誰もの夢


  誰もの夢

 香りも残れない程、過ぎた時間。それでも幽かに残った香りはたった二人でベランダの4階から眺めた街だけだ。
「ただ、たださ。君だけを今も待っている。」
 ベランダからの景色はモノクロ色になっても薄らめいている。たった一人残ることを決心した、あの日から世界の色は君に色づけられていたことをはっきりと理解した。


 初デート。もう二十歳にもなって唯一の恋愛。いや、恋はしたことはある。ただ声の一つもかけることができなかった。
出来損ないの俺がようやく角質に触れられるような甘い日のことだ。
「おはよう!」
 強い心拍数を抱えたまま駅前で君を待つ頃。その挨拶の一つも霞んでしまうほど、心臓はうるさくなるだけだった。
「ねえ~おはよう!」
「おはようー」
 左手を揺さぶってみて。
「緊張してるな~」
 甘い香りが刺激する。胸が痛くなる。
「ばれた?。」
「バレバレだよ。まあさ、緊張しないで、ほら。あのお店でも見て!」
 君は楽し気に指さして笑う。
「あそこね、すごいよね、こんな朝早くからあんなに長く並んで。楽しいんだろうね~。まあ、でもあれより楽しもうよ!せっかく二人で遊べるんだし。」
 指差した先にあったのは駅前のパチンコ屋だった。馬鹿にしているような気もしない、馬鹿げたほどの無邪気さ。
「そうだね」
 笑いも我慢するまま、駆け出した50m走のような途方もない心配を胸に二人は改札口に吸い込まれていく。
 始まりに歪さなんてなかった。友達の紹介ってやつだった。偶然、俺の顔をみて好みかもって言って、それでデートに誘ってくれた。ただそれだけ。顔だけしか取り柄がないのだから内面でカーバーができなければそれで終わりなのだ。
ただ女性とデートもしたことない人間がうまくやれるはずもないのだけれど、少しの青春歌を浮かびあがらせる血管を睨み、挑もうとしている。成功率なんて無いに等しいのに。それでも平気と余裕の振りをするのだ。

「それでさ~、えっとさ、芒月(のぎつき)君はさ?えっとなんだっけ?え~っと」
 揺れる電車の窓から眺めた空は、確かに曇りだった。けれど雪が積もるように、嵐がすべてを吹き飛ばすかのような色に見えた。
「愛希さんでいい?」
「ああ、うん!あっ、でさっき言いたかったのは…忘れちゃったんだけど。いいかな?」
 目も合わせきれない互いの癖に、狭い席では肩が時折触れ合うのだ。
「大丈夫だよ。」
「なら、よかったー。」
 ふと君が吐いた吐息に色が付くような気もして。白とかじゃなくてもっと彩度の高い色のことであって…。
心臓が躍る、唇が深く閉じる、輪郭も合わせられない。不可思議な車輪の音が響く。また肩が触れ合う。言葉は溢れないのに、体温ばかりがあふれていく。
 そんなどうでもいい距離間のことを今も覚えている。


 愛希が海外に出張へ向かったのは1か月前のことだ。互いに26歳。出会ってから6年は立っている。それでも互いに愛情が薄まることがないのは奇跡だったのか、それとも運命なのか。なんて、ここ最近はずっと考えている。
 窓辺に滴る水滴。今日から雨が続くらしい。愛希がオランダに向かってから、一つの季節が死んでいるのだ。
「俺にとってはもう永遠に閉じ込められているみたいだけどさ。」
 ふと吐いた言葉で窓に小さな霜が出来る。それがどうも、ベランダに残った景色を薄めるような気がして。頭を左右に3度も振った。
 じっとしていても気分は落ち込むだけだから、椅子に座ってスマホを眺めていた。
 別に連絡手段がないわけではない。だけど、君といた日々の温度が肌を離れない。それゆえに不器用な二人は電話をつなげることもできない。
6年の付き合いだからそれくらいは何となくわかっている。
「どちらかが互いの殻を破らないと。きっと織姫と彦星のように雨で会えない年が増えてしまう。いやだな…傍にいてほしいだけなのに。」
 右手の親指で左手首を愛撫した。
「君の癖が移っている。そうだった。不安げな顔をするとき左手首を隠すところ。」
 心臓が動くこと自体に嫌味はない。ただ、自分のものとは違う心音が聞こえないこの部屋が嫌なのだ。そう解釈するしかなかった。
 冷めた珈琲が眠気を殺す。
「ただ、今も会いたいんだ。ただ、褪せない恋が彩度の高まる愛にしたいだけなんだ。」
 いつか渡したい指輪も。君が俺にくれたお揃いのバングルも。愛情が深まるごとに磨きがかかってしまう。ただ、俺にできることなんて君を愛することくらいなわけだ。仕事だって、そう。給料だって君の方が高いし、社交性も優しさも、君より優れているとこなんてない。でも、ただ一つ言えることがあるとするならば。それは。
「君よりも君を愛しているということだけだ…愛希。」
 頭がおかしくなりそうな午前に呼吸を幾度も零して、思い出を貪る。

「ね!見て!凄いきれいだよ!イルミネーション!」
 その時の俺は少しばかり病んでいた。だから冷たいことを思っていた。
 別に君だって始めて見るわけじゃないだろうに。
 君は俺と違って輝かしい青春があった。恋に恋し、偉大に恋をする青春が。
「そうだね…。」
「ね?やっぱり元気ないでしょう?」
「そんなことないよ。」
「嘘だ。すぐ表情に出るくせに今更隠せると思っているの?2年も一緒にいたらそれくらい見抜けちゃうんだから」
 少しばかり馬鹿にされた気分。
「やっぱすごいね。」
 満足な笑みをただ魅せて、またイルミネーションの方へ顔を向けていた。俺も引きずられて同じ方を見る。
「きれいだ」
「まだ、たくさん見よう。きれいなもの。」
 胸を刺す言葉が永遠を約束するように抜けなくなるのは何なんだ。
 その癖、今が永遠になることはないって、何なんだよ。
 目の前に広がる青い光ですら今に死ぬ。
「この胸の不安を分かちあえる人がずっとほしかったんだよ。それが芒月君だったんだ。」
「なんで?」
 あまりにも冷たい一言だと自分でもわかっていた。あまりにも急な一言だとわかっていた。
「さあね?理由なんてなんでもいい。誰だって人は愛せるし、あとは見せ方とか見え方なんじゃないかな?」
「愛希らしいね。小説のワンフレーズ見たい。」
「ふふっん。」
 その笑顔も言葉も今に刺さったままだった。

「会いたいな。」
 体温を忘れてしまった部屋の中でただ一人。ベランダの向こうの世界には今日も美しさが広がるのだろう。それなのに俺の心は暗いまま。
「いっぱいありがとうを言いたいな。それから…」
 まだ、体温が欲しい。まだ、孤独に溺れてしまう。まだ君は帰ってこない。でも、笑顔で帰ってくる君を待ち続ける。それでいい。そんなシンプルなことでいいから。
 呼吸を一つ。
「おかえり」の笑顔の練習をする。

~終わり~

誰もの夢

誰もの夢

恋の地続き。離れてしまう体温はまるで彩度のようで。

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-11-20

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