真夜中にパトカーが呼びに来て、ビビるなというほうが無理。しかも私は女子高生だ。
交換学生として留学し、アメリカ人の家にホームステイするなど、一生に一度、あるかないかのことだ。
そのステイ先で真夜中に起こされ、見ると窓の外にパトカーがいるのも、毎日あることではない。
パジャマから着替えて1階へ降りると、この家の主人と保安官が玄関で話しているのが目についた。なにやら深刻なことらしい。
要は私を連れにきたということらしいが、わざわざ女の保安官をよこしたのは、保安官事務所の配慮なのだろう。
そのまま私は、パトカーに乗り込んだ。
警察の自動車など、乗るのは生まれて初めてだったが、車内は日本の自動車よりも広く、座っていても両手が自由に動かせるスペースがある。
緊急走行というのではないが、サイレンは鳴らさずとも頭上の赤ランプだけは点滅しており、パトカーのことをスラングで『チェリー』と呼ぶのが納得できるような光を四方にまき散らしている。
道路に出て、アクセルをグッと踏み込むと、私を連れだす理由について、保安官が説明を始めた。
「砂漠の真ん中のこんな田舎町だけれど、住人はみな顔見知りだという美点があるわ。あなたは日本人ね。高校生?」
「はい」私は答えた。
「あなたがやって来る前、この町に日本人は一人しかいなかったわ。名はミキヨ・ロジャーズ。
アメリカ兵だった夫と結婚して、第2次大戦後にこの町へやってきた。子供はなく、夫が亡くなった後は、ずっと一人暮らしだった」
「ご商売は? 何をする人だったんですか?」
「大地主よ。お屋敷も大きく立派だわ。使用人に囲まれて暮らし、英語が上手で、ミキヨが日本語を口にするところは誰も見たことがない」
「へえ」
「そのミキヨが今、死にかけているの。相当なお年だものね。医師の見立てでは、明日の朝までは持たないそうよ…。
でもそのミキヨの最後の言葉を、誰ひとり理解できないの」
「英語ではないのですか?」
「なぜか日本語なの。死に臨み、突然英語を捨てたらしい。意識はまだあるけど、とにかく口から出るのは日本語だけだわ」
「だから私が必要なんですね」
「この町の周囲100マイル、日本語ができる人はあなたしかいないの。ミキヨは遺言を書いておらず、死後の財産の取り扱いには、弁護士も苦慮するかもしれない」
パトカーが屋敷に着くと、私は本当に驚いた。映画でしか見たことがない贅沢さだったのだ。
門を入ってからの道も長く、うっそうと木々が茂り、その向こうに3階建ての尖った屋根が見え隠れしている。
玄関前には数台が駐車し、その中の黒いベンツが弁護士の車だろうか、と思った。
すぐに私は、奥まった寝室へ案内された。
ベッドの中で、ミキヨはやせて、年相応に皺の多い顔。小さな身長はまるで小学生のようだ。
もちろん昏睡状態などではなく、私が入ってくるドアの音で、ミキヨは目を開いた。
視線が合ったので、ベッドわきにあった椅子に私はそっと腰かけた。
気をきかせてか、アメリカ人たちはみなドアから出てゆき、部屋の中が老女と私の二人きりになったのはこのときだ。
長く顧問を務めたのか、弁護士もかなりの老人だが、この人が最後に後ろ手にドアを閉めた後になってやっと、私も部屋の中を見回す余裕が出た。
寝室の広さは、そう、学校の教室ふたつぶんほどもあるだろう。床には分厚いじゅうたん、周囲の壁は木材が張られているが、きっとマホガニーとかの高価な材料なのだろう。
ベッドは大きく、3人ぐらいなら楽に横になることができる。
このベッドには天蓋があり、太い木の柱がそれを支えているが、カーテンがしつらえてあり、その気になればベッドだけを、まるで小さな部屋のように囲って仕切ることができる。
かすかな声が聞こえたので、私はベッドの上のミキヨを振り返った。
ミキヨの唇が動き、何かの言葉を紡いだようだ。
「お姉ちゃんは誰?」
声はそう聞こえた。
もちろんミキヨが言ったのだ。
か細い声ではあったが、しかし老女のか細さではなく、私の耳には少女の声のように聞こえた。
「えっ?」
私はその顔の上にかがんだが、ミキヨは遠慮なく見上げてくる。まるで、ゆりかごの中にいる赤ん坊と目が合うときのようではないか。
再び同じ声が聞こえた。
「お姉ちゃんは誰? どこから来たの?」
いくら少女のような声で、かつ、それがミキヨの唇の動きに合っていようと、私は少し混乱した。
「私のこと?」
「うん、お姉ちゃんのこと」
この時になってやっと『ははあ、そういうことか』と私は内心納得した。
医学的にどういう用語を用いるのかは知らないが、この老女の精神は子供時代に戻ってしまっているのだ。
だから英語を話さないのも道理であろう。彼女の精神は、まだ英会話を学ぶ前の子供時代に帰っているのだから。
「お姉ちゃんは看護婦さん? それともお医者さんかな? …お母ちゃんはどこ?」
正直に言っておくが、私は演劇など一度も学んだことはない。
小学校でも中学でも、もちろん高校でも、演劇部には所属したこともない。
しかしこの時、私は確かに演技をする気になったのだ。
理由はよく分からない。
死にゆく同胞へのはなむけのような気持だったのかもしれないし、小さく縮んでしまった高齢の女のあのような表情を見、視線を向けられてしまえば、誰だって多少の演技をする気持ちになるのではなかろうか。
「お母さんは、ちょっと用事でよそへ行っているのよ。すぐに帰るわ」
そう。私が言ったことは嘘八百もいいところだ。死にかけた老人の前で嘘をついた私を責めたければご自由に。
「そう、すぐ帰ってくるのならいいわ」
「何か話したいことがあるの?」
「うーん」
「どうしたのかな?」
「あのね…」
ミキヨが黙り込んだので、糸口を探すような気持で、私は言った。
「ミキヨちゃんのお父さんは、どんな人?」
ところが知らず知らず、私は決定的なことを口にしていたのだ。
ミキヨの表情がきゅっと硬くなり、一瞬は泣きそうになったが泣くことはなく、何かをグッと飲み込んだ顔をして、小さな声をさらに小さくした。
「お父ちゃんが怖いの」
ミキヨの表情の変化に驚いていたが、私もまだシッポを丸める気はなかった。このあたり、私は自分で思うよりもよっぽど気の強い娘のようだ。
「どうしてお父さんが怖いの?」
「たたくの」
「お父さんが?」
うん、というようにミキヨはうなずいた。
「どんな時にたたくの? ミキヨちゃんだけをたたくの?」
「ううん、お母ちゃんもお兄ちゃんもたたかれる。お酒を飲んで、酔っ払ったとき…。理由もないのに」
要するにミキヨの父親は酒乱だったのであろう。幸いにも、私の家族にそういう人物はいない。
「たたかれると痛い?」
我ながら無神経な愚問であった。だがありがたいことに、ミキヨの表情に変化は少なかった。
「痛いよ。ワーワー泣く。お母ちゃんなんか、私よりも、もっともっとたくさんたたかれる。止めに入って、お兄ちゃんも投げ飛ばされる」
「そのお父さんはどこにいるの?」
そう問うと、ミキヨは首を左右に振るのだった。
「お父ちゃんはもういない。どこかへ行っちゃった」
「どこへ?」
と質問して、私はとっさに刑務所を連想した。ミキヨの父親は、酒の上で何かの犯罪を犯したのかもしれない。
だがミキヨの答えは、私の想像とはまったく違っていた。
「この間、とても寒い晩があったでしょう?」
「うん、あったね」
と私はうなずいた。
自分の役者ぶり、嘘つきぶりを誇らしくは思わないが、すでに私は、ミキヨの語る物語に強い好奇心を感じていたのである。
「あの夜ね、ほらお外には雪がたくさん積もっていたでしょう? 戸を開けて外を見ていたら、白くてとてもきれいだった。でも『寒い』って、仕事から帰ってきたお父ちゃんに叱られた」
「…そう」
「お父ちゃんはまたいつものようにお酒を飲み始めてね…。顔が赤くなって、お母ちゃんのことを怒り始めた」
「お父さんは、何と言ってお母さんのことを怒ったの?」
「それは聞いてない。怖くなって、私はお布団の下に潜り込んじゃったから…。そのまま眠ってしまって、目が覚めたら」
「目が覚めたら?」
内緒話でもするように、ミキヨがさらに声を小さくしたので、私はもっと耳を近づけなくてはならなかった。
「…目が覚めたら、お父ちゃんは静かになってた。いつもと同じで、ゴーゴーいびきが聞こえたよ」
「お母さんとお兄さんはどうだったの?」
「二人の声も聞こえた。私が眠っていると思っていたけど、こっそり聞いてたの。小さな声でお話ししてた。私は全部聞いてたの」
「何のお話をしていたの? お母さんとお兄さんは」
「まずお兄ちゃんがこう言った。
『お母さん、今だったらお父さんを外へ連れ出すことができるよ。橋のところまで行って、水に落として来ようよ』」
「えっ?」
「するとお母ちゃんが答えたの。
『前から言ってたあのことかい?』
『今がチャンスだよ。ミキヨはぐっすり眠ってるし、お父さんもグーグー寝てる』
『だけどねえ…』
『お母さんが言い出したんじゃないか』
『でもねえ』
『いや、俺はやる。今夜を逃したら…』」
これを聞かされて、私はどんな顔をしていたのだろう。
自分でも想像できないが、自分の声がかすれていたことはよく覚えている。
「…それで、お母さんとお兄さんの声は聞こえなくなったの?」
単なる悪事の相談だけであってほしいと、私は願っていたのだろう。
してみると、私もあまり肝っ玉の太いほうではないのか。
だがミキヨの次の言葉は、私の願いを打ち砕いた。
「物音が聞こえて、お母ちゃんとお兄ちゃんがヨッコラショと言った。2人ともぞうりをはいて、戸をガラガラと開けて出ていったよ。その時は外の風が吹き込んで、お布団の中にいても少し寒かった」
「ミキヨちゃんは、それからどうしたの?」
ミキヨは首を横に振った。
「私は何もしてない。もう一度眠くなって、目を閉じて、気がついたら朝になってた」
「お母さんとお兄さんは? お父さんは?」
「お母ちゃんとお兄ちゃんは家にいたよ。お父ちゃんは、もう仕事に出かけたということだった。朝早い仕事だから」
「それから?」
「お父ちゃんは二度と帰ってこなかった」
「…」
ミキヨの言葉にどう返事をしてよいやら、私は見当もつかなかった。
「…」
と、これが私の口から出た唯一の反応だったのだ。
私には想像がつく。雪の降る真夜中のことだ。目撃者はおるまい。
そして翌朝、どこかずっと下流で、水死体が一つ見つかっただろう。
いや、父親はどこかへ行ってしまった、とミキヨは言った。ということは、どんなに大きな川なのか、水死体はとうとう発見されずに終わったのか。
私に話して安心したのだろう。
子供のような表情をして、まだ涙も乾かないままだったが、ミキヨはホッとした顔をしている。それだけでなく、うつらうつらし始めたようだ。
きっとミキヨは生涯を通じて、父親の死に関する真相は誰にも話さず、黙してきたのだろう。
それを私が、こんな機会に語られてしまったのだ。
ミキヨが安らかに死亡したのは、その1時間ほど後のことだ。
ミキヨが目を閉じてしまうと、私はアメリカ人たちを呼び入れた。最後の看取りは、医者や弁護士たちに任せたのだ。
「ねえ君、ミキヨは最後に何の話をしたのだい?」
「誰にも口外しないでくれ、と故人の意思ですので…」
私をホームステイ先へ送り届ける仕事は、さっきの保安官が名乗り出てくれた。
だから同じパトカーに乗り、私たちは道路を走り始めた。
思うところがあるのか、保安官は話しかけないでいてくれた。
私は首を曲げ、道路の右側を眺めていたが、知らぬうちに長い時間が過ぎていたのだろう。
空のかなたが明るく、ちょうど太陽が昇り始めたところだった。
砂漠の夜明けだ。
球形をした巨大な光の塊が、地平線の下から無遠慮に顔をのぞかせてくるのだ。美しい光景であるに違いない。
だが私には、その光景も、もはや昨日までと同じように美しく感じられることは二度とないのだとわかっていた。
真夜中にパトカーが呼びに来て、ビビるなというほうが無理。しかも私は女子高生だ。