遅刻
ちょっとブラックな職場で働く「私」のクリスマス前の悪夢。
「遅刻」
十二月二十四日、今日はクリスマスイブ。
高天原の神々と慈悲深い仏様が、古くから信仰を集めてきたこの国で、なぜ今日が恋人たちの聖夜とされているのか解らないが、とにかく、多くの飲食店従事者が、ノルマンディー上陸作戦に臨む兵士のような決死の覚悟で、フライパンをふるう日である。
私の勤めるホテルの厨房も、優雅に着飾り、ワインを傾ける客たちの裏側で、一分一秒を争う血みどろの修羅場と化すだろう。
朝の身支度をする私は、右上に目だけやって時間を確認する。時計は朝の六時半を示して、チックタックと秒を打っていた。
台所からは母が焼くソーセージの匂いが漂い、斜め後ろでは父が厳かな顔で髭を剃っている。私はごしごしと歯を磨きながら大きく伸びをした。
ふと一つの考えが頭に閃いた。
今日は五時出勤の筈ではなかったか?
そんな気がする。昨日ラインが来て、小宮山君が「五時出勤」と書いたホワイトボードの写メを送ってきた。
それなのに何故私はいつも通り、のんびり歯なんか磨いている。
背中に冷や汗がにじむ。床の底が抜けて地獄への大渦巻きに飲み込まれていく気分だ。どうしよう、もうみんな仕事を始めているはずだ。私が遅刻したことを分かっているのに、電話もかかって来ない。
ところが焦れば焦る程、呪われたように何時も通りの身支度のルーティーンから逃れられなくなっていく。早く電話して寝坊した旨を伝え謝罪し、なるべく急いで出勤すると申し出なければ。
ああでも、恐ろしい……、普段通り出勤してもくそみそに言われている身である。どんな罵詈雑言が返ってくるだろう?
嵐のような心の内に反して、私の手はゆっくりと髪のセットに取り掛かった。
「ねえ、何時まで寝てるの!」
母のヒステリックに怒鳴る声が、降り注いでいた朝の光を粉々に打ち砕いた。
私はぼんやりと目を開いた。何が起こったのか分からない。
さっき起きて身支度していたはずの私は、体温で心地よく暖められた布団の中にいた。よだれの跡が口から顎にかけて幾筋も走って、頬を動かすとぴきぴきとひきつれた。
柔らかな枕から頭を持ち上げて周りを見回すと、カーテンは閉まっていて、部屋は薄暗かった。わずかな隙間から差し込んでいるのは、とろりとした西日である。私は寝ぼけ眼で時計を見上げた。午後の二時になろうかとしていた。
そうだ、今日は十二月二十三日だった。今年最後の連休日。
「十四時間も眠っちゃったよ」
ぼさぼさ頭でカップラーメンをすすっていると仕事のラインが届いた。
「明日の出勤時刻は五時です」
ああやっぱり。そうでしょうね、そうなるでしょうね……。明日の夜のへとへとの自分を思い浮かべて、鼻の付け根に皺を寄せた。
とはいえ、しみったれたカップラーメンをすする口元に浮かぶのは、まぎれもなく安堵の微笑み。
その唇で戦々恐々とつぶやいてみた。
「なんまんだぶ、なんまんだぶ、願わくば正夢になりませんように」
了
遅刻