祭祀の声が、二つの足音と共に響いてくる。
「まあまあ、本当に、無駄なら無駄で良いんですから。とりあえず一目、診てあげてくださいね、ね?」
「…………」

 溜め息しか聴こえねぇけど、次に響いた声調がイケメンっぽい客人は、やっぱり痛く不服そうだった。
「何で俺が……人間の治療なんて……」
「といっても、どうせ暇を持て余されてますよね? それなら日々、お世話をしてる私の頼みの一つや二つ、きいてくれても罰は当たりませんよ」

 ……本当にあの客人、ここに居候してるらしい。こんな若祭祀相手に、よく平然と滞在してるよな。
 ていうか、何もやることないって、何気に辛くねえ?

 医学はともかく、治癒の魔術に関しては、客人は少し心得があるようだった。
「特にアナタはザイン出身で、幸い、魔力持ちじゃありませんからね。魔力を持たない人間の治療は、アナタの方が適しているはずなんです」
 何気に今、物凄いことをきいてしまった。魔力がないのに――魔道家だって? 
「アンタも一々うるさいな。殺されたいのか?」
 それは客人にも地雷らしい。何かの取引で留学に出されたとか言ってたが、魔力もなしに、治療系とか高度な魔術を扱えるとしたら……それは、そこらの魔道士とは、桁が違う奴ってことなんだけどよ?

 魔力がないからと、家から出されなかったアニキとは対照的だ。
 オレみたく、「気」を勝手に魔力にしてしまう化け物、その素質がないアニキとも違う……世界の「理」、魔道を凌駕する自然干渉能力を、持ってるってことなんだから。

 たてつけの悪い扉が、ぎぎっと開いた。若祭祀の私室に二人が入った音だ、わかりやすいな。
「こちらです。この里では数少ない人間――そして、前にお話していた珍しい『千里眼』です」
「……――」

 そうして客人が、エアの姐貴の傍に立った直後に。
 まるで、この教会の空気までも変えそうな程の動揺。強大な化け物が大きな吐息をついたのを、オレも祭祀も見逃さなかった。
「これは……人間、の、白皮症か……――」
 まあ……無理もないと思うけどさ。絹のような銀髪で、全身が真っ白な肌のエアの姐貴、大袈裟に褒めれば、絶世の美女だもんな。

 動揺した客人は、思わず気配を隠す魔道までも緩めてしまったらしい。息を呑み、呆と立ち尽くす様子が、手に取るように伝わってきた。
 若祭祀の奴、全く策士だよな。人間で、千里眼とだけ言って、エアの姐貴がめちゃめちゃ美人なことは言わなかったんだろう。その姿を見て、客人に自らやる気を出してもらう方がいい。笑っちまうけど、男のサガだよな。

 若祭祀が見守る前、脈とか顔色を多分確かめた客人は、すぐにかなり険悪なムードになっていった。
「……酷使し過ぎだ。『千里眼』……人間が無理にやる気配探知は、無駄な気の消耗が多過ぎる」
「やはりそうですかねぇ。しかも、遠距離ですしねぇ」

 化け物みたいに、相手が発する気を感じる感覚を人間は持ってない。だから通常、気配を感じることのできる人間は、まず自分の気を飛ばしているのだ。
 探る対象にぶつかり、弾かれ還ってきた自身の気に、混じったものの気配を感じる手法。姐貴の「千里眼」の正体は、オレも前からわかってはいた。
 だからその不調の正体は、「気」の枯渇なのだと。

「人間にとって『気』は、唯一で最大の『力』……生命力そのものだ。人間は食事か呼吸でしかそれをとれないのに、どうしてここまで消費させる?」
 還ってこなかった気は、要するに使い捨てになる。還った分も、ヘンなのが混ざってるから、使い物にはならなくなるのが人間の気配探知だ。
 客人は純粋に、エアの姐貴の消耗ぶりに、周囲の扱いを怒ってるようだった。

 ……てーと、何か……意外に、イイ奴っぽいな?
「ええ、ええ、わかっておりますよ。でも『気』を補うなら、ヒトから分けて貰う方法もありますよね?」
「…………」
 対して祭祀は、とてつもなくあくどい。さっきまで散々魔力うんぬんの話をしてたのは、要するに、気を魔力に自然変換しないこの客人なら、姐貴に気を分けることもできるだろう、と言っている。
 ……やっぱりオレ、この若祭祀は、誰か知らねえけど敵に回したくねぇ。

 そういう意味では、魔力無しのうちのアニキも、エアの姐貴を助けることはできなくもない。
 けれどそれをこそ、姐貴は拒んだのだ。何故なら、結局……それは、一時的な解決でしかないからだ。

 客人もオレの思いと、全く同じことを指摘する。
「この『気』が駄々漏れの体質自体、改善することはできない。特にこの人間が自ら、その能力……命を削る『千里眼』を、望んで使う限りはな」
 眠ってるエアの姐貴を、一目見ただけで、本質をそこまで看破する化け物。
 ただ者じゃないことは、重々過ぎるくらいによくわかった。そしてきっと、エアの姐貴を――心から憐れんでくれてることも。

 気が早いかもしれねーけど、ほっとしてしまった。
 ついでに、外に嫌な気配も感じてしまったから、ここは若祭祀達に任せて、オレは外に出ることにしたのだった。


 教会の裏手の森には、赤い鎧を着たピアと、その手下が集まってきていた。
「……何しにきやがったんだよ、てめぇ」

 エアの姐貴が弱ったのは、こいつらの「子供攫い」に力を貸してるせいだ。
 知らずきつい目でピアを見るオレに、赤い鎧の女は相変わらず、冷淡な声で返事をしてきた。
「祭祀から連絡を受けたのよ。エアが倒れたって」
 何も感じていないようにピアは話す。その冷酷さが、やっぱりオレは無性に腹が立つ。
「エア、今夜の仕事の協力は無理だってわかったわ。でもアナタは、手伝ってくれるって約束したわよね?」

 オレの代わりに、エアの姐貴がこの組織に留まるなんて、勝手な取引を言うもんだから……。

――ざけんな! 姐貴に何かしたら許さねーからな、てめーらの活動なんてオレ一人いりゃ十分だろう!

 ついつい、啖呵を切ってしまったアホなオレを、女はこうやって迎えにきたわけだった。昨夜の一回で、オレが使えることはわかっただろうし。
 でもそれ、オレは若祭祀に言ったんだけど……くそう、自分は子供攫いじゃないって言うくせに、ヒトを勝手に人手扱いしやがってアイツ。

 噂をすれば何とやらで。場に後一人、若祭祀が教会から出てきた。
「おやおや。あまり不穏な空気を醸さないで下さいね、サライの皆さん」
「って、てめぇ、姐貴は――」
「大丈夫ですよ、後はあの方にお任せしています。どうやら、部屋ごと治癒の結界を張るようなので、魔力持ちの私は邪魔だと追い出されてしまいました」

 って……見も知らぬ化け物の男と、エアの姐貴を二人きりに……? やべえ、それアニキが知ったら、殺されないかな、オレ。
 まあでも、若祭祀も信頼できねーし、こうなってしまうと一緒だった。

「アナタはどうするのよ? どうしてここに?」
 全員から不審そうに見られる若祭祀は、本当に、子供攫いではないらしい。ある意味凄く、重要な立場の気がするけど、オレにはとんと想像がつかない。
「私にも、行かないといけない所があるんですよね。でもリーザくんに黙って『千里眼』を放っていけば、怒るだろうなと思いまして」
 わかってんじゃねぇか。ほんとに食えない奴だな、コイツ。
「まだ留学生を待つ第五峠に、説明しに行かないといけないんですよねぇー。全くもう、間に立たされる私の身にもなってほしいもんですねぇ」
 いや、そこまで事情、聞いてねーし……。
 でも今は、あの魔道家にここにいてもらわねーと困るし、そもそも行きたくないとずっと言ってたし……若祭祀の言葉は案外、言うほど裏表はないのかもしれない。どれだけ胡散臭いにしても。

 そうして、旧王都に向かう「子供攫い」とオレ、第五峠に向かう若祭祀に、この場で別れたのだった。


 旧王都に向かう街道で、オレは黙りこくりながら、国賊な奴らの後についていく。
 エアの姐貴の容態が、ひたすら心配になる。
 けれど現在、オレにできることは、姐貴の代わりにこいつらの手伝いをすることのはずだった。

 そんなオレの気も知らずに、昼間の時にはいなかった新入り。多分、新しい魔道担当な長髪野郎がオレを冷やかしやがる。
「ねーねー、ドレイク、何ずっと黙ってんのさぁ? まさか途中で裏切ったりしないよね、ねー?」
 ってか、ドレイクって俺か。誰がつけたんだよ、そのベタな通称はよ。

「……アホか。疑ってんなら、連れて行くなよ」
「冗談よー! ファザーはドレイク、信用できないって言ってたけど、おれは印象悪くないのよ、ドレイク!」
 通称ファザー。このメンバーで一番年長の、対外交渉の担当ぽい穏やかな男。腹は相当黒そうだが、対照的にこの「ブラザー」という長髪バカは、やたらに軽いノリで話しかけてくる。
「おれっちも今日は、単独術式で初デビューなんさぁ! ドレイク達の気配隠し、おれっちにかかってんだから、もっと丁重に扱ってくれよーう?」
「ざけんな。自分の気配くらい自分で隠す」

 っつーかオイ。本気で初陣なのかよ、コイツ。
 前の魔道担当――「グライダー」がいなくなったとは、昼に聞いたけど……。
 ファザーは元々、現場には参加はしねーみたいだし。つまり今夜は、オレとコイツに、ピアしかいないってことなのかよ。
「ちょっと待てよ。やっぱり人手不足過ぎねえのか、てめーら」
「だから言ってるじゃーん、手伝ってってぇ。こう見えてもおれ達、命かけて仕事してるんよー?」

 後方のそんな軽々しい会話を、先頭を行く女は、ほとんど意に介してないようだった。
 暗い夜道の中、前だけを見ている冷たい青の目は、何を考えてるのか今もほとんどわからなかった。

4:ピア・ユーク

 
 新入り「ブラザー」は、よくやった方だと思う。
 怖気づかずに、「おれっちの気配隠しの凄さを証明する!」と言って、堂々と裏門から城に入った。番人はオレが寝かせ、遠い監視の目をブラザーが封じる。門の音だけ気を付ければ、オレも赤い鎧の女も誰にも気付かれずに入れた。
 しかし攫う子供を見つけて背負わせた途端、おれっち、体力ないんよ! と集中力が一気に落ちた。
 でもオレとピアは脱出ルートを練らなきゃだしで、何とか城門だけ出たところで、とにかく子供とファザーの所まで行け! と、オレとピアを囮に、ブラザーを逃がすまでが精一杯だった。

 勿論外套に身は隠していたが、そもそも今夜は、警備の薄いルートが何処かわからなかった。
 オレと赤い鎧の女が潜む路地裏の四方を、大量の兵士が包囲している。旧王都全体を守る、目自体をごまかすのは難しい数の衛兵達だ。
 とにかく多いんだよ、アイツら。どうする、どうやってここから逃げる。

 俺には本当は、方法が一つある。でもそれは下手をすれば、アニキに多大な迷惑をかける。できればやりたくない。
 気配隠し自体は苦手じゃねぇが、ブラザーみたいに監視がいるはずの場所を素通りできるほどの、尖った魔術は専門じゃない。
 物理的な五感って気配探知以上に、介入するには厄介なんだよ。オレには顔をぼやかすくらいが無難だ。

 衛兵達が近付いてくる。なまじ選択肢があるオレは、悩んでしまう。
 こういうのも「存在しない獣」の不便なところだ。オレは誰かに、とにかくオレの存在を気取られかねないことをなるべくしたくない。
 避けられない接近を察知した途端、突然オレの横で、バカ女はいったい何を思ったのか……ずっと着けている赤い鎧を、とてつもない素早さで外し、篭手までを全て脱ぎ始めたのだった。

「――!?」
 驚くオレにも構わずに、脱いだ鎧を一か所に集め、同じく脱いでいた外套をかぶせる。さらに女は、オレをその鎧を隠した上に強引に座らせていた。
「黙ってて! ここから絶対に動かないで!」
 今やバカ女は、薄手の半袖と短パンだけの姿だ。
 こいつ、こんな腰細いのに胸あるなとか、つまり凄くスタイルの良い女は、オレの前に膝立ちになり……衛兵達の足音が間近に迫ったその時だった。

「……――って……!」
 はらりと、中開きの薄い上衣を、バカ女は無遠慮にその中央をはだける。
 やばい、まじやばい、そのまま形良い胸のラインが丸見え、つかサラシ一つつけてねーのかよこのバカ女!?


 完全に茫然としたオレを女は無視し、そのままこの裏路地に衛兵が気付いた瞬間……がばりと、オレの首に両手をかけて、勢い良く抱き着いてきた。
「っ、え、お、お!?」
 当たり前だが、柔らかい胸が押し付けられて、白い腕の生肌も顔に当たる。
 ちょっと待てオレ変な声出してないか、というか体全体がマジで固まる。

 そこをオレ以上の変というか、物凄く艶めかしい、つまりやらしい声と共に――バカ女はオレの首筋に、冷たい唇まで押し付けてきやがったのだった。
「あはっ……ダーリン……」

 それと同時に、数人の衛兵がここに踏み込む。
「貴様ら! 何をやっている!?」

 そう、それは当然の不審尋問。この包囲網の中、逃げ場のなかったオレ達に、かなり最悪の危機たる状況だったのが……。
 路地の出口に立った奴らに、バカ女はふとオレの首を離すと、それはそれは、何とも可愛らしい声で……。

「――きゃあんんっっ! ああん、見ないでえ!」
 さも大慌てにし、はだけた服の前を両手で閉めながら、涙目で衛兵達を見て大声を上げる。
「いやあ、邪魔しないでよぉ! ダーリン怖いよう、あんなのやっつけてぇ!」
「――!?」

 やっつけろ。なんて言いつつ、オレの上から全くどかない半裸の女に、オレが絶句したのもさもなん。
「はっ、貴様ら……若いとは結構なことだな、全く」
 うんそれ。絶対そう見えるよな、この状況。バカ女の声色とか素振りとか、あまりに悦に入っているので、オレは逆に冷静になっていく。
 黙ったままのオレや人間の女に、害はないものとみなしたか、衛兵達は実にあっさり納得していた。気配はずっと隠してたから、悟られてないだろうし。

「貴様も物好きな奴だな。人間の女なぞ脆過ぎて、一夜の楽しみにもならんわ。せいぜいよく、ご奉仕でもさせることだな」
 ひでーなそれ。化け物男の常識なのかよ、それ。
 人間の母親を持つオレは、バカ親父がとにかく、母親を猫可愛がりしていたことしか覚えていない。しかしここに来た奴らにとって人間の女とは、不審を抱く価値もない慰み者でしかないらしい。
 ……あ、やべぇ。何かオレ、無性にむかついてきてる。

 混血のオレが思わず、怒気を纏いかける。
 しかしあまりに気が抜ける色声を、バカ女がそこでまた大音量で出しやがった。
「いやぁぁん! もう早く、あっち行ってぇぇ!」
 うげぇ……こいつ、子供攫いなんて張るだけあって、やる奴だよな……。
 オレの首に、またもきつく抱き着いてきつつ、横目で恨めしそうに衛兵達を睨む。
 そうして不粋な闖入者達は、下衆な笑いを残しながら、あっさりと捜索対象を見逃して場を後にしたのだった。


 足音が遠くなり、女がオレから腕を離す。オレの上からそいつが降りた途端……突然、オレの全身を、アホ程の恥ずかしさが大爆走を始めた。

 いやいや。ちょっと待てオレ。何で今頃熱いんだオレ。頭から湯気出るほどやばい、何か絶対沸騰してるだろこれ。
 さっきまでの冷静どこいった。ちゃんと動かず合わせたオレ偉いだろ褒めろ。ただの演技だろそうだろ、こんなのアレだろ、親父とかの冒険談でよくあった追手の切り抜け方だろ、何と古典的な手法って奴だ。
 くそうこのバカ女、場慣れしてやがる。いや待てこんなの娼婦と一緒だろ、別に買ったことねーけど絡まれたことくらい何度もあんだろ、なのにオレは何全身赤くなってんだ、ちょっと待て本当に待て冷静になれオレ。畜生こんなの反則だろまじで、女ってずりぃし。

 演技派のバカ女は、背中を向けて黙り、着衣を直しているんだろう。オレはとにかく、強がりを言うことしかできなかった。
「……っ。あんたもたいがい、隅におけねーな、ち」
 違う、舌打ちしてやると思ったのに、やっぱりまだ何かがおかしい。
 オレが声を出した瞬間、バカ女が何故かびくっと硬直しやがったから、余計上手く言えなかった。オレの顔はもう冷静になってるはず、そのはずだと願う。

 魔道士の基本は理性――精神の制御だ。
 オレは喧嘩っぱやいとよく言われるし、好き勝手暴言も言うが、少なくともアニキよりずっと冷静だと思う。アニキアイツ、一見は穏やかげに見えて、一度キレたらオレより収拾つかないんだからな。

 アニキのことを考え出してから、やっと気が紛れてくれたか、少し落ち着きオレはふうと息をつく。
 もう衛兵達が行ってから、大分時間がたっていた。っつかいつまで、この女、後ろ向いて服直してんだよ?
「……オイ。いい加減、さっさと鎧着て移動……」

 人間の生身は弱過ぎて危ない。相当目立つ鎧だが、鎧の下が無力っぽいのはさっきわかったし、オレはバカ女の細い肩をぐっと掴む。
「オイ、ヒトの話――
 きいてるのか、と、未だに全然動きやがらない女を、こっちに強引に向けたところで――

 そこにあったのは、それこそ、さっき以上に反則な……直した着衣の襟元をぶるぶると掴み、顔中を真っ赤に染めて俯いている、初心な乙女の姿だった。

「っ――……!?」
 ってオイオイ! さすがにそれは違うだろ!
 てめーからやってきたのに、恥ずかしがられるとこっちも恥ずかしいだろ! 
 何そんな赤くなってる、しかもひょっとして今までずっとかよ!?

 咄嗟に呼吸を詰まらせた俺を、真っ赤なバカ女は全く見ずに、やっと何やら口を開いた。
「ごめんなさい……! あたし、ごめんなさい!」
「――は?」
「ごめんなさい、あれしか思いつかなかったの、本当ごめんなさい! あたしなんかが触って本当ごめん、怒って当然だよね本当にごめん……!」
 気が付けば、バカ女の声は涙混じりで、いつもの冷淡な物言いは何処吹く風で……俺はもう、何か色んな反則も忘れて、ただただ、呆気にとられる。
 このバカ女……いったい、何者なんだ? と。

 突然すっかり、砕けた口調になった赤面の女は、へたりと座り込んだまま、ぐしぐしと目端をぬぐっている。
「あれでサライだってばれたら、リーザまでサライ扱いされちゃうから、凄く焦っちゃって……それであんなことしちゃって、本当にごめんね……」
「……って……」
 今もオレを見れずに、下を向いてしまっているバカ女。でも別に、あの場を切り抜ける判断として、それは間違っちゃいないと思うんだけど……。
「ごめんね、気持ち悪かったよね、二度としないしもう巻き込まないから……エアもなるべく、あまり巻き込まないようにするから……リーザはもう、自分の居場所に、帰って……」

 ……信じ、られない。何一つ躊躇(ためら)いもなく、こいつは盛大に白い肌を晒して、痴態の演技力だって十分だった。まずもって、常に冷静で冷酷だったのに。
 なのにこいつ……そんなに恥ずかしかったのか? ただ単に、敵の目を一時誤魔化すためのことに?
 恥ずかしいのに、迷いなくやったのかよ? よくわからないまま、俺は何故か……バカ女を無性に、労いたくなってしまった。

 そんなことは珍しい。女の行動は当たり前の判断で、俺の中をぐるぐると、消化できない感情が巡る。
 今は駄目だ。何が消化できてないのか、それすらもわかんなくなっちまった。そんな時は、冷静に行動するに限る。
「……いいから。さっさと、服着ろよ」
 違う、鎧だっつー! ますますやばいだろそれ! でも意味は通じたようで、バカ女も静かに頷いていた。

 オレがどいた場所から外套を取り払った女は、胸当てからそっと細い手に取る。それでもずっと、目端に涙を浮かべたままで、申し訳なさそうに俯いていた。
 必死に冷静さを取り戻す俺は、この十分前後を、あえてなかったことのように坦々と喋る。
「もう少し待てば、この辺の包囲は手薄になるだろ。とにかくそれまで静かに、向こうの気配を窺って待つしかねぇよ」

 今はとにかく、こいつを少しでも追い込むようなことは言いたくなかった。
 そもそも最初から、一番大事なのは逃走経路の確保だ。囮となったオレ達の代わり、長髪野郎達は逃げれたっぽいし、こっちもこうして何とかなった。
 それなら誰にも……こいつを責めたり、こんなに痛ましい顔をさせる理由が、あるはずはないのに。

「…………」
 黙って頷いた女は、裏路地の壁にもたれて座ったオレの隣で、申し訳なさ気な赤面のまま、膝を抱えて俯いてしまった。
「…………」
 そのしおらしさが、また意外で……気配の探知に集中できず、何度も俺は、ちらりと横を見てしまう。

 こいつは人間だから、気配の探知が多分できない。それもあいまって、この場の采配をオレ任せなのが情けないのだ。ある程度その辺、察しはついた。
 いつもはそれを、他の奴がやってるはずだろう。子供攫いの者が誰もいなく、一人になる状況は、こいつには珍しいのかもしれない。

 考える俺の頭を、不意に先刻の白い肌がよぎる。
 いやもうだからさ! 忘れろって、オレ!
 間近で感じた髪の匂いとか何とか、男のサガだとしても事故だ忘れろ。


 何度も溜息をついては、頭を抱えるオレ。その姿を隣のバカ女は、いったいどう思っているんだろうか。
 黙り込んだまま、膝の間に半ば以上顔を埋め、青い目だけが宙を見る人間の女は……あの柔らかな感触の通り、弱々しい生き物にしか見えなかった。
 その頼りなさは、正直に言うなら……ここが路上でなければ抱き締めたい程、心細くて隙だらけだった。

 いやいや、しねーけどさ!? だからさっきから、発想がおかしいって、俺。こんなに引きずってんじゃねーよ、だから気まずいんだろうがよ、今この現在。
 ていうかこいつさ、結局鎧着てねーの。もう戦闘も必要ねーし、目立つから纏めて外套に包みやがった。いやさ、ちょっとは隣の俺を警戒しろよ? 実際別に仲間じゃねーんだし、そもそも男だしな?

 こいつ、本当はこんな奴だったのか……。そう思うと、以前の魔道担当だという「グライダー」が、何故よろめいたのかもわかる気がした。
 何というか、国賊集団のリーダーなんて、ソツなくこなしてやがるくせに。冷たい鎧を脱ぐとツッコミ所だらけだったんだ、こいつの中身は。
 こいつに惚れたらしいという、顔も知らない奴のことを思い出して、何故か俺はまた胸が悪くなっていった。

 最初に戦った夜のように、爆走を続けて治まらない胸。そこをさらに煽る、何かの謎の赤い熱に、俺は途方にくれながら息をついたのだった。


+++++


 一人で百面相のオレを、さすがに不安に思ったか、隣の女が腕を軽くさすり始めた。おずおずと、こっちを見ていることにオレも気が付く。
 そういやこいつ、何て薄着してやがるんだ。
 鎧の邪魔になるから当然だろうけど、半袖で外套も脱いだ人間に、夜の寒気はきついはずだ。巷の娼婦だってこんな薄い恰好はしてやがらねぇ。

 けれどバカ女は、湯気を上げるオレを心配しているようだった。
「……リーザ……大丈夫?」
 あれ。こいつに名前で呼ばれたの、最初の時以来じゃないっけ。何て言うか、さっきから態度砕け過ぎだろ。何でなのかまたむかついてきた。
「るせー。逃げることだけ考えてろよ、バカ」

 唐突に、気に入りの上着をがばっと脱ぎ捨てる。びくっとした女に、上着を投げつけると、下に着たアニキと同じ袖の無い黒衣が少し冷んやりとした。
 ちょうどいい、この方が頭も冷えてくれる気がする。
 上着を投げつけられた女は、不思議そうな目でオレのお気に入りの蒼を見つめる。
「……? ……着ないの、これ?」

 ああもう、鈍いなこいつ、今畜生。戦闘に関してはあれだけ勘が鋭いくせ、何ふやけたこと言ってんだよ。
「バカかよ。その恰好のままだと、さっきの女だって気付く奴らがいたら面倒だろ。少しでも服くらい変えとけっつー」
 そうそう、だからオレも、これでいいんだっつー。
 エアの姐貴が冷えるとよく風邪ひくとか、人間のそんな姿がよぎったなんて、死んでも言えねぇ。大体オレ、こいつに戦闘、負けちまってんだし。

「…………」
 バカ女がぽかんとしながら、オレの上着をひしと掴んで見つめ続ける。
 何だその表情、気が抜けてるにもほどがないか。
「……ありがと……凄く、あったかそう」
 っておい、そこは気付くのかよこの直感ニブ女!
 あまつさえこのバカ女、そこでほのかに笑顔を浮かべて、オレの蒼い上着に袖を通しやがった
 ……そう、笑った。ずっと冷たい顔してやがったこいつが、何か、にへらと笑いやがった。
 子供攫いのくせに。人間のくせに、容赦なくヒトを殺すくせに。

「……――」
 思わず、女の顔が見れなくなって、そっぽをむく。


 ヒトを殺す。世界でも共通の禁忌、当然の共存のルールをこいつは破ってる。戦争とかそっちは、また別の話とはいえ。
 オレはいったい、何でこんなにイラつくんだ。
 「子供狩り」なんて法を作ったゾレンでは特に、こいつの存在は完全に間違いだ。国賊と言われても仕方ねぇ。
 魔道でも何でも、現時点で定められている理というのは絶対のものだからだ。

 でもこいつは……オレと、何が違うというのか。
 「子供狩り」から逃れるために、オレとアニキは一人息子として育てられた。国賊なのはオレだって変わらないだろう。
 大体ヒト殺し自体、結局は弱肉強食ってだけだ。ゾレンという法治国家ならともかく、世界ではそれは珍しくもない。ゾレンもずっとディレステアと紛争を続けて、死者を沢山出してきている。

 ヒト殺しが禁忌だなんて、所詮建前だけの話だ。実際に天の裁きが下った奴とか、オレは見たことがない。そもそもうちの親父も、そしてアニキも、家族を守るために人間も化け物も殺したことがある。
 オレがただ、自分の手を汚していないだけだ。必要に迫られれば、オレでも迷わずそうすると思う。

――今殺した奴だって、元は子供だったはずだろ!?

 ヒト殺しをオレは、本気で禁忌とは思っていない。なのに、この女が他人を殺すと何でか腹が立つ。
 守るためじゃないから、なのか? 狩られた子供を王城から連れ出す……オレにはそれは、ヒトを殺す理由にはならないってことか……?

 ……何というか。「子供狩り」から逃げ続けてるオレに、それを責める資格はあるんだろうか?
 辻褄が色々合わない気がしてきた。やべぇオレ、やっぱり相当、今夜は混乱してるっぽい。

 どうしようもなく、頭がぐるぐるしてきちまった。
 まだもう少し、包囲網の気配も緩みそうにないし、どうでもいい話をオレはし始めてしまう。
「なぁ。あんたは何で、子供攫いなんてやってんだ」
「――え?」
 唐突なオレに、オレの上着を着る女は、びっくりしたようにこっちを向いた。
 オレはあえて相手を見ずに、むかついた顔のままでその続きを尋ねる。
「あんたに何の得があるんだ? こんな風に、国を敵に回して……エアの姐貴とかを、利用してまでさ」
「…………」

 呆気にとられた様子でオレを見る女は、オレの真意を掴みかねてるらしい。そりゃそうだろな、俺も何で、こんなのきいてるのかよくわかんねぇし。
 でもこいつが、好きでエアの姐貴に協力させてるわけじゃないのは、昨日の今日でわかってきていた。
 こいつ多分、友達いねーし。エアの姐貴は唯一大事な、人間の友達同士っぽいし。

「…………」
 女を見ないで不機嫌に問うオレに、女は段々と、今までのような冷たげな顔に戻りながら――
「……何で、だろうね。あえて言うなら……償い。それくらいかな……」
 その冷めた顔付きとはまた違う、何処かとても空ろな声で、おかしなことを言いやがったのだった。
「あたしも正直……これに意味があると、そんなに思ってはいない」
 それはあまりに、身勝手で……そして矛盾した、先のない望みだった。


 一気にカチンときたオレは、満面の怒髪ながら声は冷静に女に振り返った。
「そんな意味ねーことのために、ヒトを殺すのか?」
「……」
「意味ならあんだろ。子供を取り返せた親、自由になれた子供、大義だけなら十分な使命じゃねーか」
「……――」

 そう。オレは元々、こいつのやってることを、否定する気は毛頭なかった。もしオレとアニキが二人で育てられて、アニキが子供狩りに連れて行かれたら、オレは子供攫いに助けてほしいと思っただろうし。
「ないのはあんたのメリットだけだ。義賊(ヒーロー)扱いされたって別に嬉しかないだろ? そんな性格ならエアの姐貴だって近付くわけがない」
「…………」

 あれで何というか、エアの姐貴は、とても辛辣な人だ。アニキもそうだけど、二人共基本、大義というものに興味がない。むしろそれをかざして誰かを迫害する集団……たとえば子供狩りみたいな奴らを、昔から毛嫌いしている。
 オレと言えば、気ままに生きられたらそれでいいし、やっぱり大義に憧れはない方なんだろう。
 だからエアの姐貴は、こいつを手伝いたくて無理をしているんだ。
 多分姐貴も、こいつにあまり、ヒトを殺してほしくなくて……だから「千里眼」を使い、なるべく警備の少ない侵入路を探すのだ。

 今のむかつきが、そんな姐貴を思ってのことか、自分でもわからなかった。
 その場合、実際には悪いのは姐貴だろうし……オレもアニキもつくづく、あの人のそんな性格は何とかしたいところだったし。
 それでも真剣に女を睨むオレに、女は人間には少ない暗い青の目で、じっとオレをまっすぐに見て――
「……あたしにメリットがなかったら……何?」
 ひどく空虚な視線だけを、オレに突き刺してきた「子供攫い」だった。

 それはきっと……オレにとって最悪の回答だった。
「何って――あんた、本気で言ってるのかよ?」
 何故ならそれが、紛れもないこいつの本音。そのことが伝わってしまう。
 こいつの子供攫いに、目的はないのだ。
 大義を果たしたい気持ちも、それで満たす心も。
 国賊となってまで得られるものが何もないまま、こいつはこんな……命がけの活動を続けている。

「バカじゃねえのか……! 理由ないのに殺し合いするとか、エアの姐貴以上の変人かよ、あんた」
「――……」
 何でそれが最悪なんだ。何でこんなにイライラするんだ。それでもとにかく、目前の究極バカ女を、オレは怒鳴り付けずにいられなかった。
「復讐の方がまだましだろうよ? それかあんたが、殺人狂とかな」
 償いだとこいつは最初に答えた。でも多分それも、こいつは重視していない。でなきゃ、こんなに空っぽな目をして、オレを見返すわけがなかった。
「そういうの、むかつくんだよ。殺しが楽しいわけじゃないんだろ? 人間はそうじゃないんだろ?」

 弱い生き物である人間。弱肉強食である化け物。
 こいつは何で、人間のくせに、化け物の生き方をするようになっちまったんだ……?

 向いてない、合ってないから楽しくないんだろ。だからこんなに……冷たい顔をしているんだろう。
 オレの母さんは、口煩いが温かだった。それだけ細かい気配りができるのが、人間のイメージってことだ。
 そこがいいのだと親父も言っていた。人間という生き物は、弱いからこそ、温かく助け合うのだと。

 余計なことを考えたせいで、言葉を詰まらせた。
 女はじっとオレを見つめて、張り付いた無表情に無機質な灰色の髪が、夜の中では悔しいほどに映えて……。
「……あはは。リーザは……いいヒト、だね」
 そこで不意に、またもにへらと、無防備に笑いやがって。俺は再び、呆気にとられてしまった。

 それは本当に、今までに見せることのなかった、人間らしい笑顔だった。
「大義だって、わかってくれてるのにね。なのに、怒ってくれるヒトなんて、初めてだなあ」
「――……」

 僅かに小首を傾げた女の姿は、不覚にも、その……何というか、凄く可愛い。
 その角度は反則だろう。何だか全身から無意味に怒りが蒸発していく。俺のアホな体は、見えない熱源に再びなっているはずだ。

 辺りの気配は、段々逃げ出せる感じになってきていた。
 気配探知のできない女も、何故か逃げ時とわかったようで、よいしょっと突然立ち上がった。
「あのね、リーザ。人間って惰性の生き物なんだよ。一度始めたことは、なかなかやめられないの」
「…………」
「エアもそうでしょ。あたしはさらに、もっと沢山ヒトを巻き込んでるし……もうやるしかないなっていうのが、本音で実状かな」

 やたらに力の抜けた声色のせいか、オレまで気が抜けて、すぐに立ち上がる気になれなかった。
 ほら、行こうよ? と女が素振りで訴えかけるが……どうしてなんだろうか。この束の間の時間が終わってしまうのが、ひどく勿体無く感じられた。

 不服気なまま、立とうとしないオレに、バカ女は申し訳なさそうな顔で笑う。
「……ごめんね。あたしがバカなせいで、エアやリーザを巻き込んでしまって」
 それはオレだけでなく、エアの姐貴に向けられた、女の本心のようだった。
「抜けられそうな時があれば、いつでもエアを説得してね? サライ側には、あたしが何とでも言える。でも、当のエアが、納得してくれなくって」

 オレがここにいる目的。エアの姐貴を抜けさせること。それを全面的に支持する、と女――ピアは言っている。
 オレはそれ、多分、喜ぶべきなんだろうけど……。

「……けっ。今更いい人ぶるんじゃねーよ、てめぇ」
 やっとこさ立ち上がったオレの第一声は、自分でも意味がよくわからない、静かな毒づきが口をついて出ていた。
「オレにも、エアの姐貴にも色々あんだよ。何でもかんでも、自分のせいとか言ってんじゃねーよ」
 エアの姐貴が、オレを巻き込まないよう若祭祀と結ぼうとした取引。オレが「存在しない化け物」である制約を、こいつは知らない。
 姐貴を説得することもだが、あの若祭祀の野郎を何とかしなきゃいけねぇ。もしもオレ達が二人共、子供攫いから抜けようとするのであれば。

 そんなオレを、ピアは知らない。だからただ、エアの姐貴の事情だけ考えたように、ピアの知るエア・レインという人間のことを不意に話し始めていた。
「エアは……早く、ご両親の所にいきたいのよ」
「――え?」

 人目を避け、路地裏を慎重に通りながら、オレを見ずに悲しそうな声で言う。
 姐貴の両親。体の弱い姐貴を、第五峠の医療施設に連れていく途中、山賊に襲われて亡くなった話はオレも知ってるんだけれど。
「人間は簡単に死ぬ。なのに、あたしとエアは、生き残ってしまった」
 それはいったい、何の話なんだろうか。でも、ピアがあまりに辛そうなせいで、どういうことかときけなかった。重い口調はまるで、姐貴への心配以上に、ピア自身の悔恨が溢れてる気がしてならなかった。

 そして、オレ達を囮に、新しい隠れ場所を確保していたファザーとブラザーに合流したオレ達だったが。
 ひゅー、お二人さん、朝帰り? そんな軽口を叩くクソ新入りを、ドレイクたる俺が長棍で思い切りはたいたのは、言うまでもないことだった。

5:ザインの魔道士

 
 オレは現在、ひたすら、迷っていた。
 昨日攫った子供を、ザインに送ると言って、サライの奴らは旅に出ていった。オレはまっすぐに教会に帰り、倒れた姐貴の様子を見に行く。
 考えていたのは一つだ。それは――俺が本気で、サライの奴らを今後手伝うから、姐貴は手を引けと言うこと。

 にこにこと、昨日の容体が嘘のように、病人着で客室の寝台にいた姐貴。体を半分起こして、寝台の背にもたれながら言う。
「嫌よ。私の仕事を取らないで、リーザ」
 この客室は、姐貴を診てくれた客人の部屋のはずが、我が物顔でゆっくりとしてる姐貴は、繊細なんだか図太いんだか時々よくわからなくなる。

「っても、俺がやる方が効率いいだろ! 今はまだ隠してるけど、ザインまで子供を連れてくのだって――」
「それをやる気なの、リーザ? ライザに迷惑がかかればどうするつもり?」
「……っ……!」

 昨日、本当は、俺はもっと早く事態を収拾できた。今朝だって子供をザインに連れていくのは、実際一番適任なのは俺だとわかっていた。
 「子供攫い」には、もっと協力者が必要だ。あいつらのやっていることは、国賊であっても、本当は多くのゾレン人が望んでること。

 けれど、存在しないオレとアニキの事情を、誰より知る姐貴は冷静に問う。
「リーザ。最近、アナタが変わっていってることには、気が付いている?」
「……?」
「誰よりライザを守りたいのはアナタでしょう。それなのに、ライザに一番、危険が及ぶかもしれないことを陰でしている。それは――どうして?」
「どうしてって……そりゃ……」

 そりゃ……でないと、エアの姐貴が、危険な集団への協力を続ける。オレの心配はひたすらそこで、アニキもきっと、知ればオレと同じ反応をする。
 そのはずなんだけど。あくまでアニキに知らせずに動くオレは、そのせいでアニキを危険に晒すかもしれない。
 それは単に、姐貴もアニキも、オレには大事だってだけの話だ。それを何で姐貴は、そんなに真剣な赤い眼で、オレをじっと見てくるのだろう。

 二人で一人。アニキの影としてしか動けないオレは、あまり世の中のことに関われば、一人が二人であることが知られてしまうかもしれない。それは多分、オレもアニキも無事では済まない末路。
 でも、だからって――俺はずっと何もしないで、エアの姐貴を止めることもできずにいろっていうのか?

 姐貴はそこで、困ったように首を傾げて、不意に切なげな微笑みを見せた。
「厳しいことを言うとね。私がサライを手伝うよりも、アナタが手伝う方が、ライザは確実に損害を受けるわ」
「……――」
「本当はわかっているんでしょう。これまで私は、里にも気取られずに動いてきたわ。祭祀に手伝ってもらっているのも、アナタ達に迷惑をかけないため」

 ……姐貴は、普通の人間よりも弱く、今にも死んでしまいそうな人のくせに。
 それでもそうなのだ。このヒトは、全て自分の決意でもって、自分に負える責任を自ら選んでいる。
 たとえその代償に命を削ったとしても……それが姐貴の望みなのだ。

 昨日には血を吐き、今日も本当はぼろぼろの体で、毅然とそこに座っている姐貴。キレイなのに、荒んだ赤の眼を見れなくなって俯く。

 何も言えなくなったオレの代わりに、ふっと戸口に、若祭祀と客人が二人で佇んでいた。
「まあ、仲間をそう突き放したものじゃありませんよ、エア・レイン」
 若祭祀はいつも通りの笑顔。その後ろでは、オレは初めて姿を見た客人が、何故か気まずそうに部屋から目を逸らしている。
 客人が気を回復させる結界を張ってくれた部屋だから、姐貴は何とか体調を持ち直している。そこに改めて思い当たる。

「確かにエア・レインには、まだ協力してもらわなければ困ります。でもね、リーザくんの言う通り、このままでは貴女の体がもたないでしょう」
 姐貴が無表情に黙る。それは祭祀の言う通り、姐貴を利用したい祭祀との、取引が果たせなくなる事態だからだ。
 オレの肩を持つというより、純粋に胡散臭い祭祀は、今後も姐貴を利用するための方策を、そこで朗らかに話し始めたのだった。
「というわけで、ですね。第五峠に入院してください、エア・レイン」

 ……は? と。姐貴が不可解、という笑顔になって、首を傾げる。
「そんなの、無理よ。とてもじゃないけど、入院費を払えないわ」
 医療施設が沢山集まる第五峠。両親が死んでからは通院もしていない姐貴は、確かに里でも、物々交換で生活してるといっていい。
 でもこの胡散臭い策士に、そんな私情は通るわけもなかった。
「子供攫い協力の対価として、費用は勿論我々が負担します。エア・レインは正式なメンバーじゃありませんから、報酬を受け取るのは当然のことでしょう」
「何言ってるのよ。そんな予算を通そうとすれば、貴男の上が困るだけでしょ」
「そこは、便宜上、『占い代』とでも申告しておきますよ。エア・レインには、これから、第五峠の占い師として身を立ててほしいんです」
「……は??」

 すげえ。オレ達には誰も、言いくるめることのできない賢い姐貴を、祭祀の奴は初めて見るような唖然とした顔にさせている。
 でも「占い師」って、本当何なんだいったい。「千里眼」は、珍しい特技ではあるけど、それを占いと言い張るのは、素人の人間な姐貴にはさすがに無理があるような……。

「幸い、占い一般の指南は、著名な魔道家たる彼がしてくれるそうです。ねえ、クラン様?」
「……」

 え。さっきからそういや、黙りこくってる紳士服の客人は、ここで引き合いに出されるために立っていたらしい。オレ、隠れるの忘れてたじゃねぇか。
 教会の客人。長めの赤い髪を肩の高さで括り、炎のような赤い目の男。
「エア・レインにもお願いしますよ。クラン様にさっさと、第五峠に着任してもらって下さい。留学生兼、騎士団の魔道指導で派遣されているというのに、貴女の付添いでもなきゃ第五峠なんて絶対行かない、って言うんですよ?」

 何だそりゃ!? オレも変な声が出そうになったが、必死に呑み込んでおく。
 何かよくわからない展開になった。これはいったい、姐貴と客人、どっちが誰にはめられた形なんだ?

 祭祀は多分、姐貴を助けるためにも、第五峠に行けと客人に頼んだ。客人はそれを拒否せず、むしろ我慢しようとしてる空気だ。
 姐貴も何故か、客人をきょとん、と見返している。嫌ならすぐに断っただろう。姐貴の言葉が出ないのが、祭祀の言い分を受ける余地がある現実を示す。

 オレがすぐに気付いた通りに、姐貴はとても戸惑っていたから……赤い髪の客人に対して、まるで本当に、年齢相応の頼りない声色で尋ね始めていた。
「……私と一緒なら、貴男は……第五峠に、行くの……?」
「……」
 半分はそっぽを向いたままだが、客人も否定しない。
 それは多分、昨夜からたった一夜にして、客人が姐貴を何とか第五峠へ送りたくなったってことだ。
 あの体の悪さを見れば、心配自体はわかる気がする。けれどそれで、ずっと嫌がってた第五峠行きまで、この客人は了承してしまうのかという……。

 姐貴は姐貴で、今後も祭祀との取引を続けるためには、それは悪い条件ではない。ただ、第五峠に行きたくなかっただけで、客人を連れていくという恩も着せられるなら、願ってもない話になるだろう。
 やっぱりこの若祭祀、怖ぇ。姐貴との取引はともかく、本当は全然関係ないはずの客人の、巻き込まれっぷりがすげぇ。
 しかも多分、祭祀にはほとんど悪意がないというこの采配は。

 無愛想な顔で黙っていたままの、客人がやっと静かな声を出した。
「……何で俺が、人間のお守りなんて」
 あー……ダメだ、こりゃ。その台詞は、さっきのオレより隙だらけだ……。
「あら、ごめんなさいね? それなら私を、家へ帰して下さる? 起きてからずっと、この部屋から外に出られなくて、困ってるの、私」

 そう、客室の結界は、エアの姐貴を今も閉じ込めて回復している。そこまでしている客人の心配は、姐貴にはとっくに端々まで伝わっている。
 何でも何もない。客人が一方的に心配している。
 そんなツッコミどころの多い化け物を見逃してやるほど、化け物好きな姐貴の経歴は甘くない。

 祭祀がオレの方を見て、これ以上は野暮ですよ? と言いたげに、爽やかに笑った。同意しかなかった。
 ここから出して、帰る、その体でアホか、などと不毛な応酬を始めた人間と化け物を置いて、オレは結界の客室を後にしたのだった。

 ……ごめん、アニキ。多分あれは、アニキより不器用な化け物っぽいから、アニキでも勝てねえ。そう悟るしかない。
 仕掛人の祭祀の肩を一度だけはたき、オレはただ、エアの姐貴の幸せだけを願った。


 サライの奴らがやっといないので、のんびりした気分で家に帰った。
 一昨日帰ったばかりなのに、また顔を出したオレにアニキが嬉しそうにする。アニキも遠出から帰った直後のようで、下町で買った食料を手にしていた。

 ひとまずオレは、大事な報告を最初にしておいた。
「――え? レインさん、第五峠で、入院するのか?」
「ああ、往診の留学生が、何か説得してくれたらしい。費用はこれから占いを教えるから、それで稼いでくれりゃいいって」
「うらな……い? 留学生……?」

 大きく首を傾げるアニキ。そりゃ、そうだよなあ。
「そうか……でも最近、五色でも出ずっぱりだったから、レインさん。体を労わってくれるなら、本当に良かった」

 常に無表情なアニキの目頭が緩む。アニキ達の反戦活動も姐貴は手伝ってるから、里と第五峠の距離ができれば、少しは「千里眼」の酷使も減るだろうしな。
 それは「子供攫い」も同じだ。これからあいつらは、姐貴に旧王城の警備を視てもらおうとすれば、ここより遠い第五峠に行かなければいけない。
 多分、実際は祭祀があいつらと魔術通信でもして、遠隔で姐貴の遠見結果をきくつもりなんだろうけどな。

 そう。姐貴を見るためにここにいた祭祀も、これで多分いなくなるんだろう。
「ちょうどいいから、オレもまたしばらく、遠出しようかなってさ。最近は、エアの姐貴の調子が悪くて気になってたから」
 姐貴の強い想いは、目の当たりにしたわけだし。どうしても姐貴がサライをやめないっつーなら、もう意地を張っても仕方ねーし。
 オレが足抜けするには、まあいいタイミングだった。

 結局祭祀に、体よく使われただけ。その結論はかなり腹立たしいけど。
「遠出か。リーザは大体、いつもどんな所に行ってるんだ?」
 食卓に、アニキ用の焼き魚と、オレ用の焼き鳥を出してきいてくるアニキ。
 ありがたく向かい合って夕飯を頂きながら、どうでもいいことをオレは話す。
「基本的には師匠の小島。あんまりゾレンやザインで顔見られたら困るし」
「そうなのか。でも結構遠いだろ、あそこは」
「まぁな。でも猫が可愛いんだよ。俺のとこに来るんだ、っていつも別れ際にわーわー鳴くくせに、いっこうにそれらしい奴は見ないけどさ」

 本当はもっと遠くの、違う大陸にも遊びに行ったことがある。あっちの方が何気にゾレン語が共通語で、ゾレンはこの大陸では数少ない、新語という軽いノリの言葉を国語とする国なのだ。
 隣の国ディレステアや、さらに向こうの砂漠地帯なんかは古語を使う。北のザインはまた違うこの大陸の共通語で、そういやザインからの教会の客人は、随分流暢にゾレン語を喋ってたな。まだゾレンに来て日が浅いはずが、控え目に言ってもしや、天才の類なんじゃねーの?

 師匠の猫の話を出したオレに、少しなら会ったことのあるアニキは、困ったような顔で何故か笑った。
「あの仔は多分、違う姿で現れてくるよ。リーザが気付いてないだけかもな」
「何でだよ、だって猫だぞ。そりゃ師匠と一緒に、えらい長生きしてることはきいてるけどさ」
「リーザの近くにいられる誰かの、潜み易い器を探してるんだろ。何せ光白の無地の猫神だから、少しでも適性が合うなら、誰に宿っててもおかしくないし」

 え。それって、まさか……最悪、若祭祀のこととかじゃねぇよな?
 無地っていうのは、アニキ曰く、柔軟性らしい。にゃーにゃー明るいバカ猫だけど、誰とでも仲良くなれるんだよな、確かにあいつ。

 それにしても、平和だ。アニキとご飯を食べているとつくづく思う。
 このままオレは、しばらく北の小島に姿を隠して、「子供攫い」とはおさらばするんだ。エアの姐貴は祭祀や客人が、何としてでも生かすだろうし。
 オレ自身には、あいつらを手伝う理由はないし……ないはずだから、これでもう、アニキに迷惑かける心配もないし。
 「存在しない獣」のオレが、ゾレンで何かしようなんて、そもそもからして間違いだったわけで。


 そう思って、それから数日、自宅で惰眠を貪っていたオレだったけど。
 エアの姐貴と客人を第五峠に送り、もう帰ってこないと思ってた祭祀から、まさかの緊急連絡が入ることになるとは……白猫と遊ぶ夢の中の俺には、まだ気付く由もない。


+++++


 若祭祀は第五峠、「子供攫い」はザインの隠れ場に。オレの周りから、不穏な気配は一切なくなっていた頃のはずだった。
 魔術での伝書鳩みたいなもんで、教会に突然呼び出されたオレは、帰ってた若祭祀に意味不明な依頼を告げられていた。
「ザインでサライとグライダーが揉めています。鎮圧に行ってくれませんか、リーザくん」
「……は??」
 何で、オレが?
 グライダーって、確かピアに惚れたって魔道士とか、まずもって初期メンバーだとか何とか、情報は確かに知ってはいるけど。

 余裕のない顔の祭祀は、やはり握っていたオレの弱味を、ここぞとばかりに場に出したのだった。
「最強の獣――飛竜、サラム・ドールドの嫡子。ライザ・ドールドは、時々、小さな飛竜を連れて出歩いていますが、ライザくん自身が飛竜化をすることはこれまで見られていません」
「――」
「十中八九、飛竜は君でしょう、リーザくん。それならここで、ザインに最も迅速に向かえるのは君だけなんです、ドレイク」

 祭祀の焦りは本物だった。そしてその見立て――アニキをこの里で見ていたコイツの真意は、「最強の獣」をどう利用するか。その目論見でもあったことを、今更にオレは思い知る。
「ザインの警備隊は中立、ゾレン人同士で揉めているサライに手が出せません。騒ぎが広がり、ゾレンの軍部に気付かれれば、ザインにサライの拠点があると最悪の場合掌握されます」

 ……えーっと。とりあえず、「子供攫い」最大の危機なのはわかったけど。
「いや……アンタの言うことはわかるけどさ。でも……何で、俺が?」
 オマエ飛竜だろ、だからさっさと飛んでって助けてこい。んなこと言われて、よっしゃ任せろ! なんて請け負うほど、俺はお人好しじゃない。
 そもそもオレは、足を洗いたいんだ。祭祀の殺し文句、アニキに言うぞ、という手も今回は使わせないし。むしろオレからアニキに助けを求めてもいいくらいだ。
 祭祀の言う通り、アニキは飛竜にはなれない。だからオレ達の秘密を盾に、アニキを巻き込んだとしても無駄だ。そもそもエアの姐貴との取引に反する。

 ところが若祭祀は、何を思ったのか――
「……グライダーは、ピア・ユークを捕らえて立てこもっています」
 へ。きいてもいない揉め事の詳細。想定外の話にふと反論が止まったオレに、祭祀は仕込み杖を腰にかけながら続けた。
「油断があったのでしょうね。最初に彼女の首を締めた君と同じです。彼女の鎧は、力や打撃は封じますが、直接体に触れられることへの耐性はない」
「……――」
「グライダーが彼女の意識を奪い、じわじわと直に精神干渉を行っているようです。それは我が主君の意向に反しますが――私がザインにつくのを待てば、事態は最早手遅れとなっていることでしょう」

 ばさ、っと旅用の外套を羽織った祭祀。対してオレは、よくわからないが、意味もなく呆けていた。
 頭が真っ白になった。そんな感じだ。それなのに体中を赤く駆け巡る血は、また煩くなった心臓が必死に送り出してる。
 どうしてオレは今、若祭祀の奴に何も答えられなくなって――握っている手は震えて、血が滲んでくるんだろう?


 「子供攫い」に、初期からいたという仲間の魔道士。待っている許嫁がいる相手に、無謀なことはさせられない、ピアはそう言っていたと思う。
――ごめんね。あたしがバカなせいで、エアやリーザを巻き込んでしまって。
 あの人間の女は、本当にバカだ。冷酷な活動をしているくせに、その理念も心情も実際は甘い。
 最も気心が知れたはずの、一番の魔道士をクビにしたのは、ただ一つ、死なせたくなかったからじゃないのか?

 なのに、精神干渉? 言うに事欠いて、化け物の魔道士は、かつての相方を自分の人形にしようとしてるだって?
 人体に介入する魔術の中でも、治癒などの身体干渉、精神干渉、記憶操作はこの順に高度だ。オレにできるのはせいぜい、記憶操作までなわけで。

 オレより高度な魔術の使い手。そんな奴が打って出た暴挙に、この時の俺は、何でか迷いなく応えてしまった。
「裏に出て飛竜になる。乗せてやるから、服はアンタが持ってきてくれ」
 祭祀は無表情のまま、黙って頷く。
 まるでそれは、俺が依頼を受けることを、全く疑っていなかったかのように。


 「子供攫い」の、ザインの拠点。それは単に、攫った子供を一時期住まわせる隠れ里で、簡素な藁の家が点々と集まる山奥だった。
 ゾレンの国境を越えて、秘境の山岳地帯のごく一点に俺は舞い降りる。
 山中ではしっかりとした木造の集会所。魔道士はそこに檻の結界を張り、ピアと共に閉じこもっている、と、服を着たオレと祭祀を出迎えたファザーとブラザーが状況を説明してくれた。

「それにしてもびっくり、ドレイク! ドレイクっつーから、何かドラゴン系だとは思ってたけどさ!?」
 俺にその通称をつけたのは祭祀らしい。ったく、やっぱりアイツ、俺の正体はすぐにわかってやがったんだろうな。
 ファザーも相変わらずの不審の目ながら、それでもうんうんと頷いている。
「ドレイクが手伝ってくれれば、今後は一度に倍以上の子供を運べますね」

 じゃかぁしい。オレは足を洗うんだっての。
 でも今、そんなことを話すのは時間の無駄だ。急いで集会所に向かい、ばりばりに嵐の檻が守る結界の魔境を目にするオレ達だった。
 ここにいるのは風の魔道士。子供を一人連れて飛行し、ザインに運んでいたグライダーなのだと、オレは改めて納得する。

 さて、どう入るか。
 ゾレン国内じゃないから、オレが正体を隠す魔道を使う必要は少ない。いつも地味にあるその枷は、持ち歩く伸縮する長棍で常に制御してる魔術だが、今日はそれも解除して全力で戦えるオレなわけで。

「魔力の無駄遣いはするな。道は開く、グライダーは手強い」

 ……って、え? 今の……若、祭祀?
 突然の硬派に、目と耳を疑ってしまったオレに、仕込み杖の剣を抜いていた祭祀が、アニキよりも鋭い無表情で嵐の檻を睨んだ。
「突入を任せる。この嵐は外側を覆っているだけだ」

 え、あの。てめぇ本当は、そういうキャラだったんですか?
 確かにオレも、祭祀の仕込み杖とか体の動かし方を見てると、剣バカだって思ってたけど。何しろオレは、飛竜になれるし魔術で身を隠してもいるけど、普段の戦いは主に長棍使いだ。武技の達人は見ていれば何となくわかる。

 祭祀もオレと近い手練れ、高度ではない補助魔道を武器戦に活かすタイプだ。
 凛、と嵐を見据えた祭祀は、風を斬るための拙い魔力を細い剣に纏わせ――

 荒れ狂う風の結界にぶつけられた、衝撃の波動というもう一つの嵐。素早く何度も斬り上げられた空気の流れは、軌道を変えて侵入の隙をオレに与えた。
 勿論それでも、飛び込むオレには豪風が襲ってくるんだけど、飛竜たる俺の体はその程度じゃびくともしない。
 長棍で殴り開けたドアの先には、真っ暗にされた不気味な空間が待っていたのだった。

 何だここ、と。集会所に入ったはずのオレは、立ち止まって棍を構え直す。
 視界が使えないなら、気配を探知するしかない。姐貴程の遠くは無理だが、気配探知自体は得意なオレは、右の奥に隠された魔道士の影を見つけた。

「……誰だ、君は?」

 初対面のオレに問うてくるグライダー。
 そりゃそうだよな。オレはつい最近、サライにスカウトされたんだから。
「てめーがグライダーか。ピアは何処だよ?」
 問いに問いで返したオレに、魔道士は怒りの気配をすぐにもみなぎらせる。優秀でも感情的な化け物っぽい。
 わかりやすいが、逆にこの闇でピアの気配は全く感じ取れない。そもそもあいつ、人間だから気配が弱いからな。

「何故君が彼女を探す? 彼女のパートナーは僕だけだ、出て行け! 得体の知れない馬の骨め」

 うんまあ、サライの初期メンバーにすれば、まじでオレ、何様? って感じだよな。グライダーって通称で呼んだから、サライのことを知る何者かであって。しかもピアのことはさっき、リーダーではなくピアって呼んで。
 グライダーの立てこもりに困った、ファザーやブラザーが呼びつけた増援。魔道士って基本知性派だし、それくらいは考えてるだろうが、オレも実際、オレは何なんだ、ってきかれたら困るな。
 うん……オレは何で、こんなザインの山奥まで来てんだっけ?

 問答なんて、そもそもする気のないオレは、体の前で長棍に力を込めながら最後通告を声にしていた。
「何でもいいから、ピアを放せ。まさかてめぇ、手籠めにでもしてんじゃねぇだろうな」
 オレがここで、確認しないといけないのは一つだけだ。ピアは今、どういう状態になっているのか。それさえわかればオレも動ける。
 きつい言葉に明らかに動揺した魔道士は、そんな馬鹿な! と、怒りの風を叫びと共に放ってきやがったのだった。

 いてぇ。オレが飛竜の人身でなけりゃ、手や足が飛んでただろ、この風。
 さっきから攻勢の準備中なオレは、あえて風を避けなかったので、切り傷はともかく上着や服が全身ぼろぼろだ。どうしてくれるんだよ、これ。
「何と野蛮な馬の骨め! 僕がどれだけ彼女を守ってきたと思っている!」
「それこそお門違いなんじゃねーの? ピアはてめぇより強いだろうが」
 さらにぐんぐん襲ってくる風。さすがに身ぐるみはがれそうなので、長棍を振り当て、纏わせる力の一部で薙ぎ払っておく。

「大体それ、精神干渉しようだなんて、変態の言うことじゃなくねぇか?」
「僕はどんな手段を使ってでも彼女を守る! サライはこれから、僕が彼女の上に立つ者だと認めさせるんだ!」
 くそ、まだ全然ピアの現状がわかってくれねえ。
 コイツが無遠慮に風を放つ状態だから、多分オレもここで、攻撃をかけても大丈夫なんだけど……。

――人間は簡単に死ぬ。なのに、あたしとエアは、生き残ってしまった。

 オレもそれは、痛いほど知ってる。流行り病であっけなく死んだ母さん。
 暴風の刃にどれだけ斬られても、確信がなければ動くわけにいかない。この暗い闇の中で、ピアに攻撃を当てずに、魔道士の動きだけを止めるためには。

 ったく、この青春暴走系の青二才魔道士め。自分のことばっかりじゃなく、ピアの状況を少しは話せよ?
「ピアに言うこときかせてどーするんだよ。サライをやめさせでもしない限り、あいつがどんだけ危険かわかってねぇのか?」
「何で君にそんなことを言われなきゃならない! 僕達がどれだけ苦労してここまで来たと思ってるんだ!」
 あーもー! それじゃあれだろ、ピアのためっつーより、てめーが単にピアと「子供攫い」をしたいだけだろ?
 それでピアを守ってるつもりの辺り、何だか不意に、妙に胸がむかむかと赤い疾走を始めた。

 それはきっと、オレが先日、ピアの心の一部を知ってしまったからだ。

――あたしも正直……これに意味があると、そんなに思ってはいない。

 一度始めたことは、なかなかやめられない、とあいつは言った。
 なまじこれは、子供を助ける大義の元にある反逆で、グライダーもファザーもブラザーも志の高さは同じだろう。もうやめたい、なんていう弱音を、アイツらを巻き込んだリーダーのピアが吐けるわけがない。

 エアの姐貴は、どれだけ体力が削られていても、それでもピアを手伝うのが望みなんだ。それがわかっちまって、無理にやめさせることができなくなった。
 でもピアは、姐貴を解放したがっていた。何が何でもサライを続けたいわけじゃない。
 なら、オレの本当の目標は、ピアをやめさせることなんじゃないのか?

 無数の小傷が増えていく中、オレがふっと、そのはっきりとした答。オレがここにいて、サライに関わる意味がある真の理由に気が付いた時に。
 まだ喚いている魔道士の横で、何故か突然、暗闇に白い光が浮かび上がった。

「――!?」
「なっ!?」
 そこにはピアが、赤い鎧を纏う姿で、項垂れて壁に張りつけにされている。

 まるで自ら、ほのかに光を放つような彼女は一瞬だった。
 それでもオレが今、一番必要としていた情報。祭祀が漏らした言葉をオレは聴き逃していない。

――彼女の鎧は、力や打撃は封じます。

 最初に出会って戦った時、ピアに外からの拘束魔術は効かなかった。ここで魔道士がピアの意識を奪い、精神干渉の魔術をかけようとしているのは、オレみたいに直接体に触れてのはずだ。
 それならオレは、ピアが鎧を着てさえいるなら、もう遠慮の必要はなく――

 真っ暗闇が、オレの全力の長棍一振りで、真っ白な空間に変わっていった。
 煩かった風の魔道士は、ぴたりと声を止めた。
 それもそのはず。魔道士としてのオレの最大の特技、氷の魔術で、暗闇の結界ごと凍らされたのだから。

 氷に包まれた魔道士は沈黙した。化け物だから、これくらいじゃ死なねぇ。
 全方向に放った魔術だけど、ピアの鎧は見事に俺の氷の力も封じた。
 しっかりと見えるようになった氷漬けの集会所で、壁に十字型に張りつけられていたピアには、もうさっきの白い光は見えなかった。


 手の込んだ固定具を四肢から外して、意識のないピアを下ろした俺の頭に、ふっとアニキの言葉がよぎる。

――あの仔は多分、違う姿で現れてくるよ。何せ光白の猫神だから。

 ……まさかな、と。開放された体を抱き留めた途端、猫みたいに丸くなった女を抱えて、オレは陽の当たる山里へと出ていったのだった。

終幕:蒼い獣

 
 白頭巾の黒髪魔道士を黙らせ、嵐の檻も消えた外では、若祭祀が剣を収めて、にこやかにオレ達を待ち受けていた。
 ピアを長髪野郎のブラザーに預け、民家の一つに送る。いつまでも凍らせると死んじまうから、それから魔道士の氷を解くと、祭祀とファザーに囲まれた魔道士が恨みの声を上げた。
「何でだファザー、僕が何をしたと言うんだ! よりによって創始者たる僕の代わりに、あんな馬の骨をサライの魔道士にすると言うのか!?」

 頭を抱えるファザーに代わり、祭祀が坦々と、恐ろしいことをその場で話し始めていた。
「残念ですが、君はもうお役御免です、グライダーくん。国王様の勅命です。君は一刻も早くフィシェルの許嫁と婚儀を上げ、そのまま彼らとの契約通り、ザインの統治に参加して下さい」
「――な……!」
「それがそもそも、彼らが君に魔道を授ける契約の代価だったんでしょう? もう実戦経験は十分だということで、彼らは君の婿入りを待っていますよ」

 うわ、えげつないな、その辺りのお家事情は……魔道士は多分、ピアと共に戦うために、魔道を学んだんじゃねーの。この感じだとさ。
 そして一言。若祭祀、さっき、とんでもないことを口にしなかったか?
「もう一度言います。国王様の勅命です。ザインとの関係を悪化させる余裕は、我がゾレンにはないのですよ」

 うんそれ。え、何。コイツもしかして、王様の直属の配下なのか?
 サライの奴ら、誰も反論しねえし。

 となるとそれは、きっと軍部でも自治団でもない、国王直々の意志を国政に反映させるための「王属部隊」……そんな祭祀が「子供攫い」の助力をしたのは。
 まさか、前王の「子供狩り」に対する「子供攫い」の後ろ盾は、就任して遷都したばっかりの新しい王だと……?

 崩れ落ちた魔道士を、やれやれとファザーが連れて行った。唖然としてる、立ちっぱなしのオレには、祭祀がしっかりとトドメをさしてきやがる。
「リーザくん、ありがとうございました。今後も是非よしなに頼みますね」
「――って待て。知らねぇ、オレは関係ねぇ、アンタらの事情に関わる気は、今後一切――」
「そうですか? それではライザくんにお願いするしかありませんか。国王様はたいそう、ライザくんのことをお気に召されてますからねぇ」

 そう。アニキは何故か、王子の頃の王様に会ってて、反戦活動ができるのはそのコネも大いに利用してる部分があるのだ。
 でも待て。それじゃ、エアの姐貴がいないのに戻ってきた祭祀は、ひょっとしてうちの里に派遣されてる理由は……。

「別に『最強の獣』でなくていいんですよ。ライザくんのように仲間を大事にして、人間のことも理解できる中庸の化け物を国王様は求めてるんです」
 え、アニキ、国王様に狙われてんの。それやばくねぇ? 俺で我慢して?
「待てよ、アニキにちょっかい出すな! アイツ五色で精一杯なんだからな!」
「存じております」
「それであれか、アンタはオレに近付いてきやがったのか! エアの姐貴だけじゃなくて、アニキやオレまで王属にでもする気なのかよ!?」
「国王様は腹心が少ないんです。そうでなくては、前王の悪法『子供狩り』もとっくに改正できていたでしょう。国王様に今後さらなる力をつけていただくことは、貴方達が自由に生きられる未来にも、繋がっていくと思いますよ?」

 ぐうう……コイツ……何つーか、オレ達を利用したい下心は隠さないし。
 それでいて目標自体は、ちゃんとこっちの都合も考えてっから、エアの姐貴も取引に乗せられちまう相手なんだな……。

 ダメだ。これ以上何か喋っても、コイツには勝てる気がしねぇ。
 決定的な言質を掴まれる前に、オレはくるりと祭祀を後にしていた。
 魔道家の基本的な心得だけど、この世には魔道審問というものがあって、自身が口にした言葉は言霊となり、何であれ責任を取らされる可能性を持つ祭儀なのだ。

 祭祀もそこまで、取引づくめでオレを追い詰めたくはないようで、あははと笑いながら、「帰りも乗せて下さいね~」と念を押した周到さだった。
 こんな知らない山奥でオレに、特に行く場所があるわけもない。乗せて帰るのは別にいいけど、祭祀から逃げて今何処にいくかは、何も当てがなかった。
 ブラザーが連れていった、気を失った女の様子を見にいく以外は。

 ……とりあえず、だ。「子供攫い」をオレが程々に手伝えば、アニキに祭祀の魔の手が伸びるのを多少は防げる。
 そして何とか、ピアをやめさせるキッカケを何処かで掴めないか。今オレの頭にあるのは、そのくらいの漠然とした、それでいて強い感情だった。


 ゾレンでもなかなか見ないような、テント型の藁の民家。中央の焚火の横で、ピアはござの上に寝かされていて、ブラザーは休憩してくる、といって民家を出ていった。
 やっぱり体は弱い人間の女だから、サライの奴らが自然に見守る番をするほど、内実は心配されてるっぽい。
「…………」

 オレが助け出した時の姿のまま、赤い鎧の女は横たわっていた。薄い毛布はかけられてるが、いつもは括ってる鎖骨までの髪は最初から下ろされていて、魔道士の奴が張りつけにする時、髪留めを外したんだろうと思う。
「……くそ」
 がさり、と鈍い音が立ち上がるほど、向かいのござに荒々しく座った。
 ピアの恰好は、他にも赤い胸当ての下、鉛色の上衣の襟が、鎧ぎりぎりまで開かれている。アイツ、何処を触って精神干渉をかけようとしてたんだか?

 すげぇむかつく。
 ヒトに抱き着く演技をしただけで、後でずっと真っ赤になってるような女の、髪だか肌だかを触ってんじゃねぇ。悲しそうな顔で眠ってるじゃねぇか、畜生。

 女は起きない。揺れる焚火の炎ごしに、幸薄そうな寝姿を眺めてると、段々と、自分が何を止めたかったのかわからなくなってしまった。
「……俺は……」

 オレは、姐貴を助けたかった?
 でも本当は、姐貴が自分の意志で動いてることくらい、長い付き合いでわかっていたはずだった。
 じゃあ俺はどうして、サライに関わったんだろう。姐貴はやめろ、と祭祀にはっきり取引をしてまで、オレを近付けまいとした秘密の荒事だったのに。

――最近、アナタが変わっていってることには、気が付いている?

 今ならこれが、アニキのためにもなるかもしれない、そう思い込むことができなくはない。
 でも本質的には、存在しないオレがゾレンで動き回ることは、アニキのリスクを増やすことは変わっていない。弱みをサライに晒すわけにもいかず、飛竜の系統であること以外、正体を隠していくのは同じだ。

 ピアにも話せない。オレが誰であるのか、何を思ってここにいるのか。

 そうわかった途端、眠る女を見ている目から、全身にやるせなさが走った。
「……オレは……」

 アニキを巻き込むことはできない。俺は誰にも、鎖に繋がれてはならない。
 でもオレは、こいつに……エアの姐貴が手伝いたがる、国賊なんてやってる女に、関わりたいと思ってしまった。

 それは姐貴のためというよりも――
 姐貴が大切にしているこいつに、俺自身が、興味を持ってしまった……?


 自覚してしまえば、謎のやるせなさは全て、頭痛に変わった。
 全身も痛い。こんな、持つだけ損な感情の正体は、わからない方が良かった。
「っく……いや、それ……よりによって、ゾレンの人間って……」

 俺は、否定をしようとしてる。
 国での俺は、「存在しない獣」なのだから、誰とも深く関わってはいけない。
 それもうちの母さん――親父を暴走させた、人間の女という同じ業を、オレは繰り返してはならないのだと。

 今ならまだ、俺は引き返せるのだろうか。
 眠る女も、オレを利用したい祭祀も、全てを置いて逃げてしまえば。それくらいなら簡単にできる。
 それなのに、目を離すことができない。
 安らかとは遠い空ろな寝顔で、細い寝息も炎に消える女が、いつかのように……にへら、と笑う姿が、また見たいだなんて。


 ブラザーが休憩から戻ってきた時には、オレはひたすらしかめ面で腕を組み、まるでピアの弱点を探るかのような険しい視線を向けていたらしい。
「もう、ドレイクってば、さすがにリーダーの暗殺とかはよしてよ!?」
 いや、そう見えてたんなら別にいいけど……コイツらの中では、オレは多分、ピアに負けて仕方なく手伝ってる化け物。そういう認識っぽかったので。
 祭祀にもコイツらにも、これ以上弱みを増やしてたまるか。
 言ってみれば、オレはこれから、「子供攫い」を崩壊させようとしてるわけだし。

 ちょうどそこでピアがやっと、重い目を覚ましていたのだった。
 長髪野郎はともかく、一緒にござに座ってるオレに、ゆっくり体を起こした女は、ぼんやりとした青い目を大きく丸くしていた。
「……何で、リーザ?」
 腑抜けて通称も忘れてる声は、ただ柔らかい。何だか丸くて、可愛かった。

 顔が緩みそうになって、必死にむしろ強張らせる。
 まずい、これ早く普段の冷徹女に戻ってくれねぇと、俺の心臓がもたないかもしれない。
 上手いことそこで、話題がむかつく奴のことに変わった。
「そう言えば――グライダーは?」
 尋ねたピアの顔が曇った。大体の答は聴かずともわかっているようだった。


 起き上がってさっさと灰色の髪を括ったピアは、ブラザーとオレを連れて、隠れ里の年長の子供に今回の事件を説明していた。
「グライダーはもう、ザインのお家に行かないといけないのが嫌で怒ったの。これからは新しい仲間が手伝ってくれるから、みんなにもそう伝えてね?」

 ピアはいつも、攫った子供一人一人に、「貴方は何も悪くない、行きたい所に行けばいい、帰りたかったら帰してあげる」と話すらしい。
 攫うことそのものよりも、これから子供達がどう生きていくのか、大事なのはそこだってのは、俺にもわかる。
 親が見つかる子供ばかりじゃない。身元がわかっても、ゾレンに逆らわないために、子供を迎えに来る親ばかりでもない。
 民家の一つには、全身に火傷を負った少年も寝かされており、ソイツに至っては親が治療を拒否したらしい。


 オレが飛竜になれて、五人前後なら背中にヒトを乗せて飛べることがわかると、火傷の少年を連れていきたい、とピアがまっすぐ俺に頼んできた。
「別にいいけど……落っこちないように、しっかり抱えてろよ」

 あと、服のことはまた祭祀に頼む。
 これ何気に切実なんだよな、オレみたいに変化する化け物の場合……。

 そうして秘境の山奥の広場で、絵本に出るドラゴンのような蒼い獣になった俺で。
 真っ先にかけられたのは、隠れ里の子供達の歓声だった。
 ピアも呆然と俺を見上げる。暗く青い目の大半を、巨体の体色の蒼が侵す。
「……キレイ……」

 これだけ大きな動物は初めて見た、と言わんばかりだ。ぺたぺた、とまるで子供のように俺の足の鱗を触り始めた。
 いや、やめてそれ、見た目は獣でも中身はオレだから……。

 この女、怖いもの知らずというか、火傷の少年は仲間に任せて、ちゃっかり俺の首元に跨っていた。夜空から地上を眺めたのも初めてらしくて、しきりに感嘆の声を漏らしやがる。
 飛行担当の仲間がいなくなったことなど、最早どこ吹く風というかのように。

「凄い凄い、空ってこんなに気持ちいいんだ……! いいなあリーザ、あたしも自分の力で飛んでみたい……!」

 魔道士が誰かを運ぶ時には、がっちり抱えて飛ぶので周りを見る余裕なんてなかったそうな。いや、そんなんは別に、どうでもいいことなんだけども。


 なるべく人目を避けたルートを通り、ゾレンの南端の第五峠――エアの姐貴もいるはずの、医療が主の港町に降りた。
 ファザーとブラザーが火傷の少年を病院に連れて行って、オレとピアは暗い砂浜で待機することになった。

「多分長居はできないんだけど。ここの自治団は西派が多くて、王都を東部に遷した東派――あたし達の表の顔を嫌ってるから」
 何処にいても目立つ赤い鎧を、無人の道の宿でピアはすぐさま脱いだ。
 ただ赤い小手と臑当ては残し、外套の下に潜ませている。力への防備は薄まるが、それらがあると、化け物並みの筋力は温存されるのだという。
「おかげであの子も、なかなか良い医者にみせてあげられなくて。ありがとう……リーザのおかげで、本当に沢山助けてもらった」
「……」

 夜の潮風の中、あんまりはっきりとは見えないけれど。ピアはまた柔らかく、無防備に笑ってる気がする。
 俺は顔が緩まないように、あえて不機嫌にならないといけない。
 この辺りの化け物達に姿を見られないよう、気配隠しもさっきから強化させているし。

 何も答えないオレに、ピアは気にしないような顔でまた笑いかけて、一人で波打ち際の方に歩いていった。
 魚の皮で作られた深靴を履いている女は、ぴたぴたと水を渡る。

 ひとしきり満足したのか、真っ黒な海を後ろに、不意に振り返っていた。
「……もういいよ? リーザはこれ以上、あたし達に付き合わなくて」
 無理矢理協力させられたオレが、まだ残っているのが不思議だったらしい。もう俺は自由なのだと、人間の女は嘘みたいに優しい声色で言う。


 まるで今にも、暗い海に呑まれていきそうな女。
 手足の赤い光だけが、女を黒い水の手前でかたどっている。
 けれどそれは、赤い枷に縛られて波間を漂う、囚われの水中の花に俺には見えた。

 ここでオレに、他に何が言えたというのだろうか。
「……るせー。俺が何処にいようが、俺の勝手だろうが」

 きょとん。と、本当は凄く童顔の女が、何度目かの丸い目で俺を見つめた。
 こいつがエアの姐貴のように、ツッコミが大好きな人間でないことに安堵し。 

 ……アホだな、と。俺はこっそり、女に見えないように笑った。


Czero Cry per A.-angere- 前日譚
『蒼い獣』 -了-

❖赤の鼓動❖

 
 もし世の火の色が赤くなければ、果たして彼女は、赤を愛しただろうか。
 その原色だけがいつも彼女に、温かさを教えてくれた。
 光に嫌われ、生き物としては不出来な彼女の体で、好きなところは血の通いを示す暗赤の瞳だけで――


Czero Cry/A. -angere- extra

_side A.

 
 彼女のうっすら赤い眼の視力は、生まれつき低い運命だった。
 人間とヒト型の化け物が共生する原始的な国で、人間には珍しいと言われる、雪のような白銀の髪と乳白色の肌。周囲の誰からもそれは稀有な美貌だと賞賛されたが、縫製職人の親の後を継ぎたい彼女にとっては、ピントの合わない眼は邪魔でしかない。

「レインさん。この間お願いした上着、もうできてるか?」
「いらっしゃい、ライザ。ちょっと待ってね。ごめんね、ボタンがよく見えなくて、大きいものに替えさせてもらったの」

 隣の青年に頼まれた繕い物を探すが、他の依頼物とうっかり同じ床の上に置いてしまったらしい。目立たない灰色の外套を恨むが、確か赤いボタンをつけたはずだ。ぼんやりとした視界の中で、その目印をのんびり探すことにする。
 青年はいつも、お茶を飲んで世間話をしていく。近況を話す内に、青年が自分で依頼した品を見つけるだろう、と彼女は先にお茶を用意しにかかった。

 彼女のために窓という窓を閉ざした我が家で、火を入れたかまどは一際明るい。甕から土鍋に水を移し、湯を湧かす程度の慣れた手作業は簡単だが、凝った料理はできず、点火も時に青年の力を借りる。夜更けに井戸と水場に行ければ、最低限の一人暮らしはできる。早くに亡くなった両親は、彼女が何とか生きられる環境と技術という、最大の愛を遺してくれた。
 生まれた時から光は彼女を嫌っていた。少し油断すれば光とぶつかった肌は焼かれ、眼には精密な光景が結ばれず、眩しさが強くて周りが見え難い。主に夜に外に出る習慣は幼い時からのもので、隣に住む青年――優しい混血の化け物は、物騒だと心配している。

「会合を夜にするのは仕方ないけど、行き帰りは送らせてくれ。会合でなくても外に出る時は、声をかけてくれたらついていくから」

 いつもあまり喋らない無愛想な隣人が、彼女の前ではとても多弁になる。気を許してくれているのを隠そうとしない。これだから彼女は、化け物というやつが好きだ。
 毎日家にいないといけない彼女に、両親は縫製を手で覚えさせた。彼女が好きだったのは編み物だが、化け物だらけの山里で必要とされるのが多いのは普段着の手入れや雑嚢作りだ。細かい作業を苦手とすることが多い化け物達の中で、彼女の一家は誰もが重宝されていた。

「夜は魔物も多い時間だし、人間の一人歩きは危険だろ」
「ありがとう。でも私、危ないかどうかくらいは、自分で判断できるわ」

 そもそも外出頻度の高い沐浴に、青年を同伴するわけにもいかない。
 化け物達に快適な衣類を提供する代わり、食糧や住居の安全を助けてもらう。彼女と両親の小さな家の隣に住む化け物は、「最強の獣」とされる飛竜一族のはぐれ者と、気の強い人間の女が番った夫婦で、人間好きな飛竜の男は進んで彼女達の安全を守ってくれた。外敵を近付けず、閉鎖的な山里での発言権をくれるだけでなく、息子にもお隣さんと助け合えと教育した有り難さだ。家族ぐるみで付き合い、彼女は小さい頃から、二つ下の隣人を弟のように思って生活してきた。

 あくまで彼女は、ただの人間だ。それどころか、光に嫌われている点で、普通の人間よりも弱いかもしれない。役立たずだと長年申し訳なく思う。
 対して隣の青年は「最強の獣」の息子だ。赤眼赤毛の血気盛んな父親に比べて、銀色の髪に灰色の眼と覇気のない青年なのだが、この青年には父親と同じ、赤い炎が渦巻くことを彼女は知っていた。

「それよりライザこそ気を付けて。今度の遠出は元王都の後始末でしょ? 西派の連中と揉めるんじゃない?」
「……俺はもう、親父の償いは、果たしたはずだけど」

 ほとんど表情を変えていないが、青年の眼に炎のような激情が宿る。熱くなった胸の鼓動と、常に左腕に巻く包帯に僅かな赤が滲むのがわかる。
 青年の父親、彼女達のことまで守ってくれた飛竜の男は、一年前に流行り病で亡くなった妻を追うように死んでしまった。同じ病に浮かされてのことというが、彼は死ぬ直前に「最強の獣」を王都で暴走させた。そうしてこの国の言葉では「ドラゴン」という巨竜が暴れ回った王都は、東の地に遷都となってしまったのだ。

 彼女は青年の炎の芽には触れず、大事な要求だけをいつも伝える。
「森の近道は通らないで、川沿いに街道まで出て。そうすれば東派の兵士達と合流できるから、貴男だけが襲われることはないわ」
「…………」
 彼女には夜の外出が怖くない理由がある。危険かどうか、自分で判断できると言った彼女の眼には、小さなボタンは見え難くとも、悪意や敵意といったものはよく映るからだ。
「レインさん……『千里眼』は、頼んだ時だけでいい。心配してくれるのはありがたいが、俺は大丈夫だから、あまりその力を使わないでくれ」
「あら。私の力を私が好きな時に使って、何が悪いのかしら?」
 にこにこと、こういう時は彼女も遠慮なく、青年の包帯をはぐようにその炎を煽る。
 青年の返答は予想がついている。ただの人間である彼女の、人間には有り得ない遠見の眼の色は、力を発揮する時に血よりも赤くなる。それを弟のような青年は知っている。
「『千里眼』は体に悪いだろ。なるべく使うなと親父も言ってたのに、親父が死んでからレインさんは、まるで遠慮がなくなったみたいだ」

 日頃より調子が強く、細めの眉をひそめた青年に、彼女は僅かに口の端が引きつる。
 今までほとんど、飛竜の男のことは話さなかった。彼女も青年も、暗黙の了解のようにその話題を避けてきたのに、今日の青年は普段よりも炎の勢いが激しい。それでも彼女は、この眼の力だけが自分の良いところだと、務めて微笑みを浮かべながらぼんやり考えていた。

 遠出をする時、人間も化け物も普通は丈夫な外套を羽織る。青年がそれを繕ってくれと言ってきた時、また出かけるのだとわかり、彼女はすぐに旅路の安全を確かめていた。
 青年の言う通り、そうせずにいられなくなったのは、飛竜の男が亡くなってからだ。あの自信たっぷりで溌剌とした赤い眼が、こうも無残な最期を遂げるものかと、葬送の場で彼女は我が眼を疑ったものだ。
 その上、暴走した飛竜の被害を受けた地の者達が、こぞっていたいけな青年を襲った。山里の長である怪鳥の取り成しで何とか青年は容赦されたが、実父の償いで今でもあちこちに駆り出されている。青年は父親を恨んでいるが、彼女をはじめ、多くの者が暴走する前の飛竜の男を慕っていたので、憎悪を口に出していないだけだ。

 少し気まずくなった空気はそのままに、依頼した外套を見つけた青年が出て行くのを見送る。その後、彼女は隣の寝室に戻り、作業机を台所側によいしょ、と出した。
 散らばった依頼品も全てよけて、床にスペースを確保する。そうして、両親が遺してくれた物の中でも一番のお気に入りの、大きな軽い布の地図を広げた。
「『千里眼』、なんて言うけど……」
 この国だけでなく、近縁の地域も載せた、大陸の西半分の地図。
 飛竜一家に力を借りた両親の自信作をこうして広げ、下縁の近くにある現在地の我が家を示す、赤い点の上に座り込む。両手を地図の上について、じっと色褪せた布地を眺めていると、ぼやけた視界でも地域名の刺繍くらいは判別できた。
「千里ってどれくらいか、私にはさっぱりわからないわ、ライザ……」

 この地図の端から端までが、どの程度の距離であるのか彼女は知らない。彼女が行ったことのある土地は、せいぜい現在地から東南の港町くらいだ。人間が多く海運も盛況な海辺では医療技術が発達しており、よく両親に宵闇の中を連れて行かれた。
 それも両親が生きていた四年前までで、ここ数年、彼女はほとんど遠出していない。親の言うことを聞いていただけで、何をしても良くならない体調は昔からどうでも良かった。彼女の日常はその視野通りぼんやりとしていて、たまに水の冷たさに我に返るくらいだ。
 家にいようと、この地図の範囲程度で、彼女の眼は悪意や敵意を探すことができる。地図に両手をつくと、まるで描かれた地域の上空から雨として降るように、彼女はその地に浸み入ることができた。

 ぼんやりとしか見えない両眼を閉じて、地図の表面の刺繍をなぞり、見たい場所の凹凸を手先で感じる。体はそのまま我が家にあるのに、彼女の意識は刺繍の場所に飛ぶ。周囲の大人や化け物の顔色を窺う時のように、そこに在る生き物達の気配を探る。
 真っ暗な空の中で、冷たさや熱さ、痛みや喜びが切々と伝わる。受け入れる無色の彼女の意思が、その手で触る土地に降り注いでいく。そこにいる者達は、黒い視野の中でうごめく灰色の影に視える。こうして遠目で視えるのは化け物の影だけで、人間は闇に溶け込むほどに光がなくてわからない。

 本当は、地域それぞれの刺繍を触らずとも、何処にでも彼女は飛んでいける。この地図をあえて使うのは、視に行く範囲を制限するためだ。
 光に嫌われ、普通の人間よりも不鮮明な世界で生きているのに、この時の視界に入るものはやたらに鮮明になる。像としてはただの影なのに、笑っているか、怒っているか、眼の感覚ではないところで情報が伝わる。
 こんな力は、人間どころか化け物にも理解されない。そう思っていたが、それは化け物にとっては「気配の探知」という馴染み深いものらしい。ただしこんな風に、遠くを視られるのは普通でないが。

 青年に勧めた旅路や、他にも気になる所を視に行き、安全を確認する。それで気は済んだが、現在地の我が家が見つからなかった。
 これをするといつもこうだ。大空に広がった後の彼女には、帰るべき自分の体が何処にあるのかわからなくなる。おかしな特技を持ったものの、彼女の体はあくまで人間で、自分の眼で視えるほど光を発していない。化け物の方が好きなせいか、人間を視つけることが彼女には一番難しい。
 だからいつも、彼女はあの赤を探す。隣の青年の、大人しげな灰色の内に渦巻く赤い炎。戻るべき自分の道標として、最も近い位置にいる赤を探す。

 しかし今日は、青年は出がけに彼女の元に来たらしい。もう旅に出てしまい、赤の周囲に彼女がいない。
 こうなると仕方ないので、取り残された体は自ら赤を作る。地図を広げる前にいつも、ポケットに潜ませておくナイフを取り出す。光を避けるために毎日着ている長袖をまくり、冷たい肌の感触を確かめると、何の遠慮もなくそこに白い刃を滑らせていく。
 これはそもそも、隣の青年がよくしていることだ。あの左腕の包帯はそのためにあり、彼女もいつしか真似をするようになった。

 痛みの効能かどうかは知らない。しかしその赤が(ほとばし)ると、彼女の意識はいつも自らに帰り、薄らぼけた眼を開けることができた。
「……。地図を汚しちゃった」
 痛みも実際、あまり感じていない。むしろ気分はいつになく良くなる。困るのは現在地である我が家の赤い点が、どんどん増えていくことくらいだ。

 そして青年の言う通り、最近、力を使い過ぎているらしい。心当たりは多々あるので驚かないが、いつが限界かはさっぱりわからない。
 視ようと思えば何処でも行けてしまうので、自制が難しいのが困ったものだが、遠くのことを視れば視るほど、その後の彼女の体は悲鳴をあげた。

 あら、という暇もなく、立ち上がろうとした彼女は地図と反対側に倒れ込んだ。せっかく戻ってきた体は、いつも通り動けるほどまだ馴染んでいなかった。
(良かった……この方が後で、掃除は楽よね)
 ごぼごぼと、激しく咳き込む自分が他人のように思える。喉に絡む赤いものが木の床にぶちまけられて、肩口の髪を赤く染める。飛竜の男が赤毛だったせいか、赤い髪なら歓迎だと笑ってしまう。
(……あんなに純粋なヒトは、今までずっと、見たことがない)
 大体の化け物は、先程の彼女の眼からは灰色の影に視える。しかしおそらく、化け物としての純度が高くて強力な場合、固有の強い気色を持つ者がいた。飛竜の男はその典型で、彼女の眼には彼の影が赤く視えた。
(ライザも……隠してないで、認めてしまえばいいのに)
 父親が悪名高く死んだせいか、隣の青年は事なかれ主義に陥っている。別に危険を侵してほしいわけではないが、もう少しだけ、周囲に舐められないようになってほしい。青年があちこちから都合良く使われているのが、彼女の密かな不満だった。そんな青年だからこそ、彼女を助けてくれるわけだが。

 噴出寸前の炎を包帯で抑え、何事もなかったかのように、淡々と彼女に会いに来る隣の青年。飛竜の男が死んだ時に、一緒に暮らそうと暗にプロポーズを受けたが、その場ではっきりと断っている。あの優しく危うい青年には、もっと丈夫な連れ合いがいてほしい。これは完全に姉心だろう。
 それなのに青年は今も、彼女の生活を助けてくれる。化け物と人間の混血とはいえ、どれだけお人好しなのだろう。化け物と人間の両方から、弱い部分を継いだ存在である気がしてならない。だから青年は、その父と同じ末路を辿るかもしれない――青年がそれを怖れて父親の記憶を疎むことを、彼女は痛く共感していた。

 それでもその怖れは、秘めていれば溜まる一方だ。加えて、妻を失って暴走した飛竜の男のように、弱い人間の女を娶るのはあまりに愚策。あの赤を飼い慣らせる強い化け物の娘を、青年は探さなくてはいけない。

 もしも彼女が、光に嫌われる弱い人間でなければ、青年の手を取っていたかもしれない。混血の青年を理解できる化け物は、化け物と人間の国ですら多くはない。
 けれど彼女は、飛竜の男の暴走について、予兆に気が付きながら止めることができなかった。「千里眼」などという眼を持っていようが、人の身はあまりに無力。人間の――自身の弱さに愛想が尽きた。

 さらにはここのところ、飛竜の男に勝るとも劣らぬ赤い影が、彼女の身近にちらついている。
(……アナタは……誰?)
 左頬に、ひんやりと床を感じたまま、彼女はもう一度両眼を閉じる。今日はこのまま動けそうになく、壁一枚へだてた寝床へ行くのを諦める。
 自分の吐いた赤が視界から消えると、急速に体の奥が冷えていった。赤を特別好むわけではないのに、彼女を高揚させる唯一の色が生き物の血の赤だった。
(どうして……? アナタ、ライザに、そっくり)
 まぶたの裏に映る赤は、夜更けによく行く教会に在る。意識を飛ばすまでもなく、あまりに強いその赤は感じることができる。この影は存外に温かく、彼女の眼を惹き付けてやまなかった。

 いつも以上に体温が落ちていく我が身を、安らぐ彼女は気付いていない。
 自身の限界など考えたこともなかった。光に嫌われ、化け物達の助けなくしては生きられない体は、早く滅びる方が周囲の負担も減るだろう。
 自分はお情けで生かされている。だからいつ終わってもいいよう、彼女は自分に「最期の言葉」という言霊を願い続けてきた。

「ありがとう……大好きよ、ライザ……」

 いつかきっと、自分を生かし続ける隣の青年に、笑顔で礼を言いたかった。生きている間は言えない想いを伝えたかった。
 家族としての想いか、感謝の心なのか、ヒトとしての愛なのだろうか。どれにせよ、この心を伝えてしまえば、青年は命をかけても彼女を守ろうとするだろう。あの赤い炎はそうした化け物にしか現れなかった。だから何があっても、これ以上は頼りたくない。
 赤とはきっと命の色だ。赤い瞳、赤い血。彼女の眼が赤く醒める時だけ、世界は少し鮮明になる。生きる者達の心の火がわかる。
 隣の青年や、教会に潜む赤い影は、抑えるほどの燃える心を持っている。「最期の言葉」を待つ彼女とは真逆だろう。

 あの赤は命であり、また、永く燃え盛る憎悪の光。何かを愛せば愛すほど、裏腹に積もる命の鼓動だ。生き物とはきっとそれ故に生まれ、そして滅ぶ。飛竜の男が自滅し、息子がそれを恨むように。


 意識がだんだんと胡乱(うろん)になる中で、誰かが彼女を呼ぶ声が聴こえた気がした。
 せっかく自身の赤に浸っていたのに、連れ出されてしまった。気付けば彼女の痩せっぽちの体は、真っ黒な闇を照らす、赤い炎の間近にあった。

――……?

 暗闇の中で両手を見つめると、白い肌がわかる。いつになく血色が良く、そうして自分自身が見えているので、「千里眼」の飛行でないことだけはわかった。

――ここは……教、会……?

 立ち尽くす彼女の前で、静かに燃え盛る赤い炎。しかしどうして、自分がその炎の元にいるのか、理由は欠片もわからなかった。

 赤い炎はヒトほどの小さな拡がりで、今にも暗闇に呑まれそうに視えた。
 勿体ない。ふとそう思って、何の気もなく炎に触れる。
 一瞬、とてつもない熱が彼女の全身を走っていった。けれどそれはほんの一時で、その直後からはじわじわと、体中を温かい命が満たし始めた。
 何だろう、これは。不思議ながらも悪い気はせず、そのまま炎に両手を伸ばして、あまりの温かみに不意に涙が滲み――

 ふっと、潤んだ両眼のまぶたを上げると、知らない寝床に彼女は病人着で横たわっていた。
「……?」
 体を起こそうと思ったが、全く動いてくれない。確実に自宅でない場所で寝ていて、わけがわからなかった。
 視線だけぐるりと動かすと、壁の色や窓の形から教会の一室だとわかった。化け物は大概単純なので、死んだと思われて葬送されかけたのだろうか、とおかしさが込み上げてくる。

 そんな彼女が、うっすら赤い両眼を開けたことを確認してか、部屋には知らない白衣の男が静かに入ってきた。
「……目が覚めたか」
「――え?」
 軽装に取って付けたような白衣だが、明らかに化け物とわかる濃い赤の虹彩。医者などにはとても見えない、不貞腐れた顔付きの赤い髪の男。
 何者か尋ねる間もなく男は横の椅子に座り、脈をとってから彼女の額に冷たい手を当てた。
 そんな男の顔があまりに端整な事実は、彼女の視力では気が付くことができない。赤い髪と目、白衣に映えるその二つだけが印象に強い。
 どうやら教会に滞在する異邦者らしいが、担ぎ込まれた彼女を診るよう頼まれたと見える。そこでようやく、普段より体調は良いが、体のあちこちが痛いと彼女は気が付いていた。

 誰に着せられたのか、半袖の病人着では、彼女の白い両腕が露わだ。その姿に男の眼元が歪むのを感じた。
「その傷は……」
 そこで彼女もぴんときた。両腕には「千里眼」の飛行から帰る時に、何度も目印とした赤が刻まれている。生々しいものは手当てされており、男にはまるで、心を病んで己を傷付ける人間のように映っただろう。
 くすり、と彼女はあえて笑ってみせる。
「内緒にしてくれる? ばれたら死ぬほど怒られちゃう」
「そうか。……それなら、それでいい」
 無愛想なわりに、ほっとしたように言う。化け物らしい無骨な反応は彼女の好みだった。今度は自然に微笑みがこぼれた。


 それ以後は何も言わずに、男は黙って座ったままだ。これはおそらく、彼女が最近教会に視つけた赤い影の主だと、温かな気配に察する。
 何も言わずにしばらく見つめ合っていた。男の赤い髪と目は飛竜の男より血の色に近く、彼女自身の血よりずっときれいだった。

 常に長袖の上着を羽織る彼女が、決して誰にも見せなかった傷を、唯一知っただろう相手。もしも男の髪と目が赤くなければ、果たして彼女はこの後、主治医となるその男を愛しただろうか。
 それは愛であるのかすらもわからない。けれどその原色だけがいつも、彼女のうっすら赤い眼の奥に確かな炎を燃やす。


side A. -了-

_side C.

 
 彼が突然治療を頼まれた美しい人間の女は、山奥の教会に引きこもっていた彼には思わぬ強い刺激だった。
「この里では数少ない人間。そして、お話していた珍しい『千里眼』ですよ」

 まず驚いたのは、酷く弱りながらも、まだ呼吸を続けている人間の忍耐強さだ。薄い麻製の白い夜着を、着替えさせることも躊躇う重篤さがあるのに。
 これだけ「気」が弱っていれば、さぞかし体が辛かったことだろう。それなのにその人間は、現在まで一人暮らしをしていたという。この何一つ、容易な生活の恵みの見当たらない寂れた山奥で。

「……まずは、これ以上『気』を逃がさない結界を張る。その上で『気』を集めるから、時間がかかる」
「わかりました。それでは私は、お邪魔ですね」
 さらに言えば、この里が在る土地は、魔力を持つ化け物には良いが、普通の「気」は乏しい所だった。
 この国ではそうした魔の領域が珍しくないのだ。

 聖なる神の館にいながら、魔力を扱う祭祀を追い出した後、彼は人間の女を滞在中の自分の部屋に移した。
「……回復するまで、もつのか……この女……」

 この山里の土地から「気」を集める結界は、部屋全体に施してやった。彼にとってはごく簡単な魔道だ。
 けれど女はぴくりとも動かない。若祭祀に言った通り時間がかかるだろう。若祭祀は誰かの「気」を女に分ければ良いと言ったが、強大な家系の化け物である彼の「気」は、強過ぎて普通は人に与えることができない。
「……――」

 そこまで考えて、彼は――
 もし可能だったら、彼の気を分け与えてでも、人間の女を早く回復させたい自身の思いに気が付き、酷く驚いていた。
 この女が目を覚ませば、どんな声で話すのだろう。
 ここまで身を削る女は、どんな人間なのだろうと。

 彼の周囲では、人間とは取るに足らない生き物の扱いでしかなかった。
 高度な魔道を扱う化け物にとって、人間程度の技術は子供の遊びでしかない。寿命も短く、得る物もなく、わざわざ関わる理由などない。
 だからその点でも、彼は厄介者の異端者だった。名家の恥と伏せ続けられているが、彼の父は人間で、当主である兄弟とは母が同じなだけだ。
「本当に……人間なんて、隙だらけだな……」

 遊び心で弱い人間と関係を持っておいて、人間の父を軽んじている母が彼は大嫌いだった。母を含め、生家のその空気全てが肌に合わなかった。
 彼は実際、父親を知らない。彼が生まれてすぐに父は飽きられ、追放されたのだという。
 そして父が人間であるためなのか、彼の「力」も、普通とは違った。「水」の魔術を司る家にも関わらず、彼が持って生まれた力は「火」だったのだ。

 彼自身は、そこまで不遇に育てられたわけではない。混血であろうが、強い「力」を持つ化け物であればきちんと育成する家だ。彼をこうして遠方に留学に出したのも、早くから当主となった兄弟の口添えがあってのことだった。
「ヘルシャの奴……それで、恩を着せたつもりかよ」
 それは兄弟の、完全な厚意だった。わかっているからこそ、彼は余計に気に喰わないでいる。
「お坊ちゃんなんだよ……俺がいつ、寝首をかくか狙ってたとも知らずに……」

 むしろそれで飛ばされたのだろうか、とも自嘲してならない。
 暗い窓の傍の寝台で、静かに眠り続ける女の横で、膝を立てて行儀悪く椅子に座る。彼のぼやきはただ、そのまま夜の闇に消えていくのみだ。


 女の状態がもう少し、上向くことを確認してから、彼は滞在部屋を出ようと思っていた。物置や聖堂で夜を明かしても別に良かった。
 正直この全身状態では、いつ急変してもおかしくはない。それでこの部屋に留まっていた彼に、不意に――その運命の悪戯は訪れていた。
「……――え?」
「……、……」
 女が初めて少し身動きし、何かの寝言を口にする。同時に目端に涙が滲み、眠りながら苦しげに両腕で胸元を掴む。
「……?」
 ぼそぼそとながら、端麗な容姿に合う玲瓏な声の女。何を言っているのか、と興味本位で身を乗り出した――その時のことだった。

「……っ――!?」
「――、ライザ……」
 片膝を座面に立てて行儀悪く座りながら、女の方に上半身を折った不安定な体勢の彼を、突然女が首元にしがみついてきたのだ。
 多分男のものであると思われる、誰かの名前を口にしながら。

 椅子の上から、女に抱き寄せられたような状態で、彼は咄嗟に両手をついた。弱った女に体重をかけないようにしたのだが、これだとまるで、彼が女を斜めに押し倒したような姿勢になってしまう。

 不測の事態に、思いもよらずに心臓が早打つ。
 彼にしがみつく女は、夢に見ているだろう誰かに、何度も同じ言葉を繰り返していた。
「ごめんね……ありがとう、もう、いいの……」
「……――」
「ありがとう……大好きよ、ライザ……」
 その女が、一番最後に口にした寝言に――
 あまりに不意に、彼の胸裏に、体験したことのない炎が燃え上がっていた。

 女がいったい、誰に礼を言っているのかは知らない。しかしここまで女が弱る事態を止められなかった者に、この女はそんなにも懸想しているのか、と。
「――」
 女に抱き着かれている首の両腕から、何故か深い胸の奥まで、熱い煮え湯が行き渡っていくようだった。

 そもそも彼は、女の周囲の者に腹が立っていた。
 見下す人間等を利用し、ここまで消耗させる横柄な化け物達。
 彼は若祭祀の態度しか見ていないので、他の身内は彼と同じように、女を心配しているとはわかるべくもない。

 そして弱り切った女が彼の気配を、彼と似ている優しい化け物と間違え――女を助けようとしている彼を無意識に感じ取り、止めようとしているとは、到底わかるわけがない。
 この人間がそれほど、誰かの負担になることを避けようとする女であること。この時点では、彼はまだ知る由もない。

 首に回された冷たい両腕も、華奢で柔らかな女の体も、彼の憤怒を冷やす効果はないようだった。
 若祭祀は先刻、彼の「気」を女に分ければ良い、とほのめかしていた。その意味をわからない彼ではなかった。
 仮にも、魔道を扱う者の言なのだから、彼の気をそのままの状態で人間の女に与えられないのは、若祭祀もわかっていたはずなのだ。
「っ――……?」

 まだ女に抱き締められたままの、彼の顔が歪んだ。
 この女を手っ取り早く、回復してやる方法がある。一時しのぎでしかないが、確実に今の危機は救える。
 女のためと言いながら、彼の衝動を満たすだけの、あるまじき背徳――神の館で、何という偽善だろう。
 魔道を叩き込まれた昔、その大元の「神」に感謝などしたことのない彼を、古い憎悪が更に煽り立てる。

 誰の気配も、今この教会の内には感じられない。
 常に自身の激情を殺して生きてきた彼の、どうにも抑えることのできない、荒い心拍ばかりが肋骨に響く。
「…………」
 女の細腕を、やっと振りほどいた彼は、そのまま間近にあった頬に触れる。改めてその冷たさを知ると共に、安らかな寝顔は、ひたすら無防備だった。

 白い顔の数センチ横に、小さな手が上げられている。先程彼に、女が両手を伸ばした体勢の名残だろう。
 そっと触ると、血の気のない手の平はやはり冷たい。よく見るとおそらく、女の吐いた血の跡が指先に残っていた。それに気付いたことが、本当に最後の、駄目押しとなってしまったのだった。


 彼の実家は、魔の道にある。父が人間である彼でも、母からはしっかりと魔性の素質を受け継いでいる。魔性とは、ヒトの血や精を糧とし、ヒトの身体の内を巡る魂魄――命と想いの揺らぎを欲する強い衝動でもある。
 無意識に根付いた魔性の欲求に圧されて。気が付けば彼は、女の細い指先を一つずつ、血を舐めとるように軽やかに食んでいた。
 彼が女の手を持ち上げたから、長い袖が下にずれて前腕があらわになった。そこには数多の鋭い傷痕。何故そんなにいくつも、この女の腕には、切り傷が残っているのだろうか。
 傷があるのは腕だけだろうか。そこまで物騒な里には見えなかったが、女はまさか、生傷の絶えない暮らしを強いられているとでもいうのか。

 理性はとっくに、女の血を口にした時から消え去っている。薄手の夜着を、体の中央で引きちぎってやる。服より真っ白な生肌を目にして意識が遠のく。
 そうして彼は、溢れ返る胸の焔を、青白い女へ分け与えていたのだった。

 後から思えば。彼にその後訪れる、長い孤独の運命は、この最初の過ちへの重い罰だったのだろう。
 軽蔑し続けてきた母と、彼の一時の衝動は、何が違ったというのだろう。彼はこの先ずっと、それを自らに問い続けていくことになる。


 ことが全て終わってしまった後に。無垢だった女を病人着に着替えさせて、やっと彼は、激しい罪責感の頭痛に襲われていた。
 女は安らかな顔で眠っている。ここまで女が、目を覚ますことはなかったというのに、絡めた指は柔らかく彼の手を握り続けた。
 意識が戻った後も、あっけらかんと彼を見つめていた女の赤い眼。
 自身に何が起こったのか、目覚めた直後からおそらく気付いていながらも、咎める色は一つもなく微笑んでいた彼女だった。


+++++


 彼女は最初から、その彼の不穏さに気が付いていた。彼女にとって彼の過ちは、日頃の自傷と何一つ変わりがないこと。
 だからこそ彼だけが、彼女の命の火を灯せていた。
 眠る彼女が拙く微笑んだことを、背中を向けて頭を抱えていた彼は知らない。


 化け物というものは、荒くれ者が多いだけに、人間のように対人関係のしがらみを重視はしない。しかし一度通じ合った者には、身内の情を抱いてしまう素朴な化け物は多い。
 彼女は言わば、初対面にして彼の弱味を掴んだ。強大な化け物の手綱を一つ捉えたことは、弱小な人間の女としては非常なる強みと言っていい。
 ひたすら彼女の体調を心配する彼に連れられ、結局第五峠の医療施設に長く入院することになった。そうなった後も彼女は、生まれながらの夜ふかし癖を直すことはできなかった。

 医者の技術を学ぶために、彼女の主治医として彼は研修生活を始めた。日中の多忙さに加えて、夜遅くまで勉強をしている毎日。
 彼女が入院する施設の、すぐ近くに与えられている彼の居宅。彼女は度々、夜に医療施設を抜け出しては、必ず起きている彼に会いに押しかけていた。
「ねぇクラン。貴男、医者をずっとやるわけじゃないのに、どうしてそんなに勉強してるの?」
「うるさい、人間は化け物よりずっと手がかかるんだ。あんたみたいな体質の人間を治す方法は、どれだけ本を読んでも何処にも書いてやしない」

 彼女をさっさと人並みの体に戻せば、彼の留学生としての仕事は終わる。そんな風に言い、下手をすれば朝まで机にかじりついている化け物を、彼女はよく寝台に押し込んでしまう。
 そういう時には彼も、抵抗できる理性が残っていない。胡乱な意識の中でも絶えることのない、魔性の庭燎(にわび)の温もりを優しく分けてくれる。

 貴男みたいな化け物がいると、人間は幸せよ。彼女の心を言い続けていると、彼は人間を助ける要職に就いた。それが彼女の人生、一番の幸せだったかもしれない。


side C. -了-

雑種化け物譚❖Cry/A. -蒼い獣-

ここまで読んで下さりありがとうございました。
この話は星空文庫にUP済みの、Cry/シリーズ千族化け物譚・千族宝界録の過去話のC零CPAシリーズです。
C零の中でも最も時系列が古い話がこの『蒼い獣』でありながら、執筆はかなり最近なわりに、文章はリハビリ中のもので微妙の一言です。

1月下旬からCry/シリーズ最暗C零を一気に掲載します。ノベラボ掲載作品のいくつかは2月下旬までの期間限定公開にしようか検討しています。
ノベラボで既に全て掲載は終わっており、いずれも古過ぎて大いに未熟&暗い物語にはなりますが、拙作で一番魂がこもったシリーズになります。
どの悲劇も大体千族化け物譚・千族宝界録で回収されますので、良ければご覧下さると嬉しいです。
初稿:『蒼い獣』2022.5.9//『赤の鼓動』2019.7.13-2022.5.13

ノベラボC零A▼『雑種化け物譚❖A』:https://www.novelabo.com/books/6331/chapters
ノベラボC零R▼『雑種化け物譚』:https://www.novelabo.com/books/6333/chapters

雑種化け物譚❖Cry/A. -蒼い獣-

†Cry/シリーズ・零A①† 人間は雑種の化け物より弱く、雑種は純血の化け物に疎まれ、純血は人間に関わることに制約のある「宝界」。人間の国と化け物の国で静かな争いが続く中で、化け物より強い謎の人間の女に出会う飛竜の双子の前日譚。一応単独で読めます&零Aは③まであります。 image song:潮騒 by abingdon boys school

  • 小説
  • 中編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • 冒険
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-12-13

CC BY-ND
原著作者の表示・改変禁止の条件で、作品の利用を許可します。

CC BY-ND
  1. ❖蒼い獣❖
  2. 1:存在しない獣
  3. 2:子供攫い
  4. 3:千里眼
  5. 4:ピア・ユーク
  6. 5:ザインの魔道士
  7. 終幕:蒼い獣
  8. ❖赤の鼓動❖
  9. _side A.
  10. _side C.