凍れる娘

「死んだ妻のことかね? 君も聞いたのか。いいさ。何も秘密になっているわけではない」
 そう言いながら老人は、好奇心で目を丸くしている若い女を眺めた。
「あなたの奥様は、本当にそんな美女だったんですか?」
 老人は、もう何歳なのか見当もつかぬほど、その顔は皺の下に深くうずもれている。
 背は曲がり、細く尖った指までもカクンと曲がっているが、車椅子を使用しなくてはならないにせよ、まだまだ元気そうだ。
 特にその頭脳がいささかも聡明さを失っていないことは、よく動く瞳の中に見える。
 老人は口を開いた。
「自分の妻だから言うのではないが、静は本当に美人だったよ」
「静さんとおっしゃったんですか」
「もう60年も前のことだがね。享年、静はまだ19歳だった」
 そういいつつ老人は目の前の女を見つめるが、こっちの女については、老人も必要以上の関心はないようだ。
 上背があり、すらりとしている。
 黒いスーツとハイヒールで身を固め、書類の入ったブリーフケースを机の上に置いているところなど、まるで絵に描いた弁護士のようだが、事実彼女は本物の弁護士なのだ。
 名は笹岡加代といい、この老人の遺書を作成するために屋敷を訪れていた。
 老人は大変な金持ちで、法律関係の業務はすべて先々代、つまり加代の祖父に任せてきた。
 その祖父が引退してからは息子があとを継ぎ、そして今、息子の引退が決まって、孫娘である加代が、引継ぎのために屋敷を訪れていたのだ。
「…ではすでに、X製薬の株はすべて手放されたわけですね」
「ああ売ったよ。きれいさっぱり」
「創業者として、お寂しかったのではありませんか?」
「事情はいろいろとね」
「しかし不思議なのですが、美貌の奥様…、お名前は静さんでしたね? 静さんの御両親が、よくそんなことを承知したものですね。私には信じられません」
「君は静の人となりを知らないからさ。戦争中も静は日本の勝利を信じ、日本の輝かしい未来、世界への雄飛を疑わなかったのだよ…。静の死体の第1発見者はわしなのだよ。
 8月15日、玉音放送を聞いた後、一睡もできず、わしはそのまま朝を迎えた。静はすでに一人で寝室へ行き、休んだものと思っていた。高ぶった神経をなんとか静めようと、わしは川べりへ早朝の散歩に出かけ…」
「ははあ…」
「水に洗われ、朝日を受けて、本当に美しい死に顔だったよ」
「それから、どうされたのです?」
「わしはこの町の名士だったからね。警察署長に会い、計画を打ち明けた。署長は疑い深そうな顔をしたが、最後にはうなずいてくれたよ。わしの不法行為を見逃してくれるとさ」
「それから静さんの御両親に会ったのですね?」
「両親も承知してくれたよ。途方もない計画と思ったらしいが、『それが日本国の将来に役に立つのでしたら、娘も本望でしょう』と言ってね」
「それから?」
「静の死体はすぐさま警察署へ運ばれたが、検視も解剖もされず、そのままこの屋敷へと運ばれてきた。
 それ以来60年間、静はこの屋敷から一歩も外へ出てはおらん」
「静さんのお墓はどこに?」
「近所の寺さ。家族の者はその後も墓参したろうが、静の骨はあそこにはない」
「でも終戦直後といえば、すぐさま米軍がやってきたと思います。アメリカ人たちを、どうやってダマしたのですか? 本当は、開発中の生物兵器を冷凍保存するのが目的だったのでしょう?」
「もちろん米軍はここを見にきたが、変人男の気味の悪い道楽と思ったらしい。肩をそびやかすだけで、何も言わずに帰っていったよ」
「巨大冷凍機の存在をどう説明したのです?」
「隠すことはない、そのままを告げたさ。『妻の死体を若く美しいまま永久に残すための設備である』とね」
「…」
 老人は車椅子から加代を見上げ、
「君はわしの顧問弁護士となったわけだし、わしの死後は管財人にもなるわけだから、実物を見てもらおうかね。
 さあ、そっちだ…。地下室まで直通エレベーターがある。ついてきたまえ…」


 X製薬の創業者だった老人が死亡したのは、つい1ヶ月前のことだ。
 金持ちとは気苦労やトラブルも多いものらしく、この老人も例外ではなかった。
 第2次世界大戦の少し前に創業し、戦争中は軍の生物兵器研究に協力して、急速に業績を伸ばした製薬会社なのだ。
 老人の遺産は相当な金額となり、死後、それをめぐって相続争いが発生した。
 加代も弁護士として、忙しい毎日を送った。
 そんなおり、ある知らせが届いた。
「屋敷の明かりがすべて消えている」
 というのだ。
 無住で無人であるが、屋敷の門柱の電灯だけはスイッチが切られず、そのままにされていた。
 24時間、点灯しているはずだったが、それが消灯しているという。
 誰かが調査におもむかなくてはならない。
 そのために、加代は一人で再び屋敷へとやってきた。
 つい1ヶ月までは老人が暮らしていたのだから、外から見る限り、屋敷に変わった様子はない。
 窓ガラスも割れておらず、屋根や壁もしっかりとし、風雨が入り込んだ様子もない。
 停電の原因はすぐに判明した。
 枯死した庭の松の一本が、電線にもたれかかっていたのだ。
「なんだ。そんなことか」
 意外に平凡な理由に加代はフッと笑い、それでも気づいて、次にため息をついた。
 停電していたのであれば、泥棒よけの警報装置も、ここ何日間かは作動していなかったに違いない。
 管財人として、相続の手続きがすべて完了するまで、老人の財産管理はすべて加代の責任になる。
「屋敷の内部に、価値のある美術品など存在しない」
 と老人は言っていたが、分かったものではない。
 いざ屋敷の中へ入っても、荒らされた様子はなく、物が盗まれたようにも見えないので、加代は少し安心したが、すぐにまた気になったことがある。
 地下室は無事だろうか。
 エレベーターのボタンを押してみたが、当然のごとく反応はなく、加代は階段へと足を向けた。
 その途中で偶然にも懐中電灯を見つけたのは幸運だった。
 懐中電灯を用い、加代は暗い階段を降りていったのだ。
 地下室は静まり返り、想像通りに真っ暗だったが、懐中電灯を振り回すうちに加代は、老人に連れられてここへやってきた日のことを思い出すことができた。
 あの日は電気があって、ここも明るかったが、それ以外に何も変わった様子はない。
 あの日見たのと同じ家具や品々が同じように並んでいるのを、懐中電灯の光の中に見ることができたのだ。
「あの冷凍機はどうなったのかしら?」
 装置が置かれていた場所を思い浮かべつつ、暗闇の中を加代はそろそろと進んだ。
 だが冷凍機も前回と同じく、誰も手を触れていないように見えた。
 軽自動車ほどの大きさだが、床の上に立てて置かれ、上辺はほとんど天井にまで届いている。
 鉄で作られ、いくつものリベットがゴツゴツと並んでいるのだ。
 装置の正面には小さなガラス窓があったことを加代は覚えていた。
 あの日、顔を近づけてその窓をのぞきこみながら、老人が言ったものだ。
「もう60年になるが、私の目がかすむせいか、静は年ごとに美しくなる気がする」
 老人に何度もうながされ、ついに加代も恐る恐る窓をのぞき込んだのだが、それは損ではなかった。
 装置の内部は水で満たされ、それが冷やされて凍り、静を完全に包んでいた。
 静は氷の中心で顔をうつむかせ、髪はなびくように長く舞っている。
 鮮やかな着物を身につけ、腕を軽く左右に開いている。
 小さな手は、まるで子供のようだ。
 あまりに美しいので、小さなため息とともに、
「あの着物はどこから?」
 と加代は老人に質問した。
「この装置の中へ納める日に、わしが買ってやったのさ。呉服屋を呼んで、一番いいものを着せた」
「本当にきれいな振袖ですね」
「まあね」
「あの内部に、本当に生物兵器が隠されているのですか?」
「ガラス管に密封された状態でね」
 屋敷が停電しているこの日、あの美しい姿を、加代はもう一度眺めたいと思った。
 弁護士として独り立ちした今、そろそろ加代も結婚のことを考え始めている。
 最近は、ぽろぽろと見合いの口も持ち込まれている。
 その見合いの席に、
『あのように美しい着物姿で繰り出してみたい』
 と密かに思っていたのだ。
 冷凍機正面のガラス窓に加代は近寄り、少しかがんだ。
 懐中電灯を近づけたが、なぜかガラス窓がひどくくもり、何も見えないではないか。
 光の反射の加減かと、懐中電灯を左右に動かしたが、やはり違う。
「ガラスが汚れているのだわ」
 ハンカチを取り出し、加代はふこうとした。
 しかし加代は、少し力を入れすぎたようだ。
 なにしろ作られてから60年以上たった装置だ。
 ガラスは思いがけずポンと外れ、床に落ちてしまったではないか。
 起こったことはそれだけではない。
 ガラスが失われたあと、真四角に開いた穴からは、大量の水が噴き出してきたのだ。
 その勢いと強さは想像を超え、加代を押し倒し、尻もちをつかせるのに充分だった。
 しかも60年の間に装置はあちこちがゆるみ、錆び、もはや強度を保ってはいなかった。
 加代の目の前で、ついに装置はぽっかりと裂け、その中身を一気にぶちまけたのだ。


 屋敷が炎上したのは、その日の日暮れ前のことだ。
 燃え広がり方は相当に激しく、いくら古い木造建築物といっても、火災というよりも炎上という言葉がよほどふさわしかった。
 一方で、建物がすでに停電していたことは目撃者がおり、漏電は考えにくい。
 ここ数日、乾燥した天候だったこともあって屋敷は全焼し、すぐに土台まで焼け落ちたが、地下室の燃え具合が特にひどいことは奇妙に感じられた。
 検証の結果、焼け跡からは死体が2つ見つかった。
 一方は、屋敷の庭に駐車してあった自動車の所有者とみられ、笹岡加代とすぐに知れたが、もう一体は誰なのか、消防と警察は首をひねらなくてはならなかった。
 年齢や背格好で該当しそうな行方不明者など見当たらなかったのだ。
 実は、この火災について社会が最初に知ったのは、加代が消防局へ自分で電話してきた時のことだ。
 気丈な女で、興奮してはいるが、しっかりした声で話した。
「停電のせいで氷が解けていることに気づいていない私が馬鹿だった。生物兵器というから、細菌だとばかり勝手に思ってた。
 でもそうじゃない。とても大きくて、3センチもある。ガラス容器が割れて、私はそれを外に出してしまった。60年間凍っていたはずなのに、今も動いている…」
 これだけでは、消防局員に意味が通じなかったのも無理はない。
「もしもし、どうしたのです?」
「老人が実験に使っていた可燃物が、ここには大量にある。私はそれに火をつける。あいつをこの世に出してはならない。それが私の責任だわ…」
 ここまで言って、加代は電話を切ったのだ。

凍れる娘

凍れる娘

美女の死体を見つけたら、これはもう冷凍するしかないっ!

  • 小説
  • 短編
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-12-03

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