TL【鳴り鎮スピンオフ】マーメイドの鱗を剥がす
女同性愛描写あり
1
甥の退院が決まったが、言い争いをしてしまったこと、糸魚川(いといがわ)瞳汰(とうた)が会いにきたこと、様々な要因が重なっていた。疲労と負傷も十分、そこに精神的な影響を与えていた。
こういうときに、他者との触れ合いは良くなかった。余計に負荷となったのか、はたまたひとときの憩いであったのか……
彼女は鳶坂(とびさか)遼架(はるか)が帰る間際になって早まった。あと数秒、堪えればよかった。だがもう過ぎたことだ。
「朋夜(ともよ)さん」
行儀の良い鳶坂は、急に蹲ってしまった彼女を放っておけなかった。帰り際に閉めるはずだった玄関扉が開かれる。
「大丈夫です。すみません。少し疲れただけですから……」
顔も上げずに朋夜は答えた。脳裏を占めるのが別の人物だった。今、何者かと視線を合わせれば目頭が痛むだろう。そして喚いてしまうかもしれない。恥も外分もなく、病臥する甥を支える立場にあることを忘れて。
「……もう少し、朋夜さんのご事情を考えるべきでした。申し訳ない」
彼女はそのまま首を振った。来客に必要のない配慮を求めてしまった。情けない話である。幸い、甥はいなかった。だがこのような無様で愚かな様を彼に見られていたとしたらあまりにも惨めだった。
「体調が悪いのですか」
早まってしまった数秒分、彼女は取り繕うことにした。相手は律儀な人物である。ほんの少しまた堪えればよい話である。傷だらけの顔を上げる。
「すみません……大丈夫です。ごめんなさい。お気を付けてお帰りください」
鳶坂の眉は顰められていたが、家主にそうされては帰らざるを得ないのだろう。気にしているような素振(そぶ)りは否めなかったが、彼は帰っていった。扉が閉め切られるまでの時間が数分間のように長く感じられた。
鳶坂遼架はこのことを兄に話したに違いなかった。織上(おりがみ)朝氷(あさひ)は妹に大して過干渉で過保護であった。温厚柔和で庇護欲の強い人物であるが、その裏返しに支配欲もまた強かった。
兄が朋夜のもとを訪れ、帰ってくることを迫ったのだ。
いつも穏やかな笑みを絶やさない彼が、今日は無表情である。
「大切な妹が、血も繋がらない野良ネズミに罵られて泣かされて、黙っていられると思っているの?」
この兄にとって、妹は成人しても幼い少女であるらしかった。朋夜は狼狽えてしまった。それはまるで、今日の甥とのやり取りを聞いていたみたいな口振りだった。この家に盗聴器がさも当然のように設置されていたように、病室にもこの兄の手によってまた盗聴器が置かれていたのではないかと疑ってしまう。
「ボクも行ったんだよ、今日。病室までね。ほんのちょっと、君の顔を見に。そうしたら、喧嘩しているじゃないか。ただの喧嘩ならまだいい。そういうこともある。けれど、ボクの妹の人格否定、人格批判までするのは赦せないよ。あの坊やは何歳(いくつ)なんだい。若くして病に身を臥せなければならないのはお気の毒だけれど、言っていいことと悪いことがある。君は叔母だよ。叔母でしかない。義理のね」
朋夜は兄の殺伐とした空気に、真夏の日差しみたいな肌のひりつきを覚えた。
「でもわたし、別に……そんな………いつものことだし、」
だがこれは火に油といわず、炎にガソリンを注ぐようなものだった。
「いつも?朋夜、君はいつもんなあんなことを言われていたのかい?叔父貴に恥ずかしくないのかだって?恥ずかしいのはどっちなんだろう?妹を嘘吐き呼ばわりされた挙句にそんなことを言われたらね、怒るよ、ボクは。朋夜。洗脳から解かれなさい」
兄の冷ややかな美貌は氷柱を思わせる。彼は穏和な微笑を常に浮かべることで吊り合いをとっていたのだった。だが今は、それがない。そういう兄は珍しかった。ゆえにその怒りの深さが分かってしまう。
「愛情に飢えた子だから……わたしや仁実(ひとみ)さんでは埋められないほどの……」
降り注がれる眼差しの圧に、彼女はたじろいだ。
「愛情に飢えている。だから何?あんな言葉を赦してもいい、と。愛情に飢えていたら?人を追い詰めても。それは叔父ならとにかく、君が請け負う必要のないことだ」
「結婚するときに約束したの。わたしが何不自由なく生活できたのは、その約束があったからで……」
朋夜の語尾は消え入っていく。
「あの坊やの両親が見つかったよ。父親のほうは話にならなかったし、君も知っていたんだね?あれに任せるのはさすがに気の毒だ。けれど母親のほうは父親違いの半同胞(きょうだい)もいた。旦那に捨てられて、金にも困ってるみたいだから、返したらどうだろう?」
知った兄とは違う空気感に、彼女は怯えた。
「第一、あの坊やが君を拒んでいたじゃないか。あの坊やが、君を必要としていなかった。朋夜、君は求められることに弱いだけなんだ。いいかい、朋夜。君は別に、その存在に意義を見出さなくてもいいんだよ。役に立とうとしなくても。役立たずだって?日常からそんなことを言われているだなんて知っていたら、もっと早く君を引き取ったのに」
兄は静かに憤激していた。
「兄さん、わたしもう大人だよ……」
「世間的には大人でも、ボクには妹なんだよ。血を分けた、唯一のね。その妹があんな風に日常的に詰(なじ)られていた?腑(はらわた)が煮え繰り返って、炭になっちゃうよ」
「今、京美(みやび)くんは不安定な時期にあるから……」
兄が怖い。過保護で過干渉、支配欲の強い、穏やかで柔和な兄が怖かった。目を合わせられなかった。朋夜は項垂れる。
「不安定な時期に、ああいう言葉が出てくるのはまずいよ。庇いたくなる気持ちも分かる。彼と君を置き換えたら、ボクだって庇うだろうからね。けれども、現状ではそうじゃない。ボクの怒りは今この立場にあって、ここに在るのだからね」
「京美くんと離れたくない、離れたくないです……」
「朋夜。もう遅いんだ。荷物を纏めなさい。両親双方に手切れ金を渡してきたし、明日ボクからあの坊やに説明するよ。朋夜はね、機嫌如何で傷付けていい人間じゃないんだよ。たとえばこれが5、6歳児でも生まれたての子供でもボクはそうした。何故なら君がボクの妹だから」
朋夜は首を振り続ける。
「いけないよ。いつかエスカレートして、いずれ君を殴るよ。正直驚いているんだ。久しぶりに会ったときの君の変わりように。悪いほうにね。もう少し明るい子だったよ。爛漫でね」
確かに、甥との暮らしは彼女を萎縮させていた。嫌味に怯えて暮らしていたのも事実。
「兄さん……」
「あの坊やには手切れ金だけでなく、ボクからも援助するよ。八つ当たり先を奪ってしまうわけだからね。海外の医師を紹介しても構わない。ボクが大切なのは家族だから」
話はまとまった。朋夜は折れた。甥の言葉が甦り、そして考えると、離れることのほうが良いように思われてきた。離れたならば、彼は根治(こんち)を望むだろうか。あの者は唯一の依存先から離れ、精神的な自立をしたほうがいいのだ。彼女は自身の資質を疑った。この兄と同じものを受け継いでいるに違いない。つまり、甥を支配しようとしている節があることについて、ついに認めなければならなかった。
朋夜は鳶坂の自宅に来ていた。夜景が見渡せる広い部屋だった。居間だけで一軒入りそうな面積である。彼女はそこにぽつんと置いてあるソファーに座っていた。広いだけの寂しい部屋だった。上を目指すことで得られた広さには寂しさが伴うのだ。
夜逃げも同然で、甥には何も告げなかった。言い争ったのが最後である。家族だと思っていたが、あまりにも別れは呆気なかった。家族という建前無しに繋がれない、脆く儚い関係だったのだろう。
迷いがまだ彼女を捕らえていた。しかし荷物はすでにこの家に届いている。私物が少ないのだった。甥の様子からして、20歳を迎えたとき、すぐに出ていかねばならなくなるだろうことは分かっていた。そのために荷物を整理した。専業主婦という立場について嫌味を言われたことを機に、私物を増やさなくなったのだった。兄が運んできて、置いていった。
明かりが点く。朋夜は顔を上げる。
「ただいま帰りました」
鳶坂遼架だった。隙のない美男子だった。この完全性が、朋夜は苦手だった。気が安らげない。常にかっちりとビジネスシーツを着て、格式高いレストランで行儀良くしていなければならない堅さ、窮屈さを強いられている気になるのだった。
「おかえりなさいませ……」
朋夜はソファーから腰を上げた。何をするでもなく、鳶坂の傍へ駆け寄る。
「夕飯できています」
「気を遣わせてしまいましたね」
「置いてもらっている身ですから……」
彼女は兄を拒絶もしたのだ。甥と会うことを赦されなかった。そしてそのことに抗いきれなかった。怒りの矛先を兄に向けてしまったのは甘えだった。
「織上さんにはたいへんお世話になりましたし、気になさらないでください」
だがそれは何の慰めにもならない返しであった。そして鳶坂はそれに気付かない。いいや、気付いたかも知れなかった。けれども言葉は口からすでに離れていた。
「どこか働きに出ます、わたしも」
食卓に促しながら彼女は言った。鳶坂は柔らかく微笑する。
「私の会社などはいかがです」
マットな質感のあるダークブラウンのテーブルが落ち着かない。真上にライトが吊るされてはいるものの、目が悪くなりそうだった。すでにラップを掛けられた料理が並べられ、白く曇っている。
「いいえ……それは、さすがに……何もできませんから」
朋夜は微苦笑を浮かべた。
「以前はお仕事をされていたのでしょう?」
「事務員を。結婚して辞めたんです」
嫌味のように聞かれてもいない夫のことを喋った。兄の目論見は分かっていた。彼女に自惚れるつもりはなかったけれど、鳶坂に妙な期待を抱かせるわけにはいかない。
「素敵な結婚生活だったのですね。憧れます」
「いいものですよ」
ロールキャベツの入ったポトフと、鮭のムニエルを作った。切り干し大根を添え物にしてある。毎晩高級レストランでフルコースを食っていそうな洒落た男の口に、果たして庶民の料理は合うのだろうか。
「どうですか」
彼が訊ねた。何について問われたのか朋夜は分からなかった。料理についての話かと思い身構える。
「あ、あの……料理、ですか?味付け……?」
縮こまりながら彼女はあざとく上目遣いになってしまった。鳶坂は綺麗な箸捌きを止める。
「ふふ、違います。私と……結婚は」
「えっ!いや………あの、」
「本気ですけれど」
しかしこの場では冗談だったらしい。鳶坂遼架は非の打ち所がない美男子だ。けれどそれだけでは魅力的とはいえない。彼は聡明だ。けれど面白くはなかった。これは感性の相性の問題だった。端的にいって、鳶坂は朋夜にとって見目の美しく社会的地位が高いだけの、つまらない、外連味(けれんみ)も惹かれるところもない人物だった。恋愛感情を持つに値しなかった。そして不合理なことに、恋愛感情とは、魅力とは、彼女にとって、牡としての或いは社会人としての優劣に比例するものではなかった。彼女はそれを己の内でさえ言語化できず、理解していなかった。ゆえに戸惑う。文句無しの男との貴重な縁を、何故受け入れられないのか。
朋夜は風呂上がりの、優雅な読書姿を眺めていた。少ない私物から酒瓶を出して、面白みのない男の秀麗な様を肴に飲んでいた。どの分野をとっても一流の人物であることは理屈では分かっているのだった。実際に外貌もそうであるし、家を見ても分かることだ。
「そんなに、観ないでください。照れてしまいます」
小難しげな洋書から顔を上げ、彼は微笑する。嫌味なく、照れ臭さも主張する。
「あ……い、いいえ……そんな……すみません」
朋夜は鳶坂を見詰めていたつもりはなかった。だが実際、見詰めていた。鑑賞していた。アロワナやネオンテトラを観るように。
「鳶坂さんも、飲まれますか……?」
読書に集中していた鳶坂に、声がかけられず、ひとりで飲んでいた。彼は昼とは違う眼鏡を光らせて朋夜を窺っていた。
「いただきましょう」
「どうされますか」
「朋夜さんと同じものをお願いします」
「少し甘いですが、大丈夫ですか」
「はい。お願いします」
彼はもう本は読まないらしかった。栞紐を挟んでいる。
「お酒が好きなんですか」
「好きというつもりはないのですが、習慣になってしまっていて……やめていないのは、好きということなのかも知れませんけれど……」
「いつも、おひとりで……?」
「甥はまだ19ですし、ジュースにしても、一緒に飲むというほど打ち解けていなくて」
傍へやって来た鳶坂へグラスを突き出す。
「ありがとうございます。いただきます」
朋夜はこの美男子がグラスを呷る様を眺めていた。彼もそれを察していたのだろう。グラスの縁から形の良い唇が離れると、柔和な弧を作る。思わず、顔を見てしまった。目と目が合う。反射的に逸らしてしまった。
「美味しいです」
「あ………いえ………その、よかったです……」
褒められるのは慣れない。掻痒感とは異質の、しかし掻き毟って誤魔化したくなるようなくすぐったさに襲われる。
「ここにいる間は、無理のない範囲で構いませんから、私とこうして、共に過ごしてくださいませんか」
朋夜はほんの一瞬だけ、眼を伏せた。住んでいるマンションの夜景が脳裏をちらついた。そこで語らった亡夫の声が耳の奥、鼓膜よりさらに奥で甦るのだった。
「……はい。ご一緒させてください」
「もしかして、お嫌でしたか」
相手に忖度を求めるような態度をしていたらしかった。彼女にそういうつもりはなかった。
「い、いいえ。夫とも、2人でよく飲んだものですから……2人で飲むというのが懐かしくて」
鳶坂の住まいから見える夜景のほうが、新しさを抜いても綺麗であった。しかし朋夜はやはり、人々や工業、商業の営みが点す明かりを眺めて喜ぶ趣味はなかった。
「そうでしたか。それは……その、厚かましいお願いをしてしまいました。」
「いいえ、いいえ。いつもはぼうっとして飲んでいるだけですから。そうしないと眠れなくて。日中、動かないので」
レンズを隔てた眼差しが眩しく感じられる。朋夜は鳶坂のほうを向けなかった。だがそうもしていられない。彼は己の住む場所を分け与えているのだ。グラスを握る手を見ていることにした。関節の目立つ長い指だった。爪は磨かれ、おそらく艶出しを塗っている。水を閉じ込めたような光沢が美しい。逆剥けもなく、よく保湿されている。まめな気質なのだろう。その曇りのない眼鏡からも分かる。
「ジムとか、どうですか。私の通っているところなのですが。プールもあります」
「いいですね、ジム。けれど、大丈夫です。要領が悪くて、家事で精一杯で……せっかくのお誘いなのにすみません」
相性の悪さというものを感じずにはいられなかった。鳶坂に対して、悪印象な受け答えばかりしているような気がした。
「ごめんなさい、鳶坂さん」
「謝らないでください。甥御さんが大変な最中(さなか)に朋夜さんを口説きにかかっているのは私のほうなんですから」
「口説き、に……?」
「はい。私は朋夜さんを口説いています」
レンズのグリーンやヴァイオレットの反射に助けられた。その真っ直ぐな瞳を直視せずに済んだ。ほんのわずか、片鱗を認めるのみで。顔に熱が籠った。
「か、揶揄わないでください……あまり面白い反応は、できませんよ」
彼は麗らかに笑う。その対応がまた、違う世界で生きている人間のようにしか思えなかった。浮世離れしている。
「素の朋夜さんを見させていただけているのなら光栄です」
「い、いや………その………」
朋夜はアルコール臭い液面以外、何も見ることができなかった。火照っている。歳は同じはずである。だが落ち着いた余裕がある。このような口説かれ方とは縁遠く、また既婚者として必要のないものであった。
テーブルの上の黒紫に光る小型の板が突然光った。鈍い音ともに振動する。グラスのなかに小さな波が起こる。
「失礼」
鳶坂遼架は高機能携帯電話の画面表示を確認することもなく消してしまった。
「いいんですか?」
彼は忙しい身だ。就業中か否かにかかわらず、仕事の連絡が来ていてもおかしくはない。
「今は退勤時ですから」
「そうですか。口を出してすみません」
朋夜は彼が気を遣ったのかと思った。亡き夫と同じように。だが鳶坂遼架にとって、ここは朋夜と築いた家庭ではない。彼は彼の時間を確保したに過ぎない。彼女は自身の思い違いが恥ずかしくなった。
「いいえ。いつもなら見てしまうんですが……もう少しお話、したいですし」
急に、昔の出来事が朋夜の脳裏に甦った。元交際相手との付き合いも終わりかけの頃、相手は会っても携帯電話ばかり触っていた。食べてるときも、話しているときも、相槌さえ。顔を見る回数は数えられるほどだった。携帯電話に入ったゲームのほうが面白く、顔の見えない知り合いとのメールのほうが楽しいのだ。朋夜もまた、そのゲームより、メールより元交際相手を楽しませられる自信はなかった。
「わたしと話しても、あまり楽しくはないですよ」
その一言のほうがいかにこの場をつまらなくさせるのか、彼女は分からなくはなかった。だが口にしていた。嫌になってしまった。さらに自身を疎みたくなる。嫌いなりたかった。鳶坂遼架という男を使って、手前を蔑み卑しめたかった。
「自分で自分と対話してみると、大概の方は、つまらないと思うものではないですか」
彼はグラスを呷った。喉笛、手、肩幅、すべてが見せ物のように美しい。
「そう……ですか?」
「接待を期待していると思わせたのなら申し訳ないです。つまらない、面白いを含めて、朋夜さんと話したかったのですけれど、その態度がもはや、接待を求めるようなものだったようです。申し訳ない。そろそろ私は寝ますから、羽を伸ばしてください」
鳶坂はグラスを片付けて去っていった。静寂が深まる。
人を使って、見事に彼女は己を卑しめることができた。嫌な女である。鳶坂はその目論見を看破してか否か、上手く立ち回った。
それは八つ当たりと等しかった。八つ当たりと大差がなかった。そして朋夜のような女は、八つ当たりこそ思い切って実行するが、叶った途端に罪悪感に苛まれるのだった。一時的な感情を封じ込めておく気力も、やり遂げたあとに毅然としている器量も足らないのである。彼女は愚かだった。
酒を流し込む。薬にもならなければ猛毒にもならない。
◇
『本日午後2時頃、―区役所に20代前半と思われる男性が現れ、800万円の入ったカバンを手渡し、立ち去ったとのことです』
『職員によりますと、この男性は"親を失くした子供のために使ってほしい"との―』
朋夜はリビングのドアを開いたとき、壁に掛かったテレビが消された。ソファーに兄が座っている。
「おはよう、朋夜」
「おはようございます、朋夜さん」
朋夜は兄がいることに驚いて、言葉が出なくなっていた。
「新婚夫婦みたいで羨ましいね」
「そうであれば、私もありがたいのですが」
兄の思惑の透けた揶揄について、彼女は聞かなかったことにした。
「お、おはようございます……どうして、兄さんが……」
「昨日帰りが遅くてね。鳶坂くんの家のほうが近かったから。それに可愛い妹の顔も見たかったし。鳶坂くんも、ボクにとっては弟みたいなものだからね」
コーヒーを注ぐ音が、朝から耳に心地良かった。
「朋夜さんもコーヒー、飲まれますか」
「い、いいえ……わたしは結構です」
妹と、弟みたいなものとの会話を聞いて、彼はふふふと笑っていた。それが朋夜には気拙く思えた。口の中を苦くするに十分だった。
「紅茶もありますよ」
「では、紅茶のほうをいただきます……」
二度も断れなかった。兄のほうを気にしながら、キッチンへ足を運ぶ。
「お淹れします」
「鳶坂くんにお茶を淹れてもらえるなんて、社会に出たらないことだよ」
「またまた、ご冗談を。コーヒーを淹れにいつでも伺います」
しかし朋夜のいない世界の話だ。特別な感慨はない。ありがたみもない。鳶坂遼架がどのようなコーヒー界の権威だというのか。コーヒーは飲めなかった。何度か行ったことのある喫茶店が恋しくなってしまう。自家焙煎のコーヒーと、手作りクッキーと……
「どうしたの、朋夜。お兄ちゃんの隣に来てよ」
兄は自宅のように寛ぎ、隣の座面を叩いた。新車のようなソファーである。だが彼女はまだこの家に慣れていないのだ。キッチンにいる鳶坂に悪く思ってしまう。
「鳶坂くん。朋夜は遠慮がちでね、可愛い妹だよ。気が利かないわけではないんだよ。悪く思わないでおくれ」
朋夜はたじろいだ。兄を改めて近くで見る。酔っているのではあるまいか。
「兄さん……」
「悪くなんて思いませんよ。朋夜さんも、気を遣わず寛いでください」
鳶坂のほうを見れば、目が合ってしまう。会釈する以外に、どうしていいのか分からなかった。
「お言葉に甘えて。甘えられないのは良くない。鳶坂くんも、気を遣ってしまうよ、可哀想に」
兄はふたたび座面を叩いた。朋夜はすまなく思いながらもそこに腰を下ろした。
「もう少ししたらボクは出なきゃいけないから……それまでは、可愛い妹と、可愛い弟みたいなのを眺めていたいんだよ。贅沢ですまないけれど……ボクは幸せ者だな。生きるというのは素晴らしいね」
2
鳶坂(とびさか)のマンションに来訪者があった。朋夜(ともよ)はその顔に驚いてしまう。天条(てんじょう)奏音(かのん)である。だが驚いたのは朋夜だけではなかった。相手も、マスカラで固めた睫毛をさらに持ち上げた。
朋夜は一瞬、このマンションを亡夫のマンションと勘違いしてしまった。
「綾鳥さん?どうしてここに?ここって……?」
天条奏音は辺りを見回した。互いに己ほの思考の錯誤を疑った。
「朋夜さん……?」
書斎から、鳶坂 遼架(はるか)が姿を現した。
「天条先輩……?」
「ああ、やっぱり鳶坂くんのお宅で合ってた。びっくりした。綾鳥さんがいらっしゃるんですもの」
その声は安堵のためか上擦っている。
「お知り合いでしたか」
「前に同じ職場だったの。偶然ね」
三者三様に他2人を見遣る。
「お二人は、どういう……」
朋夜はおずおずと口を開いた。
「天条先輩とは大学が同じだったのです」
きつい印象を受ける化粧を施した目が睨むようにすら感じられる。
「そういう綾鳥さんたちは?」
朋夜への問いを、鳶坂が引き取る。
「朋夜さんの兄に、私がお世話になっておりまして」
「そうだったの。本当に奇遇。で、鳶坂くん、忙しいところ悪いわねぇ」
天条奏音は肩に掛けていた薄手の大判なトートバッグから色紙をちと見せる。
「大学の同じサークルの子が、今度結婚するの。だから寄せ書きと、それからビデオを撮ろうって。こういうの、いくらデジタルが進歩しても、結局アナログになっちゃうのよね」
「ご足労おかけしました」
鳶坂が笑った。大学時代からの付き合いからか随分と砕けて見える。それか、天条奏音その人の魅力のためか。亡夫の元交際相手であったし、京美(みやび)もまた彼女に魅了されてはいなかったか。アルバイトの年若い青年を侍らせもしていた。男性から見ても美しいのだろう。
「たまたま近くを通りかかる予定があったから」
彼女はダイニングテーブルセットに荷物を置くと、中からビデオカメラを取り出した。
「原稿は一応あたしのほうでも作ってきたの。でもどうする?鳶坂くん、自分で考える?」
「そうですね。ですが、原稿のほうも読ませていただけますか。もしかしたら言葉をお借りするかもしれません」
「ええ、どうぞ。鳶坂くんは忙しいみたいだからって、どうするか迷っていたの」
朋夜は茶を淹れながら2人の話を聞いていた。似合いの男女であった。釣り合っている。性格的にも悪くはなさそうであった。
夜景をバックに鳶坂はカメラの前で大学時代の思い出を語り、今後の生活を祝福する。朋夜は彼を撮っている天条奏音の横顔を見詰めた。平生(へいぜい)の不敵な微笑は消え失せ、真剣な眼差しでモニターを観ている。
撮影が終わる。柔らかな鳶坂の表情がさらに砕けた。朋夜は鳶坂遼架という人物をよく知らない。しかしその一面は第一印象から覆ることなく徐々に育まれていた人物像に新たな色を加えた。
「未婚の"ぼく"が、入籍(けっこん)した人に対して偉そうでしたかね?」
照れ笑いをすることもあるらしい。見てはいけない顔を見てしまった気分になる。わずかに声も普段より上擦っていた。天条奏音と対しているからであろうか。
気の強そうなアイラインを引いた目が、朋夜を一瞥する。鮮やかなレッドに彩られた唇が弧を描く。
「あら? そうなの、鳶坂くん。好い人くらいいるでしょ? 周りだって放っておかないはず」
ほんの一瞬にも満たない刹那の間、彼も朋夜を見遣った。しかし当の本人は天条奏音を見て、それから俯いてしまった。あのような気高く、運気を周りに分け与えられるような人間ではなかったことを、彼女は省みていた。
「い、いや……あの……今は仕事のことで手一杯ですし……」
「だめよ、若いんだから。忙しいのなら尚更ね。いやだわ、セクハラじゃない。ごめんなさい」
わざとらしく天条奏音は口元に手を添える。眇められた目は朋夜を捉える。
「まぁいいわ。寄せ書きのほうもよろしく。急に来て悪いけど、すぐに任せたいの。ここで待たせていただける?」
「ええ、どうぞ。すぐ仕上げてきます。お二人が知り合いならよかった。くつろいでいてください」
色紙を持って鳶坂はリビングを去っていった。天条奏音はそれを見送ると、すばやく朋夜を向いた。銛(もり)で突き殺すような勢いであった。
「元気してたの、綾鳥さん」
鳶坂遼架も学生時代を思い出して浮ついていた。天条奏音もそうであるのか、語調にはしゃいでいるような感じがあった。
「はい……とても」
「うっふっふ。そう」
事情をすべて把握することは困難であろう。しかし察してはいるのだろう。切り出されても不思議ではない義甥の話はなかった。
「鳶坂くんって素敵よ、綾鳥さん。同い年なんじゃなかったかしら。一昔前までは男が年上で、女が年下の結婚が主流だったけど、最近は同い年婚が流行りらしいわよ、綾鳥さん。紳士的で優秀で美男子で、文句のつけようがないわね」
「そう……ですね。素敵な方だと思います……」
天条奏音の発言は真意を図りかねた。その雰囲気といい、語勢といい朋夜はすっかり気圧(けお)されてしまった。突然鳶坂を褒め称(そや)しはするが、かといって天条奏が彼に想いを寄せているふうでもなかった。
「仁実(ひとみ)のことはよくやったわ、貴方。もう、いいんじゃない?」
朋夜は呑気な女だった。元交際相手で夫は亡くなっているとはいえ、部外者に結婚生活について容喙(ようかい)されているのである。怒りや不信感を抱くべきところであった。けれども彼女にあるのは戸惑いだけである。天条奏音は義理の甥との現状を知っているのではあるまいか。義理の甥からすべて聞いているのではあるまいか……
「あたし、貴方には幸せになってほしいのよ、綾鳥さん。お為倒(ためごか)しなのは分かっているけど。あたし貴方に、実は恩があるの。うっふっふ。言わないけど」
春先の小鳥を思わせる軽やかな足取りで朋夜の傍へやって来た。朋夜は天条奏音の言う"恩"をそのままの意味として受け取れなかった。何か彼女の気を害することをしていたのだ。それは元交際相手についてなのだろうか。他に思い当たる節がない。臆病で怯懦(きょうだ)な朋夜は他者との衝突を恐れて生きてきたのだ。
「わたし……天条さんに何を……」
語尾が消え入る。女性的な尖った手が後ろから朋夜の大きな胸に添わる。
「綾鳥さんってかわいいわ」
「そ、そんな……」
「知的で落ち着いた鳶坂くんのバカになっちゃうところ、見たくなぁい?」
ブラジャーを辿られている。
「て、天条さん……何を、言って……」
「あたしは見たいわ。綾鳥さんと鳶坂くんのかわいいところ……」
耳元に息を吹きかけられ、朋夜の肩が持ち上がる。
「ん……っ」
布の上から核を押される。もどかしい感覚が広がる。
「天条さん……」
「綾鳥さんはここが好き」
今度は押されるだけでは済まなかった。摩られてしまう。曇った痺れが思考に靄をかけた。
「あ……」
天条奏音の腕に触れた。
「ダメよ、綾鳥さん。ここでイくの。あたし爪がこんなだから、乳頭(ここ)でイくしかないのよ?」
子供に言い聞かせる音吐(おんと)で、天条奏音は朋夜を無力にしてしまう箇所を掻き毟る。
「あ………ん、………」
力が抜けてしまう。抵抗することも忘れてしまった。ネイルカラーの施された指先を、蕩けた双眸で見ていることしかできなかった。腰が落ち、前屈みになっていることにも気付かない。鳶坂遼架にすぐにここへ来てもらいたい気もした。同時に来てほしくない気もした。しかし鳶坂の存在を思い出すので精々であった。後先は考えられない。
「ぁあ……」
されるがままだった。服を捲り上げられることにも彼女は協力的でさえあった。藍色のレースに白い花の刺繍が入ったブラジャーが露わになる。
「大きなブラジャーって機能性重視かと思ったけど、かわいいのを着けているのね、綾鳥さん。このまま何時間でも眺めていたい」
けれども天条は朋夜のブラジャーのホックを外してしまった。
「あ……」
カップが浮いた。撓(たわ)わな乳房に、淡紅色がはちきれんばかりに実っていた。触られるのを待ちきれずに背伸びしている。よく熟れて膨らんでいる。
「直接、扱いてほしい?」
想像した。尖った爪の先で、甘く疼く実りを刺激されている様を。痛みにはなりきらない鋭い刺激がほしい。或いは抓まれて揉み拉(しだ)かれる様を。指の腹で転がされるのでもいい。明確な快楽が恋しい。
「んぁ……」
考えただけで、一際固く凝ってしまった。
「でもダメよ」
天条はブラジャーを除け、キャミソールを下ろした。薄い繊維に淫らな突起が透ける。
「形が崩れたら新しいのを贈ってあげる。とってもエッチなのを」
吐息が耳を掠める。朋夜は咄嗟に身を竦めた。ピンク色に塗られた爪がその機を逃さない。防御は赦されなかった。
「あ、あ、あ……あんっ」
キャミソール越しの摩擦は服越しよりも鋭く、素肌よりも往復の切り返しが速かった。
「エッチねぇ、綾鳥さん。とってもエッチ」
朋夜の脳裏には霞がかかってしまった。胸で遊んでいる尖った爪のことしか考えられない。
「ふ、あ、あ、あ……」
「綾鳥さんのエッチな声で、あたしもエッチな気分になってきちゃった。きっと鳶坂くんもエッチな綾鳥さんを見て、ムラムラしちゃうわね」
「ん………そん、なこと………あっあ、!」
薄布の小さな隆起を押し潰される。
「エッチ」
声が身体の芯に響く。朋夜の腰が戦慄いた。
「ん、だめ………っ」
天条の指がとどめを刺した。
「あッ、んんん、あぁ、ごめんなさ、い……」
朋夜は激しく揺れた。身を引き攣らせ、絶頂した。天条は彼女をテーブルセットへ押しやった。そのときになって鳶坂はリビングへ戻ってきた。
「書けました。すみません、お待たせしたようで」
「綾鳥さんと楽しくお話していたから、全然待ってなかったわ」
鳶坂は朋夜のほうを見て目を剥いた。後ろから見れば、それは具合の悪そうな有り様だった。
「大丈夫ですか、朋夜さん。体調が優れない?」
天条は鳶坂がテーブルに近付くよりはやく朋夜を支えた。ふたたび乳頭への愛撫をはじめそうな体勢だった。
「乳首でイってしまっただけよね、綾鳥さん」
「んな……っ」
鳶坂は兄の友人である。天条以上にはしたないところを見せられない相手だった。しかし乳頭刺激によるオーガズムは深かった。彼女はまだ淫楽の沼に浸っていた。濡れた目で鳶坂を見てしまう。それが脅威ではなく、優秀で強壮な若い牡であるから尚更、淫らな受信器が肉体の持主の意思に関わらず反応してしまうのだった。
「鳶坂くんって学生時代から奥手(おくて)だもんねぇ。それにしてもタイプが丸分かりだわ。清楚な天然っぽいお姉さんみたいなのが変わらず好きなのねぇ。童貞さんここに極まれり、ね。またあたしに寝取られちゃうわよ。ほら、今度こそ取り戻さなきゃ、異性(オトコ)なんだから」
爪の先が実粒を甚振る。
「だめ、だめ………も、触っちゃ、や……!」
胸の先が爆ぜてしまいそうだった。朋夜は暴れ、尻を後ろの天条奏音に押し付けてしまう。
「何を言って……何を言ってるんですか! 朋夜さんを放してください」
「いいわよ。でもちゃんと支えてあげてね。感じやすいコだから、乳首でイっちゃって、まともに立てないのよ」
突起を掻いてから、天条奏音は朋夜を渡す。鳶坂は彼女を抱き竦めた。頬に赤みが差している。怜悧な目が泳いだ。
「鳶坂さん……」
「と、朋夜さん……」
身を寄せ合う男女を、天条は嗤っていた。
「あたし爪がこうなのよ、鳶坂くん。これで綾鳥さんの粘膜を触るわけにはいかないわね?」
「ぼくはしませんよ……」
「じゃあいいわ、あたしがするから。可哀想にねぇ、綾鳥さん。奥が好きなのに」
鳶坂遼架は呆然として立ち尽くし、朋夜をあっさり奪われてしまった。
「童貞くんには刺激が強かった? 学生時代(あのとき) 鳶坂くんが憎からず思っていたコも、こんなふうになっていたのよ。あたし寝取るのも寝取られるのも大好き。ほら、鳶坂くん。リベンジよ、リベンジ」
「と、朋夜さんの身体ですよ……! 何を言って……」
「あら……あら、そう。身体は正直でよろしい。でもお堅い口は強情ね」
彼の肉体には誤魔化すことのできない外見的変化が起こっていた。天条奏音は不敵に笑い、朋夜のキャミソールも捲り上げた。素肌が露わになる。ぷっくりと勃つ肉蕾を爪の先で留める。指の関節が伸び縮みする。
「んん……」
鳶坂の視線は朋夜の胸に注がれていた。毛穴ひとつひとつを焼くような眼差しだった。
朋夜の手が天条奏音の手に触れる。ねだるような眼を鳶坂にくれていた。閉じることを忘れた口が輝く。溢水し、滴り落ちた。
「ああ……朋夜さん………」
喉に栓をされたかのような嗄声(させい)だった。どこも触られていないというのに切ない色を帯びていた。呼ばれた朋夜は蕩けきった目でくれる。まるで好意を伝えているかのような怪しい眼光であった。
「余所見したら嫌(や)ぁよ、綾鳥さん」
義理の甥にも、訳の分からない大学生にも、悪辣な弟にも、尖った爪はなかった。絶妙な力加減を朋夜の性感帯は気に入ってしまったらしい。
「う、ぅんっ」
最初の余韻が終わらないうちに彼女は二度目の絶頂を目指そうとしている。淫欲に取り憑かれ、また鳶坂を誑(たぶら)かさんとコンポートめいた双眸で捉えた。
「2回目も乳首がいいの?」
天条奏音の支えなしに、朋夜は立っていることができなかった。テーブルセットの椅子を引かれ、そこに横向きに座らされる。按摩に似た天条の手付きは相変わらず豊満な胸の実りを捏ねていた。或いは擂り潰していた。
「ん……あ、あ………」
鳶坂は唖然としている。理知的で落ち着いた雰囲気はどこにもない。あどけない姿を曝している。そういう外貌もまた端麗であった。
「かわいいわ、綾鳥さん」
天条は誘いを断わられてから、もう元後輩のほうを見ようとはしなかった。ただ彼の家の居候にだけ興味を示した。ピンク色に塗られた爪は蕾虐めに飽きると、その下、朋夜の下半身へと降りていった。
「あ……天条さん………」
朋夜は粘こい淫沼に沈みながらもその爪の長さを思い出したのだ。まだ胸に留まる手を握った。
「安心して、綾鳥さん。痛いことはしないから」
彼女は自身を朋夜の背凭れにして、手をボトムスのなかに差し入れた。下着に潜む糸屑を解している。
「残してあるのね、綾鳥さん。ないほうが楽だけど、あったほうがあたしは好きだわ」
「天条さん……あの、わたし……」
「痛いことはしないわ。気持ち良くなるだけよ。鳶坂くんに綾鳥さんの淫猥(ステキ)なところ、たくさん見せておあげなさい」
「鳶坂さん……」
乳頭の悦美に浸っている場合でないことを思い出した。
「ダメよ、綾鳥さん。鳶坂くんたら意気地なしなんだから。妬いちゃうわ。あたしの手だって気持ちいいでしょう?」
天条奏音は指の腹を使って、糸屑のさらに下に秘められた珠肉を抉った。
「ああんっ!」
胸の勃起よりも強く鋭い快感が臍の下の方を駆け巡った。
「ぷりぷりになっているわね。乳首だけじゃあ本当に満足はできないでしょう?」
弾力を確かめられている。天条の指はトランポリンのごとくそこを跳ねていた。輪郭の分かるような確かなこの快感を待っていたのだと朋夜は知った。乳頭の絶頂によって感度も上がっていた。貪欲になる。彼女は緩やかに腰を揺らしていた。亡夫の元交際相手の指に淫芽を捏ねさせようとしていた。
「あ……! んん……あ、だめ……あぁ、鳶坂さん……」
胸の先に実った痼(しこ)りを嬲られているときのような思考を拐うほどの陶酔の大波はなかった。ゆえにここに佇む鳶坂を意識してしまう。用もなく呼んでいた。人妻としてあるまじき痴態だった。夫以外に曝すべきではない媚態だった。
牝の強い魅了の術に、この年若く強健な牡は堪えられたであろうか。鳶坂は覚束ない足取りで朋夜へ一歩、二歩、近付いた。眼鏡の奥の双眸は澱み、平生(へいぜい)の鳶坂遼架と同一人物とは思われない。それは活屍人(ゾンビ)だった。
「朋夜……さん……」
その手は新鮮な生肉を求めて伸びた。けれども触れる直前で彼は躊躇った。
「意気地なし」
天条奏音の物言いは落雷に似ていた。長い爪に気を遣っていた指の動きが大胆なものになる。
「 あ、あ、あ……っ、また、変なの……」
朋夜は喘いだ。しかし天条は同じ長姉を崩さず、弾力を持って張り詰めたクリトリスを捏ね回し続ける。
「ああんっ!」
浅くも確かなオーガズムに、朋夜は羽化途中のセミよろしく背筋を仰け反らせる。彼女は支えを失っていた。手放されていた。目の前にいる兄の親友の腕に倒れ込む。他人の匂いがする。接した筋肉の厚さが、番う対象の範囲内にあることを告げる。
「あ、あぁ……」
乳頭の絶頂と陰核での絶頂は乖離しているものではなかった。干渉した。この鋭く確かな粘膜での快美を増長させていた。朋夜は馴染みのない匂いを吸いながら震える。生活しているなかで肌に馴染むこともなく、いつまで経っても他人の匂いであり続けている。
「朋夜さん……」
「可愛いわ、綾鳥さん。水道を借りるわね。うっふっふ、エッチな香りがする」
天条奏音は朋夜の密部に入れていた手を鼻腔の前に据えた。勝気そうな双眸が眇められ、朋夜には似合わなかった色味の唇が弧を描く。カウンターキッチンに回り、蛇口を捻るまで彼女は汗と淫液に湿(しと)った手を鼻の前に置いていた。
「天条先輩……一体何を考えているんです」
「言ったでしょう? あたしは寝取るのも寝取られるのも好き。仕方ないでしょ? それの繰り返しだったんだから。傷付くのが快感になっちゃったの、こんな性愛(せいへき)だから。そうでしょ? 女はやっぱり、おちんちんの生えた人が、結局のところ好きなのよ」
水道がシンクを叩く。
「朋夜さんのことも、お好きなんですか」
「ええ。だって可愛いもの。愛することはできないけれどね。元カレの女だし」
大学時代の後輩の些細な所作を、天条は目にしたに違いない。彼女は鼻を鳴らした。
「交際すれば必ずそれが性的な関係ですって? 冗談じゃない。鳶坂くんは昔からちょっと善人過ぎるわね。外連味(けれんみ)のない人。クリエイティビティがないわ。鳶坂くんの死角、見つけちゃった。貴方みたいな人にあたしの気に入ったコが惹かれていくの、面白くてつまらなかった。あたしたちはいい隠れ蓑で親友だった。けれどあたしは背負えなかった。その腕の中の人は細くて軽いでしょう? でも中身は結構頑固で重いわよ。しっかりなさい」
天条は荷物を纏める。彼女が帰るまで鳶坂は立ち尽くし、朋夜もまた彼に縋りついたまま動けなかった。
嵐は去った―わけではない。着衣は乱れ、有らぬ姿を曝している。
「ご、ごめんなさい。ごめんなさい、変なところをお見せして……」
我に帰った途端、彼女は薄情者のごとく、散々甘えていたその身体を突き飛ばした。慌てて背を向け、衣服を直していく。
「い、いいえ……天条先輩には、驚かされますね、ッ」
アンティークな雰囲気の眼鏡のブリッジを彼は押し上げて掛け直す。必要以上に。
「で、でもすごい偶然ですね! お互い、共通の知り合いだったなんて……!」
沈黙が怖い。焦りを誤魔化す余裕はない。ただ何か喋ることを探した。けれど朋夜は息を詰らせる。義理の甥との生活を思い起こしてしまった。喋りすぎだ、うるさい、とおそらく鳶坂は口にはしないだろう。けれど思いはするだろう。
「お風呂を沸かしてきます。これから夕食を作りますから、先にお入りください……」
「今日は……何か注文しましょう。朋夜さんこそ、お先にお風呂へ入ってください」
鳶坂遼架は視線を泳がせ、朋夜は彼の顔を窺うけれども、彼は顔を見ることもなければ、目を合わせようともしなくなった。彼は報告するのだろうか。女色について、兄の朝氷(あさひ)が知ったら、どう思うだろう。面と向かって問い詰めたりはしないかもしれない。ただ黙って、彼一人思い詰め、落胆する。もし兄が男色であったら……考えたが、無駄なことだ。あの兄が妹を想うのと、朋夜があの兄を想うのでは一緒くたに語れないことが多かった。けれど朋夜にも弟がいる。あの悪辣な弟が男色であったら。あの子供はおそらく男色ではなかった。男色ではなかったが、おそろしい性癖を持っている。他にどのような嗜好があろうとも意外性はなかった。これもまた、好い例とはいえない。
TL【鳴り鎮スピンオフ】マーメイドの鱗を剥がす