古ぼけた社則
ある時、会社の設立と同時に入社した女性社員が、急にやめたいと言い出した。でも彼女は真面目で仕事ができる人だったので、社長としては引き留めたかった。そこで彼は女性社員と面談をして、理由を聞くことにした。「考え直してはもらえないだろうか?」「それは無理です」
「なら理由だけでも教えてほしい」
「言いたくないと申し上げたはずです」
女性社員は頑なだったが、社長は根気強く彼女を説得しようとした。
「もちろん聞いたことはここだけの話にする。しかしこれまで一緒に頑張ってきてくれた君に謝罪できることがあるなら、ここを去る前に遠慮なく話して欲しいんだ」
長年お世話になった社長が頭を下げて頼んだので、彼女もついに根負けして理由を話すことにした。
「では単刀直入に申し上げます。やめる理由はセクハラです」
「なんとセクシャルハラスメントとな? もしやこの前、私が君の髪型を気安く褒めたのがよくなかったのか?」
「いいえ、あれは嬉しかったです」
「じゃあ何で……うちの男性社員は全員が妻帯者で、コンプライアンスには十分気をつけているはずだが」
社長は信じられないといった顔で首を捻った。
「では説明します。まずうちの会社には社員が何人いるかご存知ですか」
「もちろん把握している。私と副社長の妻を除けば九名だ」
「そのうち男性社員は何人ですか?」
「四人だろう」
「それも会社設立時は全員独身でした。そして女性は私を含めて五人。さらに不景気でこれまで新入社員は一切とっておらず、かといって退職した人もいません。つまり設立当初から今まで同じメンバーです」
「うむ、君の言う通りだ。でもそれがどうしたんだ?」
「まだわかりませんか?」
「すまないが、もう少しだけ詳しく説明してくれ」
女性社員は深いため息をついてから再び口を開いた。
「その男性社員のうち、最後の独身だった鎌田さんがつい先日結婚されましたよね?」
「うん、盛大でとても良い結婚式だった」
社長が感慨深げに頷いた。途端に彼女はガタンと椅子を鳴らして立ち上がると、顔を真っ赤にして叫んだ。
「でもうちの男性社員は、四人とも社内結婚じゃないですか!」
「そこか……」
社長の隣に座っていた副社長が、やれやれという顔をして呟いた。
「どういうことだ?」
一方の社長は、まだ彼女の気持ちがわかっていないようだった。
「だからこの会社の男性たちは揃ってここの女性社員と結婚して、最後に残ったのが私なんですよ! こんな屈辱は生まれてはじめてです!」
「いや、そんなことを言われても……」
「どうしてこの私が余らなきゃいけないんですか!!」
彼女は力の限り叫ぶと、目の前の机に突っ伏して泣き崩れた。
後日、女性社員は社長の説得もむなしく退職した。それ以降、会社の社則にはセクシャルハラスメントについての新しい項目が増えた。さらに業績が伸びて新入社員が入ってくるようになると、社則を確認した皆が口を揃えて同じことを言った。
「今どき社内恋愛禁止なんて時代錯誤だよね」と。
それから二十年以上の時が流れて時代がかわった。会社は立派に成長して存続していたが、社則には今でも社内恋愛禁止の項目が残されていた。
つい先日入社してきた新卒社員が、社則を見ながら古参の私に質問した。
「この社則にあるセクシャルハラスメントというのは、どういう意味ですか?」
「あぁそれはね……」
今日の日本は男女の生涯未婚率が五十パーセントまで上昇し、人々は仮想現実が体験できるVR端末で理想の恋人やパートナーをつくるようになっていた。そのためか異性関係におけるコンプライアンス違反は世の中的に激減し、セクハラという言葉自体が死語になって、だいぶ久しかった。
「えっ? 昔はそんな酷いことをする人たちがいたんですか?」
「それじゃあ、最後に残された人があまりに可哀想じゃないですか」
私がセクハラの説明をすると、新入社員たちが驚いて眉をひそめた。
「そうさ。二十年前は社内恋愛なんて酷いことが本当に行われていたんだ」
私はそんな風に彼らの話に合わせながら、社内恋愛禁止に文句を言っていた昔の自分を振り返り、苦笑いを禁じえなかった。
古ぼけた社則
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