立冬と試験飛行士
道具は身体の延長だ。肩から肘へ、手の平へ、操縦桿へ。自分の動きが機体へ真っすぐ伝わる。これほど気持ちの良いことはない。耳栓越しのあらゆるノイズが心拍に混ざっていく。真新しいガラスには細かい傷もない。いつものルートも新鮮に感じられた。
このままどこまでも飛んでいけたら。いっそ飛んで行ってしまおうか。
そう騒ぎ出す思考を抑えるのは無線から聞こえるいくつかの指示だ。西へ。速度を変えて。高度を上げて。指示通りの動きも俺の手を伝って実現される。自分の動きになる。
惜しいとは思わない。
これは仕事だ。
無事に着陸を終え、飛行場の端で見ていた整備長に飛んだ感想を伝える。数値を見れば良し悪しはすぐに分かるのに、この人は感覚的な部分にも重きを置いていた。
休憩室のドアを開ける。
控えめな歓声とカフェインの苦い香りに迎えられつつ、俺は指定席になっているパイプ椅子へ腰掛けた。
「どうよ、今回のは。こっから見てたけど、随分速くなってなかったか?」
「ああ、反応速度が全く違うな。設計士にお会いしたいくらいだよ」
差し出された湯呑みを両手で包むと、すぐにじんじんと熱が広がっていく。息を吹きかけると、鼻先が湯気でやわらかく温まった。
「ご謙遜! お前が褒めるから、あんまり張り切るなって釘刺されてるらしいぜ」
「良いものを作るのをどうして止める」
「お前しか乗れないのを作ってどうすんだ、って話だよ。大量生産できなくっちゃ武器の意味がない」
「……そうか」
自分が乗っているのは、いつかは武器―兵器として使われるもの。
空では忘れられることも、地上では直視せざるを得ない。
「つうかよ。そんな凄い乗り手なのにどうしてテスト班にいるんだ」
回していた鉛筆をこちらへ突きつけて一人が尋ねる。俺が口を開く前に「元は最前線に配属される予定だったんだよな」と別の誰かが答えた。
「でも不服だっつって、発表された日の夜に飛行場に忍び込んで、試験機と一緒に燃えようとしたんだよ。すっげえ騒ぎになってさぁ」
当時を知らない皆は口を半開きにして俺に視線を集めてくる。「正気か?」と呟かれたが、事実なのだから頷くしかない。
「見かけによらず過激だな? 飛行場全体が大爆発寸前だったってことかよ」
「だから長いこと謹慎扱いだったんですよ」
他の同期よりも階級が低いことは気にしていない。理由を訊かれる度に面倒だとは思うものの。
「反省しろと言われたので舌を噛み切ろうとしたのも悪かったんですかね。その場で腹でも切れば良かった」
「あのなぁ……」
「普通なら辞めさせられてるんでしょうけど、何の因果かこうして使ってもらってます」
「まぁ、優秀なのには違いねぇからな」
最後まで確認をしていたらしい整備長が戻ってくる。どこから話を聞いていたのか、「ガキも少しは成長したよなぁ」と俺へ薄い笑みを向けた。
「あいつらも、心中相手に選ばれたんじゃたまったもんじゃないだろうけど。物資も、……人間も有限だ。どんな使い方をされるとしても、長持ちするに越したことはない」
休憩はここまで、と彼が言えば、整備員たちは自分の持ち場へ戻っていく。俺も腰を上げかけたが「もう少し休んでいけ」と引き止められてしまった。
「乗った感じはお伝えしました。報告書も早い方が良いんでしょう」
「……珈琲は苦手だったんじゃないのか」
机に残っている湯呑みは冷たくなっていた。肩をすくめる。好意で出されたものは、どんなものでもありがたく頂戴するようにしていた。
「俺に、何か」
互いに無駄話を好まない性分だ。単刀直入に告げる。
「―向こうは人手不足だそうだ。季節が変わればどうなるか」
「謹慎処分を受けたやつまで使わないといけないほどなんですか?」
「……」
整備長は目を伏せる。戦闘の長期化を考えれば、自分が前線へ配属されるというのは驚く話ではなかった。何かと理由をつけて引き戻されるんでしょうね、と笑う。整備長の膝に乗ったこぶしに力が入るのが見えた。
「今と変わりませんよ。テストパイロットだって危険な役割だ。毒味役みたいなものですから」
「同じじゃ―ないだろう」
どんな作戦であっても最も重要になるのは食糧だ。本格的な冬が来れば、こちらも相手も大がかりな作戦に出ることはないだろう。すでに事実上の停戦状態にあると、俺たちのような末端の人間も思っている。
だからこそ。季節が巡り、春を迎える頃に―どんな激しい戦いとなるのか。
いつまでこの不毛な争いは続くのか。問うのが無駄だと思うようになったのはいつからなのか、分からない。―分かる者など、いるだろうか。
「空が好きなんです、俺は。それ以外にない。……あなたたちが整備した機体に乗って、今度はもっと広い空を飛べるって考えれば、悪くないです」
提示された選択肢が間違いだらけだと分かっていても。
最善がないなら、せめて最悪を選ばないように。
「もし俺が“そう”なったとしても。あなたたちに感謝と、祈りを贈ります」
*****
久方振りに外での夕食を終えて戻る頃には、空は灰汁をぶちまけたように白く曇っていた。だというのに薄ら明るく、湿った道がいやに黒い。明日は雪の予報だったろうか。
この土地の、四季の色彩は美しい。しかし寒さが深まるにつれて彩度を失っていくのは、子供の時分からあまり好きではなかった。ぼやけた空が恐ろしかった。何の意思も持たないようで―空が人間のように、意思を持つことなどないと理解していても。
だから、雪が訪れる直前の景色を胸に刻む。心の底から美しいと思える景色を、一つでも多く。そうやって、冬を迎える準備をする。
たとえば今日の朝。飛行場にも靄が立ちこめていて、テストはできないと言うやつも多かった。十数メートル先も見えないのだから最もな意見だった。
けれど時間が経つにつれ、靄は晴れていった。祈りたくなるほどのまばゆさをもった、朝日によって。
行先の見えない毎日を照らすようじゃないかと、言うのは止めにした。
光の一つですくわれた気分になるなんて、安い人間のようだと思った。
「……なんだか、月みたいだな」
爪先に向けていた顔を上げる。宿舎近くにある大きな時計台の文字盤が、はっきりと輝いていた。昼間に飛ぶことが多いからか、空の上から見るものとは随分印象が異なっている。
自然物でなくとも、これも風景か。咀嚼するように時計台を見つめる。今後思い出すことがあろうとなかろうと、自分の中に収めるのは必要なことのように思えた。
眠る前に、明日に備えて、厚手の靴下を出さなければ。
俺はいっぱいの光を受けながら、黒い道を歩き続けた。
立冬と試験飛行士