ワイルドキャットに告ぐ

僕はある夜、とても美しい女性に出会った。僕は彼女を解き放ちたいと願うようになる…

 本当にただの気まぐれだったのだ。威圧感からいつも避けていた道に向かって、頭をふとそらしたのは。
 満月が僕を狂わせたに違いない。満月は怪物の血を騒がせ、サンゴは卵を産むと聞いたことがある。僕だって生き物なのだから、本能で何かを感じてもおかしなことはない。
 そんなことを考えているうちに、思っていたより奥まで歩いたらしい。立派な建物がずらりと並んでいた。思わず驚嘆し、その場で360度見渡した。きっと今の僕は、か弱くおびえる獣も同然。しかし、ここまで来たら思い切って探索してやろう。
 人っ子1人いない静かな道。とっくに店じまいしている商店ですら恐ろしく見える。ところどころに設置されている自動販売機が、場違いなほどに明るく目立って見えた。
 自動販売機を後ろに見送り、ガサガサと落ち葉を踏みつける。花壇を過ぎ、小さな林を越えた時だった。

 「あなた、誰なの? こんな時間に」

 空気を切るような声が聞こえ、全身の毛という毛が逆立ったような気がした。情けないことに、暗いところからいきなり声が聞こえたものであるから、僕は怯える子猫のように成り果てながら、ビクビクとそちらに顔を向けた。僕の目の前にいたのは――。

「あら、何かと思ったら……。随分と可愛い顔をしているじゃない。あなた」
 ――美しい女性だった。

 よく見ればそこは庭であった。開いた口も目も閉じられない僕の目の前で、彼女はぐるりと周り、悪戯に口角を上げて見せた。
 「うふふ、ダメじゃない、坊や。こんな時間に1人でほっつき歩くなんて。お母様に叱られるわよ。家出かしら? それとも迷子?」
 スレンダーな身体に、軽やかな身のこなし、スッと整った顔立ちに切れ長な目。月に照らされ、透き通るように輝くブロンド、奥深い色をした瞳。足元の影は細く長く、しなやかに動いている。

 世の中、こんなに美しいヒトがいるなんて知らなかった。

 彼女から見れば、圧倒的にずんぐりむっくりでドングリ眼で小さな身体、とっつあん坊やな僕なぞ、子供も同然なのだろう。だとしても。こう見えても立派な大人であると思っている。
 「あはは、ごめんなさい、ちょっとからかっただけよ。男性だって、可愛い顔は武器になるわ」
僕はわざとむっとした顔をしてみた。
 「ちょっと……。そんなに怒らないで。ふふ、変なヒト」
 彼女はいたずらに笑って、垣根からちょいちょいと手招きした。
 「ねえ、せっかくだからちょっとお庭で、お話し相手になってくださらない?」
 思わぬ彼女からの提案に、僕は心底驚いた。今日この場でたった今、たまたま出会った相手からこんなに積極的に声を掛けられることなど無かったからである。
 「あら怖いかしら? 大丈夫よ。お誘いしながら捕って食ってしまったりするほど、野蛮な女では無くてよ」
 僕は改めてむっとしつつ、恐る恐る塀の隙間から敷地へ飛び込んでみた。

 僕が着地すると、彼女は嬉しそうに舌をペロリと出す。聞くと、本当は彼女の世話係達から「夜は出てはいけない」と言いつけられているのだと言う。
 「大丈夫。バレたりはしないわ。ふう……。こうして毎晩こっそりと庭で物思いにふけっているのだけど、それもとっくに飽きてきたところだった。同じ日を延々と繰り返すだけだったところに、あなたみたいな『可愛らしい』お客様が来て、嬉しくてついからかってしまったわ」
 僕はやや眉をひそめたものの、正直あまり悪い気はしなかった。

 「あなたはどこから来たの」
 僕はこの場所からずっと行った先、港のすぐ横に住んでいる。しかし、こんな立派な屋敷はないし、海風で錆の浮いたバラックに帰る毎日を恥じていた。だが彼女は、恥じることはないと否定した。
 「海かぁ……。ずっと前に一度、それもわずかな時間に見たきりだったけれど。青くてどこか懐かしい音がして、それからちょっとしょっぱい匂いがした。それ以外の事はほとんど体感できなかったけれども……。羨ましいわ。毎日見放題ですもの、ここよりずっといい」
 彼女は僕よりずっと背が高かったし、ずっと大人びた顔である。その一方で、穢れを知らない、あどけない瞳と身振り手振りが可愛らしい。恐らく、そのことには自分でも気が付いていないのだろう。
 「きっと本当に素敵で幸せな暮らしなのでしょうね。」

  僕は水面の光と漁師の声で起きては仕事に出ている。しかし、幼い頃から延々とワンパターンな生活をしているわけだ。綺麗と思う一方、大して面白いとも感じていなかった。でも、彼女からすればそれが「素敵」に感じられるそうである。
 「日々の美しい風景が当たり前と思えるという事は、あなたが今本当に恵まれて、安定した生活ができているという事ですもの」
 彼女は退屈そうに家の方を一瞥し、手を軽く開いたり握ったりを繰り返す。そんな彼女に僕は歩み寄り、顔を天に仰いだ。彼女が毎晩静かな時を過ごしていること、それが退屈であるということは、つまり……

 「あなたも僕と同じですね」

 彼女は視線を僕に移し、目を丸くしながらじっと見つめてきた。その刹那、彼女は身体を小刻みに震わせ始める。泣かせてしまったのかと思い、慌てて顔を覗き込むと、そこには満面の笑みがこぼれていた。
 「ふっ、ふふふ。そんな風に言われたの、生まれて初めてよ。そう、私って幸せ者だったのね……。気が付かなかったわ」
 僕たちの周りを心地よい夜風が流れていく。
 「私ね、自分がこの世の中で一番かわいそうなヒトだと思っていたのよ。昔はお稽古が大変で、毎晩泣いていたわ。今はそういったことはなくて、随分と落ち着いた。身の回りのことはお手伝いさんが全部やってくれる。健康を細かく気遣ってくれて、掃除もしてくれて。もう本当に何もかも全部」
 刹那の間が空いた。
 「私はただ、静かに生きているだけ」
 彼女はゆっくり目を閉じる。

 「でも、ね。ただ生かされているのと何が違うのかしらって」
 彼女が少し頭を上げる。視線の先には小さな花壇があった。
 「あそこの植木鉢に植えられているバラと何が違うっていうの。決まった場所から動くことはできず、でも水や肥料を与えられ、病気になった葉や古い葉は切り取られて。決められた範囲からは絶対に出ることができない。上等な花をつけるだけ」
 彼女は美しく整えられている手の爪を見つめた。
「――私から生えているのは、木の根じゃない。2本の腕と2本の脚なのよ」
 僕はすっかり何も言えないまま、呼吸をしながら耳を傾けるのだった。そのようなことはお構いなく、彼女はその場で静かにぐるりと回って見せた。腰回りの美しいラインがより強調される。

 「だけど、私、幸せだったのね。『何もしなくて良いなんて羨ましい』と言われるのが、本当に嫌だったの。良かった。あなたと同じなのね。ただ、動いて回っている世界が違うだけで……。私の幸せはどこにあるのかしら、と毎晩考えふけっていたのだけれど、思っていたよりもずっとずっと近くにあった。やっと分かったわ」
 彼女は天を仰ぎつつ、大きく息を吐くと、静かに座り直した。
 「あなたに、わがままを言ってもいいかしら。また、是非ここへ来て欲しいのよ」
「えっ」
 僕は面食らった。
 「あなたが暮らしている場所のこと、本当にどんな些細なことでもいいの。教えに来てくださらないかしら」
 「僕の家の周りのことですか」
 彼女は、僕と案外似たような気持で毎日生きているという事は理解したらしい。しかし、僕の生きている世界をもっと知りたがっているようである。
 「私がこんなことを言うのもおかしいかもしれないけど、私にとってもあなたにとっても、ちょっとした毎日のスパイスにならないかしら」
 月明りで輝く乙女の瞳に対して、僕の拒否権はない。なんとなく髪型を直しながらシャンと胸を張る。
 「いいですよ。仕事の合間にでも、どんなお話をしようか考えてみます」
 僕はどちらかというと口下手である。本当に些細なことを面白味もなく淡々と伝えることしかできないかもしれないが、できる限り頑張ってみようと心に誓った。

 そのまましばらく話していると、僕らの影が先ほどよりも長くなり、ぼやけていた。彼女に別れを告げると、僕はなるべく音を立てぬように塀を越えた。名残惜しさから振り返ると、彼女はまだブロンドを風にそよがせながら、庭で座っていた。
 「ありがとう。ごめんなさいね、突然こんなこと。でも」
 彼女はほんのり小首をかしげ、目を細めた。
「――本当に本当に、嬉しかったから……」
 僕は彼女に向かって一度だけ静かにほほ笑むと、さっと踵を返した。
植木鉢の周りに散るバラの花弁は、血が通ったような暖かい色を醸す。それはどこか悪戯に笑う彼女の舌に似ている。
 月に背を向け、颯爽と速足する僕の心は真っ白であったが、心臓は跳ね上がるようだった。

「大変だ、大変なことになったぞ」
 寝床に入った僕。先ほどから轟々と聞こえてくる音は何だろうかと思っていたが、胸に手を当て、自分の心臓の音だと分かった。身体もいつもより暖かさが増してくる。どんなことを教えてあげよう。彼女は何が好きなのだろう――。
 ふと我に返り、そんな僕自身に対して嘲笑を浮かべる。
 遠くから、魚が2、3匹跳ねる音がする。家の中に漁船の光が閃光となって飛び込んだ。いつもは無視して寝こけていたような事柄全てが、僕の互換を刺激し駆け抜けていく。寝返りを打つ際に髪がすれる音までもが、耳にこそばゆい。
 僕は一度、思い切り伸びをし、あくびをすると、再び身体を丸め、眠くなるまでひたすら身を任せた。寝床の冷たさが普段よりも強く感じられた。

 僕の脳裏には、美しいボディラインと、穢れを知らない生まれたての微笑みが、延々と流れ続けるのだった。



 少しだけ冷たい風が通り過ぎ、虫の鳴く声が聞こえる。いつもと変わらぬ毎日にたった1つだけ生じた変化。砂利が広がる灰色の土地、そこに本当に小さなハコベの花が、一輪咲くようだった。
 私はいつもと同じ昼を過ごし、そして、空が一面、消し炭のような色となる。寝静まる町の中、少し先には自動販売機が、怪しく浮かび上がっている。時々機械的な音が、不定期で聞こえてきた。

 見慣れたはずのこの世界の色が、日々少しずつ塗り替えられていく。あの日であった彼は、来る日も来る日も、私にいろいろなことを教えてくれた。
 先ず、彼が暮らす港町がどれほど質素かつ素朴で。でもどれだけ美しくあたたかな海の光に包まれているか、という事がよく分かった。
 彼は、決して裕福な暮らしをしていない。けれどもその町こそが、彼のアイデンティティーに一役買っているのは間違いないだろう。
 ある日。私のわがままを聞いた彼は、
 「こんな物しか準備できないですが……」
 と、申し訳なさそうにしながら、こっそり食べ物を持ち込んでくれた。採れたて新鮮な食材を使った食べ物は、物心ついてからの記憶の中では、間違いなく世界一美味しかった。使用人が準備した、どんなにいい素材も、きっと勝つことはできない。年甲斐もなく、思わずその場で飛び跳ねてしまったほどに。
 「こんなに評価されるなんて、思いもよらなかったなあ」
 彼も照れ臭そうに食べた。

 また別の日は、近所に住んでいる子供たちや漁師たちと戯れ、遊んだことも話してくれた。人当たりが良く、可愛らしさすら覚える顔つきの彼は、近所の人気者らしい。時々お菓子を分けてもらうこともあるとかで、これまたこっそり持ち込み、分けてくれたことがある。
 正直、特に新鮮でもない、こんなに安っぽいお菓子がそんなに美味しいのだろうか? と首をかしげたが、一度口にしてみればとろける舌触りから止まらなくなり、まさに「頬が落ちる」ほどだった。

 それから、彼は皆から笑顔で話しかけられるそうだ。そのまま一緒に笑い、年齢差等は忘れて一緒に遊び……。もちろん彼はそれとは別に、警備など、仕事もきちんとこなしているとのことである。
 私も、私に会いに来る人々へ笑顔を向け、時に思い立ち、稽古で習ったことをふとやって見せることがある。大概の人は大変満足そうに驚嘆し、笑顔を振りまき別れを告げる。でも私は、それはあくまでも仕事の一環みたいなもの、としか捉えていなかった。
 物心ついた時から、ここに暮らすようになってから。どこまでも長い時間、こうやって生きることになるのだろうとばかり思っていた私には、彼の「皆と話し、遊んで楽しい」という言葉が本当に新鮮に聞こえたのだった。

 「彼は私が無意識に望んでいたものを、きっと全て持っているんだわ」
今日も今日とて夜空を思い、ふけっている私。吹いてくる風に少しずつ湿り気を覚える。流れる鉛色の雲を幾度となく数えた時、風の中、砂利道を引きずる音が静かに聞こえてきた。自販機の光を裂く影。彼だった。
 「すみません、少し遅くなりました!」
 「さあ、お入りなさいよ。あら?」
 彼は何やら籠を下げている。慌てて籠を下ろし、ドギマギしながら、私と籠とを見比べた。
 「――ん、これですか。これはですねえ、ええと……ちょっと待っていてください」
 何を考えたのか、彼は唐突に真面目くさった表情となる。私に向かい合うが、視線を泳がせ、なかなか切り出さない。冷たく湿った風が彼の髪を揺さぶっている。

 最初こそ童顔と真面目な顔のちぐはぐさに笑っていた私だが、少し不安になってきた。
 「何かあったの?」
 彼はなかなか上手く言葉が出てこない様子だった。しかし、どうにか息を大きく吸って吐くと、ゆっくりとした口調で切り出す。
 「僕はこの通り、あなたに釣り合うような、素敵な男ではありません。背も低いし、あなたほど脚も長くはない。歳に合わないくらいの童顔ですし。それに……」
 私たちの間を落ち葉が転がっていった。
 「何度もお話ししていました通り、素朴な暮らししかすることができません。だから、本当にこんな簡単な物を渡すことしかできない……」
 私は無意識のうちに泣きそうな顔になりながら、彼を見つめていたに違いない。しかし、彼は意を決したようで、それまでの童顔をヤマネコのような鋭く精悍な顔つきに変えた。
 「それでもよろしければ、僕は……あなたのことをずっと好きでいても、いいですか」
 急に風が強くなり、私の心臓は飛び上がる。彼はそんな私の方へしなやかに歩み寄ると、籠をそっと傾ける。
 中から淡い光が零れ落ちた。

 「これは……」
 「海に落ちたガラスは、長い年月、波と砂で磨かれます。それまであった鋭く、とげとげしい光を捨て、淡く優しい光へと変わる……。
 ごめんなさい。今の僕には、本当にこのような物しかお渡しすることができない。それでもよろしければ……受け取っていただけないでしょうか」
 私はガラス片を手繰り寄せ、まじまじと見つめた。私の知らない世界の荒波に飲まれ、時に障害物に晒され……。けれども柔和に、静かに輝くそれは、私の憧れそのものだった。
 私は泣いた。ただ流れに身を任すことしかできないガラスですら、経験を積み、優しさを知り、美しい姿になる。
 けれども私は、私は……。
 彼はただ黙って、私の身体にそっと触れた。久しぶりに柔らかなぬくもりを覚えた。



 「私、わがままを言うのはこれで最後にするわ。最後にうんと大きなお願い、聞いていただいてもいいかしら」
 ひとしきり泣いた彼女は、いつも以上にしっかりと地面を踏みしめ、僕の瞳のかなたをじっと見つめる。
 「私は、この世界に羽ばたいてみたい。知らない世界を知りたい……心から私を愛してくれる、あなたと共に」
 思わず口が開きかけたのを慌てて抑えた。無機質に転がっていた枯葉が宙を舞う。
 「私、男のヒトと暮らしたことがあったのよ。2回もね。どちらもあなたよりずっと背が高くてスレンダーで、自信に溢れていて。簡単に言ってしまえば、それはそれは、格好いいヒトだったのよ」
 僕は自身の小さな手を無意識のうちに一瞥していた。しかし彼女が静かに笑う声が聞こえたので、直ぐに手を引っ込める。
 「けれども彼らと私を結び付けていたのは、『生き物の本能としての愛』でしかなかった。彼らの存在は私を母にはしたけれど、それ以上でも以下でもなかったのよ。何も言わないまま直ぐに去っていった」
 コオロギたちの愛のささやきが、秋の空気を震わせる。
 「勘違いしないでね、子供が生まれたことは本当に嬉しかったのよ。母としてあの子たちのことは本当に愛していた。今も忘れられない。けれど、色々なことを伝えられぬまま、あの子たちとも離れ離れになったわ……」
 僕の鼻の頭へ、ぬるい小雨が一粒落ちてきた。
 「私が習ったどんなお稽古も、あなたが教えてくれる世界と比べたらどんなに小さかったことか。あなたと同じだなんて、どんなにおこがましい言葉だったか。そして、あなたは今まで出会ったどんな人よりも、一生懸命に世界を教えてくださった」
 彼女の瞳は、どんな星よりも美しかった。

 「あなたと一緒に、あなたの世界、いいえ、それを越えて色々なことを知りたいの」



 僕は、彼女の柔和な手へ、自分の手を添えた。
 僕は彼女に色々なことを伝えたいと、どこか切なさすら感じながら、今まで見落としてきた細々としたことまで目を向けるようになった。そして、その日の終わりに遠い水平線を眺める毎日だったのである。
 ひょっとすると、僕自身はこの大海の1滴、いや、それよりも随分と小さな世界しか知らないのではないか、と考え、寝床に帰るのだ。
 「ここを出て、海を渡りましょう。あなたのその目に、あなたの知らない海の色を映したい。このガラスたちのような、様々な表情を見せたい。ずっとそんな気持ちでした……」

 本格的に雨を降らせ始めた天を仰ぎ、雷鳴に耳を傾ける。とても埃臭い。
 「海が少しずつ、しけ始めています。明日はさらに雨足が強まるでしょう。そのような天気であれば、出歩くヒトも減るかもしれません……」
 「――私のお願い、聞いてくださるのね」
 「――はい。明日はきっと、最初で最後の絶好のチャンスでしょう。明日また、同じ時間、ここでお会いしましょう。必ず」

 雷鳴轟く夜の闇、彼女に別れを告げた僕は、雨に濡れながら泥水を跳ね上げ、港の傍に着く。怪物のように暴れ、白いしぶきを叩きつける波を一瞥し、僕は家へと入った。



 翌日の深夜。僕は約束した通り、彼女を連れ出し、奈落のように続く暗い小道をひた走った。途中、関係者と思しき人間がそのことに気付き、追いかけて来る。しかし、それを見越した複雑なルートは把握している。
 何よりも、人形のような暮らしをしていたとは思えないほど、彼女が健脚だったことが何よりも救いである。追っ手を遠く引き離し、豪雨と落雷に身を忍ばせながら、雑木林に潜伏する。
 あれほど恐ろしげだった落雷は勝利の咆哮、雨音は拍手喝采となった。
 僕らは濡れた身体がこれ以上冷えることがないよう、しっかりと身を寄せ合う。彼女から伝わるぬくもりは、不思議とどこか懐かしさを覚えた。遠い望郷のかなたへ、とうに消えていたと思ったその記憶は、心の一番深くに眠っていたのかもしれない。
 温かく甘く、そして少しのこそばゆさを一身に受けながら、意識が遠のいていった。



 さらに翌日の夜更けに、僕らは再び瞼を開けた。あれだけ降っていた雨はすっかり止み、炭のような色をたたえた海は、星空や月の光を受け、静かに輝いている。
 残酷に暴れまわった天は、今この世界で最も優しい存在である。

 「ああ、海!海だ!水が動いている!」
 彼女は浜へ軽快に飛び込むと、雨水を吸った冷たい砂を足で切りつけ、蹴り上げ、軽やかに駆け回った。
 庭で静かに座っていた時から彼女は美しかった。しかし、筋肉をしなやかに使うことで、彼女の真の美しさが解放される。

 ――僕の目の前にいるのは、もはや、かごの鳥でも檻の猛獣でもない。広大な大地に降り立つ、自由な1匹のネコだった。この世界に、僕はあまりに美しい彼女を解き放ちたかった。

 「見て!真っ白な貝がこんなに!あそこには削れたガラスが落ちてる!あ!水に何か飛び込んだ!魚かしら!」
 興奮冷めやらぬまま、けれどもおとなしく僕の横に静かに座る彼女。肩を揺らして、吸っていた息を一度飲み込むと、ビー玉のような大きな目で母なる海を静かに見つめた。
 「この先はあなたですら、知らない世界があるのね」
 「はい」
 「どこまでも、一緒に行ってくれるのね?」
 僕は一歩前に出ると、微笑む彼女の目の前に立ち、凛として向かい合った。後ろから聞こえる波の音が、僕の背中を押す。
 「――ええ、僕はあなたと一緒に知らないことを学びたい。僕も、あなたのような心からの高揚を感じてみたい……」
 どこまでも、どこまでも。未来永劫続きそうな時の中。遠くから、まだ冷めない荒波が、岩を大きく打ち付ける音が届いた……。



 翌日のテレビで報道されたのは、次のようなニュースだった。

 『東海岸動物園から、雌のヒョウが逃げ出しました』

 ――昨日の深夜、豪雨に伴う施設の倒壊対策のため、宿直の飼育員が緊急の見回りを行ったところ、雌のヒョウ『ジュリエット(6歳)』がいなくなっているのを発見しました。
 ジュリエットはその後すぐに、施設内の林にいるところを発見されましたが、飼育員3人に襲い掛かり、そのまま逃走。園外へと走り去りました。
 襲われた飼育員は近くの病院へと緊急搬送されましたが、2人は全治3か月の重傷、1人は出血過多により現在も重体です。

 ジュリエットはその後、東海岸海水浴場周辺へ移動していることが確認されましたが、飼育員を襲撃したことや、すぐ近くに幼稚園・小学校があることから慎重に検討した結果、やむを得ず射殺する運びとなりました。

 ジュリエットは1歳のころ、廃業したサーカス団から引き取られ、当該施設にて飼育されていました。
 その後、血縁を考慮した上で2度ほど繁殖を経験しましたが、4歳の頃に大病を患った後は、繁殖プログラムからは退いています。

 園長は
 「ジュリエットは元々、どこか物思いにふけるような性格だったが、病気になって以降、益々その傾向が強くなっていたように思う。そのため本園でも、できる限り心穏やかに過ごせるよう、植木に傷を付けたり、石を集めてみたりすることを見守り、可能な限り自由にさせていた。
 しかし自由にさせたことが、かえってあだとなった可能性は否定できない。地域住民の皆様に大いなるご心配をおかけしましたこと、心よりお詫び申し上げます」
 とコメントしています。

 なおジュリエットの狙撃時、突然野良ネコが係員へ飛び掛かりました。襲われた係員2人は目や頬などに十数針縫う大怪我を負いました。
 揉み合いになる間に発射された弾がネコに当たり、このネコも死亡したということです。

 ネコは8キロある大型の雄で、東海岸沿いの漁港に住み着いており、数年前から地元の漁師らに、ネズミを捕る姿などが、度々目撃されていたようです。
 このネコは、ジュリエットの逃走時に近くにいましたが、関係性や係員を襲撃した理由については明らかになっておらず、現在も調査が行われています。

 当該施設は、飼育下・野生下関係なく、尊い命とこのような形での別れとなったことに対する遺憾の意を示すと同時に、2匹の石碑を東海岸沿いに設けることができないか、緊急で検討をしているとのことです――。

ワイルドキャットに告ぐ

※このラストにて、人間の愚かさを伝えたいのだと捉える読者もいると思う。しかし私はその意図は一切ないのである。人には人の正義があり、何より、先ずは自分たちの安全が第一であるのは間違いないのだ。その中でも園長達が慈悲の目で彼らを見つめ、最善を尽くそうとしていたことをどうか理解して欲しい。本来このようなあとがきは蛇足と思うが、この旨をどうしても書かずにはいられなかった。

ヒトとケダモノは似て非なる者である。どんなに人間が「同じ生き物である」ことを願ったとしても、ケダモノ畜生は自分たちの希望のためなら血を見ることもいとわないのだ。仮に小さなイタチやネコでも。残念ながらそれは事実なのである。ただ、その中にも共通の感性や感情もきっとあるのだろう、そんなことを考えながらこのあとがきをしたためさせていただいた次第だ。

ワイルドキャットに告ぐ

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-12-07

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