『 O 』

 2011年11月26日未だ日が明けやらぬ
時刻、一本の電話が友人Oが亡くなっことを告げた。
パリから帰国し、その足でゴルフ場へ出向き自社にとっての要人とのプレー、夜宴の跡、未明のサウナの中で彼の心臓は2度と脈を打つ事は無かった。

享年62歳、私と同年だったO
とり行われた葬儀には、フッション業界の名だたる面々が参列し、その人数は600余名であった。
Oと付き合いのあった海外のファッションデザイナーからのその死を悔やむメッセージが多数届いた
親交の深かった数名のデザイナーも急遽来日し、霊前で絶句し泣き崩れたフランスの女性デザイナーもいた

有名なデザイナーでも無かった
業界の表舞台に何時も顔を出す
著名人でも無かった

では何故、彼の死をこれ程までに
多くの業界人が惜しんだのか
芝高から慶應義塾大学を出て石油エネルギー企業に入り、そしてOが転職したのはさるアパレル企業だった。しかし言わば一塊のサラリーマンとして異業種の道を選んだ彼がフッションビジネスの世界で
何故そこまで人望を集める事が出来たのか

彼が勤めた会社は海外の無名であったファッションデザイナーを世界的なブランドに育て上げる社風があった。当時パリやNYが拠点であったファッション界に日本から挑んだ企業であった。

それがOW社だった
そしてそこでOは業界のカリスマでJean-Paul GAULTIER を見出し育てたB社長の元で
ファッションの世界に触れ、デザイナービジネスというジャンルを学んだ

そしてOはヨーロッパを統括するイタリア支店長の時代に、ある二人組の無名のデザイナーを見出した
それがDolce&Gabbanaだった
Oはミラノの直営店で彼等の商品を扱い、そして彼等の世界初一号店を日本で開いた
そこは銀座でも原宿でもない、彼の住んでいた町
横浜のマイカル本牧だった
オープンにはDolce&Gabbana本人が店頭に立っていた。
それを機にOW社のOはイタリアではブランドプロデューサーとして一目を置かれる存在になっていた
そしてファッション界の多くの友人を得て
HELMUT LANGやJil SanderもOの実力を認めた
それは彼の生来持っていた美への洞察力、審美眼であった

ある日Oは私達夫婦を自分がプロデュースしたあるコレクションに招待してくれた。それは東京芝の三井倶楽部で開かれた世界初のJean-Paul GAULTIER オートクチュールコレクションであった
会場の館にはゴルチェ本人が採寸するオートクチュールをオーダーする婦人達や芸能人で溢れ、コレクション後のガーデンパーティーでOは私達をゴルチェ氏に紹介してくれた

その後のOは多くのファッションデザイナーを日本に紹介したがしかし、市場は低迷期を迎えていた
デザイナーを軸にしたファッションビジネスが大きく方向を転換する時期であった
UNIQLOが台頭し、ファッション愛好家は衣料消費者へと変わって行った。価格重視のファストファッションの波が到来した。ZARA H&M FE21 などなど
そんな潮流を見抜いたOは
これからはSHOPからSTOREの時代が来る
そう言い切り今迄歩んで来た道とは真逆のファストファッションのビジネスの領域に入って行った
、がしかしもちやは餅屋、生産基地を中国では無く東欧に求めたがコストや供給体制で失敗に終わった。
企業人として登りつつある人間が一旦堕ちると
惨めである。大きな損失に失敗者の烙印を押されたOに言葉をかける仲間もいなくなっていた。

しかし世の中は捨てる神だけでは無かった
Oが持つ得意な才を見抜いていたのは
入社時からの上司でOW社の社長にまで登り詰めた
H氏だった
Hの肝煎りで新しいSelect Shop事業を立ち上げたOは代官山に旗艦店となるBS Musiamをオープンさせた

そしてもう一人Oを蘇らせた男がいた
タクシー運転手の父と6人兄弟の末っ子、ロンドン生まれのAlexander McQueenだった
セビルロウの仕立て屋で学び、セントマーチンズスクールを卒業した新進気鋭のデザイナーだった彼を
バックアップする為にOはH社長の認めを得て、毎月100万円の送金をした
Oはその時、直感でAlexander McQueenのデザイナーとしての実力を見抜いていたのだろう

案の定、ロンドンコレクションに出品したAlexander McQueenのファーストコレクションはその特異な感性の表現力で一役世界中のファッション界から注目を浴びた
Oは彼を日本に招いてファッションショーを行なった。アメリカ大使館の向かいにあるロシア料理レストランで開かれたショーに招かれた私と家内は
頭にトナカイの首を乗せコレクションを纏い薄暗いランウェイを歩くモデルの列に度肝を抜かれた
それがAlexander McQueenの世界であった
そしてショーの最後に登場したのは
アメリカンなクールカットにマドラスシャツ、履き古したジーンズではにかむ様に小さなお辞儀した
彼が今世界中のファッション界が注目している
Alexander McQueenなのか、目の前いるシャイなアメリカンボーイの様な姿に私は驚きを感じざろう得なかった。

Oはそんな気勢の星、Alexander McQueenと
日本での彼のラインの販売権とライセンス契約を結んだ。
無名だったDolce&GabbanaやAlexander McQueenを見出し、数々の海外デザイナーに慕われたOは、OW社の伝統を引き継ぐ男としてH社長から信頼され、 専務取締役までになった
玉石混交のファッションビジネス界で
Oの持つブルドーザーの様な開拓精神と彗眼と言われたモノを見る力、そして人一倍部下に厳しく、何より人を愛する優しさ、そのOの流儀は人として
卓越していた
Oがあの時援助してくれなければ、今の自分は無かった、とまで彼と親交を深めたAlexander McQueenは2010年に自ら命を絶ってしまった
翌年Oが旅立ったのは先に逝ったあのアメリカンボーイが呼んでしまったのかも知れない

あれから12年の時を経た今、私の机の上には、亡くなる前日にフィレンツェの天使の丘に立つ
Oの最期の姿が在る

世に秀でた人間はいるが、私の身近でOの様な
生き方をした人間は他にはいない

『 O 』

『 O 』

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-11-28

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