備忘録:2023年夏・福島県浜通り
自分のために書いた紀行エッセイですが、どうぞ自由に読んでください。
1.祝杯
仕事を終えた金曜の夜、私はなんとか早めに新大阪の高速バス乗り場まで到着することができた。駅構内の通路や店には、人があふれている。バスの時刻まで1時間以上あったので、今回の旅程に独り祝杯を挙げようと思い、感じのいいオープンカフェに入って、グラスワインとローストビーフ、ポテトのサラダを頼んだ。
心地よい喧噪の中、落ち着いた待ち時間を過ごしながら、今回のやや過密なスケジュールに思いを馳せていた。『常磐線舞台芸術祭』の3つのイベントに申し込んであるが、それ以外にも行きたいところがたくさんあった。かつて生活していた町や職場、よく行った場所など・・・、そこへ残してきた自分の思いに整理をつけるため、あらかじめリストアップした場所を全部回りたいと考えていた。往路の移動に夜行バスを利用したのは、現地三日間の限られた滞在時間を有効に使いたいからだ。
そう、15年前私はいわきに赴任し、東日本震災までの3年ほどを妻や子供と過ごした。しかしあのあと、西日本に移住してからは、一度もいわきや東北にも足を踏み入れていなかった。震災後12年ぶりのいわきの街は、暖かく迎え入れてくれるのだろうか、それとも冷たくそっぽを向かれ、疎外感に苛まれるだろうか。そのとき私にはまだ、不安と期待が折り重なっていたように思う。私はグラスを傾けて赤ワインを口にし、わずかな酸味を含んだ香りを味わいながら料理を待った。運ばれてきた料理をゆっくり食べ終えると、私はコンビニで飲み物を買って、やってきた大きな黄色いバスに乗り込んだ。
高速バスを東京駅で降りると、早朝の空に身体を伸ばして、夏の湿った空気を吸った。それから預けてあったスーツケースの取っ手を握りしめ、路面を転がるキャスターの小刻みな振動を感じながら、人の流れに沿って改札の方に向かった。ここ東京駅から常磐線の『特急ひたち』に乗るのは初めてのことだ。私がいわきに居たころは上野が始発だったし、名称も『スーパーひたち』だったと思う。
『特急ひたち』がホームに滑り込んできたとき、私はさらに驚いた。思っていた昔の車両とは全然違うのだ。少し裏切られた感じだったが、心地よい車内や洗練されたデザインなど、嬉しい変化に心を揺られながら、いわきへと向かった。
2.いわきへ
勿来の海や湯本の街が映る車窓に、腰を浮かせて見入った。周りから見ても明らかに興奮していただろうと思う。いわき駅に近づくと、道や地形、見覚えのある建物など、さらに首を忙しく回さなければならなかった。
2023年8月5日(土)、午前9時過ぎ、朝一番の特急は予定通りいわき駅のホームに到着した。当時とあまり変わっていないな、というのが第一印象だ。震災より前に大きく造り変えられていた駅舎やペデストリアンデッキ、商業ビルのラトブなど、何も古びずにそこにあった。まるで私が去ってから月日が経っていないかのようだ。ただペデストリアンデッキから見下ろす街の看板や店舗は大きく変わっていた。やはり震災やコロナ禍による変貌なのだろうか。それとも単に時間による変遷か。
しかしながら街は明るかった。それは夏の強い日差しのためだけではなく、何か陰鬱な気持ちを吹き飛ばすだけの元気さを、そこかしこに感じた。行き交う車や歩く人たち、町の辻々からも、それは湧き上がっていた。勝手にイメージしていた冷淡な空気は、私の心の中だけに滞留していた何かだったのだろう。それを洗い流すために、自分は来たのに違いなかった。だから、よかったのだ、と思う。
私は必要な手荷物だけ身につけると、スーツケースをコインロッカーに押し込んだ。身軽になるとすぐに、そこから西に百数十メートルのレンタカー屋へ行き、予約をしてあったコンパクトカーの手続をした。
すべてが順調だ。
10時からの予約だったが、私は思ったより早く運転席に収まっていた。ハンドルを握りギアをドライブに入れると、店のスタッフに見送られながら、道路へと車を出した。
3.好間(よしま)
アクセルを踏んで好間工業団地の東の坂を登ると、道の先に懐かしい工場が見えてきた。当時私が勤めていた会社だ。外周1・5キロメートルほどを、ぐるっと回って眺めた。基本の建屋や通路は何も変わっていなかったが、外装のデザインを一新し、建屋もいくつか新設していた。東日本震災のとき私が被災した建屋は、新しい建造物に遮られて見えなかった。
二周目をゆっくりと回りながら、まるで自分はストーカーのようだと思った。昔の情人の無事を、私はそっと確認し、名残惜しい気持ちでその場を離れた。
こんどは高台から南西方向へと坂を下った。かつての通勤経路だ。林の中を曲がりくねって突き当たり、左に折れて国道49号線の旧道へ入ると、その辺りが下好間の住宅街だ。馴染みのある古い食堂や店がいくつも残っているし、スーパーのマルトや、ホームセンターのダイユーエイトも健在だった。そして青空の下に、懐かしい水石山の独特な稜線を見ることもできた。
私は「ローソン」と「すたみな太郎」が並ぶ場所まで真っすぐに向かい、その広い駐車場の奥に車を停めた。そこからさらに裏手に行けば、私が家族で暮らしていた社宅がある。レンタカー屋を出てから初めてエンジンを止めて、静かになったアスファルトに足を降ろした。
歩いてその集合住宅の前に行くと、温もりのある、どこかよそよそしい風が静かに流れていた。もはや自分の住まいではない敷地に、足を踏み入れるのをためらわれた。メゾネットタイプのその古い住宅は、見違えるほど綺麗に改装されていた。内装までは見えないが、きっとリフォームされているに違いなかった。人の姿は見えないものの、窓や扉、佇まいには生活が感じられた。
よく見ると社宅の表記が無くなり、「スプリングハイツ」という新たな名前がついている。どうやら会社はこの社宅を手放したようだった。明日の夜、この会社の友人に会うので聞いてみようと思った。
4.四倉(よつくら)
午前中は下好間をひと通り見て回って、そこから海の方へと向かった。
途中、『ラーメン大門』で昼食をとった。今日と明日の夜は美味しい魚を食べられる予定なので、昼は違うものにしようと思ったのだ。その店で、私は迷わずうまかもんというラーメンに黒油をトッピングしてもらった。熊本ラーメンを思わせる、とんこつ系の一杯だ。関東なららきっと外まで並ぶと思うのだが、この店は今日もガラガラだった。どちらかというと薄味が好まれるいわきでは、あまり人気がないのかもしれない。
懐かしい味に満足をすると、私は再びレンタカーに乗り込んで東へと走った。
道の駅よつくら港を右に見てから、そのままロッコク(国道6号線)を左にカーブすると、本当は右に海が現れるはずのところ、そこに新たに出来た高い防潮堤に、視界を遮られいた。この変化にはとても驚いた。
道のすぐ左には、家族ぐるみで付き合っていた友人宅がいまもある。ただその友人家族は、震災のあと遠くへ移住してしまい、現在ここにはいない。津波のあと幸い残った建物は、しばらく復興業者の宿泊所として貸していたはずだが、数年前には手放したと聞いていて、いまはどんな人が住んでいるのか全く知らない。かつてこの家からは碇泊する漁船や海が見えたものだが、今はどうやら窓一杯に防潮堤だけしか映らないに違いない。
四倉でもうひとつ、覚えていることがある。ここから先、国道は海岸に沿って、第一原発がある双葉方面へ北に延びているのだが、2011年の震災・原発事故の直後、ここに最初のバリケードが設けられ、道が閉鎖された。私は自分の線量計を片手にここまで来たことを鮮明に覚えている。別の道から北へ抜けられる事は同僚からも聞いていたが、これ以上線量が高い地域へと入っていくことがとても怖く感じられ、その当時は到底行く気になれなかった。
もちろんいまは自由に通れるし、原発のある双葉町まで行くこともできるだろう。いやむしろ行ってみたいとさえ思っていたが、明日参加するツアーで、きっとこの先には行くはずだ。今日のところはここで国道6号線を離れ、海を左に見ながら、車を南の方に走らせることにした。
5.薄磯(うすいそ)・豊間(とよま)
どうやら新しい防潮堤は海を全部覆っているわけではなかった。四倉を離れて海岸沿いの県道を走るとすぐに、それは無くなったのだ。住宅が少ない地域からだろうか。
途中、見覚えのある喫茶店の建物があったが、営業しているのか分からなかった。夏井川の河口を渡り、さらに進んでいくと、塩屋埼の白い灯台が青空の中に見えてきた。ここはいわき市で最も津波被害の大きかった地域で、灯台の向かって手前北側が薄磯、南側が豊間だ。
薄磯の記憶はおぼろげだが、豊間の町ははっきりと覚えていた。それだけに、県道を走りながら見る風景にはなんだか違和感を覚えた。こんな地形だったのだろうか? 家が何もなくて、更地だからそう感じるだけなのか? いや違う、震災直後に、区画だけが残って更地になったときの豊間も見ているのだが、絶対こんな感じではなかったと思うのだ。
あとで聞いた話だが、薄磯や豊間は海側を緩やかに盛り上げて、美観を損なわない防潮堤の役割を持たせたのだという。言われてみれば、たしかに海から優雅な曲線を描いて、緩やかな丘のような地形になっていたのだ。私が感じた違和感の正体はこれだと分かった。
しかしながら、豊間も薄磯も新築のモダンな家がぽつりぽつりとあるだけで、町の体裁を成していないようだ。多くの人がここに戻るには、だいぶ時間がかかりそうに思えた。
豊間の南の岬に建つサザンパシフィックホテルの廃墟は、震災のまま古び放置されていた。ここのレストランから見る絶景を、もう一度見たいと思ったのだが、残念ながら扉は固く閉ざされていた。
その一方で、海にはサーファーたちが帰っていた。ウェットスーツに身を包む多くの人影が、海上にいて波を待っているのだ。その様子を見つけると、私は砂浜近くの路上でエアコンの効いた車から外に出た。澄んだ水、熱い大気、波と潮風を切るサーフボード。そうだこれだ。これこそ昔と変わらない、浜通りの海だと思った。
私は変わらない何かを、豊間の景色に探し求めていたのかもしれない。
6.『どんちゃん港(みなと)』
いわき駅に戻ってレンタカーを返すと、14:20発の路線バスで小名浜に向かった。ここまでわずか数時間の間に、昼食も含めて好間から四倉、豊間の海まで広範囲に見てこれたことは、今考えても少し不思議な気がする。やはりいわきは、私を暖かく迎えてくれたのに違いない。
小名浜は福島県で最も大きい港がある街だ。環境水族館の「アクアマリンふくしま」や、新鮮な魚介類市場「いわき・ら・ら・ミュウ」、そして西側には工業地帯も有している。そんな街、小名浜で、『常磐線舞台芸術祭』の食と対話の企画『どんちゃん港』が催された。
――なんだそれは、舞台とも芸術とも関係ないではないか、という声が聞こえてきそうだが、そもそも小説家で劇作家の柳美里(ユウ・ミリ)さんが立ち上げた『常磐線舞台芸術祭』とは、「つなぐ、」を初回テーマとし、「手繰り寄せる、線を」という小松理虔(リケン)さんのステイトメントを掲げながら、多くの心を茨城~福島の浜通りににつなぐ、そんな目的を持ったイベント群でもあるのだ。
もちろんタイミングが合えば舞台も見に行きたかったが、仕事等の関係で滞在ができる三日間の制約があったので、申し込んだイベントは『どんちゃん港』『ロッコクツアー』『Voice on Voice JR常磐線夜ノ森駅』の3つになった。
『どんちゃん港』の会場は小名浜本町のオルタナティブスペースUDOKだ。このイベントの中心人物は、ローカルアクティビストを名乗る小松理虔さん。地方再生や福祉の現場に密着する実践哲学者でありながら、オンライン上のシラス番組では親しみやすく楽しいトークで持論を展開している方だ。私はその番組で理虔さんのファンになっていた。
その日の参加者とスタッフを合わせると20人近くいいただろうか。ポストイットに自分の名前を書いて服に貼り、互いの名前を見てあいさつした。参加者の何割かはシラス番組の視聴者で、コメント欄で馴染みがあり、初めてでもすぐ打ち解けた。そこからさらに視聴者以外の参加者も巻き込んで、会場には会話があふれていった。かつおの刺身や用意された料理を楽しみ、持ち寄った酒を飲んだ。
・・・ちょっと白状しよう。やっぱりこれは飲み会だ。
いや、飲み会は飲み会だが、心に残る会合だ。小松理虔さんがファシリテートし、「つなぐ、」にこめた仕掛けに、参加者が身をゆだねる飲み会だ。集まった人たちとの関係は、また福島との関係は、これからも残り、あるいは広がっていくのかもしれない、と思うのだ。
花火が、どーん、と上がった。
今夜は小名浜の花火大会だ。一万発の大輪がUDOK正面のガラスに映り、私たちは思い思いに夜空を見上げた。
7.ロッコクツアー
2023年8月6日(日)、いわき二日目の朝を迎えた。いわき駅前のゲストハウスに宿泊した私は、ドミトリー内で身支度を整えて、裏口から静かに外へ出た。昨日に引き続き青空が広がっていた。街は今日から始まる七夕まつりの彩り豊かな装飾に包まれている。まだ朝8時で人通りはまばらだったが、日中から夜にかけては、おおいに賑わうはずだ。
朝食は、いわきで有名な喫茶店『ブレイク』のミックスグリルサンドを、初めて食べた。あとでいわきの友人にその話をしたところ、「本当に? 初めて食べたのか?」とかなり不思議がられた。いわきに3年半住んでいたけど、駅前に来るのは酒を飲むときばかりだから、あそこで食べる機会が一度もなかったんだと説明したら、驚いた顔のまま納得してくれた。
うわさ以上のボリュームで、ガッツリと腹ごしらえをすると、『常磐線舞台芸術祭』の2つ目のイベント『ロッコクツアー』の集合場所へと向かった。
このツアーの企画も小松理虔さんだ。浜通りの「歴史や文化、産業構造や人の暮らしぶり、原発事故の被害など」(*ツアーの配布資料「ロッコクを旅する(小松理虔)」より)を理虔さんのクリアな視点で掘り下げ、直に解説をしてくださるという貴重な体験だ。これまで何度かやっているそうで、そのたびに進化し、ディープで幅広い内容になってきたようだ。
ハイエースに参加者を乗せてロッコク(国道6号線)を走り、午前中は平、内郷、湯本、泉、小名浜を巡った。いわきが経てきた歴史や戊辰戦争の影、さらには炭鉱の歴史や現代のエネルギー産業などを理虔さんが語りつつ、それらを目に見え実感できる場所を回ってくれた。要所要所では車を降り、自分たちの足で歩いた。今思うと、めくるめく現実世界のアトラクションのような完成度だ。
午後は道の駅よつくら港での昼食休憩をはさみ、そこからいよいよロッコクを北に進んだ。理虔さんの熱い語りがさらに続き、車は原発事故当時の避難区域、そして現在も続く帰宅困難区域へと入っていった。放置された建物は背の高い雑草に覆われ、電柱にツルが巻き、弁当屋の大きな看板が草木に覆われていた。
どの辺りだったか忘れたが、国道沿いに一箇所だけ、放射線量を電光表示した場所があり、理虔さんがそれを読み上げた。そのとき、私の中に思いがけない感情が込み上げてきた。それは、強い恐怖だった。同時に鼓動も早くなった。その数値が何マイクロシーベルトだったのかは失念したが、原発事故後、12年前のある時期のいわき市の線量と同等だったので、その頃の気持ちが急に奥底から沸き起こったのだ。私自身予期していなかったため、内心かなり動揺していたが、周りの参加者に覚られないように目を閉じ、ゆっくりと呼吸をして、なんとか数分程度で平静を取り戻すことができた。
それは私にとって、通るべき禊ぎの儀式だったのかもしれない。
8.旧友
ツアーは双葉町の原子力災害伝承館ですべての行程を終え、ハイエースはみんなを乗せていわき駅まで戻ってきた。心地よい疲れだった。何かを受け取るには、僅かながら体力を使うものだ。たとえば美術館でも、作者の思いを感じ、受け取るには心地よい疲れを伴う。ロッコクツアーは、小松理虔という作者の、ある種の作品だったかもしれない。
理虔さんや参加者のみなさんと別れたあと、私は古い友人のJと会うため急いだ。昔Jとよく行った魚の旨い店が、この日ちょうど定休日だったので、『すし処 たか美』という店を予約してくれていた。ロッコクツアーの終了時間が押して30分ほど遅れることを途中で連絡してあったが、友人は小上がりであぐらを組んで、穏やかに待っていてくれた。
東北出身のJとは就職したころからの長い付き合いだ。私がいわきから移住しても、何度か西日本まで遊びに来てくれていた。そして今回私がここへ遊びに来たことを、とても喜んでくれた。
それでも、もう数年会っていなかった。積もる話はあったが、とりあえず今回の旅で見てきたものや感じたことなどを、スマホの写真なども見せながらJに話した。いわきが思ったよりも明るく、自分が救われる思いだったこともたぶん伝えたと思う。Jの口からは、震災や原発が与えた影響は、ここに住む人の心から決して消えたわけではなく、今でも不安や不満を潜ませて生活していることを聞かされた。それが大多数なのかどうかは読み取れなかったが、少なくともJ自身の心情ではあるのだろう。
双方から報告もあった。私は自身の仕事上の岐路や、小説を書き始めた経緯などを打ち明けた。自身の内面を掘り下げて語ることは試練であり、それをひとに話すのは今回が初めてだった。嬉しいことにJは、それを真剣に聞いてくれた。すると彼も、自身の新たな体験や心の内を語り始めた。個人的なことなので書かないが、人生を深く考え直すほど重大な事件があった。お互いに共感できる部分も多かった。そしてまた、これからもまた会うことを約束した。
読んでいる方には内容がぼんやりしていて、つまらないかもしれない。ただ一つ言えることは、私が心の内を共有できる友人が、ここいわきにいるということだ。Jとはまた幾度となく会って、笑ったり何かに憤慨したり、また真剣に語りあったりするだろう。次はいつどこになるか分からないが、老いてもなお彼と酒を挟んで、真っすぐに向かい合っているような気がするのだ。
9.ゲストハウス
2023年8月7日(月)、最後の日だ。私は再びレンタカーで、行きたかったところを余すことなく巡った。満たされた気持ちで帰ってきたのは、たしか午後14時ごろだったと思う。
このあと、いわき駅15時19分の常磐線で夜ノ森に向かう予定なので、それまでの短い時間を、宿泊しているゲストハウス『FARO』の1階ラウンジで過ごすことにした。そこで私は、Kさんという方に初めてお会いした。
Kさんのことは、以前からネット上のトーク番組やイベントなどで見かけていた。実はこのゲストハウスを経営している女性なのだが、私が朝早く出掛けて夜遅く帰るので、顔を合わせる機会がなかったのだ。
この日、七夕まつりで賑わう客のために、Kさんはラウンジの厨房で他の店員と忙しく立ち回っていたが、私がご挨拶をすると素敵な笑顔で返してくれた。宿泊申し込みの際、メールで少しやりとりをしたので、カケハシという名前を認識はしてくれていたようだった。
私はビールを買ってテーブルでくつろいだ。気持ちのいいラウンジだ。一段下がった広い空間、大きな窓からは駅前の大通りを行き交う人たちや、七夕飾りが風になびいているのを一望できる。上階のゲストハウスも、とても清潔感があって過ごしやすく、何もかもが行き届いている感じだ。
手のあいたときにKさんが、ロッコクツアーの感想などを私に聞いてきた。Kさんの印象は、語気に裏表がなく、不誠実さを一切感じない、好感の持てる人だった。Kさんはまた「FAROに宿泊や集合をしてもらって、ここを起点にしたロッコクツアーを提案しようと思っているの」と言った。「それ、いいですね」私は本当にそう思った。「でも理虔さん忙しくて、なかなか話す機会がないのよね」とも言う。Kさんは小松理虔さんとも知り合いだ。もし実現したら、ツアーのコンテンツにKさんが持つ平(たいら)の町の情報が加わるだろう。
この町の七夕まつりは今日までだが、明日の夜には、目の前の通りで「いわき踊り」が開催される。私も昔、IIA(いわき市国際交流協会)関連の友人に混ざって、借り出されたいわき市役所のはっぴを羽織り、踊りに参加させてもらったことがあった。みんな全身が沸騰するほど興奮して楽しんだ。
「ここはいわき踊りを観る特等席ですね」と言うと、Kさんは急に渋い顔をして「いわき踊りは嫌いなの」ときっぱり言う。私が驚いて不思議な顔をしていると、Kさんが説明を追加してくれた。「いわき踊りは元々ここ平の町のお祭りではないのよ。わたしが子供のころ、他の地域と合同で作られて、無理やり踊らされるようになったの。だから、私の同年代は嫌いな人が多い」毅然とした言葉の節々に、なんとなく気の強い一面を感じた。それから窓の外に目を向け「でもこの七夕まつりは、昔からある平の町のお祭りなの」とやわらかい笑顔にもどった。
短い時間のやりとりだったのに、こんなに印象に残る人はあまりいなかった。いつも背筋をピンと張り、自分に真っすぐに生きている人がこの街にいる、そんな気がした。
10.夜ノ森
いわき駅のホームで北へ向かう列車に乗りながら、そういえば常磐線で東京と反対方面に向かうのは初めてのことだと思った。いつも家族と車で出かけていたからだ。列車が動き出すと、国道から見るのと違う景色に、車窓を眺めた。
ふと、若者が多いことに気づいた。すいている車内で、まばらに座っている人たちをよく見ると、なぜか若い女の子が多い。
最初は不思議に思ったが、だんだんと分かってきた。この電車に乗っている人のほとんどが、私と同じ『Voice on Voice JR常磐線夜ノ森駅』のイベントに向かっているのだ。出演者が柳美里さん(劇作家・小説家)と尾崎世界観さん(ミュージシャン・小説家)の二人で、とくに尾崎世界観の若いファン層が集まっているに違いなかった。
16時過ぎ、夜ノ森駅のホームに降り立つと、それは確信に変わった。女の子たちに混ざって改札を通ると、もしかすると自分は場違いなところへ来てしまったかと思い始めた。いやそうではない、尾崎世界観ではなく柳美里の立つステージを見に私は来たのだと心に言い聞かせ、会場に向かう案内版をたどりながら、女の子たちと前後して歩いて行った。
歩道に雑草が生い繁り、途中歩きづらい箇所は車道に出たりした。どうせ車などほとんど走っていなかった。停止した自販機は背の高い草に覆われ、家という家や庭も雑草に支配されていた。そんな様子はロッコクツアーで散々見てきたのだが、歩いて通るとより身近に感じられた。そういえば初めて目の当たりにする若い子たちは、これを見てどう感じているだろうか。
ふとした考えが私に起こった。もしかすると、これは意図されたことなのか? 柳美里さんが尾崎世界観にこのイベントを依頼したとき、彼の若いファン層にもここの様子を見せ、何かを感じ、考えさせることまでを想定していたのではないのか。それを確かめる術は無いが、もしそうだったなら、このイベントは、夜ノ森駅を降りた時から始まっていたのだ。
そんなことを考えながら、会場となる夜ノ森公園まで来た。広場にはステージが設営され、観客の座る椅子が整然と並べられていた。受付をすると、全員にペットボトルの水と塩飴が配られた。夕方近いとはいえ、暑い夏空の下だったので、とてもありがたい配慮だった。
自由席なので、前から数列目の空席に陣取った。私以外にも年配者はいたが、やはり大半は10代かそこらの着飾った女の子たちだった。でもここにきて、場違いだとか、そんなケチな考えは私の頭から吹き飛んでいた。
そう、この公園に来たのは実は2度目だ。震災の前、私は公園の近くに車を停めて、妻と小さな子供をベビーカーに乗せてここを歩いた。満開の桜は、それは見事なものだった。木の下も広場も花見客でいっぱいだった。そんな花見の名所も、原発事故後は無人と化した。それは、とても悲しく空虚な出来事だった。
そして私は、またここに来てみたいと思っていた。震災後のあの時期、孤独に咲き乱れていた木々の下に、もう一度来て立ちたかった。ここは行きたかったリストの最後の場所なのだ。
ステージは始まった。尾崎世界観のギターと切なく甘い歌声、続いて柳美里の凛とした朗読が空に響いた。公園の空気が一気に澄んだように思えた。何曲歌い、いくつ朗読したか忘れた。トークも良かった。客層を見て場違いだなんて、ちょっとでも考えたことを私は恥じた。最後に柳美里が自分の宣言、というか夜ノ森に対する思いを読み上げて終わった。彼女も予ねてから特別な思いをこの場所に持っていて、このステージをここでやりたいと思っていたと言うのだ。そしてまた、必ずここに帰ってくると。
また来るかどうかは別として、共通した思いを持っていたことが嬉しかった。私のことなどを柳さんが知る由もないが、一方的にに満足だった。尾崎世界観さんの歌もすばらしかった。ここに来て、このステージを見ることができて、本当に良かったと思う。
閉演のあと、公園をひとり歩いた。広場の反対側には、尾崎世界観を遠巻きに眺めるファンの集団がざわめいていたが、私はあまり気にすることなく散策した。木々は以前と何も変わらず、夏空に緑を繁らせていた。それで、いいんだと思った。そしてそれは確かに、私の3日間の終わりにふさわしい場所だった。最後の日は、そうやって暮れていった。
*
このつまらない文章を最後まで読んでくれた方がいたなら、本当に感謝しかないと思っている。なぜなら、これは自分のために書いたものだからだ。誰が読んでくれてもいいし、誰も読んでくれなくてもいい。
ただ、この夏にいわき、浜通りで見たこと、感じたことを自分なりに整理したかった。それによって、自分の中の変なわだかまりに終止符を打ちたかった。せっかく、そのために行ってきたのだから。そして、それは成功したと思っている。もちろん、震災・原発事故を忘れることはないし、忘れてはいけないと思っている。でも、前を向いて行くためには、これが必要な過程だったように思うのだ。
。。。そして、やはりいつの日かまた、行くのかもしれない。いわきにも、夜ノ森にも。
備忘録:2023年夏・福島県浜通り