『オラファー・エリアソン』展
一
筆者の拙い理解によれば、ティモシー・モートンさんが主張するハイパーオブジェクトの概念は人間中心主義に基づく見方の問題点を指摘する点で哲学的には目新しいものでなく、しかしながら自分自身を一つの歯車とする循環システムの内側から環境問題を思考し、相互干渉による不分明な影響の流れに身を任せながらよりよい方向を模索する点で現実的かつ想像的な新しさを内包する。故にその主張は一方で哲学者から冷淡に受け止められ、他方で作品を通じて表現を試みる制作者たちの支持を得ることができたと考える。
高松宮殿下記念世界文化賞の受賞でニュースにも取り上げられたオラファー・エリアソンさんはまさに後者の一人で、麻布台ヒルズギャラリーで開催中の『オラファー・エリアソン』展ではボールルーム・マーファで開催されたティモシー・モートンさん、ローラ・コペリンさん、ペイトン・ガードナーさんによる「Hyperobjects for Artists」展の為に執筆された2018年のテキスト、「力のオーケストラ」の原文及び訳文の両方を読むことができる。
自身のスタジオにて、あるアーティストが石のテーブルの上に置かれた一枚の紙に鉛筆でドローイングを行おうとする様子を記す文面で最も心を引くのはダイナミックな視点移動である。スタジオを始めとする対象物の成り立ちが詩的な一面を覗かせる丁寧な筆致で地球との関係にまで紐解かれたかと思えば、一人の人間の息づかいを思わせる程の近しさを取り戻して鉛筆と紙の親密な関係にそっと目を向ける。そこからの短くも美しい未来の光景は是非、会場にて読んで欲しいと願う所だがそのフォーカスエリアが捉える時空間にこそハイパーオブジェクトの概念の本質が詰まっている事だけは、その具体例としか思えない作品群が『オラファー・エリアソン』展に展示されていることと共にしっかりとここに記しておかなければならない。
その一つとして取り上げる「終わりなき研究」は振り子の原理を利用して幾何学模様を自動筆記させるハーモノグラフを用いた作品で、19世紀頃の大掛かりな機構によってそのテーマである空間と音の相関関係が表現される。振り子の大きな動きが感じさせる空間は暫くしてから台の上に設置された紙と鉛筆の接触音となって鑑賞者を時間の世界に導き、ぐるぐると回り、シュルシュルと描かれていくその時々の幾何学模様で見る者を楽しませる。そのパターンの多様さは周囲の壁に画鋲で止めた作品群から十分に知れるのだが、それらの作品たちを真に描いたのは誰なのか。考えてみると振り子を動かした人とも言える一方で、見方によっては振り子の運動という現象が描いたとも理解できるしでなかなか判然としない。この引っ掛かりはまた同じスペースに展示されている別作品、「太陽のドローイング」と「風の記述」と一緒に鑑賞すると倍増するから困りものだ。
こちらの作品は機械的手段を用いるという点で「終わりなき研究」と共通するが、その機構を成り立たせるのに人為を一切介させずに自然現象を用いる点で大きな異なりを見せる。すなわち前者ではドーハ近郊の砂漠に絶えず回転する紙を設置してガラス玉で集める太陽光を鉛筆代わりにしてドローイングを行い、後者では同じく回転するキャンバスの上に沢から引いた水と顔料を混ぜる機械を振り子を用いて風で動かし、一回的なドローイングを続けることでその時、その場所でしか成り立たない「もの」のシグネチャーを私たちに呈示するのだが、かかる記述からしてこれらの作品においては「終わりなき研究」以上に作品の主体という存在がぼやけてしまうのは想像するに難くないだろう。そのドローイングについては機械を設置した人が描いた、とはどうしても言い切れない。けれど自然が描いた、と胸を張って言える程にシステマティックな仕掛けを無視できない。そもそもこれは作品なのか。ただの現象の痕跡ではないのか。疑問はどんどんと膨らんでいく。
このようなどっちつかずの事態に対しては小説でいうところの神の視点に立つことにより、総合的な全体像として向き合えはするのだろう。しかし全知全能の欠片も見当たらないその立場から答えを出すことには窮する。この逡巡を解消するのに時間が掛かるのは間違いない。時間を味方につける必要はこのたった一つの理解から得られる。
こうして無事に時間と空間は交差し、「力のオーケストラ」にあった描写の只中に身を置く私たちとなる。
二
本展の副題にもなっている「相互に繋がりあう瞬間が協和する周期」は麻布台ヒルズ森JPタワーの頭上に展示される。四つの空間充填立体モジュールは双対称十一面体の連なりとして必然的に蛇行性を生み、結果的に現れる螺旋構造によって何も知らないで済む鑑賞の時間をたっぷりと楽しませてくれるが、『オラファー・エリアソン』展の最後に鑑賞できるインタビュー内容を拝見した後ではその趣はガラリと変わる。
エリアソンさん曰く、「相互に繋がりあう瞬間が協和する周期」の材料は鉄をスクラップ処理する際にリサイクルで抽出した亜鉛であり、それを鋳造することで経済活動の果てに人々の肺に取り込まれるはずであった金属の存在を視覚的に表現すると同時に、一つの作品として再利用することにより持続可能な行為の意義を示した。環境問題に意欲的に取り組んできた表現者らしい痛烈なユーモアと現実に即したコンセプトに筆者はいたく感心したが、かかる作品表現を「緑に包まれ、人と人を繋ぐ『広場』のような街」をコンセプトとする麻布台ヒルズで行い続ける意味は確かに大きい。本展の開催の他にもスタジオ・オラファー・エリアソンのカフェ、「THE KITCHEN」が麻布台ヒルズの施設内に入っているが、これらの試みは喫緊の課題となる環境問題について芸術活動が経済ないしは生活にしっかりとコミットできる一つの証左になる。
さきの国立新美術館で開催された『テート美術館』展で鑑賞できた「星くずの素粒子」でも話題になったように、オラファー・エリアソンさんの光を用いた作品は純粋に綺麗だと思える。『オラファー・エリアソン』展でも「蛍の生物圏」という小さな多面体による多彩な光の動的表現を堪能できるが、ここまで記してきたことに基づいて振り返ると制作者がそこに込めた大きな愛を感じ取れる。それはまさに命の瞬きであり、その儚さに思いを馳せることができる人の営みに対する信頼の証だといっていい。そして、ここに覚えられる感動こそ芸術表現でしか成し得ない。鋭い言葉による煽りでも、あるいは世間に与えるインパクトを重視した過激さにも頼らない土台の上で行われ続けた沈思黙考。その形の現れにならこの耳を傾けてもいいと思えた一人として『オラファー・エリアソン』展をお勧めする理由がここにある。
専門家であれば百も承知の自然界における予測不可能な変化がこれまでの人間の営みによって信じられないぐらいに真っ暗で凶暴な牙を向けるものになってしまったのなら、ただそれを否定するのでないのは勿論、対症療法的な対応に眩暈を覚えさせるようなスケールの未来を描いていく。あるいは所詮はただの綺麗事という声が外からだけでなく、自らの内側からも届くという厳しい現実に対して歌い聴かせるようにこつこつと伝えていくことで世界の何かを少しずつ変えていく。それがどうなるかは分からない。実を結ぶかなんて知れやしない。それでも、自分自身の人生の出来事として生きることはできる。その影響を素直に分かち合えばいい。そしてそれを人間の尺度を超えたスケールで還していく。その大きな意義を体感できる本展を心からお勧めしたい。
『オラファー・エリアソン』展